Good morning,yesterday 物事の終わりはいつだってあっけない。短くはないこれまでの人生の中で、当時はかけがえがないと真剣に思っていたものも幾度となくこの手からこぼれていった。そのときは胸が張り裂けそうな思いに駆られても、ふと気が付けば、まるでぼんやりと見ていたドラマの結末のように、どうでもよい思い出のひとつになってしまう。そんなことを両手に余る以上体験してきた。
幻想なのだ、心から愛するなにかと出会えるなんてことも、もう二度と埋められないものがこの世にあるなんてことも。
それは若さや青さが作り出した都合のいい舞台装置で、自分を主人公にするために欠かせない小道具でしかない。
渇望していた輝かしいなにかをついに得たそのときには、これを失ったその日に自分の世界が終わる、そう強く感じることも珍しくない。やがて長いなり短いなりの時を経るうちに、輝いていたはずのそれは色褪せ、錆びつき、日常の中に溶け込んでしまい、そのときには鈍い光すら放たなくなっていることに気が付く。
そうなったらもうおしまいだ。
もはやそれになんの未練も感じられない。勢いのまま手放してもそこにあるのは所有欲から続く淡い未練のみで、そして新しいおもちゃがくるように、次のなにかが人生の中にはまり込んでいく。そのとき、風景が前と違って見えることが悲しく感じられても、その違和感も初めのうちだけのことだ。そして気がつけば新しいものになんら不具合を感じていない自分を発見する。その繰り返しが、年を取るということなのだろう。
人が思っているのとは裏腹に、自分は冷たい人間なのかもしれない。あるいは情がとても薄いのか。しかし、この態度は短くも長くもない年月を生きてきた結果身につけた知恵であり、ひとつの真実だ。なにか特別なかけがえのないものをこの手に出来る、なんてことを思い込んでいるから、人は嘆くし苦しみもする。つらい思いを味わいたくなければ、その若いゆえの幻想に別れを告げることだ。そして、物事のおいしいところだけを抜き取って、それを味わい、少し足りないぐらいのところで手放すといい。そうすれば、最後の一口まで食べたらどんな感想を持ったのだろうか、という想像と共に、ただ甘美なものが自分の中に残る。それでなくても人生には苦しみや悲しみが多すぎる。ならば、自分が選べるところでは徹底的に合理的に行動することこそが、余計なものを背負い込まない道なのではないか。
もしうっかり必要以上に踏み込んでしまった日には、最後の最後に面倒で辛く、気力を削ぐような後始末をする羽目になる。どうせたいした時間も置かずに立ち直るのだと判っていても、しばらくは頭も上がらないような気分になり、鬱々とした日々をしばらく送ることになってしまう。そうしたら日常生活にも支障が出ることは避けられず、結果として快適な生活をしばらく手放すことになる。当面のこととはいえ、それは出来るなら避けて通りたいことだ。特に自分のような、理性と感情が時に上手くリンクしない人間には。
表面的に憧れ、表面的に手を繋ぎ、表面的に心を覗き見たつもりになる。何かについて本気になるなんて愚の骨頂もいいところだ。ましてやそれが人間相手の関係だときたら。
本気にならなければ、愉しい日々を送り続けられる。人に幻想を抱かず、自分に幻想を抱かず。
それが、今までから学んだ教訓だった。
もっとも、心から望んだものが音を立てて壊れたとしても世界は止まらないし、人の心も再生不能なほど砕け散ったりはしないのだ、夢見る青少年たちには申し訳ないが。一種老獪ともいえる態度を身につけていないうちは、なにかに頼って必至に世界を立て直そうとあがくことが必要かもしれない。しかし、たとえ胸が張り裂けそうな思いをしても、ふと、自分がどうあがいたところで結局なにも、ひとつも変わってないことに気付くときが来てしまう。自身は繭の中でどろどろに溶け、違うものに変わったと思っても、ただ、それだけのことなのだ。
十七歳のあのときから、ずっと知っていたはずのことだというのに。
ぼんやりと取り留めのないことを考えているうちに、目の前の男は荷物をまとめ終わったようだった。
前かがみの体勢だからか、つむじがよく見える。ついこの前までまだまばらだった白髪が、目立つほど増えているのがよくわかった。若白髪なんて形容できるのもあと一、二年のことだろうし、そうなったら白髪染めでも使うのだろうか、と今度は間抜けな想像が有栖の頭を過ぎる。
心から疲れ果てた様子でソファに座りなおした火村の顔を、有栖は失礼にならない程度にまじまじと見た。ひょっとしたら、これが最後の機会かもしれない。もともと痩せ型で尖った印象があったのだが、年月が過ぎるうちに目尻や口元の皺が少し深くなり、毛穴も少し目立っていて、今は鋭さよりもくたびれた中年の風情が漂っていた。思えば客観的にこの男のことを見るのも久しぶりだと有栖は思った。それこそ年単位ぶりだ。
恋は盲目、なんて陳腐な歌詞のような言葉が浮かんできた。疲れているやさぐれた空気も、恋に落ちている間は蔭のある男、と妙に格好良い変換が出来る。眼光鋭いといえば聞こえがいいが、ただ目つきが悪いだけだ。性格などのメンタル面はかなり前から――それこそ知り合ったばかりの頃から――相当難ありだと判じていた。そうなると取り得は、二十代の内に易々と博士号を修得した、その優秀な頭ぐらいか。あとは探偵のごとく真実を覗き込めるその豪胆さ。古今東西の名探偵にも引けを取らないその勇気は、この男の長所でもあり、ぬぐいきれない欠点でもある。
他はどうだろうか、と有栖はさらに思いをめぐらす。強引さ、これも長所であり短所だ。いままでの関係も、彼の強引さが齎したものであった。
思い詰めたような表情で、ひどく真剣な声で仰天するような告白をされたのは果たしていつのことだったろうか。真っ青な顔色をして、普段の強いイメージからは想像も出来ないようなか細い声で、心の底の秘密をそっと開示するように、火村は有栖に告げてきたのだ。
「困ったことに、俺はお前に惚れてるらしい」
「は?」
確かこう返した。頭が真っ白になる体験なら、二十七歳のときに味わったが、火村から受けた衝撃は、夢が叶ったという嬉しさと興奮から来る歓喜ではなく、青天の霹靂のような衝撃だった。もてる割には女気がないことは不思議だったが、まさか同性愛者だったとは思わなかった。ましてやその対象に自分がなる日が来るとは。
あれは確か暑い夏の日で、木立の中、蝉がまるで鐘の中にいるような音量でぐわんぐわんと鳴き続けていたはずだ。みんみんともジジジとも鳴いていたはずなのに、記憶の中ではぐわんぐわんとしか響いていない。他のすべての音も、存在もかき消し、あの時世界には二人しか存在しないかのような錯覚すらした。
床屋に行く時間と金が勿体無い、という無精な理由で伸ばしっ放しの前髪を掻き揚げる姿は、いつもとなんら変わりはない。くたびれた白いTシャツと、皺だらけのジーパンといういでたちも。 しかし、いつもは厳しさと自信を感じさせる顔に表情はなく、一筋流れる汗だけが妙に生々しく有栖の目に映った。
溶けるほどに暑く、なにかに絡まっているように蒸す日だというのに、この男は日陰に入ろうという気が全くないように見受けられた。日光は陰影をはっきりと際立たせ、影は墨で書いたように黒く、そこ目掛けて石を投げたら、そのまま音もなく落ちて行きそうなほどだ。ゆらめく空気の中、火村もまた蜃気楼のように不確かなものに見え、自分が一歩でも動いたら最後、焦点がずれて突然音もなく消えてしまうのではないか、そう思った。そういえば顔色も悪いし、いまはとりあえず一刻も早く日陰に連れて行って、冷たいものを飲まさないといけないのではないか。そう思ったのにあの時動けなかったのは、そんなあやふやな不安からだ。
あの時、そういえば自分は木陰にいたのだろうか。
思い出せるのは蝉の声と、黒い影、そして声。世界が閉じたような夏の午後。思考も、自分も、なにもかもがどろどろに溶けていくような日差しの下、ただ漠然とした焦燥感だけが、辛うじて形を留めている。蝋のように溶けて、蒸発して、すべてなくなってしまう前に早く。
はやく。
カタン、という音で我に返った。
入れたてのインスタントは、火村が用事を済ませ有栖が呆けている間に、猫舌でも大丈夫なほど冷めていたらしい。最近使うこともなかった客用ソーサの味気ないデザインが、なぜか有栖の心に深く突き刺さった。
何気ない様子で顔を上げた火村と、今日初めて視線が合う。
充血した目は力がなく、黒目の部分が普段以上に際立って見えた。ただ覇気はなくても生気はあり、それを残念だと理由もなく有栖は思う。そして、自分の目は彼にどう映っているのか、そんなことが気にかかった。
きっと火村も、なにか残念だと感じているに違いない。
結局、互いにそう思い込みたかったものは、ここには存在しなかったのだ。
多分見詰め合ってしまったのはほんの十秒ほどだろう。先に視線を逸らせた火村が、鈍く口を開いた。
「そろそろ行くよ」
「そうか」
その言葉を合図に火村が立ち上がる。何年もここに入り浸っていた割には火村の荷物は少なく、小さめのボストン一つにすっきりと収まっていた。もっと沢山のものを置いていたはずなのに、いつの間に彼はそれを持ち帰り始めていたのだろう。それとも、その感覚すら錯覚なのか。
有栖もつられるように立ち上がった。最後の礼として見送りはするべきだろう。火村は今、なんだかの感情を抱えているようだが、あいにくと有栖はそれを持ち合わせていない。ただ、なんとも面倒だと感じたが、それを隠すだけの気持ちはまだ持ち合わせていた。
二人とも無言のまま玄関まで移動する。広い家ではないから、どんなにゆっくり移動したところで十秒がいいところだ。そしてはき潰す寸前の革靴を履いたとき、おもむろに火村がまたこちらを向いた。
「――もうこれで最後だ、何かあるか」
「……ない、な。別にない」
ほんの少しだけ考えた後そう返すと、火村は今日初めて感情を見せた。それは寂しさとも諦めともとれる、静かな微笑だった。
「そうか。……それじゃ、元気で」
「ああ、君もな」
あと、ばあちゃんとネコたちにも。そう付け加えると、「伝えておく」とそっけなく返される。そして、なんの未練やためらいもなくドアを開けると、いつものような足取りで外に出て。
そうして、あっけなくドアは閉まり、それきりだった。
鍵とチェーンを掛けて居間に戻ると、ソファに勢いよく座り込む。さきほどのソーサをぼうっと眺めながら、本当にあっけないものだと、有栖はぼんやりと思った。
ただ、ひどく疲れていた。
だから、人と関わるのは嫌いなのだ。楽しさを共有できる友人に囲まれているだけで充分なはずなのに、それ以上をうっかり求めてしまうのは悪い癖なのだろうか。
望むから失望する。
期待をするから裏切られたと感じる。
相手に重きを置くから落胆する。
都合のいいように付き合って、言いたいだけ言い募って、好きなようにあしらって、甘えられない、いらないと感じたら相手にすべてを押し付けて次へと向かう。そのような器用な振る舞いが出来ないからこそ、自分を戒めていたはずなのに。
晩秋の日は短い。窓の向こうに見える空は力ない夕焼けに染まり、部屋全体が影に埋まりつつある。しかし、電気をつけることすら億劫に感じられて、そのまま倒れるように背もたれに体を預けた。そのまま視線をふらふらとさ迷わせれば、天井がうっすらと黄色く染まっているのが目に入った。弱い光しかなくとも判るほどに人のうちの天井をヤニまみれにするまで、あの男は有栖の元に入り浸っていたのだ。その横に当たり前のようにいた自分の肺が急に気になり、有栖はつい胸の辺りに手を当てた。記憶にある限りでは、吐く息をヤニ臭いと評されたことはないから、まだ心配するほどのことではないとは思うのだが。
そういえば火村が、教え子の何人かがゼミ中無意識に顔をしかめては、それに気付いて慌てて表情を戻すのだと以前話していた。自分はとっくに慣れてるし気にもしないのだが、煙草が本当に駄目な生徒は、ひょっとしたら火村の傍にいること自体が辛いかもしれない。なんたって、自宅以外の天井すら染めてしまうほどのヘビースモーカーだ。
これからは彼の肺に心配を寄せるのも他の誰かの仕事だ。すぐに、とはいかなくても、そのうち誰かが、そのポジションに入るのだろう。独りで生きていたいみたいなポーズを取りながら、あの男は実はなかなかの構われたがりなのだ。
ああ、いってもうたな。
突然、ぽかりとそう思った。
あいつも元気で過ごしていけばええけど。
しかし、この感慨でさえも、他人に向けて思う無責任な同情と同じように薄いものだと有栖は思う。テレビのドラマやドキュメンタリーを見たあとに抱くのとほぼ同等の感情だ。テレビを消すことで感情を自己完結出来、その後のことをなんら負うことがない。ただ、あのあとも元気だろうと想像するだけでいいのだ。
だから、火村もしばらくは落ち込むだろうが、その後は元気に暮らしていくことだろう。これが、有栖にとっての火村に関する記憶の最後の文章だ。
自然と深いため息が出た。
部屋から急速に光が失われていくのを感じながら、ただぼんやりと天井を眺めていると、ほつりぽつりと何気ないことが思い出されてくる。例えば定期試験明けに終電が無くなるまで飲んで、鴨川の辺を二人で歩いているときに、急に手を繋いできたことや、家主が帰ってくるまでの暇つぶしにと、火村の家のレコードを覗いているとき、マリア・カラスの次にエレミアの哀歌なんてものがあり思わず驚いてしまったこと。突然ヤケになって会社帰りに終電を乗り継いで、寝入りばなの火村を起こしてしまったこともあった。それも何度も。その度に火村は、眠気からだろうがひどく不機嫌な顔をしながら、それでもスーツのまま部屋の入り口に立つ有栖へ手招きをして、布団の端を猫を呼ぶように叩きながら「とりあえず寝ろ、睡眠は満腹と同じぐらい効き目ある精神安定剤だ」と含蓄があるようなないようなことを言うのだった。思えば寝言の類だったのかもしれない。そして、最近二人で出かける時は大抵死体付きだった。これはこれで異常だ。 ここ何年の間に、一体何人の死を目撃しただろう。しかし明日からは、真っ当な一般市民並の頻度でしか見ることもないはずだ。
火村はあの死と悪意のフィールドに、これからは独りで立ち向かっていくことになる。いつかそれを得るとしても、次のパートナーを現場に連れて行くことはないだろう。根拠はないが有栖にはそれを確信出来た。今度はあの場に染み付いているすべてのものを一切合財自分の中に隠して、何一つ気付かせることもなく恋人と向き合っていくに違いない。そして、それに気付かないぐらいには鈍感な相手を選ぶに違いない。
有栖のようになにかを感じ取って、どうした、どうして、と聞いてしまう相手は恐らく彼には向かないのだ。
ただ見守りっていたいと願うことと、傍で見守り続けなければいけないことは根本的に違う。
火村は自分の奥のものをさらけだそうとはしない。たまに露悪的に切れ端を見せたとしても、本体は意地でも隠し通そうとする。それは有栖も同じことで、胸の内に仕舞ったものを時にうっかりさらけ出してしまっても、そのすべては火村に見せられない。なのに火村に対してなにを独りで抱え込んでいるのだ、と時に叫びたくなる。人は、自分の背負った荷物を通りすがり以外の人には預けないものだと理解していても、だ。
しかし、火村は違う。彼は有栖の許した線までしか踏み込まずそれ以上を欲しない。たまになにか感じ取っても、最後は眉を器用に顰めて流していく。彼のその態度を、勘がいいのではなくただ割り切っているだけなのだと、有栖は分析していた。人に求めるものを相手にも与える。とても判りやすい思考だ。
昔、たった一度だけ、その戒律を破って、火村が自身の背負うものを垣間見せたことがあった。なぜそこまで犯罪にこだわるのか、と責めるように聞いたときだ。
そのときの火村の顔を有栖は今でもはっきりと思い出せる。あれは知り合った年の冬の終わり頃だった。なにから言い合いになったかは忘れたが、ビールを互いに三本空けたあたりから話はどんどん明後日の方に進み、揶揄する言葉はそれぞれを必要以上に呷り、頭に血が上った有栖がその勢いのまま火村は頑な過ぎるとなじり、そして、さすがに言い過ぎたかと気まずくなったそのときに、火村があの台詞を吐いたのだ。
目に表情がなく、ただ酷薄な笑みだけがかすかに浮かんだ顔。諦めたような捨て鉢な口調は、まるで呪いを吐くようだった。日常に馴染まないものだが、全く聞かないという類の言葉ではない。ありふれてはいないが、とても珍しい感情というわけでもない。なのに、有栖は火村の口から発せられたそれを、まるで生まれて初めて聞いたかのように感じたのだ。冗談で包むことも突っ込みで和らげることも出来ず、有栖は二、三度口を開きかけた後、結局視線を落とした。
ひどく喉が渇いたと思った。
あれは火村の下宿だった。バス通りから奥に入ったこの場所は、昼でも余計な雑音があまりしない。ましてや夜なら尚更だ。 普段は家と違って静かで良いと思っていたというのに、その時はバイクの音、酔っ払いの独り言、何でもいいから何か外から音がして、この空間を少しでも埋めてはくれないかと勝手にも願った。
「……なんてな。まあ、俺の都合だ」
そういって、有栖の背中をぽんと叩き、もう少し飲むか、と呟いて火村が冷蔵庫へとのそのそ歩くのを感じたとき、有栖はようやく息が出来たと思った。多分一分にも満たない間だ。だがそれは長すぎた。火村は本気だ。暗く、熱く、どろどろとしたものを平気なふりをして胸にしまいこんでいる。だからどうしたというのだろう、聞いたところでなにも出来ない。言葉の一つ、しぐさのひとつすら相手に差し出すことが出来ず、火村がああやってこの空気を払ってくれなければ有栖は更にどつぼへ嵌っていったかも知れない。ならば、これは聞かないでいること結局同じではないのか。
そこまで考えたところで、頬にぺたりとよく冷えた缶が押し付けられた。
「今度はなに考え込んでるんだ。それでなくてもアルコールが入ってるのに、更に脳細胞使ったら一層総数が減るぞ。ほら、お前もあと一本付き合えよ」
「……君は俺の脳細胞をどっちにしても減らす気か」
「俺も減らすって言ってるんだから、二人で仲良く死滅させようぜ。いうなれば関が原ってやつか」
「君、実は相当酔っとるやろ」
そう突っ込むと火村はようやっといつもの笑みを浮かべて「そうか? いい喩えだと思ったんだけどな」と低いレベルで自画自賛した。
なんだ。有栖は深くため息をついた。
これでは相手の荷を背負いきれない、と判っていて、それでも試させてくれと駄々を捏ねていたみたいじゃないか。
だが、あの夜がなかったら、有栖はその後火村に執着することもなかっただろう。
テーブルの上の白いカップはいつのまにか乾いていて、底には水分が抜けたコーヒーの名残がうっすらと張り付いている。水につけないとな、と思いながらも、まだ起き上がる気にはならない。染みるなら染みてしまえばいい。そのときには思い切って処分してしまえばいいのだ。そんな誘惑に流されるままに、有栖はそっと目を閉じた。
昔からただ明るいもので満ち溢れた綺麗なだけのものより、どこかに澱みがあるようなものに、有栖はより強く惹かれる。
単純明快なものより複雑な謎、深く吸い込まれそうなそれに魅了されるのはミステリ好きの宿命だ。
まるで恋愛物の憧れの君のような紋切り型の表層と、底知れない歪みを抱えている内面、そのギャップに気付いたらもう目をそらせるはずもない。あとはただ、頭の中で鳴り響く警告に言い訳しながら中毒のように引き込まれていくだけだ。
長い休みが終わり、三回生になったころには、暇を見つけては火村火村と声を掛ける様になっていた。河原町三条の古本屋に付き合え、鴨川沿いの洋食屋にスパゲティの挑戦メニューが出来たらしい、京都駅近くの店で猫缶大セールをやっているから荷物持ちを買って出てやる。こじつけのような理由で誘えば誘うほど、火村が巧みに逃げていくことに気付いたのは、梅雨の間のことだろうか。どちらかといえば鈍感なほうなのに、よくその気配を察したもだ。
人付き合いが苦手で面倒だと思っていることは知っていた。しかし自分は別だろうと傲慢に構えられる若さをまだ失ってはいなかった。だからこそ、興味ある謎を解きたいという本能のまま動いてみたというのに、近づこうとすればするほど離れていく。そのことに寂しさと意地がないまぜになって、妙な興奮状態のまま彼の下宿に押しかけたのは夏の終わり。とりあえず彼の望むまま距離を置き、相手が愛想を尽かしたろうと勝手に判断して油断するであろうと、その機会を窺ってのことだった。
火村がなにか察して逃げてしまわないように、用心に用心を重ねて、有栖は行動を起こした。自分と彼の間にある、なにかに決着をつけるために。
そうだ。
有栖は目を開けた。
あのときは、自分が彼を追っていったのだ。
追い詰めて、奥底から彼の強引さを引き出したのは、他ならぬこの自分だったのだ。
俺から目を逸らすな、差し出した手を払うな。
蝉の音鳴り響く中、部屋では話しにくいからと近所の神社へと歩く火村の背中を、有栖はそう傲慢に思いながら見つめていた。ここまで希っているのだ。だから、逃げてくれるな。と。
しかし、その熱もいつしか去ってしまった。
つまりは単純に若かったのだな、と有栖は思わず苦笑した。人と深く関わらないと思った傍からそれを自ら破っていったのだから。今なら、そんな間違いは犯さない。相手が距離を取りたいというときに踏み込んでいくなんてことがどれだけ双方に不快なことか、年を取った今ならよくわかる。
若いときには持っているべき情熱なのであろう。ただ、もう不要になった、それだけだ。
さらば、古き時代よ、と勝手に感傷的な気分に浸ったとき、不意にドアベルが鳴らされた。
壁に掛かった時計の文字盤は、この部屋の明るさではもう殆ど読み取れない。宅配か書留の類だろうか。だったら出ないとな、と思いながらも有栖は腰を上げようともせず、ただ玄関の方へ目を向けた。届けものなら申し訳ないが、後でまた配達しなおしてもらうことになるだろう。それともなにか急ぎのものなら、もう一度ベルを押すことだろうし。
と、思っている傍からまた二度続けて、ベルが鳴らされた。
ほら。
外からの観察者のように有栖は心の中で呟いた。ひょっとしたら生ものかなにかだろうか。それとも緊急の電報かなにか。もしそうなら文面は「チチキトクスグカエレ」と相場が決まっている。もっとも親はこの家の電話番号を知っているのだから、そんな用件で電報を打ってくるわけないのだが。
愚にもつかないことを考えているその間にも、またベルが鳴らされる。
三度目のその音に小言を言われたような気がして、さすがに腰をあげた。
歩きながら小さくため息をつくことでとりあえず気持ちを切り替える。そう、こうして日常は続くのだ、否応なしに。郵便局か宅配の兄さんか、ともかくドアの向こうの客が怒ってないことを願いながら、「はーい」と声を掛けつつドアを開けると、そこにはとても不機嫌な顔があった。いや、正確に言うならむすっとしていて何を考えているか判らない顔が。
「……なんや」
出るんじゃなかった、という気持ちを隠すこともなくそう問いかけると、今日限りで別れたばかりの男は表情どおりの声でぶっきらぼうに、
「……忘れ物」
とだけ告げた。
「は?」
「封筒、居間にあるはずなんだが」
そこで切ったということは、言下に取って来てくれ、ということだろう。その図々しさにもむっとしながら、有栖は大いに軽蔑した顔を作って、火村にそっけなく対応した。
「君なあ、あんだけかっこいいこというといて、どの面下げてのこのこ現れてくるのかな」わざと言葉を切って、わざとらしく火村の腕を覗き込む。「……わ、まだ三十分も経ってないわ」
「正確には十分弱だ」
十分。
結構ぐちゃぐちゃと考えていたわりには、大して時間は経っていなかったらしい。十分って長いものなのだな、と意外に思いながら、思わず勝手に口が開いた。
「うわ、恥ずかしいヤツ」
「そんなこと言ったってしょうがねえだろ、忘れたものは忘れたんだから」
口調にキレがないは、自分でも間抜けだと思っているからだろうか。有栖はしょうもない、とあからさまにため息をついた。
「あとでメールでもなんでもくれれば、のしつけて送り返してやったのに」
「明後日の会議の資料とか入ってるんだよ、なかったら仕事にならねえだろう」
「君が仕事にならなくても、俺は困らん」
そうきっぱりいうと、火村は、
「っていうのが判ってたからのこのこ戻ってきたんだろうが。だから、ほら」
そういって右手をずっと差し出した。
ああ、やっぱり。
この王様め、と心の中でののしりながら、有栖は念のため聞いてみる。
「なんやその手は」
「だから、持ってきてくれよ。多分ソファの傍辺りにあるから」
「なんで俺がお前のためにそんな手間かけなあかんねん。なあ、君、この状況を把握しとるんか?」
「してるに決まってるだろ。でも日常ってぇのは続くんだよ」
言いながら、どこかで何かがとがめたのか、口調や顔がどんどん拗ねたことものようになっていくのがはっきりと判った。火村よ、お前は一体いくつだ。
有栖はそんな火村を一瞥すると、あごをしゃくった。
「上がって勝手に取ってけ」
それを聞くと、火村の表情がまたくるり変わる。なんとも情けない顔になったあと、口を尖らせるようにして目を逸らす様子を見て、有栖は心の中でまた突っ込んだ。だからお前はいくつなんだ。
目の前の火村は、しばらく口ごもるようにしたあと、珍しくも張りがない控えめな声で「それは……」とだけ呟いた。
「それは?」
「……だから」
「だから?」
「だから、それは……いや、やっぱ、格好悪いだろ、かなり」
そうふてくされたように言ったそばから、火村の顔がどんどん赤くなっていく。
本当に。
彼の面映そうな横顔を呆けてみているうちに、不意に、おかしくて堪らなくたってくる。
ああ全く、本当に。
彼も、俺も、いまのこの状態も、なにもかも。
あかん、あかん、と心の中で思えば思うほど我慢できなくなって、ついに有栖は忍び笑いをもらし始めた。
そうなったら、もうだめだ。
「格好悪い、って、君」
くすくすと笑いながらついこぼすと、火村が不機嫌であることを隠さずに声を出した。
「そんなにおかしいか」
「そりゃ、おかしいにきまっとるやろ。君はおかしくないんか?」
逆に問い直すと、火村は「俺は……」といったきり口ごもる。そしてその様子を見ながら、もう我慢することも放棄してくすくすと笑い続ける有栖をむっとしたように見ていたが、やがて、その顔が緩んだ。
「……まあ、確かに」
「な?」
改めて同意を求めると、火村もついにがまん出来ないという風に噴出した。
そのまま笑い始める火村を見て、有栖はますます笑いが止まらなくなる。忍び笑いはとっくに大笑いに変わっていて、玄関は男二人の笑い声で飽和状態だ。
本当に、どこまで君は知っているのか。
もはや何の熱も感じないなんて、自分に言い訳をするためにつくウソだ。クールなふりをして、面倒が終わった振りをすることは、弱い自分への強がりに過ぎない。終わりを惜しむことすら拒否して、そ知らぬ顔を心を殺すことで繭の中から世界を見ようとしていた、そんな大人の狡さを、しかもたったの五分ちょっとでやぶってくれるとは。
もう二度と現れないはずの君がまた玄関に立っている、その姿を見られたことがどれだけ嬉しかったか、君はわかるか?
あまり鍛えていない腹筋が悲鳴を上げるころようやく笑い終わった有栖は、同じように腹を押さえながら目頭を軽くぬぐっていた火村に笑いかけた。久しぶりに。
もっと早くこうしておけばよかった。
「まあ、とりあえず上がれや」
あったかいコーヒーでも入れたるから、と体を翻したその瞬間、後ろからぐっと抱きしめられた。その強さに胸が鳴ったところで、肩口に頭を乗せた火村がそっと、かすかな声で名前を呼ぶ。その声にまず肩の力が抜けた。
言葉を返すことも忘れて、有栖は火村の方へと目線を向ける。そうすると久しぶりに火村の体臭を感じて、有栖は思わずくらくらした。寄せられる頬はじゃりじゃりとしていて、最近の火村の様子を如実に伝えてくる。コート越しの体は少し骨ばっていて、体温も少し低いように思う。かすかに震えているようにも思うが、もしかしたら、震えているのは自分の方なのかもしれない。
一旦腕を解いてとりあえず上がらせたほうがいいのだろうかと一瞬だけ考えたあと、結局有栖は力を抜いて、火村の肩へと頭を預けた。
耳に感じる息の音が心地よい。
「……もっと早くこうしときゃよかったな」
それは有栖に向けてではなく、自分に向けての言葉なのだろう。だから有栖も返事をせず、ただ、背中の体温を感じていた。
沈みきる前の夕日の光も届かない薄闇のその中で、ただ、その体温だけを。
やがてふと火村の手が緩まり、そっと抱擁が解かれた。その途端に寒気を感じ有栖は思わず小さく震えた。暖房を入れるのはまだ早い時期だが、心地よい気温にはほど遠い。思わず唸ってしまったのを聞いたのか、火村が小さく笑った。
「で、どうする、上がってくか?」
「今更だしな、そうさせてもらうよ」
極まり悪そうに笑う火村がなにか可愛く感じられ、次にそんな風に思った自分に対して有栖は笑ってしまう。
美味しいコーヒーを入れようと思った。ここ数ヶ月ほどご無沙汰だが、確か、粉もフィルタもまだ在庫があったはずだ。
まだ牛乳も足りるよな、あとなにかあっただろうか、と冷蔵庫の中身を空で確認し始めたとき、後ろで火村が小さく呟いた。
「そういえば、そもそもなんでだっけか」
「……さあ、忘れたわ、そんなん」
もうどうでもいいだろう、とばかりにことさら軽く返すと、そうだな、と火村が小さく頷いた。
「肉まんと豚まんや……」
そう思い出したようにささやいた有栖の声が聞こえたのか、火村が小さく身じろぎしながら「どうした?」と聞いてきた。
ベッドサイドのデジタル時計はもう夜半を指している。
喉が渇いた気もするが、今は布団から出たくない。シャワーを浴びるにしても、もう少し後でもいいはずだ。なにより久しぶりのこの倦怠感をもう少し味わっていたい。
火村もまた少しとろんとした目で、気だるげに有栖のことを見ている。
「いや、なんでもあらへん」
睦言を交わすためまだ湿っている火村の体を抱き寄せながら、ほんまにどうでもいいことやし、と有栖はそっと耳語した。