春の鳥歌
「おめでとうございます、江雪兄様。納まるところにようやく納まりましたね」
「……宗三」
江雪が振り返り、いつもより心なしか和やかな表情で瞳を緩めた。以前とは大違いである。前の結婚式のときは、壁に掛けられた能面のようだったのに。
先日、源氏の惣領が嫁として左文字に押しつけたともいえる娘を自分から引き揚げていった。何でもあの惣領が嫁に叱られたんだか弟に説得されたんだか何だかよくわからないが、とにかく他に想い人のいるところに別な娘を置いておくのはどちらにとってもいいことではないと納得したらしい。……というのは世間一般の言。実は宗三が源氏の、嫁の方に「兄には本当は想い人がいる」と垂れ込んだのである。結婚による幸せに関し思うところのある嫁御は、宗三の予想通り惣領を叱りつけたようだ。そうして、惣領は娘の今後のために源氏からの離縁という形にしてその娘を連れ帰って行った。しかし迎えに来た惣領が江雪に対し「ごめんね、迷惑かけて」と言ったのには流石の宗三も度肝を抜かざるを得なかった。
けれどそれから彼が車内にいるらしい誰かにむけて笑いかけたのを見て、なるほど彼もまた他者を愛して変わったのだなと、なんとなしに宗三は思った。
「まったく、大変でしたよ。曲がりなりにも嫁に来たあの女性に悪いとかなんとか抜かす兄様を説得してあの子と結婚させるのは」
「……それは」
「わかってます。彼女にはそれなりの謝罪と今後のことを僕も考えていますから。兄様は気にせず新婚旅行に行ってください」
「すみません……、ありがとうございます、宗三」
まあとにもかくにも、兄はやっと自分の幸せを掴んだのである。たとえ自分の祖母が屋敷に殴りこんできても囲として江雪の部屋にいてくれた少女も、これで晴れて江雪の妻になった。前妻に遠慮して式やら何やらはしなかった江雪だが、せっかくだから羽を伸ばすためにもせめて新婚旅行に行けと宗三がせっつき、今日から暫く屋敷は宗三だけになる。いつも優しく二人の兄に寄り添ってくれる末弟にも、この際だから楽しんできてもらいたかったのだ。
「やはり、おまえもくればよかったのではありませんか、宗三」
江雪が若干申し訳なさそうに言うので、宗三は首を振った。
「何言ってるんですか。三人揃って屋敷を空けるわけにはいかないでしょう? 兄様はそんなことお気になさらず、どうぞ奥方とお小夜と休んできてください」
「ですが……」
「あっ、でも仲がいいのは結構ですがいちゃつくのは小夜のいないところにしてくださいね」
軽口を叩けば、べしりと強めに殴られる。細腕に見えて江雪の拳は案外重く、それは結構な痛みとして響いたのだけれど……宗三はそれでも笑った。兄の鉄拳制裁をもらうのも久方ぶりのことだったからだ。
「戸締りはしっかりするのですよ」
「宗三様、厨にご飯の作り置きがあります。外で食べるのは最低限にしてくださいね」
「お土産買ってくるからね、兄様」
「はいはい、楽しんできてくださいね」
江雪と少女、それから小夜をそれぞれ送り出し、宗三は遠ざかる車を見つめた。うーんと伸びをしてみる。首を回せばこきこきと小さく音が鳴った。
「……遂に、僕一人になってしまいましたか」
ポツリと呟くが、当然ながら返事はない。
宗三が初恋に破れてから、友人の一人は妻を伴って欧州へ。別な友人は土下座をしてでも意中の女性を射止め、友と呼ぶには癪な長谷部もまた婚約者を追いかけて帝都を去り、そしてやっと兄の恋が実った。
宗三だけが、今一人ここにいる。
「まあ……気楽に過ごしますよ。そういう性分ですから」
これはこれで、宗三にとっては気に入っている生活なのだ。十分にいる優しい友人、それから二人の兄弟と、これからは兄の妻と、それにいずれは弟も恋人を迎えるだろうし。
……満足している。宗三が踏みしめた砂利は、思いのほか硬い音を立てた。
武家とはいえ、武士の世は遠くなった今、宗三は当主である江雪の手伝いの他に女学校で講師をしている。元々、左文字は仏門に密接な関係を持つ家。教養として仏道に関しては一通りの知識を得る。それを女学校で教えているのだ。
実のところ、宗三には他に稼ぐ伝など死ぬほどあった。何せ社交界の花形である。顔も広いし、女学校の講師だなんて酷く骨の折れる仕事をしなくともよかった。だがそれでも宗三がこの仕事を選んだのは、不純な動機がある。
「宗三ー!」
呼びかけに振り返れば、切りそろえられた髪と留袖の着物を揺らした少女が手を振りながらこちらへ駆けてくる。宗三は僅かに頬を緩めながら片手を挙げた。
「今日は授業の日だったんだね、宗三」
「はあ、あなた時間割も忘れたんですか? あなたの学級だってありますよ、僕の授業」
「えっ、そうだったっけ?」
相変わらずそそっかしいことだ。宗三が肩を竦めると同時におおらかな声が響く。
「おおい、奥や、忘れ物だ」
「あっ、三日月さん。ありがとうございます」
追いかけてきた黒い外套に軍服姿の美丈夫は、少女の夫である。三日月宗近、華族の名家である三条の次期当主だ。そして宗三にとっては、彼は恋敵でもある。
「やあ宗三、今日も奥を頼むぞ」
「またお見送りですか。まったく、律儀というかなんというか。あまりこの子を甘やかさないでくださいよ。そそっかしいのとお転婆なのは小さいころから治らなかったんですから」
宗三がそう言えば、三日月は穏やかな笑みを浮かべてぽんぽんと少女の肩を叩いた。結婚当初に離婚だの何だの騒ぎになって、一度は少女を実家に帰らせる羽目になったとは思えない仲の睦まじさだ。宗三は苦笑いする。
「はっはっは、だが奥を一人で登校させるわけにも行かんのでなあ。俺が心配でかなわん。では奥や、今日も一日健やかに学べ。俺も行ってくる」
「はい、行ってらっしゃいまし、三日月さん」
三日月を見送るため大きく手を振る少女のことを、宗三は目を細めて見つめた。
そう、宗三が数ある仕事の中から女学校の講師を選んだのは、少女がここに通っているからである。いずれ幼馴染のこの少女がここに通うことがわかっていたから、宗三は勤務先にこの女学校を選んだ。なぜなら、少女は宗三にとって初恋だったから。
今となっては、それは破れてしまった初恋だが。
「……ほら、そろそろ行かないと遅刻ですよ」
「ああ、いけない。じゃあ宗三、また授業でね」
ひらっと袖を翻し、ブーツを鳴らして少女は駆けてゆく。ふうと宗三は息を吐いた。つくづく損な役回りだ。三条の離婚騒動のとき、彼女に三条の家に戻るよう背中を押したのは他でもない宗三である。大好きだったから、自分のものにするよりも少女には一番に幸せになってほしいと思った。だから三条に戻るよう勧めた。まったく、自分がとことん不器用なのを痛感する。
だが同時に、今笑顔で走って行った少女を見て、宗三は満足しているのだ。あまりにお人よしが過ぎるのはわかっている。けれどそれでも、宗三はこれでよかったと心から思っていた。
ひゅうと吹いた風が宗三の緩やかな髪を煽っていった。まだ少し冷たい風だ。もう雪が降ることはないが、まだ春は遠いか。
宗三がそんな感傷に浸っていると、突然、目の前が真っ白になった。
「ぶっ」
「あっ! 先生、失礼しました!」
何事かと宗三が顔面に手をやれば、それは白い紙だった。それから開けた視界のうちに、長いお下げ髪と桜色の振袖が入る。
「申し訳ありません先生、綴じていた帳面が、解れてしまって」
「……平気ですよ、はい」
やや鈍くさそうな様子のその女学生は、宗三が手渡した紙を受け取ると一礼して再び慌しく駆けていった。ひょこひょこと猫の尾のようにお下げが跳ねる。ああそうか、彼女も遅刻しかけているのだなとぼんやり宗三は思った。だが数歩走ったところでブーツの踵を石か何かに引っ掛け、突然つんのめる。あっと宗三が思ったときには彼女はバランスを崩し、転びそうになったが何とか踏みとどまった。それに宗三もほっと息を吐く。
覚えのあるそそっかしさだ。くすりと宗三は笑う。違うのは、あの長いお下げ髪くらいか。そこまで考えて、はああと空を仰いだ。
「……女々しいですよ宗三左文字」
「初恋」というものはものすごい力を持っていて、未だに宗三を縛っている。今でもこうしてたまに、思い出してしまうのだ。こればかりは、時間が経つのに任せるしかないのだろう。
まだ冷たい風に首を竦めながら、宗三は校舎へと歩く。気楽にやると自分に言い聞かせるのは何度目だろうか。
それは宗三がその日の午前の授業を滞りなく終え、さて今日もあと少しと教室を出たときだった。
「何度言えば分かるのですか!」
ヒステリックな女教師の声が廊下中に響いていた。キィンと耳が痛むような気さえして、宗三はそちらを見る。いかにも女学校の教師と言った風貌の女性が、どうやら生徒の一人をこっぴどく叱っているようだ。
「評定で丁を取るのは何度目ですか! 課題や実習もそっちのけ、そんなことでは卒業などできません! ほぼほぼ丁評価なのですよ! この間のお裁縫の宿題はどうなったのです!」
それを聞いて思わず宗三は吹き出しそうになった。ほぼ丁評価! 女学校は四段階で成績を付けるのだが、丁と言えば一番下である。とんだ成績だ。落第すれすれではないか。むしろよくそんな評価とれたものだ。狙ったってとれるものではない。
やれどこの生徒がそんな評価を取った。興味本位で、宗三はそちらを覗き込む。すると見覚えのあるお下げ髪が揺れた。
「……申し訳ありません、先生」
おや、あれは。
女教師の前でしゅんと頭を垂れているのはいつぞやのお下げの学生だった。叱り飛ばされている間、眉をさげているその顔を見て、宗三は首を傾げる。あの学生は、確か自分の講義を取っていたはずだ。
キンキンとする怒鳴り声が聞くに堪えなくなってきたのもあって、宗三はそちらに足を進めた。そろそろいいだろう。すっと女教師の横に立ち、宗三はお下げ頭に向かって口を開いた。
「少し失礼しますよ。あなた、六道のそれぞれの名と概要を説明してごらんなさい」
「え……?」
「なんですか宗三先生」
「いいですから、答えてごらんなさい」
女教師のほうは突然現れた宗三にぎょっとし、女生徒は顔を上げたものの戸惑っている様子だった。だが宗三は女教師のほうは無視し、彼女のほうに回答を促す。彼女は視線をいくらか迷わせたが、詰まることなくすらすらと宗三が先日の講義で説明した事柄を述べた。
「……以上を持って五趣六道と定義します」
「よろしい、完璧です」
「……そんな」
あまりに彼女がしっかりと答えたものだから、女教師のほうは面食らったらしく口を押えている。くすくすと笑って、宗三は教師のほうにやや体を傾けた。
「ねえ先生、彼女、僕の講義はきちんと聞いていますよ。丁評価は得手不得手、ってものではないんですか?」
「む、ですが、しかし……」
「ああ、そう言えば苦手な分の教科を見て差し上げる約束をしていましたね。ね、先生、それでいいでしょう? さあ行きますよ」
「えっ、あの、えっと、はい!」
宗三が踵を返すと、あたふたとお下げを揺らし彼女は宗三のあとを付き従った。さてこれでどこか適当なところに連れて行けば問題ない。カツカツと靴音を響かせて、宗三はとりあえず裏庭まで歩いた。
「さて、ここまでくればいいでしょう」
「あ、あの、先生、ありがとうございました」
ぺこりと彼女が頭を下げる。助けられたという自覚はあったらしい。ふうと息を吐いて宗三は首を振った。
「別に構いませんよ。僕はあなたが答えられる質問をあの場でしたに過ぎませんから」
そう、宗三は彼女が宗三の問いに答えられると分かっていたのである。他の教科に関してはさっぱりわからないが、少なくとも彼女は宗三の今日の授業を大変真面目に受講していた。板書はきちんと写し取っていたようだし、それ以外にも宗三の話を書き留めているのを何度か見た。だから、あの程度の問いであれば問題なく答えられると分かっていたのだ。
「まあ、低評価の学生を叱るのはあの教師にとっても仕事みたいなもんです。あなたもこれに懲りたら、多少は努力した方がいいのでは?」
「……はい」
彼女は眉をさげて返事をした。その手にぎゅっと握りしめられている参考書や帳面の類は随分使いこまれていて、端が擦り切れたりなんだりしている。普段からきちんと勉強している生徒の学習道具だ。それが丁評価、ねえ。宗三はやや考えたのち、さっさとその場を去るのはやめて再び彼女に聞いた。
「……ちなみに、何が悪かったんです」
「えっ……えっと、その」
「成績表、持っているなら見せなさい」
少なくとも自分は、あそこまできちんと授業を受けている生徒に丁評価などつけていないはず。宗三はふらふらと地に足がついていないように見えて、これでも職務に対しては真面目な方だった。それに、あまり認めたくはないが下に弟がいる分面倒見もいい。
彼女は「うっ」と詰まり、いくらか逡巡した。しかし宗三が引く様子がないため、結局諦めて帳面の間から成績表を取り出す。ペラリとしたそれを受けとり、宗三は目を通した。
「……ふ」
「あ、あの」
「あっははは! 何ですかこれは!」
丁、丁、丁! 丁の字のオンパレードだ。冗談かと思ったが、ほぼ丁評価という女教師の言に嘘は一つもなかったと言うことになる。こんなのは見たことがない。悪いとは思いつつも、宗三は大爆笑していた。それに、よく見ればこの学生、最高学年ではないか。
「こ、これは怒られたって仕方がないですよ。あなたこれじゃ、卒業危ないんじゃないですか?」
「はい……その通りです」
笑えるくらい酷い成績だ。これでは卒業するための単位が危ない。宗三の指摘に、彼女は気まずそうに頷いた。裁縫、料理、行儀作法まで。女学校の主だった教科の殆どが色々とギリギリである。案の定、宗三の講義はきちんとした成績が取れているようだが仏道を学んだところで女学校が卒業できるわけではない。
これは項垂れるのも仕方がないかもしれませんね、と宗三は彼女を見た。長いお下げ髪がしゅんと落ちている。彼女の名字は、宗三も江雪の付き添いの際に耳にしたことがある。この女学校に通えている時点で、ある程度の家庭で育ったことは察することができるが、彼女の家はその中でもそれなりだ。娘の成績がこれでは、家で随分絞られているだろう。
ふむ、と宗三は成績表を見下ろした。それから頭の中で概算する。この教科の内どれだけの単位を確保すれば、卒業できるか考えたのだ。
最高学年ともなれば、順当に行くとこの春卒業。だが家柄の関係上女学校も彼女の家も、彼女を留年させることなどすまい。ともすれば何かしらの試験か課題でも課されて不足単位を補充し、無理にでも卒業させると見た。ならまあ、安心して試験の合格をもぎ取れるだろう科目を絞るべきだ。
「そうですねえ……英語、それから修身をなんとかするために裁縫を課題にしてもらって……あとは学術科目に加算ということで目を瞑ってもらいましょう」
「何をですか?」
「決まってるじゃないですか、あなたの卒業単位ですよ」
にっと宗三は笑った。長兄が留守の間、いい暇つぶしだ。それに気晴らしにもなる。
「僕が、学校側に掛け合ってあげますよ。あなたの卒業単位の補填」
「ほっ、本当ですか?」
「ええ、責任もって僕があなたを卒業させてあげましょう」
こんな酷い成績を見てしまった手前、放っておくわけにもいくまい。それに、しゅんと垂れたお下げ髪が気にならないわけでもない。繰り返すようだが、宗三はこれで結構面倒見がいいのだ。
「その代わり、僕は厳しいですよ。ちゃんとついてこられますか?」
「っはい! よろしくお願いします!」
勢いよく頭を下げた拍子に、またお下げ髪が跳ねた。くすくすと宗三は笑う。
本当に、覚えのある元気のよさだ。
家は、そこそこな身分のお嬢様。長いお下げ髪や普段着ている質のいい振袖も、きっと彼女の両親がきちんと用意し手入れをしているものなのだろう。典型的な、良家のお嬢様だ。ここまで純粋培養で育ち、そして女学校を卒業した後はそれなりの家に輿入れをし、当たり障りなく、不自由のない生活をするだろう。彼女は一見してそういう少女だった。
ただ一つ他と違うところがあるとすれば、普通のお嬢様ができることが彼女は一切できないという点である。
「どこをどうやればこうなるのか……良ければ教えていただけませんか?」
「す、すみません……」
よれっよれの布を手に、宗三は呆れて呟く。いや、まあ宗三とて家事に明るいわけではないのだけれど。何せ左文字の家の家事は今までばあやが取り仕切っていたし、そのあとは江雪の妻になった娘だ。自分で洋服やら何やらを繕ったことはなく、料理だってできなくはないという程度の知識しかない。
それでも、彼女のそういった能力が驚くほど低いことはわかった。というか低い以外に何と言えばいい。ああ、丁評価か……。宗三は自問自答し、一人で納得した。口に出したら流石に彼女も落ち込むだろう。
だが女学校なんていうのは、所詮良妻賢母を育てるのが主目的の学舎。学問の成績がほどほどでも、そんなものはあまり評価されず、代わりに裁縫や料理が出来なければ卒業が危うくなる場所なのだ。
「まあ、裁縫は課題で済ませられますから……気長になんとか考えましょう。じゃあ英語から始めますかね」
「はい! よろしくお願いします!」
宗三とて、毎日女学校に来ているわけではない。授業のない日をきちんと作っておいて、江雪の手伝いをしているのだ。だがそれでも週の半分程度は学校へ来ているのだから、そうして登校しているときに自分が彼女の勉強を見るようにする。そうして春前の試験を合格できたら、その分を卒業単位として補填してやってほしい。
女学校に宗三が掛け合ったのはそんな条件だった。幸い、彼女を卒業させたい学校と利害は一致している。だから若干めちゃくちゃに思える補填条件を、女学校は案外あっさり呑んでくれた。宗三もなんだかんだ学校としてそれはどうなんだと思わないでもないが、今は好都合。とりあえずはそれで手を打った。
そういうわけで、今宗三は彼女の勉強を見ているのだ。
「学校に啖呵を切って成果なしじゃあ、僕も決まりが悪いですからね。あなたにはしっかり勉強してもらって、余裕の合格を取ってもらいますよ」
「わ、わかってます。任せてください!」
きゅっと唇を引き絞り、彼女は鉛筆を取った。それからとりあえずはと渡した問題集に取り掛かる。気合は十分のようだ。
勉強場所には図書室を選んだ。ここでなら、必要な本は揃っているし、変に移動する必要もない。それに、宗三も彼女が問題を解く間暇つぶしができる。……と、思っていたのだが。
「あなた解くの早すぎやしませんか」
宗三がそう言ってしまう程度には、彼女が問題を解く速度は早かった。それも、正答率はなかなかに高い。
「なんだ……英語はそう苦手じゃなかったんですね」
「あ……はい、実は」
確かに、彼女のあの酷い成績表の内、学術科目は「丁」を免れていた。だから宗三はそこで加点を更に稼ぐことで他のだめだめな裁縫だのなんだのをカバーするつもりでいたのだが、これは勉強面でそう悩む必要がない程度には、解けている。
「勉強、好きなんですか?」
丸を付けながら宗三が何気なく聞くと、彼女はパッと顔を輝かせた。
「はいっ! とても!」
「ふうん。はい、これ一問だけ間違ってました」
「え? どこですか?」
自慢じゃないが、宗三は一応帝大まで出ているし、それまでも一定以上のレベルの学校を出てきた。勉強は苦手ではない。女学校程度の英語やら何やらなら何も見ずに解けてしまう。だから宗三がつらつらと彼女が訳を間違えた英文の正しい訳と文法を説明すれば、彼女は瞳をキラキラとさせて手元にあった帳面にそれを書き留めた。シャッと勢いよく走り書いた英単語は、美しい筆記体である。
「おや、あなた筆記体なんて書けるんですか」
「はい、本で見て覚えました」
「へえ……」
どうも、彼女は女学生には珍しく学習意欲が旺盛らしい。いや、宗三のあの幼馴染もかなり好奇心旺盛な方で、左文字の兄弟は彼女に引っ張られあっちやこっちに連れまわされたりもしたのだけれど。この女学生の興味は「学問」に特化しているようにも思える。
「宗三先生は、どちらで英語のお勉強を?」
「あ……いえ、僕は腐っても帝大卒ですから。それに、今欧州に遊学に行っている友人もおりまして。珍しい書物は彼が」
「まあ、欧州! 羨ましい、花の巴里や霧の倫敦。私は本でしか、知らないのですが。きっとどんなにか美しいところなんでしょうね」
おやおやと宗三は笑う。卒業がどうのこうのだとか、裁縫の話をしているときは鬱々としていた表情が、今は楽しげに輝いている。瞳を煌めかせ、頬を紅潮させながら本で読んだらしい欧州への憧れを彼女は饒舌に語り始めた。
「なんでも巴里には美しい建物が多いと聞きます。べるさいゆ、という宮殿もあるのでしょう? 物語で読みました! それから、倫敦には大きな川が流れて、橋が掛かって」
まるで、万華鏡だ。くるくると表情を変え、光り、視界を彩る万華鏡。頼みもしないのに、彼女はつらつらと話す。読んだ本のこと、かつて見た写真のこと。あまり深くは教わらなかったのだけれど、授業で聞いた世界史にも興味があること。
ああ、暖かいな。ぼんやり宗三は思った。まだ春は遠いのだけれど、図書室独特の、本の甘い香りがして。明るい声がして。高い位置にある窓から、光が差し込んでくる。久方ぶりに、とても暖かい心地がする。
「……随分、本を読むのですね」
宗三がそう呟けば、彼女はハッとして黙った。口を押え、僅かに耳を染めながら肩を竦める。
「……すみません、つい。はしたないですよね」
「いいえ、面白かったですよ」
くすくすと宗三が笑うのを見て、彼女は罰が悪そうにする。先程の勢いはどこへやら、粛々と問題の直しを始めたので、宗三はやや焦ってフォローした。
「あ、いえ、そういう意味で言ったのではないんです。……僕の身近にも、あなたのように好奇心旺盛で、楽しげに話す子がいたものですから。少し懐かしくなっただけで」
あの子も、本が好きで、色んなことに興味を持つ女の子だった。商家に生まれた彼女の家は舶来のものが多くあり、海の向こうから来た絵本を見ては瞳を輝かせ、外国の写真を見ては喜び……そういう子だった。そして彼女の親も、それを喜ぶ親だった。
だがそれを聞いた少女はお下げ髪を揺らし、顔を上げて不安げな声で宗三に尋ねる。
「あの、その子は」
「え?」
「その子は、どう、なりましたか」
すっと胸の奥が冷えたような心地がした。宗三は逡巡し、一度唇を噛んでから答える。
「……結婚しました。少し前に」
「……結婚」
ぽつりと彼女は呟く。図書館が静かで、先程まで嬉しそうに話していた分だけ、彼女の呟きはゆっくりと地面まで沈んでいった。
「でもまあ、幸せそうにやっています」
宗三はすぐにそう続ける。だがそれは半分以上自分に言い聞かせていると宗三は気付いていた。
「旦那様が勉強をするのを続けてもいいと言ってくれてましたし。それなりに悠々自適に暮らしているようですよ。ええ、幸せそうです」
そうでないと、宗三が困る。
そうでなければ、あの日背中を押した意味がない。
だから、あれでいい。あれでよかったのだ。
宗三はそう自己完結したのだが、彼女はまだ神妙な表情のまま自分の勉強道具を見つめていた。
「……女の子は」
「え?」
彼女の言葉は酷く小さなもので、宗三には聞き取れなかった。だから聞きなおしたのだけれど、彼女は今度は笑って首を振る。長いお下げ髪が柳のようにゆらゆらとした。
「いえ、なんでもありません。それより、その子、随分先生と親しい子だったんですね?」
まさかの返しをされ、宗三は思わず黙りこくってしまった。だがそれを肯定と受け取ったらしい彼女は若干悪戯っぽい笑みでにまにまとする。
「ふふ、女学校内でも人気の宗三先生にもそんな子がいるんですね」
「やっ、やめなさい大人をからかうのは!」
矛先が自分に向くだなんて全く考えていなかった宗三は、受け身も取れずに動揺する。しまった、と思ったときにはもう遅い。くすくすと彼女は笑っている。宗三はああ面倒くさいことがばれたと臍を噛んだ。
「初恋の君って方でしょうか? いいですねえ、まるで物語みたい」
「……あんまり言いふらすと、怒りますよ。あなたの成績表ほどは愉快な話じゃないですし?」
「ああっ、それを言いますか?」
むっと彼女が膨れる。今度は宗三がにやにや笑いをする番だった。ほぼ「丁」の通知表なんて早々お目に掛かれるものではない。
「いやあ、掲示板に貼りだしたいくらい潔い成績でしたねえ。丁、丁、丁! ああ、もしや僕の知らぬ間にこの学校の評価基準は変わったんでしょうか? 丁が乙程度の基準になったとか?」
「あーっ、ああもうやめてください、わかってても結構来るんですよあの評価!」
ひとしきりそんな他愛のないやり取りをしたのち、二人はどちらともなく笑い出した。図書室にいるものだから、大声ではなかったけれど。くすくす、くすくすと絶えることなく。最後には堪えるのも辛くなって、肩を震わせて。
「はあ、話が逸れました。勉強に戻りますよ」
「ふ、ふふ、はーい」
カリカリと再び彼女が問題集に取り組み始める。先程よりももっと、軽快な調子でそれらは解かれていった。宗三はふうと息を吐いたのち、高い位置にある図書室の窓を見上げる。
学校なんていうのは、まるで檻のような作りだ。それが本当はあまり、宗三は好きではないのだけれど……。
「……取り残されるのも、たまには悪くないですね」
ぽつりと、呟いた。
宗三とその女学生の勉強は、特に滞りなく進んだ。何せ彼女は物覚えが早い。裁縫は相変わらずてんでダメだったが、それ以外は恐らく完璧な点を取って及第するだろうなという程度まで問題なく到達した。
だから、ちょっとしたご褒美のつもりだったのである。宗三がその本を学校に持ってきたのは。
「わあ、わあ……!」
「大声を出さない。ここは図書室ですよ」
「す、すみません、でも、わあ、素敵……!」
それは、現在欧州に遊学中の青江が宗三に送ってきた写真集だった。それには「宗三君、そういうの好きだったよね。あげるよ」なんて手紙がついていたが、残念ながら本が好きだったのは宗三ではなく宗三の初恋の少女である。だからなんとなしに開くことが出来なくて、部屋に仕舞い込んだままにしていたのだけれど、いい機会だと思ったのだ。
「あ、これがべるさいゆなんですね! とても綺麗……セピア色なのが惜しいくらいです」
「ふふ、そこは我慢なさい。仕方ないです」
「でも、本当はどんな色なんでしょう……! きっと壁は白くて、この辺りの生け垣は青々としていて……とても、素敵、ありがとうございます、先生!」
指で写真を撫でながら彼女が顔を輝かせるのを見つめ、宗三も唇を緩めて頬杖を突いた。自分ではなんとなく開けなかった本だが、こんなに喜んでもらえたのならば良かった。青江に葉書でも送っておこう。そんな風に思いながら、宗三はなんとなしに口を開く。
「そんなに見たいなら行ってみればいいじゃないですか、今なら船もあることですし」
「え……」
その瞬間、彼女の顔が凍りついた。指先がピクリと震え、視線が下がる。
何かまずいことを言っただろうかと宗三は体を起こした。
「……行けばいいでしょう? 欧州なんて、今じゃ時間はかかっても行けないわけじゃないんですから」
それに、彼女の家ならば欧州に一度渡航するくらいの金銭は用意できるはず。そうじゃないのか。
だが彼女は唇を真一文字に引き絞ると、ゆっくりと首を振った。それから眉を下げて、それでも口には笑みを浮かべて答える。
「……行けません」
「何故です?」
「私は、女の子ですから」
写真集の重たい表紙を持ち上げ、彼女はぱたんとそれを閉じた。それからすっと宗三のほうに写真集を押し返す。
「ありがとうございます、先生。とても、面白かったです、この本。すみません、私今日は用があったんでした。帰ります」
「……待ちなさい、女の子だからって、どういう意味ですか」
席を立ちかけた彼女を呼びとめる。彼女は逡巡したようだったが、最後には諦めたように答えた。
「……どれだけ勉強しても、私はここから先には行けません」
「ここから先、って」
「女の子に、これ以上の学は要らないんです」
ハッと、宗三は息を呑んだ。
……忘れていた。自分が、男だから。そして、一番身近にいた「女の子」がその好奇心や意欲を後押しされる家に育っていたから。
女学校の主たる教育は、良き妻であり母となる女性を育てることを目的としている。子を産み、子を育て、家庭を支える。それがこの時代の女性のすべきこと。職業婦人が増えてきたと言っても、それはまだ主流ではない。女性は、いい家に嫁ぎ、そのうちうちで生きていくことが当たり前の世の中なのだ。
そこで、宗三はやっと気が付いた。彼女が、学習意欲が高く、呑み込みの早い彼女が、何故ほぼ「丁」なんて成績を取っているのか。
「……あなた、ここを卒業したく、なかったんですね」
俯き、ぎゅっと拳を握ると彼女はお下げ髪を翻しばっと駆け出す。宗三は慌ててそれを追いかけた。
「待っ、待ちなさい!」
カツカツカツと、彼女の履くブーツの音が響く。それを追いかける宗三の革靴の音も、板張りの廊下には反響する。すれ違う生徒が何事かと二人を振り返った。
裁縫、修身、料理。女学校の教育の主たるもの。それは良家に嫁ぐための教育、ここを卒業したら、待っているのは結婚というのがここの生徒の大多数である。それなりの家庭に育った彼女のこと、きっと両親は縁談を用意していたはず。だが彼女は成績が良くない。卒業まで怪しい有様だ。ともなれば、嫁の貰い手を探すのは至難の技だろう。
けれどきっと、彼女の狙いはそれだった。
「お待ちなさい!」
一気に裏庭まで駆け抜けて、やっと追いついた。彼女の手首を掴み、無理矢理止まらせる。頬を季節外れの汗が伝う。まだ寒い外では、宗三と彼女の吐く荒い息は白く濁った。
「……ごめんなさい、先生。先生が、せっかく学校に話をつけてくれたのに。勉強も、教えてくれたのに」
「……」
「最初は、ちゃんと卒業する気だったんです。だって、お父様もお母様も、私の成績を見てとても悲しい顔をしたから。私、やっぱり、このままじゃダメだって」
片手を掴まれているため、彼女は空いている方の手で顔を押える。宗三は息を整えながら、その様子を見つめた。
「でも……っでも、だめだったんです! 先生に勉強を教わったら、もっともっとって、思って! 本当は、もっと勉強したい! 色んなものを自分の目で見たい! でも、できないんです、私は、ここから先には行けない! 怒られて、しまうから……っ! お父様やお母様に悲しい顔をさせたくない! だから、本も家では読めないんです。勉強も、だめなんです。だから私、卒業したくなかった、ここでなら、怒られない、勉強しても、だから」
最後の叫びは、嗚咽になって消えた。
宗三は呆然としてその姿を見つめる。
気づかなかったといえば、嘘になる。宗三はこの娘に、初恋の女の子を重ねていたのだ。天真爛漫さに、好奇心の旺盛さに。それから、外へ外へと飛び出していこうとする、力に。けれど、決定的に違うところがあることに、今気がついてしまった。
彼女は、最初から諦めていたのだ。飛び出そうともがきながら、それは無理だと知っていた。学びたいとあがきながら、できないとわかっていた。一人で三条の家に立ち向かっていったあの子のような強さは、この子にはない。
この子は強くない、それを宗三はわかっていたけれど。
ぐっと奥歯をかみ締めて、宗三は口を開いた。
「……それでも、あなたは、卒業なさい」
ああまた、自分は繰り返すのだなと宗三は思った。
涙を零し続ける瞳が、こちらを見つめている。宗三は掴んでいた手首を離し、彼女の頬に張り付いていた髪を耳にかけた。
「したいことは、自分の手で、掴み取りなさい。あなたには幸い、才がある。きっと学べば、結果を出せる」
「で、でも、私、女で」
「だからなんだというんですか? 職業婦人を見たこともないと? 奨学金、働きながら、それこそ学ぶ手立ては山ほどある。それをしないのは、単純にあなたが臆病だからです」
びしょびしょの両頬を手で挟み、宗三は彼女と自分の視線を合わせる。
「こんな狭い場所で、満足するつもりですか。あなたのいるべき場所はこんなところじゃない。図書室だって、大学のほうがもっと広いんですよ。自分で使いたいとは思わないんですか」
「大学の、図書館」
「そうでしょう? だったら家に勘当されてでも自分の意思に噛り付きなさい。そのためにもまず、ここを卒業するんです!」
歯を食いしばって、嗚咽を上げるのをこらえながら、彼女は宗三を見つめていた。
この子は、弱い。あの初恋の少女に会った強さは、きっと持ち得ない。それでも、この学校の中に取り残させるわけにはいかない。何が何でも、宗三はここから彼女を押し出してやりたいのだ。
万華鏡の瞳、くるくるとよく変わる表情。宗三の話を事細かに聞いて、まだ見ぬ世界に焦がれていた少女。そのひたむきさが、羨ましかった。眩しかった。
そう、いつの間にか彼女は、宗三にとって眩しい女の子になっていたのだ。
「でも、こ、わい……っ」
ぼろ、ぼろとしゃくりあげるのは堪えていたが、彼女は呟く。
「がんばれるか、自信が、ないんです……っ、私には、何もない、から」
ああ、この子は。宗三はどうしようもなく、彼女を抱きしめてやりたかった。広い世界を知りたいといいながら、この子は外に出るのが怖いのだ。知らない世界に焦がれているだけ、ただそれに触れるのが怖い。
でも、今この子を甘やかしては、きっと二度と立ち上がれなくなる。だから、だめだ。抱きしめてはやれない。
宗三はキッと視線に力をこめた。
「それでも、試験は死んでも合格しなさい」
「……っ」
「自分の手で、遠くに行きなさい。わざと悪い点を取るなんて小賢しい方法ではない、あなた自身の力で、行くんです。それがあなたの自信になる。そうして目標を見つけて、一心不乱に勉強なさい。前を向きなさい!」
かつて、宗三は一人の女の子に恋をした。
幼い頃に、妾の子だからと冷たく当たられ、鬱屈していたときに連れてこられた商家の娘。その子は宗三に笑って言った。
「宗三は一等綺麗だから、大丈夫。ね、だから笑って」
きっと、最初の気持ちは憧れだったのだ。あの笑顔が、綺麗だったから憧れた。自分を見つけてくれた、綺麗だといってくれた。それが途方もなく嬉しくて。
今は、その輝かしい気持ちをこの少女にも与えたい。
何かひとつでも、心の道しるべにできる言葉があれば、思い出があれば。宗三のように進んでいける。夢や恋に破れても、きっと前を向ける。
泣きながらでも立ち上がる力を、彼女に与えたかった。例えそれで、宗三がもう二度と届かない場所に行ってしまったとしても。
「……あなたには、その力がある。強い気持ちがある。だから、ここから出て行きなさい、笑って。広い世界があなたを待っている」
唇を噛み締めて、彼女は宗三の瞳を見つめていた。彼女を抱きしめてはやれない宗三は、ただ上着のポケットからハンカチーフを出して彼女に渡し、その場を去った。
「宗三」
静かな声が聞こえて、宗三は顔を上げた。縁側に座っていた宗三の隣に、ゆったりと江雪が正座する。それから宗三に暖かな肩掛けを羽織らせた。日もすっかり落ちてしまった夜の庭は、流石に冷える。
「荷解きは終わったんですか?」
「ええ……久方ぶりに、ゆっくりと休めました。留守をありがとうございます」
「それはよかった。おかえりなさい、兄様」
新婚旅行に行っていた江雪と妻、それから小夜が戻ってきた。ゆっくりできたという言のとおり、隣に座る兄の表情はいつもより緩んでいる気がする。それににやりと笑いながら、宗三は兄の方を小突いた。
「その様子だと奥様といいことがあったようですね? やはりお小夜は残しておけばよかったでしょうか。お邪魔だったのでは?」
「……やめなさい、はしたない」
すこんと手刀が頭の天辺に落とされる。だがきっと、そうなのだろう。宗三はふふと笑って、再び家の庭に目をやる。武家屋敷の左文字邸には程よい広さの庭があった。幼いころは兄弟でよく、遊んだものだ。
「私の留守中、変わりはありませんでしたか」
「ええ、何も。滞りなく」
「仕事だけではありません、お前のことも含めてですよ」
「ありませんよ」
宗三はさらりとそう言ったつもりだったが、江雪はじっとこちらを見た後居住まいを正し体ごと宗三のほうを向いた。それからゆっくりと、再び問いただす。
「兄に嘘はいけませんよ宗三」
「……嘘なんか」
「お前は昔から素直でないのがいけません」
細い腕が伸びてきて、宗三の体を包む。それから半ば無理矢理に江雪は宗三を抱き締めた。宗三よりほんの少しだけ背が低く、腕も体もほっそりとした兄だけれど、力だけは宗三よりずっと強い。宗三の抵抗もむなしく、江雪はすっぽりと腕の中に宗三を収めた。
「なっ、何ですか、恥ずかしいですよ、こんな年になって」
「兄が弟を抱きしめるのです、何がおかしいのですか。これもまた和睦……」
「いや、そういう話じゃ」
「何を落ち込んでいるのですか」
穏やかな声音で、江雪は宗三に問いかけ頭を撫でる。宗三は反論しようとしたのだが、諦めて目を閉じた。
「……江雪兄様」
「はい、なんですか、宗三」
「……僕、未だに少しだけ後悔しているんです、本当は」
あの日、あの初恋の少女が泣いたとき。旦那様の元へ戻りなさいと、彼女の背中を押したこと。
本当は、もういいと言ってやりたかった。慣れない華族の家で、あなたは十分頑張った。だからもう家に帰ってくればいい。行き場がないなら僕のところに来ればいい。左文字でなら、きっとあなたはうまくやっていける。必ず大切にしますから、と。
初恋を手にする千載一遇のチャンスだった。少女がお嫁に行ったとき、一度は諦めたのだ。取り戻すなら今しかない。それは、痛いほどわかっていた。
けれど、宗三には、それはできなかった。
好きだったのだ。大好きだったのだ。その子のことが、とても好きだった。だから、笑っていてほしかった。泣きながら自分のところに連れてくるより、背中を押して、あと少し踏ん張れと暖かい場所から押し出して、そうしてもう一度笑ってほしかった。
そうして今、あの子は笑って三日月の隣にいるのだけれど。
「ねえ、女々しいって、笑ってください、兄様。それでもね、今でもたまにあの子の面影を探してしまうんですよ」
初恋って、呪いみたいだよねえと笑ったのは青江だった。まあ、彼の場合は自分の初恋の相手がこれまた初恋を忘れられないなんてがんじがらめの状況だったのだけれど。けれど青江はそれでも、青江の優しさは真っ直ぐと相手に届いた。
恋のために土下座したのは、歌仙だった。兼定の当主であることも、愛する風雅も何もかも投げ打って、たった一人の女性のために自尊心の高い歌仙が額を地面につけた。それでも君に傍にいてほしいと、ただひたむきに。
今まで生きがいにしていた職や地位を放り捨て、愛する人を追いかけたのは長谷部だった。気に食わない、いけ好かない男だったけれど。長谷部もまた、自らの恋に殉じて帝都を去った。
そして、今自分を抱きしめている兄も、かつて今は妻である少女に縋ったのだ。「他に何もいらない、あなただけでいい」と。
羨ましくなったのかもしれない。次々と様々な恋の行く末を見て。それによって変わった人たちを見て。だから、あのお下げ髪の女学生に初恋を重ねたのだ。最初は、そのつもりだった。
でも、二人で勉強していた日々が楽しかったのも、事実なのだ。憧れる異国の地に着いて語る表情を見るのも、生き生きと学ぶ横顔を見ているのも。あの猫の尾のようなお下げ髪を揺らし、「先生」と図書室に彼女が来るのを、本当はいつも楽しみに待っていた。
あの子はいつの間にか、思い出の少女ではない、ただ一人の女の子に変わっていたのだ。
「でも、結局また同じことしちゃいました」
空笑いを重ねる。
また、宗三は背中を押す側に回ってしまった。あの時彼女に言った言葉が、間違っていたとは思わない。彼女は卒業するべきだ。もっと広い世界を知るべきだ……けれど。
幸せになって、と言うのは簡単だ。けれど行動に移すのはとても難しい。
だって本当は、宗三だって幸せになりたい。一緒に笑えたら、そのほうが嬉しい。
「……大丈夫ですよ」
ゆっくりと、江雪が宗三のふわふわとした髪を撫でる。それから顔を上げて、なにやらどこかに向けて手招きをした。すると何か小さく暖かいものが突然、宗三の腰の辺りにしがみついてきた。ぎょっとしてそちらを見れば、末弟がそこに抱きついている。
「……お小夜」
「宗三、あなたはとても優しい。ただ、素直でないだけです。そうでしょう、お小夜」
「うん、そうだよ。宗三兄様は、もう少し欲張ったっていいんだ」
上からは江雪に、下は小夜に抱きしめられた宗三はただじっと二人の言葉を聞く。縁側はまだひんやりとして肌寒かったはずなのに、いつの間にか宗三の指先はすっかり体温が戻ってきていた。
「幸せになって、宗三兄様」
「あなたにはその力があるのです、宗三。誰かの幸せを願った分だけ、あなたが幸せになる力が」
じわりと庭の風景が滲みかけて、宗三は慌てて目を閉じた。涙が滲んでいないかと確認したかったのだが、手は二人の兄弟に握られていて動かせない。
「……今日は暖かいですね」
やっと宗三がそう呟けば、上からも下からも微かな笑い声が聞こえてくる。
「ええ、もうすぐ、春が来ますから」
「うん……春が、来るんだよ」
ずっと、この狭い檻の中で彼女は夢を見ていた。そのくらい、ここは心地のいい場所だった。ここから先に行けない彼女にとって。
鉛筆を握り、彼女は英文を綴っている。この試験に受かれば、卒業が決まる。科目は英語。元々、英語は苦手ではない。わざとスレスレの成績を取っていただけで。
そしてそれが現実逃避だと、彼女は気がついていた。
この学校に通っている間だけは、彼女には仮初の自由がある。好きな本を読む自由、好きなことを学ぶ自由。けれど、それは卒業とともに終わる。それが、とても嫌だった。けれど成績表を見るたびに優しい両親が悲しそうな顔をするのを見るのも忍びなくて、腹を括ったつもりだったのだ。諦めて、卒業しよう。家庭に入ることも悪いことばかりではないかもしれない。そう自分に言い聞かせた。
だが、思わぬところで思わぬ人に拾われてしまった。
「宗三左文字、といいます」
仏教の授業の講師だった、その人。初めて見た印象は、まるで先生に見えない、というものだった。
春色の髪に、淡い色のスーツ。一見して軽薄そうな容姿。だが華やかで、目を引く美しい人。案の定彼は女学校の中でも人気の講師だと、彼女はすぐに知った。
こんな人が、本当に授業をできるのだろうか。そんな風に彼女は訝しんでいたのだが、それは杞憂に終わった。宗三の授業はきちんとした知識の元にある。わかりやすく、その上で面白い。手芸や料理に興味のなかった彼女にとって、教養であるその講義はとても楽しいものだった。新しく広がる世界が楽しくて、彼女は熱心にその話を聞いた。だから、あの日、宗三の質問に答えられないはずがなかったのだ。
夢を諦めようとしていたところに、憧れの先生からの個人授業。拷問か何かかと初めは思った。こんなの、捨て切れるはずがない。間近で知識の煌めきを、世界の広がりを感じて、苦しくないはずがない。けれどやっぱり学ぶのは楽しくて、宗三と勉強する時間がずっと続けばいいと思った。
「それでもあなたは、卒業なさい」
遠くに行けと、あの人は言った。最初から諦めるな、自分の力で外に行けと。泣く彼女の頬を包んで、前を向けと。
ぐっと手に力を込めると、僅かに鉛筆の先が欠ける。小さな鉛は綴っていた英文に、微かな汚れを作った。
そんなこと、できるのだろうか。家を捨ててでもここから飛び立っていけると。彼女はちっぽけで、無力で。この時代で一人で生き抜くだけの力を持たない。持っているとしたら、ただ「勉強したい」というひたむきな気持ちだけ。
「あなたには、強い気持ちがある」
ぐいと後ろから強く押されたような気がして、ハッと顔を上げる。そのときバサバサと外で鳥が木から飛び立っていった。ひらりと羽が舞う。ふわ、ふわと空を翻っていくそれは、宗三の髪に似ていた。
図書室の、高い窓からの光に照らされる春色の髪。いつかの、笑い合った日を思い出す。たまに窓の向こうにやられる、遠い視線が胸を過った。
ぐっと歯を食いしばり、彼女は止まっていた手を動かす。
行ってやる、自分の力で。ここから遠くに。でも、それは彼女一人じゃない。絶対に、一人じゃない。今だって、一人じゃない。
夢を見せた、責任を取ってもらう。
キンコンと、試験終了の鐘が鳴った。
女学生というのは不思議なもので、入学してきても卒業するものはとても少ない。それは在学中に結婚が決まり、そのまま退学していく生徒が主だからだ。
それゆえに、今日講堂に集まった人数は極端に少なかった。それでも、振袖の胸に花を留め、袴を翻しブーツを鳴らして女学生が駆けていく。宗三はその華やかな姿を見つめていた。講師の宗三も、一応卒業式には来賓扱いで招待はされている。じっとそれらを眺めていると、カツカツカツと元気のよい足音が聞こえてきた。
「宗三ー!」
「……おや」
切りそろえられた髪、手には卒業証書を持って、見知った少女が走ってきた。今日は少女の旦那様が一等お気に入りだという藍の紗綾形模様の着物に袴を重ねている。相変わらず、お淑やかの「お」の字も見当たらないようなその様に宗三はくすくすと笑い、寄りかかっていた壁から体を起こした。
「あなたも卒業できたんですねえ」
「失礼ね。きっちり、首席を取ってきたわ。三日月さんも褒めてくれたの」
「きっとあの旦那様はあなたが何しても褒めますよ。あなたに関しては何もかも基準が激甘なんですから」
優秀生として表彰されているところを、宗三も来賓席から見ていた。ちなみに例の旦那様は保護者よろしく来客席にいた。三日月は目を引く飛び切りな美形の上に、一列目に座っていたものだから目立ちに目立っていたのである。まあ、今は配偶者なわけだから何もおかしいことではないのだが。
「女学校を卒業して、あなたの好きな勉強もできなくなりますけど。どうするんです?」
何気なく宗三が聞けば、彼女はきょとんとして首を傾げる。
「できなくなる? なんで?」
何をとぼけているのだこの子は。宗三はやや呆れながら問い直した。一応華族の当主正室が何を言っている。
「いや、だって、流石に家庭に入るでしょうあなた。あの三条の嫁なんですから」
「ううん? 勉強は好きなだけ続けていいって三日月さんが」
「はあっ?」
思わず大声を上げてしまい、口を覆う。だが当の彼女はにこにことして続けた。
「新しい時代になったんだから、勉強はもっともっとすればいいって。そりゃあ、奥さんとしての仕事も大事だけど。それでもそなたはやりたいことを羽を伸ばし続ける姿が一等美しいって。だからね、家でももっと勉強するの。行きたいところにも行くわ。三日月さんの視察にだって連れて行ってもらうの」
「……そうですか」
ああ、変わったのだ。宗三は確信した。変わり続けるこの世の中、誰一人として、変化しないものはいないのだ。特に、恋をしたら。人のことを、好きになったら、愛したら。そしてそれは自分も、同じだ。
彼女は居住まいをただし、ブーツの踵を揃えた。それから穏やかな笑みを浮かべ、宗三のほうを真正面から見つめる。
「ねえ、宗三」
「なんです?」
「あの日、私の背中を押してくれてありがとう」
ふわりと暖かい風が吹きぬけ、宗三と少女の髪を揺らす。宗三はそれに答えることができなかった。
「私、たぶんあの日宗三に帰れって言われなかったら、きっとそうできなかったわ。三条には二度と帰れなかった。でもきっと……一生それを後悔したと思う」
「……」
「だから、ありがとう、宗三」
泣くのはみっともないから、宗三はぐっと奥歯をかみ締めた。代わりに、背筋を伸ばし彼女同様に正面から向き合う。
きっと、彼女とはまた顔を合わせるだろう。けれど、これでさよならだ。たくさんの、色んな想いと。宗三もまた変わったのだから。そのために、一度だけ。
「僕、昔、あなたのことが好きだったんですよ」
きちんと伝えられなかった気持ちを、今度こそ形に。丁度良く、今日は卒業式だから。
宗三の言葉を聞いて、彼女は少しだけ目を見開いたが、そのまま穏やかに微笑んだ。
「……うん、ありがとう」
おおい、とのびやかな声がして、振り返れば軍服姿の三日月が手を振っていた。彼女はそれに大きく手を振り返すと、もう一度宗三のほうを向いて笑う。
「じゃあまたね、宗三」
「ええ……また」
少女は駆け出していって、三日月の元に辿り着く。二人は仲良く笑い合うと、歩みを揃えて行ってしまった。ふう、と息を吐く。ああこれで、自分もまた自由になったのだと宗三は感じた。
ふわふわとした風と、陽だまりの香りが頬を擽る。目を閉じたまま暫くそれを感じていると、今度は別な足音が近づいてくる。宗三はゆっくりと瞼を開けた。
「……卒業おめでとう、ですね」
「……先生」
先程の少女同様に、大きな花を胸元に飾った彼女。長いお下げ髪はゆらゆらとしていた。手にはしっかりと、卒業証書が入った黒い筒が握られている。
きっと、合格は楽に取れるだろうと思っていた。だからそれは何も、予想外ではない。順当に卒業できるようになったというだけである。しかし彼女の顔は嬉しそうではなく、また悲しそうでもなかった。
どちらかといえば、怒っている。
「……何怒ってるんです?」
「試験、ほぼ満点でした」
「それは、おめでとうございます」
やや低い声で彼女が言うので、宗三は若干たじろぎながら返事をする。
試験結果が不服だったとでもいうのだろうか。だが元はといえば卒業するのを嫌がっていたのだから、それはないはず。というか、ほぼ満点なら喜んだっていいのではないだろうか。
けれど彼女はじっとりした目で続けた。
「試験を解いている間、先生に言われたことを思いだしてました」
「は、はい」
「……背中を押された気持ちになりましたし、とても、心強かったです」
それを聞いて、ポッと宗三の胸の内が明るくなる。
そうか……自分の言葉は、彼女の道標になったのだ。そう思っただけで、それが聞けただけで、宗三は満足した。よかった、当初の目的通りだ。自分はうまく、彼女の背中を押せた。彼女はここから旅立っていけるのだ。
たとえそれで僅かにでも今、胸が痛んだとしても。宗三は今笑わねばならない。
だが、宗三の喉はからからに乾いて何も言えない。よかったですね、も軽い皮肉でさえも言えそうにない。嬉しいのに、確かに幸福を感じているのに、それ以上に寂しくてたまらないのだ。
「でも」
しかし彼女は一歩、宗三のほうに足を踏み出した。
「……え?」
「でも先生、あまりに無責任じゃないんですか?」
「はっ?」
予想外の言葉に、宗三は思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。すると彼女は身を乗り出してまくしたてる。
「目標を見つけて、勉強しろ? 自分の力で外に出て行け? わかってますよ、そうしますよ! でもそれが見つからないから悩んでたのに!」
「ま、まあそれは、そうかもしれませんが」
「そのくせたまに寂しそうな顔して、なんなんです? 試験中腹が立ってしょうがなかったですよ! だって、宗三先生が私に、たくさんの広い世界を教えてくれたのに!」
宗三は息を呑んだ。
「卒業前の勉強のときだけじゃない、普段から先生の授業を聞くの、楽しかったんです! だから余計に、卒業したくなかった! それなのに私ばっかり外に出そうとして狡い! 無責任です! だから私、新しく目標を決めました」
猫の尾のように、跳ねるお下げ髪。暖かな風と、桜の花弁。
宗三は震える声で、彼女に尋ねる。
「……何、ですか?」
卒業証書を放り出し、彼女は宗三の手を取った。ひらり、と振袖が翻る。
それは、数多の可能性を手にし、袴にブーツで走り回れる女学生の証。
「私、先生と外に行きます! 私だけ、夢や希望を叶えて一人で幸せになんてなりやしません。私に夢を見せた責任取ってください。先生も絶対に、幸せにします!」
呆気にとられ、それからほんの一瞬だけ宗三の視界は煙った。だがすぐに声を上げて笑いだす。
ああそうか、兄や弟の言うとおりだった。
「あっははは! まさか、そうくるとは、ああ、おかしいなあ」
「なんですか、何で笑うんですか! 先生、ちょっと、先生!」
温かい手を握り返し、実は少しだけ目尻に浮かんだ涙が悟られないよう、宗三は体を起こした。ふわふわと、宗三の髪も彼女のお下げ髪と一緒に風に靡く。
「いや……春が来たんだなと、思ったんですよ。ふふ、それで、どこに連れて行ってくれるんですか?」
きっと、どこだって楽しいだろう。だって今は春。
新しい世界の入り口の季節なのだから。