TO麺×$ 33 流石に直視はできないから。視線をずっと地面に落として、アズール氏のスニーカーの爪先を見詰めていた。ヒールは履かない主義なのだろうか。ステージでもやや低めのヒールしか履いていない気がする。
「今更ですけど、お名前教えてください」
「………イデア」
「イデアさん」
観念した声で答えると、アズール氏が口の中で僕の名前を復唱するものだから。気恥ずかしさに耳まで熱くなった。取り敢えず左手離してくれないかな。ダッシュで逃げられるほどもう体力は残ってないけど、いざとなったら最後の力を振り絞るしかない。凭れた背中に背負っているギターがごりごりして痛いし。
「あの、何で顔を上げてくれないんですか?」
「な何でもないからいいから続けて話があるんでしょ聞くから」
ノンブレス。仕方ない。だって拙者コミュ障だから。マスクの中でぼそぼそと話すけれど、イマイチ声が聞きづらいらしい。耳を寄せる仕草で少し近付かれて、ふわりと香った甘い香りに思わず右手でフードをぎゅっと引き下げた。その仕草にむっとしたらしいアズール氏の手に力がこもる。
「こっちを見てください。目を見て!」
「みみ見れないってば! むしろ僕なんか見たら目が腐っちゃうよ!」
「腐りませんから! お願いします!」
「嫌だって! ムリです!」
目が合ったりなんかして、彼女のきれいな蒼い瞳に僕が映ろうものなら何だかもうその時点で汚してしまうような気がした。ステージの上と下ならいざ知らず、同じ場所でいるのなら、尚更。頑なな僕の態度にアズール氏が、はあー、と長く溜息を吐いた。
「……わかりました、じゃあこのままで聞いてください」
「…………」
壁に体重を預けつつも、身を反転させたらいつでも逃げ出せるような体制をとる。左手を掴んでいたアズール氏の手は、いつの間にか僕の小指と薬指と中指だけをぎゅっと握っていた。あまり彼女の手は大きくないようだから、それが楽なのかも知れない。それでも、いざとなったらこれを振り切って逃げるしかない。心臓はもうずっとばくばくとすごい音を立て続けていて、故障寸前だ。
「貴方が通ってくれるようになって、僕を推してくれるようになってから、随分励まされました。貴方のお陰で頑張れました。だから、お礼を言いたくて……」
「あっ、アイドルを推すのは完全なる自己満足ゆえ、こちらから感謝こそすれどされる理由なんてないでござる」
真摯な彼女の語り口を敢えて壊すように。そうしたらこの場から逃がしてくれるかも知れないし、僕なんかというくだらないファンに心を砕くこともなくなるかも知れない。
そもそも、つい先日恋心を自覚してしまったがゆえに、もうそんなに純粋に応援していますという気持ちでいられてないのが何よりも心苦しかった。もう無理だ。だって、僕は彼女が思うようなあしながおじさん的なファンではない。このまま逃げだそうと身を反転させかけた時。
「理由がどうであれ、これは僕の気持ちです!」
傷付いたようなその声に、思わず身体が固まった。感謝したいと伝えてくれたのを無下にしたことへの抗議。アズール氏の気持ちをちゃんと聞かなかった事へのクレームだ。ぐす、と鼻を鳴らす音に慌てて顔を上げる。そんな、ここで泣かれたらどうしていいのか。
「えっ!? ちょ、泣い、」
「てませんよ!! つかまえた!!! 逃げようとしてましたね!?」
「ぐああ騙された!! ってかやめて離して!! ほん、ホントにダメだってば!!」
反転させかけた身体に思い切りしがみつかれて、心臓が暴発しかけた。聞いたことある? ドンとかバグンとかそんな珍妙な音。体中の血液が一気に沸騰する気がした。身体に触れるのは柔らかな感触と、嗅いだことのなかった彼女の匂い。パニックになりながらも彼女を突き飛ばしてしまわないようにどうにか離させようとするけれど、案外力が強くて中々離れてはくれなかった。
新しいキミが見られて嬉しいよ、とか言うのはもう過ぎてしまった気がする。あれ、この子こんなしたたかな感じ?
「何がダメなものですか! 貴方がちゃんと話を聞かないからでしょう! 人と話をする時は目を見て話しましょうと教わらなかったんですか!?」
「それが出来ないからコミュ障なんだよなあ!?」
「何でもいいですから! お願い、ただお礼を言いたいだけなんです!」
言っていることは謙虚であるはずなのに、締め付けんばかりの勢いで僕の腰にしがみついて来る力強さが噛み合っていない。それもそうなのだけれど。やはり男としては彼女の柔らかさがどうしても気になってしまう。腹の辺りに押し付けられるふたつの柔らかさを意識してしまうと、情けなさに泣きたくなった。
「やめ、やめて、ホント、ダメ……!!」
「何ですか情けない声を出して! ちゃんと立ちなさい!」
「たっ……じゃあ離れて!?」
ぴしりと声を上げるアズール氏は正直僕の中のアイドルとは全く違っていたけれど、それでもどうしてか、違和感や嫌悪感は殆どない。叱られるがままに言い返すと、僕の胸に顎をつけて見上げて来る彼女がむっと頬を膨らませた。あっもう無理。可愛いなんだこれ。
「だって離れたら逃げるじゃないですか」
「ぴえん……」
「ね、イデアさん。僕、本当に感謝してます。僕を見つけてくれて、応援してくれて、ありがとうございます」
見上げて来る瞳が、少しだけ潤んでいたのは気のせいではないんだろう。ファンなんかには見えない所での苦労は山のようにあったのだろうし、高みを目指す以上、これからもきっと試練は重なって来るに違いない。
「……拙者なんぞに見付けてもらわずとも、いつかキミは世間に見つかってたでござるよ…」
だって。あんなに輝いて、こんなにきれいな原石だから。僕のようなにわかじゃなくても、アイドル育成のプロが見たら絶対に放っておかないはずだ。
「それでも、あのタイミングで見付けてくれたのイデアさんでした」
「……たまたまでござる」
「偶然は運命の必然でもあります」
「もー、ああ言えばこう言う…」
「ふふ、嬉しい。握手会に来てくれないの、寂しかったんです。本当はもっと早く、こうしてお礼を言いたかった」
胸に頬をすり寄せないで。どきどきと音を立てていた心臓が、今度はぎゅうと痛んだ。まるで恋人のようだ、なんて。頭をよぎったくだらない妄想に奥歯を噛む。そんなわけはない。彼女は僕を、人畜無害なファンだと認識していて、きっとこんな風にしているのも、僕を信用してくれているからなのだから。
ファンとしての信用が嬉しいと思う反面、男としての部分が少し傷付く。分かっていた事とは言え、恋を自覚したところでこんなにもギャップがあるのかと少し悲しくなった。
「…………もういい? 離して」
「イデアさん?」
「気が済んだでしょ。離れて」
そもそも。こんな街中でこんな事。誰かに見られてでもしたら、お互いのためにならない。アズール氏の迷惑にもなるし、バンドの迷惑になる可能性だってある。肩を掴んでゆっくりと離させると、僕のパーカーの腰の辺りをぎゅっと握ったまま身体だけが離れた。
「何でですか? 僕に触られるの嫌ですか?」
「そ、そうじゃないけど……ふ、二人きりの、今ここでキミに触れちゃうと、その、もっと触れたくなっちゃうって言うか」
何を言っているんだろう。彼女にとって僕は単なるファンなのに。いや、これでちょっと引いてくれたら丁度いいかも知れない。ほらほら、早く離さないと何されるかわかんないよ。と言うキモヲタムーブをかましたつもりだったのだけれど。
「もっと……いいですよ!」
全く伝わっていなかった。ねえ教育! 教育どうなってんの! ぱっと笑った彼女の笑顔がまた嬉しそうで盛大に焦ってしまった。
「いいわけないよね!? だってそんな事したら拙者もう二度と現場行けなくなっちゃうでござる!」
「?? 何でですか? みなさんその後も来てますよ?」
きょとんとしたアズール氏の発言に、今度は僕がきょとんとする番だった。みなさん、とは。その後、とは。まさか。まさかと思うけど。
「み、みなさん……とは……? えっ、まさかアズール氏……枕とか……??」
「まくら?? みなさん握手会の後もライブには来てるじゃないですか」
「っあーー!! だよねー!! 焦ったー! 握手会ね!」
何を言ってるんだ、そりゃあそうだ。アズール氏のような高貴で純潔できれいな子がそんな下賤な事をするはずがない。一瞬でも推しを疑った自分をどうにかして罰したい。
「??? で、どうします?」
「はい!?」
「もうすぐ、お渡し会があるんですけど……」
残念ながら、次のイベントは握手会ではないけれど。アズール氏としては、何故だかどうしても僕をイベントに参加させたいらしい。先刻までの強気な態度ではなく、急にもじもじとしおらしくなったその様子に、心臓が撃ち抜かれた。
「…………つ、次のイベント、は、……行き、ます」
「!! はい! お待ちしてますね!!」
ぱっと笑った顔は今すぐにでも脳内メモリに一生解けない鍵をかけて、印刷してポスターにして部屋中に貼っておきたいくらい、素直で可愛くて綺麗な笑顔だった。