きみはともだち?
人生で、彼氏より先にセックスフレンドができてしまった。なんてことだ。
翌朝になっても私は茫然としていた。いや、自分で返事をしたのは確かだ。けれどどうしてそうしてしまったのか後悔している。なんで、どうして。けれどスマホを見てみれば、源君から「講義のあと時間ある?」とメッセージが入っていて頭を抱えた。ある、あるけれど。大学も二年になると少し時間割の勝手がわかり始めて、適度に空き時間を入れてしまう。だから源君と同じ講義の後は空きコマになっていた。
「三日間源君が休んだのよくわかった……」
こんなところで理解したくなかった。私はごろんとベッドの上で寝返りを打つ。しかしそろそろ家を出なくては遅刻になってしまうので、仕方なしに上半身を起こした。一体どうしたら、昨日からそれを何度も考えているが私がどう打って出たところで、きっと源君は何も変わらないあの人当たりのいい笑顔でにこにこと待っているんだろうなと思うと脱力した。
ひとまず大学に行こう。のろのろと私はベッドから降りた。随分ゆっくり用意してしまったので、大学の近くに一人暮らしの部屋を決めてよかったと改めて思う。
「ありゃ、寝坊?」
二限の古典文学基礎の教室の前で、源君は私を待っていた。開始時間五分前に到着したので、大教室はそこそこに埋まっている。空いていた後ろから二列目の端の席に座りながら「うん」と頷いた。
「ちょっと起きるのに、手間取って」
「君、大抵早めに来て座ってることが多かったから。僕と受けるのが嫌になってサボっちゃったのかと思った」
あははと笑いながら源君は言う。返答に困った。
ルーズリーフと筆箱を出して、どうしたものか考えてしまう。やっぱりやめにしようと言うのなら、今なのでは。翌日ならばまだダメージも少ないだろう。けれど大教室で「セフレにはなれません」と口に出すのはちょっと。手元のルーズリーフを見下ろす。この間のゼミのときのように筆談でも……と思ったがその単語を紙に書くのも気恥ずかしかった。普通に生活していて接する単語じゃない。
セックスフレンド、なんて。
「君、今日授業いつまで?」
源君も筆箱を出しながら、そう聞いてきた。今日はトートバッグの中にそれなりの量の荷物がある。源君は本当に必要なものしか持ち歩かないようだった。
「あ……、このあと三限が空きで、四限で終わり」
「そうなんだ、じゃあちょっとこの後だけ時間もらえる? 僕五限まであるから、帰り一緒にするのは難しいかな。早めに帰るんだよ。日が落ちて暗くなると心配だからね」
源君は穏やかに言った。優しい人なのは、確かなのだろう。授業が始まったので、私は頷くだけ頷いてシャープペンシルを取った。しかし言われている内容があまり頭に入ってこない。ちらりと隣を見てみれば、源君のほうは普通に板書を写し取っていた。どうしてそんなに普通でいられるんだろう。
私はやはり、源君のことを前よりは知っていてもまだわからないことのほうが多いのだ。シンプルにその結論に行きついて、私は息を吐いた。それも当然だ。こんな風になる一週間前までは、源君はただゼミが同じ同級生でしかなかった。「好きだから彼氏にしてほしい」と言ってくれたことを疑うつもりはないが、そこで「お互い都合がいいからセフレでいいから付き合ってくれない?」の発想に転換してしまうのはわからない。それも名案だと言わんばかりの表情だった。
しかし、それにしたって。でももう返事をしてしまったし。うだうだと考えていたら九〇分はあっという間だった。普段は腕時計を見るたびに五分も過ぎていないことに驚く時間も、悩んでいたらこうだ。配られたレジュメやルーズリーフをしまった私と源君は大教室を出た。昼休みに入った大学はそれなりの人でごった返し始めていた。
「今日も食堂使う? 僕はどっちでもいいけど」
教室を出た源君が言う。でもお互い三限が空いているのだ、昼はゆっくりにしたっていいだろう。私は近くのベンチを指した。
「少し空くの待たない? コンビニも食堂も今は混んでるし」
「じゃあそうしようか」
ざわざわとした学内はそれぞれ学生が昼食を摂るスペースを探して、あっちに行ったりこっちに行ったりしていた。普段はどうしていたっけ、と思い出す。少なくとも先週は、いつも通りコンビニで昼ご飯を買って適当なベンチでそれを食べていたと思う。
「空き時間、普段は何していたの?」
隣に座った源君が言う。私は今思い返していたことをそのまま答えた。
「誰か空いてる友達とか見つけたら、捕まえて喋ったりしてたかな。ゼミの研究もこういうときしてたよ」
「なんだ、じゃあ声を掛ければよかった。発表の準備一緒にできたのにね」
源君は屈託なくそう笑った。私は鞄を抱え直し、同じ質問を源君に返す。
「源君は、普段何してたの?」
「僕? えーっと……何もなかったら、図書室で寝てたかな」
「寝てた?」
おうむ返しに聞けば、源君は頷いた。
「静かだし、陽当たりも良くてね。退屈人あったら本もあるから。飽きたら寝ちゃえばいいし。でも今度から君のこと見かけたら、話しかけて捕まえることにするよ」
なんだか、野生の猫みたいだ。私はふふと思わず笑った。気の向くままに日向ぼっこをして、飽きたら眠って。確かによく見れば、ふわふわした髪と蜂蜜色の丸い目をした源君は大型の猫のようだった。くりくりと源君の目は大きく、肌も白い。髪の毛だってふわふわで、背も高くて足も長いからそりゃあモテるだろうなと改めて思った。そんなこと今更、再確認したいわけではないが……。見れば見るほどわからない。
どうしたって、源君は私にセフレなんて提案をしてきたのか。
「それで、君僕に話したいことあるよね?」
急に源君が確信をついてきたので、私は言葉に詰まる。やっぱり源君は不思議だ。何を考えているのかさっぱりわからないのもあるけれど、人のことをよく見ていて勘が恐ろしくいい。
「そういうわけじゃ、ないんだけど……」
言葉を濁して、源君から視線を逸らす。じっと視線を合わせていると、心を読まれるような気さえしたのだ。すると源君はうーんと伸びをした。
「そう? この間の今日で冷静になって、僕とせふれになるのなんかやめようって言いたいのかなあって思った」
「んっ」
図星だったので私はぎくりとして肩を震わせた。一方の源君はと言えば、ふふふと笑いながら膝の上に頬杖をついて鼻歌交じりに目を閉じる。
「君、顔を合わせたとき僕のことまた源君って呼んだから。そうなのかなって」
「えっと……」
その通りは、その通りだ。取り繕いようがない。私はまだ源君とそういう名前の関係になることに躊躇いがある。それは正直に伝えるべきだ。源君も私に嘘は吐いていないのだから。明け透けすぎて、少し驚きはするが。
「正直ちょっといきなり、セ、フレっていうのは……。それから一応聞いていい? 意味わかってる?」
「わかってるよ、流石に」
片眉を上げて源君は言う。そりゃあ流石に……そうか。そもそも源君がよく言われる言葉なんだった。それもどうなんだろうと思いはするけれど、モテる男は辛いというやつかもしれない。
「いたことあるの? せ……セフレ」
「うーん、難しい質問だね」
「ど、どこが?」
いるかいないかではないのだろうか。源君は頬杖をついていた体を起こして、今度は壁に寄りかかった。
「最初に全部喋っちゃった方がいいだろうから言うけど、僕女の子に振られたの君が初めてなんだよ」
「あ、そう、なんですか」
思わず敬語になってしまった。それ以外どうしたらいいかわからなかった。どういう反応が正解なのか、源君の前にいると全くわからなくなる。
「自分から好きだって言ったのも初めてだけど、振られちゃったのも初めて。これ言うとねえ、弟にすごく怒られるんだけど。僕にとって女の子って向こうから来てくれるものだったんだ」
ただそうだという事実を述べただけの淡々とした口調で、源君はそう言った。自慢なんかでも、別にそれを良いとも悪いとも思っていない。そうだからそうだと、研究成果を発表しているような話し方だった。
「世の男の人が聞いたら羨みそうな話だね」
一応の相槌を打てば、源君は首を傾げる。
「そうかな。どんなに女の子が好きだって言ってくれても、自分が好きな女の子に好かれなかったら意味ないんじゃない?」
身も蓋もない。私は閉口した。
でも、それはむき出しの言葉だったけれど理解はできる。私だって、できるなら自分が好きになった人に好かれたかった。そうだったら、一番嬉しかったに違いないだろう。何がいけなかったんだろうと、どうしてだろうと、ずっと考えることもなかっただろう。
「でもそういう女の子の中にたまにいたよ、僕に『せふれでもいいから』って言ってきた子。そのときには何でそんなこと言うのか全然わからなかったなあ。あんまり興味もなかったし。ただ、この子はそう思うんだろうなって。僕にとってはそれだけのことだったんだ。変だとは特に思わなかった、わからないだけで」
「そ、それでその、セフレ? いたことがあるんだ……?」
源君は微妙な笑みを浮かべた。これはほぼイエスと取っていいだろうか……。はは、と乾いた笑いが出た。すると源君はやや焦って体を起こす。ガタンとベンチがやや揺れて音を立てる。
「だけどね、長続きはしないんだよ。こんな弁解しても意味ないの分かってるんだけど」
「あ、うん……」
意味がないと自分で言うだけあって、源君はそれ以上言い訳も何も取り繕いもしなかった。本当に正直な性格のようだ。肩を竦めた源君は苦笑しながら続ける。
「僕はその子のこと何とも思ってあげられないから。女の子は柔らかくて可愛いし、好きだけど。その子が欲しいのはそういうことじゃないだろう? そうするとね、向こうからもういいって言われちゃうんだよね」
「……そうなるだろうね」
そちらの気持ちなら、私にもまだ理解ができる。
自分に絶対振り向くことのない相手の一番傍にいるのは、あまりにも愚かで、苦しい。
「ま、そういう愚か者に僕も仲間入りするんだけどね」
ふざけたような口調で源君は言った。源君の顔は笑っていたけれど、私はどうにも笑えそうにはない。どうしてそんなこと言えるのだろう。辛いのがわかっているのに、そこまで理解していてどうして。
私が黙っていたせいか、源君は困ったように眉を下げて口を開く。
「そうは言ってもね、昨日も言ったと思うけど、変に身構えなくても、僕は君が嫌がるのにどうこうするつもりないから」
「どうこうっていうのは、えーっと」
「口に出したほうがいい? セッ」
「いや結構です」
ここは大学の廊下なのだ。それも昼休みになったばかりの、真昼間の。そんな単語出さなくていい。正直こんな話をしているのも気が引けるくらいなのに。ある程度学内がざわめいていて、周囲に誰もいないおかげで紛れているだけで。
いや……そういう関係になろうと言うのはやっぱり間違っている気がする。源君は悪い人ではないと思う。たぶん優しい人だ、少しずれてはいるけど。このままちゃんと話していれば、友達にはなれるだろう。おそらく、お互いのことを知っていけば。だからこそ余計に、今そんな関係になってはいけない気がする。
「その名前じゃなくても、友達じゃ、だめなのかな。普通に、友達じゃ」
連絡先も交換したのだし、同じ講義を取っていることも分かったのだ。わざわざそんな、一般的に口に出せないような名前の関係にする必要ない。
しかし源君は笑顔で首を振った。
「ううん。無理だよ、それはだめ」
「なんで」
ビー玉の瞳を細めて、源君はそれでも笑う。口元は緩んでいるけれど、目元は確かに笑みなのだけれど。それでも正確にそうだと言うには躊躇うような、不思議な表情だった。
「だって、僕今ならわかるから」
「……なにが?」
「僕に『せふれでもいいから』って言ってきた女の子の気持ち、今ならわかってしまうから」
手首を掴んで、源君が繰り返す。痛くはない。けれど離してもくれなかった。
「だからだめだよ。それに、君だって他に好きな人がいるのに僕に諦めろって言える?」
源君は目を細め少しだけ意地の悪い顔をする。ぐっと私は唇を噛み締めた。
「……私は別に、清光とどうこうなろうとは思ってないよ」
「でも、それは君が傷つきたくないからだよね」
「っ違うよ! そうじゃない、ただ私は」
ただ、私は。ただ……。
清光にこれ以上のことを望むつもりはない。それは本当なのだ。友達としての清光を失ってしまうより、このままのほうがいい。それは確かなのに、まだ胸が痛む。だから時間が解決するのを待っているのだ。それだけだ。
けれど何か言い返したかったのに、結局私は腕を掴まれたままで黙りこくってしまった。似た者同士だ。私と源君は、どうしたってそこに納まってしまう。
「……そういうわけだから、納得してくれないかい。せふれで」
するりとやっと手が離れた。しかしそれは源君が諦めたのではなく、私に逃げる気がないと思われたからだ。そしてそれは、腹立たしいことに正しかった。本当に、源君は人のことをよく見ている。
「僕は君の気持ちに付け込んでるだけだから、同じように君も僕のことは好きにすればいいよ。僕の我儘に付き合ってくれる分は。それなら対等だから、それでよしとしてくれない? 他にしてほしいことがあれば、何でも言ってね。お互い、納得してせふれになろう」
納得して、かあ。脱力して私は壁に寄りかかった。
「……やっぱりまだ、わかんないや、源君のこと」
考え方も、説明されればやっと「そういう風に思うんだ」くらいで。私にとってはずっと不思議なままだ。たぶん、これからもそうだろう。
でも、源君のほうが手を伸ばしてくる。私のほうに、何度でも。……私にはできなかったことだ。
「そう? これで普通の友達にされちゃ、意識もされなくて癪だから。やっぱり別な呼び方のほうがいいよ」
「癪って」
まるで小さい子みたいな言い方だ。純粋に腹立たしいと、それだけを表現して。
「それでさ、昨日も言ったけど、次から名前にしてくれないかい。源君じゃなくて。気が向いたらでいいから。お腹空いちゃった、そろそろ何か買いに行こうよ。もうどこも空いてると思うし」
次から、と言われてもまだ慣れない分どうにも口に出しづらい。そもそも、女の子の友達以外を名前で呼ぶこと自体がそうそうないのだ。
例外が清光、くらいで。……清光はこんなの知ったら怒るだろうなとぼんやり思った。口が裂けても言えない。
よいしょと弾みをつけて源君は立ち上がった。うーんと一つ伸びをして、首を回す。ふわふわとした髪が揺れた。この際だから、気になることは全部聞いておこう。私はまだベンチに座ったままで、源君の背中に聞く。
「源君じゃ何か駄目なの?」
「うーん、気分転換みたいなものだよ、たぶん君も『源君』とは付き合おうって思えなくても、『髭切君』なら違うかもしれないよ。気が変わるかも」
言葉遊びのようなことを源君が言うので、私は何となく笑った。
「どっちも同じ人じゃない?」
私がそう問えば、振り返って源君は笑った。
「うん。だからね、本当はどっちでもいいよ、君が好きだって言ってくれる方なら」
それも考えておいてね。源君は歩き出した。少しだけれど、スニーカーの靴底が絨毯敷きの廊下を擦る音が響く。
「ほら、コンビニ? 行こうよ」
いくらか歩いて源君が言うので、私はうんと慌てて返事をしてベンチから腰を浮かせた。
まだ、どうしたいか源君は私に問いかけている。無理に関係を進めるのではなく、かといって引き下がるわけでもなく、どうするのかはきっと私が決めていい。どうするのが一番いいんだろう。
結局、その日は源君と一緒にコンビニスイーツを食べた。買った新作のプリンが美味しいとかで、源君は一口分けてくれた。しかしその代わり私の買ったプリンパフェも半分食べられた。源君の一口は随分大きかったのだ。