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    しおり
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    今日を駆ける刀


     どうして、どうしてこんなことになったのだろう。
     訳もわからないままに変わり果てた廊下を進む。もう放っておいてもここは滅ぶと思われたのか、それとも仲間が最後の力を振り絞って追い払ったのか、敵影は見当たらなかった。呼吸が自然と短く荒くなる。帰城してまだ誰にも会っていない、誰もいない。
    「誰か……ねえ、誰か! ねえ! 雨さん、豊前……篭手切! 桑名、松井! 稲葉!」
     声をあげても代わりに聞こえるのはパチパチと木材が燃えて弾ける音だった。誰かいるなら、いやここには皆いるはずで、それなら全員助けなければならなくて。
    「主……」
     どうして誰の声もしないんだ。
     そんなめちゃくちゃな思考回路のまま進む村雲が最初に見つけたのは、襖も、畳も、何もかもが薙ぎ倒され、切り裂かれた部屋に倒れる紫の頭髪だった。
    「雨さん!」
     ヒトの姿を保っているということは、幸いにも五月雨江はまだ破壊されていないということである。村雲は慌ててそばに落ちていた抜き身の刀身を拾って鞘に納めた。それを抱えたまま村雲はもう一度五月雨に声をかける。
    「雨さん、雨さん……っ何が」
    「……くもさん、ですか」
     五月雨は薄らと瞳を開けたけれど、視線をこちらに向けることはなかった。視覚があやふやなのかもしれない。わかるように村雲は五月雨の手を握った。
    「うん、うん、これ、一体どうしちゃったんだよ」
    「とつぜんの、ことで……わたしたちも、なにがおきたか……」
     息も絶え絶えに五月雨が言うのに、村雲は余計に混乱するばかりだった。大した長さの遠征に出たわけではないのに。戻ってきたらこんなことになるなんて。
    「……よかったです、くもさんがいれば、かしらは」
     ポツリと安堵したように呟くと、五月雨はそれきり目を閉じて押し黙ってしまう。気を失ってしまった。ヒトの器は酷く傷ついているし、刀身も然りだろう。村雲は慌てて立ち上がった。
     「っとにかく、主、主探して、なんとか」
     五月雨の体をこのままにしておくのは嫌だった。しかし多くの仲間が同様の状態であることを考えると、刀しか持って行けない。ごめんと小さく呟いて、腕に五月雨を抱えたまま村雲はその場を離れた。途中他にも何振もの仲間を見つけて、拾い集めては審神者の執務室へ向かう。
     どうして、こんなことになったのだろう。どうして自分だけが無傷で、普通に廊下を歩けていて、どうして。混乱したまま村雲はとにかく足を動かしていた。自分の顕現も解けていない、まだ審神者は生きているはず。主さえ生きていれば、それならば。彼女はいつだってなんとかしてくれた。そこにいて笑っていてくれた。村雲は息を切らして執務室の襖を開けて――。
    「大丈夫、大丈夫だから……だから、雲さんは」
     錆びた鉄の匂いがする。
    「っ!」
     酷い汗をかいている。前髪が額に張り付いていて不快だった。布団や寝巻きの浴衣も湿っていて、じっとりとした空気が部屋には満ちている。
     どうして、あんなことになったのか。村雲は結局その理由を突き止めることができなかった。だがその代わりに、ここに辿り着いたのだ。
    「あっ、清光! 待って、私パン今日は焼かなくていいや、そのままがいい」
     明るく、襖の向こうから声が聞こえてくる。乱雑に汗を拭って、村雲は膝を抱えた。
    「……嘘つき」
     大丈夫だって、言ったじゃないか。
     ここに来て半月、村雲はこの居心地の良い場所に一振でずっと蹲っている。


     一体どうする、どうしたらいい。
     彼女は青ざめて私室で机の前に座り込んでいた。色々しなければならないことはあるのだが、それどころではない。思考回路が追い付いていない。頭が回っていないので、彼女は思ったことをそのまま口に出した。
    「……所属してない刀剣男士とキスするのって、セクハラだし、大問題なのでは」
     音にすることで自分のやらかしをより一層はっきりと認識してしまい血の気が引く。
     自分の本丸に所属していない刀剣男士と、キスした?
     信じられない。世の中には自分の刀剣男士と恋愛関係になる審神者も居ると聞いたことはあるけれど、今の彼女には自分の刀相手でさえ「そんなことしてる余裕あるかな」なんて思う行為なのに、村雲は余所様の刀である。彼女は清光を兄弟や仲の良い友人のように思うのだから、村雲の主にとっては村雲も同様だろう。場合によっては我が子のように刀剣男士を想う審神者もいると聞く。
    「じ、自分の子どもがそんな目に遭ったらなんて思ったら耐えられない。迷子になった挙句そんな、そんな」
     小さく呻いて彼女は頭を抱えた。これはもう、どう謝ったらいいのだろう。お宅の刀剣男士とキスしてしまいました。申し訳ありません? そんなふざけたことがあるか。
     いやしかし、昨日のことはあまりにも突然で、ちょっとした事故のようなものだったのである。彼女にはそんな気なかったし、村雲にそんなことされるとも思っていなかった。わかっていたら彼女だって突っ立っているだけではなくて、避けるくらいする。それに村雲だって我に返った後は逃げ出したのだから、もしかしたら彼にとっても予想外のことだったのかもしれない。
     この場合は、どうなのだろう。彼女の方に何も他意がなければ、事故ということで済ませられないだろうか。
    「そ、そう、事故、雲さんお風呂上がりだったし、立ち眩みとか」
     では自分は? 彼女は口元に手をやって顔を抑えた。
     他意は、ない。ないとも。他意なんて、あってはいけないのだ。
     村雲と一緒にいるとき、不思議な懐かしさや安心感を覚えていたとしても。厨で器用に料理をする姿や、いつも膝を抱え尻尾を揺らして隣で本を読んでいるところが可愛いと思っていても。自信なさげにするくせに、変なところ図太くて、素っ気ないようで妙に人懐こくて。気難しくてやりづらいけれど、同じくらいとても優しいと知っていても。
     元居た本丸に帰すのが一番だとわかっている、村雲も口には出さずともきっと帰りたいのだろうとも。だから彼女は自分にできる手立て全て使って村雲を帰らせてやろうと思っている。それは偽りではない。けれど本当はとても、寂しいと思っているだなんて。そんなことはあってはならない。
    「どうしよう……」
     途方に暮れて彼女は呟いた。こんなことさえなければ、自分の中のこんな気持ちは無視していられたのに。
     そのとき、タイミングよくトントンと襖を叩かれて彼女は正座をしたまま跳ね上がった。恐る恐る首を動かして彼女はそちらを見る。昨日のことは清光にさえ言えていない。聞けば細かいことを抜きにして清光は怒髪天を衝いて怒る気がした。
    「き、きよみつ……?」
    「ごめん、俺だけど……」
    「くっ、もさん」
     清光よりずっと低い声の返答に、益々彼女は上ずった声をあげる。
     何故、なんで昨日の今日で自分を、村雲の方から尋ねてくる。いや、そうだった村雲は変なところ図太いのだった。最初だってあんなの彼女に素っ気なくしていたくせに、朝一番で必ず一日の予定を聞いて張り付いていたりして……。
    「具合、悪い……?」
    「……」
    「頭痛いって、加州から聞いたから。温かいお茶、持って来たんだけど」
     顔を合わせづらかったので、早朝朝食を普段よりずっと早く用意した後彼女は清光にそう言い訳して部屋にいる。薬を飲んで寝ていると言えば、清光は心配していたものの彼女の様子がおかしいとすぐに気付いたのか「あとで様子を見に行く」とだけ言ってくれた。とはいえ事情を知らない清光が、村雲が彼女の部屋に来ることを止めてくれるはずもない。
     しかし彼女が黙りこくっていると、村雲はしょげた声音で続ける。
    「……お茶冷めちゃう、から。ここに置いておくね。蹴っちゃわないようにだけ、気を付けて」
     それがあまりにも沈んだ口調だったので、彼女は反射的に腰を浮かせて襖を開いた。どうにも彼女は村雲のこうした落ち込んだ表情や声に弱い。何故だかわからないが様子を見てやらねばという気分になってしまう。
     急いで襖を開けたので這い蹲っていた彼女は、丁度部屋の前の廊下にお盆を置こうとしていた村雲と同じ高さで顔を突き合わせてしまった。それにぎょっとして彼女は今度は素早く身を引く。村雲もぎくりとして肩を揺らしたので、彼女は慌てて視線を伏せて謝った。
    「ご、めん、あの、お茶ありがとう」
     お盆に手を掛けて受け取る。上に載っていた茶器が僅かに音を立てた。まだ湯気が立ちのぼるそれからは落ち着いた良い匂いがしている。
    「あ、の」
     村雲が何か言いたげにしていることにはもちろん気付いていた。けれどそちらを見ることができずに、彼女はそのまま渋い緑をしたお茶を見つめることしかできない。
    「……」
    「えっと、昨日」
    「昨日のことなら気にしないし忘れるから、大丈夫、雲さんも気にしないで」
     彼女は村雲を遮ってかなり早口でそう言った。
     そうだ、気にしないのが一番いい。忘れて、無かったことにするのが最も後腐れがないのだ。だが村雲のほうはぎょっとして答える。
    「な、なんで」
    「忘れた方がほら、お互いにもいいでしょ。いやごめん、お風呂上りで貧血でふらついたとか雲さんにも色々あるよね。わかる」
    「い、いやちょっと」
     お願いだからそういうことにしてくれないだろうか。それが一番なのだ、彼女にとっても村雲にとっても。
     村雲がこういうときあまり自己主張できないのを知っていて、彼女は続けざまに言葉を捲し立てる。
    「ほぼ事故みたいなものだし、でしょ? ごめんね雲さん、私のほうが気を付けてればよかったのに。吃驚したよね」
    「あの、そうじゃなくて、ねえ」
    「政府にはこれから連絡しておくね。頭痛いのは季節の変わり目だから、平気。今日は部屋で大人しくしてるから」
    「っねえ!」
     そこでしびれを切らしたのか、村雲が一際大きく声を上げて彼女の手首を掴んだ。空いている方の手でぎゅっと自分のスラックスを握り締めるのが見える。今度は彼女が黙る番だった。爪、自分で塗り直しているんだろうか。自分の手首に回ったピンク色のそれを見て、彼女は頓珍漢なことを思った。
    「わっ、忘れられても困るんだけどっ?」
     ……困る、どうして?
     訳が分からずに彼女は顔を上げた。するとこちらを見つめていた村雲とやっと視線がぶつかる。瑞々しい、熟れた桃の色をした瞳。普段青白い村雲の頬は紅潮して、同じように耳や首まで赤くなっていた。
    「……え?」
    「ぁ、うー、いや、そうじゃなくて、うぅ」
     ぎゅっと細い眉を顰め、村雲はスラックスの膝を握っていた手で今度は鳩尾を押さえる。彼女は慌てて持っていた盆を畳の上に置いた。緊張がお腹に来たのだろうか。
    「だっ、大丈夫? 雲さん、お腹痛い?」
     手首を掴まれていない方の手で彼女は村雲の肩を摩った。やや俯いた村雲は僅かに呻きながら彼女に凭れる。それから小さく呟いた。
    「……お腹、痛くなるから。もうちょっとだけ、傍にいて」
     良くないということを、彼女は当然わかっている。
     だが今とても熱い頬や、耳や首の裏は、村雲と同じように赤くなっているのではないだろうか。早鐘のように鳴っている心臓さえ、きっと。
     しかしその直後にピピピと甲高い音が鳴り始め、彼女と村雲は同時に肩を跳ね上げた。今度は驚きで鼓動がものすごい音を立てる。
    「ぅわっ!」
    「ワンッ!」
     これは通信端末のアラーム音だ。ドッドッドと喧しい胸を押さえ、彼女は室内を振り返った。セットしていた記憶はないが、何か鳴るような機能を付けていただろうか。村雲は村雲で目を見開いており、ピンクの尻尾はモップのように逆立っている。
    「ご、ごめん、驚かせたよね、止めるから」
    「う、うん」
     腰が抜けかけていたけれど、彼女は立ち上がって端末を置いていた机のあたりに戻る。伏せて置いていたそれを取り上げて画面を見たけれど、表示されたのはロック画面だけだった。アラームは起動されていない。
    「あれ……?」
     つまり、鳴っているのはこれではないということだ。だがここには他に端末はないはず。そう思って村雲の方を見ると、村雲は何かを手に持っていた。ぴたりと音が止まる。
    「……それ、通信端末」
     パッと村雲が後ろにそれを隠す。けれど彼女は確かに画面を見てしまった。
     あれは、彼女が今持っているのと同じ通信端末だ。スマートフォンに似たそれは、現世でいうWi-Fiと同じ仕組みでネットワークに繋げることができる。だから初期設定で各本丸の通信用のパスワードを入力しなくてはならないはずだが、今見えた村雲の手にする端末は、何故か既にネットワークに繋がっていた。
    「……なんで」
     ここでネットワークに繋がると言うことは、村雲の端末には既にこの本丸のパスワードが登録されているということ。だが彼女も、もちろん清光もそれを村雲には教えていない。端末を持っていることさえ知らなかったのだ。パスワード自体は厳重に管理している。それを村雲が盗み見ることは不可能に近い。
     今まで、端々でおかしいと思っていたことが一度に彼女の頭に蘇る。彼女の食べ物の好みを知っていたこと。本丸ごとに間取りが違うはずなのに鍛冶場や資材庫に迷わず行けたこと。厨を使い慣れていること。何故、この場所のことを、彼女のことを、村雲は知っている。
    「雲さん……雲さんは、なんで」
    「主!」
     清光の声がして、彼女は再び襖の方に戻る。息を切らせて清光が廊下を走ってきていた。
    「主、今、政府から、連絡があって」
     それを聞いて、彼女は村雲を振り返る。
     村雲はただ、最初会ったときと同じ美しい薄桃色の瞳で静かに彼女を見つめていた。


    「当該の村雲江を名乗る刀剣男士は、もし本当に刀剣男士であるならば、重大な禁忌を犯した可能性があります」
     ホログラムで表示されたこんのすけは彼女に淡々とそう告げた。清光も同室を許されず、彼女は襖を閉じた執務室で一人、その政府からの通達を聞いている。
    「それ、どういう」
    「村雲江という刀剣男士の顕現は、現在時の政府で確認されていないのです」
     顕現が確認されていないとはどういうことだ。彼女は混乱して言われていることをうまく理解できなかった。顕現していないも何も、村雲はこの本丸にいるではないか。まさか幻覚だなんてことはあるまい。
    「じゃっ、じゃあ、あの雲さんは」
    「ですから、当該の刀剣男士は早急に政府に引き渡しをお願いいたします」
    「そっ、それじゃわかりません、今まで放っておいたんだから、新米の私にもわかるように言ってください!」
     声を荒げて彼女はこんのすけに言った。今までの彼女なら、何も言えずに「そうですか」と返していたかもしれない。けれどもうそんなことできない。何もわからないまま言うことを聞いているなんて。
     そしてこんのすけの方も、彼女を放置していたという自覚はあったらしい。僅かに決まり悪そうにしたのが、その能面のような顔からも感じ取れた。意地悪く相手の弱いところを突いた自覚はあったので、彼女もやや唇を噛む。だがそうは言っていられない。これだけは譲ることができない。
     こんのすけはいくらか逡巡し、それから諦めたように口を開いた。
    「……今審神者様の本丸にいらっしゃる『村雲江』は、時間遡行をしてその本丸にいる可能性があると政府は結論付けました」
     時間遡行、つまり、未来から遡ってここにきているということ。
     予想だにしていなかった返答に、彼女はただ目を見開くことしかできなかった。
    「……え?」
    「研修が遅れ、審神者としての正式な登録が遅れたことはお詫びします。ですがこちらとしても顕現が未確認の刀剣男士が本丸にいるという事態は前代未聞で、調査と確認にかなりの時間を要してしまったのです。また、どう対処したらよいか、どんな影響が審神者様にあるかを考慮し、詳細をお話しすることも躊躇われました。申し訳ありません」
     ぺこりとこんのすけが頭を下げる。彼女は言われていることの三割もわからなかった。でもそれと同時に納得もできた。最初に通信端末で検索したとき、刀剣男士村雲江の姿は出てこなかった。あれは彼女が村雲を所持していないからではない。そもそも村雲江が刀剣男士として顕現していないからだったのだ。彼女が新米で、かつ正式に審神者ですらないことが完全に裏目に出た。これで多少なりと経験があれば、それくらいはわかったかもしれない。
     うまく声が出せず、彼女は喘ぐように何度か口をはくはくとした。咳ばらいをし、それから掠れたそれでこんのすけに続けて尋ねる。
    「待って、ください。時間遡行をしているって、どうしてですか?」
     もう何度も見た研修動画で言っていた。審神者が刀剣男士を送るのは百年単位で過去の合戦場。歴史の中で何かの爪痕を遺した場所。こんな一介の本丸になんて来る必要がないはずだ。それも、縁もゆかりもない本丸になんて。しかしこんのすけもその問いには首を振った。
    「わかりません。ですが、考えうる理由は二つです。歴史を守るか、過去を変えるか。そのどちらかでしかありえません。時の政府に行くことを村雲江は嫌がったと伺いました。それなら、そこにいる村雲江の目的は後者である可能性が限りなく高いです」
     歴史を守る。それは刀剣男士本来の役目。
     けれど、そうでないなら。そのために、時間遡行をしてこの本丸に来たというのなら、それは。
    「審神者様、難しいことは重々承知しております。ですが前にもお伝えしたように、刀剣男士は付喪神、低いとはいえ神格を持っています。人間の都合で無理に動かすことはできません。ですから審神者様の方で、説得し、政府に引き渡していただく必要があります」
    「そ、んなの」
    「二時間後、わたくしが政府のものとお迎えに上がります。ですからそれまでにどうか、説得の上、村雲江をお引渡しください。ですが村雲江から未来の話を聞かれぬようくれぐれもご注意ください。審神者様ご自身にどんな影響があるかわかりません」
     未来のことは不用意に知るべきではない。それは確かに、今まで彼女が触れてきたSF作品でもよく言われてきたことだけれど、まさかわが身に降りかかるとは。
    「どうぞご注意ください。そのまま遅れていた審神者としての登録もさせていただきます」
     やっと一人前の審神者になれる。けれどこれは、こんな状況では喜ぶことなどできるはずもない。
     彼女はただ途方に暮れ、ホログラムのこんのすけも消えた真っ暗な画面を見つめた。



     加州清光はずっと疑問に思っていた。眉間に皺を寄せて、胡坐をかき頬杖を突く。やっと連絡してきたこんのすけは、あろうことか清光に席を外すように言った。だから今は広間で一振そうしている。
     刀剣男士は、刀は。モノであるならばその持ち主という相手には特別な思い入れがある、多かれ少なかれ。だからもし自分なら、どこかで迷子になったとして何とかして主の元に帰ろうとする。モノである以上、持ち主の傍にいないというのは落ち着かない。
     だが村雲はそれをしない。むしろどうしてだか、ここに居座ろうとする。清光はあの「村雲江」という刀に覚えがない。歴史上で接点がなかったのもそうであるが、この本丸にだって顕現していない。そりゃそうだ、この本丸は今ほぼ運営を停止している。始まりの一振である加州清光以外の刀剣男士は所属していない。
     それなのになぜ、村雲はここに居ようとする。勿論清光とて自分自身で色々調べた。刀剣男士が、破壊以外で本丸を離籍する場合、去る場合。世の中には刀剣男士を粗雑に扱う審神者もおり、そういった本丸所属の刀が政府で保護されることもあるらしい。村雲もそれで帰りたがらないのかと最初は思ってはいたが、主が話を聞いたところそうではなさそうだ。むしろ村雲は審神者は元いた本丸を慕っているような様子だったとも聞く。
     ではどうして、ここに執着する。見ず知らずのはずの清光の主に執着する。
     カツ、カツと指で卓袱台の上を叩く。今の清光にとって大切なのはここに居る彼女ただ一人。もしも村雲が彼女に対し何かをしようというのなら。ちらりと清光は傍らに置いた自分本体を見た。やれないことはない。もし必要に差し迫られれば、その選択肢を清光は迷いなく取れる。取れるけれど。
    「なんか……他人って気がしないんだよな」
     ポツリと清光は呟いた。
     とても不思議なことに、清光は自分が「できればその最悪の選択肢を取らないで済めばいい」と考えているのに気づいていた。面識はない。過去でも、今も。けれどあの村雲を手に掛けるのは何となく「嫌」なのだ。そうする他ないと判断すればそうするけれど、できれば避けたいと思っている。
     血気盛んな、同士討ちも行った新選組の刀であった自分だ、そうしたほうがいいなら清光は同じ刀剣男士相手でも村雲を破壊できる。だがもしも本当にそうしたのなら、自分は酷く傷つくだろうということも清光はわかる。
     たった半月一緒に過ごしただけの、刀なのに。
    「……加州」
     声を掛けられて、清光は卓袱台の天板から視線を上げた。清光同様に入室を許されなかった村雲が広間の入り口のところに立っている。この半月、清光は彼女と村雲と、一人と二振でここで寛ぐことも多かった。
    「……なーに? 何かいるものでもあった?」
    「……」
     清光がそう尋ねれば、村雲はいくらか唇を噛んだ。ここに来てから何度も、神経の細いらしい村雲は腹痛を起こしては情けない顔をして蹲っていることがあった。そのたびに彼女が村雲の背を摩ってやったり、加州も温かいお茶や膝掛けを差し出してやったけれど。
     だが今日の村雲は一度だけ唇を引き絞ると、前を向いて清光の目を見る。
    「ちょっと……加州に頼みが、あるんだけど」
     この、見ず知らずの刀剣男士がここに居たがるのには、必ず何かの理由がある。そしてそれはおそらく……清光が想像できないくらい大事なことなのだ。もう、清光は村雲をそう信じることができる。
     真っ直ぐとこちらを見つめる村雲の表情で、清光はずっと抱えていた疑問に確信を持った。


     あと、二時間。彼女は執務室の壁に掛けられた時計を見た。そうしたら政府からこんのすけと役人がやってきて、村雲を連れて行く。だがその前に彼女は村雲が納得して政府に行くよう説得しなければならない。そんなの無茶だ。
    「……なんて言えばいいの」
     あなた未来から来たんですよね、帰ってください? そんなこと言えるわけない。
     大体何故未来からここに来たのかわからないのに、説得なんてできるわけがないだろう。どんな理由だったとしても、それは並大抵の覚悟でできることではないはずだ。よっぽどのこと、よっぽどの状況でなければ、そんなこと。彼女は顔を手で覆った。
     どうして何も気づけなかったのだろう。村雲が何か事情を抱えていることはわかっていた。審神者としての知識不足、考えが足りなかった。至らなかった点がいくつも浮かぶ。だがそれよりも、本当に村雲を政府に渡していいのだろうか。そうしたら、村雲はどうなってしまうのだろう。
    「刀解、される、のかな」
     もしも、村雲が過去を変えるために来たというのが事実なら。処分は最悪のものになるだろう。つまり刀解され、ただの刀、鉄に戻り、刀剣男士としての器を失う。とはいえそうする他ないのも理解できる。過去改変は許されないことだ。
     だがどうして、自分は何も力になってやれなかったのか。本当に今までやれることはなかったのだろうか。半月も時間があったのだからもっとしっかり話を聞いて、向き合って、したいことがあれば、やりたいことがあればと聞くべきではなかったのだろうか。
    「でもそこまで、頭なんか回らなかったのに……っ」
     自分のことで手いっぱいで、村雲の事情にまで気を配ることができなかった。けれどその結果、村雲は刀解されるかもしれないのである。
     やりきれない気持ちで、顔を覆っていた手を拳にして文机の上に落とす。机の上に置いていたペン立てが跳ねて倒れた。バラバラと筆記具が散らばり転がる。
    「……ねえ」
     そのとき襖の向こうから低い声が聞こえ、彼女はハッとしてそちらを見た。同じ間違いは二度としない、あれは村雲だ。どうしてここに。いや、何も不思議なことではない。彼女は村雲のことで政府から連絡を受けたのだ。どうなったのか聞きに来るのは自然だろう。
    「なに……?」
    「ここ、開けてくれる?」
     躊躇っていても仕方ないと思ったので、彼女は立ち上がってそちらに向かった。襖の引手に手を掛けて、一度だけ深呼吸する。もう失敗は許されない。ちゃんと考えて、村雲にとって一番いい選択肢を決めなくてはならないのだ。
     二回に分けて、彼女は襖を開いた。濃いピンクのセーターからゆっくり視線を上げる。きらきらの、宝石のような瞳。言わなくてはならないことは多くあったのに、どれから口にしたらいいかわからない。
    「……雲さん、あの」
    「俺、政府に行くから」
     しかし先に、酷く静かな表情で村雲はそう言った。
    「……え?」
    「俺を政府に引き渡すように、言われたんだろ。だから政府に行く。いつ、迎えが来るの」
     淡々とした調子で村雲は彼女に聞いた。その落ち着いた様子に、彼女はかえって動揺する。村雲だって、政府に行ってどういう処分をされるかわからないわけではあるまい。無事に元の本丸に戻れる可能性は限りなく低い。彼女は慌てて村雲の手首を掴む。
    「ま、待って、確かにそう言われたし、迎えも来るけど、でも雲さん」
    「でも、大人しく政府に行くかわりに、俺の言うこと聞いてくれる?」
     しかし言葉を遮り、彼女が掴んでいた手首が返されて今度は彼女が村雲に手を握られた。強く、しっかりと。
    「現世に帰って、審神者になるの、やめて」
    「は……?」
    「政府には行く。でも君は、俺と一緒には来ないで。政府の人が来たら、審神者として正式に登録されちゃうんだろ。だからその前に現世に帰って」
     何を言われているのか、全くわからない。だから呆然としていると、ぐいと村雲に手を引っ張られた。たたらを踏むようにして彼女は執務室から出る。そのまま村雲はずんずんと縁側を歩き転移装置のある玄関へ向かおうとしていた。
    「待っ、待って! ねえ待って、雲さん! どういうこと?」
    「俺が困ってたら何でもするって、言ってくれたよね」
     それは言った、確かに言ったけれど。彼女が答えられないでいる間にも村雲は足を止めなかった。
    「だったらやめて。審神者になるの、やめて、現世に帰って。君は審神者には向いてない。だから審神者にはならないで」
     ずんずんと彼女の手を握ったまま、村雲はこちらを振り返らずに速足でそのまま進んで行く。緩く癖のついたふわふわの髪が揺れていた。
    「加州が君を現世に送ってくれる。政府にも、君は審神者にならないって伝える。だから君は、今すぐ現世に帰っ」
    「待って!」
     渾身の力で彼女は村雲の手を振り払った。勢いをつけてそうしたので、村雲も体ごとこちらを向く。村雲は先程と変わらない、凪いだ水面のような表情のままだった。彼女は足を止め、首を振った。
    「もう、何もわからないままにしておくのは嫌、言われた通りにはいそうですかって頷けない。それはできないよ」
     わからないことをそのまま受け入れてしまうことは簡単だ。そうするしかなかったと思うことも。それでも今は違う。今の彼女はもう、そんな風に首を縦に振ることはできない。
     今まで、彼女は言われるままに行動してきた。適性が見つかったから審神者になれと言われ、研修が受けられないから待機しろと言われ、村雲が迷い込んできたときも待てと言われたからそうしてきた。だがやっと、自分の中で目標を見つけた。そのために、どんなに厳しくても努力しようと。
    「なんで? なんで雲さんは私に審神者になってほしくないの? どうして現世に帰ってほしいの?」
     きちんと向き合うと決めた。話を聞いて、自分の言いたいことは隠さずに伝えて。そうして刀剣男士たちと生きていきたいと思っている。だから今、このままにはできない。
     未来のことは聞くなと先ほどこんのすけに忠告されたことは勿論覚えている。それでも彼女はきちんと村雲と話をしなくてはならない。包み隠さず、すべてを聞かなくてはならない。
    「私、今まで一度も雲さんに嘘ついたり、誤魔化したりしなかった」
     村雲の眉が歪む。ぐっと奥歯を噛み締めたのもわかった。しかし彼女も引くわけにはいかない。続けて捲し立てる。
    「どんなに恥ずかしいことだって、苦しいことだって私は全部正直に言ってきた! だからちゃんと話して。これじゃ帰るなんてできな」
    「だから向いてないって言ってるんだ!」
     突然、強く両肩を掴まれて揺さぶられる。何かに追われているように、焦って、必死な目で村雲は彼女を見つめていた。
    「君は! 君は刀に真剣に向き合いすぎる! 自分を優先したほうがいいときだって、俺たちを優先する! だから向いてない、今すぐ現世に帰って!」
     あまりの勢いに、彼女は何も言い返すことができなかった。ただ困惑したままで村雲を見つめる。それでも、首を縦に振ることはできなかった。もちろん村雲の頼みは聞いてやりたい。けれどこれだけは、これだけは譲れないのだ。
     だって、ここで彼女が諦めてしまったら村雲は処分されてしまう。
     ずるずると縋りつくように、村雲は彼女の両肩を掴んだままで脱力する。村雲が大きく息を吐き、緑の上着を着た背中が上下した。それから困ったような、どこか笑うような調子で呟く。
    「……でも君、昔から、言い出したら結構、頑固なんだよな」
     最初に会った時からずっと、村雲は言っていた。君は審神者に向いていない。だからなるのはやめたほうがいいと。ずっとわからなかった。どうしてそんなことを言われるのか。
     でももし、村雲が未来から来たという話が本当なら。もしも、未来の彼女を知っているのなら全てに辻褄が合う。静かに、村雲が息を吸うのが聞こえた。
    「……よく聞いて。俺は、未来の君の本丸から来た」
     ああ、やはり。彼女は思わず目を閉じた。時間遡行してきたのが事実なら、村雲が何かしらの処分を受けるのは免れない。最悪の場合だってある。そうして項垂れた彼女の代わりに、村雲が体を起こし彼女の肩から手を滑らせ両頬に添える。
    「ねえ、よく聞いて、お願い」
     優しい声に、彼女は瞼を開いた。眉を下げて笑った村雲がこちらを覗き込んでいる。今日も天気が良く、昨日星が瞬いていた空は青く晴れ渡っていた。そんな明るい太陽の光に細い村雲の髪が僅かに透ける。
    「君はね、未来で、ちゃんと頑張って、ここで立派な審神者になる。刀もたくさん増えて、ちゃんと、主としてやってる。ほんとだよ」
     君が頑張ろうって、決めたとおりに。
     村雲はそう言ってくれたけれど、彼女は返事ができなかった。なぜなら、本当にそうして順調ならば村雲がここに来る理由はない。
     寂しそうに村雲は微笑むと、そのまま穏やかに続ける。
    「でも、ある日、ここは時間遡行軍に襲撃されて、君は酷い、怪我をする」
     ヒュッと喉で、吸った息が音を立てた。
     反射的に、脳裏に今まで繰り返し見ていた研修動画が過ぎる。審神者の本拠地である本丸が襲撃される可能性は、ゼロではない。勿論、各本丸はこちらの勢力の要なのだから防衛の対策は取られている。場所の秘匿、探知の妨害、迎撃のための装備、それらは審神者が就任するごく初期段階で整えられている。
     けれどそうして打てる対策全てを尽くしても、襲撃による審神者の殉職は後を絶たない。これは戦争なのだ。
     余りの衝撃に足から力が抜けてしまって、彼女はへなへなと座り込む。村雲は彼女を支えるようにしてゆっくりと自分も屈むと、話を続けた。
    「俺はそのとき、遠征に行ってて、帰って来たときは何があったかわからなかった」
    「……」
    「無事な仲間の刀身を拾い集めて、何とか執務室で倒れてる君を見つけて。遠征から帰ってきた俺は簡易の転移装置を持ってたから。俺は君に、このまま一度政府に逃げようって言った。本丸はもう、駄目だと思ったから。でも君が生きててくれれば、ここから逃げられさえすれば、何とでもなる。俺は負け犬だって後ろ指さされるのは慣れてた。だから生きてるのが一番だって、君に言った。でももう、君には俺たち全振連れて、政府に転移させるだけの霊力は残ってなかったんだ」
     審神者の霊力は、刀剣男士の顕現維持だけに使われるものではない。手入れは勿論、過去へ送るのにも利用される。時空転移に関しては政府からも多少補助があると聞くが、全てではない。審神者が本丸運営の要と言われる所以である。ここでは何もかも、審神者が居なければ回らないのだ。
    「そ、れで、なんで雲さんはここに」
     彼女が問えば、村雲は僅かに視線を下げた。
    「君はね、俺たちだけなら何とかなるって言ってた。人間を送るのと、刀を送るのじゃ負担が違うんだって。だから、俺に皆を連れてってって。無事な刀だけでも連れて逃げてって。でも、でもさ、そんなのできるわけないだろ」
     はは、と乾いた声で村雲は笑う。疲れきった様子で、村雲は息を吐きだしつつ脱力して項垂れた。
     想像が、つかない。彼女は絶句してただそれを見つめることしかできなかった。一体どんな気持ちだったのだろう。遠征から戻ったとき、壊滅した自分の家を前にした気持ちは。仲間の名前を呼びながら、無事な刀を探したときの気持ちは。そうして、自分を置いて行くようにと彼女に言われたときの村雲の気持ちは。
     そうして転移装置を前に、追いつめられた村雲は最悪の選択肢を取ってしまった。
    「魔が、差したんだ」
     俯いたままの村雲は低い声で呟く。
    「このまま、過去に戻れば君のこと助けられる。遡行軍が来る前に、迎撃する準備をすれば、入って来られないようにもっと考えれば、ううん、君を、どこかに逃がせば。適当な理由を付けて本丸から出してしまえば」
     顔を上げ、村雲は壊れかけの人形のような笑顔を浮かべた。
    「……全部、だめだったぁ」
     それはあまりにも悲痛な細い声だった。何度も何度も過去への時間遡行を繰り返し、何度も何度も同じ光景を見た。村雲の心はもう摩耗しきってしまっている。
    「俺が未来から来たのが、ばれたらまずいことになるって。流石の俺でも、わかったから。一振でできること、全部やったつもりだけど。何度やってもだめで、それで……俺はもっと前に戻ろうって決めた」
     そうして、村雲はここに辿り着いたのだ。審神者に就任する前、心が折れそうになって庭に座り込んでいた、ずっとずっと昔の彼女の元へ。
    「君が審神者になる前にそれを止めれば。君が審神者にならなければ、君はあんな痛い思いしなくていい。死ななくたっていい」
     指先で彼女の頬をなぞって、村雲は再び彼女の肩に縋りつく。彼女は呼吸さえできなかった。村雲は広い額を擦り付け、何度も何度も彼女に懇願する。村雲は未来から、そのためにここに来たのだ。
    「ね、だからお願い、お願いだから、審神者にならないで」
     耳元で濁った涙声が響く。腕が背中に回り、ぎゅうと強く抱きしめられた。
    「審神者に、ならないで、君は……長生きして」
     指先が震えて、彼女は首を振った。なんて、愚かなのだ。未来の彼女の言う通りにしてくれたら、きっと村雲とその他の刀は助かったはずなのに。どうして禁忌を犯してここに来た。こんなちっぽけな人間である彼女の命なんて確かなものではない。村雲がここで逃がしてくれたとて、長生きできる確証なんてどこにもないのに。
     それなのに、村雲は一縷の望みに賭けてこんなところまで来てしまった。ただ一つ、彼女が審神者になるのを防ぐために。彼女を生き延びさせるために。
    「ばっ、ばかっ!」
     広い背中に腕を伸ばして、彼女は力いっぱい村雲を抱き返した。
    「ばかっ、そんなことしたら、そんなことしたら、雲さん、自分がどうなるかちゃんと考えたの?」
     そんなことをしたら、村雲は刀剣男士でも何でもなくなってしまう。刀剣男士の役目は、歴史を守ること。今の村雲がしようとしていることは明確にそれに反する。このまま政府に引き渡したりしたら、それこそ刀解処分されるのは間違いない。
    「うん、へへ……うん。でも、やっぱり何度考えてもそっちの方がいい」
     しかし村雲は体を起こすと、涙に濡れた頬でへらりと笑う。やっと楽になったと、そんな表情だった。
    「俺がもう、二度と君に会えなくても。君が無事に長生きして、ずっと先にあったかい布団の上で死ねるなら、絶対にそっちの方がいいんだ」
     彼女は唇を噛みしめた。刀剣男士としての使命と、今後どうなるかわからないたった一人の人間の命を天秤にかけて、そちらの方が大切だというのか。どうしてそんなにしてまで、彼女のためにこんなところまで来た。
    「悪いことしてるのはわかってるよ。それに正義とか、悪とか、もう振り回されたくなかったけど。君が生きててくれるなら、俺はそれだけでいい。正義でも悪でも、どっちだって」
    「ばか……っ!」
     今度は彼女が村雲の両肩を掴んで揺さぶった。ぽたぽたと村雲の涙が廊下の板間と彼女の膝に落ちて丸く染みる。
    「なんでっ、私の人生のこと、勝手に諦めないでよ、勝手に、勝手に変えないで、だって、だって私、これから何年待つことになったってもう一度雲さんに会いたい……」
     もう一度、何をしたって会いたいのに。
     ……どうしたらいい。彼女は村雲の両肩に手をやったまま、俯いて自分と村雲の膝と床板を見つめた。もう、本当に手は残されていないのだろうか。これ以上できることはないのか。
     村雲の言う通りにして、清光に連れられて現世に戻り、普通の生活を送るなんて絶対に無理だ。そんなの一生後悔するだろう。村雲はどうなる。このままでは政府に連行されて、刀解されてしまう。それに清光だってそうだ。主の彼女が居なくなっては、清光の所属がなくなる。彼女を勝手に現世に返した責任だって問われるかもしれない。
     考えろ、考えろ。彼女はぎゅっと目を閉じて、思考を巡らせた。決して間違いは許されない。彼女は理論上では「正しいこと」をしなければならない。過去を変えてはいけない。そうしなくては村雲が処分される。だがそれでいて、未来で死ぬことを回避しなくてはならないのだ。しかしそんなの一体どうやって。襲撃されることがわかっていても、そんなことできるのだろうか……。
     そこで彼女はハッとして顔を上げた。
     襲撃は、そのままに。だが彼女は生き残る。
    「……っ私が死んだの、見た?」
     村雲に問えば、ぐすぐすと鼻を鳴らしていた村雲はぽかんとした。
    「……え?」
    「答えて! 私が死んだところ、見た? 確認したっ?」
     がくがくと村雲の襟を掴んで揺らす。村雲は当惑して瞬きを繰り返していた。それから小刻みに首を左右に振る。
    「み、見て、ない……俺が過去に戻ったとき、君はまだ生きてた、から。すごい怒ってたから、それは間違いないと思う」
     そのとき、彼女の瞼の裏にチカチカと星が瞬いた。
     いや、そんなことが許されるのだろうか。それにうまくいくかどうかの保証だって。僅かに彼女は躊躇う。けれど迷っている時間はない。もう今思いついた方法に賭ける他ないのだ。
     彼女は一度深く息を吸って呼吸を整える。焦ってはいけない。冷静にならなくては。
    「わかった、じゃあ、繰り返して。雲さんは私が死んだところを確認してない、見てない」
     村雲は何を言われているのかわからなかったようで、まだ赤い目を拭って首を傾げた。
    「な、なんで」
    「いいから言って!」
    「見てないっ、君が死ぬところは、見てない」
     よし、今の発言にどれだけ効果があるかわからないけれど、彼女が「村雲江が過去へ遡行した段階では死んでいなかった」という事実ははっきりした。彼女は冷静に一つ一つ整理する。一個でもボタンを掛け違えてはいけない。彼女は自分にも言い聞かせるよう、村雲にゆっくり告げた。
    「いい、雲さん、よく聞いて? 私は審神者になることをやめない。だから雲さんは歴史を変えたことにはならない。うっかり先に雲さんには会っちゃったけど、でも、大筋が……大筋があってればそれでいいんでしょ? ねえ、あの映画と一緒だよ。雲さんが見た光景を変えないまま、私が何とかして生き延びればいい」
     広間で村雲と清光と一緒に見た映画、あれと同じ状況を作り出す。このまま彼女が審神者になれば、ひとまず村雲は過去を改変したことにはならない。そして審神者になる以上は恐らく彼女は未来で襲撃には遭うだろうけれど、それを知っているか知っていないかでは大きく違う。だから彼女は何とかして、未来で村雲をもう一度過去に送りだし、そのうえで生存すればいい。博士が防弾チョッキを着ていたように、村雲が見てきた光景さえ変えなければ、あるいは。
     つまりは村雲が過去にやって来たこの現在を、正しい歴史にしてしまえばいいのだ。
     村雲はといえば、彼女のその突拍子もない提案に目を白黒させていた。でも理論上はおかしくないはず。これなら何も、歴史は変わっていない。イレギュラーなことがあっても歴史の大筋、年表通りの事柄を守ればいいという原則に従うのであれば。
    「っ、でも」
    「とにかく私は審神者になるから!」
     なおも言い淀む村雲に、彼女ははっきり言いきった。なんにせよ、それは絶対に変えてはいけないのだ。
     彼女はゆっくりと村雲の両手を包むように握る。危ない橋を渡るのは彼女だけではない。これから清光も巻き込むことになる。だからこそしっかりと村雲には約束してもらう。
    「それでもし、もしもこれで私がこの先本当に死んじゃったら、もうそれは、寿命とか、運命とか、そういうものだから。そう思って諦めていい、だから雲さんはもう二度とこんなことしないって約束して」
     眉を歪め、村雲は逡巡した。村雲がどんな覚悟をして過去へ飛び、何度も何度も彼女を助けようと繰り返してきたのかは想像に難くない。その挙句に、明確に過去を変えようと彼女の元へやってきてしまったのだって。けれどもうそんなことはさせられない。口に出すことを躊躇っている村雲を彼女は叱咤した。
    「わかったら返事!」
    「う、はいぃ……」
     半べそで村雲は答える。けれどその瞳が絶望の色を隠せていないことに彼女は気づいていた。
     今まで、うまくいくまで、納得のいく未来が得られるまで村雲は時間を繰り返すことができていたのだ。けれどもう次はない。それが当たり前だ、やはり今までが間違っていた。
     一度起きたことは、変えられない。どんなに辛くても悲しくても悔しくても。
     だからこそ、彼女と村雲は今度こそ正しく未来を手に入れなくてはならない。
    「でも、でも代わりに、私はこれから全力でそれに抵抗する」
     確実に来る襲撃に備えることは、恐ろしい。村雲がこうして過去に戻ってきてしまった以上、未来にはいくらか齟齬が生まれているかもしれない。規模が、時期が、ずれているかもしれない。どちらにせよ彼女はこれ以上その襲撃について知らない方がいいだろう。これ以上別な可能性を増やすわけにはいかない。
     これから先の道はおそらく辛く厳しいものになる。これでいいのかという不安は絶えず彼女に付きまとうはずだ。どれだけの努力を積み重ねればいいのか、果たしてそれで足りるものなのか、何かが手遅れになってはいないだろうか。思い悩む日々が続く。しかしそれが彼女の責任なのだ。通すべき筋なのだ。このまま最良の未来を手に入れたいと思う彼女が、支払わなくてはいけない対価。払いきれるかどうかさえ、わからないけれど。
    「……それでも、何があっても。私は絶対そのとき、死なないようにする」
    「ど、どうやって」
    「わ、わかんないけど! わかんないけどでも絶対、そうする。そうするから。二人で賭けよう、私は死なないって」
     これは博打だ、それは彼女もよくわかっている。
     だが村雲は、彼女が「死ぬ瞬間」を観測しなかった。村雲江という刀は、彼女が死ぬ物語を「語らなかった」のだ。だから未来はまだ確定していない。その一点に賭ける他ない。
     彼女はごく普通の、取るに足らない一般人である。幕府を作ったり、天下を統一したり、大きな事件を引き起こしたわけでもない。歴史に名は残していないただの人間。逆を言えば、現時点での彼女は歴史に大きく干渉する「誰か」ではない。それゆえに、「もしかしたら」の余白が発生する。彼女自身の記録が少ないために。
     審神者になり、村雲の言う未来のどこかの段階での襲撃を受けて大怪我をする「大筋」の物語と事実を守れば。彼女がもしその先で生き残ったのだとしても、少なくとも村雲の知る「未来」を変えたことにはならないのではないだろうかという、無理矢理な歴史の抜け道。
    「そんなの、無茶だよ! 絶対だめ!」
     村雲は慌てふためいて首を振り、彼女の腕を掴みなおす。しかし彼女はそれにぴしゃりと言い返した。
    「それでもやるしかないの! 万に一つでも可能性があるなら、私はそれに賭ける。それしかないの」
    「っでも本当に、本当に君が、死んじゃったら」
     再び、じわりと村雲の瞳に涙が浮かんだ。眉を歪め、顔をくしゃりとする。廊下の床板の上で力なく村雲は項垂れた。
    「俺、どうしたらいい……?」
     ああ、本当に何と愚かで、ひたむきで。そして愛おしいのだろう。
     村雲のしたことは、決して許されることではない。だから彼女はこれからその分のツケを「不安」という形で支払わなくてはならないし、その上で努力が報われなかったのだとしたら、それは村雲への罰なのだ。
     そう理解していてもなお、雀の涙ほどでも希望がまだあるのなら。彼女は掴み取りに行きたい。何としてでも。
    「死なない、約束する。約束するよ」
     俯いている村雲に、彼女ははっきりと言った。
    「ねえ、雲さんも言ってくれたでしょ? 私、ツイてないことも多いけど、でも最後の最後に何とかなる運だけは持ってるって。私は運が良いんだって。きっと今度も大丈夫」
     そう思わないと、怖くて進めない。だからこれは、自分にも言い聞かせている。震えている手を握り締め、何とか抑えて。
     だって、村雲もそうしてここに来てくれたのだ。どうなるかわからなくて、不安で恐ろしくても。それでも彼女を助けようとして何度も何度も。
    「雲さんもこういう風に想像して? 雲さんが過去に行った後、私はなんとか生きてて、政府からの救援で助かったんだって。そう信じて雲さんは元の未来に戻って。それで」
     下を向く村雲に、彼女は手を伸ばす。
    「それでもう一度、私の刀になりにきて」
     この先どんなことが待っていたとしても。彼女は一人前の審神者になって、今度は自分の力で、村雲を迎えに行きたいのだ。そのためにならなんだってする。
     自分の声がどれだけ情けなく、頼りない響きだったかは気づいていた。それでも意地になって、彼女は無理矢理笑顔を作る。
    「ねえ雲さん、私の刀にならない?」
     もう、こんなところで泣いてはいられない。
     ゆっくり首をもたげた村雲が、彼女の差し伸べた手を見つめた。美しく爪の整えられた指先がおずおずと伸びてきて、静かに重ねられる。
    「……なりたい……」
     掠れた小さな声。けれどそのたった一言で十分だ。
     それだけで、彼女はこの先迷わずに進める。どうなるかわからない未来を信じて、それでも一歩ずつ前に踏み出せる。
    「君の刀に、もう一度なりたい……」
     どちらともなくお互いに腕を伸ばし、しがみつくようにして抱き合う。ふわふわの髪に、緑色の上着と濃いピンクのセーター。村雲自身から生えているわけではないと言っていたのに、今のように時折左右に揺れる不思議な尻尾。もう暫く会えないのだから、ちゃんと覚えておきたい。
     次に村雲と出会う明日のため。
    「……主」
     涙でぐしゃぐしゃの声で呼ばれる。初めてそう呼ばれたはずなのに、それはとても懐かしい響きだった。
    「……うん、なりに来てね。絶対だよ」
     ぎゅっと一度、強く抱きしめる。それから体を離すと、照れ臭そうに頬や耳を染めた村雲は眉を下げて微笑んだ。それに彼女も笑い返す。やっぱり、村雲はなんだか可愛いなと彼女は思った。未来の自分もそう思っていたのではないだろうか。
     だがその直後、彼女と村雲は同時に縁側から穏やかな空を見上げた。なんだか変だ。直感的にそう感じた。彼女にはその程度しかわからなかったが、村雲には原因がわかったらしい。険しい表情で立ち上がり、腰に提げていた本体に手を掛ける。
    「……遡行軍」
    「えっ」
     まさか、こんな審神者の彼女と初めての刀の清光しかいない本丸に。戦力らしい戦力はほぼゼロに等しい。迎撃なんかできない。
     しかし村雲はそちらを睨んだままで、彼女に手を貸して立たせる。それから軽く彼女の背を玄関の方に押した。
    「行って、あれは俺が斬る。俺が払わなきゃいけないツケだと思うから」
    「でも、結構多いんじゃ」
    「いいから。今までやってきたことに比べたら大したことないし……それにこのくらいしないとかっこつかないだろ」
     口を尖らせ、拗ねたような調子で村雲が言う。そんな状況ではないのに、彼女はついそれにくすりとした。すると益々村雲は耳を赤くする。
     もう行かなくては。息を吸い、彼女は一歩玄関へと足を進めようとしてやめる。最後に振り返って、きっとお腹が痛いだろうその背中に言った。
    「またね、雲さん」
     すると村雲もこちらを向いて笑った。
    「うん、またね。主」
     駆け足で縁側を抜けて、彼女は玄関へ向かった。あとは信じてただ前へ。それしかない。
     日の差して明るい玄関では、戦装束をしっかりと整えた清光が彼女を待っていた。切れ長の瞳を伏せていたけれど、清光は走ってやって来た彼女を認めて唇を引き絞る。手には彼女が一目惚れした真っ赤な鞘が握られていた。
    「……話聞いた?」
     彼女はただ首を縦に振る。どうしたいかなど、もう口には出さずとも清光には伝わっていると彼女には信じられた。それでも清光は静かにふうと一つ息を吐いて続ける。
    「一応言っとくけど、俺は今あんたが現世帰るって言ったってあんたのこと好きだし、それでいいと思ってる。だから村雲のこと、俺も責めらんない。そりゃあいつ間違ってるけど! ……気持ちはわかる。難しいね」
     はは、と軽く清光は笑った。それからよく整った眉を困ったようにあげて、清光は彼女にもう一度尋ねる。
    「それでも行くの?」
    「うん」
     彼女の返答を聞いて、パチと音が聞こえるくらいしっかりと清光は瞼を閉じた。肩の力を抜き、ひと呼吸おいてから目を開ける。真っ赤な瞳は迷っていない。
    「わかった、行こ」
     こちらに赤い爪をした手が差し出される。彼女はそれを握った。細く華奢な清光も、手だけはしっかりとして大きい。刀を握るための手だ。
     ピ、ピと清光は玄関にある転移装置を操作する。行き先は政府。それにしても、村雲を引き渡せなかったことを何と誤魔化そう。彼女はぼんやりそんなことを考えた。まあ、政府からの通信が終わったらいなくなっていただとか適当なことを言おうか。納得してくれるかどうかわからないけれど。
     時の政府相手にどう嘘を吐こうかなんて考えているのに、彼女は自分が随分落ち着いていることがそれほど不思議ではなかった。今から自分がしようとしていることを考えれば、そのくらい大したことではないように思える。就任前にとんだ悪いやつになってしまったななんて内心で嘯きつつ、それでも彼女は清光の手を強く握った。
    「……ねえ清光」
    「なーに?」
    「……怖くない?」
     覚悟は決まっている。そのためにやるべきこともある。だからあとは一つ一つ確かにこなしていくだけ。それだけだ。それだけなのだけれど。
     僅かに足が強張っているのに彼女は気づいていた。今まで恐れていたスタートライン、そこから一歩踏み出すときがきた。それも、ずっと大きな重みを持って。失敗はできない。それも、明確にゴールが決まっている。号砲が鳴らされたら、彼女はいつか必ずやってくる「その日」に向けて走り出さなくてはならない。
     しかしぎゅっと同じだけ強く、清光は彼女の手を握り返してくれた。
    「なーんにも! だって、あんたと一緒にやることやるだけだし? 他の審神者と何にも変わんないでしょ」
     にかっと歯を見せて清光は笑う。口元のほくろが愛嬌があって可愛いなと彼女は思った。
    「それに、一緒にがんばろって、約束したでしょー? 俺、あんたの初めての刀なんだから」
     繋いだ手を持ち上げて、加州はゆらゆらと左右に揺らした。それを見て彼女はホッと息を吐く。
     一人じゃない。彼女には清光がいる、これから先迎える刀たちがいる。彼女が努力することは、結果的に彼らを助けることにもなる。これは武者震いだ。
    「頼もしいなぁ」
    「でしょ? 任せといてよねー。俺、泣く子も黙る新選組の刀なんだから」
     わざとそうしてくれているのか、清光が軽い調子で喋ってくれるのがありがたかった。それに小さくくすりとする。
     でもそうか、変わらないのか。そうわかるといくらか肩の力が抜けるのがわかった。毎日、やるべきことをするだけ。他の審神者と同じ。はっきり目的が見えているだけ、彼女は楽かもしれない。そう前向きに考えよう。「ものは考えよう」と主から教わったと村雲からも聞いて……。
    「……あ」
    「え、なに、どしたの?」
     清光の問いに、彼女は首を振りつつふふふと笑った。
     そうか、あれは全部私の話だったのか。
     なんだかおかしくなって、彼女は「あはは」と声を上げてしまった。清光が「だからなにー?」と聞くのにもやはり、答えられずに首を振ることしかできない。なんだ、自分と来たら未来もあんまり変わらないな。でもそれなら、最後までやり通せるかもしれない。最後まで諦めずに、このときの気持ちのまま。
     これは、言葉遊びなのかもしれない。結局何をしても、そうなるかもしれない未来に否応なく流されていくのかも。
     けれどそれでも、泣きだしそうになりながらやって来たあの刀の想いを、無かったことにはしたくない。それだけは。
     ひとしきり笑って、彼女はふうと息を吐いた。
    「……はあ、じゃあ未来を変えに行こう、清光」
    「うん、じゃ行こっか」
     ピッと清光が転移装置のスイッチを押した。
    micm1ckey Link Message Mute
    2024/12/30 18:54:46

    今日を駆ける刀

    #雲さに #女審神者 #刀剣乱夢
    新米審神者の本丸に迷子の村雲江が来た話。

    2023年6月に頒布、完売した本の再録です。
    完結まで掲載します。

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