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    しおり
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    しおり
    きみは…


     君に好きな子がいると知って、本当は「しめた」と思ったと言ったら、君はどんな顔をするだろうか。
    「せふれでいいから僕と付き合ってくれない?」
     何度か言われたような言葉を、自分で言うことになるなんて考えてもみなかった。けれど便利な台詞があって助かる。僕と違って、彼女はこの提案に随分驚いたようだった。
     でも、どうでもよかった。どうでもよかったのだ。どんな名前の関係でも、今度はちゃんと傍にいられるなら。同じ学科の人でも、ゼミが同じ人でもなくて、今度は。
     同じように、この痛みを知っている君なら、それを許してくれると思った。そのはずだと思った。



     もっと嫌な子だったらよかったのにと、実は少し前から思っていた。もしそうだったら、たぶん自分はもっと容赦なく彼女に付け入っただろう。でもそれができなかったのは、しようと思わなかったのは、彼がずっとずっといい子だったからだった。
    「……なに、あんたが俺に用があるって、あんまり想像できないんだけど」
     呼べば、彼はちゃんと来てくれた。僕とは面識も何もない。学科が違うことは知っている。教養の講義なんかで見かけたこともある。大抵、広い教室の彼女の隣にいた。
    「用ってほど用はないんだけど、ちょっと話しておこうかなって。僕の好きな子の、好きな子みたいだから、君」
     僕がそう言えば、やや焦れたような、苛立ったような目で彼は僕を見る。
     彼の目元の雰囲気や、一見して近寄りがたいキリリとした容姿は弟に似ているような気がした。きっと彼も真面目で、しっかりしているんだろう。あの子に今度、「弟のこと好きにならないでね」と言っておこうか迷う。他の誰かならいざ知らず、弟を好きだと言われてしまうと少し困る。
    「そういうことなら、俺もあんたに話あんだけど」
    「なあに?」
     カタンと勢いをつけて彼は僕と同じ長椅子の一席分向こうに座った。
    「お前、遊びで俺の友達と付き合ってるんじゃないよな」
     彼と話しておこうと思ったのは、まあ純粋に彼女の好みを知りたかったのもあった。彼女の好みに僕の方から近づくのは効率的ではある。彼女はこうされたら嬉しいだとか、こうされたら嫌だとか、そういうことが知りたかった。何せ僕は彼女にとって、つい最近までは「ゼミが同じ学科の人」に過ぎなかったからだ。これからやらなくてはならないことも、知らなくてはいけないこともきっと山ほどある。
     彼は、彼女の昔からの友達だと聞いた。そしてこの反応を見るに、そう聞いた話は正しく、また正しくない。
    「遊びだって思ったのかい?」
     僕が首を傾げて聞けば、彼はぐっと言い淀んだ。たくさん言葉を選んでいるようだった。その表情が何だか最初の彼女に似ていて、聞きたいだろうことも少し察する。
    「だったら困るから言ってるんだよ。お前その、いや、本人に言うのはすっごい気が引けるんだけど」
    「女癖が悪いって?」
     率直に尋ねる。彼は口を噤んでしまった。遠慮なんかしなくていいのに、と僕は思った。彼は見るからに不機嫌そうだったし、僕のことがきっと嫌いか気に食わないだろうことは見て取れていたのだ。僕のことなんて気遣う必要はない。
    「……俺は源のことよく知らないからさ、それが本当かどうか判断つかないけど。そういう噂のある奴が友達の相手だとちょっと気になるじゃん。なんかあったら、嫌だし」
     嫌、か。僕は座っていた足を組み直した。キンコンと遠くで講義が始まる音が聞こえる。僕は次の講義に行くつもりはなかった。けれど彼も立ち上がらなかったから、悪いことをしたなと少し思う。きっと今背中にしている教室の授業を取っていたはずだけれど。
    「噂は本当だったり嘘だったりまちまちだけど、でも遊びじゃないよ。遊びじゃなくて、本当に彼氏にしてほしくてそう言ったんだ」
    「……そっか」
     安堵したような、そんな息を彼は吐いた。僕も弟に彼女ができたと聞いたとき、そんな風に吐息を漏らしたような記憶がある。彼は伸ばした足を交差させて、壁に寄りかかる。ほんの少しだが、中で話している教員の声が聞こえた。
    「それで、なんか聞きたいことでもあるの? 教えられることとそうじゃないことがあるけど。好みとか身長とか誕生日とかならまだしも」
     俯くと耳に着けている飾りが揺れる。僕は首を振った。そういえば誕生日か、それは聞くのを忘れていた。あとで連絡してみよう。
    「んー、なんで君、あの子のこと振ってあげなかったのかなって思って」
     勢いよく、彼は僕のほうを向いた。怒っている顔だった。
    「なんでそんなこと」
    「どうして振ってあげなかったんだい? 君のことが好きじゃないって。君もあの子も、そうすれば楽になったよね。違うかい?」
     我ながら嫌な問い方だとわかっている。けれどこうでもしなければ彼は答えてくれなさそうで、僕はその言葉が聞きたかった。案の定あれは今まで以上に険しい表情でこちらを睨み、長椅子から立ち上がって僕を見下ろす。僕は黙ってそれを見つめていた。怒っている。でも、何に対して? どういうことに対して?
    「お前に何がわかるんだよ」
    「わからないよ。君のことだもの」
    「だったらいいじゃん、別にあの子にちょっかい出したりしないよ。ただ、お前が軽い気持ちでどうこうっていうなら、それは見過ごせないってだけで」
    「どうして? なら君があの子と付き合ってあげればよかったじゃないか」
     ぐいと胸倉を掴まれた。思いの外喧嘩早いほうだったらしい。細い割にしっかりとしている腕で、僕の襟を乱雑に掴む。
    「そんなことできるわけないだろ、いい加減にしろよ」
    「でも、大事なんだよね、あの子のこと」
    「っそうだけど! そうじゃないんだよ!」
     しわくちゃになった僕の襟を突き放して、苦しそうな顔で彼は僕から離れた。大学の建物の中は、いつも誰かがいてざわついている。だからそこできっと喧嘩をしようと、告白しようと、振られようと、何かに取り紛れて消えてしまう。そこで傷ついている人も、苦しんでいる人も悲しんでいる人も本当にいるのに。
     けれど人が雑多にいるこの場所では、声に出さないと伝わらない。
    「そういう風に変わればいいと思ったこともあったよ。でも俺にとってあの子はってそういう存在なんだよ。大事だし、大好きだけど。幸せになってほしいけど。妹みたいなもんなんだ。妹とは、付き合えないじゃん。あの子が欲しがってるのはそういうんじゃないじゃん。俺だってこんな風になりたくなかったよ。でも言えなかった、あんな風にこれからもよろしくって言われたら」
     くしゃりと彼は顔を歪めた。色々、悩んだのだろうなと思う。きっとあれから彼女同様にずっと考えていた。ただ、彼にとって彼女は大事な友達だったというだけ。それ以上でもそれ以下でもなく。
    「……間違えたのはわかってるけど、俺だって友達一人なくしたくなかった。だからそれでもあの子が笑ってる間は、いいのかなって。でもいいわけないよな」
     はあーと長く、彼は溜息を吐く。それからすとんとまた長椅子に座った。くしゃりと細くてつやつやとした髪を掻き上げる。
    「……ごめん、胸倉掴んで」
    「ううん」
     少し服を引っ張って、皴になったところを伸ばす。まだ今まで通り大学の中はざわめいていた。きっと、僕と彼が掴みあいの喧嘩をしたところで、通りかかった誰かしか気づかないだろう。
     切れ長の目で僕を見ながら、彼はもう一度念を押す。よっぽど気になっているようだ。
    「ねえ、本当に本気なんだよな? 別に遊びじゃないんだよな?」
    「遊びじゃないよ。振られたら三日大学休むくらいには本気だよ」
    「なにそれ、あんた三日も休んだの」
     呆れたように彼が言ったので、僕は一つ頷いた。
    「うん、弟に怒られたし、四日目はゼミがあったから。あの子と同じ授業休みたくなくて」
    「……現金な奴」
     うん、と返事をする。でもそのときは、たったひとつ、あのゼミの授業だけが彼女と話をできる機会だった。
     ああそっか、やっぱり同じなんだ。僕はこんと後頭部を壁に当てた。掲示物なんかを貼れるようにぼこぼこと穴の開いた壁は硬くて痛い。
    「なんでもいいから、傍にいようと思って。振られちゃったけど、振られちゃったから、僕はもうあの子のただの同級生じゃないし」
     嫌でも僕のことを意識するはずだ。そちらの方が都合がよかった。振られた以上、もうそう切り替えるしかないし、自分はそういうことが得意なのだ。
    「要は合理主義者なのだろう、兄者は」
     学生鞄を抱え、髭切の学習机に備え付けられた回転椅子に座った弟にも言われた。あれは彼女に振られて休んだ三日目のこと。
    「理が合えば納得する。だがそうでなければそれを合わせようとする。だから自分でも先ほどから振られたと繰り返しているではないか」
    「だって、振られたのは事実だからね」
    「しかしそれが嫌なのだろう。ゆえ、わざわざ口に出してまで納得しようとしているのではないか。ならもう諦めようとすることを諦めた方がいい、納得がいくまで、何かせねば一生そのままだ」
     納得が、いくまで。そうは言っても僕は何をどうしたらいいのかさえ分からなかった。なにせこんな風に女の子に好きだと言ったのは初めてで、それを断られたのだってそうだったのだ。
    「なにそれ、初恋ってことじゃん」
    「そうだねえ」
     ぎょっとした顔で彼が言った。そんなに驚くことだろうか、と僕はちょっと思う。
     自分以外の誰かを好きになるということが、そう多くあるものだろうか。それだけで、僕にとっては特別だった。
    「まあ僕の一目惚れだったんだよね」
     あれは入学式のこと。人数が多いものだから、広い会場で一緒くたになった入学式。なんだか偉い人の話を聞いて、知りもしない校歌が流れて、それでおしまい。寝たってよかったな、なんて思いながら出席した。
     新しく仕立てたスーツとかいう洋服は堅苦しくて、締めているネクタイも今日は弟に教わりながら結んだが次までやり方を覚えている自信がない。でもまあ、そんなことどうにでもなるか。
     そんな気持ちで、僕は入学式にいた。けれど投げやりだったわけでも、やる気がなかったわけでもない。そうしなければいけなかったからそこにいた。大学に入って、卒業して、働いて。今はそういう過程の中にいるというだけ。それに不服はない。
     けれど、つまらないなと思ったことはあった。
    「大抵のことはできちゃうんだ。やろうと思ったことって」
    「……あんたが言うとなんか嫌味じゃないのすごいね」
     呆れたような、感嘆したような顔で彼は言った。僕は足を組みなおしながら首を捻る。
    「ふふ、そう? 多分得意なんだよ。あんまり何かを苦に思ったことないもの。いつもそうするべきだと思ったから、そうしているだけで」
     もちろん、そこに僕の意志はある。したくないことだってある。ただ僕がやらなければならないと、僕がするべきだということはこなしているのだ。
     それを嫌だとは思わなかったけれど、つまらないと思ったことはある。相手が何を考えているかわかる、何をどうすれば目的を達成できるのかわかる。そういうことを。
    「……だからね、初めて見たとき、笑った顔が可愛いなあって思って」
     今思い返せば、彼女はきっと彼に笑いかけていたのだ。僕はそこまで覚えていないけれど、多分隣に彼がいた。
     僕と同じように真新しいスーツを着て、中に来ていたのは薄い水色のシャツだった。女の子たちは皆白か桃色のそれが多かったのに、彼女は水色。それで目を引いたのかもしれない。入学式のあった会場から出て、誰かと話しながら帰ろうとしていた。
     その顔が、とても可愛いと思った。
    「なんであんなに可愛く見えたんだろうって、ずっと気になってね。同じ学科だったから、いくつか同じ授業があって、そうするとどうしても目で追っちゃって。それでもやっぱり可愛いなあって思ったんだ。そういう風に僕にも笑ってくれればいいなあって」
     容姿の美醜はよくわからない。でも取り立てて目立つ方ではないだろう。それなのになぜか、どうしてだか。
    「でも考えてみたら当然だよね、だって僕は好きな人に見せるとびきりの笑顔を横から見てたんだもの。そりゃあ可愛く見えるよ。そうだよね」
    「いや、俺それにどう反応したらいいかわかんないけど」
     苦笑した彼が肩を竦める。それからはあと息を吐いた。伸ばした足の先を左右に動かして、おかしそうに笑い始める。
    「でも安心した。遊びじゃないんだな、そっか、あんた本当にあの子が好きなんだ」
    「さっきからずっとそう言ってるのに」
     むっとした顔を作って僕がそう言えば、彼はごめんごめんと笑って手を振った。
    「俺にはそう見えないもん。……いや、可愛くないって言ってんじゃないけど。そんな風に見えないから。ただまあずっとそうやって笑っててくれればいいなって思うけど。それを向けてくれるのは俺じゃなくてもって、さ」
     自分じゃなくても。僕はまるでそう思えそうになかった。けれど彼はすっきりしたような、どこか晴れやかな表情で笑ってみせる。安堵した、そんな顔だった。
    「俺はずっとあの子を傷つけるのが怖かった。自分の手で、悲しませるのがすっごい。でも、もうそんなこと言ってらんないね。この間だって、楽しそうだったし。あんたが笑わせてやってよ。俺はそれがわかったらもう十分。あんた思ったよりいいひとだったし」
     よいしょっとと彼は立ち上がった。それからうーんと伸びをする。いいなあ、と僕は思った。
    「そんな風に思えたらよかったな、僕も」
     僕はあの子にしてほしいことがたくさんある。そんな、笑ってればいいだなんて考えられそうもない。笑うならその笑顔を僕に向けてほしい。色んなことを一緒にしたい。
    「無理じゃん、あんたあの子のこと好きなんでしょ? 俺とは違うんだから無理だよ。っていうかそんな簡単に諦められるのに食い下がってんだったらぶっ飛ばすぞ」
     眉間にしわを寄せて彼がそう言ったので、僕はふふふと笑ってしまった。本当に、彼がもっと嫌な子だったら。もうちょっとずるい手も使えたのに。
    「うーん、でもなかなか困らせてばかりな気もするんだよね。どうもうまくいかなくて」
    「言っとくけど協力はしないからね。変に糸なんて引いてやんないよ」
     べっと彼は舌を見せた。ちょっと期待していたのだけれど、だめらしい。あーあなんてわざとらしく言って、僕も立ち上がった。話は終わったのだから、僕も彼も、ひとまずはこれで解散だ。
     それにしても。僕は履物から携帯を取り出して見てみた。連絡は特にない。僕と一緒にいるところを彼に見られるというのは、彼女にとってまだまだ動揺することのようでこの間から何とも言えない態度を取られ続けている。少しはましになったかと思っていたから、がっかりしなかったと言えば嘘だ。
    「はあ、今度こそ振られちゃうかも。やだなあ、たまに相談したら話聞いてくれる?」
     彼は片眉を上げて、困ったようなそれでも愛嬌のある顔で笑った。
    「……ちょっと嫌。嘘、たまにだったら聞いてやるよ。じゃーまたね」
     ひらっと彼は手を振る。それでもまたねなんだと思って、僕も肩を震わせた。
     本当に、もっと嫌な子ならよかった。あれじゃなかなか手強そうだなあなんてぼやき、僕ははあと息を吐いた。


     我ながら、未練がましいにも程がある。若干青ざめながら私はううと唸って蹲った。そうしたところでどうにもならないのだが、しかし……。時計を見る、もう少ししたら仕度して出ないと遅刻だ。今日は休みで、源君から「近くに美味しいお菓子屋さんがあるんだけど」と誘われていた。
     気を遣われているのが、ありありとわかる。どれもこれも、私があの日動揺したのが悪い。
    「あー、おはよ、急がないと二限は遅れちゃうよ」
    「お、はよう。そうだね、急ぐ……」
     あの朝、清光に私はそれしか返せなかった。完全に頭になかったのだ、清光にああしてばったり会うことが。近所に住んでいることだとか、同じ大学に通っていることだとか、考えてみれば出くわす可能性は十分にあったはずなのに。
    「……源君、どう思ったかな」
     絶対に、嫌だっただろうに。私なら、嫌だと思う。
     けれど特に、源君の態度にここしばらく何か変わったところはない。気遣われているのはわかるが、それ以外は。相変わらず講義は一緒に受けるし、お昼も食べればバイト先に迎えに来るし、休日は遊びに誘ってくれる。「諦めるつもりはないよ」と言っていた言葉通りに。
     もうどうこうなるつもりがないと言っているのに、友達としてならまだしもこうして会えば動揺しているのだ。源君は、本当にどう思っただろう。
    「けじめつけなきゃ……」
     ずっとそれから目を逸らし続けてきた。けれど本当に源君と一緒にいようと思うなら、これから別な名前の関係になろうと思うなら、このままじゃいけないのだ。
     それを今までもわかっていたのに、頭にあったのに。
    「清光に振られるの、怖いなあ」
     ただそれだけで、私はいつまでもここに踏みとどまっている。
     時間の五分前に待ち合わせ場所に行けば、やはり源君が先に来ていた。いつも遅れたことがない。必ず私より先に源君はいる。源君は私を見つけると、着ていたロングカーディガンのポケットから手を抜いて振った。
    「おはよう、ちゃんとお腹空かせてきた?」
     にこりとして言う源君に、私は笑いながら肩を竦める。
    「お菓子屋さんでしょ? そんなお腹空かせておく必要ある?」
    「え? お菓子いっぱい食べようかなって」
    「源君いつもそればっかり」
     別にスイーツビュッフェというわけではないだろうに。それでもたぶんたくさん食べるんだろうな。源君の前に並ぶ山盛りのケーキを想像したら、少し愉快な気分になった。
     他愛のない話をしながら店に向かいつつ……何となく嫌な予感がした。というのも、私はこの道を歩いたことがあるのだ。何度か、いや何度かなんてものではない。大学に入ってから、割と頻繁に見たこの店のロゴ。
    「……源君、お店ってここ?」
    「ありゃ、知ってるところだった?」
     いつまでも中途半端なことをしているから、罰が当たったのだと私は思った。
     なぜならそこは、清光の好きな女の子がバイトしているケーキ屋さんだったからだ。


     入りたくないと言えば源君は理由を聞きたがるだろうから、私は結局そのケーキ屋さんに行く羽目になった。味は確かに美味しい、もう何度も食べたから知っている。だから美味しいからケーキを食べに来たのだ。それだけだ。
     恐る恐るショーケース越しに立つ店員さんを見る。ホッと一息ついた。見知った顔ではない。
    「いらっしゃいませ、店内をご利用ですか?」
    「はい、二人」
     源君が二本指を立ててピースサインで店員さんに言う。お好きな席へどうぞと返され、私と源君は窓際の二人席に座った。ケーキの為かひんやりとした店内、生クリームの匂い。
    「知ってる場所だったんだねえ、好きなお店だった?」
    「え、ああ、うん。ちょっとね。好きだよ、ここのケーキ」
     間違ってない、嘘はついていない。実際ここのケーキは好きだ。……個々のケーキを食べるときは、清光と一緒だったから。
     源君はメニュー表を開いて、うーんと上から下まで見た。
    「おすすめは? それは二つ食べようかな」
    「え、それはって?」
    「他一つずつ食べて、君のおすすめは二つ」
     さも当たり前だという顔で源君は言った。そんなに入るんだろうか。ここのケーキは結構種類が多い。季節限定なんかもあるけれど。
    「ご注文はお決まりですか?」
     ギク、と肩が震えた。聞いたことのある声だ。コンと小さく音を立てて氷水の入ったグラスが二つ置かれる。ゆっくり顔を上げれば、やはり。何度か見た顔の女の子がそこにいた。
    「君は?」
     源君に聞かれ、私は視線をメニューに戻す。首を動かすと軋んだ音がした。
    「あ、私……苺のタルト、と紅茶」
    「じゃあ僕はそのたると、だけ二つであと全部一つずつ」
    「ぜっ、全部っ?」
     女の子の声が裏返ったので、私は苦笑した。源君だけはきょとんとして瞬きを繰り返す。
    「うん、全部」
    「この量ですか?」
    「うん。君も気に入ったのがあったら一口あげるからね」
     屈託なく源君は言う。欲しがっているわけではない。呆気に取られた表情の女の子は一度だけ口をあんぐりとさせた後、あははと堪えきれなくなったのか声を上げて笑った。唇のあたりに当てられた指の爪がピンク色だった。とても、可愛かった。
    「す、すみませ、あはは。お持ち帰りで全商品制覇しようとするお客さんはいるんですけど、店内利用では初めてで」
     どきんとひとつ、鼓動が鳴る。その「全商品制覇しようとするお客さん」が清光のことだと、私は知っているからだ。
    「流石に印象に残ると思わない? だめかな」
     そんな風に言った清光を、私は知っているのだ。
    「全商品制覇目指してるお客さんは、どんな感じなんですか?」
     そう尋ねれば、女の子はこちらを見てにこりと笑った。
    「あと少しなんです。いつも買うごとに前に買ったケーキの感想までくださって。来てくれるのが、楽しみなんです」
     一回、二回、私は瞬きをした。吸った息はきちんと肺に届き、それから代わりの空気を吐きだしていく。通り抜けた透明な呼吸は私のどこも傷つけることはなかった。
     代わりに、清光の笑った顔が見えた。
    「それは、楽しみですね」
     私が言えば、彼女は「はい」と微笑んだ。
     本当に全部一つずつなのかもう一度彼女は念を押して、戻っていく。源君は頬杖をついてその後姿を見つめた。ふう、と息を吐いて水の入ったグラスを手に取る。ほんのりレモンの香りと味がした。きっと水差しに入っていたのだろう。
     暫く待っていると、源君の「全部一つずつ」はカートに載せられて運ばれてきた。テーブルに入りきらないのだから当たり前かもしれないが、あは、と私は笑ってしまった。
    「ん、ふふ、凄い量」
    「ありゃあ、でも大丈夫、ちゃんと食べきれるよ」
     たぶんそうだろうな。きっと、そう。いただきますと手を合わせて、フォークを取る。源君も同じようにひとまず一皿目のモンブランを取った。
    「何かあった?」
     勘のいい源君は静かに問う。タルトのクッキー生地の上に載っている苺の一つにフォークを刺しながら、私は首を振った。
    「ううん」
     なんでもない、と言いかける。けれどそれでは、だめだ。ぎゅっとフォークを握った。何でもない、では何も変わらない。私は今、源君に「なんでもない」と言ってはいけない。
    「……ううん、違う。ごめんね、違う」
     ぱく、と源君は一口最初のモンブランを食べた。まだ一皿目、ケーキはまだまだカートの上に山積みにされている。
    「源君、それ食べた後にラーメン食べる元気ある?」
     口の中に入れたものを咀嚼して、空にした後源君は頷いた。いつも通り、穏やかな笑みだった。
    「うん、二杯くらいなら」
    「それは……食べすぎかなあ」
     私は肩を竦めたが、源君は山盛りのケーキを平らげる。苺のタルトだけ私と一緒に二つ食べて、「美味しいね」と言った。お会計のときごちそうさまですと声を掛ければ、あの注文を聞いてくれた女の子は「またいらしてくださいね」と返してくれて、ほんの少しだけ、胸の奥が思い出したようにチクリとした。
     食べきるのにそれなりの時間がかかったので、お店に入るころは青かった空もやや日が陰って赤みがかり始めていた。アフタヌーンティーには長かったかな、なんて思う。
    「どうしてらあめん?」
     歩きながら源君が聞く。このあたりにラーメン屋さんあったかな、と私は考えた。
    「源君と最初に食べたの、ラーメンだったでしょ?」
     大盛りのとんこつラーメン。あれは学食のものだったけれど。源君はこちらを見ずに、ああと得心のいったらしい返事をする。
    「でも君は唐揚げ定食だったよ」
    「よく覚えてるね」
    「そりゃあ、もちろん。君と食べたもの、行った場所……全部覚えてるよ」
     駅の近くにチェーンの定食屋を見つけ、私と源君はそこに入る。店内は適度に混んでいた。誘ったものの、私はケーキの後すぐにご飯が食べられるか少々自信がない。でもまあ、とおしながきを見て唐揚げ定食を注文した。
     そう待つこともなく、ラーメンと定食の盆は運ばれてくる。私と源君は二人でいただきますと手を合わせた。
    「学食よりちょっと量が少ないかなあ」
    「あれは学生用だから、多めなんだよ。私は食べきるの大変だったし」
    「ふふ、そうなんだ」
     ずぞぞと源君はいつもながら勢いよくラーメンを食べていく。あの日と同じように、邪魔だったのかふわふわの髪を耳に掛けた。本当に二杯、食べるのかな。そんな風に思って見ていると、源君はどんぶり越しにこちらを見て首を傾げた。
    「唐揚げ、一つ貰っていい?」
    「え、あ、うん」
    「ありがとう」
     がばと開いた大きな口で、源君は唐揚げを食べる。また一口だった。あはと笑ってお茶碗を持ち直せば、ざわつく店内でもしっかりと聞こえる声で源君は言った。
    「ご飯食べてからでいいかな、話聞くのは」
    「……」
     噛んでいるのかいないのか、飲み込むように源君はラーメンをすする。
    「ちゃんと聞くから、ひとまず食べさせてね」
     はーと息を吐いてから、源君は元気に「おかわりー」と店員さんに手を上げた。私は一口、箸で白米を摘まんで口に運ぶ。
     きっと、源君は私が何を言いたいのかわかっているのだ。わかっていて、そう言っているのだ。口を、歯を、顎を動かす。源君は二杯目のラーメンに手を付けた。
     ごちそうさまでした、とまた二人で手を合わせるまで私と源君は何も話さなかった。ガラガラとお店の引き戸を開けると空は暗い。源君のスニーカーがアスファルトを擦る音がした。
    「それで、何の話かな」
     歩きながら、源君が言う。いつも隣を並んで歩く源君が、今日は半歩先にいた。
     ちゃんと、話さなくては。私は今まで色んなことに迷って、悩んで、その上で目を瞑ってきた。そのツケを払わなくてはならない。ここまで先延ばしにした、ツケを。
    「……セフレをやめてほしい」
     ザリ、と靴底が小石を軋ませる。源君はぴたりと止まった。
    「理由を、聞くだけの権利が僕にもあるよね」
     源君の着ているロングカーディガンが夜風に揺れる。ふわふわの髪もそうだった。
     私は言葉を選び、どうするか考えて、やはり一番シンプルなものを口に出す。
    「今でもやっぱり、私は……清光に振られるの、とても怖いの」
     失くしたくない。清光のことを、失ってしまいたくない。ずっとずっとそう思ってきた。だからこの気持ちが叶わなくても、友達として。そんな中途半端なことを続けてきた。
     清光に選ばれなかったのだと、はっきりと認識するのが怖くて。
    「でもそれじゃいけないって、思う。このままずっといるのは、だめだって」
     振り返らないまま、源君が一度呼吸をしたのが背中の上下で分かった。
    「……それで? 僕は君が彼のこと好きなままでも、構わないよ」
     見えていないのがわかっているけれど、私は首を振った。それはだめだ。そんなのだめだ。
    「っそれはだめだよ、絶対にだめ」
    「どうして?」
     源君の声の調子は、いつもと変わらなかった。穏やかで、優しくて、温かい。いつもそれを私に向けてくれていた。いつだって、そうだった。
     源君は私にできないことを、私にできなかったことを、いつでも私にしてくれた。
    「源君が今はセフレだから、それはいけないと思う」
     ゆっくりと、源君がこちらを振り返った。蜂蜜色のビー玉の瞳に月が反射して煌めく。
    「最初からずっと悩んでたけど、やっぱりこんなのおかしい。駄目だよ、そんなの。それにそもそも、それらしいこと一つもしてない。源君、セフレって言いながらいつも普通のデートしてたよ?」
     私が肩を竦めて言えば、源君は困ったような笑みを浮かべて同じようにする。
    「しようと思えばいくらでも付け込めたんだけどね。だって君、結構押しに弱いから」
    「付け込めたって」
    「でも僕わかっちゃったんだよね」
     うーんなんて言いながらも微笑んで、源君は目を閉じ首を傾げた。先程までとんこつラーメンを二杯食べていた人には見えない。けれど私がよく知っているのは食いしん坊のほうの源君だった。
     思えば初めから、私は女癖の悪い源君なんて知らないし見たこともない。
    「なんで今まで、僕にせふれでいいからなんて言った女の子たちが僕から離れていったのか、よくわかったよ。日頃の行いって弟に怒られそう」
     伸びてきた手が、私の手を握る。それから源君が歩き出したので、私はそのままついて行った。源君の足は駅までの道を少しだけ遠回りしている。
    「せふれをやめたら、僕って君にとって何になるんだい? 同じ授業の人?」
    「……今それ、考えてる」
     どうしたいのか、源君とどうなりたいのか考えようと思った。源君と一緒にいて楽しいのも、色んなことを忘れられたのは事実だ。けれどそれだけではいけない。だからけじめをつけなくては。
     すべて答えを出すのは、そのあとだ。ぎゅっと手が一度だけしっかり力を込めて握られた。
    「それでも僕にとって、君は好きな子だからね」
     それはふわりと花が開くような笑みだった。綺麗だけれど、可愛くて、寂しそうだけれど、迷ってはいない。まっすぐな源君の気持ちそのものだ。
    「諦めが悪いほうなんだよね。納得いくまで頑張るって決めているし。せふれやめたってだけだもの」
     駅に着くと源君は私の手を離した。電車が同じはずだったけれど、源君は「ちょっと足を伸ばして、今日は実家に帰るよ」と手を振る。
    「今週弟に顔を見せていなくて。元気になってから挨拶もしてないし。でも心配しなくても、大学は休まないから大丈夫。ちゃんと行くよ。ゼミの発表もあるし。もう再来週? 全然準備進んでないね、あはは」
     だからここで。源君はひらひらと手を左右に振った。
    何もしなかったとしても、同じ授業を私と源君は取っている。大学に行けば嫌でも顔を合わせるだろう。けれど源君は、私がけじめをつけるまでは話しかけたり連絡することはないとわかっている。そうするべきだからだ。
    「ありがとう、源君」
     我儘なんて、結局全然言わなかったな。
     そうして私は源君と別れた。


     話すのにいつがいいかと連絡をすれば、清光はすぐに「明日の三限空いてるよ」と返事をくれた。実のところ私はそれを知っていたし、おそらく清光も同じだった。学期の初めに時間割を見せ合ったからだ。お互いの空き時間を実はちゃんと知っている。
     清光はそんな風に最初からずっと、優しかった。そうして私の臆病にずっと付き合ってくれていたのだ。
    「やっほ、待たせてごめんね」
    「ううん、私もお昼食べたかったから」
     待ったというほどここにいたわけではないのだが、清光はそう言ってベンチの私の隣に座った。空き教室の傍なので、ここには他に誰もいない。若干の喧騒が僅かに耳に届く程度だ。
    「あんたとこうやって話すの久しぶりじゃない?」
     清光はパッと耳元の髪を払って言った。きらりとつけているイヤリングが光る。うんと一つ私は頷いた。
    「そうだね、久しぶりな気がする」
    「……ちょっと薄情じゃん。言ってくれてもよかったのにさ」
     ふざけた調子の清光の口調に、私も合わせてごめんねと返した。そう、本当は言うべきだった。友達って、そういうものなのだ。けれど私にはそれができなかった。
     初恋の古傷というには、生々しすぎる。じくじくとした心はまだ痛んで、清光のことを好きなのだと言っていた。それなのに私は今までそれを無視し続けていた。
     ひと呼吸おいて、しっかり息を吸い込んでから私は口を開く。
    「実はね、源君のセフレになってたんだけど」
    「はあっ!?」
    「えっ」
     清光から思いの外大きな声が返ってきたので、ぎくりと肩が震えた。怒られるか驚かれるだろうと考えてはいたものの、想定以上だったのだ。ひくひくと清光の片頬が震えている。怒っているどころの話ではなさそうだった。
    「いや、その、ごめん、でもそういうことしてるわけじゃなくて」
    「い、いやごめん、ちょっと思ってたのと違う答えが来たもんだから、あのやろう……」
     話が違う、だとか清光はぶつぶつ言っている。話? 一体誰と話をしたのだ。
    「も、もしかして付き合ってると思ってた?」
     そりゃあ、普通そうか。私が恐る恐るそう聞けば、清光は首を一度は縦に振ったもののそのあとまた横に動かした。どっちなのだ。
    「いや、もしかしなくてもそう思うじゃん。そういうことなのかなって思うじゃん、セフレって、あんた、いや、納得してるなら、でも、あ、ごめん続けて」
    「う、うん、いやでも、やめてもらったんだけど、セフレ」
    「当たり前だよ……」
     額に手を当てて清光は俯いた。まあ、そうだろう。一般的にそういう反応をするだろう。
     私だって、最初は驚いたのだ。突拍子もなく源君に「せふれでいいからつきあって」なんて言われたときは。思考回路が常軌を逸していた。どうしてそんなことを言い出すのかさっぱりわからなかった。
    「……でも、源君は一度だって私が嫌がることしなかった」
     最初は一緒にご飯を食べようで、次は同じ講義は一緒に受けよう、だった。初めで休日に会ったときは花束を持ってやってきたし、ああそうだ……血液検査の結果なんかを渡されたのだった。
     考えが斜め上に行くほうであったし、それにいつも驚かされたけれど。源君はいつだって一生懸命だった。ただ真っ直ぐと、私に気持ちを見せてくれた。一度断られているのに。選ばれなかった辛さを、知っているのに。
     だから私も、それに真っ直ぐ向き合いたかった。源君が笑ってくれるだけ、優しくしてくれるだけ、同じように返したかった。
    「もう、わかってると思うけど。私ね、最初は清光と友達やる、つもりだったの」
     失いたくなかったから、そのまま、清光の傍にいたかった。失恋するくらいなら、諦めて友達になろうと思ったのだ。でもそれは難しくて、ただ辛いだけで。
     けれどきっと、私と同じだけ、いやそれよりずっと清光も苦しかったに違いないのだ。そういう優しい人なのだ。
    「でもそんなの私の我儘だったし、清光にも迷惑かけたよね、本当に、ごめんなさい」
     清光はきゅっと一度だけ唇を引き絞った。いくらか迷ったようだったけれど、頭を振って答える。
    「……違うよ。そんな風に言われたらさ、あんたばっか悪くて、俺たち友達じゃなかったみたいじゃん」
    「……」
    「惜しいなって、俺も。昔からの友達がいなくなるの、惜しいなって。そう思った俺も悪いんだよ。あんたが笑っててくれるからさ、いいのかななんて思って。そういう心地よさに甘えた俺も悪いんだよ。でもそれでいいわけないよな。俺もごめん」
     眉を下げて、清光は微笑んだ。
    「俺たち友達だったよ。確かにそうだったよ。それ以外にはなれなかったかもしれないけど、友達だったのは、間違ってない」
     中学の入学式のあの日、私と清光は確かに友達になったのだ。一緒に過ごして、笑って、たまに怒ったり泣いたりもしたけれど、間違いなく。私と清光は友達だった。
     ベンチに手を着いて、清光は正しく私のほうに体を向ける。ああ、覚えている。あの日もこうだった。清光に彼女ができたと聞いた日。私が最初に間違えた日。
    「俺、ずっとあんたに言うべきことわかってたんだ。でも言えなかった。言おうと思うとどうしても躊躇っちゃってさ。駄目だってわかってんのに」
    「……ううん、違う、違うよ。私が本当は、もっとずっと早く言わなきゃいけなかったのに」
     私が苦しんでいる間ずっと、清光も苦しんでいることに気づいていた。清光の優しさに甘えきって、友達として隣にいる心地よさに胡坐をかいた。なんて自分勝手な恋だったんだろう。やっとそれに気づいた。私は「振られた」ことに甘えたのだ。傷ついたことに、勝手に理由をつけたのだ。
     振られたって、諦めないで何度だって私に手を伸ばした髭切君がいなければ、きっとわからなかった。
    「私、清光のことが好きだった」
     この気持ちは、間違っていない。
    「清光の優しいところが大好きだった。昔から、大好きだったよ」
     確かにあったこの気持ちを、もう誤魔化してはいけないのだ。そうでないと、さよならもできない。ありがとうも言えない。
    「……うん、ごめん。俺、あんたとは付き合えない」
     一瞬だけ、清光は眉間に皺を寄せてくしゃりと顔を歪めた。でもそれでも笑って口に出してくれる。友達として好きだと言葉にしないでいてくれた。やっぱり最後まで、清光は優しいのだ。
    「……うん」
     思ったよりあっさりと返事ができた。どこも痛んだりしないわけではない。やはり心はずきずきとして、それでも思ったよりは浅い。そうなるだけの時間を私と清光は過ごしてきた。
     優しく、明るくて。ほろ苦い、初恋相応の思い出だ。
    「ありがとう、私、もっと前にそう言ってもらうべきだった。はっきり言ってくれて、本当にありがとう、清光。今まで、ごめんね」
     ふるふると清光は首を振った。サラサラの髪が流れる。それからはーっと大きく息を吐いた。すとんと脱力して肩が上から下に落ちたのがわかる。
    「んーん。あー、でもよかった、セフレなんてやめてよね、もー。心臓に悪いわ」
    「あ、うん、ごめん。いや本当に……それは私もちょっとどうなのって、思ったしずっと悩んだんだけど」
    「で? でももうケリついたから今度こそまともに源と付き合うわけ? そんなに悪い奴じゃなさそうだったね」
    「え? 源君と話したの?」
     何でもないように清光はうんと頷いた。一体いつの間に。あまり並んで話をしているところが想像できない。
    「まあ、変わったやつだと思うけどさ。いいやつじゃん。あんたのことは本気みたいだし」
     軽く二度清光は私の肩を叩いた。励まされている、何かを。そう思いながら私は首を縦に振った。
    「……いい人だよ。優しいし、真っ直ぐだし。考え方変だしものすごい大食いだけど」
    「そーなの? あんなにスタイルいいのに、どうなってんだよ」
     おどけた風で清光は肩を竦めた。しかし私が黙っていると、じっと赤い瞳でこちらを見つめた後に、バンと一つ背中を叩かれる。結構痛かった。
    「もー! 何! 今度は何迷ってんの!」
     ひりひりとするあたりを手で擦る。清光は組んだ足の上に頬杖をついて、完全に聞く構えだった。それにどうしても笑ってしまう。そういうところが親しみやすくて好きだったんだよなあと、自然に思えたからだ。
     黙っていて許してくれないのは源君も清光も同じなので、私は観念して小さくぼやいた。
    「ちょ、ちょっと調子がよくないかなと、思って」
     清光とケリがついたから、すぐに源君に声をかけるのはまずいのではないだろうか。
     セフレなんか了承してしまっても、私にだって倫理観だとか道徳の観念はあるのだ。もう少し時間をおいてだとか、冷静になってからだとか、色々。それに源君だって「え?」となるのではあるまいか。
     だが清光はげっそりした表情になった。がくんとついていた頬杖が落ちる。
    「何言ってんの? 向こう待ってんのに?」
    「いや、でも」
    「でももだってもないの! ほら立つ!」
     勢いよく手が引かれる。よろめきながら私はベンチから腰を上げた。清光に押し出されながら、数歩前に進んだ。
    「そういうのはね、調子がいいじゃなくて、振り向いたっていうんだよ!」
    「え……」
    「源にあんたが振り向いただけ! 源の粘り勝ち! ほら早く行ってこい!」
     今度は軽く、両肩を押される。一歩、二歩、足を動かした。
     ……本当にいいのだろうか、それで。私の迷いが伝わったのか、眉を下げて笑った清光が大きく頷く。
    「早く会いたいだろ? 行きなよ、また何年も迷うわけ?」
     唇を噛む。本当は、知っている。源君もこの時間帯が空き時間だと。あと少しで三限目は終わってしまう。だから早く見つけないと、早く行かないと、会えなくなる。
    「うん、行ってくる!」
     一歩踏み出す前に、友達を振り返った。清光は大きく口を開けて笑うと、手を振って言う。
    「もう後悔すんなよ! 俺も今から行ってくるから!」
     ケーキ、全制覇するのだろうか。私は自分も手を振り返しながら頷いた。
    「……っうん、ありがとう!」
     絨毯敷きの学内の廊下を、速足で進む。始まりはこの廊下の上を源君のスニーカーが擦る音だった。
     同じ学科の、同じゼミの、籤引きでペアになった人。
     でもそれが告白してくれた人になって、セックスフレンドなんかになってしまった。やはり何度考えても提案としてあれは間違っている。
     けれど絶対に、私の嫌がることはしなかった。いつだって私の選ぶのを待っていてくれていた。真っ直ぐに、ひたむきに。
    「っ髭切君!」
     階段を下って、校舎とまた別な校舎を繋ぐ廊下を歩く姿を見つけた。向こうには、図書館がある。やはりこちらを目指して正解だった。
     何もないときは、図書館で寝ている。予習をしたり、することがなくなったら。
     前に源君が言ったことだ。三限目の終わりかけのこの時間なら、図書館のほうに向かえば出てくる源君に、髭切君に会えると思った。
    「どうしたの? ありゃ、君この後授業じゃなかった?」
     髭切君はきょとんとして、それから壁に掛けてあった時計を見た。わかっている、次は講義があるのだ。ちなみに髭切君は今日殆ど授業がないので、トートバッグが限りなく薄い。
    「うん、うんだからその、手短に済ませるから」
    「走ってきたの?」
     小走りした、体力がないのが祟ってやや息が上がっている。でも、言わなくては。これから授業が終わって人がたくさん来る前に。ちゃんと聞こえるように、髭切君に伝わるように。
    「私を髭切君の、彼女にしてくれないかな……っ!」
     蜂蜜色の瞳を見開いて、髭切君はそれから何度か瞬きをした。
    「……彼女? 彼女でいいの?」
    「うん」
     最初に断ってしまったから、今度は私から言うのが正しい。息を整え、しっかりと私は言葉にする。
    「セフレじゃなくて、今度は。髭切君の、彼女になりたい」
     これからも一緒にご飯を食べたい。空き時間はゼミの準備をして、他愛もない話をしたい。
     髭切君のお腹が空いているのなら、バイト先にだって遊びに来てくれたらいい。待っていてくれるなら帰りも同じがいい。
     それに具合を悪くしたのなら、きちんと連絡してほしい。看病だってちゃんとしたい。そもそも寝落ちたりしないようにねって、ちゃんと言いたいのだ。
    「髭切君が好きだよ」
     きっとそういう気持ちをひっくるめて、好きだと言うのだ。
     髭切君は、暫く黙っていた。その間にくるくると色んな表情をあの瞳に映す。それは笑顔だったり、泣き出しそうな顔だったり、おかしく愉快そうだったりした。
    「……うん、僕も好き。僕も君が好きだよ」
     伸びてきた手が、私の手を握る。
    「僕の彼女になってくれる?」
     今度こそ確かに、私は髭切君の手を握り返した。
    「うん、なりたい。髭切君の彼女になりたいよ」
     ぱっと明かりがともったようだった。髭切君は嬉しげに笑顔になると、いきなり腕を広げて私に抱きつこうとする。ぎょっとしてそれは押し戻した。
    「待って、待ってそれは勢い余らないで」
    「え?」
    「ここ大学だから!」
     そう言えば、ああと源君は首を回した。ちょうどキンコンとチャイムが三限の終業を告げる。しまった、四限に行かなくては。
    「髭切君、私四限行くから」
    「ああ、そうだったそうだった、今日はバイト? 迎えに行くね」
    「あ、うん、わかった」
     手は離されなかったので、私と髭切君は手を繋いだままで四限の教室まで一緒に向かう。まあそのくらい、今日だけは見逃そう。
    「あ、そういえば、やっと名前で呼んでくれたねえ」
     弾んだ声で、髭切君が言った。
     実は取っておいてよかったと、ちょっとだけ思っている。今度はセフレじゃなくて、たった一人の恋人の呼び方。
    「はあ、自棄になって女の子呼ばなくてよかった」
    「髭切君、ちょっと?」
    「あはは、冗談だよ」
     とびっきりの笑顔で、源君はそう言った。それを見て私は悩まなくてよかったと、心から思った。
    micm1ckey Link Message Mute
    2024/08/13 20:17:31

    きみは…

    #髭さに #現代パロディ #刀剣乱夢
    既刊再録です。

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