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    カイすば小ネタログ1■冬の夜には蜂蜜を一匙(PartA)

     シャワーを浴びてリビングヘ戻ると、大きな犬、もとい男が体を丸めて床の上で眠っていた。カイトが浴室へ向かうときにはのんびりと湯上がりのストレッチをしていたけれども、どうやらそのまま寝入ってしまったらしい。物音がしても、男が目を覚ます様子はなかった。
     明日はオフであるし、しばらく寝かせておくことも吝かでなかったが、いくら空調が効いているとはいえいまは冬のさなかだ。窓際に寄れば、夕方から降り出した雨がガラス越しにひやりとした冷気を染み込ませてくる。夜更けには雪に変わるらしい。さすがにそこまで冷え込む晩に長時間床の上へ転がしておく気になれず、ひとまずソファか寝室へ移動させることにした。
     移動させるといっても、自身より体格の良い男を運ぶのはいささか骨が折れる。難儀しているうちに十中八九目を覚ますだろうから、いっそはじめから起こして自力で移動させたほうが合理的だ。そう結論づけたカイトは、身じろぎひとつせず眠り込んでいる男のそばへ歩み寄る。よく鍛えられた四肢をゆるく曲げ、長躯を丸めて眠るさまは、やはり大型犬を彷彿とさせた。
     普段はもっと豪快な寝相をしているのだが、今夜は随分とおとなしい。珍しいこともあるものだ、と思いながら男の寝顔を覗き込み、カイトはそこで動きを止めた。
     いまは伏せられている瞼の端が、ほんのわずか濡れている。眦から重力に沿って流れていた雫の跡は、指先で拭うとひやりとして冷たかった。
    「……おい、起きろ。いくらバカでも風邪ひくぞ」
     なぜだかふれてはいけないものにふれてしまったような気がして、ばつの悪い思いで肩を揺する。閉じられていた瞼と声帯が数秒後にかすかにふるえ、男は緩慢に目を開けた。
    「ん……、カイトさん、」
     おかえりなさい、と掠れた声で紡ぐ男の双眸は、まだまどろみに揺蕩っている。寝起きの子どものように目を擦った拍子にようやく眦が濡れていることに気付いたのか、遅い目瞬きがひとつ。それから決まり悪そうにカイトを見上げ、男は困り顔で笑ってみせた。
    「あはは、……ちょっと、夢見が悪かったかなー、なんて」
     やっぱダメですね、こんなとこで寝ちゃ。
     男は冗談めかした口調でそう続け、すぐさま身を起こし座った姿勢で伸びをする。
    「テレビもあんまり面白そうなのやってなくて、ストレッチのあとごろごろしてたらそのまま寝落ちてました」
    「……そうかよ」
     先ほどは不意をつかれてばつの悪い思いをしたくせに、こうしてあからさまに誤魔化されるとそれはそれで面白くないと感じてしまうのだから、我儘なものだ。多少なりと、その自覚はある。
    「カイトさん?」
     男の訝しげな呼び声には応えず、ふいと視線を逸らして立ち上がる。黙ったままキッチンへ向かうと、後ろから男の足音もついてきた。
     冷蔵庫を開け、ドアポケットから牛乳パックを取る。食器棚からはマグカップとティースプーンをふた揃え、それから蜂蜜の入った小瓶をひとつ。
    「……なに作るんですか」
    「ホットミルク以外になにがあんだよ」
    「え、はちみつ入れるんですか?」
    「べつに、そう珍しくもねぇだろ。喉にもいいしな」
    「へー……」
     そんな会話を転がしながらマグカップの底に蜂蜜をいくらか落とし、牛乳を注ぐ。あとは電子レンジに入れてボタンひとつである。今夜はふたりぶんなので、ボタンふたつ、が正解か。
     飲み物用の設定を選ぶ電子音のあと、レンジはいつものように低い唸り声を上げて動きはじめた。
     ぶうん、という音が、沈黙を淡白に塗り潰していく。
     男は、黙ったままぼんやりと電子レンジの光を眺めている。普段あれほど陽気で騒がしい男が茫と黙している横顔は見慣れないもので、その様子を視界の端に認めたカイトはわずかに目を細めた。
     ひとつめのマグカップの加熱が終わり、ティースプーンを放り込んで男へ渡す。
    「ほらよ」
    「あ、ありがとうございます……あちっ」
     素直に受け取ったもののまだ口をつけるには熱かったのか、男はカップにふうふうと息を吹きかけはじめる。カイトがふたつめのカップをレンジで温め終えたころにようやく数口ほどホットミルクを喉に流し込んだ男は、手元を見つめてぽつりと呟いた。
    「……おいしい」
    「だから言ったろ」
     男の感嘆に短く応えつつ、カイトもカップへ口をつける。蜂蜜の溶けた牛乳のまろやかな甘みが舌先にふれる。ほろ、と綻んだ吐息に混ぜて、カイトは隣の男に声を投げた。
    「このさみぃのに床で寝たりするから変な夢見んだよ」
    「……、そう、ですね」
     ゆらゆらとカップを揺らしながら、男も苦笑とともに小さく頷く。数拍分の沈黙。ほんのわずか躊躇うような間のあと、男はひどく緩慢な調子で言葉を紡ぎはじめた。「昔の、夢を見たんです」
    「寒くなってくると、縫った痕が突っ張るっていうか……痛いとかじゃなくて、ちょっとした違和感みたいなのが、ときどきあるんですけど。……だからですかね」
     怪我したときのことなんか、思い出して夢に見て。
     訥々と続いた中低音に、ほんのわずか目を瞠る。
     温かいマグカップを持つ指先が、先ほどふれた冷たさを思い出した。
     ――これはこの男の、心の内側だ。その話題になりかけるたびに、「でもいまはもう大丈夫だから」と明るい笑顔で蓋をする先の、やわらかい場所。カイトがこの男と出会い、衝突を経ていまの関係になってから、はじめてふれる場所だった。
    「手術とリハビリでなんとか良くなってきて、病院の先生から少しだけならサッカーやってもいいって言われた日の、ことなんですけど」
     手の中のマグカップを眺める男の視線は、ゆるく細められている。なにを言っても男の言葉を遮ってしまうように思えて、カイトはただ黙ってカップを傾け先を促した。流し台に凭れた男の唇から、ぽつりぽつりと過去が降り積もっていく。
    「何ヶ月もサッカーできなかったから、オレ、ホントに嬉しくって。すぐ仲間のとこ行って、練習に混ぜてもらって……まあ、もちろんブランクはありましたけど、やっぱりすっげー楽しかったんですよ」
     そう言って、男は小さく笑みを浮かべた。純朴なその声は、幼ささえ感じさせる。
    「チームのみんなとサッカーできるのが嬉しくて、楽しくて、……でも、この足じゃプロにはなれないんだって、そこでやっと実感したっていうか……先生から何度も言われてたことに、ようやく自分の頭が追いついたっていうか」
    「…………、」
     その瞬間が、この男にとっては本当の意味での挫折だったのだろう。現在こうして新しい目標と居場所を見つけていても、その挫折をそう簡単に忘れられるはずはない。――少なくとも寒く暗い冬の夜にひとり夢に見て、知らずのうちに眦を濡らす程度には、心の傷になっている。それを少し歯がゆいと思ういまの自分を、カイトは否定しなかった。
    「そのときのこと思い出したら足が竦むようになっちゃって、それからしばらく、へこんでなんにも手につかなくて。コーチを目指すとか、みんなのサポート役に回るとか……そういう道もあったのに、選手として上を目指せないのが苦しくて、できなかった。……気に掛けてくれてる仲間に、そんなこと、言えなかったですけど」
     カイトさん、と、ふいに男がカイトを呼んで向き直る。紅茶色の瞳が、子どものようにまっすぐにカイトを映していた。
    「……カイトさんは、もし自分の声が出なくなっても、歌に関わっていたいって、おもいますか。……おもえますか?」
     心の傷をさらしてなお、男はどこまでもまっすぐだった。無防備にさらされた感情が伝播して、感情を揺らす。男の問いに、想像をしてみた。
    「…………、思えねぇだろうな。少なくとも、ジーサンになるくらいまでは」
     たとえ声を失っても、曲や詞を作ることはできる。求められれば他人を指導することもできるだろう。男が怪我のためにサッカーとの接点すべてを失ったわけではないように、カイトが声を損なったとしても、歌に関わるためのすべての能力を失うわけではない。
     けれど、目の前で伸びやかに歌う他人の姿になんの嫉妬も羨望も抱かずにいられると思えるほどの達観も諦観も、いまのカイトは持ち合わせていなかった。
    「べつに、そういう答えの出し方もあんだろ。俺の歌は俺のものだし、お前のサッカーはお前のモンだ。それとどう付き合ってくかなんて他人にとやかく言われる筋合いねーよ」
     言い切って、残り半分ほどになっていたホットミルクを飲み干す。珍しくすっかり聞き役に徹していたものだから、随分と減りが早かった。
     カイトのいらえを聞いた男は、ぱちくりと目瞬きをひとつ。それから少し遅れて、手にしていたカップをあける。ステンレス製のシンクに、空になったカップがふたつ肩を並べた。
    「……カイトさんが言うと、なんか説得力ありますね」
    「ああ?どーいう意味だコラ」
    「や、べつに、嫌味じゃなくて……って、ひゃいふぉはんいひゃい!」
     互いの手があいたのを口実に、いつものように少々手荒に戯れることにする。男の両頬を摘んで横に伸ばしてやれば、カイトの見慣れた笑顔が覗いた。
    「もう、痛いじゃないですか、カイトさん」
    「お前の言い方が悪い」
    「ええー……?」
     男はしばらくふくれっ面で頬をさすっていたけれども、ふと表情を和らげて口を開く。
    「……でも、怪我して他のことに目を向けるようになったから、カンパニーのみんなに会えたわけだし」
     そんな言葉とともに男の手のひらがのびてきて、ぎう、とカイトの手を握る。長躯に見合う大きな手のひらはあたたかい。
    「カイトさんがあったかくしてくれるから、もう寒くないです」
     聞いてくれてありがとうございます。
     そう言って屈託なく笑う男の声は、先ほど飲み干したホットミルクよりもあまやかだった。



    ***
    20160306Sun.
    ■冬の夜には蜂蜜を一匙(PartB)

    「おい、起きろ。いくらバカでも風邪ひくぞ」
     耳に心地好い低音と手のひらに五感を揺らされ、ゆるゆると意識が浮上する。リビングの床の硬い感触を体側で感じつつ、喉を鳴らして瞼を押し上げた。
     部屋着に着替えた彼が、すくそばに屈み込んでいる。少し前にシャワーを浴びに行ったはずだが、どうやら上がってきたらしい。名前を呼び、おかえりなさいと言って迎えながら、起き抜けで滲む目を擦った。
     その拍子にふれた眦に、ひやりとした感触を覚える。遅い目瞬きをひとつして、嗚呼、と内心だけで納得する。ばつの悪い心地で彼を見上げ、薄紫の瞳に複雑そうな色彩を認めた昴は口元に軽く笑みを浮かべた。
    「あはは、……ちょっと、夢見が悪かったかなー、なんて」
     やっぱダメですね、こんなとこで寝ちゃ。
     普段通りの口調で誤魔化すようにそう続け、身を起こし座った姿勢で伸びをする。
    「テレビもあんまり面白そうなのやってなくて、ストレッチのあとごろごろしてたらそのまま寝落ちてました」
     続けた言葉は嘘ではない。どうやら眦を濡らす涙を見られてしまったらしいが、せっかく彼とふたりでいるときに空気が重苦しくなるのは嫌だったから、胸に残る淡雪めいたわだかまりをいつものように飲み込んだだけだった。
     けれども彼は、そうかよ、とほんのわずか低い声で呟いて(それはすこし機嫌の傾いたときの声だ、)立ち上がり、こちらに背を向けてどこかへ歩き出してしまう。名前を呼んでも応えはなく、致し方ないので昴も立ち上がって彼の背中を追いかけた。
     彼が向かったのはキッチンで、冷蔵庫から牛乳パックを取り出していた。それから食器棚を開けて、マグカップとティースプーンがふたつと、蜂蜜の入った小瓶がひとつ出てくる。
    「……なに作るんですか」
    「ホットミルク以外になにがあんだよ」
    「え、はちみつ入れるんですか?」
    「べつに、そう珍しくもねぇだろ。喉にもいいしな」
    「へー……」
     牛乳はともかく、蜂蜜の使い道がわからず尋ねると、やっと彼からのいらえがあった。彼は慣れた手つきでマグカップの底に蜂蜜をいくらか落とし、牛乳を注ぐ。飲み物用の設定を選ぶ電子音のあと、電子レンジが低い唸り声を上げて動きはじめた。
     ぶうん、という音が、沈黙を淡白に塗り潰していく。黙ったままの彼につられて昴も口を噤み、ぼんやりと電子レンジの光を眺めた。
    「ほらよ」
     ひとつめのマグカップの加熱が終わり、ティースプーンを放り込んだそれを、彼が手渡してくる。
    「あ、ありがとうございます……あちっ」
     素直に受け取ったものの、出来たてのホットミルクはまだ熱く、ふうふうと息を吹きかけ冷まそうと試みる。ふたつめのカップが温め終わったころにようやく数口ほど喉に流し込むことができ、昴は手元を見つめて思わずぽつりと呟いた。
    「……おいしい」
    「だから言ったろ」
     蜂蜜の溶けた牛乳はひどくやわらかい味がして、肩の力が抜けたような気がした。昴の呟きに短く応えつつ、彼もカップへ口をつける。どちらのものともつかないゆるい息に混ぜて、彼の静かな声がする。
    「このさみぃのに床で寝たりするから変な夢見んだよ」
    「……、そう、ですね」
     ゆらゆらとカップを揺らしながら、苦笑とともに小さく頷く。本当に、彼の言う通りだ。すこしの沈黙。言葉を探すためにしばらく思考を巡らせたあと、昴はゆっくりと口を開いた。「昔の、夢を見たんです」
    「寒くなってくると、縫った痕が突っ張るっていうか……痛いとかじゃなくて、ちょっとした違和感みたいなのが、ときどきあるんですけど。……だからですかね」
     怪我したときのことなんか、思い出して夢に見て。
     ぽつぽつと話し出したが、隣に立つ彼はなにも言わない。気遣うような言葉を向けられるよりはそのほうが随分と気楽で、昴はマグカップのしろい水面を見つめながら続ける。
    「手術とリハビリでなんとか良くなってきて、病院の先生から少しだけならサッカーやってもいいって言われた日の、ことなんですけど」
     昴があの日を夢に見ることは、決してはじめてではない。とりわけこんなふうに冷え込んで、雨が雪に変わるような夜には、眦が濡れていても納得するくらいのものだ。
    「何ヶ月もサッカーできなかったから、オレ、ホントに嬉しくって。すぐ仲間のとこ行って、練習に混ぜてもらって……まあ、もちろんブランクはありましたけど、やっぱりすっげー楽しかったんですよ」
     言いながら、昴はちいさく笑う。病院を出てそのまま馴染みの仲間たちのもとへ向かうときに吹いていた風の強さも、スパイクで久々に踏みしめた人工芝の感触も、いまでもあざやかに思い出せる。本当に嬉しかったし、楽しかったのだ。
     仲間たちは皆、戻ってこいと言ってくれた。昴自身も素直にその言葉を受け止めて、子どものころから慣れ親しんで目指してきたピッチに戻りたかった。――けれども。
    「チームのみんなとサッカーできるのが嬉しくて、楽しくて、……でも、この足じゃプロにはなれないんだって、そこでやっと実感したっていうか……先生から何度も言われてたことに、ようやく自分の頭が追いついたっていうか」
     感覚としては、実感というより、わかったつもりでいただけの現実に全力で殴り飛ばされた気分だった。
     まわりと同じように走ることも、飛び跳ねることも、シュートをすることもできるのに、この足は、目指す世界で戦っていくことができない。
     子どものころから目指していた場所、信じてきた明日、当たり前にそばにあった毎日が、あっけないほど簡単に自分の手からこぼれ落ちていった。自室でひとり息をふるわせて泣きながら、――足元が崩れ落ちたようなその喪失感を、こわい、と思ったのを、昴はたしかに覚えている。
    「そのときのこと思い出したら足が竦むようになっちゃって、それからしばらく、へこんでなんにも手につかなくて。コーチを目指すとか、みんなのサポート役に回るとか……そういう道もあったのに、選手として上を目指せないのが苦しくて、できなかった。……気に掛けてくれてる仲間に、そんなこと、言えなかったですけど」
     思えば、こんな話を誰かにするのははじめてだ。怪我の話題になるたび相手に気を遣わせてしまうから、昴はいつも途中で話をやめていた。いざこうして声にしてみると、心のどこかがゆるんだような気さえする。
     カイトさん、と、昴は彼を呼んで向き直る。まっすぐに彼の目を見ながら、ゆるんだ心からこぼれた問いを声に載せた。
    「……カイトさんは、もし自分の声が出なくなっても、歌に関わっていたいって、おもいますか。……おもえますか?」
     それはこれまで、誰にも聞けなかった、誰に聞けばいいのかさえわからずにいた問いだった。
     彼の音楽は凄い。純粋な歌唱力だけではなく、楽器の演奏にも、作る曲にも、そこに載せられた詞にも、ひとを魅了する力がある。新堂カイトは間違いなく、音楽の神様に愛されている。そんなことは、昴も十分に知っている。
     それでもきっと彼の本質は、プレイヤーだ。代わりのきかない自分の体を目一杯に使って、歌い、表現することがなにより好きなはずだ。昴は彼を、これまでの付き合いのなかでそんなふうに捉えていた。
     だからこそ、昴は彼に尋ねてみたくなったのかもしれなかった。自分がかつてできていて、やりきる前にできなくなったなにかを、肌に感じるほど間近で見つめ続けることができるのか。
    「…………、思えねぇだろうな。少なくとも、ジーサンになるくらいまでは」
     昴の問いに彼はしばらく黙り込んでいたが、薄い唇から流れた答えは淀みなかった。
    「べつに、そういう答えの出し方もあんだろ。俺の歌は俺のものだし、お前のサッカーはお前のモンだ。それとどう付き合ってくかなんて他人にとやかく言われる筋合いねーよ」
     ばっさりと言い切って、彼はカップのなかの白を飲み干した。ステンレス製のシンクに、マグカップがごとりと腰を下ろす。
     あまりにも彼らしい物言いに、昴は思わず目瞬きをひとつ。それから、彼の声と言葉を、ホットミルクと一緒にゆっくりと飲み干す。銀色のシンクに、空になったカップがふたつ、肩を並べた。
    「……カイトさんが言うと、なんか説得力ありますね」
    「ああ?どーいう意味だコラ」
    「や、べつに、嫌味じゃなくて……って、ひゃいふぉはんいひゃい!」
     手が空いた彼が、昴の両頬を摘んで横に伸ばしてくる。いつもの調子の手荒なじゃれ合いに、知らずのうちに笑っていた。
    「もう、痛いじゃないですか、カイトさん」
    「お前の言い方が悪い」
    「ええー……?」
     形ばかりのふくれっ面でしばらく頬をさすってみたけれども、早々に飽きて表情を和らげる。
    「……でも、怪我して他のことに目を向けるようになったから、カンパニーのみんなに会えたわけだし」
     昴のなかには、忘れられない日がたくさんある。サッカーが生活の中心だったときにあった様々なことも、未だに夢に見るほど悲しかったあのときのことも、はじめて夢色カンパニーの舞台を見た日のことも、よく覚えている。そしてまた、それらのなにひとつ忘れたくはないと、思う。
     「サッカーが大好きな城ヶ崎昴」のまま、身ひとつで飛び込んだミュージカルの世界で生きていきたい。色々なことに、挑戦してみたい。昴がいま、こんなにも穏やかな気持ちでそう思えるのは、伊織をはじめとしたカンパニーの面々と出会い、――そうして隣に、彼がいてくれるからだ。
     指先を伸ばして、ぎう、と彼の手を握る。ホットミルクのおかげか、彼の手も自分の手も随分とあたたかかった。
    「カイトさんがあったかくしてくれるから、もう寒くないです」
     上手い言葉など選べはしないから、握った手のひらから少しでも気持ちが伝われば良いと昴は思う。
    「聞いてくれてありがとうございます」
     そう言って笑う昴に対して照れくさそうに顔を顰めながら、それでもやわく手を握り返してくれた彼の指先の温度は、先ほど飲み干したホットミルクよりもあまやかだった。



    ***
    20160328Mon.
    ■02:35a.m.
    ※夜の嵐(※R18)その後
    ※SpecialThanks:某さま!


     どうしよう、どうなってんだ、これ。
     時刻は深夜二時半ちかく。昴はやわらかい掛け布団を頭から被り、蓑虫もかくやといった体でベッドの上に丸まっていた。
     窓の外は相変わらず強い風雨に見舞われている。状況的にはようやくその音が聞こえるようになったはずだったが、昴の思考はかれこれ二十分あまりのあいだ同じ場所で堂々巡りを繰り返している。
    「うー……」
     喉の奥で呻き、小さく身じろぐ。裸の肩を撫でる掛け布団の感触に、慌てて動きを止めた。
     剥き出しの肌をやわく撫でられるだけで、先ほどまでの行為の感触が思い起こされてぞわりと背が震える。気恥ずかしくとても口にできたことではないが、三十分ほど前まで相手を受け入れていた場所にも、未だその感覚が生々しく残っていた。
     おかしい、絶対におかしい。いままでこんなことはなかった。たしかに今回はずいぶん長かったというか、互いに気の済むまでの回数も多かったけれども、たちの悪い風邪のように微熱が残り続けることなど、これまではなかったのだ。
     声を堪えるための意地を手放したぶん、体のどこかにあるブレーキが、緩んでしまったのかもしれない。そんな思考を巡らせながら、さざ波立つ五感を持て余し、溜息を吐きつつ布団にくるまる。一体どうすれば体に残る余韻が鎮まるのか、昴にはさっぱり見当がつかなかった。
    「……お前、まだそれやってたのかよ」
    「うわっ!」
     そんなふうに視界を遮断してぐるぐると考え込んでいたものだから、彼が浴室から戻ってきた足音にも気が付かなかった。
     顔を半分だけ布団から出して見上げると、湯上がりの彼の呆れ顔と目があう。彼がシャワーを浴びに部屋を出たときにはすでにこの状態だったから、たしかに呆れもするだろう。
    「お前もシャワー浴びんだろ。さっさと行けよ」
     彼はベッドに腰を下ろしながらそう言って、なにげない調子で昴へ手を伸ばす。布団を剥がそうとしているのだと察して、思わず制止の声が口を衝いた。
    「さ、さわらないでください!」
    「あ?」
     布団にふれかけた彼の指先がピタリと止まる。淡い紫色の瞳が不機嫌そうに細まるのを認め、「いや、あの、そういう意味じゃなくて、」と弁解を付け足した。
    「ちょっと落ち着くまでほっといてほしいっていうか、なんていうか……」
    「はあ?んだそれ」
     布団越しの歯切れの悪い言葉では、言いたいことがまるで伝わらない。大人げなく布団を剥がそうとしてくる彼と子どものように戦いながら(単純な腕力勝負で負けるつもりはなかったが)、昴はどうにか彼に自身の状況を理解してもらうべく叫ぶように言葉を投げた。「ああもうだからっ、」
    「その、なんか、……まだカイトさんのが入ってるみたいで、体が落ち着かないんです……!」
     だからもうちょっとほっといてください!
     とても口になど出せないと思っていた内容を勢い任せに投げつける羽目になり、あまりの羞恥に息を震わせて唇を噛む。本当に恥ずかしいとき、人はいっそどこかに埋まりたいとかなり本気で考えるのだと、知りたくない心理を実感した。
     肝心の彼はといえば昴が投げつけた言葉を聞いたあとわずかに目を丸くして、それからひどく楽しげに口角を吊り上げる。腕のみならず全身を使って布団の壁を取り払いにかかってくる彼の、獰猛に光る瞳は、先ほどまで昴も散々見ていた獣のいろだ。
    「ちょっ、カイトさん、さっきの聞いてました?!」
    「一言一句漏らさず聞いた。つーわけで観念しろ、シャワーはあとでいい」
    「それ聞いてないって言うんですよ!うわ、待っ、ぎゃー!!」
    「おまっ……いくらなんでもギャーはねぇだろ!」
     夜中の二時に一体なにをやっているのか。腕力だけなら多少体勢が不利でも十分抵抗できていたが、さすがに全身総がかりとなると動きの鈍った下肢では反応しきれず、しばらくの攻防のすえ昴は結局足元から布団を剥がされシーツの上に組み敷かれることとなった。
    「うう、カイトさんのケダモノー……」
    「はあ?お前に言われたくねぇよ」
    「は?!なんでですか!」
     呻くように喉を鳴らして恨めしく彼を見上げたものの、どこ吹く風といった調子で一蹴される。まったく心当たりのない言われように反論しても、彼は「わかってねーならそれでいい」とどこか満足げにするばかりで、どこか肩透かしをくらったような気分になった。
    「元気があるならもう少し付き合えよ、体力バカ」
    「…………ッ、カイトさんてほんと、ずるいですよね……」
    「あ?なにがだよ」
    「わかってないならそれでいいです、」
     こんなふうに楽しげに求められたら応えたいと思わずにはいられないというのに、きっと彼ときたら、そんなことには気が付いてもいないのだ。
     けれど自分が、そんな彼をこそ好ましく感じていることも知っていたので――昴はささやかな仕返しに先ほどの彼と同じ言葉を返し、彼の首筋を引き寄せて口付けた。


    ***
    20160319Sat.

    ■猫と星のひみつ

     きんと冷えた冬の空気が、夜空を澄み渡らせている。まだ街が眠るには早すぎる時間だが、それでもこの寒さのためか、濃藍に散った星々が普段よりも明るく見えた。
     稽古後、劇場を辞したカイトは自宅への道のりを進む。その速度が平生よりほんのわずか緩やかな理由は、いまもカイトの隣を歩いている。
    「カイトさん、腹減ってません?なんか食べて帰りましょうよ」
    「なんかっつか、お前が食いたいのは肉一択だろ。……デザートの美味い店じゃねーと認めねえからな」
    「やった!」
     えーっと、じゃあ、この前カイトさんがランチに連れてってくれたとこがいいです。夜もやってましたよね?
     あー。変なとこだけ記憶力いいなお前。
     どういう意味ですかそれ!
     いつもの調子のやり取りが、白く染まった息とともに夜風に流されて溶けていく。昴を相手にしていると騒がしさには事欠かないので、カイトは寒さに身を縮める暇もない。言葉に応じてくるくると目まぐるしく変わる表情をカイトが横目に眺めていると、ふいに昴が「あ」とちいさな声をあげて足を止めた。
    「カイトさんだ」
    「は?」
     昴はカイトの問いには答えず、街路の端に置かれたベンチのそばへ寄っていく。ひょいと屈み込んだ昴の足元、ベンチの下には、黒猫が一匹香箱座りで屯していた。
    「……なにかと思ったら、猫かよ」
    「この猫、どうもこの辺に住んでるっぽくて。すっげー人慣れしてて、ときどき一緒に遊んでるんですよ。なー?」
    「なあん」
     猫の眼前に指先をちらつかせてじゃれ合いながら、昴が言う。返事めいた鳴き声を上げつつ視線を動かす猫のしぐさが愛らしく、カイトも動物好きの性で表情をゆるめたが、投げたままの問いを思い出して我に返った。
    「で、その猫がなんで俺だよ」
    「へ?ああ、だってほら、なんかカイトさんに似てません?」
    「あ?」
    「黒いし、肝据わってるし、気ままだけど慣れたら案外遊んでくれるし、あったかくてかわいいし」
     カイトさんって呼んでたらなんかますますかわいくなっちゃって――などと、返ってきた答えはなんともむず痒い。猫に向けられた眼差しのやわらかさも、むず痒さに拍車をかけていた。どう反応したものか、しばらくのあいだ言葉を探したカイトだったけれども、「あったかくてかわいいってなんだよ」とどうにかそれだけ突っ込んだ。カイトの言に昴はゆるい目瞬きを二、三して、それから得意げな表情でゆるく笑む。
    「へへ、内緒です」
    「は?」
    「よっしゃ、ごはん行きましょう、ごはん!腹減ったー!」
    「んだそれ、ってオイ、待てこの体力バカ!」
     言うなり突然立ち上がり、冗談めかして駆け出した昴を、カイトは腑に落ちないながらも足早に追いかける。まったく稽古後だというのに、と思いはすれど、昴の相手をしているとつられて動いてしまうのだから不思議なものだ。
    「……にいあ」
     ――あとに残された夜色の毛並みの猫は呆れたようにちいさく鳴いて、それから欠伸とともに体を丸めて目を閉じる。
     同じ寝台で迎える朝にそっと頭を撫でる男の手をカイトが知る、その少し前のことである。



    ***
    20160328Mon.
    ■モノクロ・シュガー

     全体練習のあと、無人の稽古場を独占して鍵盤と向かい合うのはとても気分が好い。静まり返ったレッスンルームを、カイトはピアノの旋律と自身の歌声で満たしていく。カイトが作詞や作曲をする場所はそのときどきで変わるが、いまはこの空間が五感にしっくりと馴染む場所だった。
     そうしてレッスンルームに籠もって数時間が経ったころ、ふいに扉が開いてひとりの男が顔を覗かせた。
    「カイトさーん、いまいいですか?」
    「あ?なんだ、まだ残ってたのかお前」
    「はい。えっと、このあいだ言われたやつできたんで、持ってきました」
     演奏の手を止めたカイトの姿を認め、男ーー昴はわずかに相好を崩す。てっきり先に帰ったものと思っていたが、どうやら居残って作業をしていたらしい。珍しくも少しばかり緊張した様子で差し出された一枚の紙を、カイトは薄い驚きとともに受け取った。
    「思ったより早かったな」
    「うーん……ホントはもうちょっと時間かけて、かっこいいの考えようかと思ったんですけど。やっぱりなんか違うなーってなったんで、そのまま持ってきちゃいました」
     カイトがいましがた受け取ったのは、カンパニー所属俳優の誕生日記念企画――具体的に言えば『誕生日記念ソロ楽曲』のイメージ案である。誕生日と絡め、本人が自身の役者としての原点を歌い上げるというコンセプトの企画のため、作詞作曲のイメージの元となるキーワードやエピソードをイメージ案として出すよう先日カイトが要求したものだ。
     早々に仕上げてきた心掛けは褒めても良いが、常に感覚で生きているような男のことだから、さてどうなっているものか。いささかいびつな筆致で連ねられた文字列にざっと目を通し、カイトはゆるい息を吐き出した。
    「わかっちゃいたがマジでお前カブキのことばっかだな。このまんまじゃあいつの歌になっちまうぞ」
    「うっ……」
     この男が伊織を追いかけてカンパニーにやって来たことはカイトとて百も二百も承知だが、そればかりでは曲の主役が変わってしまう。カイトの指摘に、一応自覚があったらしい男は「だって、」と唇を尖らせて子どものように口籠る。
    「伊織の演技を見たからいまのオレがいるのは間違いないし、それからはもうひたすら走ってきたって感じで、なんて書いたらいいかわかんなかったんですよー……」
    「……まあ、そうなるだろうな、お前なら」
     これ以上この男にひとりで考えさせても大した変化は起こるまい。端から作詞をさせるつもりではなかったし、詞の軸自体は決まったわけだから、それで良しとするべきだろう。そう思い直し、カイトは軽く肩を竦めた。
    「時間もねえし、このままもうちょっと詰めんぞ。オラ、その辺の椅子と机持ってきて座れ」
    「は、はいっ!」
     突き返されるとでも思っていたのか、男は目に見えて表情を明るくして椅子と机を運んでくる。
    「んだよ、ニヤニヤしやがって」
    「だって、カイトさんがオレの曲を作ってくれるんですよ!嬉しいに決まってるじゃないですか」
     それに、カイトさんが曲作ってるとこってあんまり見られないから、すげーワクワクします!
     ぶんぶんと振られる尾すら幻視しかねないほど嬉しげな顔つきに思わず突っ込むと、男は当然だとでも言いたげに首を傾げつつそんな応えを投げて寄越す。いつものことながらあまりにまっすぐな言葉と笑顔に、今度はカイトが声を詰まらせる番だった。なんだコイツ可愛いことも言えるじゃねーか、などと一瞬でも思ってしまった事実については、意地を総動員させて思考回路から揉み消すことにする。「あー、……とにかく」
    「はじめてカブキの芝居を観たときの気分、その前後になにを考えてたか、そういうのを思い出せるだけ話せ」
    「え、話すだけでいいんですか?」
    「いい」
     すでに頭の中にぼんやりとしたイメージはできているが、それを調律して歌のかたちにしていくにはもう少しの肉付けが必要だ。とりあえず話してみろ、と視線で促すと、過去を思い返すように遠くを見た男が、数拍置いて口を開く。
    「あのころって、自分のしたいことが見つからなくてへこみっぱなしだったんですけど……伊織の演技を見たら、焦りとか、暗い気分が吹き飛んだんですよね。なんだこの人、すげー!って。それで、ステージの上が、すっごいキラキラして見えて」
     飾り気のない言葉でつらつらと話す男の眼差しは、眩しいものを見るそれだ。懐いた犬のように伊織に纏わりついている様子は(思うところは別として)カイトも見慣れたものだが、こうして男の語る過去に改めて耳を傾けることははじめてで、カイトはただ黙って男の声を聴いていた。
    「フラフラしてた足が地面についたっていうか……オレもあんなふうに、誰かに元気になってもらえるような役者になりたい、やってみたいって、――サッカーやめてからはじめて、力が湧いたんです」
     前に進むことしか知らないような顔をした男の口からするりと発された言葉に、カイトは内心で少し驚く。挫折から再び顔を上げた瞬間を思い返すその表情に、翳りはない。
    「そのあとはまあ、カイトさんも知ってると思いますけど……。観終わってすぐに響也さんのとこ行って、入団させてくださいって頼みこんで」
    「あー……たしかにぎゃーぎゃー言ってたな」
     そのくだりについてはカイトにも覚えがある。主宰の響也はその時分から往々にしてスカウトの声を掛ける男であったから、カイトにしてみれば「また新人か」程度の認識しかなかったが、いざ稽古場で立ち回らせてみれば、抜きん出た身体能力と、反復練習を厭わないストイックさは十分な武器だった。
     とはいえ演技や歌に関してはまったくの素人。こうも早々に主演級を務めるようになるとは正直思っていなかったわけだけれども、そんなカイトの予想を裏切って、男はこうしてここにいる。
    「オレ、役者としてはホントにまだまだですけど、だからこそやりがいがあるなって思うし、燃えます」
     そう言って男が浮かべた笑顔のまっすぐさに、カイトが思わずこそばゆいようなむずがゆさとともに目を細めていると、ゆるく息を吐いた男が首を傾げて問うてくる。
    「……えーと……こんな感じでいいですか?」
    「……まあ、大体な」
     話を聞きながら走り書きをしていた紙面に散らばる言葉の切れ端たちを見遣り、カイトは鷹揚に頷く。曲作りに必要なインスピレーションはひとまず十分に得られた、はずだ。
     あとはこれを形にしていくだけだから、もう帰っていいぞと促すと、紅茶色の瞳がそわりと揺れる。
    「あの、……大人しくしてるんで、もうちょっとだけいてもいいですか」
    「あ?」
    「ピアノ弾いてるカイトさんの手、かっこよくて好きなんです」
     期待に目を輝かせてなにを言うかと思えば、――これである。
    「…………、仕方ねぇな、」
     突然投げられた豪速球の威力に突っ伏しかけるのをどうにか堪え、カイトは誤魔化すように鍵盤に向き直る。
     演奏料は後払い、口付けひとつで許してやろう。



    ***
    20160410Sun.
    ■静けさだけが知っている

     自宅の寝台の上で男がひとり、子どものように布団にくるまって眠っている。ベッドサイドにあるルームライトの控えめな明かりのなか、広い肩が穏やかな呼吸に合わせてかすかに上下しているさまを最初に確かめて、それから壁掛け時計へ視線を移す。二十三時五十二分。体には程好い疲労感が纏わりついているけれども、それでも睡魔が訪れるにはまだ少し早い。
     すでにすっかり深く寝入っている男の隣、ひとりぶん空いているスペースに、リビングから持ってきた読みかけの音楽雑誌を置く。壁際にあるオーディオコンポに気に入りの洋楽CDを滑り込ませ、寝室の静謐を壊さないようごく小さな音量で再生した。快眠体質の男は、この程度の物音では眉ひとつ動かさない。スリープタイマーは一時間後だ。
     ヘッドボードを背凭れにして腰を下ろし、栞代わりのドッグイヤーからページを開く。誌面に並ぶ細かな文字を追いはじめる前に、隣の男の寝顔にちらと目を遣った。
     次回公演作の見せ場のひとつとなるアクションシーンの稽古に入ってからというもの、主演である男は連日自主練習に精を出している。珍しいことに、まだコツを掴みきれていないらしい。いささか熱心すぎるほどの稽古ぶりにちらほらと上がりはじめた気遣いの声へ「大丈夫です」などと笑顔を返している姿を見るのも、今日がはじめてではなかった。
     自分は自分で楽曲制作の仕事があり居残っていたところ、ロッカールームに置いてあるベンチの上で電池切れを起こして眠り込んでいるのを見つけた次第である。放置しておくわけにもいかず強引に叩き起こし、寝惚けまなこの男の腕を引くようにして自宅に連れ帰ったのが、小一時間ほど前のことだ。
     眠い目を擦りながらどうにか寝る支度を済ませ、もそもそとベッドに潜り込んだ数秒後には静かな寝息が聞こえはじめていた。それだけ消耗していたのだろう。さすがにこの状態の相手を襲う気にもなれず、こうしてひとり睡魔を待っている。
     穏やかな静謐に身を浸しながら文章を辿っていれば、さほど待つこともなく眠気がやってくる。雑誌を読み終えたころには時計の針も零時半をいくらか過ぎて、横になるのに程好い時間になっていた。
     明かりを落とし、かすかにベッドを軋ませながら肩まで布団に潜り込む。お世辞にも小柄とは言い難い男ふたりが収まるには少々狭い掛け布団は、男の体温を含んでひどくあたたかかった。
     距離を詰めがてら腰を抱き寄せると、収まりの良い体勢を探してか男がもぞりと身じろぐ。鎖骨にすり寄せられた額の感触に一瞬動きを止めてしまったけれども、起きる気配がないことを確かめて再度肩の力を抜いた。自分と同じ匂いのするやわらかな短髪にしるしをつけるようにキスをひとつ落として、目を閉じる。


     鼻先を掠めた冷えた空気の感触に、ゆるゆると意識が浮上した。ちいさく喉を鳴らして緩慢に瞼を押し上げる。カーテンの裾から、ほのかに朝日が漏れているのが見えた。
     首を巡らせて、自宅のものではない時計の文字盤を確かめる。午前五時五十三分。稽古はあるけど起きるにはまだ少し早いな、とぼんやりと考えてから、隣で静かに眠っている相手に目を向けた。
     オフ日の前でもなし、彼の家に泊まる予定ではなかったのだけれども、呆れ顔の彼の言葉と腕に甘えて転がり込んでしまった。もしあのまま自宅へ戻っていたら、ろくに翌日の支度もしないままベッドへ直行していたことだろう。見つかったのが彼だったのは幸いだったが、さんざん大丈夫だと強がっておきながらロッカールームで寝落ちてしまうとは情けない。というより、彼に起こされてからの記憶ですら、ところどころが曖昧だ。
     けれどもそんな経緯で夢も見ずに眠ったおかげか、ここしばらくのあいだなかったほど心地好く目が覚めた。天気も良いようだし、少し早いがこのまま起きて、のんびり朝のストレッチと食事の支度をしても良い気分である。
     思い立ったがなんとやら、そうだそうしよう、と頭のなかだけで呟いて、そろりと布団から身を起こす。どちらかといえば朝に弱い部類の彼が目を覚ます様子はない。ふたりぶんの体温を吸った布団のぬくもりについ後ろ髪を引かれる心地がしたけれども、そこで目に留まった無防備な寝顔のほんの少しの幼さに、思わず口元をゆるめた。彼の寝息ばかりが聞こえる朝の寝室で味わう、くすぐったさにも似た幸福感は、彼も知らないひそやかな贅沢だ。
     そっと指先を伸ばし、寝乱れて顔に掛かった黒髪を払う。そのまま手のひらを滑らせて、彼の頭をやわらかく撫でる。指先からじんわりとあたたかなもので満たされていく感覚が心地好い。起きている彼はなかなかこんなことをさせてくれはしないから、これもまた、秘密の贅沢のひとつだった。
     ――うん、充電終わり。
     頭を撫でる手を離し、今度こそベッドを抜け出して寝室をあとにした。


    「…………頭んなかダダ漏れじゃねーか、あのバカ」
     扉が閉まる音のあと、部屋にぽつりと落ちた呻き声を、静けさだけが聞いていた。




    ***
    20160410Sun.
    ■春の遠浅

     遠い潮騒に似た朝の気配が、意識の上澄みを揺らす。布団を頬のあたりまで引き上げて二度寝を決め込もうとしたところで、瞼越しに明るい光が差した。
     低く喉を鳴らし、顔を顰めながら緩慢に瞼を押し上げる。
    「おはようございます、カイトさん」
     視界に映ったのは予想していた通りの男の姿だった。寝室のカーテンを大きく開け放して、朝日で部屋を満たした男が、窓のそばで快活に笑んでいる。
     応えの代わりに身じろぎをひとつして、男の茶髪が陽光に滲むのをぼんやりと眺めていると、男は子どもめいた所作でベッドに乗り上げ揚々と口を開いた。
    「カイトさん、海、行きましょう!」
    「…………海?」
     ――それがその日の新堂カイトの第一声だった。


     曰く「さっきニュース番組でやっていて綺麗だったから」「天気がいいから」「今日は少し遠くに出かけたいから」。軽やかに並べ立てられたいくつかの理由を、カイトは男の支度した朝食と一緒に咀嚼する。
     要するに、海辺で走り回りてーんだろ。溜息ひとつついてそう返してやれば、男は大きく頷いて嬉しげに破顔した。相変わらず素直なものだ。
     食事を胃袋に収め、早く早くと急かしてくる男と騒々しく戯れながら家を出る。季節は春のはじめ、天候は晴天。吹く風も日差しに微温みだしてはいるけれども、気温が上がりきらないいまはまだほのかに冷たい。
     そんな天気であるからか、電車をいくらか乗り継いで行き着いた海浜公園にはまばらに人影がある程度で、大型犬が一匹駆け回るにはちょうど良い具合だった。
     こじんまりとした砂浜に繋がる階段を降りて、靴裏で砂を踏みしめる。やわらかな地面についたスニーカーの跡を見下ろし、男がはしゃいだ声を上げる。
    「海だー!」
    「うるせーぞ脳筋」
    「えー、いいじゃないですか」
     だって海ですよ、海!
     早々に階段に腰を下ろしたカイトの突っ込みなどどこ吹く風である。男は紅茶色の瞳を輝かせながらジーンズの裾を膝下のあたりまで捲り上げ、なんの躊躇もなく素足になった。
    「じゃ、行ってきます!」
    「いや、さすがにまだ水冷てえだろ……って、ぜんぜん聞いてねぇし……」
     カイトの隣にスニーカーを放り出し、男は波際を目指して駆け出していく。足場の悪さをものともしない速度で波打ち際まで辿り着き、つま先を海水に浸す。肩を竦めなにかを堪えるような仕草を見るに、やはり若干冷たかったようだ。燦々と降り注ぐ陽光を反射した波際が、男の背後でちかちかとひかって眩しい。
    「だから言ったじゃねーか、あのバカ」
     思わず呆れ混じりにこぼしながら笑いつつ、めげずに波と戯れる姿を遠目に眺める。ときおりこちらを振り返って様子を窺う姿が、どうにも犬を彷彿とさせて可笑しい。
     しばらくそうして観察していると、ふいに男が立ち止まって足元に視線を落とした。なにを見つけたのか、ぱっと身を屈めてなにかを拾い上げたかと思えば再び走ってカイトの元へ戻ってくる。
    「カイトさん、手、出してください!」
    「はあ?」
    「いーから、ほら!」
    「…………ったく、仕方ねえな」
     楽しげに笑うばかりでなにを拾ったか言おうとしない男に思わず怪訝な顔をしてしまったけれども、結局その満面の笑みに毒気を抜かれて片手のひらを差し出す。濡れた砂のついた男の指先が、なにやら小さなものを置いてゆく。
    「んだコレ」
    「カニです!」
    「それくらい分かるに決まってんだろ!なんで蟹だよって聞いてんだ」
     たしかに男の言う通り、カイトの手のひらに載っているのはほんの小さな蟹だった。どうやら波打ち際にいたところをこの男に見つかって、ここまで連れてこられたらしい。「なんでって、」手のひらの上で慌てふためく蟹を指先でつまみ上げたカイトにそう問われた男は、不思議そうに目瞬きを二、三して、それからなにやら大層得意げな表情で胸を張ってみせた。
    「ちっちゃくてかわいかったからカイトさんに見せようと思って。かわいいでしょ!」
    「………………マジでどんだけ犬なんだよ、お前」
    「?」
    「なんでもねえ」
     呆気にとられて思わず落ちた呟きを聞き取られていたら、拗ねてむくれた男に噛みつかれていただろう。声を攫っていった潮騒に、カイトは少しばかりの感謝を抱く。嬉しそうに揺れる犬の耳と尾を幻視してしまった時点で、――悔しいかなこちらの負けだ。
     じたじたと動く蟹を男に返し、カイトは靴から足を抜く。素足で踏み締めた砂浜は春の日差しを吸い込んで思いのほか温かかった。
    「オラ、さっさとコイツ返してこい。じゃねーと相手してやんねえぞ」
    「えっ、……はい!」
     やわらかなティーブラウンが、波際のように瞬く。元気よく駆け出していった広い背中を追いながら、男の髪を混ぜる潮風に目を細めた。
    「カイトさん早くー!こっちです!」
    「あー、分かってっから急かすな――ってうわ、やりやがったなお前!裾濡れたじゃねーか!」
    「あはは、ちょっとくらいすぐ乾きますよ」
    「……ほほう、言ったな?」
    「へ?ぎゃっ、うわっ、スゲー濡れた!カイトさん大人げない!」
    「うるせー大人もガキもあるか!待てコラ覚悟しろ!」
    「嫌ですー!」
     大騒ぎで砂浜を駆け回り、散々服を濡らしたふたりが濃い潮の香りとともに家路につくのは、それから数時間後のことになる。


    ***
    20160424Sun.
    ■2,190円のお買い上げになります。

     その店は、いつもあまい匂いを漂わせながら劇場の裏手に佇んでいる。
    「……あ、やってるやってる」
     隣を歩く男から、そんな声を聞くのもこれで何度目か。通りに面した透明なショウウインドウの向こうでは、いつものように数人の店員があざやかな手つきで色とりどりの飴を練っていた。店内に足を踏み入れる前から濃密な砂糖の香りが嗅覚をくすぐって、昼公演を終えたばかりの体が少し軽くなる。糖分は偉大だ。
    「いらっしゃいませ!いつもありがとうございます」
     よく通る声で客を出迎える店員も、すっかり顔馴染みの相手だ。勧められるままに試食の飴をひと粒口に放り込み、カイトは店内をゆるりと見てまわる。袋詰めの小さな飴のストックがきれかけていたので補充に来たのだが、来るたびなにかと目新しい商品が置かれていたりして、買い物を目的のものだけで済ませられた試しがない。
     絵のなかでしか見かけたことがないような、海外の玩具めいた彩りの棒付きキャンディや、洒落たラベルの小瓶にたっぷり詰め込まれた、びいどろのような飴玉たち。味だけでなく視覚からも楽しませることができるのが、やはり職人技というものなのだろう。
     御伽話に出てくる宝石箱もかくやといった店内から、表通りのほうへちらと視線を動かせば、入口の前に設けられた観覧スペース――先ほどカイトが男の声を聞いた場所だ――で立ち止まり、じっとショウウインドウの向こうを眺めている長躯が見えた。
     溶かされ練られ伸ばされて魔法のようにかたちを変えてゆく飴を、あの男は何度来てもしばらくのあいだ食い入るように見つめている。溶かされた飴に次になにが起こるのか、もうすっかり憶えてしまっているだろうに、ティーブラウンの瞳はいつも興味深げに目の前の光景を追っていた。
     飴づくりのパフォーマンスに区切りがついたところで、男はようやく店内に入ってくる。これもまたいつもの流れだ。
     出来上がったばかりの飴をひとかけら、先ほどまで飴を練っていた店員から渡されて、子どものように口をもごつかせながら男がカイトの横に立つ。
    「買い物終わりました?」
    「んな急かすんじゃねーよ」
    「べつに急かしてないですよ!」
     あ、これ、見たことないやつだ。
     新商品に気付いて目を輝かせた男の視線が、その途中でふと止まる。長身に見合った大きな手が、ちいさなガラス瓶を持ち上げた。パステルトーンで統一された色とりどりの飴玉が、小瓶のなかで揺れて軽く音を立てる。
    「きれいですねー」
    「あー、まあな」
    「ほらこれ、カイトさんの目の色みたいじゃないですか?」
     さらりとそう続けて男が指差したのは、淡い紫色を帯びたひと粒である。ね!と同意を求めるように明るく笑う男になんと返したものかわからず、――結局カイトは無言で男の手から瓶を引ったくった(まったくこれだからこの男は!)。
    「うわっ、どうしたんですかカイトさん」
    「……なんでもねーよ!買ってやるから味わって食え!」
    「へ?いいんですか?!やった!」
     素直な頭のつくりをしているこの男のことだから、紫色の飴玉を見るたび自分を思い出すのだろう。――というか、思い出せばいい。
     男の無邪気な横顔を眺めつつ、ささやかな悪戯心を悟られぬよう、カイトは何食わぬ顔でレジへ向かう。瓶のなかに詰まっているのは、砂糖でできた思考のあまい罠だ。



    ***
    20160523Mon.
    ■夜はしずかに

     ぽたぽた、つるり。やわらかい色味の短い襟足から、しずくがぽたぽたと滴っているのを認めて、首筋へ手を伸ばす。床でストレッチをしていた男のシャツの襟首を掴んでソファへと引き寄せれば、「うわっ」と間の抜けた声が上がった。
    「ちょっ……、なんですかカイトさん」
    「なにってお前、全然髪乾かしてねぇじゃねーか」
    「えー、すぐ乾きますよこれくらい」
    「程度ってもんがあるだろーが!いいから、ここ座れ」
     そう言っていささか強引に足元に座らせた男の頭へ、有無を言わさずタオルを被せる。湯上がりで濡れた髪を少々乱雑に拭いてやると、男は子どものように肩を竦めて笑った。
    「あはは、くすぐったい!」
    「うるせえ大人しくしてろ」
    「はーい……」
     慣れた調子で投げ合う軽口の応酬は、ひどく穏やかだ。男の髪はいつもこざっぱりと切り揃えられているものだから、さほどの時間もかからずすぐに乾いてしまう。もう解放しても良いのを知ってはいるが、乾かされている本人が離れていかないのを口実にそのままゆるゆると髪を乾かし続けていると、おもむろに男が面を上げてタオルの裾からカイトを見た。なにを思ってか男の節ばった指先がカイトの右手を捕まえて、じゃれつくように手のひらにふれる。
    「相変わらず大きいですね、カイトさんの手」
     指長いし。独り言めいた言葉とともに、右膝にこてんと置かれた後頭部は無自覚だろう。手のひらと膝、男とふれたそこから、高めの体温が滲みてくる。カイトの右手のひらを額に載せた男が、心地好さげに紅茶色の双眸をゆるく細めた。
    「あー……ひんやり……」
    「冷却シート代わりかよ……。ってか、デコあっちぃな、お前」
    「風呂上がりですもん」
     そんなことを言いながら、ついには瞼を下ろす始末である。無防備なのも大概にしろと忠告する代わりにやわく前髪をかき上げてやったが、くすぐったげに少しばかり身じろぐ程度であまり効果は見られなかった。
     しっとりと濡れて熱い湯上がりの肌の感触は、性交のさなかのそれとよく似ている。じわ、と首筋を撫でた衝動のまま立ち上がり、ソファとのあいだに男の体を閉じ込めた。子どものように右手を掴んだままだった男のまるい瞳が、そこでようやく疑問符を湛えて揺れる。
    「……えーと……カイトさん?」
    「んだよ」
    「いや、なんか、体勢おかしくないですか」
    「髪乾かしてやっただろ」
    「そ、れはそうですけど?!」
     ふれようとすることに、理由などあってないようなものだとわかっているだろうに。不毛なやり取りは早々に却下して、自由な左の手のひらで男の頬を包む。熱い。
    「これじゃすぐぬるくなっちまうな」
    「うー……」
     眦と耳朶までもが朱を帯びているのは、湯上がりのせいだけではないはずだ。相変わらず素直な反応に喉をふるわせて笑う。不服そうに呻く男の口唇にがぶりと噛みつき、舌先で口腔へ潜り込む。「ン、」
     くぐもった小さな声と同時に、男の背を押し付けたソファが軋んだ音を立てる。カイトの右の手首から肩へ移った男の手の、力強さと熱さが心地好い。徐々に上がっていく呼気の温度を感じつつ男のシャツの内側へ手を差し入れようとしたところで、――意識の端を軽快な音が揺らした。
    「…………、」
     カラカラカラ、と、軽やかな回し車の音の出どころは、言わずもがなリビングにあるケージの主だ。思わずふたり揃ってそちらを見遣り、そのままの距離で顔を見合わせて笑ってしまう。
     回し車を回すハムスターの姿はとても愛らしいが、この状況で背景音にするにはどうにも決まりが悪い。場所を移すのが賢明だろう。さてどう運んだものかと言葉を探していると、笑みの余韻を残したままのティーブラウンと視線が出会う。「ええと、……その、」
    「…………あっち、行きます……?」
    「行かねぇわけねーだろ」
     この期に及んでおずおずと尋ねてくるのが可笑しい。軽く頷きながら、腕を引き寄せて耳朶に歯を立てた。



    ***
    20160604Sat.
    ■黒猫は金平糖がお好き

     彼の表情を見ればいまの自分がどの程度のレベルに位置しているかを昴がおおむね察せるようになったのは、いつごろからだったろうか。
    「おいコラちょっと待て、ストップだストップ」
     次回公演『SUPER ROCK MUSICAL』主題歌、その歌い出しからおよそ一分半あまり。二番に入ったところでぱっと上げられた手のひらと、久方ぶりに見る険しい顔つきに、思わず楽譜を持つ手に力が入る。自覚はもちろんあるけれども、これは、思わしくない。
    「歌い出しのフレーズの音取りが甘い。そんなんじゃあとがいくら良くても歌詞が曲に馴染んでこねぇだろうが」
     この作品は劇中の随所でキャスト自身による生演奏が行われる。演技に歌唱、さらには楽器の演奏と、稽古のスケジュールはかなりタイトなものとなっていた。楽器演奏の集中特訓の順番が回ってくる前に歌の稽古は進めていたが、どの程度まで仕上がっているかを確認した彼にひと声めから突きつけられたのはぐうの音も出ないほどの正論である。はい、と返事をしたあとぐっと唇を噛み、指摘された内容を飲み込んで、頭の中で繰り返す。
     自分自身が未熟であることなど、十分すぎるほどに知っている。ひとつずつ目の前の課題を乗り越えていかなければ、舞台に立つ資格はないのだ。もう一度お願いしますと言葉を渡せば、彼からも首肯が返った。「いーか、体力バカ」
    「『全てを賭けて俺について来い』、だ」
     手本として歌いながら、彼の指先が白と黒の鍵盤の上で軽やかに踊る。何気ない調子で重ねられた旋律と声は、ごく自然にひとつの音楽として昴の心に落ちてきた。
     入りの一音めをとんとんと繰り返すピアノの音に合わせて声を出し、喉の調律をする。
    「お前はここが入りなんだから、もっと大事に、絶対の自信を持って歌え。客を不安にさせるな」
    「はい」
    「次でキッチリ決めろよ。今日はもう歌の出来がどうだろうがドラムの稽古入るからな」
    「はい!」
     彼の真剣な眼差しに、昴もこくりと頷いて応えたのだった。


     ――それが、いまから数時間前のことである。
    「……まあ、これくらいで基礎はいいだろ。練習用の機材も仕入れてあるから、毎日こなして体に覚えさせろよ」
    「お、お疲れさまです……」
     ドラムの稽古に入って以降彼のスパルタ指導についていくのに精一杯で、気付けば稽古場には昴と彼のふたりきりになっていた。ダンスやアクションの稽古とはまた違った疲れが四肢に纏わりついているのをひしひしと感じながら、ありがとうございました、と頭を下げる。疲れはあるが、なにより主演を務め楽曲編集、さらには歌唱・演奏指導までをも請け負う彼こそが、間違いなく今回最も多忙かつ負担が大きいはずなのだ。
    「カイトさん、このあともまだ仕事ですか?なにか手伝えることあったらオレ、やりますけど」
    「あー……。……いや、今日は帰る。そろそろ糖分摂り溜めとかねーと」
    「…………あんまり一度にまとめ食いしないほうがいいですよ?」
    「べつに、そのぶん消化してるからいいんだよ」
     足りねぇくらいだ、とぼやく横顔には確かに疲れが滲んでいて、昴はほんのわずか眉尻を下げて彼を見る。仁のように楽器の演奏に覚えがあれば多少は彼の負担を減らせただろうに、まったくの素人というのが現実だ。
     稽古場の鍵を事務所へ返し、早々に引き上げるべくロッカールームへ向かう。普段なら他愛のない話題をあれやこれやと振るのだけれども、今日ばかりはどうしたものかと考えあぐねた昴は結局大人しく口を噤むことにする。黙々と身支度を整えていると、彼のほうから怪訝そうな声が飛んできた。
    「んだよ、さっきから妙に大人しいじゃねぇか。あれくらいの稽古でへこたれるたまじゃねーだろ、お前」
    「あ……いや、カイトさん疲れてるし、静かにしてたほうがいいかなーって思って」
    「はあ?静かなほうが気持ち悪くて落ち着かねーよ」
    「ちょっ、カイトさんひどい!」
     珍しく気を遣ったというのにこの言われようである。思わずいつもの調子で言い返すと、ぱたん、とロッカーを閉じて帰り支度を整えた彼が隣へやってきた。
    「つーか、足りねぇくらいだっつったろ」
    「へ?」
     なにがですか、と問うより先に、腕を引かれてロッカーに留めつけられていた。
     スチール製のロッカーに背中がぶつかる感触と同時に、唇に知った温度がふれる。下唇を甘噛みされて、請われるままにそろりと薄く口を開けば、舌先が口内へ滑り込んでくる。
    「ッん、…………ふ……」
     熱い舌はやわらかく口腔をひと撫でしたあと、そのままついと離れていく。熱を煽るようなそれではないとわかってはいたものの、しばらくぶりにふれた温度の心地好さが少しばかり惜しまれて、昴は彼の端正な顔立ちをそのままの距離でじっと見ていた。
    「……くっそ、お前、どーいう顔だよそれ」
     呆れたように呻く彼の声が小さく聞こえる。いまの自分がどんな表情をしているのかはわからないけれども、彼以外に見せられた顔ではないのだろうな、と他人事のようにぼんやりと考えた。
    「カイトさん、」
    「あ?」
    「オレ、ドラムも歌も頑張るんで。あんまり、無理しないでくださいね」
     ドラムは演奏の心臓といってもいい役目の楽器だと、稽古中の彼の言葉を思い出す。単純な向き不向きの考慮の結果かもしれないが、彼からそれを委ねられていると思えば――否応なしに気分が上がるというものだ。
    「……ったく、」
     彼の淡い紫色の瞳が、昴を映してゆらりと揺れた。それから、もう一度だけ掠めるような口付けが寄越される。
    「やるからには半端な演奏なんざさせねーからな。本番まで覚悟しとけ」
    「はいっ」
     くるりと踵を返した彼の横顔は、先ほどよりもいくらか調子を取り戻したように見える。
     昴もほんの少し軽くなった足で、彼の隣へ急ぐことにした。



    ***
    20160605Sun.
    なっぱ(ふたば)▪️通販BOOTH Link Message Mute
    2018/06/20 2:04:25

    カイすば小ネタログ1

    #BLキャスト  #カイすば

    勢いのままに書き散らした小ネタログ(1-10)。いちゃいちゃしたりぎゃーすかしたりしんみりしたりお買い物に行ったり。だいたい平和に仲良くしてます。

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    ##腐向け ##二次創作  ##Kaito*Subaru

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