どうしてきみと、それを見た瞬間に、全身の血の気が一気に下がってもうどうしようもないくらいに全ての気力が削がれてしまった。
「……あの?」
掛けられた声は耳の奥に大切に閉まっておいたそれとは全く違う雑音で、はぁとひとつ。落とした溜息の上に胡座を掻いて自嘲しながら吐き出した。
「帰ってくんない?」
「は?」
不機嫌丸出しの声に苦笑してベッドサイドに手を伸ばす。財布から幾らか抜き出して草臥れた数枚を差し出した。
「足りる?」
きっと今、ひどく無表情になっているのだろうなと思う。ひくりと頬を引き攣らせた彼女は、先刻までは確かにすごく美人で、素敵だったけれど。今となってはもう何も心に引っ掛かりはしなかった。
「いらないわよ、そんなもの!」
数枚の紙は撥ねられた手から容易く落ちて散らばる。その光景に何となく見覚えがある気がした。いつだったか、こんな事があった、ような。
手早く身支度を済ませた女がヒールの音を響かせて部屋を出て行く。逃した魚の大きさは今の僕には分からなかったけれど、逃がした別のものの大きさはずしりと重くのしかかって来た。
別れて数年、その間何も彼女に操を立てていた訳でも何でもない。それなりにセックスはしたし、恋人も作ってみた。そんな中で、結婚なんて言葉がちらつく事もなくはない。
「イデア先輩は好みが一貫してますね」
ふと思い出した後輩の声。そうかな、と心の中で答えて目を閉じると、瞼の裏に呆れ顔の後輩がいた。
「まさか気付いてない事はないでしょう」
そうだね。流石にそれはないけど。
だってここ数年、見繕う相手はみんな同じようなタイプの見た目と同じようなタイプの性格をしていた。
「さっきの女は何がダメでした?」
安いホテルのシーツの上で、死体のように転がって。想像の後輩に問い掛けられたそれにゆっくりと目を開ける。謎の模様が描かれた天井を見上げたまま、ぽかりと開けた唇から魚の形の溜息が霞んだ。
「だってさ。見た? 胸元にほくろがふたつ並んでた。あれはさ、ダメだよ。だってあれって、」
『僕とおんなじですね』
耳の奥で声がする。天井と虚無の狭間に現れた彼女が、四つん這いになって重力に逆らわないままの胸元を寛げた。左の胸に、ふたつのほくろ。ブラジャーをしたらギリギリ隠れるそれに口付けるのが好きだった。
あー。意味のない声を漏らして奥歯を強く噛む。どうしてキミはいま僕といないんだっけ。何で僕はひとりぼっちなんだっけ。ぐるぐると回る思考と視界を遮って、両手で顔を覆ったまま唸り声を上げた。