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    しおり
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    しおり
    できればあなたは幸せでいて


    「ありゃ?」
    「あ」
     ひらりと桜吹雪が舞った。それが眩しくて彼女は目を閉じる。次にまぶたを開いたとき、髭切は既に紫の籠手を装備していた。ああ、これがそうなのかと合点する。今まで教科書の上でしかその現象を知らなかったから、彼女はそれを初めて目にしたのだ。
    「うん? どうかしたのかな、これ」
    「おめでとうございます。きっと特がついたんだと思いますよ、髭切さん」
    「特?」
     刀剣男士は一定の練度に上がると、強さも一段階あがるらしい。更に髭切はその点において特殊な刀剣で、特段階が複数あると聞いた。きっとこれはその一段階目なのだろう。
     それをざっと髭切に説明すると、髭切はにこりと笑って頷いた。
    「そっかあ、僕がまた強くなったってことなんだね。うん、敵が鬼だろうがすぱすぱ斬ってしまおう!」
    「あはは、心強いですね」
     少しずつ彼女にも戦闘を含む任務が来始め、同時に政府の刀剣同士で演練にも参加させてもらっている。そうして入った微々たる経験値が髭切の練度を確実に上げているということだろう。それは素直に喜ばしいことだ。練度が上がれば、髭切が戦闘で負傷する可能性も減る。すなわち折れる危険性が減るということに他ならない。
     安堵している彼女の手を握り、髭切は歩き出す。今日の任務はもう終わりだ。帰城しても問題ないだろう。彼女はおとなしくそれに従った。
    「嬉しいなあ。ご飯、今日は僕の好きなもの作ってくれる?」
    「いいですよ。何がいいですか?」
    「うーん、帰りながら考えよう。強くなって君にもっと使ってもらえるんだもの。とても幸せなことだよね」
     幸せ、と彼女は一人心の中で繰り返した。
     もう何度も髭切から聞いた言葉だ。しかし、髭切にとっての「幸せ」とは一体なんなのだろう。それはぽつりと沸いた、彼女の小さな問いだった。



     死ぬ、これは死ぬ。明日には絶対に動けなくなっている。ベッドの上に座った彼女は強張った表情で自分の右腕に手をやった。正直そうして触れるだけでとてつもなく痛い。さっきパジャマに着替えるのにも苦労した。
    「ありゃあ、まだ痛む?」
    「ぎゃっ! やめ、やめてくださいっ!」
     お風呂上りでしんなりとした髪の髭切が無遠慮に二の腕に触れてきて、彼女は叫んで飛び退った。何てことをしてくれるのだ。
    「あはは、そんなに? うーん、じゃあ今日は腹筋無理かな」
    「む、無理です、絶対に無理。むしろさせるつもりだったんですか」
    「ふふ、冗談だよ」
     にこにこと髭切はベッドの上で髪をわしゃわしゃと拭く。水気を飛ばしてからベッドにあがってくださいなんて文句を言う余裕さえも彼女にはなかった。ただできるだけ腕に負担にならないよう緩やかな動きをするのに全神経を集中させているのだ。
     事の発端は、本日の昼まで遡る。
    「だいぶ筋力がついてきたね、うんうん、いいことだよ」
     いつもの指導時間、組み付きでしっかり負けて地面に伸された彼女の腕に触った髭切がにこにことしながらそう言った。流石にこの指導では三日月にもいいアドバイスはできるはずもなく、たまに絆創膏を貼って面談に行く彼女は「頑張るのだぞ」と励まされ続けている。それにしても何の躊躇いもなく体に触るのはやめてほしい。一応彼女だって年頃の女の子なのだ。
    「動きも早くなってきたし、僕を押す力だってちゃんと強くなってるよ。偉い偉い」
    「はあ……ありがとうございます」
     髭切は彼女を引っ張り起こしてぱんぱんと肩や背の埃を叩いてやりながら、うーんと考え込んだ。彼女は自分でもスカートの裾なんかを直しつつ、ちょっと腰を擦る。今日は受身に失敗して、やや痛い。
    「じゃあ次はどうしようかなあ。君、女の子だし。何か武器も扱えたほうがいいとは思うんだよね、万が一のときのために」
    「武器ですか……」
    「でもあれは無理だよねえ」
     髭切がベッドを振り返ったので、ちらりと彼女もそちらに目をやった。重く布団に沈みこんでいるのは髭切の本体。彼女にあんなものを扱えるはずがない。というか、いくら力がついたとはいえ持ち上げて振ることもままならないだろう。それなのに武器なんか持たされても、と首を傾げる。まあ刀剣男士はそもそもが刀なのだから、それを教えたくなるのはわかるが……。
     ひらりと上着を翻しながら髭切は本体を手に取り鞘から抜いた。鈍く刃が青白い光を見せる。髭切は片手でそれを何度か振ったが、やはりやめて元に戻した。
    「やっぱりちょっと君には重いね」
    「そりゃあそうでしょうね……太刀は無理です。短刀とかなら」
    「それはだめ」
     彼女の提案を即却下して、髭切はふふと微笑むとくるりとこちらに向き直る。
    「せっかくだけど、残念だなあ。君に使ってもらえるいい機会だったのにね」
     あ、なるほどそういうのもあるのか。
     髭切の何気ない呟きに、彼女は少しハッとしていた。自身を振るうための腕を得てもやはり、自分を誰かに使ってもらいたいという気持ちは彼らにあるのか。そして同時に、彼女は髭切が何故短刀を却下したのかもなんとなく理解する。髭切は今、「彼女の刀」だからだ。そして彼女の刀は髭切一振しかいないから。それゆえに、自分以外の刀剣は「だめ」なのだ。
     ほんの少しだけ、彼女はくすりと笑う。なんとなく、そんな小さな髭切のこだわりに人間味を感じてしまったのだ。だから彼女は髭切の隣に立って、よいしょと本体を持ち上げた。
    「確かに重いですね」
     両手でしっかりと持たないと厳しい。それに長さもあるから、抜くのにも一苦労しそうだ。髭切の瞳と同じような琥珀色の拵えを手に、彼女は髭切を見上げる。
    「抜くのを手伝っていただけませんか?」
     そう言えば、ぱちぱちと長い睫を瞬かせたあとに髭切はにこりと微笑んだ。
    「……いいよ。じゃあまず柄を握って」
     背後から髭切の手が上から彼女の手を包み、ぐっと柄を握る。それからもう片方でゆっくりと鞘から抜いた。白刃が目の前できらめき、思わず彼女は目を細める。わずかに金属のすれる音を立てながら、髭切の太刀はその身をさらした。髭切がしっかり支えてくれているので、刃の重みは感じてもぐらつくことはない。
    「君にはやっぱり、ちょっと長いかな。どう?」
    「とても……綺麗だと、思います」
     純粋に、美しいと感じた。真っ直ぐとした、その刃を綺麗だと感じた。初めてこんなに間近に見る髭切の太刀に目を奪われる。そして同時に、両手で持ってもやはりずしりとしたこの重みが、彼女の背負っているものなのだと再認識する。ぎゅっと柄を握り締めると、その上から髭切が同じようにして掴んだ。手と背中の両方に、髭切の体温を感じる。
    「忘れないで。これが僕、君の刀だよ」
    「……はい」
     ぱちんと音を立て、髭切は再び本体を元に戻した。それからくるりと彼女の前に回ってこちらの顔を覗き込む。満足げな顔で笑っている髭切はいいことを思いついたと言わんばかりに手を打った。
    「じゃあ君、せっかくだから弓を教えてあげるね」
    「は、弓? 弓ですか」
    「うんうん、せっかくだから。じゃあ早速行ってみよう」

     ぎゅっと彼女の手を握ると髭切は軽やかな足取りで部屋を出た。弓? 刀剣なのに? いや、確かに弓兵を装備できる刀種もあるが、太刀はそうではなかったはず。
     政府の施設内には、やはり刀剣男士の鍛錬用のスペースも設備されていた。そこには剣道のほか弓道場もあり、どこで知ったやら髭切はそこに彼女を連れて行く。靴を脱いであがっていくと、置いてあった弓を手に取り彼女に差し出した。
    「さ、じゃあ頑張ろう」
    「えぇ……」
     またいつもの「じゃあ頑張ろう」だ……と彼女は肩を落とした。確かに、審神者の養成学校で習った武術体術の中に弓道もあったから齧った程度にはわかる。ただ髭切がやるときには徹底的にやる鬼コーチなのがまずいのだ。十射必中とか平気で言い出しかねない。
     だが言ったら聞かないのが髭切である。仕方なしに彼女は弓と矢を受け取った。道着ではないのだがそれはいいのだろうか。
    「作法からは外れてしまうけどね。君、戦闘にいつも道着を着ていくのかい? そうじゃないなら普段着で慣れておいたほうがいいよ」
    「なるほど……にしても髭切さん、弓を教えられるんですか?」
     剣道ならまだしも、弓だ。一応確認すると、髭切は犬歯を覗かせてにぃっと笑った。
    「いやだなあ、流鏑馬は武家の習いだよ」
     髭切は自分も弓矢を手に取ると、なんでもない様子でそれを構えてぎゅっと引き絞った。ちょうど特段階を経て上着の片側を落としてるからか、彼の右腕がどれほどの力でそれを引いているのか一見してすぐにわかる。思わず彼女は後ずさった。
     ヒュッと空を裂いて矢が飛んだかと思えば、まるで銃声かと思うような破裂音が響き、的のど真ん中にそれは刺さる。文句なしの大当たりだった。
    「……那須与一、なあんてね。さ、君の番だよ」
     はい、と彼女はもう乾いた声で返事をするほかなかった。しかしそこからが地獄だったのである。
     いくら筋力がついたとはいえ、弦を引き絞り狙いを定め、それを放つ動作を死ぬほどさせられたのだ。右腕が攣る寸前だった。おまけに射ている最中でさえ「もっと腰を落とさないと狙いが逸れるよ」だの「引きが足りないから外れちゃうんだねえ」だの絶え間なく指導が飛んでくる。おかげさまで終わるころには腕は上がらないし、いやむしろ動かせやしないし、翌日来るはずの筋肉痛が既に右半身を襲っている始末。とんでもない目に遭った。
    「まあでも筋はよかったよ。練習を積めばきっとうまくなるから大丈夫。焦らずにゆったりいこう」
    「それはどうも……」
     嬉しそうな髭切に力なくそう答えると、髭切はくすくすと笑いながらこちらに手を差し出した。
    「腕を貸してごらん」
    「え?」
    「あはは、大丈夫、斬ったりしないから」
     流石にそんな心配をしたわけではないのだが。あまり刺激を与えないように、彼女は右腕を髭切のほうに伸ばした。すると髭切は左手で彼女の手首を掴んで伸ばし、右手で一番痛む二の腕の辺りをゆっくりマッサージし始める。強張った筋肉を解すように、手のひらで温めながらゆっくりと。
    「えーっと、ああそう、あの、お世話が得意な子」
    「該当者が結構いる気がするんですが」
    「脇差の……赤い耳飾をした子だよ」
     ああ、と彼女は頭に彼を思い浮かべる。堀川国広が一体どうしたのだろう。
    「きっと初めてならこのあたりが痛くなるだろうって教えてくれてね。こうしてあげると少し楽になるかもしれないって言われたんだけど、どう?」
    「痛くはないです、ね」
    「ふふ、ならよかった。終わったら左もしてあげるね」
     ベッドの上に座って、胡坐を掻いた髭切と向かい合う。慎重に揉んではくれているのだが、たまにウッと彼女が顔を歪めると、髭切はすぐにそれを悟って手の力に微調整をしてくれた。
    「ありがとうございます」
     礼を言えば、髭切はにこりと笑ってくれる。それから緩く首を振った。
    「ううん、僕が君を立派な主にするって決めたからね。しっかり見ておかないと。はい、左を貸して」
    「あ、はい」
    「でも覚えておいてほしいな。僕が君に弓を教えるのは、一緒に戦ってほしいからじゃないよ。万が一のときは、何かあっても出てきちゃだめだからね」
     静かな声で髭切はそう言うと、彼女のマッサージを続ける。なんとなく話を遮ってはいけない気がして、彼女は黙ってそれを聞いた。
    「戦うのも君を守るのも僕の役目だからね。その間はずっと隠れていてくれないと。僕が君を強くするのは、君に長く僕の『主』でいてもらうためなんだから」
    「……でもそれで髭切さんが死んじゃったら、意味がないですよ」
     ぐっと髭切がやや強めに彼女の腕を握った。圧迫されたためか、指先に自分の鼓動を感じる。痛みよりもずっと、そちらのほうが伝わってきた。
    「それでも、そのとき僕はきっと幸せだよ。君に最後まで使ってもらえるんだもの。君の刀としてね」
    「……」
    「はい、おしまい。たくさん運動したから、きっと今日はよく眠れるね。おやすみ、僕の主」
     すっと髭切は彼女の腕から手を離し、微笑むと自分は布団の中に入り込んだ。いつものとおりおやすみ三秒である。すやすやと穏やかな寝息を立て、胸を上下させている髭切を見て、彼女はため息をついた。いやでも、ダメージもそのくらいで済んでいるのだから自分も慣れたものだと乾いた笑い声を上げる。
    「……はあ、髪が濡れたままですよ、私の髭切さん」
     傍に落ちていたタオルを拾い、申し訳程度に髭切の髪を拭いてやってから、彼女も横になる。僅かに髭切が身じろいだような気がしたが、疲れていたのもあり彼女はすぐに眠りに落ちていった。



     あまり人見知りをする方ではない自負はあったのだが、彼女はそれでも強張った表情で自分のスカートを掴んでいた。
    「そんなに緊張する必要、ないから」
    「は、はい」
     そうは言われてもがちがちの状態で彼女は椅子に座っていた。目の前にいる同じ頃合の女の子は、それに対しあまり動じることもないようで、彼女同様腰掛けている。ただし、車椅子の上に。
     そんな二人の少女の様子を見比べた三日月は、やや彼女のほうを気遣いながら車椅子の少女に声を掛けた。
    「では主、すまんがしばし頼む。面談中に急な呼び出しでな、政府にも困ったものだ」
    「気にしなくていいから、行ってきて」
    「うむ、すぐ戻る。そなたもあまり気負わず俺の主と話すといい」
    「は、はい」
     藍色の狩衣を翻して、三日月宗近は行ってしまった。いつもの面談室に残されたのは三日月の主と彼女の二人だけである。
    「……」
    「……」
     何となく、彼女は顔を上げることさえも満足にできなかった。何故なら目の前にいる少女は、素肌を探す方が難しいくらいに体中が包帯で覆われていたのである。どこに目をやったらいいのかわからなかったのだ。
     これまでも、断片的に三日月の主については聞いたことがある。元々本丸に所属していた審神者だったが、襲撃を受け重傷を負い今は療養しているとか。前に一度ちらりと車椅子の車輪と華奢な足だけは見たことがあったのだが、ここまで酷い怪我をしているだなんて想像だにしなかった。どこに視線をやっても不躾な気がして、彼女はただ自分の手元を見つめる。しかし、キイという車輪の回る音が聞こえて慌てて意識を引き戻した。
    「この部屋、緑茶しかないのよね。三日月がそれしか飲まないから」
    「えっ、あ、やります、ごめんなさい」
     車椅子のまま移動し、三日月の主は棚へ手を伸ばしていた。彼女は立ち上がり、急須と湯呑を二つ取り出す。しまった、気が回らなかった。
    「ありがとう。立てないわけじゃないんだけど。立ってるのが得意なわけでもなくて」
    「いえ、気が付かなくてすみませんでした」
     いつも三日月が淹れてくれている茶を、少女は用意してくれようとしたらしい。彼女はややまごついたものの、二人分それを用意して差し出した。蒸らす時間なんかはわからなかったが、仕方がない。持ったりなんだりするのは平気なのだろうかと少し心配しながら手渡すと、少女は表情を緩めた。
    「大丈夫、仰々しいのは見た目だけなの。ちょっと火傷の跡が残っているから、こうしているだけ。過保護にしないでっていつも三日月にも言っているの」
    「そ、そう、なんですか」
    「座って。きっとすぐに三日月が帰ってくるから。私も、あなたのことは気になっていた。一応、同年代の審神者だから」
     少しだけ車輪の音を立て、少女は正面から彼女に向きなおった。思わず彼女も背を伸ばす。そう言えば、同年代の審神者に会うのは初めてだ。とはいえ、彼女と三日月の主とでは経験に差が天と地ほどもあるのだが。そのせいか、彼女からしてみればずっと年上に感じられたし、おそらくそれは落ち着き払った態度からもそう感じられるものだった。
    「審神者養成学校の卒業生だって、聞いているけど」
    「はい、あの、正式には、卒業はしていませんが」
    「特例だって言うのは三日月が話してくれた。あの人、何でも私に話すの。私が出歩けないから退屈だろうって。だからあなたのことも、大抵のことは聞いてる」
    「……ふふ、三日月さんらしいですね」
     少女がじっと車椅子に座る傍らで、三日月が忙しなく身振り手振りを使い今日何をしたのか伝えている様子が、彼女には容易に想像できた。どんな些細なことでも、三日月はきっと笑顔でこの少女に聞かせたのだろう。ひとつひとつ、丁寧に。
     彼女が笑うと、少女も微笑んで頷く。そうしていると、少女は確かに自分と同じくらいの年齢に見えた。しかしそうなると一層、包帯や傷跡が痛々しく映る。やはり直視はできず、彼女は視線を伏せた。それに気づいているやらいないやら、少女は話し続ける。
    「最初から、そうだったの。関わらないでと言っても、三日月は毎日花なんか持って、私の病室にやってきた。担当の役人が三日月に私の話し相手になれって言ったらしいわ。最初はとても煩わしかった。だから無視したりしてやったの」
    「三日月さんをですか?」
    「ええ。三日月は、めげやしなかったけど」
     そうだろうなと彼女は思う。あの穏やかで優しい刃格は、きっと三日月宗近生来のものなのであろう。本質的に、ヒトの子というものをあの刀は愛しているのだ。だから目の前で傷つき、塞ぎこんでいた少女を放っておくなんて、たとえ邪険にされてもできなかったに違いない。
     そして、それはきっと彼女の髭切も同じなのだ。彼女の胸の辺りがややきゅっと痛んだ。あの刀も、確かにヒトの子を愛している。ただその感性は三日月とは違うものなのだ。自分とヒトをきっちりと分けている。自分は刀だという意識が強すぎる。
    「悩んでいると聞いたわ」
    「え……?」
    「髭切との接し方にあなたは悩んでいるって。無理もないと思う。あの刀は、少し、変わっているから。あの刀を三日月が助けにいったときのこと、私もまだ覚えている」
     髭切の元いた本丸が襲撃されたときに救援に向かったのが自分だったと、そういえば三日月本人から聞いたことがあった。これまで、それを詳しく追求することは憚られたのだ。けれど少女はそれを話してくれるつもりらしく、空になった自分と彼女の湯飲みにお代わりの茶を淹れてくれる。
    「三日月が到着したとき、もう既にそこの審神者は事切れていたと聞いている。審神者は部屋に守りを布いて刀剣に指示を出していたみたい。でも、顕現したての髭切は刀装を装備していなかった。だからそれを手渡しに部屋のうちから出て、死んでしまった」
    「目の前で、と前に伺いました」
     おずおずと彼女が聞けば、少女は頷いて続ける。
    「そうみたいね、髭切は審神者の亡骸の前に立っていたそうだから。審神者を失った本丸の刀剣が選ぶ道は二つ。別な本丸に籍を移すか、刀解されて本霊に還るか。でもあの髭切はそのどちらも選ばなかった」
     死なない主がほしいと言われた。
     無理をするなあまり動くなと過保護な三日月が、珍しく主である少女の膝に倒れこんで呟いたのは、そんなことだったらしい。しがみつくようにして少女の腰に腕を回し、くぐもった声で三日月宗近は言ったのだと。
    「ヒトの子は脆くて、弱いから。すぐに死んだりしない主がほしい。できるだけ長く自分を使ってくれる子がいい。間違っても、刀を守って死んだりしない子がいい。それが見つかるまでここで待っているって聞かないんだって……その日の三日月は言っていた」
    「……死なない、主」
    「そう、だからあなたの話が出たとき、三日月は髭切を起こしにいった。あの倉庫で眠り、全て忘れてしまった髭切を起こすことにした。死なない主はお主が育てよと。それで髭切はあなたの教育係になったの」
    「ま、待ってください、忘れてしまったって、何ですか?」
     あまりにもさらりと少女が言ったものだから、彼女は慌てて問いただした。話を聞くに、これはほんの数年の間らしいことはわかった。その間に全てを忘れてしまったとでも言うのだろうか。
    「そのままの意味。髭切は前の本丸のことなんか覚えていない。目の前で主が死んだことはわかっているみたいね。でもどんな主で、どんなヒトで。そんなことは覚えていないの。自分でそうすると決めたんだから」
    「意図的に忘れたってことですか?」
    「そう」
     困惑した彼女が何も言えずにいると、少女はそこで初めて、彼女から目を逸らした。頭に巻いた包帯の隙間から、さらりと髪が揺れる。
    「……刀剣男士は、皆自分たちがヒトに大切にされたことを覚えてる。ヒトの器としてじゃない、その鋼で覚えている。だから、刀剣男士たちが皆それぞれに人間性があって、ヒトを愛していて。それは髭切も変わらない。けどあの刀は、とても、不器用なの」
    「不器用……?」
    「千年、源氏の世の盛衰だけじゃない、弟刀と引き離され、ヒトの生き死に、不条理さ、世を渡る間に嫌というほど見つめている。その間に、心を鈍らにしなければならなかったって、三日月は言っていた。そのうちに髭切が身に着けたのが、『忘れる』ことなの」
     心を鈍らせ、感情を遠ざける。それでもその心が折れてしまいそうになったら、「忘れて」しまえ。そうでなければ、生きていかれない。
     それが、千年の間に髭切の覚えた悲しい処世術。
     ずきずきと胸の辺りが痛み始めて、彼女は顔を歪めた。苦しい、苦しい。息が止まってしまいそうだ。
    「そんな……」
    「だから今は、あの刀なりに幸せなんじゃないかしら。あなたは強くなっているみたいだし」
    「でも、そんなの、そんなの幸せだって言えるんですかっ? 髭切さんは、髭切さんは……っ!」
     少女に聞いてもしょうがないとわかっていても、彼女はそう叫ばずにはいられなかった。そんなの幸せなんかじゃない。ヒトの生から目を逸らしているだけじゃないか。だって、そんなこと続けていたら、自分のために死ぬなと言いながら髭切は一番最初に折れていってしまう。
     それも、ただ「モノ」としての生に満足しきって。
     だが、髭切の幸せは。モノでもなく、ヒトでもない髭切に彼女の思う幸せを押し付けることは、エゴだと分かっている。わかっていてもなお、彼女はそれを諦めるべきではない気がしていた。
     何故なら彼女がそう割り切った瞬間から、髭切は本当に「刀」になる。
    「……刀剣男士はヒトじゃない」
     包帯が隙間なく巻かれた手で空になった湯呑を盆に戻すと、少女はそう呟いた。
    「幸せの尺度が私達とは違う。もちろん、近く寄り添うことはできるけど、本質的には同じにならない。だって違う生き物なんだもの。生きていても、ヒトではないのだもの」
    「それは、わかって」
    「だから前の私は、死ぬことが本当だと思ってた」
     火傷の跡を隠しているという、顔の半分を覆った包帯に三日月の主は触れた。立てないわけではないと言いながらも、車椅子の上に乗った足は随分痩せ細っていて、暫く自分の力で動かされていないことは見て取れる。それだけの怪我を負ったということだ。
    「私は私の刀剣を助けられなかった。目の前で何振も折れた。皆死んでしまった。だから皆と一緒に死ぬことが、本当だと思っていた」
    「……そんなこと」
    「でも、そう言ったら三日月に怒られた」
     「いらぬのなら、俺におくれ。一分一秒余さず、そなたの命を、その身を俺に」と。
     かつて各本丸に配布されるはずだった三日月宗近。だが自分の行く先の本丸には既に『三日月宗近』が在ることを知り、主を失ってしまった三日月宗近。それでも今の俺には主がいるのだと、前に彼は笑っていた。
    「だから私は、三日月の幸せのために私の残りの時間をあげることにした。三日月が前に言ったように、刀の本懐は、確かに主を守って死ぬことなのかもしれない。そういう意味で、私の刀剣男士たちは幸せだったのかもしれない。でも私は、皆にも生きていてほしかった。だから、せめて、そのかわりに、今は三日月には幸せでいてほしい」
     ぎゅっと手を握りしめる。涙が出そうだったが、彼女は必死で少女の言葉を呑みこもうとしていた。
    「髭切さんの、幸せって」
    「……あなたは髭切に、何をしてやれるの? 何をして、あげたいの?」
     彼女が、髭切に出来ること。
     答えようとしたとき、ノックもなしにドアが開いた。パッとそちらを見れば小首を傾げた髭切が立っている。
    「ありゃ? 三日月宗近は?」
    「……髭切さん」
    「まあいいや、君、政府から要請があったから行かないと。急ぎらしいからそのままでね。うん、動けない服装じゃないし大丈夫」
     いつもの一方的な調子で髭切は彼女の手を勝手に取ると、そのまま歩いて行こうとした。だが一瞬だけ、髭切は車椅子の少女のほうを見る。
    「……君は」
    「髭切」
     包帯だらけの手が髭切の胸倉を掴み、自分のほうに引き寄せると一言二言何かを囁く。彼女からは三日月の主がどんな表情をしているのかよく見えなかった。そして同様に、髭切がどんな顔をしていたかもわからなかった。
    「……わかっているよ、そんなこと」
    「ならいい」
     パッと手を離すと、車椅子の少女は何事もなかったかのようにお盆を片手にキイキイと車輪を鳴らして片づけを始めた。彼女はそれを手伝いたかったのだが、髭切に引っ張られて面談室を後にする。三日月が早く戻って来てくれればいいのだが。
    「政府施設の傍で敵性反応だって。数が少ないから僕だけでいいと言われたよ」
    「そ、うですか」
    「あの子に何か言われた?」
     心なしかいつもより速足な髭切にそう尋ねられて、彼女は慌てて首を振った。髭切は前へ進みながらちらりとこちらを見たが、それ以上何も追及しなかった。
     切り替えなければ。今は戦闘に集中しなければ。三日月の主の、白い包帯が脳裏を過る。あれは、いつぞやの酒に逃避した審神者と同じ。自分が辿るかもしれなかった未来の姿。彼女は幸い、まだ生命の危機に瀕するような任務に遭遇したことがないだけなのだ。
     ただ、運が良かっただけなのだ。
    「おや、確かにそれほど数はいないかな」
     政府施設からそう遠くない場所に転送された髭切は周囲を見渡してそう呟いた。彼女は念のため刀装を確認する。特が一段階着いたとはいえ、まだ装備できる刀装は二つ。防御を上げるものを持たせているが、余念はならない。
    「じゃあ行ってくるからね、いい子にしているんだよ」
    「……はい」
     何でもない風で髭切はにこやかにそう言うと、さっと足取りも軽く行ってしまった。確かに敵性反応は少ない。髭切ならばさほど時間もかかることなく片を付けてくるだろう。一応モニタリングはしていたけれども、どうしても彼女は集中することができなかった。
     幸せ、幸せ。刀剣男士の幸せって、一体なんなのだ。
     以前、髭切は「長く主でいてほしい」と言った。「君の寿命は百年かそこらかも知れないけれど、その間ずうっと僕の主でいてくれればいい」と。長く君に使われることが、自分にとっての幸せだと言った。
     かつて三日月もそう言ったと、今日あの少女も言っていた。主を守って折れたのだ、刀としての本懐だろうと。
     だが、本当に? 本当に、それは髭切にとっての幸せなんだろうか。
    「あなたは髭切に何をしてやれるの?」
     脳裏で再び、声がする。
    「何をして、あげたいの?」
     私は、髭切に……。
    「主!」
     ハッとして顔を上げる。反射的に体が一歩動いた。鋭い風に似た刃が通り過ぎる。そこでやっと、思いの外敵の反応がすぐ傍まで来ていたことに気が付いた。
     彼女がからやや離れたところまで戻ってきた髭切が、こちらを見やりながらキンと高い金属音を立てて敵の刃を弾いた。
    「何呆けてるんだい!」
    「ご、ごめんなさい、私」
    「あと少しだから、どこか安全なところ、にっ?!」
    「髭切さん!」
     ぐらりと髭切の体が傾いだ。今まで相手取っていたのは打刀や短刀の比較的小さな敵だったのが、横から飛び出してきたのは大太刀だったのである。咄嗟に状態を確認するが、負傷にまでは至っていない。とにかく彼女はそれに安堵した。
    「向こうの木立なら気配が少ないから、一旦君は退いて!」
    「いえでも、このくらいなら」
     何のために今まで、髭切に筋トレをさせられて弓まで練習させられたと思っているのだ。多少なりと彼女だって、自分の安全は自分で確保できる自負が今ならあった。最初に、髭切と一緒に戦ったときだって傍で刀装を渡し、何とか無傷で帰ることができたのだ。あのときと同じだと思えばいい。
    「っ、退け!」
     しかしその声が耳に届くのとほぼ同時に、彼女は突き飛ばされていた。受け身を取ることに慣れた体は、咄嗟の反応ができるようになっていた。しかし、同時にびしゃりと顔に生臭い何かがかかる。
     重たく鈍い音がすぐ傍で聞こえた。
    「ひげきり、さ」
     ぱたたっと地面に思いの外黒に近い液体が滴る。
    「……は、あ、怪我はない?」
     何も答えることができなかった。ただ彼女はずり、と地面を後ずさる。指先に何かが触れて振り返り、ヒッと小さな悲鳴を上げてしまった。
     腕だ、腕が転がっている。髭切の、右腕だ。
    「思ったより、痛くはないみたいだね」
     片腕のない体のまま、髭切は傾いだ体を起こして振り返った。そこにはまだ大太刀が弱ったまま一体いる。右腕と一緒に吹き飛んだらしい太刀本体を、髭切は左手で逆手に掴む。それから止めと言わんばかりに首元に突き刺した。
    「はあー、これでおしまい。君、怪我は?」
    「あ、髭切さん、腕は」
    「ああ、大した問題じゃないよ」
     ボウと浮かび上がった画面を見る。髭切の状態は中傷止まり。破壊でも重傷でもない、中傷。腕が一本取れているのに。
     震えが止まらなかった。寒くもないのにがちがちと歯の根が合わなくなり、せめてと髭切の取れてしまった右腕を拾う。こんな負傷初めてだったから、手入れをして髭切の腕がどうなるのかわからない。だがまだ温かく、赤い血の流れている右腕を抱きしめて、今度こそ彼女は泣いた。
    「ごめ、ごめんなさい、髭切さん、ごめんなさい」
    「大丈夫だよ、ね、ほら泣かないで。帰って手入れをしてね」
     大丈夫なわけがあるか。何を言っているのだ。髭切はどこか嬉しそうにしてさえいて、文句の一つだって言ってやりたかったのに嗚咽でそれもままならない。髭切の左手がゆっくりと髪を撫でていた。
    「大丈夫、大丈夫。大した問題じゃないよ」
     段々と、彼女の腕の中で取れた髭切の右腕は体温を失っていった。



     パァンと小気味よい破裂音が弓道場に響く。以前髭切が弓を引いたときの銃声のようなそれではないにせよ、それでもまあ合格点だろうという程度の音。矢だってしっかり的に当たっていた。
    「おお、上達したね。いい子、いい子」
     首から三角巾を引っ掛けて、右腕を吊った髭切が上機嫌にそう言った。はあと溜息を吐き、彼女は次の矢をつがえる。そりゃあれだけ練習させられたのだ、いい加減的に当てるくらい造作もない。
     ちらりと彼女は三角巾に目をやった。髭切の右腕は、きちんと肩から繋がっている。
    「なに、この処置は念のためだ。支障はあるまい。これまで通りに動くさ」
     血塗れの腕を抱えて戻ってきた彼女と髭切に、三日月宗近はそう言った。とりあえず手入れをしろと資材を渡され、集中して本体をばらし打ち粉を叩く。髭切の太刀がすっかり元の輝きを取り戻した頃には、髭切の腕は元のようになっていた。
     それこそ、傷跡一つなく。
     ただ一応ということで、三角巾を下げているだけ。髭切ときたら一切の頓着なしに右腕を使って食事はするし、何ならここでいつものお手本と弓を引こうとさえした。流石に止めた。
     弦を引いた手を離せば、ヒュッと風を切る音を立てて矢は飛んでいく。それは的の中心をしっかりと射抜いた。
    「うんうん、うまいうまい。よくできました」
     髭切は彼女の隣までやってくると、よしよしと頭を撫でる。それが右腕だったので、彼女はやや顔を顰めた。
    「だから、まだ右は使わないでくださいって言ってるじゃないですか」
    「ありゃ、ごめんね。でもこっちの方が楽なんだもの。それに、君だって僕の言うことを聞かなかったよね」
     ぽん、と撫でていた手をそのまま髭切は彼女の頭の上に置いた。僅かに力を込めて髭切は彼女に自分のほうを向かせる。
    「僕が君に弓を教えるのも、訓練をさせるのも、僕と一緒に戦ってほしいからじゃないって、前に言ったよね」
    「……はい」
    「君の身を守るために教えているんだよ。この間みたいなときは、きちんと隠れていないとね。不合格だよ、また最初から教え直しかなあ」
     困ったな、と髭切はぼやいて彼女から手を離す。それにごめんなさいとも何とも言えずに、彼女は自分の爪先を見た。「続けて」と髭切が言ったので、彼女は再び矢を手に取る。かれこれ五本ほど射て、一応全て的には当てているのだが、まだまだするつもりなのだろう。足を開き、彼女はギリギリと弓を引き絞った。
    「ああ、でもね」
    「はい?」
    「ひとつ安心したよ、僕」
     毎日しこたま食べさせられて、腕立て腹筋背筋をさせられているおかげか狙いはそうぶれない。髭切の声を話半分で聞きながら、彼女はぐっと狙いを定める。
    「何に安心したんですか」
     どうせ、髭切のことだ。腕が元通りついて、これまで通り刀を振るえるとかそんなだろうと予想を付ける。腕一本つけるのにどれだけ苦労すると思っているのだ。
    「いやいや、この腕が僕ので、君の腕じゃなくてよかったなあって」
    「え」
     予想外の答えに、ふっと右手から力が抜けて、矢は飛んで行ってしまった。それでもパンと音を立てて、的には当たる。
    「僕の腕ならほら、一本くらい吹き飛んでしまっても戻るってわかったから。でも君はそうはいかないし」
    「……」
    「君は無傷で済んだんだもの。よかったよね」
     カラ、と立ててあった控えの矢が音を立てた。彼女はそれを掴み、つがえる。
    「そろそろ五射正中とか、狙えそうかなあ? うんうん、頑張ろうね」
     能天気な声が、聞こえる。思えば最初からずっとこうだった。
     ふわふわとして掴みどころがなくて、こちらの予想の範疇なんて斜めどころか直角レベルで越えてくる。考え方だってずれきっていて、一番最初に教えられたのは何だったか。ああそうだ、ノートを本丸に見立てた謎将棋だ。
     パンと一発、的の真ん中を射る。
    「一射目、うん、狙いはいいよ」
     次は筋トレをさせられた。肉が足りないとしこたま食事の量を増やされた。おかげで体は動くようにはなったが、髭切は鬼インストラクターだ。今だってたまに山伏に指南を受けて食事のメニューを提案してくる。そりゃあ、髭切は彼女の三倍食べたってけろりとしているからいいが、同じだけ食べるだなんて思わないでほしい。
     二射目、同じく真ん中を射る。
    「ふふ、次辺りからそろそろ真ん中が狭くなってきたね、頑張ろう」
     ああそれから部屋、ベッドを無理矢理隣に移動させられた。どんな勢いで移動させたんだか、接している部分がめり込んでいて彼女一人の力ではもう模様替えもできなさそうである。髭切はおやすみ三秒だから倫理的には問題はないのかもしれないが、彼女の精神衛生上よろしくない。大体、なんで年頃の女の子と同じベッドで寝ることに抵抗がないのだ。どうかしている。
     やや自棄になって射た三射目、やや斜めに的に当たった。
    「おお、いいね。あと二射かあ」
     そもそも、「君と幸せになるって決めたよ」なんて、随分勝手なことを言ってくれたものだ。確かに彼女は髭切に、「生きろというならその分あなたも幸せに生きて」と言った。だがそれは髭切個人の話である。彼女は自分をその範囲に含んだつもりは欠片もなかった。いや、これからもない。絶対にない。
     だって彼女は、審神者になることが怖かったのだ。最初からずっと怖かった。
     刀剣男士の、髭切の命を背負うことが怖かった。その重みで潰れてしまいそうになったことが何度だってある。だから普通でいたかった。髭切の主になんてなりたくなかった。一緒に幸せになるなんて、ごめんだ。できればご遠慮願いたい。
     そのはず、だったのに。
     ヒュンと音を立てて、四射目が飛ぶ。何とか、それは的の真ん中に滑り込んだ。
    「次で最後だね」
     一本、髭切から矢を手渡される。あれほど使うなと言ったのに、右手で。
     ギリギリと音がする。弦を引き絞り、狙いを定める。じわりと視界が滲んだ。
    「あなたは髭切に何をしてやれるの?」
     ……わからない。何をしてやれるかなんて、想像もつかない。
     三日月の主のように、残りの時間全てをあげられるほどの覚悟は、彼女には無かった。それは少なからず、ヒトの道から逸れるということになる。髭切を大切に想うということは、そういうことだ。髭切はヒトでは、ないのだから。ヒトの男性を相手にするのとは話が全然違う。
     けれど。
    「何をして、あげたいの?」
     ……幸せで、いてほしい。幸せに、してやりたい。
     ヒトじゃなくても、その体のどこも損ないたくない。怪我をしてほしくない。折れるなんて、死ぬなんて以ての外だ。手入れで直るだとかそんなことは関係ないのだ。
    「ありゃ?」
     ドスっと音を立てて、矢は的をそれその後ろにある土に刺さった。隣で髭切が首を傾げたのはわかったが、そちらを向くことはできない。
    「集中力が切れちゃった? どうし」
     ぽたぽたと頬から涙が伝って、磨き上げられた弓道場の床に落ちる。拭おうにも、後から後から溢れてきてきりがない。ヒクリと喉が震えて、彼女は弓を握りしめたまま俯いた。
    「……どうして、泣いているの?」
     悲しいことなんて、何もないよね、と髭切は言った。
     それには首を振って、彼女は答える。
    「髭切、さん」
    「……なに? 僕の主」
     ヒトの道からは、逸れたくない。普通でいたい。命の重さは、今でも怖い。
     でも、できるなら。できれば髭切には、幸せでいてほしいと思ってしまう。
    「髭切さんの幸せって、なんですか」
     誰かにそう思う感情を何と言うのか、彼女はもう、気付いていた。
    micm1ckey Link Message Mute
    2023/03/20 14:33:54

    できればあなたは幸せでいて

    #髭さに #刀剣乱夢 #女審神者
    新米審神者と教育係の髭切の話。

    ATTENTION!!

    ・オリジナルの女審神者がいます。
    ・三日月の主の女審神者が出てきます。
    ・捏造設定、独自解釈を含みます。
    ・軽くですが欠損描写を含みます。
    ご注意ください。

    以前pixivに掲載していたものの再掲です。

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