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    いつか出会う君のために


     ざり、ざりと石畳の参道を掃く。夕暮れ時だ。やることもなく、膝丸は特に汚れてもいない参道の掃除に励んでいた。この辺鄙な地域の寺では、参拝客もそう多くない。
     それにしても俺は何をしているのだ、と自問自答しかけたが膝丸は首を振った。これも立派な任務である、最前線でないだけで。とはいえ、依り代の刀の一つが寺に所蔵されているからという理由で寺にやられるのは安直ではなかろうか。
     いい加減竹箒で掃く落ち葉もなくなってきた。境内の雑巾がけでもするか、と膝丸が顔を上げたその時である。
    「あの、もういいですから、ちょっと、離してください」
    「……む?」
     女の声だ、と一番に膝丸は思う。その次に気づいたのはその声が「何かを嫌がっている」ということだった。ばさりと音を立てて僧衣が翻る。いつもの戦闘服よりもずっと重く、動きづらかった。
    「暇してるならいいじゃん」
    「暇じゃなくて、私、帰るところで」
    「暇じゃん」
     質の悪い破落戸のようだった。膝丸は眉を顰める。絡まれているのは、学生服を着た少女だったのだ。それに寄ってたかって破落戸が三人ほど。情けなくはないのか。
    「おい、嫌がっているだろう。やめてやれ」
     膝丸は寺の門のうちから声をかけた。政府との約定でここから出てはいけないことになっている、有事の時以外は。
     女学生に集っていた破落戸が一度に膝丸のほうを見た。軽薄な顔と頭をした男どもだ。二人が落ち着きのない動作で膝丸のほうに向かってくる。一人は女学生の鞄を掴んだままだった。
    「なんだよ坊さんかよ」
    「俺は僧侶ではない。鞄を離してやれ」
    「うるせえなあ」
     口で言っても聞かぬか。はあと息を吐いてから膝丸は一歩下がった。
    「……鞄を離せ、その女子からもだ。文句があるならこちらへ来い。お前たちなど、三人いても変わらぬ」
    「ぁんだと!」
     女学生から乱暴に手を離した最後の破落戸も膝丸のほうに向かってきた。小さく悲鳴を上げた彼女は倒れこむ。膝丸は眉間に皺を寄せた。転んだ彼女も僅かに寺の敷地内に入った。膝丸はもう一歩下がる。あれでは間合いに入る。
    「坊さん一人で何ができるのか言ってみろよ」
    「だから俺は僧侶ではない」
    「うるせえ!」
    「忠告はしたぞ」
     膝丸は大きく足を開いた。手にしていた竹箒を持ち替える。殺すわけにはいかないのだから、この得物でちょうどいい。
     殴りかかってきた破落戸を見て、はあと膝丸は溜息を吐く。全くの素人ではないか。
    「……はあ」
     数秒後には、その場に立っているのは膝丸だけであった。破落戸は足元に散らばるばかり、膝丸はそれを跨ぐとまだ座り込んでいる少女に手を伸ばす。
    「膝を擦りむいているな。あちらで手当てをしよう。立てるか?」
    「……あ、あの、ありがとう、ございます」
     顔を上げた少女が膝丸の手を握る。思えば、彼女は膝丸がこの現世に来て初めてきちんと言葉を交わした相手だった。



     現世にて大規模な時間遡行軍の掃討作戦が立てられた。一つの本丸では賄いきれないため、政府から選出された複数の本丸が役目を分担し、現世へと任務に出る。大まかには迎撃に出る戦闘部隊と、何かあったときに補佐に出るため現代社会に潜入する後方支援部隊。その二つに分かれて任に当たることになった。
     膝丸の所属する本丸は、その後方支援部隊に配属されたのだ。それで、膝丸は地方の寺に飛ばされた。政府が何をどう操作したのか知らないが、寺を初めて訪ねたときには余計な説明をせずとも膝丸は「寺に期間限定で修行に来た青年」ということになっていた。
    「しかし、安直が過ぎぬか。俺が寺に納められていたこともあるから寺に、などと」
    「まあいいじゃないか。場の空気に馴染むってことだよ。僕が選ばれていたら神社だったかも」
     出陣の前夜にそう零した膝丸に、兄の髭切はあははと笑って見送ってくれた。
    「戦闘はないかもしれないけど、まあ気を付けてね。長い任務だから」
     長く現世の人間社会に潜入することになる。色々と大変なこともあるだろう。ああ、と膝丸は笑って答えた。潜入など恐るるに足らず。どういう理由であれ、膝丸が選ばれたことには変わりない。ならば任務を完遂するまで。
     まあ、そういうわけで膝丸はこの寺に来た。修行僧、という体で。
    「膝丸さーん!」
    「むっ、ん、学舎は終わったのか」
    「はい」
     ざり、と竹箒が擦れて鳴った。ぱたぱたと彼女の履いている革靴が代わりに石畳を打つ。ひらりと紺色の学生服が翻った。
    「膝丸さんもお勤めご苦労様です。今少し大丈夫ですか?」
    「あ、ああ。毎日君も」
     ご苦労、ご苦労でいいのだろうかこの場合。膝丸は悩んだ。年若い女子に対して、どの言葉が適しているのかわからない。なぜなら膝丸は生まれてこの方ずっと本丸暮らし。この年頃の女性に接したことなど一度もないのだ。
     彼女は自分の学生鞄を開くと、半透明の容器を取り出して膝丸に差し出した。膝丸は竹箒を傍に立てかけてそれを受け取る。ぱかりと開くと、甘い匂いがした。焼き菓子のようだった。
     改めて聞いてみれば、彼女はこの寺から少し先に行った先にある高等学校に通っているらしい。「高等学校」というのが何なのか膝丸には正確に把握できなかったものの、とりあえず学舎なのだろうと理解しておく。彼女はそこの「にねんせい」なのだそうだ。
    「試験が近かったので、お参りしようと思ったんです。その時あの人たちに絡まれてしまって」
    「……む? そういうときは神社に行くのがいいのではないか?」
    「えっ?」
     なんというか、少々大雑把なような。膝丸は少し、兄のことを思い出した。
    「……何度も言うようだが、俺は君を見かけたがゆえああしただけだ。ここまで気にせずとも」
    「いえ、でもあのとき膝丸さんが見つけてくれなかったら私、どう振り切ったらいいかわからなかったので。お礼がしたかったんです」
    「む、ん……ならば」
     そこまで言われて手を着けぬわけにはいくまい。膝丸は頂こうと一言断ってから一つを手に取った。うまい。
    「ああ、うまいな」
    「よかった。もしよかったら残りはお寺の方たちと一緒に召しあがってください」
    「そうか、礼を言う。有難く頂こう。君は変わりないか、膝の怪我は」
    「もうすっかり。痕にもなりませんでした」
     ほら、と彼女が洋袴の裾を僅かに捲ったので膝丸は慌ててそれを止める。女子が何をしているのだ。
    「わ、わかった。見せずとも。君は女子なのだから、無暗に肌を曝すものではない」
    「あはは。本当に、あの時はありがとうございました」
     先日、膝丸は破落戸に絡まれている女学生を見つけた。破落戸をのした後、突き飛ばされて怪我をしたようだったので、彼女には境内で簡単な手当てもした。もっとも、人間の手当てなどしたことがない膝丸にそれらの行為は不慣れであったので後が心配だった。年若い女子の体に傷跡など残したくない。
     膝丸にとってはそれだけのつもりだったのだが、彼女は翌日丁寧にもまた寺にやってきて礼をと頭を下げた。膝丸にとって、助けるべき相手だったから彼女を助けたのだ。礼を言われるほどのことだとは考えていない。だからそこまでせずともとも思ったのだが、彼女のほうが来てくれるのを断るのも悪い気がしてそのままにしている。
    「膝丸さん……っていうのは、お坊さんになるためのお名前なんでしたよね」
     石段の上に膝を揃えて座った彼女は膝丸に問う。膝丸はまた意味もなく竹箒で境内を掃きながら答えた。
    「あ、ああ、そうだ。だが仏門に入った身、元の名はないものだと思ってほしい」
     現代社会において自分の銘が名に適していないことを膝丸はよくわかっていたので、銘は法名だということにしておいた。ここに来て寺への潜入がちょうどよくなるとは、わからないものである。
    「大変ですね、修行って」
    「まあ……仏の道を極める身だからな。いずれ御仏に仕えねばならぬゆえ……」
     いかん、少々心苦しくなってきた。元々膝丸はあまり嘘を吐いたり誤魔化したりということが得意でないのである。潜入任務のため仕方ないとはいえ、あまり若い女子を騙くらかして気持ちのいいものではない。
     コホンと一度咳払いをして膝丸は竹箒を持ち直した。
    「そういうわけだ。俺は正しいと思うことをしただけのこと。本当に、あまり気にしないでほしい」
     それに、あまりこの時代の者と親しくなるのもよくあるまい。膝丸はそう思うことにして、ざっと竹箒を動かした。膝丸の任務は後方支援。前線の部隊が無事に敵を殲滅するための補佐。いざというときは膝丸も出陣となるだろう。膝丸と関わることは彼女の身に危険を及ぼすことにも繋がりかねない。
     それを聞くと、彼女のほうは膝丸の言葉に申し訳なさげにやや俯いた。さらりと髪が揺れる。
    「すみません、私が来ると修行の邪魔でしたよね。考えが足りませんでした」
    「あっいや、そうではない! そうではなく」
     そう沈んだ顔をされると困る。彼女にそうされると、なんだか自分がとてつもなく悪いことをしたような気になるのだ。
    「君の厚意には感謝している、だからその……今日の菓子も美味かった。ありがとう」
     膝丸の答えを聞いて、彼女はやっと顔を上げて安堵したようににこりとする。膝丸もほうと息を吐いた。
    「私そろそろ帰ります。日も落ちるので」
    「ああ、それがいい。暗くなる前に」
     寺の門まで膝丸は彼女を送っていった。膝丸はここから出ることはできない。そういう約定なのだ。
    「明日容器を取りに来ますね」
    「んっ? あっ、君!」
     ひらっと洋袴を翻して彼女は行ってしまった。もう礼のために来なくてもいいぞという意味だったのだが、そう言えば容器を預かったままだった。しかし中身が空ではないため今返すわけにも。
    「あっはは、それでお前は毎日女子の相手をしているのかい?」
    「笑い事ではないぞ兄者」
     小型の通信機に向けて膝丸は溜息を吐く。定期報告のために膝丸はそれを持たされていた。現世で言う「すまほ」に似た形らしい。寺の僧侶たちがそう言っていた。通信機越しでは兄の顔が見られないが、声音から楽し気にくつくつと笑っているのがわかる。
    「嘘を吐き続けるのも性に合わぬが、追い返すわけにもいくまい。彼女も厚意で来てくれている。それに、必要以上に現世に介入するなというのは政府からの注意事項でもあるだろう」
    「まあ、いいじゃないか。現地の人間がどう暮らして、特に変わったことがないか調べるのも後方支援の仕事だと僕は思うけど」
    「……なるほど、彼女の身辺の周囲に異変が起きていないかということか」
     時間遡行軍が日常に潜んでいないとも限らない。この寺は主戦場となるだろうと想定されている場所からは遠いが、万が一がないなどと言い切れない。
    「そうだな、兄者の言うことは正しい」
    「まあ、そこまで深い意味はないけどね。でもいい機会だから知っておきなよ、人間がどう暮らして、どう生きているのか、ね」
     通信が切れて、膝丸はその機器を置く。明日の分の僧衣を用意して、ふうと息を吐いた。
     荷の重い仕事なのは変わらないが、彼女と会うのに目的が得られた。明日からは異常がないかしっかりと聞こう。与えられた部屋の窓を開け、膝丸は外を眺めた。この寺は住居から離れているせいか夜は静かだった。
    「……容器は洗っておかねばな」
     その前に、今日の勤めだ。膝丸は文机の上にあった経典を開き読み始める。
     膝丸は至って真面目な性格だった。



     パシャッと小気味よい音を立てて石畳に水が撒かれる。膝丸は手にしたひしゃくで打ち水をしていた。修行の体で寺にいるものの、実際問題として膝丸は僧侶を目指しているわけではない。政府がどう話をつけたのか知らないが、膝丸がここにいる間していることは掃除などの雑用が主である。まあ、助かるといえば助かるが。
    「しかし、襷が欲しいな……」
     この僧衣は動きづらい。うむと膝丸は腕を回した。暫く刀も振るっていないし、体が鈍っていないか心配だ。空の桶を片付けがてら、膝丸はひしゃくは手にしたまま寺の付近にある木立に来た。風で一枚や二枚葉が落ちるだろう。
    「ッシャアア!」
     ひしゃくで落ちてきた葉を叩き落とす。ひらっとその拍子に別な葉も落ちた。無論それも弾く。現世での抜刀は有事以外禁止だ。無論太刀は持ち込んでいるが、境内で出して振り回すわけにもいくまい。ひしゃくでは重さも長さも足りないが。
     にしても袖が邪魔だ。ううむと膝丸が黒いそれを引っ張ったところで、ぱちぱちと拍手が聞こえた。振り返ると彼女が手を叩いている。
    「すごい反射神経ですね」
    「君、いつから見ていた」
    「すみません、何度か声をかけたんですけど」
     注意力が足りなかったか。そもそも膝丸は兄の髭切と比べて偵察は低い。膝丸は何となく気まずい気持ちで腕を下ろし、すごすごと木立の傍から戻る。
    「お坊さんってみんな膝丸さんのように強いんですか?」
    「い、いや、俺は特別なのだ。心身ともに鍛えねば、僧としての精神力も得られぬだろう」
     そんなわけあるか。身体能力を鍛えるより座禅でも組んだほうがいいに決まっている。彼女に誤った僧侶の知識を植え付けたことを後悔しつつ、膝丸はコホンと咳払いをした。
    「今日も変わったことはなかったか」
    「? はい、特に。いつも通りでしたよ」
    「そうか」
     返事をしながら、膝丸はこの作戦の要綱を思い返していた。遡行軍がどこに潜んでいるかは範囲でしか絞れなかった。後は虱潰しにと聞いている。だがそれは市街地のはずで、この辺りは違う。だから……とは思うが念のため。寺周辺で敵が現れないとは限らない。これはそのための情報取集だ。
    「変わったことがあれば教えてほしい、俺もこの辺りには来たばかりで疎いゆえ」
    「膝丸さんは修行中ですもんね、そういえばいつまでこちらで修行してるんですか?」
    「そ、れは」
     掃討作戦が終わるまでだが、明確にいつだとは決まっていない。膝丸は言葉に詰まっていくらか視線をうろうろとさせる。
    「修行、とは期を定めたものではないゆえ。身に着けられるまでだ」
    「なるほど……! そうですよね。やっぱり厳しい修行なんですねえ」
     ああまた彼女に嘘を吐いた。得心がいった様子の彼女にうっと膝丸は顔を覆いたくなった。いや、仕方のないことだ。それが膝丸の務めであり、任務である。彼女に嘘を吐くことも必要なこと。はあと膝丸は息を一つ吐いてからシャンと立った。膝丸は切り替えが得意である。
    「それで、君の試験のほうはどうだった」
    「えっ」
    「先日参拝に来た折は、試験の学業成就祈願だったのだろう。どうだったのだ」
     まあ、それはやはり本来神社に祈るべきなような気がしないでもないが。だがこの寺の本尊に願ったのだから結果は少々気にかかっていた。自分も毎日立派に勤めを果たしているつもりだ。多少なりとご利益があってもいいはず。
     けれど彼女のほうはぎくりとして「えーっと」と鞄を後ろに回した。そこか結果は。しかも隠すということは。
    「まさか君、あまり結果が芳しくなかったのか」
    「ええと、それはですね」
    「芳しくなかったんだな?」
    「はい……」
     彼女は観念した様子で膝丸に何やら細長い用紙を出す。現世の事情に疎い膝丸とはいえ、数字は読めるのだ。ふむ、基準値がどこなのかわからないがまあ……確かにいいとは言い難い。それに、何の印だろうかこれは。
    「一か所赤い欄があるな、なんだこれは」
    「つ、追試です……」
    「ついし? ついしとなんだ」
    「えっ、だから、合格点ではなかったので明日もう一度試験を受けるということで……」
     なんだと……。要は不合格ということではないか、何たること。これではご利益もへったくれもない。
     膝丸は慌てて何がその「ついし」なのか確認する。日本史、歴史ではないか。
    「歴史なんてものは覚えれば済むだろう、君」
    「そ、それが苦手なんです。というか前日に変な人に絡まれたりなんだりであんまり集中できなかったし……」
    「む、う……わかった、間違った答案を持っているだろう、出してくれ」
    「えっ?」
     いや、この際日本史でよかったのかもしれない。それなら膝丸とてわかるではないか。むしろ専門分野だ、この目で見てきた。下手に算術や文学でなくてよかった。
    「俺が教える」
    「えっ? 膝丸さんが?」
    「追試では問題なく合格点を取ってもらう。この寺の面目躍如だ」
     祈願したのに叶わなかったとなれば寺の評判にもかかわる。……いやだから、それは神社の領域だろうがそれはそれ。一度は参拝にきた者の悩みだ、叶えようではないか。
     膝丸は彼女を寺の吹き抜け廊下に上げた。中にまで入れるわけにはいかないが、堂の廊下ならばいいだろう。それから問題を出させる。ひとしきり目を通したが問題ない。相手が悪かったな追試よ、俺は常日頃この歴史を正しく守っている刀だ。
    「膝丸さん、日本史得意なんですか?」
    「んっ? ま、あ僧侶になるためには学を身に着けねばならぬのだ」
    「そうなんですか……本当に大変なんですね」
     学がなければなれないのは間違っていないからこれは嘘ではない。嘘ではないぞ。膝丸は気を取り直して彼女の答えのほうに目をやる。……暗記が苦手というのは謙遜でも何でもなく事実らしい。
    「思うに君、一つ一つで覚えようとするから失敗するのではないか。この答えはこれ、というように」
    「暗記ってそういうものじゃないんですか?」
    「違うな。歴史は一つの流れだ。物事が連鎖して起きる事象だ。ぽっと出たことがそのまま結果に帰着するわけではない」
     そう、細かなことが様々に影響しあって歴史を為す。大きな絵画のようで、実際は筆から置かれた一滴の絵の具が歴史だったりするのだ。
    「そんな風に考えたことがなかったです、試験範囲に出そうなところを重点的に覚えたりとか、そういう感じだったので」
    「一点を見つめても、全体は見えぬもの。では始めるぞ」
     とはいえ、短時間ですべてを浚うのは無理か。膝丸は特に間違いの多い時代を抜き出して教えることにした。鎌倉時代に誤りが多いのは度し難い。何が何でも覚えてもらう。
     膝丸は経典を覚えるときに使う半紙を取り出して、つらつらと筆で文字を書く。彼女は鞄から取り出した帳面にそれを写していく。要領は悪くないほうらしい。ひたすら暗記する勉強法を続けていたせいか、覚える要所要所は押さえている。ならば正しい時代の流れを理解すれば、すぐに合格点など取れるだろう。
    「……そうだ、そこで鎌倉の時代は終わる。まあ、そもそも源氏直系の惣領は三代までだったが」
    「膝丸さん、教えるの上手ですね。なんだか初めてちゃんと理解できたような気がします。教科書に載ってないこともよく知ってますし」
     それはまあ、時代柄目の前で起きた事象も多いからな……とは流石に言えなかった。僧衣の襟を正して、「まあな」とだけ答える。答案と自分の帳面をを見比べながら彼女はふうと息を吐く。一度に詰め込み過ぎただろうか。だがこれで問題ないだろう、反応を見ていた限り、しっかり理解できていたようだし。
    「ついし、とやらはこれで十分ではないか。よく頑張ったな、これで大丈夫だ」
     膝丸がそう言えば、彼女は何度か瞬きをした後ににこりとした。トントンと鴬張りの廊下で帳面と答案を整えながら彼女は言う。
    「きっと膝丸さんはいいお坊さんになりますね。話も分かりやすいし、膝丸さんに大丈夫って言われると安心します。修行が終わって元のお寺に戻るときは場所を教えてください。お参りに行きますね」
     ちくと胸のあたりが痛む。彼女に嘘を吐いている自覚もあるし、それは仕方のないことなのだと理解している。だが、先の話をされると……どうしようもない気持ちになる。
     膝丸は修行僧などではないし、僧侶になどなりはしない。任務を終えたら、本丸に戻ってまた敵と戦う日々。今がおかしいのだ。だから彼女が膝丸のいる寺に来ることなど、ありえない。そんな未来は存在しない。
    「……ああ、そうだな。修行を終える、そのときには」
     そのときは、彼女と本当のお別れになる。
     日がいい具合に陰ってきたので、彼女は帰り支度を始めた。膝丸はカラカラと本堂の扉を開ける。ここにあったはず、今日整理をしたから覚えている。……あった。膝丸はその一つを手に取って本堂を出た。
    「君、これを持っていけ」
    「え? ……いや、いいんですか? お金」
    「いい。持っていけ」
     この寺の授与品の一つ、学業成就の守りだった。青い布に金の糸で飾られたそれを、膝丸は彼女の手の上に乗せた。いくらか軍資金は得ている、あとで払っておこう。
    「君に、神仏の加護があらんことを」
     膝丸は手を合わせた。毎晩経典を読み上げているのだし、功徳があってもいいだろう。彼女はお守りを鞄の持ち手に括り付けてから笑った。
    「神仏って、お寺ですよ、膝丸さん。仏様だけです」
    「……頼れるものには頼っておけ。俺に任せておくといい、祈っておこう」
     なにより、膝丸自身が神の端くれであるのだし。神仏で間違いない。
     膝丸はまた、寺の門まで出て彼女を見送った。掃除道具なんかを片して、いい時間だったので門を閉じた。本堂まで戻ると、本尊の前の蝋燭に火を灯す。ほう、と一息つくと膝丸は居住まいを正して経典を開いた。読経を終えると和尚や寺の他の僧たちに「熱心ですな」と褒められたが、膝丸はそれには曖昧に笑って会釈だけを返した。
    「うんうん、ちゃんと人間社会に馴染んでいて偉いじゃないか」
    「……無論だ、それが俺の務めだからな」
     勤行の後に髭切に報告の連絡を入れれば、そんな風に兄は言った。通信機を自分の耳と肩の間に差し込んで、膝丸は袈裟を衣文掛けに掛ける。もう僧衣の手入れも堂に入ったもので、寝巻の作務衣にも慣れた。
    「ところで作戦なんだけどね、居所が絞り込めたから、明日前線部隊が攻め入るそうだよ」
    「そ、うか」
     では、明日は戦になるか。膝丸はぐっと通信機を握る。万が一のときは自分も出なければならぬ。明日は、寺の境内の掃除どころではないやも。どうすればごく自然に太刀を傍に置いておけるか髭切に相談しておこうか。膝丸が口を開きかけたとき、髭切のほうが先に行った。
    「それでね、殲滅が済んだらすぐにお前はこちらに戻れるそうだから。こちらから持ち込んだ荷物なんか殆どないだろうけど、片付けだけは済ませておくようにって。主が」
    「……すぐ?」
    「うん。結構長い間現世にいただろう? 僕らがずっとそっちにいるのもあまりよくないからね。僕らはそちらの住人ではないのだから」
     そりゃあ、そうだ。髭切の言うことは何もおかしくない。膝丸のほうが、この時代の異物なのだ。潜入任務に当たるときも、なるべく介入しないように口を酸っぱくして言われた。違和感のない程度に馴染む以外は、と。
    「大丈夫だよ、参拝客の女の子と少し仲良くなったくらい。何にも違反していないからね」
    「あ、ああ。わかっている」
     膝丸が考えていることを見透かしたように髭切が言った。彼女は歴史に名を残すような誰かではない。膝丸の元の主のように戦の天才のわけではなく、あやかしを退治したりもしない。強いて言うのなら、明日日本史の「ついし」があるただの女学生だ。
     明日、任務終了後すぐに帰還となるのなら……試験の結果は聞けないかもしれない。
    「ねえ、弟。人間の生活はどうだった?」
     通信機の向こうで穏やかな髭切の声がする。膝丸は引っ掛けた僧衣の皺を伸ばしながら答えた。
    「……思ったよりもずっと、一日が長かった」
     掃除やら、勤行やら。そんなことは日々の務めの一つだ。本丸でしていた鍛錬の代わりのようなもの。だからさほど苦ではなかった。そうして夕刻になったら、あの子が来る。
     それまでが、なんだか長かった。竹箒で境内を掃く間、ざりざりというひっかく音に混じって聞こえてくる、革靴の足音。この場所でただ一人、膝丸の名前を読んだ女の子。
    「僕ら、知らなかったのかもしれないね。一日一日、何でもない日って」
     刀の頃は、見ているばかりだった日々。刀剣男士となってからは、任務を得て戦う日々。源氏の重宝「膝丸」という名を離れて、何でもない日常に住むことなど……あり得るはずもない。膝丸は、刀なのだから。修行僧などではなく、ましてや人間でもない。
     この身は、歴史を守るため。
    「だが俺たちが戦わねば、歴史は正しいままでは在れぬのだろう」
     いつこの何でもない日々が失われるかわからない。そんな大きな絵画の一滴の絵の具を守るため。
    「教えた日本史が変わっては、困るのでな」
     膝丸がそう言えば、あははと髭切が通信機の向こうで笑った。
    「お前が無事に帰ってくるのを待っているよ」
     明日は僧衣の下に太刀を忍ばせておくよう指示を受けてから、膝丸は通信を切った。ゆったりとした僧衣と袈裟の下なら太刀も隠せておけるかもしれない。動きづらいのが何だが、最低限の武装だけはしておかねば。
     もしもこの寺に危害が及ぶようなことがあれば、膝丸は何としてでもこの場所を死守しなければならないのだ。仮住まいとはいえ、世話になった場所である。
     ふうと息を吐き、膝丸は手を合わせる。もう経典を開かずとも内容は覚えた。
    「まずは学業成就からだな」
     祈ると、約束したのだから。じゃりじゃりと数珠玉が音を立てる。



     膝丸は普段通り早朝に目を覚ますと、使っていた和室を丁寧に掃除した。畳を掃き、雑巾を掛け、布団を干す。それから寺の僧侶たちに挨拶だけいつも通りに交わした。急に別れの挨拶をしては訝しまれる可能性がある。膝丸が帰った後、来た時のように政府が調整をしてくれるだろう。
     手甲を身に着け、それとはわからないように太刀を佩刀するのには少々手間取ったが、それでも武装して境内に出る。後は打ち水と、掃除だ。
     任務は昼過ぎに案外あっけなく終わった。長期間に渡る潜入のおかげで、敵の数と居場所を正確に割り出せたのが功を奏したらしい。
    「もう少ししたら、お前も帰城になるって」
     髭切から通信が入り、膝丸は寺の堂を見上げた。最後まで後方支援で刃を抜くことはなかったが、まあいいだろう。ここを戦場にするのは忍びなかった。御仏のおわす場所であるし。息を吐き、そうかと膝丸は返事をする。手にしていた竹箒がざり、と音を立てた。
    「……」
     まだその時間が遠いことを膝丸はわかっていた。
     学舎が終わるのは、膝丸が境内の掃除を終える頃。打ち水は済んだが、掃除は取り掛かり始めたばかりだ。だから、まだかかる。それにいっそ会わないほうがいい。最初から最後まで、嘘を吐き通しだったのだ。
    「……あのね、膝丸」
    「なんだ兄者」
     竹箒、片付けておこう。膝丸は手にしていたそれを元の位置に戻すことにした。急に転送が始まって、これだけ転がしておくのもよくない。
    「今、前線の部隊が帰るのにちょっと手間取っているらしいんだよね。負傷者もいなかったわけではないから」
    「そう、なのか。被害は酷いのか」
    「ううん。でもね、一振だけの移動のお前は、後回しになるんだよ。夕方くらいまでね」
     夕方。膝丸は通信機器を耳に押し当てたまま動けなくなった。
    「お寺から出てはいけないよ。いい子でそこで待っていてね」
     ぷつりと通信が途切れる。ぐっと竹箒を握り直す。まだ、奥から掃かねば。中途半端に堂の前しか綺麗にしていない。膝丸は通信機器を袂の中に入れてしまうと、顔を上げて掃除に戻った。
     思えば、破落戸をのしたのはこの竹箒だったな。ざり、ざりと風に飛んできた落ち葉を掃きながら膝丸は思う。素手で向かったほうが公平だっただろうか。だが破落戸相手に公平も何もないか。学生服の少女相手に、三人も男が寄って集って絡んでいるのが気にかかって。あの門の内から声をかけた。
    「いった」
    「す、すまぬ」
     寺の救急箱を借りて手当てをしたら、力が強すぎたのか声をあげられた。だから傷が残ってしまわないか心配だったのだ。あの白い足に、痕でも残ったらと。それから数日は固定するためか包帯が巻かれていた足。
    「膝丸さんって言うんですか? 立派な名前ですね」
     法名だといえば、疑いなく信じていた。法名だとしてもおかしいと思う。けれど、でも。それが「本当の名」だったから。信じてくれてよかった。
     堂の周りの掃除を終え、あとは参道。日が段々と落ちてきた。そろそろ、来てもおかしくない頃だが。
     ああ、毎日ずっと、待っていた。ぱたぱたとあの革靴の音が聞こえてくるのを。石畳の上、名もない君がやってくるのを。ざり、ざりと竹箒が鳴る。
    「あ、膝丸さーん!」
     たった一人、戦場も何も関係ないここで、膝丸の名を呼んだ子を。
    「追試、合格でした! 見てください!」
     ひらっと紙をこちらに見せて彼女が言う。そうか、「ついし」があったから遅かったのか。合格という一言を聞いてほっと息を吐く。落ちていたらどうしようかと思った。
    「よかったな」
    「はい。勉強見てくれてありがとうございます」
     嬉しげに笑って彼女が頭を下げた。うん、と一つ膝丸も頷いた。よかった、それが聞けただけで。
    「……実は、明日元の場所に帰ることになってな」
    「えっ」
     案の定驚いた表情の彼女は目を丸くする。膝丸は何でもないように微笑んで続けた。
    「修行を終えたということだ。俺のところでは戒律が厳しいゆえ、どこに戻るのか君には教えられぬ。すまないな」
    「そう、なんですか……それは残念です。でも、決まりなら仕方ないですね」
     ああ、と膝丸は返事をした。彼女が肩に提げた鞄には、膝丸が昨日渡したお守りがくくられている。神仏の加護、か。膝丸は一度だけ長く瞬きをした。
    「……安心してくれ、君のいる未来は、君が行く未来は、俺がこれから守ろう」
     小さく、どこにでもある、きっと何でもない一生を彼女はこれから送るのだろう。だがそれでいい、それがいい。源氏の重代とは違う、いつか誰かを愛し、どこかで子を産み、子を育て。ありふれた毎日を、これからも。
     ずっと、そうしていてほしい。いつかこんな、得体のしれない変わった修行僧のことなど忘れて。いつまでも、そんな風に。
    「祈っている、君がこれから変わりなく過ごせるよう。そうしたらいつか、俺に会いに来てくれ。それを待っている。なに、どこかで会えるさ」
     いつかずっとずっとその先の未来に、膝丸はいる。
    「もう『ついし』になるのではないぞ」
    「あはは、もちろんです。いつか立派なお坊さんになった膝丸さんに会いに行きますね」
     じゃあ、と膝丸は彼女をいつものように寺の門まで見送りに行った。この敷居は超えられない。そういう、約束なのだ。
    「膝丸さん」
    「ん?」
     もうすっかり綺麗になった白い足。膝丸と過ごした数日など、そんな風に消えていくだろう。
    「あの日、助けてくれてありがとうございました。それじゃあ、さよなら」
     手を振って、彼女は行ってしまう。膝丸は「さようなら」と返した。
     ピピと通信端末が鳴る。長い長い、潜入任務の終わりだった。



     がちゃりと僅かに鉄が音を立てた。うむ、やはりこのほうが性に合っている。腰に下げた太刀の下げ緒をしっかりと結んで、膝丸はふうと息を吐いた。
    「おや、張り切っているね。まだ出陣には時間があるけど」
    「なに、腕が鈍っているとも限らぬ。装備だけは怠らぬようにせねばな」
     同じ部隊に配属された髭切がにこにことしながら部屋を覗いてきた。張り切ってるねと膝丸に言いながら、髭切ももう戦支度は整えていた。流石は兄者である。もう転移装置まで行こうかと髭切が言うので、膝丸は文机の上に出しっぱなしになっていた経典を引き出しにしまう。
    「おや、勤行のほうが楽だったかい?」
    「いいや、俺は刀だぞ兄者。僧衣は動きづらかった」
    「そうだね。……じゃあ行こうか」
     ふふと笑いながら、髭切は上着を翻して先に部屋を出た。
     いつか、どこかで出会う君のため。今日を生きている君のため。空の遠くを見て膝丸は目を細めた。
    micm1ckey Link Message Mute
    2023/07/17 0:54:09

    いつか出会う君のために

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    #刀剣乱夢  #膝さに
    現代潜入任務で寺に行った膝丸が参拝客の女の子に恋をする話。
    捏造設定を含みます。ご注意ください。

    以前pixivに掲載していたものの再掲載です。

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