【始春】ひとみの先で 撮影スタジオの控え室にて。
始とふたり、撮影の順番を待ちながら新は紙パックのいちごミルクを飲んでいる。
部屋の中央に置かれたテーブルの対角側で始は台本を読んでいた。表紙に書かれたタイトルからして、秋に放送開始されるドラマ用だろう。
相変わらず忙しそうだ、と自分のことは棚に放り投げておいて新はストローから唇を離した。
始が視線をこちらへ向けたのだ。
「新」
「なんでしょう」
「言いたいことがあるなら言え」
視線が気になる、という始に新は苦笑する。
以前、葵に視線だけで訴えかけたときにうるさいと叱られたことがある。
静かにしていたのになぁと思いながらもいい機会だ、気になっていたことを聞いてみることにした。
紙パックをテーブルへ置き、軽く姿勢を正す。
「始さん」
「うん?」
まっすぐにこちらを見つめる始の目は揺るぎがない。
出会った頃は睨まれているのかとも思ったけれど今は違うと知っている。
きちんと新の相手をしようという姿勢なのだ。
それが新は嬉しい。
「始さん」
「どうした」
ひたと自分を見つめる瞳を見返しながら新は切り出した。
「俺が始さんを呼ぶと、絶対に返してくれますよね」
「……そう、だな?」
「俺を見てくれて、返事もしてくれて、ちゃんと俺の相手になってくれるんだなーって俺は嬉しいんですけど、気になることがありまして」
「なにか嫌なことがあったか?」
ぜーんぜん、と新は首を左右に振る。
「誰に対してもそうやって見てくれるのに、ときどき春さんに呼ばれても振り向かないときがありますよね。あれ、なんでですか?」
始相手には直球を投げるほうがいい。
特に春を話題にするときは。
新の言葉に始は静かに動揺したようだった。まばたきの回数が増える。
「自分の機嫌が悪いときでも、それはそれって割り切れる始さんなのに、なんで春さんのときは返事をしても振り向かないときがあるのかなって。最初は法則性があるのかと思ったんですけど、わからないから聞いてみました」
強いて言えばグラビ会議で意見交換をしているときに多い気もするけれど、そもそもあちこちに視線を投げる必要があったりするから当てはまるとは言い難い。
始が振り返るかどうかで春の態度も変わらないからわからないのだ。
新から始の視線が外れる。
なにかを考えているようで、ゆらゆらと揺れている。
どうやら思い当たるふしはあるらしい。
控え室に沈黙が満ちる。
壁にかけられた丸い時計の長針がぐるりと回る。
「……新」
「はい」
「春には言わないでくれるか」
「もちろんです」
大きくうなずくと始の瞳が新に向いた。
「あいつ、俺の考えていることを先読みするだろう?」
「しますねえ。春さんのあれはすごいですよね」
始の表情が微妙に歪んだ。
嬉しくもあるが気に入らないということかな、と新は予想する。
「言わなくても察してくれるのはありがたいんだが、たまにそこまで先回りしなくてもいいと感じるときがある」
「先回りされるのが嫌なんですか?」
いや、と始はすぐさま否定した。
「俺の足らない言葉を春が補足してくれるからな。そういうところを含めてありがたいとは思っているんだが、あいつに頼る自分がときどき嫌になるんだよ」
春なら言わなくてもわかってくれると知っているから、つい言葉を省いてしまう。視線だけで春がわかってしまうのならば、顔を向けなければいい。強制的に言葉でのコミュニケーションへ持ち込みたい。そのために始は春の顔を見ない。
言うなよ、と念押しする始に新はまばたきを繰り返した。
すこし長めの沈黙を置き、新は返した。
「始さんって真面目ですよねえ」
「……真面目?」
「春さんに頼っちゃっていいと思うんですよ。甘えていい人だと思いますし、春さんだってイヤイヤやっているわけじゃないでしょう?」
むしろ嬉々としてやっている。
始にだけじゃない。新にもそうだし、葵や駆、恋も同じようにいつだって春の察しの良さに助けられて甘えている。
グラビだけではない。いろいろなところで、いろいろな人に春は先回りして優しさを差し出す。
そういう性分なのだ。
「わかってはいるんだがな……」
渋る始に新はようやく理由を見つけた。
「始さんのそれは負けず嫌いって言いませんか」
相方に『おんぶに抱っこ』が嫌なのかもしれない。それは新もなんとなく心当たりがある。
お互いをわかっているからこそ、ちゃんとしていたいとも思う。
いつかの春の言葉を思い出す。
ただ、これについては違うんじゃないだろうか。
「ちょっと前言撤回します」
「……?」
「始さん、かわいいところありますよね」
「は?」
始の目が丸くなる。
普段のやりとりでまで切磋琢磨しようだなんて思わなくていいのに、どうしてだか始と春は些細なことでも張りあう節がある。
そのくせ、自分を頼ってくれないとお互いに相手がいないところで嘆息しているのだ。
「ありがとうございます。長年の疑問がわかってスッキリしました。今度春さんに呼びかけられても始さんが振り向かなかったときは、春さんとおしゃべりしたいんだなってわかったんで俺は優しく見守ることにします」
「は? おい、新。そういう意味じゃない……」
立ち上がりかけた始の背後でドアが軽くノックされる。
返事も待たずに開いたドアの向こうから話題の主が顔を出す。
「お待たせーって、どうしたの?」
「なんでもないですよ。始さんと楽しくお話ししていただけです」
「新」
眉間に皺を寄せる始に、違っていないでしょう? と新は目くばせをした。
黙り込む始と澄ました顔の新を何往復か見つめ、春は追及しないことにしたらしい。
「準備ができたらスタジオに来てね」
それだけ言ってまた消える。
葵ほどではないが春も新の含み笑いに気づいていたのだろう。始の表情については言わずもがなだ。
「なるほど」
「なにがなるほどだ」
「いえ、改めて春さんの察しの良さを実感しただけです」
それじゃあ行きましょうか、と立ち上がった新の耳に、覚えていろよと低い唸り声が聞こえてきたのは幻聴だと思うことにした。