きみはこいびと
「おはようー、もう起きてる?」
「ごめんね! 起きてはいる!」
しまった、寝坊した。けれどすっぴんは嫌だ、絶対に嫌だ。もう見られているけど嫌だ。
穏やかな声に玄関を開ければ、髭切君がにこにことして立っていた。
「寝坊かい?」
「寝坊! ごめんちょっとだけ待ってて!」
「お邪魔しまーす」
敷居を跨いで髭切君が部屋に入ってくる。寝ぐせだけは直っていてよかった。源君はもう勝手知ったる様子で部屋を進んで、ぼすんとベッドに座った後にそのまま横になった。
「別にそのままでも僕はいいけどねえ」
「い、やだ、簡単にでも化粧するから!」
いつぞやと同じように洗面所に化粧品を持って駆けこむ。はあと息を吐いた。下地から手に広げる。待たせるのは嫌だが適当にするのも……。ひとまず顔にそれを塗っていると、そう大して距離があるわけではないために扉越しに髭切君の声が聞こえてきた。
「どうして今日寝坊しちゃったの? もしかして昨日あるばいとだった?」
「あー、うん、そうなんだよね、急に入ってくれって言われて」
「えぇ、言ってくれればよかったのに。迎えに行きそびれてしまったよ」
下地が終わったからファンデ、と私は手の甲にリキッドのそれを広げた。指で伸ばし、スポンジで叩き込みながら髭切君に答える。
「急だったし、ちょっと遅い時間だったから」
「今度から言ってね。彼氏なんだから、ちゃんと迎えに行くよ」
「……」
彼氏、かあ。改めて言葉にされるとこそばゆい名前に、私は思わず手を止めた。セフレと比べたら三百倍くらい健全な言葉なのだが、髭切君が自分の彼氏になったのだと思うとそれはそれで現実味がない。
セフレの源君が、彼氏の髭切君になったのだ。
「……髭切君、彼氏じゃなくても迎えに来てたのに?」
「ありゃ、そうだったね」
あははと愉快気な髭切君の笑い声が聞こえてくる。いけない、仕度の続きをしないと。今度はフェイスパウダーを手に取って、私は再び鏡を見た。
「でもね、それが嬉しいんだよ。君も同じだといいんだけど」
「何が?」
ふあと一つ欠伸が聞こえる。頭の中で次はなんだっけなんて考えながら、髭切君の言葉を聞いた。
「君が僕と出かけるためにそうやってお化粧してるのを待ったりだとか、あるばいとの迎えに行ったりだとか。君が寝坊しちゃっても、どうしたのってこうやって見に来ていいんだし。それをね、君の彼氏だからって言えるのが嬉しいんだよ」
手に持っていた、筆を狭い洗面所に置く音がやけに響く。髭切君の言葉を一言も聞き逃したくなかった私は、そうしなければよかったなと思った。
「君が選んで、僕の彼女になったのが嬉しいんだ」
薄い扉越しに聞こえる、穏やかな声だった。幸せそうで、夜眠る前に何かをねだるようなそんな声。
「……私も嬉しいよ」
面と向かって言うのはまだ恥ずかしい。だから私は洗面所で答える。
これから、髭切君と何をしよう。今までしてきたことをもう一度したっていい。彼氏の髭切君とすることは、どんな思い出になるだろうか。今日もきっと、そういう一日になる。
「色んなことが出来たらいいな、髭切君とって、思ってる」
それがとても、楽しみだ。
化粧品をしまっていたポーチを閉じて、洗面所の扉を開けた。返事がない。どうしたのだろうと部屋を覗き込んで、あははと笑いが漏れる。
「寝てるし」
髭切君は私のベッドの上で、ごろんと横になった体勢のまま目を閉じていた。一体どこまで聞いていたやら、もしかしたら私の返事は耳に届いていなかったかもしれない。
けれどまあ、それもいいだろう。今度また、ちゃんと顔を見て伝えればいいのだから。私は自分もベッドに横に座りこんで、髭切君が寝息を立てる横に腕を置いた。それにしてもいつになったら髭切君は起きるだろう。ふふふと笑ったらなんだか私も眠くなってきた。昨日は本当に帰宅が遅かったのだ。
目が覚めたら、そうしたら髭切君と一緒に今日は何をするか決めよう。
「おやすみ、髭切君。大好きだよ」
聞いていないのをいいことにそう呟いて、私は休日の昼前に目を閉じた。