夏の銀幕 夜食でも買おうかと帰りがけに立ち寄ったコンビニで、男が何気なく手に取ったそれに、伊織は目瞬きをひとつした。
「……おい、それは食べものじゃない」
「はは、わかってるって」
伊織の言葉にそう応えてからりと笑う男が持っているのは小ぶりな袋に詰め込まれた、色とりどりの手持ち花火である。そのまま男の持つ買い物かごに入れられたビニールパックを目で追うと、「帰ったらうちの庭でやろう」と男が言って微笑む。たしかにこの男の自宅の庭なら差し支えはないだろうし、明日はオフで予定もないが、また突然の思いつきだ。けれどもこの様子では、もう何を言ってもきかないだろう。無理矢理止める理由も思いつかず、伊織は聞かせるための溜息を吐いてから、自分のかごに袋菓子をひとつ追加したのだった。
会計を終えてコンビニを出ると、夜だというのにぬるい微風が全身を包んだ。今日も熱帯夜だ。最近ではさほど珍しくもないことだが、やはり少々気が滅入る。
「夕飯はうどんかな。冷たいのにしよう」
「ああ」
「梅干しと大葉も買ってあるんだ。伊織、そういうの好きだろ?」
「……大根おろしがあれば満点だが、今日はまあ良い」
「はいはい、次の参考にしておくよ」
パスタや紅茶といった洋風のものを好む男の家に、和食の食材が備蓄されているのがほんの少しむずがゆい。あるいはこの男が自分と食卓を囲むことを当たり前に想定して買い出しに行っていることが、だろうか。
それぞれが持ったビニール袋の立てる小さな音と他愛のないやりとりが、そばの道を行き交う車の走行音にときおりかき消されて途切れる。そのたびに男の金糸が車のヘッドライトに照らされて、ちらちらと翳りながら揺れた。
閑静な住宅街を歩き、夜の空の下静かに佇む邸宅の門扉をくぐって男の自宅へ辿り着く。「ただいま」と男が声をかけるのは玄関に飾ってある両親の写真だ。伊織もそちらへ小さく頭を下げながら、揃えて靴を脱ぐ。
「じゃあこれからうどん茹でるから、先に風呂でも行ってきたらどうだ?」
「いい。リビングの片付けがある」
「え、今朝一応片付けたんだけど」
「お前の『片付けた』はあてにならん」
「信用ないなぁ」
この男が言う「片付けた」はだいたいが適当に重ねて端に寄せたくらいのものだということはすでに経験則から十二分に学習済みだ。子どものように唇を曲げた男の不満の声はさらりと流し、伊織は室内灯に照らされたリビングのテーブルの上を確かめる。――予想よりはましだが、それでも案の定、という状態である。
キッチンで男が夕食を支度する音を背景音に、テーブルに積み上がった雑誌やDVDのケースを壁際の棚へ戻していく。たしかこのあたりの棚一式は、蒼星の勧めで買ったという話だった。つくづく面倒見の良い男だ。
しばらくそうして片付けに徹しているとふたり分の盆を持った男がリビングにやってきて、呑気に明るい声をあげる。
「伊織、できたぞー……って、おお、綺麗になったな」
「だからあてにならんと言ったんだ」
「いや、自分じゃ片付けたつもりだったんだよ、本当に」
うーん、と不思議そうに首を傾げながら、男がテーブルの上を夕飯の食器で埋めていく。最後に作り置きのアイスティーではなく麦茶の入ったコップがひとつずつ添えられて、向かい合って腰を下ろす。いただきます、の唱和。
稽古後の空腹も相俟って、さっぱりとして喉越しの良い冷製うどんはすぐに胃袋へ消えてしまった。普段なら食事のあとは少しのあいだ腰を落ち着けてなにくれとなく会話に興じていることが多いのだけれども、男は珍しく早々に立ち上がって食器を片しはじめる。その背に向けて名前を呼んで尋ねると、肩越しに伊織を振り返った男はひどく上機嫌な顔で答えを口にした。
「だって、花火やるんだから早く片付けなくちゃだろ」
「……本当にやるのか」
「そりゃあ、そのために買ってきたんだし」
「……。……なら、皿は洗っておくから、用意してこい。バケツだなんだが必要だろう」
「いいのか?」
こうも楽しみにしている様子を見せられてしまっては致し方あるまい。これではどちらが年上かわかったものではないなと思いつつ男の後ろ姿を見送って、知らずのうちに綻んでいた口の端を慌てて引き締める。
「よしっ、花火だ!」
「はしゃぎすぎだ……」
伊織が食器を洗っているあいだに、男はどうにか家の中を探しまわって諸々の支度を整えたようだった。離れたところで何度か大きな物音がしたような気もするが、なんとかなった、ということにしておく。
庭に面したリビングの電気を消して、庭へ出る。男が片手に提げたバケツのなかで、ちゃぷちゃぷと水が跳ねる音がした。
コンクリートの地面があるカーポートの近くまで行って足を止める。花火の入った袋をびりりと開けた男が、数本を抜き取って伊織に手渡した。
「伊織、火、保たせててくれよ」
「は?――って、おい、勝手につけるな!」
伊織が花火を受け取った途端に男は慣れた手つきでマッチを擦って、伊織の持つ一本に火をつけた。シュオッ、という音がして、先端からあざやかな光が迸るように流れ出す。
「ははっ、やっぱり綺麗だなぁ!」
「……………、」
花火の燃え進む音と並んで、男の歓声があがる。夜空の下で見る花火の光はやはり美しいもので、伊織も思わず文句を忘れて手元を見つめていた。火を二本目の花火へ移したところでようやく男が隣から花火を差し出してきたので、そちらに火をやりながら視線を上げると、相変わらず楽しげに相好を崩している男と目があった。
「……なにがそんなに楽しいんだ」
「うん?」
花火の光に見惚れてしまったことを誤魔化すように伊織がそう問うと、男のはしばみ色のひとみがぱちりと目瞬く。手に持った花火の光がまばゆい橙からうすみどりへと移ろって、男の横顔を照らしていた。
「だってほら、」
光とともに立ち込めた薄い白煙が、舞台のスクリーンのように影を映す。男とステージの上で向かい合ったときに似た心地がして、妙に心臓が逸った。
「夏のにおいがする」
花火のひかりと煙のにおいが混ざった、ぬるい夜風が髪を揺らす。
夜だというのに、男の輪郭に纏わりついたあざやかな光彩がひどくまぶしい。じゃれつくように唇を掠めて笑う男に、馬鹿、と返すので精一杯だった。
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20160730Sat.