逢瀬 その部屋には影が無い。光源がどこにあるかはわからないが常に室内が強い光で照らされており、壁も天井も床も色が飛んでしまっている。その色の無い部屋に一柱の天使が収容されてから、少なくともひと一人が生まれて死ぬくらいの年月は過ぎていた。
その天使の名を、ルヴェールという。旧い時代から存在している星を視る天使であり、千年の観測者である。夜空から紡いだような髪がふわふわと宙を踊り、大きな二対の翼はゆっくりと羽ばたいてその体を空中に留めている。
部屋の中でも空の星は視える――たとえ収容中であっても天使に授けられた勤めが取り上げられることはない――が、地の星を見下ろすことは出来ない。つまるところルヴェールは別段苦痛を感じてはいなかったが、ただただ退屈だった。
「ねえ」
であるからその日、何者かが部屋の前を通ったとき、壁越しに呼び止めたのである。
「お前、名前は?」
壁の向こう側にいたのは澄んだ氷のような色の目をした若い天使だった。不意に聞こえた声に怪訝そうに足を止め、部屋の番号を確認してから静かに口を開く。
「天使ルヴェール、その問いに答える義務は僕にはない。貴方が収容された理由は知らないが、余計なことはしようとせずに大人しくしている方が賢明かと」
「そう……」
すんなり引き下がったルヴェールに若い天使は少し戸惑うように一瞬口を開きかけたが、思い直してその場を去っていった。
……しかしそれからというもの、この天使が部屋の前を通りかかる度にルヴェールは彼へと壁越しに話しかけた。天使の方も最初のうちは冷たくあしらっていたものの、控えめで静かな口振りに悪印象がなかったからかそれとも同情か、ちょっとした立ち話程度なら付き合うようになっていった。
周囲に人通りがないことを確認してからノックを三度。それが彼らの合図になる頃には、若い天使はルヴェールに対し一定の敬意を払うようになっていた。壁越しの会話でもわかるくらいルヴェールは理知的で、相手を不快にしない話術に長けていた。
「……ルヴェール様、なぜ貴方のような方がここへ?」
そっと壁に身を寄せながら若い天使が尋ねたとき、しんと壁の向こうが静かになった。さっと顔色を変えた天使は慌てて言葉を付け加える。
「ご不快にしてしまったなら申し訳ありません、あの、少し気になっただけで……ええと……別の話をしましょう!」
もしこの場に誰かが通りかかったなら、違和感に眉をひそめただろう。壁の向こう、つまりは本来立場が下であるべき相手に必死で弁解をする若い天使の姿は、ある種異常である。
彼は気付いていない。いつからか自分が壁の向こうに対して敬語を使うようになってしまっていることにも、対話の頻度が上がっていることにも、相手の態度が柔らかくはあるが明確に上位の存在としての振る舞いになってきていることにも、気付いていない。
彼らの立場は逆転しつつあった。この若い天使以外に話す者もいない筈のルヴェールよりも、自由にどこへでもゆける彼の方が相手に執着し始めていた。その歪みを指摘する者は、いなかった。
色のない部屋で星を視ては微睡むルヴェール。彼が若い天使との対話をどう考えているのか――単なる暇潰しなのか、なにかの策略なのか――それを知る者もまた、いなかった。
……そしてそれはある日突然やって来た。
そ知らぬ顔でルヴェールの収容されている部屋へ向かっていた若い天使は、部屋の前で己より上位の天使が部屋の鍵に手をかけているのを見て戸惑うように足を止めた。
「……何をされているのですか?」
「解放だよ、収容期間が終わったんだ」
天使の心臓が跳ねた。あれだけ言葉を交わしておいて、姿を見たことはまだ一度もないのだ。ゆっくりと扉が開かれるのを、彼は微動だにせず見守った。
静かに扉の中から現れたルヴェールは、大きな二対の翼をぐっと伸ばしてから羽ばたかせ、扉を開けた天使に会釈をした後周囲を見回した。……若い天使と目が合う。
輝く星が、氷を打ち砕いた。
「あ、あの! おわかりになりますか、僕、その……」
駆け寄って言い募ろうとした彼へ、ルヴェールは薄く微かに微笑みながら頷いた。
「わかるとも、かわいい子。……名前を教えてくれるかい」
白くしなやかな手が自然な所作で差し出され、その意味を理解した若い天使は跪きその手の甲へ唇を寄せた。
「ラスイルと、申します……っ」
僅かに震えた声は、恐れのせいだったかもしれないし、恍惚のせいだったかもしれない。