二度目の結婚②・二章 【 変化の芽吹き 】
リックがニーガンと結婚してから約二ヶ月。
リックは調達班の指揮役として小さな町を探索している最中、薄っすらと滲む額の汗を拭いながら空を見上げた。日差しは日々強くなり、気温も上昇している。それは夏が近づいている証拠だ。
ニーガンと出会った悪夢の夜は春とはいえ寒い日だった。あの時の空気の冷たさを忘れたことはない。だからこそ気温の変化に時間の流れを感じる。
結婚後に初めてアレクサンドリアに行った時はロジータとタラに叱られ、帰ってくるように説得された。説得には他の仲間たちも加わった。
しかし、リックが首を縦に振ることはない。アレクサンドリアを守るためにはこのままでいるしかないのだ。
リックは幹部の一人として働くようになって少人数ながらも部下を持った。救世主はリックや仲間たちにとって敵ではあるが、調達班の責任者として部下を守る必要がある。「部下たちを守らなければならない」という思いが仲間たちへの裏切りのように感じられ、それが最近の悩みだった。
ニーガンはリックに対して敵意を持たない者を部下に選んでくれたので今のところ揉め事は起きていない。部下以外の救世主から忌々しげに睨まれることはあるものの直接何か言われたりされたりということはなく、「ニーガンの夫」という立場がリックを守っているのは確かだ。
リックがぼんやりと空を見上げていると「リック、こっちに来てくれ」と部下の一人から呼ばれたのでそちらへ向かう。
「どうした?」
「雑貨屋があった。外から見た感じは荒らされた後に思えたが、取りこぼしは多そうだぞ。」
「建物の大きさが知りたい。どこにある?」
「こっちだ」と言って歩き出した部下に付いていくと個人経営と思われる小さな雑貨屋があった。
リックは店の正面側の窓から中の様子を観察してみる。ウォーカーが彷徨いているということはなく、店内には様々なものが散乱していた。以前にこの店を物色した人間は余程慌てていたのか未開封らしき商品があちこちに落ちている。食料の期待はできなさそうだが日用雑貨は手に入るだろう。
「この大きさの店なら俺たち二人で十分だな。誰かに見張りを頼もう。一人でいい。」
リックの言葉を受けた部下は「呼んでくる」と言って走っていった。
その後ろ姿を見送ってから店のドアを叩いて音を出す。店の奥にウォーカーがいれば音に釣られて出てくるはずだ。
少しするとドアか壁に何かがぶつかるような音が微かに聞こえてきた。店の奥から聞こえてくるが、ウォーカーは一向に姿を見せない。
そのうちに部下が他の部下一人を連れて戻ってきた。
「店の奥にウォーカーがいるみたいだが、多分ドアが閉まっていて出てこられない。中に入ったらまずはウォーカーを倒そう。お前は店の外で見張りを頼む。何かあったら知らせてくれ。」
リックの指示に二人の部下は頷いた。
リックは手斧を、部下はサバイバルナイフを手にしてドアの前に立つ。見張りを担当する部下がドアを開けると速やかに店内に侵入する。
店の奥まで一気に進み、「関係者以外立入禁止」と書かれたプレートが貼り付けられたドアの正面まで来た。ドアの向こうからウォーカーの呻き声が聞こえてくる。
「俺がウォーカーを倒す。合図をしたらドアを開けてくれ。」
リックは小声で指示を出してドアから三歩ほど距離を空けて手斧を構えた。
準備が整ったので部下に頷いてみせると部下が勢い良くドアを開けた。ドアが開くと同時にウォーカーが歯を見せて向かってきたので頭に手斧を振り下ろす。一撃で床に沈んだウォーカーの頭からすぐに手斧を外して次の襲撃に備える。リックが再び手斧を構えるのと同様に部下も身構えたが、ウォーカーはそれ以上出てこなかった。
リックは慎重に部屋の中を覗き、危険がないことを確かめると部下に顔を向けて頷いた。
「お前はこの部屋を頼む。俺は店内を見る。」
部下が「わかった」と言って部屋に入るのと同時にリックも動き始める。
近くに転がっていた買い物かごを拾って手当たり次第に物を放り込んでいくとすぐにかごが満杯になった。タオルや衣類はどれだけあっても足りず、食器もたくさん必要だ。トートバッグは調達で使うだけでなく物資を仕分けて保管するのにも使える。キャンドルも残されていたのはありがたい。
床をしっかり見て回り、棚を一つ一つ確認していくと、ある棚の前でリックは足を止める。そこはボードゲームのコーナーで、定番のゲームが一通り揃っていた。この世界で生き延びるのに必要ないものであるため少しも触れられていないようだった。
リックはそのうちの一つを手に取ってしげしげと眺める。
「……あいつなら喜んで遊びそうだな。」
リックが指す「あいつ」とはニーガンのこと。ボードゲームをニーガンのために持って帰ろうと思いついたのだ。
しかし、それはニーガンを喜ばせたいからではない。リックは定期的にニーガンの部屋に泊まることになっているのだが、寝るまではニーガンの長話に付き合わなければならず、それがとても苦痛だった。一晩を共にするだけでも嫌だというのに話を黙って聞いていなければならないのは大きなストレスだ。
だが、ボードゲームで遊ぶのならば少しは気が紛れるかもしれない。単純に会話するだけよりマシなはずだ。
リックは棚にあるボードゲームの全種類をかごに入れて他の物資と同じように店の出入り口に集めておく。床に置いたそれを改めて見下ろしてみれば、生活必需品の中に混ざり込んだおもちゃは異様に存在感を放っていた。
調達を終えてサンクチュアリに戻る途中、物資の一部を渡すために近くの基地に立ち寄った。基地を守る救世主たちは新しい日用品に顔を綻ばせる。その嬉しそうな表情はアレクサンドリアの仲間たちと変わらず、そのことがリックを複雑な気持ちにさせた。
集まってきた基地のメンバーを見てリックは人数が少ないことに気づく。
「人数が少ないな。何かあったのか?」
物資を運ぼうとしていた基地に常駐する救世主の一人が足を止めてリックを見た。
「死人の駆除だよ。あんたらが来る少し前に出ていったから戻るのはまだだね。」
「そうか。人手は足りてるか?足りないならニーガンに相談してみるが。」
「大丈夫。手の空いた人間で行ってるから問題ないよ。厳しくなったら言う。」
「わかった。じゃあ、もう行く。」
「お疲れさん。」
物資を渡し終え、リックは部下たちと共に車に戻って基地を後にした。助手席に座って窓の外を眺めながら先程の救世主の言葉を思い返す。
結婚して二週間が経った頃、ニーガンは「死人の駆除の範囲を広げて回数も増やせ」と指示を出した。サンクチュアリと各基地の周辺だけでなく、支配下にあるコミュニティー周辺も今まで以上にしっかりとウォーカーを駆除するように命令したのだ。
その命令を下す際にニーガンは救世主たちに向けてこう言った。
『奴らが俺たちに守られていることを忘れないように歩き回る死人共を掃除してやろう。守ってやる代わりに供給させる。これまでと同じだが、もう少し力を入れるんだ。あいつらが外で活動しやすくなれば供給がもっと安定するからな。』
ニーガンは負担が増えることへの不満を抑えるために「自分たちの利益になる」と匂わせたのだとリックは感じた。自分の言葉が与える影響をきちんと理解しているからできることなのだろう。
駆除範囲の拡大もよく考えられたものだった。新しい駆除範囲が描かれた地図を初めて見せられた時、負担が過剰にならないぎりぎりに設定されていることに幹部の誰もが感嘆の溜め息を落としたものだ。
駆除の回数の増加については日数・一日の回数のどちらを増やすのか各基地で話し合って決めるように通達した。それは基地によって事情が異なるので自分たちで決めさせた方が負担が減るとの判断だった。それがよかったのか、今のところ各基地から不満の声は上がってきていない。
リックはニーガンが地図を睨んで考え込む姿を何度も目にしていた。それは全て「負担の増加を最小限に抑えながらウォーカーの駆除に力を入れるため」だったのだと知り、搾取のことばかり考えているわけではないと認めざるを得なかった。
リックはこのことについてニーガンに「意見を聞いてくれてありがとう」と感謝の言葉を告げたのだが、当の本人は「感謝するのは俺の方だ」と不敵に笑った。
『脅威がなくなれば戦う意欲はなくなる。そうすりゃ反抗する気力も手段も持たなくなる。俺にとっては良いことばかりだ。教えてくれて感謝するぞ、リック。』
こう言われて初めてリックはそのことに気づいた。
気づくと同時に自分が間違ったことをしてしまったのではないかと後悔し、そしてニーガンが一歩も二歩も先を見ていることに背筋が寒くなった。
救いだったのはアレクサンドリアの徴収に同行した際に仲間たちが「ウォーカーが前よりも少なくなったから駆除にかかる時間と負担が減った」と話していたことだ。
(俺が奴に言ったことは間違いじゃない。だが、戦う術を身に付ける意欲を奪ってしまうのかもしれない)
それを思うと自分の判断を正しいと言いきっていいものか迷いが生まれる。
もしかしたら「ニーガンに立ち向かう」という芽を摘んでしまったのかもしれない。現状では歯向かったところで潰されるだけなのだが、遠い未来で何かが変わったのかもしれない。それを潰したのは他ならぬ自分なのだと思うと胸が苦しかった。
リックは罪悪感によって表情を曇らせた己の顔が窓ガラスに映っているのを眺めながら、誰に対してというわけでもなく謝りたい気持ちになった。
*****
調達から戻ったのは太陽が沈みかけた時間帯だった。
リックは物資を運び込むのを手伝ってから自分の部屋に戻り、夕食を食べた後にシャワーを浴びた。
そして持ち帰ったボードゲームを詰めたトートバッグを持ってニーガンの部屋を目指す。調達に出かける前にニーガンから「今夜は俺の部屋で寝ろ」と言われていたからだ。
ニーガンの部屋の前に立ってドアをノックし、入室の許可が出たので中に入る。
ニーガンはスウェット姿で三人掛けのソファーに座り、リラックスした様子で酒の注がれたグラスを傾けていた。その目がリックの持つトートバッグを捉える。
「それは何だ?愛しのダーリンへのプレゼントか?」
からかうような口調に対してリックは「そうだよ、ダーリン」と珍しくそれに乗っかる。
そのことに目を丸くする男を無視してコーヒーテーブルの上にトートバッグを置いて中身を並べていく。
「モノポリーじゃないか!何年もやってないなぁ。お、他にもいろいろあるぞ。メジャーなゲームが一通り揃ってるんじゃないか?」
ニーガンは目の前に並べられたボードゲームを次々と手に取って子どものようにはしゃぐ。
予想以上の反応の良さにリックは後ろめたさを感じた。打算的な考えで持ってきたものをこんなにも喜ばれると自分が嫌な人間に思えた。
リックの複雑な心境を知らないニーガンは全てのボードゲームに反応を示してから笑みのままリックを見上げる。
「お前が俺にプレゼントを持ってくるなんて珍しいこともあるもんだな。」
「俺と二人だけで喋っていても退屈だろう?ボードゲームで遊んだ方がいいかと思ったんだ。一勝負、どうだ?」
「よく言うぜ。どうせ俺の話を聞くのが嫌なんだろ?まあ、いい。ボードゲームは久しぶりだ。お前はどれがいい?」
「あんたの好きなものでいい。」
「じゃあ俺が決めるぞ。そうだな……」
リックがニーガンの部屋に入ってから数時間、二人はボードゲームで遊んで過ごした。
リックもボードゲームで遊ぶのは久しぶりだったのでいつの間にか夢中になっていた。相手がニーガンであるにもかかわらず楽しんでしまったのはニーガンが楽しそうにしていたからなのかもしれない。
ニーガンは調子が良いとウキウキと体を揺すり、風向きが悪くなると顔をしかめて唸る。勝てば大喜びで手を叩き、負ければ拗ねて唇を尖らせた。リックは子どもを相手にしているような気分になって何度も苦笑いを零した。
最後の勝負ということで始めた一戦の勝敗が決まるのも間もなくだ。
「──くそっ!俺の負けだ、負け!リックの勝ち!」
ニーガンは前のめりの姿勢を崩してソファーの背もたれに背中を預けた。悔しそうに顔を歪めるのを見てリックはニヤリと笑う。
「今夜は気分良く眠れそうだ。ありがとう、ニーガン。」
リックは嫌味を込めて感謝の言葉を告げ、テーブルの上を片づけ始める。ニーガンはその様子を見ながら「どういたしまして」と吐き捨てた。
ボードゲームをトートバッグに入れ終わり、保管しておく場所を探して部屋の中を見回す。見た限りでは良さそうな場所が見当たらない。
「これはどこに片づければいいんだ?」
「昼間にお前の部屋で遊びたくなるかもしれないからお前が預かってろ。ここで寝る時は持ってこい。」
それを聞いて今度はリックが顔を歪める番だ。露骨に嫌そうな顔をするとニーガンがニヤニヤと笑い始める。
「昼間だって夫婦間のコミュニケーションを取らなきゃいけないだろ?」
「昼間は仕事があるんだがな。」
「休憩は大事だぞ、リック。さて、遅くなっちまったから早く寝よう。」
ニーガンは欠伸をしながらベッドに向かう。
リックはトートバッグをソファーに置いてベッドに移動し、スリッパを脱いでベッドの上に乗った。真ん中に寄りつつもニーガンとは一定の距離を置いて横になる。
明かりが小さくなったので目を閉じるが、数分後にニーガンが「おい、リック」と声をかけてきた。
「……何か用か?」
「楽しかったぞ、ボードゲーム。」
ニーガンがポツリと落とした一言。それは皮肉でも何でもなく素直な感想だ。リックはそう感じた。
リックが目を開けて隣のニーガンを見るとニーガンも同じようにこちらを見ていた。
「ボードゲームなんて何年もやってなかった。ここにもボードゲームはあるが、部下たちが遊ぶだけだ。俺はやらない。俺がおもちゃではしゃぐ姿なんて誰にも見せられないからな。」
「リーダーの威厳って奴か?気にしすぎだと思うが。」
「強くて賢くて怖い男。奴らが求めるニーガンってのはそういうものだ。不確かなことだらけな世界で弱い奴らが生きていくには絶対的な存在が必要なのさ。」
そう話すニーガンの顔には苦笑が浮かぶ。
理想のリーダーを求める者たちを見下しているようにも、それを求められることにうんざりしているようにも見えた。
ニーガンは目を合わせたまま話し続ける。
「本当ならお前ともさっきみたいに遊ぶべきじゃない。お前だって俺が救うべき人間の一人だからな。」
思いがけない言葉にリックは目を瞬かせる。
ニーガンにとって救うべき対象になるのは自分の元にいる人間だけであり、他のコミュニティーの人間は単なる搾取対象でしかないのだと思っていた。
しかし、それは思い込みだったのかもしれない。
「俺も、アレクサンドリアのみんなも……あんたにとって救うべき人間なのか?」
その問いにニーガンは「当たり前だ」と頷いた。
リックは初めて知るニーガンの真意に目を瞠ったが、すぐに顔を歪めた。
ニーガンに「救ってほしい」と願ったことはなく、それはこれから先も変わらない。救うべき対象だと思われていることが心外だった。
「思い上がらないでくれ。俺はあんたに救ってほしいだなんて思っていない。理想のリーダー像を押しつける気もない。ボードゲームがやりたきゃ呼び出せよ。何時間でも付き合うさ。」
リックはニーガンから目を離さずに言いきった。
自分とニーガンは対等ではないと十分に理解しているが、それでも不快だった。「救ってやる」というのは思い上がった考えであり傲慢だ。それを受け入れるつもりはないと伝えたかった。
生意気だとも取れるリックの物言いに対して、微かな明かりの中に浮かび上がるニーガンの表情は凪いでいた。
怒りや不快感はなく、それどころか穏やかな眼差しを向けられている。
「怖がってるかと思えば今みたいに強気なことを言うんだよな、お前は。相手が俺じゃなきゃとっくに殺されてるぞ。」
そう言ってニーガンは笑った。その笑みが嬉しそうに見えたことにリックは戸惑った。
ニーガンは手を伸ばしてくるとリックの頭を撫で始める。予想外の行動にリックは硬直し、顔をしかめることも忘れてニーガンを見つめた。
「お前とも遊ぶべきじゃないが、楽しかったからそんなことどうでもよくなったって言おうとしたんだよ。早とちりするな。でも、まあ……何時間でも付き合ってくれるんだろ?確かに聞いたからな。忘れるなよ。」
ニーガンはリックの頭をポンポンと軽く叩いてから手を離し、目を閉じて眠る体勢に入った。
ようやく硬直から解けたリックはニーガンの横顔からぎこちなく目を離し、体を横向きにして隣の男に背を向けた。
そして混乱しかかっている頭でニーガンの言動を振り返る。
(今のは……嬉しかった、と言いたかったのか?)
穏やかに笑うニーガンの顔も、優しく頭を撫でる手も、何もかもがリックにとって意外なものだった。自分の言動にニーガンの心が動くなどと考えてもみなかったのだ。
「嬉しい」と素直に伝えられないのはリーダーとしてのプライドがあるからなのかもしれないが、それでも精一杯伝えようとしていた。リックにはそんな風に見えた。
好意的に捉えてしまうのはニーガンからリーダーの孤独さを感じてしまったからなのかもしれない。皆を導く強きリーダーを演じることに疲れている男の気配を確かに感じたのだ。リック自身にも覚えのある感覚は心に波紋を生み出し、ニーガンの別の一面に目を向けさせようとする。
リックは自分の中に生まれた新たな感情を振り払うように強く目を閉じた。
立場が変わってもリックにとってニーガンは敵であり、憎い存在だ。それ以外はあり得ない。
そう考えようとしても先程までの時間が頭に浮かんでくる。どちらもボードゲームに夢中になり、無邪気に歓声を上げたり本気で悔しがった。あの瞬間は純粋に「楽しい」と思っていた。その感覚はリックにとって随分と久しぶりだった。
拭い難い居心地の悪さはニーガンが隣にいるからではないと自覚しながら、リックは全てを押し退けるように眠ろうとした。
アレクサンドリアの徴収日、リックはニーガンの運転する車の助手席に座っていた。他に同乗者はいない。ニーガンの夫であるリックは特別なのだと周囲に示すためなので徴収の時はいつもそうだ。
その道中、ニーガンは珍しく口数が少なかった。そのことを訝しく思うが尋ねることはしない。
そのうちにアレクサンドリアが遠くに見えてきた。
「リック、お前に言っておくことがある。」
不意に口を開いたニーガンの横顔にリックは目を向けた。
横目でチラリとリックを見るニーガンの顔にいつもの笑みはない。
「この前のヒルトップの徴収の時に部下の一人がマギーを見つけたそうだ。顔を覚えていたらしい。」
その報告にリックは顔を強張らせた。
「サイモンが俺の指示通りに対応したから問題ない。心配なら今度サイモンに同行して様子を見てこい。」
「知らせてくれてありがたいが、どうして今話してくれたんだ?」
「話す必要はないと思っていたが、アレクサンドリアの奴らが知ってる可能性はある。そうなるとお前が何も知らないのはまずいだろ?一応話しておいたほうがいいと思い直したから今になった。」
そう話すニーガンは少しだけばつの悪そうな顔をしている。口数が少なかったのはリックにマギーのことを話すべきか考えていたからなのかもしれない。
リックは「そうか」とだけ言って視線を前方に戻した。
マギーがヒルトップにいることをニーガンに話したのはマギーを始めとする皆を守るためだったが、仲間たちへの裏切りであることに変わりはない。そのことを知ってリックに怒りを抱く者もいるだろう。そのことは覚悟しているが、それでも気が重くなる。
リックは町に戻ることを初めて憂鬱に感じていた。
「リック!あんた、どういうつもりだ⁉」
町の中に停めた車からリックが降りると待ち構えていたダリルが詰め寄ってきた。
そのダリルに続いてタラも勢い良く歩いてきてリックを睨み、ニーガンを指差して怒りを顕にする。
「あいつがマギーのことを知ってたって、救世主に見つかったけど『ニーガンは知った上で放置してる』って言われたって!あいつに話す人間なんてリックしかいないじゃん!」
「何で話した?もしかしたらマギーもサシャも殺されてたかもしれねぇんだぞ!」
興奮したようにリックに迫るダリルとタラを抑えるためにミショーンとロジータがそれぞれを後ろから抱き、二人から守るようにカールがリックに背を向けて前に立つ。
カールはダリルとタラに「二人とも落ちついてよ」と落ちついた口調で言った。
「父さんに話を聞こう。僕たちには父さんの事情がわからないんだから。」
カールは言い聞かせるように言ってから振り向いてリックに真っ直ぐな眼差しを向ける。
「教えて。どうしてマギーがヒルトップにいることをあいつに話したの?」
リックは息子の目を見つめ返してから仲間一人ひとりの顔を見た。ダリルとタラの顔には怒りが浮かび、ミショーンとロジータも複雑そうな表情をしている。
皆の反応は当然のものだ。それでも胸が痛い。
リックは胸の痛みを和らげるようにシャツの胸元を掴んで話し始める。
「ニーガンは夫である俺に誠実であることを望んでいる。それは嘘や隠し事をしないということだ。だが、俺はニーガンに『マギーは死んだ』と嘘を吐き、彼女がヒルトップにいることを隠していた。それを放置するのは夫であるニーガンへの裏切りだ。」
そこで言葉を切ると少し離れた場所に立つニーガンに目を遣る。
ニーガンは静かな面持ちでこちらを見ていた。目が合っても表情は少しも変わらず、そしてこちらに近づいてくることもない。リックと仲間たちのことに口出しするつもりはないようだ。
リックは再びカールに視線を戻して話を続ける。
「マギーのことを隠したままで彼女の存在がニーガンに知られたら、俺が不誠実だったことの罰として彼女が殺される。それだけじゃない。アレクサンドリアやヒルトップの誰かも殺されるだろう。だから打ち明けた。」
「みんなを守るために話したってこと?」
カールの問いにリックは「そうだ」と頷く。
しかし、タラが不満げに顔をしかめて腕組みをした。
「でも、それって賭けみたいなもんじゃない?たまたま今回は見逃してくれたけど殺されてもおかしくなかったと思う。話すべきじゃなかったよ。」
その言葉に反論するための材料がリックには思い浮かばなかった。
タラの言ったことは間違いではない。賭けと言われてしまえば頷くことしかできず、仲間の命を危険に晒したと責められるなら受け入れるしかないだろう。
しかし、完全な賭けではない。ニーガンと関わることによって受けた彼の印象から導き出した答えなのだ。
それでも仲間たちがそれを理解するのは難しい。感覚的なものを言葉で説明するのは簡単ではなく、仮にそれができたとしても納得してもらえるかわからない。
リックは苦悩に顔を歪めながら必死に思いを口にする。
「理解してもらえるとは思わないが、考えなしに話したわけじゃないんだ。みんなを守るための最善策だった。俺にできる精一杯なんだ。裏切ったわけじゃない。……だが、不信感を持たれても当然だと思う。すまなかった。」
その言葉にカール以外の全員がリックから視線を外した。過った程度であっても「リックが自分たちを裏切った」という思いがあったからなのだろう。
そのことを肌で感じたリックは唇を噛んで俯いた。
重い沈黙が続いた後、不意にロジータがリックの名を呼び、それに促されるようにリックは顔を上げた。
「リック、あなたが裏切ったかも……って思ってしまったことは認める。でも、私はやっぱりあなたを信じたい。違う、信じる。リック・グライムズを信じる。」
ロジータの言葉に頷くミショーンがリックに顔を向けて「私も同じ」と言った。
「リックがみんなのために努力してきた姿を私たちは見てきた。だからあなたを信じる。」
ロジータとミショーンの穏やかな眼差しにリックは表情を和らげる。二人の気持ちがとても嬉しかった。
タラは気まずそうにリックの顔をチラッと見たが何も言わず、ダリルはリックに背を向ける。
そしてダリルは背を向けたまま「おい、リック」と呼びかけてきた。
「俺は簡単に納得できない。……だが、責めて悪かった。」
それだけを言い残してダリルは去っていく。その背中に声をかけることはできない。彼の複雑な心境を思えば今の言葉だけで十分だ。
遠ざかるダリルの後ろ姿を見つめるリックの腕を優しく掴む手が合った。カールの手だ。
顔をカールに向ければ優しく微笑む彼と目が合う。
「父さん、家に帰ろう。ジュディスが待ってるよ。」
リックは自分の腕を掴むカールの手を撫でながら頷き、他の三人にも頷いた。
そして我が家に向かって歩きかけて立ち止まり、沈んだ表情のタラの頭を撫でる。
「タラ、悪かった。」
それだけを言って今度こそ歩き出す。
他に言うべき言葉が見つからなかった。それならば、今タラに伝えなければならないことはそれなのだろう。
そう考えてリックは前を向いた。
*****
リックは自宅でカールとジュディスと親子三人の時間を過ごし、その際にカールからマギーたちの話を聞くことができた。
マギーとサシャは元気そのもので、頼りがいのある二人はヒルトップでも信頼を集めているらしい。ジーザスが言うには「グレゴリーよりも人望がある」とのことだ。
マギーとサシャも自分たちのことをニーガンに話したのはリックだと気づいていたが、リックに対して怒っていないのだと言う。
『ここでリーダーの真似事をやって改めて感じたの。リックがみんなを守るためにどれだけ重いものを背負ってきたのかって。だから私たちのことをニーガンに話すのだってとても悩んだはず。──みんなの命が懸かってるから。』
続けて「だから少しも怒ってない」と微笑むマギーの隣でサシャも頷いたそうだ。その話を聞いてリックは救われたような気がした。
親子三人の時間は徴収の終わりと共に幕引きとなり、次の徴収での再会を約束してリックは我が子たちから手を離した。
別れの時は辛い。皆の顔を見ると離れ難くなるが、ニーガンに急き立てられれば車に乗るしかない。
リックが車に乗り込もうとするとタラに「待って」と引き止められた。
リックの目の前まで来たタラはしっかりと目を合わせてくる。
「さっきはごめん。私、ひどいことを言った。」
リックは首を横に振って小さく笑みを浮かべた。
「気にするな。みんなを頼むぞ。」
「うん。」
ようやく笑みの戻ったタラに向かって拳を突き出すと彼女の拳が軽くぶつけられた。お決まりの挨拶に揃って笑みを深める。
リックは手を下ろして見送りに集まった仲間たちの顔を眺めてから車に乗った。既に運転席に座っていたニーガンが確認するようにこちらを見たので「待たせてすまない」と言うと車がゆっくり走り出す。
リックは後ろを振り返り、仲間たちの姿が見えなくなるまで見つめていた。そして完全に見えなくなった時点で顔をフロントガラスの方に向ける。
「仲直りはできたのか?」
ニーガンから突然尋ねられ、リックは反射的にニーガンの方に顔を向けた。ニーガンは前方から視線を外さない。
「マギーのことで責められてただろ。解決したのか?」
「仲違いしたわけじゃない。納得してもらうのに時間がかかるだけだ。」
「そりゃよかった。……あの時、俺に仲裁してほしかったか?」
相変わらずニーガンの顔は前方に向いたままだ。運転中なのだからそれで構わないのだが、頑なに目を合わせようとしていないように思えてならない。
リックは無視できない違和感を覚えつつも「考えもしなかった」と答える。
「俺と彼女たちとの問題であって、あんたは関係ない。あんたが入ってきたら拗れていた。あれでいい。」
「まあ、そうだろうな。お前が全部受け止めるしかない。」
ニーガンは溜め息混じりにそう言った。その声にやるせなさを感じ、リックは首を傾げた。
ニーガンはリックの方を少しも見ないまま言葉を続ける。
「トップの人間に言いたいことを全部言えば腹が立つのも少しはマシになる。好き放題言えるのが従うだけの人間の特権だ。」
「何が言いたい?」
リックの問いをニーガンは鼻で笑った。
「誰もお前の苦しみを知らないってことだよ。お前があいつらを守るために悩もうが潰れそうになろうが、そんなことは誰も考えない。責任を負う人間がどんな思いをしてるかなんてどうだっていい。そういうことだ。」
吐き捨てるように言ったニーガンの顔に浮かぶのは嘲笑だ。
リックはニーガンが苛立っているように感じた。それは特定の誰か一人に向けたものではなく「リーダーではない者たち」に対するもののように思える。ニーガンはリーダーの苦悩や背負う責任の重さを気にも留めない者たちへの怒りを密かに抱えていて、リックとその仲間たちとのやり取りによってそれが噴出したのかもしれない。
リックはニーガンを見つめながら農場を追われた後のことを思い出す。ウォーカーの群れに襲われて農場を追われたことと、重大な告白によって動揺した仲間たちから責められたリックは仲間たちに激情をぶつけた。あの時のリックの中にあったのはニーガンが言ったようなことに対する怒りだった。
あの時の自分と同じ怒りをニーガンはずっと抱えているのかもしれない。リックはそんな風に思った。
「あんたにも飲み込むものがあったんだな。」
リックが独り言のように呟いた言葉に反応してニーガンが一瞬だけ視線をこちらに向けた。
「ニーガン、あんたの怒りは俺が抱えていたものと似ている。……いや、今でも抱えているかもな。俺も飲み込んだだけで消化しきれていないのかもしれない。」
飲み込んだだけの怒りは何かの拍子に扉を蹴破って表に出てくるだろう。それは自分の中に怪物を飼っているようなものだ。その怪物を上手く飼い慣らさなければ大切な人たちを傷つけてしまうだろうが、飼い慣らすのは容易ではない。
リックは顔を正面に戻して口を閉じた。ニーガンに対してこれ以上何かを言うつもりはなかった。ニーガンの中にある怒りは彼だけのものであり、リックにはどうしてやることもできないからだ。
しばらく車内には沈黙が降りたが、不意にニーガンがリックの名を呼ぶ。
「リック、今夜は俺の部屋で寝ろ。」
突然の命令に驚いたリックは再びニーガンに顔を向ける。
ニーガンはやはり正面を向いたままだが、その顔に苛立ちは見当たらなかった。
「ボードゲームを持って部屋に来い。わかったな。」
「突然だな。この前あんたの部屋に泊まったばかりだぞ?」
「お前とボードゲームがしたいんだよ。今そういう気分になった。いいから『わかった』と言え。」
「……わかった。行く。」
リックの返事を聞き、ニーガンは笑みを浮かべながら口笛を吹き始めた。突然機嫌の良くなった男にリックは首を傾げつつも正面を向き、保管してあるボードーゲームを思い浮かべる。
そして、今までに遊んだのはどれだったかを思い出しながら自分がニーガンに親近感のようなものを抱いたことに気づく。
リーダーという役目を担ったこと、それによる重圧、周囲への怒りなど、二人には共通していることが少なくない。それが親近感を抱かせる要因になっているのは間違いないだろう。
そのことを自覚したリックは助手席側の窓に顔を向けて窓ガラスに映る己の顔を見る。そこには渋い顔をする自分がいた。
ニーガンに対して親近感を抱くことこそが仲間たちへの裏切りではないか。
その思いが胸に広がり、罪悪感の針が心を突き刺した。
アレクサンドリアの徴収から戻ってニーガンの部屋に泊まった翌朝、リックはベッドから起き上がることができなかった。
目覚めた瞬間から体に異変を感じていた。体が熱く、頭が重い。全身が怠くて起き上がろうとしても体に力が入らなかった。
なかなか起きようとしないリックにニーガンが「どうした?」と訝しげに眉を寄せて声をかけてきた。
「熱があるみたいだ。悪い、すぐに出ていくから──」
「寝てろ。カーソンを呼んでくる。」
リックが「少しだけ待ってくれ」と言う前にニーガンは部屋を出ていった。リックはニーガンが出ていったドアを見つめて瞬きを繰り返す。
ニーガンは「寝てろ」と言った?しかも医者であるカーソンを呼んでくると?
夢でも見ているのではないかと自身に疑いを向けながら大人しく横になっていると白衣姿のカーソンと共にニーガンが戻ってきた。
カーソンはリックの体にケガがないかを確かめながら「発熱はいつからなのか」「今日までに異変はなかったか」などの質問を投げかけてくる。昨夜寝るまでに体調の悪さを感じたことはないと伝え、一通りの診察が済むとカーソンはその結果を示す。
「咳が出るわけでもなくケガもしていない。そうなると疲労による発熱ということになるだろう。環境が変わって二ヶ月経った頃なら疲れが出て当然だ。熱が下がるまで安静にしていなさい。」
医師の言葉にリックは素直に頷いた。指示されずとも動き回るような気力はない。
カーソンは傍で様子を見守っていたニーガンの方へ向き直った。
「安静にしていれば問題ないが、状態が悪くならないとは断言できない。誰かに看病させるか医務室へ連れてきた方がいいだろう。」
「この部屋で構わん。俺が面倒を見る。」
ニーガンの言葉に驚いたのはリックだけではなくカーソンも同じだ。カーソンは思わずといった様子でリックを振り返り、目を丸くした二人は視線を交わらせる。
そしてカーソンは戸惑いを隠さないままニーガンに顔を向けて「サイモンには私から伝えよう」と言って部屋を出ていった。
ニーガンと二人だけで取り残されたリックは咎められる可能性があることにも構わずニーガンを凝視する。流石に視線が気になったのか、ニーガンは顔をしかめてベッドの脇に立った。
「人の顔をジロジロ見るなんて失礼だと思わないか?言いたいことがあるなら言え。」
「本当に俺の看病をするつもりなのか?」
リックは自分の言葉に違和感を覚えながらも質問した。
それに対する答えは「当たり前だ」の一言だった。
「看病するというのがあんたに結び付かない。違和感がある。」
「ベッドから蹴落とすぞ。……看病なら経験あるさ。妻が入院してたからな。」
思いがけない話が出てきたことにリックは言葉に詰まった。
入院となると重い病気かケガであった可能性がある。そうなるとニーガンの妻はその際に亡くなっているとも考えられた。
黙り込んだリックの額にニーガンの手が触れ、頭上から苦笑いが降ってくる。
「世界がこうなる少し前だ。ガンだった。わかった頃には手遅れで、入院してベッドの上にいるしかない彼女の世話をした。だから病人の世話には慣れてる。」
「すまない。無神経だった。」
リックが謝罪するとニーガンは手を離して肩を竦めた。
「よくある話だろ?それに、ルシールみたいな女にはこの世界は向かない。こんなクソみたいな世界で生きるよりよかったのさ。」
ルシールという名前を聞いてリックは目を瞠った。
ルシールはニーガンの持つ凶器に付けられた名前のはずだ。その名前をこのタイミングで口にする意味は理解できるが、信じられない気持ちの方が強い。
「ルシール?」
確認するようにその名を口にすればニーガンが「しまった」という顔をする。
ニーガンは気まずそうに頭をかいてリックから視線を外し、一つ溜め息を落とした。
「ルシールは妻の名前だ。良い名前だろ?優しくて良い女だった。……寝ろ。食事が来たら起こしてやる。」
ニーガンは窓辺に移動すると外を眺め始めた。その顔にどんな感情が浮かんでいるかリックにはわからない。
リックは思いがけず立ち入った話を聞いてしまったことに動揺しながらも目を閉じる。
人を殺すための道具に亡き妻の名前を付けるのは悪趣味としか言いようがないが、それほどに妻の存在がニーガンの中で大きい証拠だろう。何人もの女たちを囲いながら、その心にいるのは愛した人だけなのだ。そのことからニーガンの人間味を感じた。
サンクチュアリで暮らすようになってから、怪物のように思っていた男の人間らしい部分を知る機会が増えたように思える。それが良いことなのか悪いことなのかリックには判断がつかなかった。
リックの体には思っていた以上に疲れが溜まっていたようだ。それを証明するかのように熱はなかなか下がらない。
リックは発熱による怠さのせいで起き上がることができず、一日中ニーガンのベッドを占領することになった。
一方のニーガンは濡れタオルで額の汗を拭ったり水を飲ませることや食事の介助をするなど、リックの看病をきちんと行った。その姿が奇妙なものに見えるのは普段とのギャップが大きいせいだろう。
看病を終えてもニーガンはほとんどの時間をリックの傍で過ごした。部下に呼ばれて出ていってもすぐに部屋に戻り、リックの額に触れて状態を確認した。
はっきり言えば気持ち悪いくらいに献身的だ。「俺に尽くせ」と尊大に振る舞う支配者の姿からは想像できない献身ぶりにリックは大いに戸惑っている。その戸惑いがようやく消えたのは真夜中の頃。
額に冷たいものが触れる感覚に目を開けると、濡れタオルでリックの額の汗を拭くニーガンと目が合った。小さなランプに明かりは灯っているが室内は暗い。いつもならば寝ている時間だ。
目が合ったのだからリックが起きたことにニーガンは気づいているはずだが、何も言わずに手を動かしている。
「……ニーガン、寝てないのか?」
「寝ずの看病?冗談じゃない。たまたま目が覚めたからやってるだけだ。」
ニーガンの答えにリックは微かに眉値を寄せる。ニーガンが隣で眠りについた記憶がない。
もしかして、とリックは顔を動かしてソファーを見た。三人掛けのソファーには毛布と枕があり、ニーガンがそこで眠っていたことがわかる。
リックはニーガンの方に顔を戻して見下ろしてくる顔を睨んだ。
「余計な気を遣わないでベッドで寝ればいい。これはあんたのものなんだから。」
ニーガンは軽く肩を竦めるとタオルを洗面器に入れた。
「病人にベッドを譲ったら悪いか?お前には仕事があるんだから早く良くなってもらわないと困る。」
「面倒見が良すぎて気味が悪いんだ。朝の話が原因か?──あんたの奥さんの話。」
その言葉にニーガンが一瞬言葉に詰まったのがわかる。
ニーガンは少しだけ引きつった表情を覗かせた後、「関係ない」と答えて顔を背けた。
「本当か?単なる部下に対しての看病なのに献身的すぎると思う。」
「一応は夫婦だからだ。」
「違う。あんたは俺を部下としか思っていない。……ニーガン、あんたの奥さんは死んだし、俺は彼女とは別の人間だ。ちょっと熱が出た程度で死んだりしない。だから放っておけばいいんだ。」
リックは黙り込むニーガンに向かって手を差し出す。
「触ってみてくれ。俺の体温は死にそうな人間のものか?」
そう言ってやるとニーガンはリックの手に視線を向け、続いてそれをリックの顔に移した。向けられる目が不安げに揺れているのでリックは呆れたように溜め息を吐く。
腕を伸ばしているとしんどいので早くしてほしい。そんな思いと共に更に腕を伸ばす。
やがてニーガンの手が恐る恐るリックの手に触れると体温を確かめるように強く握られた。
「……死ぬ直前のルシールの体温とは全然違うな。」
深く息を吐き出しながら呟くニーガンにリックは頷いてみせた。
「当たり前だ。俺の弱った姿に奥さんを重ねたのかもしれないが、それはやめておいた方がいい。奥さんは俺と違って良い女なんだろう?」
リックの軽口にニーガンが笑みを零した。
ニーガンは手を離すと己の額に掌を押し当てて苦笑する。
「そうだ、お前なんか彼女に全然似てない。」
そう言ったニーガンはどこか安堵したような顔をしていた。
今のニーガンにとってリックは己に近い存在だ。その相手の弱った姿を見て亡くした妻を思い出し、それにより動揺したのだろう。だからニーガンは妻にしたように献身的に看病したのだ。
そのことをリックが指摘するとニーガンは素直に頷いた。
「ルシールのことを思い出して動揺するなんて俺らしくない。格好がつかないな。」
「あんたにだって人間らしい部分はあるんだから変じゃない。そういう時もある。」
「……お前が俺に優しいのも気持ち悪いぞ。」
わざとらしく自分の腕を擦るニーガンにリックは苦笑いを漏らす。
「あんたの気持ちがわからなくもないから今だけは冷たくできないみたいだ。」
その言葉にニーガンは目を瞠り、次に気遣わしげな眼差しを寄越した。
そしてベッドに乗ってリックの隣に横になる。体ごとリックの方に向いたニーガンに顔を向けると、柔らかな光を宿す目がこちらを真っ直ぐに見ていた。
リックはニーガンと目を合わせたまま、ある話をするために口を開く。
「俺の妻はこの世界になってから死んだ。拠点にしていた刑務所にウォーカーの群れが入り込んで、俺たちはバラバラで逃げるしかなかった。俺はその時、彼女と一緒にいられなかった。」
リックの脳裏にジュディスを妊娠している時のローリの姿が浮かんだ。
あの時リックが一緒にいてもローリを守り抜くことができたかわからない。守れなかった可能性は低くないだろう。それでも傍にいてやりたかった。
リックが後悔を噛みしめていると汗ばむ額に貼り付いた前髪がニーガンの指によって払われた。その慰めるような仕草にリックは小さく笑みを零す。
「あの時彼女は妊娠していて、ウォーカーから逃げている最中に産気づいたそうだ。一緒にいたカールとマギーの手を借りて出産してから亡くなった。」
「その時に産まれたのがジュディスか。」
「そうだ。二人はジュディスを連れて逃げるのが精一杯で……安全を確保してから彼女の遺体を探しに行ったが、ウォーカーに食われた後だった。俺は彼女を守れなかったんだ。」
リックの話を聞いたニーガンは痛ましそうな表情でリックを見つめ、「奥さんの名前は?」と声を絞り出した。
「ローリだ。きれいな人だった。……彼女を喪って、自分を見失うくらいに愛していた。」
リックは目を伏せてローリを亡くしたばかりの頃の自分を思い出す。
あの時はひどく混乱していた。噴き出し続ける怒りに全身を侵され、我が子や仲間たちのことさえ目に入らなかった。ローリを喪ったという現実を受け止めきれずに荒れ狂っていた。
その後も亡き妻の幻に悩み続け、全てを受け入れて心が落ちつきを取り戻すまでにかなりの時間を必要とした。
今でもローリを思い出すことはあるが、それによって心を乱されることはない。彼女は心の支えとなってリックの傍にいるのだ。
リックは目蓋を持ち上げて再びニーガンを見る。
「話は終わりだ。俺だけあんたの奥さんの話を聞くのは不公平だから話した。もう寝よう。」
その言葉にニーガンは目を丸くした。顔に浮かぶ驚愕はすぐに楽しげな笑みへと変わり、肩を震わせて笑う男にリックは首を傾げる。
そんなに変なことを言っただろうか?
リックの疑問を感じ取ったニーガンは呆れたように溜め息を吐いてから口の端に苦笑を滲ませた。
「お前は変なところで真面目だな。面白い奴だ。そこも気に入ってる。」
ニーガンはそう言ってリックの頭をガシガシと手荒く撫でた。
まだ熱があるのに、とリックが顔をしかめても手は離れない。
ニーガンは満足するまでリックの頭を撫でると布団を被って眠る体勢に入った。
「朝になっても熱が下がってなかったらもう一日ベッドを貸してやる。特別サービスだ。拒否は受け付けないからな。じゃあ、おやすみ。」
言いたいことだけを言って目を閉じたニーガンは本気で寝るようだ。「朝になったら部屋に戻る」「仕事をする」などと訴えても耳を貸さないだろう。
普段の姿からは想像できない気遣いばかりで頭が混乱しそうだ。まるで親しい友人を思いやるようなニーガンに困惑させられ続けている。
しかし、普段と違うのはリックも同じ。ニーガンに釣られるように彼を気遣った自身に困惑し、呆れた。
自分に対する呆れはあるが、今日の出来事を不快だとは思わない。ニーガンの心の奥底にあるものに触れたことやローリの話を聞いてもらったことはリックの心を優しい感情で満たした。
きっと、朝になればニーガンはいつもの横柄で憎たらしい男に戻っているだろう。
それでも初めて見た彼の姿を自分が忘れることはない。リックはそんな気がしていた。
To be continued.