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    君が消えていなくなるまでの話君が消えていなくなるまでの話君が消えていなくなるまでの話


     縁側で審神者が膝を抱えて座っている。青江はそれを見つけて、おや珍しいと思った。
    「そんな風に座っていたら、見えてしまうよねえ。君の下着のことだよ」
    「ひゃあっ!」
    「何を見てるんだい」
     審神者は、この本丸の屋敷から一歩だって外に出られない。だからあまり、縁側に出ていることだって今までなかった。それが今日はどうしたのだろう。青江は隣に腰を下ろした。二つ、白装束が板張りの廊下に広がる。
    「ここのお庭ってこんなに広かったんだなあと、思いまして」
    「おや、気が付かなかったのかい」
    「今更なんですけと。ちょっと勿体ないことしたなって。きっとお花とか綺麗だったんでしょうけど。どうせ傍で見れないしなあって見ていなくて」
     そろそろと彼女が手を伸ばした。すると丁度、庭と縁側の境で指先が止まる。どうやらそこから先には進めないようだ。外界と、彼女のいる場所とを隔てている壁。
     つつつと何もない場所をなぞって、彼女の手は再び自身の膝を抱えた。目の前にあるのに、その庭は随分遠い。青江も試しに手を伸ばしてみたが、当然それは阻まれることなく、屋根の向こうの日向へと届いた。
    「……本丸の庭もだけどねえ、あの塀の向こうもすごいんだよ」
    「え?」
     本丸の白い漆喰の塀の向こうを、青江は指差す。庭のもっともっと、遠くだ。
    「僕たちが畑に出たりする、あの向こうだよ。丘があって、すごく大きい木がある。太くて立派なんだよ、幹の話だけど」
    「丘に、木ですか」
     審神者は青江のグローブが嵌められた指が指す場所をじっと見つめた。あまり、言葉を語って聞かせるのは得意ではないのだけれど、青江は出来るだけ細かく細かく思い出して伝える。
    「そうだよ。春になるとたくさん花が咲いて、秋になると真っ赤に色づくんだ。周りの木立にはたまに食べられる果物があってね、よくおやつに燭台切が出してくれるだろう? それから生けてある花も、そこから摘んでくるんだ。他はどうだか知らないけれど、ここの四季の移り変わりは、とても綺麗だよ」
     そう、とても綺麗なのだ。口に出してしまうと、すんなりそうだと思える。ずっとずっと、刀だったからそんなことまで気が回らなかったけれど。
     移りゆく季節と一緒に変わる景色。昇っては沈むお日様と、それを追いかけるお月様。木々は伸びて、花は蕾を膨らませ、花を咲かせて……それから散る。たった一つ、種を残して。
     生きているものは皆、同じだ。いつ終わるかわからない日々の中で、懸命に自分のできることをしている。ここにいる彼女だって、そうだ。
    「……見に、いかないかい。次の季節の変わり目は。君と一緒に見たいなあ、僕」
     青江は隣にいる審神者を見なかった。審神者も彼のほうを向く様子はなかった。真っ直ぐ遠く、二人して塀の向こうの空を見る。
    「……いいですねえ。次の桜や御月見や、雪見なんかは。青江さんと一緒にしましょうか」
     チチチと、小鳥が庭の木から木へ渡っていった。カサリと葉が揺れる音がする。
     ゆっくりと視線だけを審神者にやった。すると審神者もまた目だけを青江の方に向けている。堪えきれなくなって、青江はつい吹き出した。
    「んっふふふふ、主も好きだよねえ」
    「青江さんも言いっこなしですよそれ」
    「でも君、僕のこと大好きだろう?」
    「そんなことありませんー。自惚れじゃないですか?」
     そんな酷く子どもじみた言い合いをして、青江は肩を震わせる。くつくつとした笑い声が縁側に二つ、静かに響いた。
    「今日も仲がいいねえ、君たち」
     通りかかった歌仙が穏やかに微笑みながら声をかける。振り返った審神者が今度は視線を迷わせることも、言いよどむこともなく、きっぱり言い切った。
    「はい、仲良しなんですよ。私たち」
     青江もにっかり笑って歌仙を振り仰ぐ。それから同じように、そう口にした。
    「そうそう、仲良し、なんだよ」
     あの日から一度も、審神者は泣いていない。



    「うん、今日も平気そうだね」
     石切丸の大きな手の上で、彼女は手のひらを何度か引っ繰り返した。石切丸はそれを握ったりなんだりして、感触を確かめる。
    「君はどうかな? 変な風に感じたりしないかな?」
    「微妙、ですかね。相変わらずどこかに引っ張られているような気はしますよ」
     拳を握ったり開いたりしながらそう答える審神者を、青江はじっと見つめた。確かに指先や体が透けるようなことはないけれど、彼女の輪郭線が日に日に細くなっていくのは青江もわかっていた。透ける、とはまた違う。強いて言葉にするのであれば、霞んでいるのだ。
     歌仙や小夜が、審神者を気遣って「具合でも悪いのかい? なんだか少し、痩せたようだよ」なんて話しかけているのを見かける。薬研が栄養剤を渡しているのも、燭台切が「精のつくもの、食べさせてあげようね」なんて言っているのも。全部全部知っていた。けれど本当は、そんなの何の役にも立たないとも、青江は知っていた。決して、口にはしないけれど。
     石切丸は最後に彼女の手を両手で挟んで包み、「よし」と頷く。
    「君の姿がきちんと見えている間は、この本丸の守りをすり抜けていってしまうことは決してないよ。けれど無理は禁物だからね」
     毎朝こうして、石切丸が彼女の体に異常がないか確認する。まだ触れられるか、見えているか。あとどのくらい、ここにいられるのか。
    「はい、わかりました。あ……そうだ、私青江さんにお願いしておかなくちゃいけないことが」
    「ん? なんだい?」
     急に話を振られた青江は、髪を揺らして審神者を見た。すると審神者は肩を竦めて、困ったような表情で口を開く。
    「私がいなくなった後の話なんですけど」
     シュッと鋭い爪で胸の奥を引っかかれたような気がした。だが表情は変えずに、青江は「うん」と返事をする。
    「後任の方はもういるみたいなので、私がいなくなったら突然皆が刀に戻る、なんてことはないそうです」
    「……へえ」
    「でもその人がすぐにここに来られるかというと微妙らしくてですね、少し時間がかかるかもとこんのすけが。それで今の私の近侍は青江さんなので、しばらくはこの本丸の全権が青江さんに行くと思うんです。歌仙も手伝ってくれると思うので、留守中はよろしくお願いします」
    「ふうん、そうかい……わかったよ」
     それ以上、何も言えなかった。口にする言葉を持たなかった。
     まだそんなこと決めるのには早いんじゃないかい、なんて気休めを言っても仕方がない。だが目を背けているわけにもいかない。彼女はどこか柔らかな表情で、「お願いしますね」とか言っているんだから。その答えの他に、かけてやる言葉はない。
    「でも、物に触れるだけよかったです。打ち粉を持てなくなったら、手入れができませんもんね」
     へらりとした顔でそんな風に言うものだから、青江はぽんとその頭を叩いた。笑い事ではない。
     ピピーッとそのとき、傍に置いておいた通信端末が鳴った。審神者はそれを取り上げて、いくらか画面を操作し通信を繋げる。ぼんやりとこんのすけの顔が浮かび上がった。
    「おはようございます、主さま。調子はいかがで?」
    「おはようこんのすけ。まずまずってところです」
    「それはよかったですう! ところで主さま、主さまに出陣要請が来ております」
     驚きで声を上げるまもなく、画面には次々と要請の詳細が映し出され始めた。彼女は上から下に視線を動かして、それを辿る。青江もそこを覗き込んだ。
     本丸の近辺に敵性反応あり、本丸の警護は全ての要、総力を挙げて迎撃の準備、討伐に当たるべし。要約するとそんな感じである。
    「近くって、そんなにですか?」
     彼女が聞けば、こんのすけの声が答える。
    「ええ、もしかしたら敵が本丸の位置をごまかしている守りに割り込まれた可能性がございます! 複数の本丸周辺に同様の反応が見られるため、各自警戒態勢に入り順次迎撃をとのこと! 政府からも援護が入りますがなにぶん数が多く」
     青江は眉間にしわを寄せた。まあ、わかる。敵陣を直接叩くのは戦の基本だ。この戦いにおいて、本陣は各本丸。敵が乗り込んでくることも考えられる。むしろ急襲でなかったことに感謝すべきだが、なんて間の悪く、引きの悪い。
     隣では同様に石切丸が苦い顔をしていた。これは少なからず大きな戦いになる。たった今無理をするなといったところなのに、これがどう彼女に響くか。
    「……編成を、お願いできますか。審神者さま」
     こんのすけの声に、彼女は目を伏せた。通信端末を握る手が、力が込められ白くなる。けれど間を空けずに顔を上げ、彼女は頷いた。
    「もちろんです。すぐに用意します。夕刻には迎撃に。うちの面々を考えても、夜戦に持ち込んだほうが勝機があります」
     わかりました、では。こんのすけの返答を最後に、通信が途切れる。ごとんと重い、文机にそれを戻す音が響いた。
     せめてもう少し悩むなり躊躇うなりしてくれれば、青江も言いようがあったのだが。彼女はほぼ即決だったものだから、もうフォローのしようがない。
     青江が息をつくと、石切丸が腰を上げて部屋から出て行った。まだ加持祈祷が途中なんだ、なんて言って。
    「……やめておきなよって言っても、聞きやしないんだろう? 君」
     念のため、聞いておく。彼女はこちらに背を向けていた。ゆっくりと振り向いた顔は、やっぱり泣いてやしない。
     もっと取り乱してもいいのに。敵が本丸の近くまでくるんだよ? もしかしたら、襲われるかもしれないんだよ? ただの女の子なら怖いに決まっているのに、彼女は涙のひとつさえも浮かべていなかった。
    「刀は戦ってこそだって、青江さんいっつも言うじゃないですか。隊長、お願いしますね。夜戦ですもん」
    「……はいはい、戦慣れはしているからね」
     けどお別れをするのには、青江はまだ慣れていなかった。
     夜戦を主とした編成といえど、彼女は長期戦になるのも視野に入れて太刀大太刀まで、本丸にいる全ての刀剣を部隊に入れた。一人で本丸に残るなんて危ないと歌仙は言ったけれど、審神者は「大丈夫ですよ」なんて笑って流す。
     出陣は夕刻、きちんと食事を摂っていってくださいと家事が得意な刀剣たちが彼女と総出で炊き出しをした。その途中でひょいと、青江は白装束を引っ張られて振り返る。唇に人差し指を当てて、審神者が手招きしていた。
    「皆に内緒で、なんだい?」
     執務室の襖を閉めて、青江は聞いた。すると彼女はがさごそと文机の中を漁って、ひとつ紙袋を取り出す。
    「あ、ありましたありました、失くしてなくてよかった」
    「なんだい、それ」
    「青江さん隊長ですからね、ちょっとした景気づけですよ。動かないでくださいね」
     針と糸を取り出して、手首に巻いた針山にそれを突き刺すと、彼女はえいと青江の着た戦装束の前を開けた。実に潔く、恥じらいも躊躇いもない動きである。あまりに審神者が平然としているから、青江のほうが焦って身を引いた。
    「ちょ、ちょっと待っておくれよ、僕を脱がせてどうするつもりだい」
    「動いたら危ないですからね、だめですよ」
     審神者はピッと糸の端を口に咥えて、針と糸とをピンと張る。それから青江の上着の裏地にそれを通して紙袋の中から取り出したものを胸元に縫いつけ始めた。
    「……なんだい、それ」
    「お守りですよ。一つだけ持ってたので」
     綿の縫い糸がスーッと布を通り抜けていく音が、いやに執務室に響いた。青江も審神者も立ったままで、ただ彼女だけが手を動かしていく。
     ちょうど、青江の体の心臓の真上の辺り。美しい刺繍が施されたお守りの布袋が、徐々に縫いとめられていく。
    「どうして僕に、それをくれるんだい」
    「いやあ、お礼ですよ。今まで青江さんには随分お世話になりました。働いてくれただけのご褒美はあげないと。まだこれからも、青江さんが斬ったり斬られたりできるように。青江さんはいい刀ですから」
     最後に玉止めをして、ぱちんと彼女はその糸を切った。丁寧に脱がせた上着の前を留めていく。きっちりと首元までそうしてから、「上出来です」と僅かにお守りで膨らんだ心臓の上を撫でた。
    「季節の変わり目を一緒に見る約束をしたのに、本丸の周りが荒らされたのでは堪ったもんじゃないです。しっかり守ってきてください」
    「……そうだね」
    「あんまり怪我しないで帰ってきてくださいね。戦ってるんだから平気さー、なんて言われても、こっちが平気じゃないので」
    「うん」
    「それから……できるだけ長く、折れずに戦ってください」
     戦うことは、青江の本分だから。ヒトのように心を持っても、それだけは失くせない。でもどうかせめて、その時間ができるだけ長くありますように。両手を添えて、彼女は青江の心臓に額を寄せる。
    「……泣いてもいいよ」
     声をかければ、審神者はゆっくり首を振った。
     やけに大胆で、躊躇いのない動作は、彼女がどこか感情の一点を突破した証拠。怖いって泣けばいい。まだここにいたいって言えばいい。青江の胸元にある震えた指先で抱きついてくれれば、「しょうがないなあ」って笑ってやれるけれど。
     彼女はぱっと顔を上げた。
    「行ってらっしゃい。頑張ってくださいね、青江さん。帰りを待ってますよ」
     強がって、玄関の敷居ぎりぎりまで出て、青江の白装束の袖を振る主に、青江は一度だけ手を振り返した。
    「無用心すぎるよ、本陣に大将だけ残るだなんて」
     隣で控えた歌仙が腕組みをして、不服げに口を尖らせた。その隣でじっと暗くなっていく空を見据えていた小夜左文字も、それには同意する。
    「せめてにっかりさんだけでも、傍にいたほうがよかったと思いますが」
    「そうだよ! 君が傍にいるって駄々でもこねればよかったじゃないか、青江と主は恋仲なのだし。何かあったらどうするんだい」
    「駄々って、子どもみたいに言わないでくれるかなあ?」
     苦笑しながら青江は返事をした。むしろ青江はいつも駄々をこねられていたほうだ。泣いたり落ち込んだり忙しい審神者を、宥めて窘めて、無理はしないように言い聞かせて。
     ああでも確かに、あそこまでしたんだから一振傍につけろと忠告くらい、聞いてもらってもよかったのかもしれない。君のお願いをたくさん聞いたじゃないか、なんて。
    「……んっふふ、でもだめだよ、あの子聞きやしないさ。僕が言ったところで、きっとね」
     変なところが頑固なんだよねえ。止めたって聞きやしないで、無茶するなといっても要求を呑んでくれたためしが一度もない。もう平気さと言っても打ち粉でポンポン叩かれるし、刀装を作りに走っていってしまう。そのたびに透けて見えなくなってしまって、青江が肝を冷やしているのなんて、気にもしないで。
     でもそれだけ、彼らを刀として全力が出せるようにしてくれる。その本分を留めようとしたことは決してない。
    「信じているのさ、僕たちのこと。僕たちは絶対に、本丸に敵を入れやしないって。あの子が自信をもてないのは、自分にだけだから。僕たちがしくじるだなんて、欠片も思っていないんだよ」
     だから青江は胸を張って戦場に立てるのだ。
     暗くなった木立の向こうに、赤い光が見え始める。どうやらおいでになったらしい。木々に凭れていた青江や歌仙は体を起こし、小夜は重心を落とした。
     本丸から、できるだけ離れたところで決着をつける。そうでなくては、一緒に見ると約束した花々や果物に傷がついてしまうのだ。
     爛々と光る金がかった緑の瞳を凝らし、青江は敵陣を見やった。この手のものには、覚えがある。
    「頑張ってください、青江さん」
     震えていても、はっきりとした声だった。きっと、これが最後になる。青江も審神者もそれをわかっていた。だがその上で、必ず戦わなくてはならない。
     刀は戦ってこそ、主はそれを見守ってこそ。
     たとえすべてが消えてしまっても、彼女が「生きた証」は決してなくならない。青江がここで敵を倒すことで、本丸を守りきることで、継がれていく。この世からあの子の魂が消えたって、青江の心からはなくなっていかない。
    「にっかりさん! 槍が!」
     小夜の声が聞こえ、青江は白装束を翻し振り返った。混戦をすり抜け、敵槍兵が進軍しようとしている。自分が相手をしていた短刀を跳ね飛ばし、青江は強く地面を蹴った。
     奥から出てきていた部隊の石切丸が重い剣戟の音を立てて槍を受ける。室内ではないから、大きな刃を振り回しても支障はないようだ。ぶんと振りかぶられ、閃いた白刃が槍を弾く。
    「石切丸!」
    「青江! 急いで!」
     弾かれた隙を突いて、青江は真上から斬り込んだ。ヒュッと風を切る小気味よい音がして、ついでにビシャリと返り血が散った。
    「青江、わかっているね? もう時間がない」
     石切丸がまっすぐと青江のほうを見つめてそう言った。何を言われているかは、わかっている。
    「夜明けまで持つかどうかわからない、早く片をつけて、君は誰よりも先に帰るんだ。別れを言わずに行くのは嫌だろう?」
    「……わかったよ」
     白み始めた空を睨む。まだ明けてくれるな、もう少し、もう少しだけ。斬った分だけご褒美がもらえるというのなら、ちゃんとさよならを言わせてほしい。
     最初に廊下で透けている姿を見たときは、本当に度肝を抜かれた。普通の女の子だと思っていたのに、まさか幽霊だなんて。
     わんわん泣くし、その割に頑固で変に吹っ切れた行動を取ることもあって。嘘も誤魔化しも下手なのに、よく今までそんな秘密隠していられたよねえ? 青江は敵を切り払いながら、くすりと笑う。それでも精一杯、ここで生きることだけは、泣きながらでも絶対に諦めなかった。
     鳥の声が夜明けを告げると同時に、剣戟の音はすべて止んだ。空が群青色から朝ぼらけに変わりつつある。青江は短く呼吸を繰り返しながら、石切丸を振り返った。こくりと彼が頷いたのを確認して、踵を返す。
     燦燦と差し込む朝日よりも先に、帰り着かなくちゃならない。本丸の門に飛び込んで、玄関の敷居を跨ぐ。そこは暗くシンとしていた。
    「主、どこだい、主!」
     たたきから叫んでも返事はなかった。青江はブーツを脱ぐのがもどかしく、そのままもう一度玄関から出て中庭に回りこむ。屋敷うちから出られないのなら、ここから声は届くはずだ。
    「主!」
     もう行ってしまったっていうのかい。明かりのついていない廊下に白装束を探しながら、青江は今度こそ土足で母屋に踏み入ろうとした。そのとき不意に、明るくなりかけた中庭にひらりと影が差す。
    「あ、おかえりなさーい!」
     能天気な声が頭上から聞こえる。慌てて顔を上げれば、なんと彼女は屋根の上にいた。
    「なっ、何だってそんなところにいるんだい!」
    「青江さん、日が昇りますよ!」
     母屋から出られないんじゃなかったのか。いや今はそんなことはいい。青江は弾みをつけて飛び上がり、柱を伝って屋根に上がった。ひらりひらりと、彼女の服と白装束が風に揺れている。足元はもう、辛うじて見える程度だった。
     しかしそんなことものともせずに、彼女は嬉しげに東の空を指差している。
    「ほら、あっちですよ青江さん」
    「いや、そうじゃなくてねえ……まあ、いいよ。ただいま」
     間に合った。何とか、もう一度会えた、ただいまを言えた。とりあえずはそれだけでいい。
     はあーと長く青江が息をついたので、彼女は柔らかい表情で「おかえりなさい」ともう一度言った。
    「あのあたりですよね、青江さんが教えてくれた森とか木とか」
    「僕はもう少し、細かく教えてあげたつもりだったんだけどねえ」
    「あっ丘ってあれですよね? 本当に本丸の周りって広かったんですねえ。私こんなに山を見るの初めてです。とっても綺麗」
     昇りかけた太陽が、木々を明るく照らしている。葉は夜露が反射して煌めいていた。ざあっと強い風がその間を吹き抜けて、強い緑の匂いがくゆる。彼女の半透明の体にも、それは通っていった。
    「……私、しっかり生きれたって言ってもいいでしょうか」
     髪と白装束がゆらゆらとしている。少しだけ残った夜の名残が、僅かに彼女の輪郭を際立たせていた。青江はそれをしっかり見つめつつ、唇を緩めて答える。
    「誇っていいよ。君は自分の決めたことをやり遂げたんだ。ここにいる間、君は僕たちの主だったし、僕たちは君の刀だった。十分、立派な人生だったんじゃないかな。胸を張っていいよ。……まあ、君にはあんまりないかもしれないけどねえ、胸の話だよ」
     そう言えば、彼女はくすりと笑って鼻を啜る。じわりとその瞳の端に、涙が浮かんだ。小さな声で、「ありがとう」と聞こえる。
     段々と明るくなる空に引っ張られるようにして、彼女の姿が徐々に解け出す。青江はあまり瞬きをしないようにした。だって、瞼を開くごとに彼女の姿は薄れていってしまうのだ。
    「成仏、できそうかい」
    「これが成仏かはわかりませんが……でも、言い切れますよ。私の人生に間違いはなかったって。なんにも、間違ってなかったって、生きていてよかったって。心から」
     晴れやかな顔に、迷いや怯えは見られなかった。あの泣き虫はもうどこにもいないらしい。そのことに、ほんの少しだけ名残惜しさを覚える。きっとここにきたときのふわふわとした女の子も、もういない。ここにいるのは、これから旅立とうとしている一人のヒトの子だ。
     これから、ここを出て行こうとしている女の子だ。
    「そうだ、もしここから出て、迷いそうになったら……僕の名前を呼ぶといいよ」
     そう青江が言えば、彼女はぱちぱちと目を瞬かせる。
    「ええ? 青江さんって、ですか?」
    「そうそう、でももっとわかりやすいほうがいいなあ。にっかり青江って、呼んでよ。変な名前だからさ、すぐにわかるよ。君が呼んでいるなあって思ったら、こっちだよって僕も手を振るから。そうしたら迷わずに済むよねえ」
    「ああ、なるほど。目印ですね、ありがとうございます」
     さあ、餞は済ませたから、約束を果たして、もらわなくちゃねえ。
     「笑ってさよならしよう、僕たち」、そう二人は約束したのだから。こんなに素晴らしい朝の旅立ちなのに、お別れなのに。泣きながらなのは勿体無い。
    「……じゃあさ、ほら。笑いなよ、にっかりと」
     きらきらと光の粒が流れていった。朝の光が屋根の瓦や、中庭の池に反射し始める。彼女は青江のほうを振り向いて、そして、目を細めて笑った。くすぐったときに見た笑顔とは違う、青江が今まで見た彼女の表情の中で、とびきり綺麗な顔だった、
    「……ふふ、にっかり」
     さあっと暖かく、透明な風が吹き抜けていく。彼女に着せてやっていた白装束が、ふわりと空に舞っていきかけたのを、青江は掴んだ。
     つうと一筋だけ、頬を涙が伝っていく。自分のほうが約束を破ってしまった。
     どうか願わくは、あの子の行く場所がこの朝焼けのように明るい場所でありますように。ここを出て迷ったりしませんように。怖い目にあったり、寂しい思いをして泣いたりしませんように。優しい場所に、辿り着きますように。
     神剣ではない青江は、ただずっと、今度は斬らなかった女の子の幽霊の白装束を握り締めてそう祈った。
     ざわざわと玄関のほうで帰城した部隊たちの声がする。はあと顔を上げて、青江は彼らに話す主のいない理由を考えた。涙で朝日が余計に眩しかった。
    micm1ckey Link Message Mute
    2023/02/02 17:07:01

    君が消えていなくなるまでの話

    #にかさに #刀剣乱夢 #女審神者
    2017年に完売したにかさに本のWeb再録です。

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