サイター小ネタログ1■無題(サイードとターヒルとファルーク)
面倒ごとは嫌いだ。そんなものは金なり権力なりで他所へ押し付けて、ただ気楽に、そして死ぬまで遊んで暮らせればそれで良い。そんなふうにこれまで生きてきた自分が言うのも可笑しな話かもしれないが、いかに暇と金を持て余した富豪の男とはいえ今回の気紛れは正直なところ酔狂に過ぎる。──ほかならぬ自身の命を狙った狂犬を、あろうことか手元に置いて飼いはじめるとは。
「俺はお前を認めたつもりはない」
ひとけのない、石造りの廊下に、獣のような低い声がひそやかに落ちる。鋭くみがかれたダガーの冷たい刀身が、ひたり、と首筋へふれた。
「お前がいまのお前で居続ければ、いつか民に喉を裂かれるぞ」
正面には新顔の番犬。背後には壁。周囲に護衛たちの姿はなく、外の灼けつくような日差しも届かない。それでも大声を出せば誰かが駆けつけて来るだろうが、そうする気にはなれなかった。一瞬でもほかへ気をやれば喉笛に喰らいつかれるような、張り詰めた空気が体に纏わりついている。
「その前にお前が死ぬと言ったら?」
この屋敷も財産も雇っている人間も、いずれはすべてが自分のものになるのだから、あの男のものであるこの番犬も自分のもので、生殺与奪の権利があるのはこちらなのだ。そのことをまるでわかっていないらしい男は、こうして脅しをかけても眉ひとつ動かさない。
「俺が死んだところで、結果は同じだ」
「……なんだと?」
「いまここで俺が死んでも、俺のような民が消えたわけではない。次の俺、その次の俺が、いつかお前を殺すだろう」
薄茶色の瞳が、すうと細められる。淡々と紡ぐ男の双眸は自身の死すら冷淡に見据えていて、男の握る刃の硬質さとよく似ていた。
「親父殿や俺を殺しただけで、この国が変わると本気で思ってるのか。お前、相当な馬鹿者だな」
「…………?」
世直しなどとこの男が大真面目にのたまっているのはただの綺麗事でしかなく、実際なんの足しにもなりはしない。そう遠回しに揶揄してやると、男の瞳がはじめて淡く疑問を湛えて揺れた。人の言葉がわからぬ赤子のような顔だった。いまになって、ぞくりと背筋に震えが疾る。この男は、ひとのかたちをした獣だと、本能が告げていた。
「なにもせず死ぬだけなら、はじめから死んでいたのと同じだ」
それだけ答えて興醒めしたように息をついた男が、鷹揚に刃を下げた。乾いた鞘鳴りの音を耳の裏に残して、踵を返して去っていく。その後ろ姿を呆けたように見送ってから、男の言葉の意味を咀嚼して、横にある壁に拳を打ちつけた。
「親父殿、どうしてあれをここに置いておくんだ」
「あれ、とは?」
「分かっているんだろう。あの新入りだ」
首筋に刃の感触を残したまま、屋敷の主人である男の自室の戸を叩く。開口一番投げた問いは、水煙草の煙に包まれ勢いを失った。
「なぜかと言われれば、腕が立つからだが……その顔だと、噛みつかれでもしたんだろう」
「…………」
「あの男は刃物と同じだ。鋭いぶん、扱いかたを知らずに手を出すと痛い目を見る」
水煙草をくゆらせながら、静かな視線が向けられる。
「まあ、その前に使う相手を選ぶ気難しい刃物だが。いまのままだと、お前に扱われるつもりはないらしい」
「……どうしろっていうんだよ、親父殿」
「そうでなくなればいいだけの話だ。サニヤと出会って、私が変わったようにな」
ゆるやかに立ち上る煙の向こうで、男が愉しげに笑った。
***
20160810Wed.//20170902Sat.
■蜃気楼を屠る
肺に溜まる、錆びた鉄の匂いに吐き気がした。馴染みの富豪の屋敷にあつらえられた私室の床に血溜まりめいた朱を落とす斜陽を忌々しく視界の端に捉えながら、生々しい血臭を纏いつかせた男を人目につかない寝所に引きずり込む。厚く逞しい体を突き倒すようにして寝具に仰向けに組み敷けば、変わらず淡々とした双眸がサイードを射返した。この状況に身を置くことが初めてではないにしても、さほどの動揺も浮かべぬまま、ひそやかな警戒を解かずにいる瞳が腹立たしい。舌打ちをひとつして、見た目には汚れのない上衣の裾から指先を差し入れて素肌をまさぐると、手のひらがざらついた感触に行き当たる。
替えられた衣類の下、男の熱い膚のそこかしこに巻かれた包帯に滲む染みは、鮮やかさを失い赤黒く凝りはじめている。
「なんだ、このざまは」
組み敷いたまま低く問い詰めると、ようやく男の瞳に不快の色が閃く。お前には関係のない話だ、と、獣の唸り声が耳朶を打った。
「あの女には手当てをさせるくせに、主人には関係がないだと?」
吐き捨てるように言いながら、赤黒い血痕の、もっとも染みが濃い場所に爪を立てる。男の眉尻が一瞬小さく跳ねたが、漏れるはずの苦鳴は喉の奥で噛み殺されて音にはならなかった。相変わらず強情な男だ。背に傷がないことはあの女――サニヤに聞いていたけれども、いまはそれすら腹立たしく感じられてどうしようもなかった。
「どうして逃げなかった」
この男がファルークの側付きの番犬であったころから数えても、外敵にここまで深い手傷を負わされてきたことはない。あとわずか踏み越えれば死んでいたかもしれないと、そう声を震わせた女の表情は真剣だった。
「あの場で殺す必要があったからだ」
死にかけたはずだというのに、問いに答える声は淀みない。
退くことを知らぬ男ではない。ただ、目的のために死ぬことを躊躇わないだけだ。サイードとて、その程度は知っている。知っているからこそ、身のうちの激情の行き場が見つからない。
「いまのお前には、俺の生き死に以外は関係ない。生きていればお前の刃で、死んでいればただの過去。……それだけだ」
「……ッ、」
「違うか」
是以外を認めるつもりのない、獣の牙に似たするどい声だった。体勢の有利を得ているのは間違いなくこちらだというのに、息が詰まるような胸苦しさを覚える。
たしかに、この男の言うとおりだ。自分とこの男は、あるじと刃であって、それ以上でも、以下でもない。その関係を違えぬと決めたがゆえに、いまこの獣はサイードに腹の上を明け渡している。
「なにを、いまさら」
一瞬か、数瞬か。喉元にまで迫り上がりかけた激情を呑み込んでそう答えれば、ようやく男の長躯が弛緩する。上半身に触れていた指先を下肢へと滑らせて直截に刺激すると、かさついた唇から熱を帯びた呼気が漏れた。
死と対峙した男に纏わりつく生存本能の高揚を、自らの手で吐き出させることでしか屠れないこの感情に、――それでも、名前はない。
***
20170412Wed.
■月夜の獣(誰かとサイードとターヒル)
享楽主義の放蕩王子。無礼講の宴席にしかろくに姿を現さず、陰ながらそう評されていた青年が、このところ国王の代理として商談や権力者との社交の場に出てくるようになったという。以前ひとつふたつ言葉を交わした折りにはそういった向きへの関心は随分と薄かったように見受けられたが、さてこれは一体どういう風の吹き回しか。ひそかな好奇心混じりに取り付けた商いの場に現れたのは、噂通り、件の青年だった。
「今日持ってきた品はこれで全部か?」
豪奢な飾り彫りの為された机の向こうから、鷹揚な声が飛んでくる。恭しく頷いてみせると、青年の直截な眼差しが机上にところ狭しと並ぶ鋳物をゆっくりと睥睨した。
「……まあ、悪くはないらしい」
「恐悦至極に存じます」
満足げな反応も道理というもので、なにせ今日は食器から武具まで高名な職人の手掛けた品ばかりを揃えて来た。王冠を戴く一族を相手取って生半な品など呈せば、信用や矜持どころか命にまで関わりかねない。それでもなお、その危険を超えて余りある利益の蜜を、この相手は持っているのだ。
すいと動いた青年の指先が、並んだ品々のうちのひとつであるダガーナイフにのばされる。優美な弧を描く大振りの刃は鋭い光を湛え、持ち手や鍔には精緻な装飾や宝石が嵌め込まれている。武具としても、美術品としても価値のある逸品だ。手にとって値踏みするように動く視線が品から離れたのを見計らって説明の口上を述べようとすると、先に青年が口を開いた。「おい」
「これはどうだ」
傲慢な、それでいてどこかくだけた調子の声。振り返りもせぬままのそれに、若干の間を置いて応じたのは、青年の背後に黙して控えていた護衛の男だった。男は呼びつけられるまま青年のそばへ寄り、その手にあるダガーナイフを一瞥する。
「悪くない品だが、お前が持つには少しばかり華美すぎるか」
「……わかっているなら呼ぶな」
あるじに呼びつけられたにも関わらず、それだけ答えて視線を逸らした男に、しかし青年は気を悪くしたそぶりも見せずダガーナイフを手放した。
主従にそぐわないやり取りを眺めながら、訝しみが顔に出てしまったらしい。こちらに気付いた青年が、ああ、と、形の良い唇の端をわずかに吊り上げる。
「これは私の番犬でな」
牙の手入れにどうかと思ったが、好みではないらしい。
どこか機嫌良さげにすら聞こえる青年の声に誘われて、その背後に立つ男へ目を向ける。
長身の男は、こちらを見ていた。害意も、好意もなく、ただ静かにこちらを見ていた。
「そう怯えずとも、噛みつきはしない。そちらが妙な気を起こさん限りはな」
真夜中の夜気がすべりこんできたようなさむけに、視線を逸らす。
机の向こうで、獣を従えた青年が上機嫌に笑った。
***
20170531Wed.//20170902Sat.
■夜陰の獏
ゆめをみていた。
否、夢というにはあまりに味気ない。ただ茫洋とした自己があり、自分ではないなにかがあった。目も、耳も、鼻も、肌も、なにもかもが曖昧で遠い。それでも目が醒めているよりはよほどましだと思ったのは、なぜだったか。思い出せない。夜の色に塞がれたままの視界を他人事のように眺める。かすかにめぐりかけた思考は、散漫に溶けてすぐに消えた。
「ターヒル」
ふと、どこかから音がした。耳から染み込んだそれが、自分の名であることを理解するまでに、しばらくの時間を必要とした。漠然としていた自己の輪郭が、わずかに戻ってくる。なによりも先に吐き気がしたが、乾ききった体はなにひとつ吐き出すことができず、轡代わりの荒縄越しに掠れた息が漏れただけだった。それと同時に布が擦れる音がして、視界が開く。暗く硬い床、雑然とした部屋の小窓から、冷たい月明かりがしたたり落ちていた。
「どこを見てる」
離れた場所をぼんやりと映していた視線が、強引に持ち上げられる。前髪を掴まれた痛みに憤りを思い出し、感情の波に記憶の箱を揺らされて、目が、醒めた。
目の前にいたのはひとりの男だった。表情は影になっていて見えない。塞がれた視界の向こうに蠢いていたはずの、人のかたちをした蹂躙と汚辱の気配は消えていた。目隠しに続いて、噛まされていた荒縄が解け落ちる。
ほどけた瞬間、顎の力を込める。自身の舌を噛み切るために残していた、なけなしのそれは、縄の代わりに同時に口腔へ押し込まれた別のなにかに突き立って底をついた。
「……この、阿呆が」
声。鉄の味がする。舌先に生ぬるいしたたりを感じ、自ずと喉が動いていた。血の混ざった唾液を嚥下した喉を、弱く噛まれる。鈍っていた嗅覚を、知った匂いが掠めていった。
「サイード」
無様な声を上げるまいと圧し殺し続けていた喉が、男の名を紡いでかすかにふるえた。血が滲むほどに噛み付いていたものが、男の左親指の付け根だとようやく気付く。顎の力が緩んだことを確かめた男が、無遠慮に押し込んでいた指を引き抜き、こちらの顎をつかんだ。
「お前がお前を殺すのを、俺がいつ許した」
暗殺者に平穏な死など望むべくもない。敵に拘束された時点で、生きて会うことはないと思っていた。目が醒めた気でいたが――あるいはこれも、夢の続きか、白昼夢だろうか。「忘れるな」
「なにがあろうと、お前の死に場を用意するのは俺の役目だ」
なにがあろうと、だ。
圧し殺した低い声がその言葉を繰り返す。縄で擦れて切れた口の端を撫でる、男の舌のざらついた感触はなまなましく熱い。嘲弄に暴かれた四肢を包むようにすべる指先の、夜のつめたさを感じながら、目を閉じた。
***
20170728Fri.//20170902Sat.
■ファルークとカミール
「幾らの対価が望みだ」豪奢な椅子に深く腰掛けた商談相手が、水煙草をくゆらせながら傲慢に問うてくる。月明かりに透けた紫煙が長い黒髪に纏わりついて、美術品のように艶めいていた。「私としましても、こちらの品は貴重なものですので」美しさは時に刃に似る。引き際を見誤らぬよう、目を細めた。
***
(フォロワさんよりお題/「紫煙」)
■サイードと女と刃
「サイードさま、わたくしは、ときおりこの身がひどく口惜しくなるのです」
窓辺で揺れる灯りと同じように喉を震わせてふいにそう言ったのは、この数年間で王宮へ嫁いできた幾人かの女のうちのひとりだった。利発な女だ。退屈を厭う自分が退屈しない程度には聡明で、美しかった。
「あなたの唯一は、あのおかたのほかにないのでしょう」
わたくしはあなたの腕に抱かれる幾人かの女にはなれても、あなたが懐に抱く唯一の刃にはなれません。
絞り出すようにして紡がれた言葉が、剃刀のさきのように胸裡の表面を撫でて、ほどけた。
***
(フォロワさんよりお題/「手負いの獣は人恋しくて」)
■#リプされたキャラで戦闘シーン書く
同じ穴の貉、とは巧いことを言ったもので、夜の帳とともに活動をはじめる獣の目と鼻は夜毎驚くほどによくきいた。今夜もまた呼びつけた覚えもない来訪者が屋敷の外に数人と、――この私室のひとつから見える距離の中庭にひとり。
どうやら傭兵が外で相手をしている数人は陽動で、最も腕の立つ人間は宵に乗じて単独行動をしていたようだった。成程いかにも暗殺者らしい方法だったが、サイードの傍らに控えていた夜目のきく獣もまた同業者であり、囮になど見向きもせずにただ息を潜め周囲に警戒を向けていた。
男が両手に握りしめた二振りのダガーナイフが、廊下からの篝火を跳ね返しては、目の奥に弦月の軌跡を残してひるがえる。
篝火色の円弧に、ときおり淡い月光の銀線が閃く。
刃の噛み合う金属質な音が上がるたびにちかり、ちかりとまたたくそれを眺めながら、サイードもまた念のために右手に掴んだ刀を弄ぶ。かつては嗜み程度と捉えていた自身の剣の扱いは、寡黙な獣とともにあるうちに、知らず手慣れたものになっていた。
鍛え上げられた逞しい腕が、男の体の一部であるかのようにしなやかに、あるいは荒々しく刃を振るう。
師事などしたことはないといつかに語った男の剣さばきには、演武めいた流麗さはない。
男自身の血と傷とを引き換えにしてみがかれた、野生の獣の剣技。それでも、獲物の喉笛に牙を突き立てるために駆け、身を撓め、跳ねる長躯はたしかにうつくしかった。
男のものではない血潮の匂いが夜気に濃くなりはじめる。月夜の獣を堪能できるのも、残りわずからしい。惜しむように目を細め、左の手に収めたままの酒杯を揺らした。
***
20180506Sun.