TO麺×$ 43 まさか楽屋にアズール氏が来てくれてるとは思わなかった。それ自体にもすごく驚いたけど、それよりも、マレウス氏の向こうから顔を出した時、丸で彼の腕の中にいるように見えたものだから。一気に頭に血が上ったのを覚えている。あと一歩オルトが入って来るのが遅かったらマレウス氏に掴みかかってたかも知れない。そんな権利、僕にはないのに。
『なぜあんな嘘を?』
画面の向こうからの問いに、ご尤もだと自嘲した。あの日、アズール氏とばったり会ったあの日。背中の楽器が何であるか問われて、咄嗟にベースだと嘘をついたのには理由がある。けれど、今ここで、ジェイド氏に説明する必要もない。
「まあ、色々ありまして」
ひひ、と乾いた笑いで誤魔化して、右肘を着いた姿勢でパソコンを眺めた。特に何の目的もないネットサーフィンは何もかもの記事が全く頭に入って来ない。それ以上ジェイド氏も言及はせず、そうですか、とだけ告げてこの話題を終わらせた。
『取り敢えず、データお送りするのでお願いできますか』
楽曲提供をする際、ミックスまでをセットで請け負っていたけれど、僕自身のスケジュールの都合上、ミックスはホールライブの後でということにしておいてもらっていた。先日無事ライブを終えたので、スケジュールの確認がてら連絡をくれていたのだ。
『一週間くらいでどうでしょう』
「りょ」
実際はそんなに日数掛からないと思うけれど、余裕はあった方がいい。パソコンデスクの脇に置かれたシンプルなカレンダーをちらりと確認して、締め切り日に丸を付けた。
『では』
「……あのさ」
『はい?』
「あ、えーと、その……なんか、言ってた……?」
誰が、とも、何を、とも言わない、中途半端に逃げるような質問の仕方。我ながら回りくどいと思うけれど、直接彼女の名前を出す事すら憚られる。だって、嘘を吐いた事、彼女はきっと怒っている。別れ際の会話はきっと、彼女がプロだから返事をしてくれただけで、アイドルとファンという立場でなかったら絶対に無視されていた。だから、敢えてファンとして話しかけるしかできなかったのだ。
『何の事だかは解りかねますが、僕らの間でファンの方の話が出る事はありませんよ』
画面に彼の顔は映っていないけれど、あの切れ長な目がゆるりと弧を描くのが想像できる。ここは上手く誤魔化されるべきかと判断して、そう、とだけ頷いた。
『ちなみに、アズールは嘘を吐かれるのも嫌いですが、約束を破られることも嫌いです』
ジェイド氏からのメールを受信したパソコンがぽんと音を立てる。レコーディングデータと歌詞カード、譜面の一式をデスクトップに移しながら、彼の言葉を噛み締めた。
「気を付ける」
『そうしてください』
「データ受け取った。一週間後に」
『はい、よろしくお願いします』
なだらかな丘をなぞるような柔らかな声がそう言って、通話が切れる。約束。あと一ヵ月もしたら、この音源がCDになって、そうしたら、約束したイベントの日だ。あの時の下らない嘘をどうにかして挽回しないと。でもどうやって? イベントに参加するだけで、それは払拭されるんだろうか。
解決策が何も浮かばないまま、解凍したデータをダブルクリックで再生する。収録したままの生音は、多少荒いけれどそこまでひどくもない。きっと、可能な限り生音で行けるように頑張ったんだろう。音程の調整はあまり必要なさそうだ。
〝あなたがわたしに気付いてくれたから その日から呼吸ができた〟
耳に入ったワンフレーズに手を止める。そう言えば、僕の書いた仮歌詞を改変したいと言っていたけれど、最終的にどういう歌詞になったのかはまだ聞いていなかった。歌詞が書かれたワードソフトを立ち上げて、目を走らせる。
人魚姫の歌詞。童話によくあるそれよりも、したたかで欲張りな人魚姫だけれど、その根底には純粋な恋心があるような。ある程度の表現は僕が書いたものをベースにしているようだけれど、所々の改変でよくぞここまでと思うくらいには世界観が纏まっていた。
何よりも、片想いだったはずの歌詞をハッピーエンドにこぎつけて、それがまるで僕の歌詞への答えのようにも読み取れたものだから。
「……ちゃんと謝ろ……」
咄嗟に嘘を吐いた事。事情までは説明しなくても、面と向かってちゃんと謝ろう。あの仮歌詞を書いたのが僕だという事を知らなかったとはいえ、アズール氏の書いた歌詞は「幸せはこうして掴み取るんだ」と教えてくれたような気がして、やっぱり好きだなあ、と口の中で呟いた。
呼び出されたのは事務所。難しい顔をしたトレイ氏と珍しく不機嫌そうなケイト氏が並んで座り、正面のソファにはレオナ氏とマレウス氏が座っていた。どうやら僕が最後だったらしい。ローテーブルの横に置かれた一人がけのソファに腰を下ろすと、それを待っていたかのようにトレイ氏が前屈みの姿勢を取った。
「忙しいのに悪いな。今後の事務所の事で話しておきたい事がある」
事務所、と言えば聞こえはいいかも知れないが、実質この事務所に所属しているのは僕らのバンドだけだ。逆に、バンド活動をするにあたり、トレイ氏を代表として立ち上げた事務所と言ってもいい。そんな弱小でも仕事を切らさずに少しずつ知名度を上げることができているのは、ほぼケイト氏の手腕によるところが大きいのだけれど、流石に大手と比べると勝手が効かない事も多かった。
「実は合併の話が来てる。話の内容的にも悪くはない。給与も安定するし、相手はそこそこ大きい事務所だから仕事も入って来やすくなると思う」
「それ合併っていうのか?」
レオナ氏が首を傾げたのに、トレイ氏が苦笑する。確かに、どちらかというと引き抜きというか、吸収というか、そんな感じだろう。
「まあ、元々うちも事務所として何かしてたわけではないしな。他に所属がいるわけでもなし。俺らが先方に移るだけって考えた方がシンプルでよさそうだ」
「副業縛られる?」
「いや、配信者みたいなことするなら一言欲しいが、基本は今と条件は変わらない」
最近はもうあまりやってないけれど、シングロイド楽曲の投稿が制限されてしまうのは息苦しくなるから嫌だな、と思っての発言だったのだけれど、そこは心配ないようだ。だとすると、別に僕からは何の異論もない。マレウス氏もきっと同じような感じなんだろう。特に口を開く様子もなく、反対する様子もなかった。レオナ氏も一応口を挟んだものの、別に運営にまで口を出すつもりもないようだ。
「まあ、デメリットは特にないと思うよ。むしろメリットの方が大きいはず」
「お前は何でそんな不満そうな面してんだ?」
「べっつにーー」
ソファに深めに沈んだケイト氏は先刻からスマホをいじって顔を上げないまま、不貞腐れたような態度でいる。確かにその態度が不思議だったのだけれど、レオナ氏の質問にはぷいと顔を背けられてしまった。
「すっぱ抜かれそうなんだよ。情報漏洩気を付けてたはずなんだけどな」
「大々的に発表会やりたかったのにさ~。マジ空気読めないよね」
「はっ、発表会やるようなところなの? 相手の事務所」
「大きい所って言っただろ」
それはそうだけれど、大きいと一口に言っても色々あるだろう。むしろそんなすっぱ抜くとかそんなレベルのところに所属したらアズール氏のライブに行きづらくなったりしてしまわないだろうか。プライベートとか厳しい所は厳しいらしいし。
「反対はなさそうだから話は進めるが、正式解禁日までは外部に漏らさないようにな」
他にも何か心配事があるのだろうか。トレイ氏は眉間の皺を消さないまま立ち上がる。
「事務所変わってもアイドルのライブは行けるでござるか」
まだスマホから目を離さないままのケイト氏にこっそり問い掛けると、漸く持ち上がった緑色の眼がくるりと丸くなってから、柔らかく笑った。やっとケイト氏らしい表情になったなと思う。
「大丈夫だよ。それより、嘘ついた事ちゃんとアズールちゃんに謝りなね」
「……どこでそれを」
女の子同士のネットワークというやつか。ケイト氏の情報網はやはり侮れない。