時期 そろそろ重い腰を上げないといけない時期である。ユージーンはある日の昼下がり、五線譜に音符を書き込む手を不意に止めると溜め息を吐いた。それからぴくりと耳を動かす。長い耳がとらえた音は、廊下を歩いてこの部屋へ近付く足音だった。
「ハロー!」
元気な挨拶の言葉と共に部屋へ入ってきたのは一人の青年である。健康そうな浅黒い肌と、少し癖のある桃色の髪。片手に紙袋を抱えた彼はヴィクターという名で、ユージーンの年の離れた友人――ユージーン自身はそう呼ぶことをためらっているが――だった。
「今日はちゃんと食べました? これリズんとこのドーナツなんですけどどうですか」
「ん」
差し出された紙袋を受け取り、机の上で開ける。そこには恐らくできたてであろうドーナツがいくつか詰められており、ユージーンはその中からひとつ取り出すと口にくわえた。五線譜を適当に横へ除けながらもぐもぐと口を動かす様を、ヴィクターが呆れたような微笑ましげなような顔で見ている。
「お茶入れますね、台所ですか?」
「いや、もう入ってるのがある……ほらそこ」
ユージーンが指差した先には朝に入れた紅茶の入った水差しが置いてあり、ヴィクターは軽く頷くと勝手知ったるとばかりに食器棚からカップを出してきた。先に置かれていたユージーンのカップへおかわりを注ぎ、それから自分の分も用意する。ぬるくなった紅茶はまずくはないがうまくもない。茶葉はそれなりにいいものを使っている筈だが、いかんせん入れ方がよろしくないのだ。
家主であるのに客人をまったくもてなそうとしない相手に気分を害した様子も無いどころか逆に自分がホスト側のような振る舞いをしているヴィクターを、ユージーンは特に気にしていないようだった。ぬるい紅茶を流し込み、またドーナツを食む。指先が油と砂糖で汚れたのに頓着しないものだから、無造作に触れた五線譜に油の染みが出来た。
「……ああ、そういえば近いうち家を空けるから、しばらくの間ここに来ても私はいないぞ」
「え、旅行にでも行くんですか?」
指についた砂糖を舐めてから、ユージーンは曖昧に頷く。
「少し都会に用があってな」
それを聞いたヴィクターのドーナツを食べる手が止まる。まじまじとユージーンを見るその表情は険しい。
「……都会に? ……どうしても行かないといけないんですか?」
――そういえば彼は都会から来たんだったな、とユージーンは思い出した。彼は都会がセリアンにとってどういう場所かよく知っているのだろう。
……都会にはなにもない。特にセリアンにとっては。きらきらしたものも美しいものも彼らには与えられず、ただ奪われるばかりだ。かつてユージーンは都会で色々なものを奪われたし、今でもじわじわと魂を切り取られ続けている。都会はユージーンにとっては憎悪の対象ですらなく、冷たく乾いたナイフのような存在であった。ユージーンにはたびたび都会から手紙が届き、まれにではあるが都会へ出掛けることもある。彼は未だにあの場所に囚われているのだ。
「知り合いに会わないといけないんだ」
答えるユージーンの声は静かで、表情も普段と同じどこか気鬱げな仏頂面である。それを見たヴィクターは紅茶を一口飲んで言葉を切る。
「そうですか、……まさか一人でいくつもりじゃあないですよね?」
「……」
ヴィクターの表情が心配から怒りへと少し傾いた。ユージーンさん、とゆっくり呼ばれてユージーンの喉からぐうと声が漏れる。
「付き添ってくれそうなヒトの知り合いなんていない」
「ラタトスクで募集でもしたらどうですか」
「よく知らない相手と片道一週間も馬車に揺られるのはごめんだ」
「わがままだなあ」
ヴィクターは溜め息を吐きながら肩をすくめ、二個目のドーナツに手を伸ばした。