きみは…
君に好きな子がいると知って、本当は「しめた」と思ったと言ったら、君はどんな顔をするだろうか。
「せふれでいいから僕と付き合ってくれない?」
何度か言われたような言葉を、自分で言うことになるなんて考えてもみなかった。けれど便利な台詞があって助かる。僕と違って、彼女はこの提案に随分驚いたようだった。
でも、どうでもよかった。どうでもよかったのだ。どんな名前の関係でも、今度はちゃんと傍にいられるなら。同じ学科の人でも、ゼミが同じ人でもなくて、今度は。
同じように、この痛みを知っている君なら、それを許してくれると思った。そのはずだと思った。
もっと嫌な子だったらよかったのにと、実は少し前から思っていた。もしそうだったら、たぶん自分はもっと容赦なく彼女に付け入っただろう。でもそれができなかったのは、しようと思わなかったのは、彼がずっとずっといい子だったからだった。
「……なに、あんたが俺に用があるって、あんまり想像できないんだけど」
呼べば、彼はちゃんと来てくれた。僕とは面識も何もない。学科が違うことは知っている。教養の講義なんかで見かけたこともある。大抵、広い教室の彼女の隣にいた。
「用ってほど用はないんだけど、ちょっと話しておこうかなって。僕の好きな子の、好きな子みたいだから、君」
僕がそう言えば、やや焦れたような、苛立ったような目で彼は僕を見る。
彼の目元の雰囲気や、一見して近寄りがたいキリリとした容姿は弟に似ているような気がした。きっと彼も真面目で、しっかりしているんだろう。あの子に今度、「弟のこと好きにならないでね」と言っておこうか迷う。他の誰かならいざ知らず、弟を好きだと言われてしまうと少し困る。
「そういうことなら、俺もあんたに話あんだけど」
「なあに?」
カタンと勢いをつけて彼は僕と同じ長椅子の一席分向こうに座った。
「お前、遊びで俺の友達と付き合ってるんじゃないよな」
彼と話しておこうと思ったのは、まあ純粋に彼女の好みを知りたかったのもあった。彼女の好みに僕の方から近づくのは効率的ではある。彼女はこうされたら嬉しいだとか、こうされたら嫌だとか、そういうことが知りたかった。何せ僕は彼女にとって、つい最近までは「ゼミが同じ学科の人」に過ぎなかったからだ。これからやらなくてはならないことも、知らなくてはいけないこともきっと山ほどある。
彼は、彼女の昔からの友達だと聞いた。そしてこの反応を見るに、そう聞いた話は正しく、また正しくない。
「遊びだって思ったのかい?」
僕が首を傾げて聞けば、彼はぐっと言い淀んだ。たくさん言葉を選んでいるようだった。その表情が何だか最初の彼女に似ていて、聞きたいだろうことも少し察する。
「だったら困るから言ってるんだよ。お前その、いや、本人に言うのはすっごい気が引けるんだけど」
「女癖が悪いって?」
率直に尋ねる。彼は口を噤んでしまった。遠慮なんかしなくていいのに、と僕は思った。彼は見るからに不機嫌そうだったし、僕のことがきっと嫌いか気に食わないだろうことは見て取れていたのだ。僕のことなんて気遣う必要はない。
「……俺は源のことよく知らないからさ、それが本当かどうか判断つかないけど。そういう噂のある奴が友達の相手だとちょっと気になるじゃん。なんかあったら、嫌だし」
嫌、か。僕は座っていた足を組み直した。キンコンと遠くで講義が始まる音が聞こえる。僕は次の講義に行くつもりはなかった。けれど彼も立ち上がらなかったから、悪いことをしたなと少し思う。きっと今背中にしている教室の授業を取っていたはずだけれど。
「噂は本当だったり嘘だったりまちまちだけど、でも遊びじゃないよ。遊びじゃなくて、本当に彼氏にしてほしくてそう言ったんだ」
「……そっか」
安堵したような、そんな息を彼は吐いた。僕も弟に彼女ができたと聞いたとき、そんな風に吐息を漏らしたような記憶がある。彼は伸ばした足を交差させて、壁に寄りかかる。ほんの少しだが、中で話している教員の声が聞こえた。
「それで、なんか聞きたいことでもあるの? 教えられることとそうじゃないことがあるけど。好みとか身長とか誕生日とかならまだしも」
俯くと耳に着けている飾りが揺れる。僕は首を振った。そういえば誕生日か、それは聞くのを忘れていた。あとで連絡してみよう。
「んー、なんで君、あの子のこと振ってあげなかったのかなって思って」
勢いよく、彼は僕のほうを向いた。怒っている顔だった。
「なんでそんなこと」
「どうして振ってあげなかったんだい? 君のことが好きじゃないって。君もあの子も、そうすれば楽になったよね。違うかい?」
我ながら嫌な問い方だとわかっている。けれどこうでもしなければ彼は答えてくれなさそうで、僕はその言葉が聞きたかった。案の定あれは今まで以上に険しい表情でこちらを睨み、長椅子から立ち上がって僕を見下ろす。僕は黙ってそれを見つめていた。怒っている。でも、何に対して? どういうことに対して?
「お前に何がわかるんだよ」
「わからないよ。君のことだもの」
「だったらいいじゃん、別にあの子にちょっかい出したりしないよ。ただ、お前が軽い気持ちでどうこうっていうなら、それは見過ごせないってだけで」
「どうして? なら君があの子と付き合ってあげればよかったじゃないか」
ぐいと胸倉を掴まれた。思いの外喧嘩早いほうだったらしい。細い割にしっかりとしている腕で、僕の襟を乱雑に掴む。
「そんなことできるわけないだろ、いい加減にしろよ」
「でも、大事なんだよね、あの子のこと」
「っそうだけど! そうじゃないんだよ!」
しわくちゃになった僕の襟を突き放して、苦しそうな顔で彼は僕から離れた。大学の建物の中は、いつも誰かがいてざわついている。だからそこできっと喧嘩をしようと、告白しようと、振られようと、何かに取り紛れて消えてしまう。そこで傷ついている人も、苦しんでいる人も悲しんでいる人も本当にいるのに。
けれど人が雑多にいるこの場所では、声に出さないと伝わらない。
「そういう風に変わればいいと思ったこともあったよ。でも俺にとってあの子はってそういう存在なんだよ。大事だし、大好きだけど。幸せになってほしいけど。妹みたいなもんなんだ。妹とは、付き合えないじゃん。あの子が欲しがってるのはそういうんじゃないじゃん。俺だってこんな風になりたくなかったよ。でも言えなかった、あんな風にこれからもよろしくって言われたら」
くしゃりと彼は顔を歪めた。色々、悩んだのだろうなと思う。きっとあれから彼女同様にずっと考えていた。ただ、彼にとって彼女は大事な友達だったというだけ。それ以上でもそれ以下でもなく。
「……間違えたのはわかってるけど、俺だって友達一人なくしたくなかった。だからそれでもあの子が笑ってる間は、いいのかなって。でもいいわけないよな」
はあーと長く、彼は溜息を吐く。それからすとんとまた長椅子に座った。くしゃりと細くてつやつやとした髪を掻き上げる。
「……ごめん、胸倉掴んで」
「ううん」
少し服を引っ張って、皴になったところを伸ばす。まだ今まで通り大学の中はざわめいていた。きっと、僕と彼が掴みあいの喧嘩をしたところで、通りかかった誰かしか気づかないだろう。
切れ長の目で僕を見ながら、彼はもう一度念を押す。よっぽど気になっているようだ。
「ねえ、本当に本気なんだよな? 別に遊びじゃないんだよな?」
「遊びじゃないよ。振られたら三日大学休むくらいには本気だよ」
「なにそれ、あんた三日も休んだの」
呆れたように彼が言ったので、僕は一つ頷いた。
「うん、弟に怒られたし、四日目はゼミがあったから。あの子と同じ授業休みたくなくて」
「……現金な奴」
うん、と返事をする。でもそのときは、たったひとつ、あのゼミの授業だけが彼女と話をできる機会だった。
ああそっか、やっぱり同じなんだ。僕はこんと後頭部を壁に当てた。掲示物なんかを貼れるようにぼこぼこと穴の開いた壁は硬くて痛い。
「なんでもいいから、傍にいようと思って。振られちゃったけど、振られちゃったから、僕はもうあの子のただの同級生じゃないし」
嫌でも僕のことを意識するはずだ。そちらの方が都合がよかった。振られた以上、もうそう切り替えるしかないし、自分はそういうことが得意なのだ。
「要は合理主義者なのだろう、兄者は」
学生鞄を抱え、髭切の学習机に備え付けられた回転椅子に座った弟にも言われた。あれは彼女に振られて休んだ三日目のこと。
「理が合えば納得する。だがそうでなければそれを合わせようとする。だから自分でも先ほどから振られたと繰り返しているではないか」
「だって、振られたのは事実だからね」
「しかしそれが嫌なのだろう。ゆえ、わざわざ口に出してまで納得しようとしているのではないか。ならもう諦めようとすることを諦めた方がいい、納得がいくまで、何かせねば一生そのままだ」
納得が、いくまで。そうは言っても僕は何をどうしたらいいのかさえ分からなかった。なにせこんな風に女の子に好きだと言ったのは初めてで、それを断られたのだってそうだったのだ。
「なにそれ、初恋ってことじゃん」
「そうだねえ」
ぎょっとした顔で彼が言った。そんなに驚くことだろうか、と僕はちょっと思う。
自分以外の誰かを好きになるということが、そう多くあるものだろうか。それだけで、僕にとっては特別だった。
「まあ僕の一目惚れだったんだよね」
あれは入学式のこと。人数が多いものだから、広い会場で一緒くたになった入学式。なんだか偉い人の話を聞いて、知りもしない校歌が流れて、それでおしまい。寝たってよかったな、なんて思いながら出席した。
新しく仕立てたスーツとかいう洋服は堅苦しくて、締めているネクタイも今日は弟に教わりながら結んだが次までやり方を覚えている自信がない。でもまあ、そんなことどうにでもなるか。
そんな気持ちで、僕は入学式にいた。けれど投げやりだったわけでも、やる気がなかったわけでもない。そうしなければいけなかったからそこにいた。大学に入って、卒業して、働いて。今はそういう過程の中にいるというだけ。それに不服はない。
けれど、つまらないなと思ったことはあった。
「大抵のことはできちゃうんだ。やろうと思ったことって」
「……あんたが言うとなんか嫌味じゃないのすごいね」
呆れたような、感嘆したような顔で彼は言った。僕は足を組みなおしながら首を捻る。
「ふふ、そう? 多分得意なんだよ。あんまり何かを苦に思ったことないもの。いつもそうするべきだと思ったから、そうしているだけで」
もちろん、そこに僕の意志はある。したくないことだってある。ただ僕がやらなければならないと、僕がするべきだということはこなしているのだ。
それを嫌だとは思わなかったけれど、つまらないと思ったことはある。相手が何を考えているかわかる、何をどうすれば目的を達成できるのかわかる。そういうことを。
「……だからね、初めて見たとき、笑った顔が可愛いなあって思って」
今思い返せば、彼女はきっと彼に笑いかけていたのだ。僕はそこまで覚えていないけれど、多分隣に彼がいた。
僕と同じように真新しいスーツを着て、中に来ていたのは薄い水色のシャツだった。女の子たちは皆白か桃色のそれが多かったのに、彼女は水色。それで目を引いたのかもしれない。入学式のあった会場から出て、誰かと話しながら帰ろうとしていた。
その顔が、とても可愛いと思った。
「なんであんなに可愛く見えたんだろうって、ずっと気になってね。同じ学科だったから、いくつか同じ授業があって、そうするとどうしても目で追っちゃって。それでもやっぱり可愛いなあって思ったんだ。そういう風に僕にも笑ってくれればいいなあって」
容姿の美醜はよくわからない。でも取り立てて目立つ方ではないだろう。それなのになぜか、どうしてだか。
「でも考えてみたら当然だよね、だって僕は好きな人に見せるとびきりの笑顔を横から見てたんだもの。そりゃあ可愛く見えるよ。そうだよね」
「いや、俺それにどう反応したらいいかわかんないけど」
苦笑した彼が肩を竦める。それからはあと息を吐いた。伸ばした足の先を左右に動かして、おかしそうに笑い始める。
「でも安心した。遊びじゃないんだな、そっか、あんた本当にあの子が好きなんだ」
「さっきからずっとそう言ってるのに」
むっとした顔を作って僕がそう言えば、彼はごめんごめんと笑って手を振った。
「俺にはそう見えないもん。……いや、可愛くないって言ってんじゃないけど。そんな風に見えないから。ただまあずっとそうやって笑っててくれればいいなって思うけど。それを向けてくれるのは俺じゃなくてもって、さ」
自分じゃなくても。僕はまるでそう思えそうになかった。けれど彼はすっきりしたような、どこか晴れやかな表情で笑ってみせる。安堵した、そんな顔だった。
「俺はずっとあの子を傷つけるのが怖かった。自分の手で、悲しませるのがすっごい。でも、もうそんなこと言ってらんないね。この間だって、楽しそうだったし。あんたが笑わせてやってよ。俺はそれがわかったらもう十分。あんた思ったよりいいひとだったし」
よいしょっとと彼は立ち上がった。それからうーんと伸びをする。いいなあ、と僕は思った。
「そんな風に思えたらよかったな、僕も」
僕はあの子にしてほしいことがたくさんある。そんな、笑ってればいいだなんて考えられそうもない。笑うならその笑顔を僕に向けてほしい。色んなことを一緒にしたい。
「無理じゃん、あんたあの子のこと好きなんでしょ? 俺とは違うんだから無理だよ。っていうかそんな簡単に諦められるのに食い下がってんだったらぶっ飛ばすぞ」
眉間にしわを寄せて彼がそう言ったので、僕はふふふと笑ってしまった。本当に、彼がもっと嫌な子だったら。もうちょっとずるい手も使えたのに。
「うーん、でもなかなか困らせてばかりな気もするんだよね。どうもうまくいかなくて」
「言っとくけど協力はしないからね。変に糸なんて引いてやんないよ」
べっと彼は舌を見せた。ちょっと期待していたのだけれど、だめらしい。あーあなんてわざとらしく言って、僕も立ち上がった。話は終わったのだから、僕も彼も、ひとまずはこれで解散だ。
それにしても。僕は履物から携帯を取り出して見てみた。連絡は特にない。僕と一緒にいるところを彼に見られるというのは、彼女にとってまだまだ動揺することのようでこの間から何とも言えない態度を取られ続けている。少しはましになったかと思っていたから、がっかりしなかったと言えば嘘だ。
「はあ、今度こそ振られちゃうかも。やだなあ、たまに相談したら話聞いてくれる?」
彼は片眉を上げて、困ったようなそれでも愛嬌のある顔で笑った。
「……ちょっと嫌。嘘、たまにだったら聞いてやるよ。じゃーまたね」
ひらっと彼は手を振る。それでもまたねなんだと思って、僕も肩を震わせた。
本当に、もっと嫌な子ならよかった。あれじゃなかなか手強そうだなあなんてぼやき、僕ははあと息を吐いた。