HOME6<一年半前>
『僕のGPSを追って、今すぐ来てくれ。調べてほしい人物がいる』
正午二時。上司からの連絡を受け、チェインはすぐさまビル街に飛び出した。信号機や街灯を蹴り、ときにはビルをすり抜け、クラクションの鳴りやまない大通りの上を跳んでいく。
GPSが指し示しているのは、最近、異界人の失踪や自殺、事故死が多発している区域だった。元々、死人や行方不明者が毎日のように発生する街だが、特定のエリア内で、異界出身者のみ亡くなっているのは、やや不自然だ。
この件に関して、警察はまだ動いていない。異界と融合して一年以上が経ち、法整備も進んでいるが、紐育時代の法が基になっているため、人類にとって有利な傾向がある。未だに異界人に権利など不必要だと声高に主張する者も少なくない。人類が殴られていればすぐに駆けつける警察も、異界人が被害者ならば見て見ぬふりをすることもあるぐらいだ。より被害が大きくなってからでないと、HLPDは腰を上げるまい。
だからライブラが秘密裏に動いている。調査のために構成員が数名、市民の顔をして潜入中だと、先日ミーティングで報告された。チェインも今の案件が片付いたら、そちらに加わる予定だった。スティーブンは一足先に現地調査に向かい、何か掴んだのだろう。
スティーブンは公園近くにいた。出店で買ったジュースを手に、子どもに話しかけている。
少年……だろうか。女の子と言われればそちらでも納得できる、中性的な顔立ち。細長い体躯はマネキン人形のよう。年は、十代半ばと言ったところ。
あの子どもが、調査対象になるのか。チェインは到着した旨をメッセージで送って、希釈したまま二人の様子を伺う。彼らは公園のベンチに並んで座った。チェインは、ベンチわきの街灯に着地する。
「一年ぶりかな。驚いたよ」
どうやら顔見知りらしい。スティーブンは子どものことを知っている口ぶりだった。子どもも、応じるように頷いている。
「あのとき……気づいたら、病院ごと消えていたから。あれからずっと探していたけれど、君が無事と知れてよかった」
一年前。消えた病院。
それらには聞き覚えがある。スティーブンと、リーダーであるクラウスが、人狼局に調査を依頼したことがあったからだ。彼らは紐育崩壊に立ち会った際に、とある病院にいたらしい。その病院が中に避難していた人たちごと行方知れずになってしまったと。
「家族も元気にしてるかな」
子どもは首を横に振った。
「わかんない。……あそこが消えるちょっと前に、外に出てたから」
顔だけじゃなく、声まで中性的だ。チェインはますますわからなくなる。
「そうか……」
男は息を吐く。
「それじゃあ今は……誰と一緒にいる? まさか一人じゃないだろう」
子どもであっても容赦のない街だ。乳飲み子ですら命を落とすし、親を亡くした孤児も少なくない。
けれど今スティーブンと話している子どもは、真新しい衣服を身に着け、清潔感がある。人並みの生活が維持できているのは、明らかだ。それはハイスクールも卒業していないだろう年齢の子が、一人で得れるものではない。
「パパと。パパは仕事に行ってたから、病院にいなかったんだ」
「なるほど。よく会えたね」
「うん」
高い視点からは、より多くのものが観察できる。
公園内に、チェインの他に二人を監視している人類が数名いることに気づいた。ただ見目のいい男たちを盗み見しているようではなさそうだ。服の膨らみから、武器を所持していることがわかる。おそらくスティーブンも気づいているはず。
「ところで──」
スティーブンが声を潜める。チェインも耳を澄ます必要があった。
「さっきから、君を尾けている人間がいる。気づいてた?」
子どもが小さく頷く。
「心当たりは?」
これにも首肯。
「何か……厄介なことに巻き込まれてる?」
押し黙った。けれどその沈黙が、肯定を告げている。
てっきりライブラが調査中の事態について進展があって呼び出されたものかと思ったが、別件なのかもしれない。過去に縁のあった子どもが、怪しい大人たちに監視されている。世界の均衡を及ぼすようなことではないが、見て見ぬふりをするのは忍びない。
それに、見た感じ一般人である子どもが、そんな状況にあるなどまともではない。何かしらの犯罪が関わっていることは容易に想像できる。あの子が何に巻き込まれているのか。チェインに調べさせて、必要があれば警察にでも預けるつもりなのだろう。
「僕が強いのは知ってるね?」
スティーブンの、子どもを見る目は穏やかだが、その視線に隙はない。子どもの些細な変化も見逃さないよう、じっと注がれている。
「僕が彼らを倒せば、君の問題は解決する?」
「ダメ」
鋭く応える。
「一人で逃げたら……パパが殺される」
震える声で告げられた事実に、眉根が寄せられた。
子どもがハッとした顔でポケットに手を入れる。スマホを取り出した。着信があったようで、一瞬だけ画面に視線を走らせると、ベンチから立ち上がった。
「呼ばれちゃった。もう行かないと」
「呼ばれた? 誰に?」
「パパ。たまに仕事の手伝い、してるから」
「お父さんは、何の仕事を?」
その問いには答えなかった。
「ジュース、ごちそうさま。じゃあね、おじさん」
子どもが去る様子を見せたことで、監視していた人間も動き出した。離れたベンチから新聞を読むふりをしていた男は立ち上がり、街灯に持たれて電話するふりをしていた女がその場から離れる。しかしその中で数名は、留まるようだった。その目は、スティーブンを見ている。
チェインも街灯を蹴って、子どもの後ろ姿を追う。
スマホが鳴る。出ると、スティーブンからだった。
『忙しいところすまない。あの子どもを追ってくれ』
「はい」
公園の外に出ると、車が止まっていた。迎えらしい。子どもが乗り込んでいる。
『自己満みたいなものだがね……僕もクラウスも、未だに気がかりだったから』
きっと、あの場にいたのがスティーブンではなくクラウスであっても、あの子どもを助けたいと行動に出ただろう。
あの悪夢のような一夜で行方知れずとなった人間が、無事な姿で発見されるのは、どれぐらいの確率になるのか。滅多に聞かない幸運だ。見過ごせないというスティーブンの気持ちは、チェインにも理解できた。
『僕は僕で、彼らから事情を聴いてみるよ』
おそらく今頃、あの場に残っていた監視員たちが、スティーブンを追うなり接触するなりしているのだろう。監視対象が、見知らぬ男と接触していたのだ。いったい何者がどんな目的でと、確認するのは必至だ。
「あの……一つだけ、お聞きしたいことが。そんなに重要なことではないんですけど」
『何だい?』
「あの子、男の子ですか? 女の子ですか?」
くそ、と悪態をつく。手を床につき、身体を起こすだけでも、折れた両脚に激痛が走る。横目で見れば、壁の大穴からザップの腕がだらりと下がっているのが見えた。指先が動いたから、まだ生きてはいるようだが、大怪我を負っているのは間違いない。
一言でいえば、調査不足。とんでもない失態だと反省しても、次に生かされるかどうか。
チェインに、ある少女の周囲を調べさせた結果。その少女と父親は、ある組織に属していることがわかった。異界出身者を差別し、この街からの排除を企てている組織だ。偶然にも、ライブラが調査していた異界人の連続不審死事件と少女には、繋がりがあったのだ。
HLは決して狭くない。この街の敷地から、融合し、生活の一部となった異界存在をすべて取り除くことは不可能だ。しかし、42街区のように限定的に異界人が入り込めないよう隔離されたエリアがある。少女たちが住まう地区──ライブラが現在、調査に乗り込んでいる場所だ──も42街区と同様、人類だけの住まいとするため、異界人への迫害が進んでいた。調査の発端である失踪者や死体は、その被害者だったわけだ。
元より人が死にやすい街なので、被害状況を正確に把握するのは難しい。まだ表沙汰になるほどの規模でもない。しかし、ここ一週間で、当該地区にいた異界人マフィアが連続で交通事故に遭い、亡くなっている。おそらく、組織がマフィアを追い出すために、行動に移したのだろう。このまま放置すれば、多数の市民を巻き込む抗争が起きかねない。
ただの抗争であればライブラの出る幕ではないが、組織の手口が気がかりだった。転落死した現場には他者がいた痕跡が残っておらず、被害者を轢いた運転手に組織とのつながりはなく、倒壊した建物に爆発物などが仕掛けられた形跡もなし。何らかの呪術を使っているのか、どれだけ調べても他殺の証拠が出ないのだ。
時間が許されるならば、どんな手段で、誰が実行犯なのかまで調べ上げてから、行動に移しているところだ。しかし、異界人マフィアも犯人探しに躍起となり、一触即発の雰囲気となっていた。市民たちの血が流れるより先に事態を鎮圧すべしと、作戦は決行された。
「スティーブン!」
「待て、クラウス! 中に入るな!」
組織の本部があるビルの制圧は、ほとんど終わったらしい。別フロアにいたクラウスが合流してきた。
残すは、目の前にいる組織の幹部たちを捕らえるだけなのだが……。
「普通の人間ではないとは思ってたが……」
父親の傍らに立つ少女を見上げる。強張った顔でスティーブンを見ていた。
「超能力かな、これは……」
多少の武装はしているようだが、最新式の重火器を揃えているわけではない。組織を構成するのはすべて人類で、誰かしら改造した記録はなし。こんな戦力でよくぞまあ異界存在に強気に出れるものだと思ったし、そこには裏があるはずだと踏んではいたが。
部屋に入った瞬間、目に見えぬ力に両足をへし折られて、悟った。
異能を持った人間がいるのだと。それも、強力な。
──十字型殲滅槍
スティーブンの身に何が起こったのか目の当たりにしなくても、接近戦は危険だと判断したのだろう。巨大な血の十字架が幹部連中に襲い掛かる。
しかし、十字架の勢いは宙で止まった。物理法則を無視し、それは滞空し続ける。
「これは──」
逆再生をするかのように、十字架が反対方向に動き出し、一直線でクラウスに向かった。だがその十字架はクラウスの血液で作ったものだ。頭部に当たる直前に、術が解除され、液体に戻った血が床を汚す。
重力を無視した現象を前に、クラウスが唸る。
「念動力か」
ライブラは異能者の集まりだが、超能力者はいない。母体が対吸血鬼組織であるため、超能力に関しては専門外だ。
ましてや、視認できず、防御も困難を極める力を相手にするのは、分が悪すぎる。
念動力が発動されるよりも素早く攻撃できないものか。ザップが試したが、思った以上に相手の反応速度が早かった。血刃を振りかざした状態で捉えられ、壁に勢いよく叩きつけられた。血法で受け身は取れただろうが、大ダメージだ。
クラウスが少女を見る。
彼女のことは、クラウスもよく覚えているはずだ。彼女もまた、これだけ特徴的な外見の男を、忘れてなどいないだろう。スティーブンのことだって、覚えてると言っていたのだから。
「彼女がこれを?」
「おそらく」
実体のない力だから、行使する人間を特定するのは難しい。しかし、スティーブンたちがこのフロアへ幹部たちを追い詰めたとき、その中の一人が少女に命じたのを見た。「侵入者だ、排除しろ」と。
「よくやった、水希」
少女から一歩下がったところに立つ大人が言う。
こういう場合、侵入者を迎撃しながら、重要な役職にいる人間は逃走を図るのが定石だ。しかし彼らは、逃げるそぶりを見せない。
確信しているのだ。この子どもに任せておけば万事うまくいくと。ライブラが舐められたものだと思うと腹立たしいが、事実、スティーブンは無様に地べたを這い蹲っている状態だ。クラウスはまだ無傷であるが、彼の技は近接系。攻撃するために近づけば、すぐに念動力の餌食にされる。簡単には攻め入れられない。
なるほどな。内心呟く。
異界出身者の謎の自殺や事故死。それらが念動力で引き起こされたものだとすれば、納得だ。超能力ならば証拠は一切残らないし、実行犯など見つかりようもない。
「殺せ」
別の男が温度のない声で告げた。
短い命令に、少女の目が揺れる。
「でも」
青い目がスティーブンとザップを交互に見る。
「この人たち……人類だよ。異界人じゃない」
「構わん。殺せ」
大人は繰り返し、子どもに人を殺せと命じた。
真横から膨れ上がった圧に、スティーブンは身体から力が抜けそうになった。
「待て、クラウス」必死に呟く。「早まるな」
クラウスの心内は手に取るようにわかるが、相手が悪すぎる。見た目は華奢で、か弱い子どもだが、念動力は厄介だ。クラウスですら勝てる相手ではない。
「どうした、早くしろ」
子どもの唇が固く引き結ばれる。こくりと喉が動く。
スティーブンも息を詰める。
部屋に入ったとき、スティーブンは無抵抗で骨折させられたわけではない。咄嗟に血針を飛ばしている。積極的に子どもに手をかけたくはないが、最悪、技を発動させる。念じるだけで人を殺せる彼女に反撃すれば、おそらく己も無事ではすまないだろうが。
ライブラのリーダーを、こんなところで死なせるわけにはいかない。
「そこまで」
次の瞬間、子どもの薄い胸から、腕が生えてきた。
黒いスーツに、女性らしい細い指先。自身の身体を見下ろし、「えっ」と子どもは声を漏らす。
瞬きする間に、子どもの後ろにチェインが現れた。
「ちょっとおイタが過ぎるんじゃない」
耳元にチェインが囁きかける。
後ろに立つ女性の腕が、己の胸を貫通している。少女が恐ろしい光景を把握するのに、数秒。
ひゅっと息をのむ音。
次いで、悲鳴が上がった。
室内で浮かんでいた家具たちが、一斉に飛び交う。それらがチェインに向かったが、すべて彼女を素通りした。子どもがどれだけ叫び、念動力を駆使しても無駄だ。不可視の人狼に、物理攻撃は通用しない。それがたとえ、超能力であっても。
これに驚かされたのは、大人たち幹部連中もだ。出たらめに飛び回る家具に、悲鳴を上げてその場に蹲った。壁や床にまで亀裂が走ると、さらに身を縮こませる。
もちろん、それらの被害はスティーブンたちにも及ぶ。しかし動けないスティーブンの代わりに、飛んできた家具はすべてクラウスが防御した。ザップも血糸で何とか己の身を守っている。
「無駄だよ」
突き出されていたチェインの手が引っ込む。抜かれたわけではない。目視はできないが、文字通り、心臓を握りにかかっている。
泡を食った幹部連中を睥睨し、言い放つ。
「あなたに私は殺せない。でも」
私はあなたを殺せる。ぞっとする声音で、チェインは子どもに言い聞かせる。
少女は、今にも気絶しそうなほど青白い顔をしていた。当然だ。念動力が通じない相手なんておそらく初めてだろうし、心臓を直で握られているのだ。こんなの、トラウマになる。
しかし、容赦をかけられる余裕がないほどに、こちらだって痛手を負っている。この少女と、彼女を囲う組織を野放しにはできない。今ここで、潰さねば。
「何をしてる、水希!」
唾を飛ばす勢いで幹部が叫ぶ。その顔は、どことなく少女に似ていた。いや、彼女がその男に似ているのだ。おそらく父親なのだろう。
「早く、殺せ!」
「できない……!」
吐き気をこらえるように少女が呻く。
「殺せないよ、父さん!」
「ふざけるな!」父親は一括し、睨みつける。「化け物共を庇うのか!?」
目の前で娘が殺されかねない状況をわかっていないのか。娘とは対照的に、父親の顔は怒りに赤く染まっている。
そうか、と父親は呟いた。
「やはりお前は、お前も化け物の仲間──」
スティーブンは技を発動させた。娘を除き、父親たち幹部連中全員に。
父親の罵倒が中断された代わりに、か細い悲鳴が上がった。
「父さん!」
「大丈夫だ」
哀れな子どもに、この状況でこちらの言い分を聞けるほどの冷静さが残っているのかはわからないが、スティーブンは応える。
聞くに堪えん。胸中で吐き捨てる。今、スティーブンが動かなければ、隣で握りしめられているクラウスの拳が唸っていただろう。致命傷にならない程度には手加減されるだろうが、スティーブンの血針の方が、戦う力のない犯罪者たちを拘束するのに向いている。この場にいたのが二児の母であるK・Kでなかったことが、彼らにとって唯一の幸運だったかもしれない。彼女だったら、子どもが殺人を命じられた時点で、雷撃をぶっ放している。
「動けなくしただけだ。君のお父さんは死なせない」
こんな男でも、彼女は見捨てられなかったのだ。生かしてやる慈悲ぐらいは残っている。
「チェイン」
クラウスに助け起こしてもらいながら、チェインに指示を出す。
「その子を、警察が来る前にここから連れ出してくれ。場所は連絡する」
「はい」
本来なら、実行犯である少女も一緒に、警察へ引き渡すべきだ。父親たちに汚れ役として利用されていただけだったとしても。
しかし今のHLPDに、この超能力者は扱いきれない。留置場にぶち込んだところで、簡単に壁を壊せる能力者なのだから。彼女を監視させる人間ですら、危険に晒されることになる。そもそも、証拠を残さず人を殺せる能力者を裁けるほど、この街の法整備はまだ整っていない。
右手は心臓を掴んだまま。左手で少女の背を押し、チェインが促す。
青い目が、氷像となった父親を見た。
けれどそれだけだった。かける言葉もなく、視線は逸らされ、彼女は父親に背を向ける。背後に立つ女性には絶対に逆らえないと、身に染みて理解したようだ。
「ギルベルト。病院の手配を──」
ライブラの主戦力が二人も大怪我を負ったのだ。これからしばらくは忙しくなる。
去り行く少女を最後に一瞥し、スティーブンも頭を切り替えた。