雨のカーテン 雨がやむ様子はない。もう何回となく経験している今日この日、教会で開かれている音楽会の様子は分厚い雨のカーテンで遮られてわからない。
昼前に起きてきたユージーンは遅めの朝食――卵を焼いてパンに乗せた――を済ませてから窓辺の椅子に座りぼんやり雨音に耳を傾けていたが、腹がこなれてきたところで席を立つと五線紙と筆記用具を持って机に向かった。
降り始めた雨が地面を濡らすときの様子に似ている。音符がぽとりぽとりと落ち、紙面を埋めてゆく。いくらか書いてから今度はピアノの前に移動したユージーンは、意外にしっかりした作りの指でゆっくり鍵盤を叩いた。
不意に、ぴく、とその耳が動く。兎に似た大きく長い耳が玄関の方を向いた。
「お邪魔しまーす」
聞き慣れてしまった声。警戒するように立っていた耳が少し揺れ、ユージーンは上げかけた腰をおろしてまたピアノに向かう。……が、ふと今日の天候を思い出して再び腰を上げて玄関へと向かった。この大雨の中やって来たということは……。
「あれ、お出迎えですか? ありがとうございます」
「……ひどい格好だな」
ぽた、と髪の先から雫が落ちる。客人の青年……ヴィクターは玄関先で外套の裾を絞りながら苦笑した。
「うちを出た時はそこまでじゃあなかったんですけどね」
少し癖のある髪は雨に濡れて重たげにひしゃげている。外套がかろうじて機能したのか、泉で溺れたねずみよりはましな様相である。ユージーンは呆れたように溜め息を吐いてから相手に背を向けた。
「少し待っていなさい。そのまま上がられては廊下が濡れる」
そうして返事も聞かずに一旦屋敷の中へと向かい、しばらくしてからタオルを何枚か持ってくる。差し出されたそれを受け取るとヴィクターは笑顔で礼を言ったが、ユージーンは曖昧に返事だけしてまた中へと戻っていった。
体の水気を払い頭をタオルで拭きながら屋敷へ上がったヴィクターは慣れた様子で廊下を歩きピアノの置いてある部屋を覗くと、客人をもてなす様子もなくピアノの前へ座ったユージーンを見て小さく笑みを浮かべた。
タオルの一枚を椅子へ敷いてそこへ腰かけ髪と体をきっちり拭き始めたヴィクターをちらりと横目で見たユージーンは、特に気にする様子もなくまた鍵盤を叩き始める。雨粒が水面を踊るような音がした。
しばらくして粗方水気を拭いきったヴィクターはソファーへと移動し、背もたれへ向かうように座るとそこに肘をかけて演奏に耳を傾けた。
一小節弾いては戻り、五線紙へ何か書き付けては思案する。同じメロディーの繰り返しにヴィクターはうとうとと船を漕ぎ始め、ゆめとうつつを行き来してははたと姿勢を直し瞬きをした。
皆が歌い奏でる音楽会にはほど遠いが、ここでもまた音楽が雨と寄り添っている。
「……しかし君も物好きだな、どうせ外に出るなら音楽会へ行けばいいものを」
一旦作業を中断し席を立つと休憩がてら紅茶を入れ始めたユージーンはそんなことを言い出し、それを聞いたヴィクターはきょとんと瞬きをした。
「どうしてるかなあって思ったので。迷惑でした?」
「……別に、君の好きにすればいい」
計りもせず無造作に茶葉をポットへ放り込み、沸かしてきた湯を注ぐ。それを机へ運んでから砂時計をひっくり返し、ユージーンは窓の方を見た。大きな雨粒が窓ガラスを叩いている。
「よく降りますね」
「この日は毎年そうだ」
雨音にかき消されそうな低い声。少し待ってから紅茶をカップに注ぎ――まだ早い、色と少しの香りがついた湯のような代物だ――、少し眉を寄せたものの構わず口を付ける。一方のヴィクターはもう少しだけ待ってからポットを揺すり、きちんと味のついた紅茶を自分のカップへ注いだ。湯気をたてているそれをふうふうと冷ましながらテーブルを挟んだ向かい側を見ると、ユージーンはそちらを見もせず窓の外を眺め続けていた。
横顔は相変わらず気鬱げではあるが、拒絶の気配はない。長い耳が時おりぴくりと動いて、雨音を聞いているようだった。……が、不意にカップを置いて立ち上がり、ピアノへ向かう。譜面台に置かれたままの五線紙へペンを走らせ、小さく唸る。
その背を眺めながらようやく紅茶に口を付けたヴィクターは、あち、と小さく呟いた。