二度目の結婚③・三章 【 手を取り合う者たち 】
ベタつくような夏の暑さもピークを過ぎ、風の中に秋の気配を微かに感じる。
夏の間、寝苦しい夜が続いてもクーラーが使えるわけもなく、暑さのせいで夜中に目を覚ました回数は数えきれなかった。これならば外で寝る方がマシだと何度思ったかわからない。そのような寝苦しさが減ってきたことも秋の訪れを予感させた。
春を過ぎ、夏を越え、秋がすぐ傍まで来ようとしている。それだけの長い時間をサンクチュアリで過ごせば様々な問題が見えてきた。
まず、サンクチュアリは自給率が非常に低い。工場を生活の場として利用しているため作物を育てるのに必要な土が敷地内になく、野菜や果物を育てることができない。動物を飼育していないので畜産物を生産することもなかった。物資の入手手段は支配するコミュニティーからの徴収がメインであり、後は調達によって手に入れる程度だ。
次の問題は移動手段で、車とバイクしかないことをリックは問題視していた。車とバイクは燃料が尽きれば単なる鉄くずである。燃料はいずれなくなってしまうのだから、今のうちに他の移動手段を考えなければ将来的に身動きが取れなくなるだろう。
缶詰などの崩壊前の世界の遺産が手に入らなくなる日はいつか必ずやって来る。そうなれば食料事情の悪化は免れない。燃料が尽きれば調達に出ることも困難になって物資不足に拍車をかけることになる。
そうなった場合に支配地域のコミュニティーに対して徴収量を増やさずにいられるだろうか?
徴収量を増やせば徴収に耐えきれずに潰れるコミュニティーが必ず出る。潰れたコミュニティーの負担していた分が他のコミュニティーにのしかかり、更に潰れるコミュニティーが現れるという悪循環に陥るのが容易に想像できた。
それらのことを踏まえた上でリックが出した結論は「今のやり方では数年後に破綻する」というものだ。
サンクチュアリの将来に強い危機感を抱いたリックはあることを決断した。
*****
リックが次の調達に向けて車の整備を手伝っているとドワイトが「会議が始まる」と呼びに来たため、残りの作業を部下に任せてドワイトの後を追う。
その途中、労働者の子どもの一人がリックを見つけて駆け寄ってきた。
「おじさん!お仕事終わったの?私と遊ぼうよ!」
そう言って笑顔で近づいてきた少女はカールよりもずっと幼い。リックは自分の腰の辺りにある少女の頭を撫でながら微笑みかける。
「悪いな、まだ仕事が残っているんだ。」
「なんだぁ。じゃあ、また今度遊ぼうね。約束だよ。」
拗ねたように頬を膨らませる少女に「ああ、約束だ」と頷き、立ち止まってこちらを見ているドワイトの方へ向かう。
リックが追いつくとドワイトは再び歩き出した。その隣に並んで会議室を目指す。
「あんた、ここに来て一年も経ってないのに顔が広いんだな。」
ドワイトはこちらに視線だけを寄越しながら呟くように言った。先程の子どもとのやり取りを見た上での言葉だろう。
「あの子が一人で泣いているのを見かけて声をかけたら懐いてくれたんだ。亡くした父親を思い出して泣いていたらしい。きっと俺に父親の姿を重ねているんだろう。」
「あの子だけじゃない。他の労働者とも話してるのをよく見かける。救世主の中には労働者との距離が近すぎるって良く思ってない奴もいるぞ。」
「俺は彼らに威張り散らすつもりはない。俺のことを気に入らない人間には構っていられないな。」
リックの答えにドワイトは肩を竦めて小さく苦笑した。その表情を見てリックは軽く目を瞠る。徴収で住人を威圧する時とは異なり、普段は感情の変化に乏しい男の表情が動いたことに驚いたのだ。
それ以上言葉を重ねることなく廊下を進み続け、会議室に到着すると既にニーガン以外の幹部たちが集まっていた。リックは先に席に着いたドワイトの隣に座る。
それから間もなくニーガンが現れ、部屋に一歩入ったところで足を止めた。ニーガンは全員の顔を見遣ってからパンッと一つ手を叩く。
「全員揃ってるな。じゃあ会議を始めよう。」
会議はいつもと変わりなく進んだ。各基地から上がってくる支配地域の現状や各コミュニティーの徴収状況、サンクチュアリ内部の状況を報告してから次の会議までの運営方針について話し合う。話し合うと言っても基本的にはニーガンが指示を出すので、それに異議があるかどうかの確認だ。ニーガンの指示に意見を述べる者がいないので会議が滞ることはない。
一通りのことが決まるとニーガンは椅子の背もたれに背中を預けて全員の顔を見た。
「必要なことは全部話し終わったと思うが、何か話のある奴はいるか?」
ニーガンが最後にこう尋ねるのもいつものこと。「何もない」と全員が首を横に振れば会議は終わる。
しかし、今日は違う。リックが「提案したいことがある」と手を挙げたのだ。
誰にとっても予想外の展開にリック以外の幹部たちが顔を見合わせる中、ニーガンだけが落ちついた様子でリックに顔を向けた。
「いいね、民主主義っぽい。話してみろ。」
リックはニーガンに視線を定めたまま深く頷く。
そして緊張する自分を励ますように両手を軽く握ってから話を始める。
「サンクチュアリ自体の食料自給率を上げること、車やバイク以外での移動手段を持つことを提案したい。」
その言葉にニーガンがスッと目を細めた。それだけで背筋を冷や汗が伝うのを感じながらもリックが口を閉じることはない。
「ここの自給率は低すぎる。調達で得られる物資では全体を支えられるだけの量がないから徴収頼みなのが現状だ。もっと自給率を高めないといずれ苦しくなる。ここに畑を作ることはできなくてもプランター栽培はできるから、まずはそれから始めるべきだ。」
リックの提案に真っ先に反応したのはサイモンだ。サイモンは不快感を顕にリックを睨む。
「新人が偉そうなこと言うなよ。まだここの事情を理解しきれてないくせに何を言ってる?」
「自給率の低さは来たばかりの人間でもわかることだ。いいか、缶詰やレトルト食品のようなものは手に入らなくなる。新たに生み出されずに消費されるだけなんだからな。調達に出ても何も得られなくなる時は必ずやって来るんだ。そうなれば食料事情は一気に悪化する。」
「それなら徴収量を増やせばいい。」
「それをやったらどうなると思う?」
その質問に答えたのはサイモンではなくドワイトだ。ドワイトはテーブルを睨みながら腕を組む。
「徴収の負担が増えればそれに耐えられなくなるコミュニティーが出てくる。ペナルティーとして一人殺せば人手が減って更に厳しくなって、終いにはコミュニティーそのものが成り立たなくなるだろう。」
ドワイトの答えにはサイモンも反対意見が出てこないのか口を噤んだ。
「ドワイトの言う通りだ。徴収量を増やせばコミュニティーそのものを潰してしまいかねない。一つのコミュニティーが潰れたら他のコミュニティーの徴収量を増やさなければここが保たないが、そんなことをすれば潰れるコミュニティーが増えるだけだ。」
そう言うと今度はギャビンが「徴収量を変えなきゃいい」と反論する。リックはギャビンに顔を向けて首を横に振った。
「さっきも言ったが、徴収量を増やさなければここの物資が不足するんだ。救世主や労働者の不満は溜まるし、身分差が存在する以上は労働者に回る物資が減るのは避けられない。そうなれば飢えたり弱って死ぬ人間が出てくるだろう。もしかしたら不満を募らせた者同士が集まって反抗してくるかもしれない。それでは困るんじゃないか?」
リックの言葉にギャビンは俯いて黙り込んだ。
幹部の皆が考え込むように俯く中、ニーガンだけが真っ直ぐにリックを見据えていた。ただの一言もなく話を聞いている男の考えが読めず、緊張は募るが話を続ける。
「移動手段の問題も物資不足を招くことになる。車とバイクだけではガソリンが尽きると調達にも徴収にも行けなくなるぞ。代わりの移動手段を今から用意すべきだ。」
その問題に反応を示したのはレジーナで、彼女は困惑した様子で口を開く。
「車とバイク以外だと……馬ってこと?そんなものはここでは飼えない。」
「工夫は必要だし手間はかかるが飼育は可能だ。苦労してでも馬の飼育は必要なんだ。移動ができなくなればどうにもならない。」
「そうは言っても救世主たちがやるとは思えない。作物や馬の世話なんてものは労働者がやるようなことだから嫌がるに決まってる。どう考えても人手が足りない。」
レジーナの言葉に同意してサイモンとギャビンも大きく頷いた。ドワイトは頷きはしないものの渋い顔で考え込んでいる。
リックは軽く唇を噛み、全員の顔を見回しながら訴える。
「一番の問題はこのサンクチュアリで暮らす全員の考え方だ。奪うことや与えられることに慣れて自分たちで生産しようとしない。だが、それではこの世界で生きていけないんだ。自分たちで生産せずに消費するだけならいつか必ず物資は尽きる。そうなる前に手を打たなければ待ち受けているのは破滅だ。」
リックは今一度ニーガンに視線を定めた。視線を絡め、息を吐く。
「ニーガン、俺に腹が立って仕方ないというなら俺を殺せ。その覚悟はできてる。だが、この提案は絶対に間違っていない。」
そこまで言ってもニーガンは眉一つ動かさない。真剣な表情でリックを見据えたまま身動きしないのだ。
リックとニーガンが無言で見つめ合っている間、会議室は静寂に包まれた。一言も声を発することが許されないような緊張感が室内に充満している。
やがてニーガンがルシールを手に取って立ち上がり、ニーガンの近くに座っていたギャビンの肩が怯えたように跳ねた。
ニーガンはゆったりとした足取りでリックの隣に立つと感情の浮かばない目で見下ろしてくる。その目を見つめ返すリックは口元が緊張と恐怖で引きつっているのを自覚した。
「付いて来い。二人で話したい。」
ニーガンはリックにそう言ってから他の者たちに視線を向けてこう告げる。
「今すぐに答えは出さない。簡単に答えを出せる問題じゃないからな。お前たちも何が最善なのかを考えろ。今日は解散だ。」
解散を告げても誰一人として席を立たない。そのことには構わず部屋を出ていくニーガンの後をリックは慌てて追いかける。
ニーガンは長い脚を目一杯使って大股で歩くのでリックは後ろを付いていくだけで精一杯だ。
黒の革ジャケットが広がる背中を見つめながらニーガンが何を思っているか考える。
「お前のやり方ではだめだ」と言ったようなものなのだから怒っているのは間違いないだろう。それでも重大な問題だと受け止めて改善するように考えてくれるならばいい。
しかし、リックの意見を戯言として切り捨てられてしまえばお終いだ。嬲り殺されても仕方ないと覚悟しているが、提案内容について少しでも考えてもらえなければ意味がなくなってしまう。
リックは一瞬も振り返ることのない男の背中を見つめながら断頭台に立たされたような気分を味わっていた。
ニーガンが向かったのは彼自身の部屋だった。
二人揃って部屋に入るとニーガンはソファーに直行して勢い良く腰を下ろした。些か乱暴な仕草のニーガンからは強い怒りを感じる。この部屋に着くまでは感情を抑えていたのだろう。
リックはソファーには座らずニーガンの傍らに立った。見上げてくるニーガンからの刺すような視線を受け止めながら言葉を待つ。
「……俺のやり方を正面から否定するだけの度胸があるとは思わなかった。お前を見くびってたな。」
「ニーガン、俺は──」
「黙れ。」
ニーガンは威圧的に言ってきつく睨みつけてくる。リックは続きの言葉を飲み込んで拳を握った。
「俺が抱えてる住人は多い。お前の大事なアレクサンドリアやヒルトップとは比べ物にならないくらいの大人数だ。これだけの人数で暮らせる場所が他にあるか?ないね。野菜を育てられなくても家畜を飼えなくても、ここしか俺たちにはない!」
語気を強めるニーガンは怒りだけでなく苦悩も吐き出しているように思えた。リックはニーガンの気迫に圧倒されて何も言葉が出てこない。
「できもしない農業をやって、馬を飼って、それに人手を割いてどうする?俺たちの弱体化を狙ってるのか?」
「違う!」
「じゃあ、さっきのはお前が本当に思ってることか⁉あれで全部か⁉」
リックは憎い相手に向けるような目つきで自分を睨むニーガンを見て冷静になった。
今は自分が冷静に話をしなければならない。きちんと説明して納得してもらい、その上で考えてもらう必要があるのだ。
リックは身をかがめて自分がニーガンを見上げる姿勢を取り、穏やかな口調で「ニーガン、どうか聞いてくれ」と語りかける。
「あんたの言う通り、俺は本心を全て話したわけじゃない。本当のことを言えばアレクサンドリアやヒルトップを潰されたくないからさっきの提案をしたんだ。」
ニーガンは眉根を寄せて「どういう意味だ?」と尋ねる。
「サンクチュアリが潰れるなら他のコミュニティーが先に潰れる。なぜなら、ここが潰れるのは徴収ができなくなるからだ。物資を差し出してくれるコミュニティーが全部潰れてしまえば当然の流れだろう?」
「……その通りだ。」
「ニーガン、物資不足に陥れば徴収量を増やすのは避けられない。あんたが望んでいなくてもそうしなきゃここを維持できない。だが、そうすれば他のコミュニティーは潰れる。俺はそれを避けたい。アレクサンドリアやヒルトップ、他のコミュニティーを潰したくないんだ。」
「お前の仲間を守るためか?」
その問いを投げかけてくるニーガンの顔からは怒りが消えていた。落ちついた顔で見下ろしてくるニーガンにリックはしっかりと頷いた。
「ここにいても仲間を守るためにできることをやりたい。それがさっきの提案だ。だが、それだけじゃない。」
リックはニーガンから視線を外し、ここで暮らす人々の顔を思い浮かべる。
救世主たちを憎んできたが、少なくとも自分の部下たちは悪い人間ではなかった。生きるため、家族を守るために救世主として生きていくしかなかったのだと感じた。その思いに自分と何の違いがあるというのだろう?
それは労働者たちも同じだ。過酷な世界で生きるためにニーガンに従うことを選んだ彼らも大事な人を守るために必死に働いている。
リックは再び視線をニーガンに戻して苦笑いを浮かべた。
「自分でも嫌になるくらいにお人好しだと思うが、ここで暮らすみんなが苦しむのも嫌なんだ。特に労働者たちにしわ寄せがいくようなことは避けたい。」
その言葉にニーガンが呆れ顔で溜め息を吐いた。
「お前みたいな奴のことをバカって言うんだぞ。」
「そうだろうな。自分でもバカだと思う。」
「……だが、嫌いじゃない。」
ニーガンはボソリと呟くとリックの胸ぐらを掴んで自分の方へ引き寄せた。勢い良く引き寄せられてリックは倒れ込みそうになったが何とか堪え、間近でニーガンと目を合わせる。
ニーガンの目にあるのは真剣さだけだ。その目を美しいとリックは初めて思った。
「リック、俺はこの状況を変える。だからお前は知恵を出せ。泥だらけになって働け。その代わりに責任は俺が背負う。」
力強い言葉だった。その言葉に心が震えたのをリックは否定しようと思わない。
皆がこの男に跪いて従う気持ちを本当の意味で理解できたような気がした。その存在に安心感を抱き、力強く放たれる言葉に心を掴まれる。全てが崩壊して標のない世界においてニーガンほど心強く思える存在はいないだろう。
しかしニーガンにも今回のように迷い、悩み、苦しむ時がある。それでも進むべき道を見極め、決めたなら迷うことなく突き進む。その強さを持っているのがニーガンという男だ。
リックはニーガンの目を見ながら口元に笑みを浮かべる。
「わかった。全力でやる。」
「よし。じゃあ、早速会議を始めるぞ。そこに座れ。」
ニーガンはリックから手を離して向かいのソファーを指差した。
リックは立ち上がってソファーまで移動し、ニーガンの正面に座った。向かいにはリーダーの顔をしたニーガンがいる。
リックの提案は困難な道への案内状だ。絶対に成功するという保証はなく、失敗すれば全てが崩壊する。それでも挑戦しなければ破滅へ至る道から抜け出すことはできない。
それを理解したニーガンは全てを覚悟した上で責任は自分が背負うと言ったのだ。そのニーガンの覚悟に応えなければならない。
リックは背筋を伸ばして改めてニーガンと向かい合う。
目の前にいるのは仲間の敵であり、誰よりも憎い男。そして同時に誰よりも力を合わせていかなければならない相手だ。
(俺はできる。みんなを守るためにニーガンと協力するんだ)
リックは最初に話し合うべき事項を口にするために息を吸い込んだ。
*****
リックとニーガンは毎日二人でリックの提案したことについての話し合いを重ねた。
一度に全てを進めるのではなく段階的に行うことに決め、それぞれが調べたことを元に細かい部分を考えていく。
リックは刑務所に住んでいた頃にハーシェルから畑の運営や動物の飼育方法を学んでいてよかったと心から思った。それでも知識や経験は十分ではなく、サイモンがヒルトップの徴収に向かうのに同行してマギーに話を聞きに行った。
久しぶりに会うことができたマギーとサシャは再会を喜びながらもリックの訪問の理由を知ると表情を曇らせた。
「あいつが支配を続けるための手伝いをしろって言うの?」
「マギー、そうじゃない。サンクチュアリが倒れると周りを巻き込んで倒れることになる。アレクサンドリアやヒルトップを守るためなんだ。」
「それでもニーガンに協力はできない。ごめんなさい、リック。」
丁寧な説得を試みたが、マギーが首を縦に振ることはなかった。リックはそれ以上頼むのはやめて他の住人に軽く話を聞くだけにした。
農場で長く暮らし、ハーシェルの手伝いをしていたマギーに教えてほしいことはたくさんあったが、彼女の気持ちを優先することにした。夫を殺した相手に協力したくないと思うのは当然だからだ。
リックは徴収が終わるまでの間に農業に詳しい住人から話を聞いて回り、やがてサイモンに「帰るぞ」と呼ばれたので車に乗り込もうとする。
その時、トレーラーから出てきたサシャが「リック、待って!」と駆け寄ってきた。リックは車に乗るのをやめてサシャに近づく。
「サシャ、君にも悪いことをしたな。すまなかった。今回の件で話をしに来ることは二度とないから、マギーにも伝えておいてくれ。」
リックが謝るとサシャは小さく頷いてから封筒を差し出してきた。
サシャは首を傾げるリックの手に封筒を押し付けながら笑みを浮かべる。
「マギーからよ。それぞれの季節で種蒔きに適した野菜を思いつく限りまとめておいたって。それで勘弁してほしいと言ってた。」
リックは信じられない思いでサシャの顔を見つめ、次に手元の封筒に視線を落とす。
厚みのある封筒はマギーの優しさの表れだ。きっと、これを書くことさえ苦痛だったに違いない。それでも頼みを受け入れてくれたマギーへの感謝でリックは胸がいっぱいになった。
封筒を見つめたまま無言になったリックの肩をサシャの手が労るように擦る。それに導かれるように顔を上げれば柔らかな眼差しが注がれていることに気づく。
「これはニーガンのためじゃなくてリックのためにしたこと。マギーも私も、あなたのためにしたの。それを忘れないで。」
二人の優しさに目頭が熱くなるのを感じながらリックは深く頷き、「ありがとう」と感謝を口にした。
サシャはそれに頷き返してから背を向けてトレーラーに戻っていった。リックはその後ろ姿を見つめながら封筒を胸に押し当て、二人の優しさを無駄にしないと心に誓う。
このように必要な情報を集めながら計画を立てる一方で、ニーガンは幹部たちと話し合いをしていた。自給率を上げる計画を進めるためには幹部たちが指揮を執らなければならないが、その幹部たちが計画に納得して賛同しなければ上手くいかない。
ニーガンは幹部たちが不安に思う点や問題点として指摘されたことを解消できるように計画の一部を修正したり、話し合いの中でそれを解消していった。
最終的には幹部全員がこの計画に賛同して協力を約束したと知らされた時、リックは思わず安堵の息を漏らした。まだスタートラインにも立っていないが、これで一歩を踏み出すことができる。
そして遂に、サンクチュアリの現状を変えるための計画が完成した。
夏の気配がほとんど消えた頃、ニーガンはサンクチュアリで暮らす全員を集めた。
一階に集まった者たちの一人ひとりの顔をリックが階段上の通路から眺めているとその隣にニーガンが立った。ニーガンが現れたことに気づいた皆が次々に跪く様はリックには異様な光景にしか見えず、未だに慣れるものではない。
他の幹部たちはニーガンの一歩後ろに控えているためリックも後ろに下がろうとしたが、ニーガンに手首を掴まれて阻まれる。思わずニーガンの顔を見ると「隣にいろ」と視線で命令されたので大人しくその場に留まった。
ニーガンは支配者の笑みを浮かべながら一階に集まった者たちを見渡して演説を始める。
「忙しい中集まってくれたことに感謝するぞ。今日は大事な話がある。俺たちの未来に関することだ。」
ニーガンの勿体ぶった話し方に皆が顔を見合わせている。未来に関する話ということに戸惑っているのが見て取れた。
ざわつく気配を感じたニーガンが「まあ、聞けよ」と軽い口調で言うと瞬時に静まり返る。
「この場所は元々工場だったから農業には向かない。家畜を飼うのにも向かない。犬か猫ぐらいなら構わないだろうがな。だから野菜は作ってこなかったし牛だの馬だのも飼ってない。だが、本当はそれじゃだめだとずっと考えてきた。」
ニーガンはそこで言葉を切るとリックの肩に手を置いた。
「他のコミュニティーから来たリックに聞いてみた。『サンクチュアリの現状をどう思う?』って。リックは『自給率が低すぎる』と答えた。俺の感じていたことと同じだ。自分たちで生産しなければ必ず物資が足りなくなる、全員が飢えることになるってな。」
ニーガンは今回の演説の前にリックと幹部たちに「リックが発案者ということは伏せる」と話していた。リックを快く思わない者からの反発を防ぐためだ。
ニーガンはリックの肩をポンポンと叩いてから手を離し、笑みを消して言葉を続ける。
「きつい現実だが、敢えて教えてやろう。缶詰やレトルト食品なんかはそのうち見つからなくなる。なぜか?もう作ってないからだ。工場が動かなけりゃ新しい缶詰はできない。今の世界はそういう世界だ。そのうちに調達で何かを得るってのは期待できなくなる。」
ニーガンがそう言うとどこかから「徴収の量を増やせばいい」という声が飛んできた。一階にいる誰かだろう。
話の邪魔をされたことにニーガンの目に一瞬鋭さが宿ったが、すぐにそれを消して話を再開する。
「他のコミュニティーの徴収量を増やすのは手っ取り早い解決策だ。だが、徴収量を増やせば奴らの生活が苦しくなる。そうなると徴収にも影響が出るだろう。もし徴収ができなくなったら──俺たちは飢え死にして歩き回る死人の仲間入りをするしかない。」
低く響く声が浸透していくかのように人々はハッとした顔をする。
今の生活は続かない。何かを変えなければ破綻を迎えると多くの者が気づいたようだ。
「俺たちは次の段階へ行かなきゃならない時期なんだ。言い訳してないで生産しなきゃならない。徴収を完全にやめるわけにはいかないが、ある程度は自分たちで作っていく。そう決めた。後は移動手段もどうにかしないとな。その第一歩として──」
ニーガンはそこで言葉を切り、一人ひとりの顔を見るように視線を全体に巡らせた。その様子を全員が固唾を飲んで見守っている。
「プランター栽培を行う。それなら畑を作る必要がないから手を付けやすいだろ?まずはそれから始めよう。この責任者はリックだ。基本的にはリックの指示に従え。」
リックがプランター栽培の責任者だと発表された途端に全体がざわつき始めた。
リックがここに来て数ヶ月経つが、それでも新参者であることに変わりない。その新参者が重要な計画の責任者に任命されたことに驚くのは仕方ないだろう。
リックは自分に向けられる視線の中に殺気が混じっていることに気づいた。リックのことが気に入らない者は少なくないので今回の決定に不満を抱いているのかもしれない。
リックが小さく溜め息を吐く横でニーガンが「話の途中だぞ」と静かにするよう促す。
「こいつと一緒に作業する人間は野菜や果物を育てた経験のある奴にしたい。農業経験じゃなくて家庭菜園でも構わない。経験のある奴は話が終わった後に俺とリックのところへ来い。」
ニーガンがそう言った後、リックは「一つ言わせてほしい」とニーガンに頼んだ。
ニーガンが少し間を開けてから頷いたので、リックは一歩前に出て全体を見渡す。
「俺に協力したくない者もいると思うが、これは全員のために行うことだ。力を貸してほしい。ただ、無理にとは言わない。協力しても構わないと思えるようになったら力を貸してくれ。──頼む。」
リックは思いを込めて言葉を紡いだ。
強制してはどこかに必ず歪みが現れ、その歪みは致命傷になりかねない。だから「協力してもいい」と心から思った人間でなければならないのだ。
言い終えたリックは後ろに下がり、少し後ろからニーガンを見つめる。ニーガンはリックに一瞬だけ視線を向けてから再び一階を見下ろした。
「そういうわけだ。お前たちが協力的であることを願うぜ。さて、次は新しい移動手段についてだ。これは馬しかないよな。馬を捕まえてこなきゃならないが、その前に用意しなきゃならないものがある。何だと思う?」
ニーガンは勿体ぶった言い方をして体を反らせた。答えを待つような仕草だが誰も答えを返してこない。
ニーガンは「やれやれ」と大げさに肩を竦めると両手で手すりを掴んで覗き込むように皆を眺めた。
「答えは馬小屋!倉庫を片づけて馬小屋に改築する!それだけじゃ必要な数には足りないが、第一段階として進めるぞ。まずは倉庫の中の荷物の整理と資材集めを始めるから、調達に行く時は耳掃除をして指示を聞き漏らさないようにしろよ。」
そう言ってニーガンが幹部たちを振り返ると全員がしっかりと頷いた。
ニーガンはその様子を満足げに見遣ってから顔を正面に戻す。
「今話したのは第一段階だ。これを成功させたら農場を作ってもっと安定性を高めたい。……楽な作業じゃないぞ。時間もかかる。それでも全員のためにやらなきゃならない。俺たちが作る新しい世界のためにもな。」
ニーガンはゆっくりと顔を動かして全体を眺めた。自分の言葉が浸透したのか確かめるような姿だ。
救世主や労働者の中で戸惑っている者は少なくないようだが、その顔に悲壮感は見当たらなかった。明るい表情ややる気に溢れた表情を見せる者も多く、今後に期待できそうな雰囲気にリックは胸を撫で下ろす。
ニーガンの演説は見事だ。厳しい現実を突きつけながらも改善するための策をきちんと提示して未来への希望も匂わせる。甘い言葉ばかりよりも現実を理解させた上で今後の方針を示す方が人々は安心するものだ。それを考慮した演説だったとリックは感心するしかない。
リックが目を細めてニーガンを見つめていると、「それじゃあ解散」と言って演説を終えたニーガンが体ごとこちらを向いた。
「良い演説だったろ?」
得意げに胸を張るニーガンの言葉をリックは「ああ、良かった」と素直に認めた。そのことに驚いたニーガンは目を丸くして口笛を短く吹く。
「お前が俺を褒めるなんて珍しいな。」
「素直に認める時もあるさ。……俺も頑張らないと。」
リックは小さく呟きながら前に出て手すりを掴む。
階下にはそれぞれの仕事に戻る人々の姿があり、そんな人々と異なる動きをする者たちがいることに気づいた。こちらに視線を向けながら移動している者は恐らくリックとニーガンを目指しているのだろう。
いよいよ改革が始まるのだ。その実感と共に背筋が伸びるような心地がした。
ニーガンの演説の後に集まってきたのは救世主と労働者を合わせて二十名近くになった。
農業と家庭菜園の経験者だけでなく庭で花を育てていた者や全くの未経験者も手伝いを申し出てくれた。「みんなで生きていくためだから」と力を貸そうとしてくれる気持ちがリックは嬉しくて、何度も何度も感謝の言葉を述べた。
各自の仕事を調整してプランター栽培の作業を行うということでニーガンや幹部たちと打ち合わせを行い、早速明日から必要な道具の調達に向かうことになった。
「種は俺が事前に集めておいたから道具を優先して探そう。リストは明日渡す。」
リックが作業に加わる者たちに向けて告げると、ニーガンはリックの髪の毛をかき混ぜながらニカッと大きく笑う。
「調達の時についでに集めておいたらしいぞ。偉いだろ?」
ニーガンによってリックの髪はぐちゃぐちゃに乱れた。リックはそのことに溜め息を吐きたくなったが気にも留めていないという顔をする。
「……そういうわけだ。明日から本格的に動くことになる。これからよろしく頼む。何か質問があれば答えるが、どうだ?何もなければ解散で構わない。」
リックは少し様子を見たが質問が出る気配がなかったので「じゃあ、解散だ」と告げた。
それぞれの仕事に戻る皆を見送り、明日の準備をするために部屋に戻ろうとするとニーガンに呼び止められる。
ニーガンの顔に笑みはなかった。真剣な表情で見つめられ、リックは気持ちを引きしめて言葉を待つ。
「集まった奴ら全員がやる気のある連中であることを願うが、お前を憎んでたり鬱陶しく思ってる奴がいないとは限らない。注意しておけよ。」
「計画の失敗を狙うということか。」
「それもあるし、お前を殺すために近づこうとしたとも考えられるだろ。ここにはお前の敵もいるってことを忘れるな。俺は一日中お前に張り付いてるわけにいかないんでね。」
「わかってる。気をつける。」
「……リック、お前に任せれば多少厄介なことになるとは思ってる。それでも任せるのはお前の能力を買ってるからだ。お前なら何かアクシデントが起きても処理できるはずだってな。頼むから俺をがっかりさせるなよ。」
ニーガンは笑みを浮かべることなく言い終わり、ヒラヒラと手を振って去っていった。リックはその後ろ姿を見つめながらニーガンに言われたことを噛みしめる。
リックの存在を快く思わない者が少なくないのは確かなことであり、それが計画の足を引っ張る可能性はゼロではない。それを覚悟した上で任せたのだと言われてしまえば絶対に失敗はできない。
とんでもないプレッシャーをかけられたものだ、と溜め息が漏れた。
それでもリックは下を向かずに遠く離れたニーガンの背中を真っ直ぐに見つめ続ける。
必ず計画を成功させてみせる。そして次の段階へ進み、未来が少しでも明るくなるようにするのだ。
リックは自分自身と、そしてニーガンの背中に成功を誓った。
*****
プランター栽培が始まり、リックの日常は一気に忙しくなった。調達やウォーカーの駆除は今まで通りに行い、それ以外の時間をプランター栽培の作業に費やすからだ。
敷地内の至る所に並ぶプランターや鉢の世話を他の者たちと共に行うのはもちろん、各基地でもプランター栽培を始めたので様子を見に行くために出かけることも少なくない。各基地を回って生育状況を確認したり指導するのも大切な仕事だ。
馬小屋についてはニーガンと他の幹部たちがメインで進めているもののリックが関わらないわけにはいかない。資材の調達や管理に携わり、改築の打ち合わせにも参加している。手が空けば荷物の整理や運搬も手伝った。
サンクチュアリの改善計画を提案した者としての責任を果たす。その気持ちを強く持ったリックは毎日を全力で駆け抜けていた。
そんなある日、いつものように朝食を終えたリックは水やりをするために部屋を出る。
しかし、部屋の前に待ち構えるようにしてニーガンが立っていた。予想もしていなかった早朝からの訪問にリックは一瞬挨拶を忘れた。
「──っ、おはよう、ニーガン。」
それに対してニーガンは低い声で「よう、リック」と挨拶を返してきた。
ニーガンの眉は中央に寄って深くしわを刻んでいる。不機嫌というのがひと目でわかった。
何かしただろうか、と考えてみても何も浮かばない。
「お前、今からどこへ行くつもりだ?」
ありふれた質問を投げてきたニーガンの顔は不機嫌そのもので、声にまで不機嫌さを滲ませていることにリックは怯みそうになるが己を奮い立たせて答える。
「水やりに行こうと……」
「ふーん。で、今日は午前中から調達に出かけるんだったか?確か戻りは夕方の予定で。」
その予定で間違いないのでリックは頷いた。それを見たニーガンは苛立ったように溜め息を吐くとリックの手首を掴んで歩き始める。
突然引っ張られたのでリックの体はつんのめり、そのことについて文句を言いたくても勢い良く歩き続けるニーガンに付いていくので精一杯だ。
リックが連れて行かれたのはニーガンの部屋だった。部屋に入るとニーガンはリックの手首を乱暴に放し、ドアにもたれて睨みつけてくる。
リックはニーガンが何に怒っていて何をしようとしているのかがわからず顔をしかめた。
「一体、何なんだ?そこを退いてくれ。行かなきゃならない。」
リックがうんざりしたように言ってもニーガンは少しも動かない。それどころか眉間のしわが更に深くなったように見える。
「リック、ここ最近、半日でも休みを取ったか?俺の記憶だと最低でも二週間は休んでないはずだ。」
そう問われて思い返してみれば、きちんと休みを取ったのは数週間も前のことだ。最近は一日中予定が詰まっているので食事やシャワー、睡眠以外の全ての時間を仕事に費やしている。
それにより疲れが溜まっているので夕食とシャワーを終えるとすぐに眠ってしまうのだが、それはニーガンの部屋で過ごす夜も同じだ。ボードゲームを一回か二回遊んだだけでリックが眠気に耐えられなくなって早々と就寝になることが続いていた。
明らかに働きすぎている。そのことを今更自覚したリックは気まずさに俯いた。
「……きちんとした休みは取っていない。」
「スケジュール管理と体調管理ができてるとは言えない状況だな。お前は働きすぎが原因で死ぬつもりか?」
ニーガンが深く溜め息を吐いたのに釣られて視線を上げると呆れの眼差しが向けられる。
「しばらく様子を見てたが流石に口出しするぞ。夫としてじゃなくボスとしてな。お前が働きすぎてぶっ倒れたら迷惑だ。ガキじゃないんだから体調管理や仕事の調整ぐらい自分でやれ。」
リックは何も言い返せずに頷くことしかできない。
以前のように急に発熱で寝込んだりすれば他の者に迷惑がかかる。そのことを完全に失念していたとリックは反省した。
リックが「すまなかった」と謝ると怒りの滲む声で「謝罪はいらん」と返されたので思わず縮こまる。
「今日の調達はアラットにお前の代理をするよう指示してある。野菜の世話も話は付けてきた。今日一日、俺の部屋で過ごせ。見張っとかないと仕事しそうだ。」
「いい。自分の部屋で過ごす。」
リックは即座に拒否を示したが、ジロッと睨まれて口を閉じた。これ以上何か言うとますます機嫌を損ねてしまいそうだ。
ニーガンがソファーを指差したので「座れ」という意味だと理解し、リックは大人しく一人がけのソファーに腰を下ろした。
目の前のコーヒーテーブルには本が何冊も積まれている。見たところジャンルはいろいろあり、今までこの部屋で見かけたことのないそれらはリックのために用意されたのだとわかった。
リックは本に向けていた視線を傍らに立つニーガンへ向ける。
「暇潰し用の本だ。読書でもいいし、昼寝でもいい。今日はゆっくりしてろ。」
「……ありがとう。これからは休みを取るようにする。」
「優しい上司でよかったな。」
皮肉に対してリックは何も言い返さずに本を手に取る。ニーガンはそれを見てから背を向けて部屋を出ていった。
リーダーとしての仕事が忙しくないわけがないのに、わざわざ自分のために時間を割いたのだと思うと複雑な気持ちになる。そこまで見る余裕があることやリーダーとしての力量の差を感じて自身が情けなくなった。
それと同時に救世主やサンクチュアリの住人がニーガンを頼りにするのは無理もないと思えた。判断力も行動力も兼ね備えた人間に従いたくなるのは当然だ。皆は単純に恐怖だけで従っているわけではないのだろう。
そんな風にニーガンを好意的に見ている自分に気づき、リックは深々と溜め息を落とした。
──野菜や家畜に関すること以外の本を読むなんて久しぶりだ。
その思いは不思議な新鮮さを連れてきた。本を読むことは多いがその全ては野菜作りや家畜の飼い方についての本であり、息抜きではなく勉強のためだった。仕事とは全く関係のない娯楽本を読むことが新鮮に感じるのはそのためだろう。
ニーガンは仕事とリックの様子を見るために頻繁に部屋を出入りするが、そのことが気になったのは最初の一時間くらいのこと。ニーガンが書類に目を通そうが目の前で部下に指示を出していようがお構いなしにリックは読書に没頭する。
二冊目の本を読み始めて少し経った頃、ドアの開く音と共に食欲を唆る香りがリックの鼻をくすぐった。
美味しそうな香りに誘われて顔をドアの方に向ければトレーを持ったニーガンが立っていた。ニーガンが食事を乗せたトレーを持つというのがリックの中にある彼のイメージとかけ離れていたため驚きを隠せない。
「まさか、あんたが作ったのか?」
リックは驚きの余り、受け取り方によっては失礼とも取れるような質問を投げてしまう。
ニーガンはわざとらしく顔をしかめながらドアを閉めてソファーのところまでやって来た。
「俺が作っちゃ悪いか?まあ、これは作ってないけど。」
「あんたが食事を運んでくるのは初めてだから作ったのかと思ったんだ。料理は面倒臭がりそうなイメージがあったから、つい。」
リックが気まずそうに答えるとニーガンは鼻を鳴らす。
「一つ教えてやろう。俺は料理が得意だ。俺の手料理を食べたら旨すぎて腰抜かすぞ。」
ニーガンは自信を滲ませながら宣言し、コーヒーテーブルの上に料理の乗った皿を置いていく。料理と飲み物は二人分あった。
リックはコーヒーテーブルの上の本を隣のソファーに移動させ、ニーガンが料理を並べるのを手伝った。
トレーの上が空になるとニーガンは三人掛けのソファーに座ってその隣にトレーを置き、「旨そうだ」と手を擦り合わせる。
「俺が運んできてやったんだから早く食え。」
ニーガンはそう言って早速料理に手を付けた。リックも感謝を述べてからフォークを取って食べ始める。
リックは大きく口を開けて食べ進めるニーガンを見ながら「想像通りの大口だな」と心の中で感想を零す。その時、リックは自分たちが一緒に食事をするのが初めてだと気づいた。
リックがニーガンの部屋に泊まる夜は夕食後にシャワーを浴びてから部屋に行き、泊まった翌日の朝食は自室に戻ってからだ。昼食は各々の仕事の都合でバラバラで、そもそも一緒に昼食を食べる約束もしていない。夕食も同様だった。そのため、結婚してから半年近くになるというのに食事を取る姿を一度も見ていなかったのだ。
リックは奇妙な新鮮さを味わいながら食事を続ける。雑談を挟んでのランチタイムはゆっくりと時間が流れ、リックが食べ終わったのは救世主が午後の仕事のためにニーガンを呼びに来た頃だった。
ニーガンが部屋を出ていくとリックはテーブルの上の食器を集めてトレーに乗せ、読みかけの本を手に取る。
食事を終えた後にのんびりと読書していてもいいのだろうか?
そんな罪悪感が生まれたことにリックは思わず苦笑いを零した。本当に仕事中毒になりかけているのかもしれない。
リックは「今日は休日だぞ」と自身に言い聞かせてから本を開き、再び本の世界へ飛び込んでいく。
しかし、本の世界に浸る時間は短かった。食欲を満たした肉体が睡眠を欲しがるからだ。
徐々に重たくなる目蓋に逆らうことなく目を閉じれば不思議な心地良さに全身を包まれる。
穏やかな眠気に身を委ねたリックは頭が揺れる度に意識を取り戻した。それでもすぐに眠りに落ち、それを何度も繰り返す。いつの間にか本が手から滑り落ちていることに気づいたが、睡魔に抗えずに本の行方を探すことなく意識を手放す。
やがて近くに人の気配を感じ、それによって意識が覚醒した。
リックは眠気を完全に追い払うために目を擦る。それと同時に気配の方へ顔を向ければ傍に立つニーガンが静かにこちらを見下ろしていた。
「寝るなら本はテーブルにでも置いておけ。」
ニーガンはそう言いながら持っていた本をテーブルの上に置く。それはリックの読みかけの本だった。
「床に落ちてたか?すまない。」
「眠いならベッドを使え。頭がガクガク揺れて落っこちそうだったぞ。」
ニーガンはリックにベッドを勧めながらソファーに座って長い脚を組む。その様子を眺めながらリックは首を横に振る。
「ベッドで寝ると寝すぎてしまいそうだからいい。夜眠れなくなるのは困る。」
リックは欠伸を噛み殺しながら返事をした。
まだ眠気は残っているが今からもう一度眠ると夜に眠れなくなってしまいそうだ。それは困るのでベッドで昼寝をしたい気持ちを堪え、魅力的な提案を断った。それに対してニーガンは「そうか」とだけ言ってそれ以上は何も言わなかった。
リックはニーガンが報告書や資料などを持っていないことに気づき、「仕事は済んだのか?」と尋ねた。それに対する答えとしてニーガンが頷く。
「ああ。指示は出してきたから俺の今日の仕事は終わりだ。のんびりさせてもらうぜ。」
「じゃあ、俺は部屋に戻った方が良さそうだな。」
リックが腰を浮かせるとニーガンは「ここにいろ」と眉を寄せた。
「今日は俺の部屋で過ごせと言ったはずだ。今夜は食事もここで済ませろ。」
リックはニーガンの言葉に呆れはしたが反論はしなかった。
今更仕事をしようだなんて思わない。そんなことをすればニーガンの機嫌を損ねて厄介なことになると理解しており、休息を削ってはならないと反省したばかりだ。
しかし、これまでの行動を振り返れば仕事をしそうだと思われても仕方がない。ここは大人しくニーガンに従っておくべきだろう。
リックが素直に頷くとニーガンは「それでいい」と頷き返した。それで話は終わったはずだが、ニーガンはリックから目を離さない。真剣さの漂うニーガンは何か話がありそうに見えたのでリックは黙ってニーガンの言葉を待つ。
ニーガンは改まったように膝の上で手を組み、少し渋い表情をしながら口を開く。
「リック、もう少し周りの人間の使い方を覚えろ。全くできてないとは言わないが、何でもかんでも自分でやり過ぎだ。ある程度は部下に任せて様子を見ながら指示を出すのが上に立つ人間の仕事だぞ。」
「それはわかるが、俺は自分でもやりたいんだ。指示役としての仕事をしながら他のみんなと一緒に動きたい。」
「お前はバカか?そんなことしてるから休む暇がなくなるんだろうが。しばらくプランター栽培の方は指示を出すだけにしておけ。」
「断る。」
リックが間髪入れずに拒否を示すとニーガンの眉間に刻まれたしわが深くなった。
ニーガンはリーダーとして部下であるリックに指導をしているのだ。そのことはリックも理解しているが、ニーガンの示したやり方は肌に合わない。
リックは一つ深呼吸してから「聞いてくれ」と思いを語り始める。
「俺は誰かに任せるより自分で動きたいタイプだ。今までもいろんなことを率先してやってきた。もちろん仲間を信頼して任せることも多いが、人に任せて自分は見守るだけなんてことはできない。これは性分みたいなものなんだ。」
「だが、そのせいでお前が休みを取ろうとしなかったのは事実だろ。俺はここを管理する人間としてお前の働き方を認められない。」
「それは反省してる。……必死になりすぎていたんだと思う。成功させないと何も変えられない、守れない。そう考えて一人で焦っていたと気づいた。」
作物を育てるには根気が必要だ。「すぐに結果が出るものではないから気長に辛抱強く見守らなければならない」とハーシェルから教わった。それは他のことも同じだとも言われていた。それなのにプレッシャーと焦りから彼の教えが頭から抜け落ちていた。
リックの弁を聞いたニーガンは大きな溜め息を吐いた後、呆れ顔を見せながら頭をガシガシとかく。
「ここの食料が一日や二日で尽きるわけないだろうが。まだ猶予はある。勝手に焦ってんじゃねぇよ。それに、尽きる前に対策するのが俺の仕事だ。お前はプランター栽培を軌道に乗せることに集中しろ。」
表情と同じく呆れたような口調ではあったが、ニーガンの言葉はとても頼もしかった。わかりきったことであってもリーダーの口から聞くのは安心感がある。
リックは微かに笑みを浮かべて「ありがとう」という言葉を口にした。
一人で焦って脇目も振らずに仕事をしたが、プランター栽培の責任者である自分が過労で倒れてしまっては責任を果たすことはできない。自分と周囲の状況を冷静に見つめて判断し、それによって的確な指示を出すのがリックの担う責任だ。
落ちついた時間を過ごしたことによって自分を見つめ直した今なら自分や他の者へ適切に仕事を割り振ることができる。リックはそう確信している。
「これからは適切に仕事を割り振る。休みを取らない、なんてことはしないと約束する。倒れたりなんかせずにプランター栽培を成功させることが俺の責任だから。だから信用してほしい。」
リックは顔をしかめるニーガンの目を見つめて心の底から頼んだ。
ニーガンは口を引き結んだまま黙り込んでいたが、やがて「わかったよ」と溜め息混じりに呟いた。
そして組んでいた手を解き、両腕を背もたれに乗せながらソファーに深く座り直す。
「泥だらけになって働けと言ったのは俺だからな。ただし、泥だらけになるのは程々にしておけよ。」
「わかってる。自分の管理は自分できちんとする。」
「頼むぜ?本当にお前は頑固野郎だ、リック。」
そう言ってニーガンはようやく笑みを浮かべる。
その笑みを見つめながらリックはリーダーとしてのニーガンを認めざるを得ないと感じていた。
部下の動向を観察して状態を把握し、必要であれば助言や指導を行うのもリーダーの大切な仕事。今回のことは模範的とも言えるだろう。日頃から的確に指示を出す姿に感嘆していたが、「ニーガンは誰よりもリーダーに相応しい」と強く感じさせられた。
悔しいが勝てない、とリックは小さく苦笑いを口の端に乗せる。
しかし、それは不快な悔しさではなかった。今浮かべている苦笑はそのことに対するものでもあった。
ニーガンの「今夜は食事もここで済ませろ」という言葉は本気だったようで、部屋に二人分の食事が運ばれてきた。
今夜のメインはウサギの香草焼き。それに合わせて赤ワインが注がれたワイングラスも並べられたことにリックは目を丸くする。
ワイングラスを凝視するリックを見てニーガンは面白がるように笑った。
「ワインなんて珍しいものじゃないだろ?ディナーには料理に合わせた酒が欠かせない。」
リックは視線をワイングラスからニーガンに移して質問する。
「もしかして毎日酒を出させてるのか?」
半分答えのわかったような質問をぶつけてみれば予想通りに「当然だ」という言葉が返ってきた。
救世主の中には酒を入手して飲んでいる者もいるが、大量に手に入れられるわけではないので毎日ワイングラス一杯分の量を飲むのは難しい。この世界でそれができるのはニーガンくらいのものだろう。
まさに権力者のお楽しみだ、とリックが呆れの眼差しを向けてもニーガンは一向に気にした様子がない。
ニーガンはワイングラスを持ち、リックにもワイングラスを手に取るように視線で告げてきた。リックはそれに従って自分に用意されたワイングラスを持つ。
「素敵な休日に乾杯。……と言っても休みなのはお前だけで俺は違ったけどな。」
ニーガンはそう言って笑い、ワイングラスを向けてきた。それに応えるようにリックがワイングラスを差し出すとグラス同士のぶつかる音が響く。
リックはニーガンがワインを飲む様子を見てからワイングラスに口を付けた。少し傾けて中の液体を口内に迎え入れると豊かな香りが広がり、思わず感嘆の息が漏れる。ワインというよりも酒を味わうこと自体が久しぶりなため、今まで飲んだどの酒よりも美味しく感じられた。
ニーガンとの二度目の食事も穏やかに進む。ニーガンから提供される話題の半分は上品とは言えなかったが、食事を途中で放棄するほどのものではない。
皿の上の料理が残り少なくなってきた頃、リックは不意にニーガンに質問してみたくなった。酔うほどではないとはいえアルコールを摂取したことにより気が緩んでいるのかもしれない。その自覚もないままにリックはおもむろに口を開く。
「なあ、ニーガン。あんたは──どうしてリーダーをやっているんだ?」
その質問にニーガンは食事をする手を止めてリックに視線を定めた。珍しく驚きを覗かせた顔が意外にも幼いことはリックにとって発見だった。
ニーガンが無防備な表情を見せたのも一瞬のことで、すぐにいつものシニカルな笑みに戻る。
「珍しいな、お前が俺のことを知りたがるなんて。……答えとしては、誰かが導いてやらないと野垂れ死ぬ奴らが多いからだ。それなら俺がリーダーになって救ってやろうと思った。そんなところだな。」
ニーガンはフォークを置いてワイングラスに手を伸ばす。中身の少なくなったそれを揺すれば液体が波打った。
リックは両手を膝の上に起き、ワイングラスに視線を落とすニーガンの顔をじっと見つめて次の言葉を待つ。些細な表情の変化も見逃したくなかった。
「今の世界は原始時代に近いと言ってもいい。弱い奴はすぐに死ぬ。だから強い奴が守ってやらなきゃならないが、強い奴は力に酔って暴走しやすい。誰かがルールを決めて監視しないと何もかもメチャクチャにしやがる。」
「その『誰か』があんたというわけか。」
ニーガンはリックの言葉に「そうだ」と頷いて薄い笑みを浮かべる。
「ニーガンは横暴で残虐な人間。お前も含めてそう思ってる奴らが多いのは知ってる。だがな、秩序もクソもない世界で守りたいものを守るには手段を選んでる場合じゃない。お前もそうだろう、リック。」
ニーガンはリックの名前を口にすると同時に顔をこちらに向けてきた。
射抜くような眼差しにリックの心臓が緊張で跳ねる。
「やられる前にやる。それは間違いじゃない。この世界で生き抜くための方法の一つだ。人材を無駄にするのは反対だが、お前たちが奇襲をかけることを選んだのはわからなくもない。ただ、お前たちは相手が悪かった。それだけのことだ。」
ニーガンはワインを一気に飲み干す。その様子を眺めながらリックは複雑な思いを抱いていた。
基地を襲ったことをそれほど否定的に受け止められていないとは考えてもみなかった。自分の部下を大勢殺されたというのにリックたちを憎むどころか、その事実を淡々と受け入れている。
ニーガンは部下を喪った悲しみを感じないのだろうか?
リックは思わず「部下を殺されて悲しくないのか?」と疑問を口にした。
それに対してニーガンは首を横に振る。
「何も感じないわけじゃない。人間だからな。それでも俺はリーダーだ。すぐに気持ちを切り替えて部下に指示を出さなきゃならない。だから引きずることはない。」
はっきりと言いきったニーガンに対してリックは悲しみを覚えた。
ニーガンという男は自身に対して部下を悼むことさえ許さないのだ。「リーダーとして皆を守るために常に強くあらねばならない」と自分を律しているように思えて、そのことがひどく憐れに感じられた。
きっとニーガンの言葉は大きなコミュニティーの長としては正しい。では、ニーガン個人の感情はどこへ行ったのだろう?
リックは膝の上で拳を作って目を伏せる。
「俺はあんたみたいにはできない。仲間を喪えば悲しいし、その悲しみに囚われもする。個人としての感情を殺してリーダーになりきるのは難しい。」
「そうだろうな。お前は冷静に見えて感情に左右されやすい。リーダーを演じることで冷静さを装ってるだけだ。」
「……リーダーに向いてない自覚はあるさ。」
「お前をリーダーにしなきゃならなかったんだからアレクサンドリアはかなりの人材難だな。」
そう言って笑うニーガンにリックは緩く頭を振った。
「一人、いたんだ。元々議員だったから人の上に立つことに慣れていて、町を守るためにできることを誰よりも考えていて……俺は彼女を支えていきたいと思った。」
リックの脳裏にはディアナの顔が浮かんでいた。
始めのうちは彼女の考え方の甘さに「これではだめだ」と溜め息を吐きたくなったが、世界の過酷さを受け入れた後の彼女は誰よりもリーダーとして相応しかった。その彼女を補佐していきたいと思ったのにウォーカーから彼女を守りきることができなかった。あの時の苦味や胸の痛みを今でも覚えている。
リックは苦笑しながらニーガンを見た。
「だが、俺は彼女を守れなかった。自分を情けなく思ったさ。それでもリーダーであることを仲間から求められるならやるしかない。」
リックはニーガンの目を見つめながらあることを思う。
「ニーガン、俺たちは随分と違うな。」
リーダーになった理由。
リーダーとしてのあり方。
人々を守るための方法。
先頭に立って仲間を導く役割を担ったのは同じなのに、その中身は余りにも異なる。
結果だけを見ればリックはリーダーとして失敗し、ニーガンはリーダーとして成功したと言えるだろう。だからといってリックがニーガンと同じようにしていれば上手くいったかどうかは不明だ。
リックは「変なことを言ってすまない」と小さく笑みを浮かべて食事を再開しようとフォークに手を伸ばした。
その時ニーガンから真剣な声音で「おい、リック」と呼びかけられて手を止める。
「俺たちはかなり違うが共有できるものもあるだろ。お前はリーダーの責任の重さを理解してる。俺の責任の重さを理解できるのはお前一人だけだ。だからこそお前は俺の支えになると期待してる。」
ニーガンの真っ直ぐな言葉と真摯な眼差しにリックは息を呑む。
ニーガンが自分を必要としていることが強く伝わってきて、困惑するのと同時に胸に熱いものが広がっていくのを感じる。
もしかしたらニーガンも責任の重さに苦しむことがあるのかもしれない。誰にも打ち明けられない苦しさに一人で耐えてきたのかもしれない。そんな風に考えてしまえば「嫌だ」と首を横に振ることはできなかった。
何を言えばいいのか迷って黙り込むリックを気にすることなくニーガンは言葉を重ねる。
「お前が示したサンクチュアリの課題とその改善策はいずれ俺が考えなきゃならないことだった。それをお前から言われた瞬間は腹が立ったが──嬉しかった。難しいことを一緒に考える相手がいるってな。俺はきっと、そういう存在がずっと欲しかったんだ。」
そう話すニーガンの表情は柔らかかった。初めて見る表情に戸惑い、リックは落ちつきなく視線を彷徨わせる。
「他の幹部たちがいるだろう。俺でいいのか?」
「リック、お前しかいない。だからお前は俺を支えろ。」
からかうような口調ではなかった。その言葉に嘘は一つもないだろう。
狡い男だ、とリックは溜め息を吐きたくなった。
普段は軽薄で皮肉屋でこちらを振り回すようなことばかり言う癖に、こんなことを真剣に言うだなんて狡いとしか言いようがない。
リックは自分がニーガンを以前のように憎めなくなっていることに気づいていた。たまに顔を合わせる程度では知ることのなかったニーガンの姿を知る度に彼に対して抱く感情が変化していくのだ。
自分と仲間たちとではニーガンへの憎しみに大きな違いがある。
そのことを改めて突きつけられて罪悪感が胸に突き刺さった。それでもリックはニーガンに向かって頷く。頷きながら「ニーガンを支えるのは仲間たちを守るためだ」と自分を納得させた。
しかし、ニーガンを支えようと思う気持ちが仲間たちのためだけではないと一番理解しているのはリック自身だ。
*****
今年の冬は嫌になるくらいに寒さが厳しい。
その愚痴のような言葉をサンクチュアリの住人が零すのをリックは何度も耳にした。
外での作業は低い気温と冷たい風が体を徹底的に冷やそうとし、建物内にいても滲み出るような冷気がじわじわと攻めてくる。暖かいのはニーガンの部屋と彼の妻たちの過ごす部屋くらいのものだろう。
調達やウォーカーの駆除などは基本的に動き回るので体が温まりやすいが、プランター栽培で育てている野菜の世話はそうはいかない。手元の作業がほとんどであり移動が少ないので体が冷えやすかった。
それでも世話をサボったり手を抜く者はいない。白い息を吐いて鼻の頭を赤くしながらも懸命に作業する皆を見てリックはいつも目を細めていた。
そんな苦労が今日ようやく報われた。何種類か育てている野菜のうちの一つであるカブを収穫したのだ。この日を誰もが心待ちにしていたためカブを収穫する皆の表情は明るかった。
他に育てている野菜の収穫も間もなくだ。試行錯誤のプランター栽培はとりあえず上手くいっている。
リックは数個のカブをかごに入れて会議室を目指す。今日は各基地の責任者が集まって打ち合わせをする日なので、今頃ニーガンは会議室にいるだろう。
リックはニーガンに収穫したばかりのカブを見せたかった。計画はまだまだ初期段階だが、その第一歩が上手くいっていることを知らせたかった。その気持ちが背中を押すかのようにリックの足は速くなる。
会議室の前に到着するとドアに耳を近づけて中の様子を窺う。話の内容を聞いてまだ会議中だと判断し、会議が終わるのを部屋の前で待つことにした。
かごの中にあるカブを見下ろすと頬が緩む。初めて自分で育てた野菜を収穫した時と同じくらいに嬉しくて、その喜びをじっくりと噛みしめる。
収穫の後、一緒にプランター栽培を行っている者たちから「もっとプランターを増やそう」という提案が持ち上がったことを思い出してリックは更に笑みを深めた。皆は少し前からプランター栽培の拡大を考えており、物を片づけて場所を用意していたそうだ。ニーガンに許可を取らなければならないが、きっと許可してくれるはず。
どこか浮き立つような気持ちで待っているとドアが開いて最初にニーガンが姿を見せた。ニーガンはリックを見て驚いたように目を丸くする。
「ニーガン、少し構わないか?ほんの少し時間をくれるだけでいいんだが。」
ニーガンが口を開く前に尋ねるとニーガンは小さく笑いながら頷き、再び部屋の中に戻っていく。ニーガンが部下たちに「もう出ていっていいぞ」と言う声が聞こえて間もなく救世主たちが部屋から出てきた。
リックは救世主たちが部屋から出ていくのを待ってから部屋に入り、テーブルに浅く腰かけるニーガンの前に立ってかごを差し出す。
「これ、さっき収穫したんだ。見てくれ。」
ニーガンはかごを受け取ってカブを観察し始めた。
ニーガンがカブを手に取ってじっくりと眺める様子をリックは黙って見守る。少しの緊張と期待が鼓動を速めた。
やがてニーガンは顔を上げた。その顔に笑みが浮かんでいるのを見てリックの顔にも笑みが広がる。
「なかなか良いカブだな。とりあえず上手くいったってわけか。」
「ああ。他の野菜ももうすぐ収穫できる。ここの住人たちの食料を賄うには全然足りないが連作できるものも育てているし、少しずつでも収穫量が増えるように工夫するつもりだ。」
「それなら新しい道具がいるんじゃないか?何が欲しいか言えば調達リストに加えておくぞ。」
「いや、大丈夫だ。それとは別で、プランターを置く場所を増やしたい。みんなから『プランターを増やそう』と提案があった。物を片づけて場所は空けておいてくれたんだが、あんたの許可が欲しい。後で場所を案内するから考えてくれないか?」
「そういうことなら今から行くぞ。時間はあるんだろ?」
ニーガンはそう言うと立ち上がってドアの方に向かった。さっさと部屋を出ていくニーガンをリックは慌てて追いかける。
先を歩くニーガンに追いつくと隣に並んで横顔に視線を向けた。それに気づいたニーガンは視線だけを寄越してニンマリと笑った。
「新しい栽培場所を見た後は調理場に直行だ。今日のランチは俺が旨いカブ料理を作ってやる。お前にだけ特別に食わせてやるから感謝しろよ。」
その言葉にリックは目を見開いた。
「手料理を食べさせてやる」という言葉は冗談ではないだろう。その判断ができる程度にはニーガンのことを理解しているつもりだ。思いついた楽しそうなことを実践しようというだけなのだともわかっている。
しかし、リックには「手料理を振る舞う」という行為が自分たちにとっては親しすぎる行為ではないかと思えた。
リックとニーガンは各々の利益のために婚姻関係を結んだのであり、そこに情は一切なかった。一応は夫婦だからといって距離を縮めるつもりはなく、実質的には上司と部下でしかない。
それなのに二人の距離は近すぎる。ニーガンから向けられているのは紛れもなく親しみだ。
リックは自分たちの距離が近づいていくことに躊躇いを覚える。相手の仲間を殺した者同士でありながら胸の内に秘めたものを共有し、共感し、親しみを感じることが罪のように感じられた。
そのようにリックが葛藤しているとニーガンが不思議そうに「リック?」と顔を覗き込んでくる。その顔を見つめながらリックは考えた。
もし手料理を辞退すれば、この男の表情は曇るのだろうか?
その疑問が浮かんだ瞬間に考えるよりも先に口が開いた。
「あんたの手料理は腰が抜けるほど旨いんだったな。本当なのか試そう。」
楽しそうな表情を曇らせたくないと思う気持ちが躊躇いを上回り、リックは微笑を浮かべて返事をした。
その返事を気に入ったのか、ニーガンは満面の笑みを返してくる。
「もし腰が抜けて立てなくなっても心配するな。担いで部屋まで送ってやる。」
大きく口を開けて笑う男を見上げながらリックは自身に向けて苦笑する。
いつの間にこんなにも絆されてしまったのかと頭を抱えたくなっても既に遅い。この穏やかな空気を壊したくないと思う程度にはニーガンに情が移ってしまっている。
リックの中にあるニーガンへの憎しみと怒りが以前よりも鈍ったことは否定しようがない。ニーガンがそれを狙っていたのかはわからないが、そういった意味で考えればこの政略結婚はニーガンに大きな利益をもたらしたと言える。
(どう足掻いても敵わない、か)
リックがぼんやり考えていると突然髪の毛をニーガンの手にかき混ぜられた。
「お、おい!何するんだ⁉」
ニーガンはリックの髪の毛を思いきりぐちゃぐちゃにしてから手を離した。リックが睨むと同じように睨み返される。
「お前が間抜けな顔して歩いてるのが悪いんだろうが。早く案内しろ。」
「悪かった。」
場所を案内すると言ったのは自分なのにぼんやりしていてはいけない。リックは「こっちだ」と案内を始めながら乱れた髪を直した。
そういえば先程のような気安い接し方も当たり前になった気がする。
そのことに今更気づいたが、リックは目をつぶっておくことにした。
To be continued.