君が泣いたり笑ったりする話
「あああ青江さん! 陣形間違えましたどうしようっ!」
「泣かなくても大丈夫だよ、このくらいなら平気さ。皆練度も高いじゃないか」
半泣きになりかけた審神者の頭をポンと叩いて、青江は通信端末の画面を見つめる。別に刀装も無事だし誰も怪我なんてしていないし。そこまで焦るほどのミスではなかった。全く、彼女は相変わらず石橋が壊れるまで叩く気だ。
青江の言葉にはらはらとしながら、食い入るように審神者も画面を見ていた。何事もなく戦闘終了の表示が出て、ほうっと息を吐く。ついでに眦から一筋涙が零れ落ちた。怪我をしても安心しても泣くんだから、困ったものだ。そんな風に思いながらも、青江はくすりと笑って鼻を啜った審神者に青江はハンカチを差し出す。放っておくと、彼女は着せた青江の白装束の袖で拭うのだ。
「ほら、ごらんよ。大丈夫だったよ。よかったねえ」
「よ、よかったあ……あとは無事に帰ってきてください……」
涙声で彼女がそんな風にぼやくのを、丁度襖を開けはなった執務室の外を通りかかった歌仙兼定が聞いていたらしい。目を細めて、歌仙は微笑む。
「今日も仲睦ましいことだねえ、二人とも」
その言葉に、青江は彼女はきっと真っ赤になってあわあわとすると思ったのだが、今日は違った。ほんの少し頬を染めたけれど、審神者はただ「はい」と落ち着いた声で返事をする。
「私と青江さんは仲良し、ですから。歌仙」
これには青江の方が少し面食らってしまったが、同様に笑って歌仙のほうを見る。ここで青江が挙動不審になっては意味がない。
「そうだよ、僕達仲良しだからねえ」
歌仙はにこやかに立ち去った。審神者はまだ鼻を啜りながら再び通信端末を手に取って、きちんと部隊が帰城しているか確認する。今度は間違えることなく、その指示を出せたようだ。
「誤魔化すのがうまくなったねえ、君」
前は真っ赤になったり逆に青くなったり黙りこくったり、随分苦労していたものだ。まあ青江と彼女が秘密を守るために偽恋人になってしばらく経つから、取り繕うのがうまくなったとしてもそれはそれで不思議ではないが。
しかし青江にそう言われた審神者は、ぱちぱちと何度か瞬きを繰り返して、それからふいっと目を逸らす。泣いたせいか、目の縁が赤い。指先で涙を払ってから、ぼそりと呟いた。
「……だって今のは嘘じゃ、ありません」
今度は青江が目を瞬いた。それから「私と青江さんは仲良しですから」という言葉を思いだし、今言われたことを理解し……青江はなんだかむずかゆくなってしまって、審神者同様視線をどこかへやる。
「……そうだねえ」
もっといつものように茶化すことが言えればよかったのだが。いやもっと、他に言うことがある気が。
だが青江はそうとしか言えなくて、ただちらりと審神者のほうを見た。ふいと向こうに顔を向けてしまった彼女の、耳が酷く赤い。
色々考えて、口にしかけて、青江は結局ほんの少しだけ審神者と座る距離を詰めた。音を立てるとなんだか彼女は逃げてしまう気がして、ひどく静かにゆっくりとした動きで、そろそろと腰を浮かし、近づく。すると彼女も何も言わなかったけれど、僅かに、青江の肩に凭れかかった。
最近、こんな風に沈黙が続く。けれど別に、苦ではなかった。むしろこれはどこか心地よくて、ずっとこのままでもいいのにねえなんて、青江は思うのだった。
だがそううまくはいかないらしい。
「石切丸という……おや、君は」
咄嗟に青江は審神者を背中に隠した。だがもう遅かったようだ。顕現したばかりの石切丸は、青江の後ろで顔を真っ青にした彼女を見つめていた。石切丸が何か言おうと口を開く前に、青江は先手を打つ。
「僕は近侍のにっかり青江、初めまして石切丸さん」
審神者が、少しだけ青江の白装束を掴んだ。青江はそっと後ろに手だけ伸ばしてその指先を握る。ひんやりとしているそれは、若干だが感覚がふわふわとしていた。どうも動揺しているようだ。
石切丸という刀を、青江は知っている。神剣として長く神社に祭られてきた大太刀。御神刀だ。今まで本丸にいた、彼岸とあまり縁のない刀達とは話が違う。それに、彼の菖蒲色の瞳は確かに何かを捉えていた。動揺し、気持ちがぶれている彼女が一体彼にどう見えているか、明白である。もう誤魔化したって仕方がないのだが、青江はそれでも審神者の前に立っていた。
「……君は、生者ではないんだね」
びくりと背後で審神者が体を震わせる。青江も同様に額を押えた。やっぱり、隠しきれなかったか。
青江以外に初めて、彼女の秘密がばれてしまった。
かこんと庭の獅子脅しの音が響く。本丸の中庭は今は丁度暖かい季節に合わせて花の盛りだった。しかしそんな長閑な情景に反し、執務室の空気は酷く重い。いやもう重たいなんてものではない。さながらお通夜だ。審神者は死んでいるのだから、あながちそれは間違いではないのだけれど。
「つまり、君の肉体はもう死してしまっていて、魂が彼岸に行く途中でこの本丸に引っ掛かってしまった……ということでいいのかな?」
「間違いないです……」
石切丸の確認に、審神者は体を小さくさせて答えた。憐れなほどにしょげかえったその姿を見かねて、青江はその背を撫でる。まだ涙目どまりだけれど、彼女は今にも泣きそうだった。
「あまり怒らないでやっておくれ。僕も見逃していたんだから、同罪さ」
そうフォローを入れると、石切丸はやや焦ったように首を振った。
「ああ、すまないね。怯えないでくれるかな。怒っているわけじゃあないんだよ。ただ私も少し驚いていてね、正しく事情を把握したかったんだよ。君を咎めているわけじゃないからね」
穏やかな石切丸の物言いと表情に、幾分か審神者が肩の力を抜いたのがわかった。それに青江もほっとする。
しかし問題はこれからだ。現状を理解した石切丸が、必ずしも審神者に協力的とは限らない。なにせ、まだはっきりとは告げられていないけれど、これから先審神者を待つのは消滅である。成仏ではない、ただこの世から消え去ってしまうのだ。それに御神刀である石切丸が気付いていないはずがない。
青江は彼女の意志に添いたいと思ったから、それを黙認した。彼女が審神者でいようとする間は、その気持ちを尊重して力になりたいと。けれど、石切丸も同じように思ってくれるとは限らないのだ。
それを考えると……青江は身構えざるを得ない。
「青江さんは、今彼女の近侍を務めて様子を見ている、という考え方で間違えはないかな?」
「……ああ、そうだねえ。名目上は恋人ってことにして、出来るだけ一緒にいてもあまり不自然じゃないように気をつけているよ」
「ふむ……そうかい、わかったよ」
きゅっと審神者が青江の服を掴んだので、青江はそれを上から握る。もし、ここで石切丸が彼女を祓い強制的にでも成仏させるというのなら、青江も最悪の場合は覚悟を決めなくてはならないだろう。石切丸は武器とはいえ御神刀、ヒトに寄り添ってきた刀だ。むざむざ一人のヒトの子を消滅させるとは考えづらい。それも、青江とは違い神事に通じている分だけ、彼女を彼岸へと導くことができるかもしれないのに。
……仲間討ちは趣味ではないけれど、仕方がない。相手は大太刀だが、青江は引けを取るつもりはなかった。
しかし一度長い瞬きをした石切丸は、ふうと息を吐くとにこりと笑った。
「うん、わかった。では私は青江さんと交代でその役目を助けよう」
「……え?」
審神者と青江は同時に声を上げた。
「青江さんだけで主を守るのは、これから骨が折れるだろうし、始終あやかしから目を光らせていると言うのも、一振では無理があるだろう? 私は一応御神刀だから、そのあたり力になれると思うんだけど、どうかな?」
ぱちぱちと目を瞬かせ、二人は顔を見合わせる。予想だにしなかった答えに、理解と反応が遅れた。
「いいの、かい。それで」
「しばらく私もそれで様子を見るよ。三人寄れば文殊の知恵、ともいうだろう? 私も状況を把握したら、もっといい案が浮かぶかもしれない。それでいいかい、主」
青江の確認に、石切丸は笑顔で頷いた。青江が上から握っていた審神者の拳からふっと力が抜けて、へなへなと彼女はへたり込む。
「よ、よかったぁ……あおえさん、よかったぁ……」
「ああほら、泣かない泣かない。うんうん、よかったねえ」
安心したのか、審神者の瞳からまたぽろぽろと涙が零れ始めた。青江はいつもどおりにハンカチをポケットから取り出して、今日は手渡さずにそのま濡れた頬を拭う。ほんの少しだけ、青江にしがみつく彼女の指先が透けていた。そしてそんなこちらの様子を、石切丸が注意深く見つめていることに、青江は気づいていた。
「……どういうつもりなんだい」
本丸の中を案内してくるね、と執務室に審神者を置いて、青江と石切丸は中庭へ出た。本丸の屋敷内から一歩出てしまえば、彼女は追ってこられない。中庭の飛び石ひとつさえ踏めない、彼女はそういうあやふやな存在なのだ。
「言ったとおりだよ。私はとりあえずの間、様子が見たいだけだ」
石切丸は静かな声でそう答えた。嘘を吐いているようには見えない。当たり障りのないことを言って、誤魔化しているようにも。きっと本当にそうなのだろう。だが青江はもう一度念を押した。
「本当に、それだけかい。もし、あの子の意にそぐわない形で主をここから出そうって言うんなら……僕は君を斬らなくちゃならない」
傍の木に留まっていた鳥たちが、ぴいぴいと喧しく鳴きながら飛び立った。暖かい気温と、陽だまりのぬくもりに反して、ひどく物々しい殺気だ。
元は大太刀の、大脇差。にっかり青江は実戦刀、戦刀である。いざとなれば、斬ったり斬られたりする覚悟ははなからあった。ましてや主のこととなれば、躊躇ってなどいられない。
「わかっているんだろう、主がここから出るときは、成仏するときなんかじゃないって」
「おや、きちんとわかっていたんだね」
「そりゃあ、そうさ」
青江とて、今まで何もせずに彼女の傍にいたわけではない。本当はただ成仏するんじゃないかと、そうであってほしいと、何度思ったことか。
一緒にいれば、日々、その存在があやふやなものになっていくのがわかる。一度透けてしまえば、元に戻るまでに時間がかかっていくのがわかる。手入れをする度、鍛刀をする度、着実に薄れていく姿がわかる。
磨耗しているのだ。魂そのものが、消え行こうとしているのだ。
「ねえ、どうしてあの子を審神者にしたんだい」
本丸に伝達にやってきた管狐に、前に一度青江は尋ねた。
「わかっているだろう、君。このままだとあの子は消えちゃうって。成仏じゃあないよ。消えてしまうんだよ」
白塗りの、面を被ったようなのっぺりとした表情の管狐は、青江の問いにピクリともその眉やひげを動かさなかった。
「こんのすけは、主さまに正しくここから出る方法を教えただけですよ」
「でも正しい意味で出られるわけじゃないだろう、それ」
「いいえ、これでいいのです」
どこが、いいもんか。あんな中途半端な状態で。あのままでは彼女は彼岸にも此岸にも辿り着けず、どこでもない場所を彷徨うだけではないか。
「ここを出ても、あの子はどうにもならない。ただこの世からいなくなるだけだ。死んでから向かうべき場所に行けなくなってしまうよ。それはいけない。そんなの死んだことにさえならないよ」
「では正しい意味での死を、あなたは理解していらっしゃるのですか? にっかり青江様」
きらりと管狐の瞳が光る。青江はぴくりと肩を震わせた。正しい意味での、死だって?
「命を奪う刀であったあなたが、死んだヒトの魂ですら斬り捨てたあなたが、ヒトの死を理解していらっしゃると?」
「……それは」
「ヒトの生きている意味を、死を、モノであるにっかり青江様がわかっていると?」
青江はそれ以上、何も言えなかった。
だってわからなかったのだ。管狐の言うとおりだったのだ。青江がどれほど彼女に寄り添おうと、力になろうとしようと、叩きつけられる事実はひとつだけ。
青江はモノであり、刀であり、彼女がヒトだという事実。
「僕には、本当の意味のヒトの生き死になんてわからないんだ。だって、刀なんだもの。わかるはずもないよ」
死んで、心の臓が動かなくなる。息をしなくなる。それが肉体としての死。青江に一番近しい死。でもきっと、彼女の「死」はそうではない。既にそうなってしまっていて、それでもなおここで「生きている理由」がほしいと言った、あの子には。
「だから、あの子がここで生きていたいって思うなら。そうさせてあげたいって思うんだよ。その先がどうであれ、僕はそう思ったから、あの子の傍にいるんだ」
「……君は」
ただじっと青江の話を聞いていた石切丸は、ふわりと目を細めてぽんと青江の頭に手をやる。それはその体躯のとおりに、実に大きな掌だった。
「情深い、優しい刀なんだね、青江さん」
青江は目を見開いて、石切丸のほうを見た。若草色の狩衣を着た御神刀は、うんと一つ頷いて冠を揺らした。
「大丈夫だよ、私は本当に様子を見たいだけだから。主に悪いようにはしないよ。私にとっても、あの子は主になるんだから」
「……石切丸さん」
「一緒に考えよう。もしかしたら、あの子を彼岸に送って差し上げる方法は他にもあるかもしれないんだから」
それから石切丸は母屋のほうに目をやって、にこやかに手をあげる。ぱっとそちらを見れば、縁側に出てきたらしい審神者がこちらを見つめて同様に手を振っていた。
青江があげた白装束の袖と、その留め具の房が揺れる。屋根の下の日陰にいる審神者の顔の辺りは見えても、日の差す足元は既に視認ができなかった。
神剣ってすごい。
青江は素直にそう思わざるを得なかった。
「なんだか君、最近透けなくなったね」
「え? そうですか? 自分じゃわからないんですけど、それなら嬉しいです」
彼女はくるりとその場で回って見せた。ひらっと制服のスカートの裾が翻る。その頭の天辺からつま先まで、青江はしげしげと眺めたけれど、確かにその輪郭線は以前よりはっきりとしている。
石切丸が本丸へやってきてまず変化したのは、あやかしが本当に近寄ってこなくなったことだ。低級霊ならば、青江もいるだけでそれを追い払える。しかしそれにも限度があるため、定期的な見回りや警戒が必要だった。
けれどそれが一切いらなくなったのだ。石切丸に言わせれば、「元々あった本丸の守りを少し手伝っているだけだよ」だそうだけれど、桁違いである。そして本丸の結界が強まったことで、そこから出られない彼女の魂は逆に補強されたようだった。本当に、神剣ってすごい。
「透けてないってことは、本丸のお化け騒ぎも最近は治まってますか……?」
「ああ、そうだねえ。特に相談は受けていないよ」
「よかったあ!」
青江の返答を聞いて、彼女は珍しく涙の代わりに笑顔を浮かべて嬉しそうにした。ふふふと口を押さえ、にこにことする。
「……嬉しそうだねえ」
「ふふ、はい。だって刀装作っても平気だったってことですもんね……あっ」
彼女が「しまった!」と言った顔をする。青江も流してしまいそうになったけれど、ハッとしてそちらを見た。
「あって、君! また僕に黙ってそういうことしたのかい?」
「ご、ごめんなさいごめんなさい! ちょっとくらい平気かなあって! 皆さんも増えたし多いほうがいいかなあって!」
「僕に内緒でそういうことしないって約束したじゃないか。 あっ、だめだよ逃げたらっ!」
身を翻して逃げ出そうとした審神者の体を後ろから引っつかむ。いくら体が透けるのがましになったからといって、慢心はいけない。いつ他に見られるかわかったものではないし、気を抜いている場合ではないのだ。
「自分でしちゃいけないってわかっていたんだろう? 無理をしちゃあだめだって僕も何度も言ったよねえ? 悪い子にはお仕置きだなあ」
そう言えば、彼女はぎょっとして背後の青江を振り返った。いつも涙をたくさん貯めている瞳をまあるくして、そこに青江を映す。
「お、お仕置きですかっ?」
焦った様子で青江を凝視する様がなんだかおかしくて、ちょっと可愛らしくて。つい笑ってしまう。やっぱり泣き顔よりこっちのほうがいい。
「ふふ、そうだよ。さあて、君の弱いところはどこかなあ」
ひゃっと小さく声が上がる。青江はそのまま彼女の脇に手を突っ込んでそのあたりをくすぐった。
「ひゃああっやめてください、あ、あはは、そっれは、やめてくださいって!」
「んっふふ、笑顔が一番だよ? ほら、笑いなよ、にっかりと」
「あーっ、あっ、もう、ふふ、やめてえっ、ひぁっはははは!」
青江の手から逃れようと審神者が笑いながらもがくので、青江は後ろから更に羽交い絞めにして彼女を擽った。息も絶え絶えにしながら、彼女は声を上げて笑っている。それを微笑ましく思いながら、指先の感覚を確かめる。
まだ、ある。ここに触れられる体がある。それに幾分か、安心する。
「ごほん、お取り込み中悪いけれどね、青江、出陣だよ」
「ひゃっ!」
審神者が飛び上がる。振り返ると、歌仙がくすくすと笑いながらこちらを見つめていた。真っ赤になって彼女が飛び退り、青江もぱっと手を離す。急に耳の辺りが熱くなってきて、どこか心がむずかゆい。
「しゅ、出陣ですって青江さん、行ってらっしゃい! 気をつけて、その……早く帰ってきてくださいね」
ぐいぐいと青江の背を押しながら、彼女はそう言った。ちょうど背後にいた上に俯いていたものだから表情はあまりよく見えない。けれど熱そうな耳だけはわかったので、青江もまた何も言えずただ何度か頷いた。くすくすとずっと歌仙が笑っている。
「わざわざ呼びに来てもらってごめんね、歌仙」
「いいや? こちらこそ邪魔をしたようで、ふふ、雅ではなかったね」
じゃ、じゃあなんて若干ぎこちなく挨拶をして、青江は彼女に見送られ執務室を出る。青江が出陣ということは、石切丸が傍にいてくれるはずだから問題ない。
一度歌仙と別れ自室で戦支度を整えて、本丸を出る。彼女は屋敷から出られないから、見送りがないのがここの「普通」だ。
「ありがとう、僕が言ったことを君は覚えていてくれているようだね」
再び合流した歌仙が、青江にそう言った。礼を言われるようなことがあっただろうか。だがすぐに思い至った。近侍になってすぐの頃、歌仙に言われたことだ。「青江はあの子は頑張っているだけのただの女の子だってことを、忘れないでやってくれるかい」という、あれか。
歌仙は嬉しそうに目を細めて微笑み、うんうんと頷く。戦の前だというのに、随分和やかな雰囲気だった。
「あの子が声を上げて笑っているのなんて、初めて見たよ」
それは、僕もだよとは……青江は言わなかった。声を上げて泣いているところは何度もあるけれど。
今日彼女が笑ったのは、自分が透けていないことがわかったから。多少の無茶がきくことを知って、喜んだから。無論無茶なんてさせられないけれど、その気持ちはわかる。だって彼女の目的は、願いは、「審神者でいること、皆の主でいること」なのだ。それを容易く、叶えてもらえたのだから。
神剣ってすごいなあ。再び青江はぼんやりと思った。何もかも桁違いだ。青江が手探りでしていたことを、ものの数日で解決してしまった。そうして交代で審神者を見ていてくれるから、ほんの少しだけ……青江は彼女といる時間が減った。
……となれば実戦ばかりは負けていられない。
「……さあ、斬ったり斬られたりしよう」
青江にとっては戦で名を上げるのが、今、彼女の刀たる証である。
戦績は上々、負傷者もなし。それなりの資材も回収した。これならまあ斬った分だけのご褒美をもらってもいいだろう。そんな風にやや上機嫌で、青江は帰城したのだが。
「すまないね、今主はお昼寝中なんだ。少し、静かにしていてあげてくれるかな」
帰城して一番に青江が見たのは、そう言って石切丸が短刀たちを宥めているところだった。
昼寝? まずそこに疑問を持つ。彼女が昼寝なんてするだろうか。いつでもいい主でいようとする彼女が、ましてや遊ぼうと声をかける短刀たちを置いて、昼寝なんて。
考えあぐねていると、石切丸の紫の瞳と視線がかち合う。それからハッとして青江は身を翻した。やっぱりそんなはずはない。一度遠回りをしてそれとない風を装ってから、青江は彼女の私室の前に来た。案の定、石切丸が厳しい顔をして襖の前に立っている。
「どうかしたのかい」
「……少し、見てくれるかな」
襖の取っ手に手を掛け、石切丸はスッとそこを開いた。灯りの付いていない薄暗い部屋の中に、細く光が差し込む。それは襖に広がる青江の白い装束に反射した。
「……っ!」
酷い顔色だった。着せた着物と同じ色をしている。それに、指先や足先が透けていた。だが何より気になったのは、彼女は息をしていなかった。白い鞘の大太刀、石切丸本体を抱えた胸が、まるで動いていない。
「急に調子を崩してね、応急処置に私を抱えさせている。破魔にはなるだろうし、加護もあるはずだから」
「生きて、るのかい、主」
「……」
石切丸は青江に室内に入るよう促した。確かにこの状態で襖を開け放つのはまずい。隙間から体を滑り込ませれば、石切丸はさっとそこを閉めたけれど、それ以上青江が彼女に近づかないよう肩を押えていた。
「生きているのかと言われれば、最初からそうではないよ。今のこの子には体がないのだから。それはわかるね、青江さん」
静かな声で石切丸に問いかけられても、青江は彼女から目が離せなかった。ただ横たわっているだけの、その姿。本来温かく動いているはずの胸はピクリとも動かず、肺は膨らまず、ただ目を閉じているだけだ。石切丸を抱えて、ただじっと。
「きっと少し疲れてしまっただけだから、きっとそのうちに目は開けると思うけれど。眠らせて差し上げたほうがいいだろうね」
「……うん」
青江が彼女に手を伸ばそうとすると、それは石切丸に押えられた。先程から肩も掴まれていて、動けない。まるで傍に寄るなと言われているかのようだ。痺れを切らし、青江は石切丸を振り返る。
「積極的なのは嫌いじゃないけどねえ、ちょっと離してくれないかい」
「いいや、だめだ。青江さん、今君はこの子に近寄るべきじゃない」
「どうしてだい」
「君は自分が何だったのか、忘れてしまったのかな。『にっかり青江』さん」
銘を呼ばれ、息が詰まる。忘れていたわけではない。そんなことは決してない。けれど、そうだ、「にっかり青江」は。
「……幽霊斬りの、刀だったね」
置いておくだけで、怨霊は出ない。退魔の刀。
「少なからず、君の逸話が、君の持つ力が彼女の霊魂をここから弾き飛ばそうとしているんだ。存在が揺らいでしまっているときに、傍に寄らない方がいい」
石切丸の言葉に、青江は黙って後ずさる。そうする他なかった。そうでなくば、彼女が消えてしまう。そして同時に彼女が急に調子を崩した理由がわかった。
自分が、傍にいたからだ。お仕置きだなんてじゃれるように擽って、いつもよりずっと距離が近かった。だからだ。
離れた青江の代わりに、石切丸が彼女の傍に寄って再び本体を抱え直させる。息もしていない、鼓動もない彼女はさながら屍だった。いいや、それは間違いではないのかもしれない。それを、青江が忘れていただけで。
「本当に、目を覚ますのかい……主」
やっと聞けたのはそんな単純なことだった。石切丸はさらりと髪を揺らして、一応程度の笑みを浮かべる。
「私達に姿が見えていると言うことは、この子の魂がまだここにあるということだよ。だからきっと、待っていれば目は覚ます。けれど……変だと、思わないかな?」
「え?」
審神者の頬に掛かっている髪を、石切丸が払った。そのまま確かめるように、石切丸は彼女の頬を撫でる。つい、ぴくりと青江の指先も震えた。
「こんのすけは、ここが一種の神域だからと説明したようだけれど。この子の存在はあまりに中途半端すぎるんだ」
「どういうことだい」
「不思議だと思わないかな。死霊が本丸の結界に閉じ込められているところまでは理解できるけれど、何故この子はここまで実体が保てるのか。体が透けてもなお、まだモノに触れることができるまでに。こうして私が、触れることができるほどに」
それは、と説明しかけて青江も口を噤む。そう言えば、尤もらしくこんのすけの受け売りを話す彼女の言を鵜呑みにしていたけれど、よく考えればおかしな話だ。
「私達が付喪神でありながらこの体を保てるのは、肉の器を審神者に与えられているからだよ。でもこの子にはもう、それがないはずなんだ。死しているというのなら、霊魂もそれに伴わなくてはならないはずなのに」
「じゃあ、死んでいないってことかい?」
「……わからない。主は何か言っていなかったかな、死んだと自分が思ったときのことを。何かがわかるとすれば、きっとそこに答えはあるんだ」
忘れてしまったと、彼女は言っていた。いつも通りに登校し、一日を過ごし、何か痛かったような気がするけれど記憶にないと。石切丸の問いに、青江は首を振ることしかできなかった。
傍に、いたというのに。何の力にもなれなかった。顕現してすぐの石切丸のほうが、よっぽど彼女のためになることができている。何とかしてやりたいと、ずっと思っていたのに。
「……あおえ、さん」
細い声がして、はっと青江は視線をそちらにやった。薄く目を開けた審神者が、フラフラと手を上げて青江のほうに伸ばす。それを掴もうとして、やめた。今近寄ってはいけないと言われたばかりだ。
「私、寝てましたか……おかえりなさい」
「……んっふふ、だから言っただろう、無理しちゃだめだって。疲れてしまったみたいだよ、君」
あまり傍には行かずに、屈んで視線だけは合わせる。それでも彼女のほうが腕を伸ばして、青江の手を掴もうとしていた。
「ごめんなさい、心配を、かけました」
「いいんだよ。ゆっくり休んでいれば……きっと元通りになるさ」
「今日はもう、出陣、ありませんね? 青江さん。ここにいますよね?」
青江が取ることのできない手が、透けかけた指先がずっと宙を彷徨っていた。青江がゆっくりと握り締めた拳を開きかけると、代わりに横から石切丸がその手を掴む。
「主、実は少しだけ玉鋼が足りないんだ。それでね、青江さんに取りに行ってもらおうと思うんだけれど……どうかな?」
「玉鋼……?」
「あ、ああ、うん。そうなんだよ」
瞬時に石切丸の意図を理解した青江は、一度頷く。取り繕うのも、誤魔化すのも得意だ。だってそうやって、青江は今まで彼女の秘密を隠してきた。それしかできなかった。
「全然ないってわけじゃあないんだよ。でもあったほうが君も安心するだろう? だから僕が取ってくるよ。少し待っていてくれるかなあ」
「青江さん、一人でですか?」
「まあ僕は練度も高いから、少しくらい平気さ」
それに今、自分にはそんなことしかできないのだ。彼女のためにできることなんて、ただ斬ったり斬られたりしか。
こんなの、ただのモノだったときと同じだ。
「青江さん、待って」
「すぐに帰るよ。せいぜい楽しんでくるから」
「待って……っ青江さん、待って!」
主、と石切丸が彼女を宥める声が聞こえた。ぐすりぐすりと、いつもの涙声が聞こえ始める。青江が聞きなれた彼女の泣き声。思えばいつも泣いてばかりだった。
「……僕はどうして神剣になれないんだろう」
ポツリと呟く。
だがそんなのは簡単だ。青江が「にっかり青江」だからである。「にっかり青江」がそうであるためには、神剣にはなれない。幼子と女の幽霊を斬ったことは、彼の存在証明だ。それが理由で神剣になれなかったのだとしたら、仕方のないこと。今までそれに対して執着はなかった。今もない、けれど。青江は自分が「にっかり青江」であることに誇りを持っている。実戦刀であったことに、恐ろしいほどの切れ味を持つ刀であったことに。
……けれど。
「僕が神剣だったら、君にもっとしてあげられることがあったのかな」
ただあの子の力になりたいと、思ったのに。
切欠が何だったかは思い出せない。第一印象は最悪だった。けれど青江がどうとかではなくて、一方的にひどい印象を持っていた。
「僕はにっかり青江。うんうん、君も変な名前だと思うだろう?」
彼女はそれまでごく普通の学生で、刀の知識なんてなかったから、もちろん青江の名がついた逸話なんて知らなかった。けれど博識な彼女の初期刀が、ちゃんとそれを教えてくれたのだ。
「ああ、狂歌にあるね、わかるよ。『京極に過ぎたるものが三つある。にっかり茶壷に多賀越中』、そのにっかりだろう? 君は。にっかり笑った女の霊を斬った霊刀」
「んっふふ、よく知ってるねえ。僕も君はわかるよ、千両兼定だね」
それを聞いた瞬間、体中の血液が足元に一気に落ちたかのような感覚があった。もちろん彼女は霊だから、血なんて通っていないのだけれど。それでも、気が遠くなってぐらぐらとした。
ばれてしまう、自分の正体が。そうしたら、ここから追い払われてしまうかもしれない。そんな強い刀なら、きっと自分のようなただの少女だった霊なんて、一刀で斬り捨てられてしまう。そうしたら、ここにいられなくなる。責任を、果たせなくなってしまう。
だから彼女は青江を避けた。できるだけ二人にならないようにして、決して正体がわからないように、それでもばれてしまったときは、もうおしまいだと思った。
でも、青江はそんなことしなかった。
「君は頑張ろうとしているのに、僕がそれを止める理由はないさ」
そう笑って、彼女に手を差し出して。一緒にいるようになって、誤魔化すこともできない、泣き虫なだめな主だとわかってからも、青江はずっと彼女の意志を一番に考えてくれた。恋人だなんて嘘までつかせたのに。それでも、生きる理由がほしかった彼女を責めやしなかった。
嬉しかった。死んでからそんなことしたってしょうがないと言われても、文句なんて言えない立場だったのに。いつか消えていなくなるのに無責任だと、怒ったっていいはずなのに。そうしないで一緒にいてくれた青江が、嬉しかった。だからついつい、甘えてしまったのだ。恋人だなんて誤魔化しの理由に。一緒にいてくれる青江の優しさに。
魔除けとか、秘密を守るとかそんなのもうどうでもよくて、ただ青江が傍にいてくれることが、ただ……。
「落ち着いたかな。ゆっくり、深呼吸をするんだよ。そうして体を休めていれば、体は楽になるはずだから」
大きな手が、頭を撫でる。その御神刀は、しっかり彼本体を彼女に抱かせた。不思議なもので、そうしていると若干だが冷え切っていた手足に感覚が戻る。彼女は涙でやや濁った視界のまま、手を握ったり開いたりした。
「少しは感覚が戻ったかな?」
「はい……」
「それはよかった。起き上がれるまではじっとしておいておくれ。私も傍にいて差し上げよう。……青江さんでなくて、すまないね」
頬が熱くなる。右腕に石切丸を抱えたまま、彼女は左手で顔を覆った。そんな彼女の様子に、石切丸はくすくすと声を上げる。静かで低い、笑いだった。
「そんなにわかりやすいですか私……」
「ふふ、青江さんに伝わっているかどうかはわからないけれどね。あんな風に悲しそうに名前を呼んでいたら、傍にいてほしいのだとすぐにわかってしまうよ」
「……気をつけます」
まだ起き上がれそうにはない。手の感覚は戻りつつあるが、足に力が入らない。透けなくなったね、とは言われたけれどもう明確に把握できる。
あと少ししか時間がない。ここには留まれない。
毎日、段々と自分が薄れてどこかへ引っ張られているのがわかった。本丸の外へ外へと、何かが彼女の内側から手繰り寄せている。ゆっくりと釣竿のリールを巻くように。その先に何があるかは……わからないけれど。
でももう僅かしか一緒にいられないのだと思ったら、離れてほしくなかった。主でもなんでもない、彼女個人としての我侭だ。
「死んでから、生きようとする私を……恋なんてしてる私を、馬鹿だと思いますか? 石切丸さん」
指先で青江の白装束の袖を掴む。替えがあるからと着せてくれたそれ。最初に他の皆に「どうしてそれを着ているのか」と聞かれたとき、まごついて答えられなかった彼女の代わりに、青江は笑って「お揃いなんだよ、仲良しだからねえ」なんて言っていて。
そんな些細な誤魔化しやフォローに少しでも胸をときめかせていたころから、きっと好きだったのだ。
「……いいや、愚かだなんて思わないよ。君は精一杯ここで生きている、ただそれだけだからね。愚かなことなんて一つもないんだよ」
体を亀のように縮こめて泣く彼女の頭を、石切丸は優しく撫でてくれた。まるで自分が幼子で、ぐずっているのをあやされているような感覚だ。彼女は小さく笑う。
「巷で……石切丸さんがお父さんみたいだって言われるの、なんとなくわかる気がします」
「おや、そうかい? 私は父君に似ているかな?」
「雰囲気は、そうかもしれません」
現世の家族は、今どうしているのだろう。ふと彼女はそんなことを考えた。急に死んでしまって、随分な親不孝だったななんて……。すると石切丸が何かを思案するように遠くを見つめながら、彼女に尋ねた。
「すまないね、こんなことを聞いて不躾なのはわかっているんだけれど……お父様のこともだけれど、もしよかったら、君がここに来てしまう直前のことを教えてくれないかい?」
「直前、ですか?」
「……君が、死んだときのことだよ」
きゅっと胸の奥底を掴まれたような感覚だった。死んだとき。ここに来たときのこと。
「どうして、ですか?」
「……私には、どうしても君が本当に死んでしまっているのか疑問が残るんだ。君も変だとは思わないかい? 死んでしまっているのに、体が透けるだけで物に触れられる、実体がある自分を」
確かに、それは考えなかったわけではない。だがこんな言い方も変だが、死んだのは初めてなので何が変で何が正しいのかわからないのが実情だ。
そして、不確かだからこそ彼女は薄々、自分がここからいなくなった後行くのは「天国」なんて呼ばれる場所ではないだろうなとわかっていた。
「気付いているよね? もし本当に死んでいたとしても、そうでいなかったとしても、このまま霊力を使い果たして、本丸の結界をすり抜けていくことはとても危険なことなんだ。待っているのは成仏なんてものじゃない、魂は消滅してしまうし、僅かに残っていたとしてもあやかしに簡単に食べられてしまうよ。それに、青江さんの逸話を知っているね? 青江さんと一緒にいることは君の時間を縮めている」
「……わかっています」
「だったらもう一度考え直してくれないかい? 思い出してくれないかい? 今なら、私が君をこの本丸から押し出して差し上げる。君はまだ、実体を保てるだけの魂の形がある。ここから出れば、成仏なりなんなり、正しい形に戻れるんだ」
石切丸に、自身の柄を握っている彼女の手が上から包まれる。それはとても暖かくて、大きくて、涙が出るほど安心できる感覚だった。
きっと今ここで頷けば、楽になれる。それがしみじみとわかる。毎日薄れゆく自分の存在に怯える必要はなくなる。いつ皆とお別れになるか、考えなくて済む。ある日突然自分がここから消えてなくなる恐怖も、なくなる。
けれどそれと同じくらい、強く焼きついて離れない思いがある。それを助けてくれた刀がいる。いつも飄々と笑っているけれど、なんだか寂しげで。おかしな物言いをするけれど、いつだって優しい刀のこと。
「……いいえ、大丈夫です。私、ここにいます」
「主……」
「初めて、自分で決めたことなんです。消えるまで皆の主でいるって。皆がいて、青江さんが手伝ってくれて、ここまで来ました。途中で投げ出すわけには、いきません」
本当は怖い。死んだという実感がなかった分、これから自分にやってくる消滅が正しい意味での「死」だ。消えてなくなる。自分の体も、思いも、全部全部。震えてしまうくらいに、恐ろしい。
でもきっと、彼女が「頑張る」といえば、青江は笑って「そうかい」と言ってくれるのだ。一緒に歩いて行ってくれるのだ。
石切丸はじっと彼女の瞳を見つめて、それからほうと息を吐いた。困ったように眉を下げて微笑む。
「……すまないね、要らないお世話だったようだ。つい、御神刀としての性分が出てしまった」
「いいえ、ありがとうございます。ごめんなさい、せっかく考えてくれたのに」
「いいや、いいんだ。思えば君たちヒトの子は、ずっとそういう風に生きてきたのだから。短い命の中で、毎日懸命に。……では私も君の刀として励むとしよう。君も、後悔のないようにね。戻ったら、青江さんと話しなさい」
そう言って石切丸が立ち上がりかけたので、彼女は少しだけ、少しだけ気になったので声をかける。
「あの、石切丸さんは……どう思います? 青江さん、迷惑していないでしょうか……私のこと」
すると石切丸は優しげな瞳を丸くして、あははなんて声を上げて笑い出す。
「ははは、迷惑だなんて絶対に思っていないよ。大丈夫」
「ええ……? でもわかりませんよ、私泣いてばかりですし、面倒くさい自覚くらいはあります」
むっとしてそう言えば、まだ笑いをくすくすと噛み殺しながら石切丸は首を振る。ひらひらと手まで振って、本当に愉快そうだ。
「いいや、絶対にないさ。私は嘘は吐かないから、安心していいよ」
「ええー……」
「よく、話してごらん。君も青江さんも、少しばかり不器用なのがとてもよく似ているね。ふふ、とても微笑ましいよ」
似ているだろうか……自分よりずっと、青江のほうがスマートで要領もいいと思うのだが。そう口を開きかけたとき、ぱたぱたと足音が部屋めがけて近づいてきた。尋常でない様子のそれに、審神者は視線だけそちらに向ける。
「主、部屋かい。失礼するよ」
「歌仙?」
ぱっと石切丸が敏感に横たわる審神者の前に出た。彼女も自分の指先を見つめる。大丈夫だ、変な所はないように見える。
すっと襖が開き、厳しい表情の歌仙が部屋を覗き込む。
「すまない、体調が悪いところ。起き上がれるかい」
「まあ、なんとか、大丈夫です」
体を起こそうと手を突けば、石切丸が背を支えてくれた。ずっと御神刀を抱えていたおかげで、幾分か感覚が戻ってきている。
「青江が、急いでくれ、酷い怪我をしているんだ」
「……青江さんが?」
開けられた襖の向こうから、「にっかりさん!」と小夜の慌てた声が聞こえる。ああそうだ、彼はどんな怪我をしたって、絶対に自力で歩いて帰ってくる。彼女は慌てて立ち上がり、ふらつきながら歌仙が開ける襖にすがりついた。
ぽたりぽたりと廊下に血の足跡を残しながら、それでも青江は立っている。手に資材を入れた袋を携えて、顔を上げ、緑と赤の瞳が覗く。僅かに唇が緩められたのがわかった。いつもどおりに、言うつもりなのだ。
「……ただいま、お土産だよ」
崩れ落ちることなんて青江はきっと自分に許さないだろうから、彼女はそのまま彼に駆け寄って真正面から抱きついた。着ている白い装束が血で汚れる。
涙が出そうになって、堪えて、やっと喉の奥から声を絞り出した。
「おかえりなさい、青江さん」
そう言えばやっと、青江の体がぐらつく。彼女ごと歌仙と石切丸がそれを支えて、手入れ部屋へと青江は運び込まれた。
寒い、暗い。青江はその「どこか」で指先を擦り合わせた。
元々鋼の身だからか、青江はあまり寒いのが得意ではなかった。冬場はコタツから出たくないし、火鉢からも離れたくない。何でこんなところにきてしまったのか。
思い返して、そういえば重傷を負ったねえなんて他人事のように呟く。あまり実感がわかない。練度も十分だったのに、無理をしすぎたということだろうか。確かに躍起になりすぎたようには思う。
何せ青江にできることは、もうこれだけだと思ったのだ。戦場で戦果を挙げて、資材を持ち帰る。刀として十分な働きをする。それが、もう彼女にしてやれる唯一のことだと。青江は、神剣ではないのだから。
一人でもできる限りのことをしようと思って、その結果怪我をしたということだろうか。なるほどそのあたりの記憶がぼんやりしている。もしかしたら、彼女が死んだときのことを思い出せないのもこういう感覚なのかもしれなかった。
……ともすれば、彼女が本丸から消えてしまったときにたどり着くのはこんな場所なのだろうか。
泣いてしまうだろうなあ、あの子と青江は思った。こんな寂しいところに一人きりでいたりしたら。そして同時に、こんなところにあの子をやりたくないなあとも、思った。
「……目が覚めましたか」
ゆらゆらと視線を上げれば、珍しく審神者に見下ろされていた。ああそうか、僕が横になっているからかと気づき、体を起こす。若干だが手足が重たいように思えたけれど、どうってことはなかった。もう痛みはないし、満足にどこもかしこも動く。髪は手入れのときに解かれたようで、さらさらと肩から零れてきた。
「調子はどうです」
「……ん、問題ないねえ。変なところはないよ」
「そうですか」
手を握ったり開いたりしながら、青江は敢えて彼女のほうに視線を向けなかった。
怒っている、見なくたってわかる。声が物凄く怒っている。こんな声音聞いたことがない。たらりと青江の頬を嫌な汗が流れる。
「私に、何か言うことは」
「……ご、ごめんね? 練度も十分だし、大丈夫だと思ったんだけどねえ」
「肝が冷えました」
「……そうだよね」
それに、余計な霊力を使わせてしまった。ただでさえ弱っていたときに。青江はちらりと彼女の指先に目をやる。一応、透けてはいなかった。
「人には無理するな無理するなって言うくせに、どういうつもりですか」
「……」
「というか止めたのに一人で出陣したのは何でですか、私の性格、青江さんわかってますよね? 石橋を叩きすぎて壊すような性格してるんですよ。わかりますよね?」
「……わかっているさ」
わかっている、わかっているとも。だって傍にいたのだ。秘密を守るために、彼女をあやかしから守るために、彼女の目的を果たすために。誰より傍にいたのだ。誰よりも彼女のことを理解しているつもりだったのだ。
でもそうではなかった。彼女にできることなんて、青江が思っていたよりずっと少なくて、わかっているつもりで、何もできていなくて。だから、せめて刀としてくらい役に立ちたかった。
「わかってるならなんでこんなことしたんですか……っ、怪我したら、私が泣くことくらい、わかってたでしょう?」
震える声で彼女がそう言ったので、青江はやっとそちらを見た。まだ泣いてやしない。瞳は涙でいっぱいだけれど、泣いていなかった。
何と言葉にしたらいいか、わからない。ずっとずっと長い間刀でいたのに、自分の気持ちはうまく表せない。だから何とかいつも通りの笑顔を作って、青江は答える。
「でも、それでも僕のこと好きだろう、君。僕たち仲良し、だもんね?」
語尾が震えていることに、自分でも気がついていた。違う、こんなことが言いたいんじゃない。でも、言ってほしかった。「そうだ」って。自分がいいって。
しかしそれを聞いた瞬間に、彼女はがしりと青江の着ていた寝巻きの胸倉を掴んだ。
「……っ嫌い! 嫌い、嫌い、大っ嫌いです! 青江さんなんて大っ嫌いっ!」
ぶわりと遂に涙を零して、彼女は力いっぱい青江の着物を掴んでいた。ぐらぐらとそこを揺さぶり、青江が驚いて声も上げられないのなんてまるで気にもしないで叫び続ける。
「大嫌いですよ青江さんなんかっ!」
「ちょ、ちょっと待っておくれよ、君、あんまり傍に寄ったら」
消えてしまうのに、ここからいなくなってしまうのに。
だが青江の制止をものともせずに、審神者は青江を逆に引き寄せた。
「怪我して帰ってくる青江さんなんか嫌いっ! 自分のこと省みない青江さんなんか、大っ嫌い! 生きてるくせに、自分のこと大事にしない青江さんなんか……っ、嫌いですっ!」
嫌いだ、大嫌いだと言いながら、彼女は絶対に青江のことを離そうとしなかった。どこにも行かせまいと胸倉に全力でしがみ付きながら、わんわん大声で泣き始める。
指先が震えて、どうしようか迷って……青江は腕を彼女に回した。泣きすぎて体温が上がっているせいで、彼女は冷えた青江の体にはとても気持ちがいい。
「……言っていることとやってることが、真逆だよねえ、君……」
それからぶっ通しで一時間ほど泣き続け、疲れたらしい審神者はへなへなと青江の膝を枕にして横になった。相変わらず、感情がどこか一点を突破すると細かいことは気にしなくなるらしい。普段なら真っ赤になって、絶対にこんなことしない。
「あたまいたいです……」
「あんなに大声で泣くからだよ」
「泣かせたあおえさんがわるいです……」
「はいはい」
ぺしっと弱弱しい力で青江の腹が叩かれる。くすりとひとつ、青江が笑った。審神者は「ひざかたい」なんてぶつぶつ文句を言っている。
「青江さんのばーか、ばーかばーか」
「子どもじゃあないんだから」
「馬鹿ですよ馬鹿、大馬鹿です。知りませんよもう」
「……それでも傍にいるくせにねえ」
ぎゅっと寝巻はまだ掴まれたままで、離してくれそうにない。青江の膝も胸元も、彼女の涙で濡れている。けれど、不愉快ではなかった。鼻を啜ってから、彼女がぽつりぽつりと囁く。
「……石切丸さんに、聞きました」
「何をだい」
「もしかしたら、私は死んでいないかもしれないって。今なら戻れるかもしれないし、仮に死んでいても成仏できるって。青江さんといるのは、ただ時間を縮めるだけになるって」
ほろと再び一筋だけ涙が流れた。彼女の鼻を伝って、それは青江の膝に落ちる。ぽたりと彼女の涙の海に、それは混じる。何故だかとても暖かい。
それを知ってもなお、彼女は青江から離れる気がなさそうだった。零れ落ちそうになる涙を指先で払って、少しだけ微笑む。
「私、考えたことがあります、青江さんと会ってから何度も、繰り返し」
「……何かな?」
長く一度瞬きをしてから、彼女は目を開いた。
「青江さんに斬ってもらえたら、私、成仏できるのかなって」
吸った息を吐きだせなくなってしまった。
女の霊を斬り捨てた「にっかり青江」だからこそ、彼女に出来ること。それはもしかしたら、ここから彼女を追い出すことなのかもしれない。けれど、そんなこと自分に出来るだろうか。
いや、もし望まれれば、そうしなくてはならない。青江が「にっかり青江」であることは、捨てられない。そうでなくば、きっと青江は彼女に出会えなかった。青江が「にっかり青江」の付喪神であったから、彼女が霊魂として本丸に引っ掛かったから、二人は会えたのだ。だからそれだけは、捨てられない。
「……僕は主は斬らないけれど、君がいつものように泣いて頼んだら、考えるかもしれないよ」
そう答えれば、審神者はゆっくりと首を振る。涙を拭って、きゅっと唇を引き絞った。
「なら、もう泣きません」
泣いているとは言い難かった。けれど笑っているとも言えなかった。赤くなった瞳の奥には怯えが見え隠れしていたし、青江の寝巻を掴んでいる指先は震えている。恐ろしいのだと、一目でわかる。
けれど、それでも彼女がそうするのだと、言うのなら。
「ねえ、じゃあ一つ約束しておくれよ」
青江は審神者の額を一つ撫でて、尋ねる。ぱちぱちとまだ涙で濡れた睫毛が瞬かれた。
「笑ってさよならしよう、僕たち」
「……笑って?」
「うん、だって君の泣き顔、もう見飽きちゃったからさ。お別れのときくらい、笑ってくれてもいいだろう?」
そうしたら、その表情を青江はきっと折れるまで忘れないだろうから。小指を差し出すと、いくらか視線を惑わせた後、彼女は自分のものを絡めた。
「約束だよ。そのときが来たら」
きっと、笑ってお別れするのだ。