海に消える薄青のカーテンはアズールが選んだものだ。
どうしても遮光がいいと言う僕に、太陽の光を浴びて目を覚ました方がいいんです、と言って頑として譲らなかったもの。ならば窓から離れたところにベッドを置こうと言ったのに、それでは意味がないでしょうと細いフレームのメガネにかかった銀色の前髪を指先でどかして、覗いた眉が不機嫌に寄せられていた。
狭い眉間にキスをしたいだなんて、そんなリア充属イケメン科だけが許されるようなことを想像しながら両手を上げ、オーライと肩を竦める。満足気に胸を張った顔を何度見てきたことだろう。
こんなにも詳細を思い出せるのに、あれからもう数年が経つだなんて。年齢を重ねるに従って時が経つのを早く感じるというけれど、あながち間違いではないのかなと寝転がったまま差し込む陽の光に背を向けた。
別れは唐突に訪れた。体質の変化によって変身薬が保てなくなったアズールは、一時的に海に帰ることになった。仕方のない事だ。頭では理解っていても、当然納得なんてするはずはない。どうにかして彼に合う変身薬をと色々創ってみたものの、それら全てを試してもらうわけにもいかず、治験を経て漸く飲んでもらえたそれすらも、彼の身体にはもう効きはしなかった。
ベッドが軋む。平均より大きな身体とはいえ、流石にクイーンサイズにひとりぼっちは余白が大きい。このベッドを買って暫くは、手の届くところに僕よりも少し低い体温のそのひとがいて、眠る時にはおやすみと、起きた時にはおはようと接吻けをくれていた。
のっそりと身体を起こして、揺らめく髪をかきあげる。もう何年もすっきりと目覚めたことがないなと霞む頭で考えるけれど、そもそもすっきりと目覚めたことなどなかったかと自嘲した。左の膝を立てて、膝頭に額を寄せる。深い溜息が下半身に掛けたタオルケットに転がって、綺麗なままのベッドの半分に広がった。
これがもし彼の持つ墨のようなものであったのなら、シーツは今頃真っ黒に染まっているんだろう。その上に横たわるアズールはどんなに絵になることか。想像してふと、いつかのピロートークを思い出した。
『…が……と、変身薬が効かなくなるらしいんですよ』
『……聞こえなかった、なんて言ったの?』
射精の後の疲労感でうとうとしていた耳には、独り言のようなその声が上手く入っては来なくて呂律の回らない口調で問い返す。困ったように眉を下げたアズールの、僕の髪を撫でたその手がいつもよりも更に冷たくて眠りかけていた目を思わず丸くした。
『えっ? めちゃくちゃ冷たくなってるが?? 大丈夫? 寒い?』
『大丈夫です』
『本当に? 毛布増やす?』
『いえ。イデアさんがいてくれるなら』
吐息で笑った人魚の美しさに思わず呼吸を忘れ、伸ばされた冷え切った手を摩ってやりながら、それならいいけど、だなんて唇を尖らせる。
あの時彼はなんと言ったのか。水の中で聞く音のように曖昧なそれをどうにか思い出そうとした。それでもそれを邪魔するように、彼のその言葉だけが思い出せない。
何が、どうなると? その他にも何か話していたはずだ。もしその時が来たら、その時、とは? 想像の黒いシーツがずぶずぶと僕の思考を引きずり込んで、あの日愛しそうに微笑んでいた蒼い瞳を思い出させる。どうにも妙だと思ったのは、その日のその言葉だけが一向に思い出せないから。
靄がかかったように。海の中にいるように。蒼いカーテンが陽を透かし、早く早くと急き立てる。
何を、早く、何が、急いで、この違和感は、時間が、まさか。
はっと顔を上げてベッドから転がり落ちるように駆け出した。目的はリビング越し、ベッドルームの正面にある僕の自室。ドアを壊さんばかりに乱暴に開けて駆け込んで、目的のそれを握り締めた。愛用のマジカルペンを頭の上でぐるりと回して呪文を唱える。瞬間、ガラスが割れるような音が頭の中に響いて、目が覚めるような思いがした。
「死期が近くなると変身薬が効かなくなるんです」
「タコの人魚は死ぬ時、歌いながら墨に消えます」
何が愛しそうな笑顔なものか。あの子の辞書にはなかったはずの、諦めたようなその顔が何故そんなものと書き変わっていたのか。
そもそもあの日、あの冷たい手を摩ったあの日を境にあの子はこの部屋から姿を消したのだ。本当に、唐突に。目が覚めたらいなかった。いつもおはようと細められる眼を見ない朝は初めてだった。呼吸が浅くなる。耳の内側で心臓が鳴いて、全身が緊張で痺れるようだ。
記憶に関する障壁の魔法をかけられていたことに、何故今の今まで気付けなかったのか。死期を悟られたくなかったのか。最期のときを一緒に過ごさせてくれるものと信じていたのに。
「そんなワガママ、通るとお思いで?」
釣り上げた口の端に牙のような歯が覗く。墨になどするものか。彼らが蔑んだ人魚姫だって、泡にならずに命を繋いだのだ。手立てがないわけがない。そもそも彼が命を落とす道理がない。人魚は長寿だと誰が言った? それはあくまで人と比べてだ。
そう。冥界の住人ではない人間と比べて。
「んひ、」
零した笑いを引き摺って彼と二人暮らした部屋を出た。玄関の脇には、それを知っていたかのような双子がドアを挟むように立っている。
「随分と時間がかかりましたね」
タレ目が笑う。
「いいからさっさと行こうぜ〜」
つり目が笑う。
ああそうかいつの間に、彼らも彼らではなくなっていたのか。なるほどそれなら納得だ。確かに彼は長寿なのだろう。その豊富な魔力と、生き永らえるための魔法を駆使して、限界まで僕の傍にいたんだろう。
「ウツボは常に双子なの?」
歩きながら問いかける。顔を見合せた二人がエメラルドグリーンの髪を風に揺らした。
「俺たち双子じゃねーよ」
「もっと沢山いましたけどいなくなりました」
「へえそう」
まるで興味がなさそうに。実際まるで興味はない。いま興味があることといえば、海の底で僕を待つ、たった一人の人魚だけ。
生き永らえるか、生まれ変わるか。
僕の傍では魂は自在。
僕の創ったそれなら、尚更。
「アハ、愛が命を救うって本当なんだねえ」
「にわかには信じ難いですけど」
水泡を海上に打ち上げて笑ったその声は、墨になるまえに抱き締めたアズールとの接吻けへの祝辞として受け取っておくことにした。