兎とビールとフェジョアーダ ――買い出しに行かなくては。
遅めの昼食を食べながらそんなことを考え、男は大儀そうに眉間に皺を寄せた。広い屋敷に生き物の気配は男のそれだけ、乾いた空気で満ちたその場所の主である男は名をユージーンといった。頭からすらりと伸びた兎に似た耳――片方折れ曲がっているが――が彼の種族を声高に主張している。
あまり人付き合いを好まない彼は、日持ちのする食料を数日に一回買い込む時くらいしか村に出なかった。そのたまの外出すら億劫だった。ただ音楽に触れていられればそれで良かった。
しかしそうもいかないのが生き物の面倒なところである。昼食の片付けを終えた後、ユージーンは村へと買い物へ出掛けていった。
……諸々が終わった頃には日が傾き、村はオレンジ色に染まりつつあった。ユージーンは空腹感を覚えたが、疲れもあってこれから夕食の準備をする気にはなれなかった。このまま食事をせずに休むという選択肢もあったが、ふとひとつの酒場に思い至る。とあるお節介な若者が――彼を友人と呼んでいいものかまだ判断しかねている――その酒場でアルバイトを始めたと聞いている。
酒場はきっと賑やかだろう。ユージーンは少し迷ったが、様子を見に行くくらいはしたって罰は当たるまいと今日の晩餐の場所をそこに決めた。
「いらっしゃいませー!」
入るなり元気な声に出迎えられ、ユージーンは右耳をわずかに伏せた。彼の姿を確認した若者は、驚いたようにぱちぱちと瞬きをする。
「こういうところにも来るんですね?」
「ああ、まあ」
愛想の無い返事をぼそぼそと零した後壁際の席へ座ったユージーンへ若者が――前述のお節介な若者、つまりはこの酒場でアルバイトを始めたヴィクターそのひとが――木製の盆を片手に口を開く。
「それで、何にする?」
「……何か適当な煮込み料理を。あとビール」
「了解」
そうして夏の花のようにきらめく瞳がにっこりと笑い、ひらりと喧噪の中に消えた。
しばらくして戻ってきたヴィクターが円卓の上に皿を置く。深めのスープ皿に豆やソーセージを煮込んだものが入っている。ユージーンは目線を料理に落としたまま低く呟く。
「それなりに様になってるじゃないか」
きょとんとしたヴィクターは、遅れてその意味を理解して笑った。
「ありがとう。……もしかして様子見に来てくれたんですか?」
「一応な」
煮込みを一口咀嚼し、僅かに表情を緩めるユージーン。豆でとろみのついたスープは温かく、普通より少し濃いめの味付けがビールによく合う。ごゆっくり、と言い残して接客に戻っていったヴィクターの背をちらりとだけ見て、ユージーンはゆっくりと食事を進めた。
……ユージーンが食事を終えた頃には太陽はすっかり沈んでいた。
「ご馳走様」
「あ、ちょっと待って」
カウンターに代金を置いて立ち去ろうとしたユージーンをヴィクターが引き留めた。怪訝そうな顔をしながらも立ち止まった彼へ、小走りに近寄ってくる。
「ユージーンサンってバイオリン弾けますか?」
「……一応は。それがどうした」
ぱっとヴィクターの顔が明るくなったのに、何故かユージーンは嫌な予感がした。
「ここの酒場の息子さん……ラファエルっていうんですけど、その子がバイオリンを教えてくれる人を探してて。ユージーンサン、どうですか」
ぐっとユージーンの眉間の皺が深くなるが、ヴィクターは気にした素振りも無い。ユージーンは不審そうな顔を隠そうともせずに頭を横とも縦ともつかない程度に僅かに動かした。
「私に教師が出来ると思うか? 泣かせるのが関の山だ」
「大丈夫ですよ、いい子ですから。……ラフ!」
止める間もなくヴィクターが誰かを呼び、中途半端に持ち上げた手の行き場を失って立ち尽くすユージーンは少し離れたところから近付いてきた少年の姿に目をやった。
頭に獣の耳がある。セリアンの少年である。少年らしいすらりと伸びた手足は日に焼けていかにも健康的だが、どこか静かな空気を感じさせる子供であった。そのエメラルドグリーンの目がユージーンとヴィクターを見比べる。
「よんだ?」
「ああ、この人がバイオリン教えてくれそうだぞ」
「ヴィクター、」
「ほんとう!?」
制止の言葉は少年の言葉に遮られる。きらきらと輝く目に見上げられ、ユージーンは居心地悪げに身じろぎをした。耳が僅かに伏せられ、苦虫を噛み潰したような表情が一瞬その顔に浮かぶ。が、子供の無邪気な眼差しを切り捨てられるほど彼は心を凍らせてはいなかった。
「……ユージーンだ。楽器は」
「ジェロームから貰ったのがあるよ」
「見せなさい。状態を確認する」
愛想は欠片も無いし、声は低く、威圧的ですらある。少年は少し戸惑うようにカウンターの中を見たが、そこにいた男――酒場の主である――が、もう遅いからあがっていいと頷く。それを受け、少年はユージーンを先導するように奥を指差した。
「こっちです」
それから軽やかに歩き出す少年。後に付いていこうとしたユージーンは、少し躊躇した様子でヴィクターを見た。察したヴィクターは――人見知りだ、いい年をして!――苦笑すると、主に目配せをしてからユージーンの背を押すようにして歩き出した。
初老の男と、若々しい青年と、静かな少年。奇妙な組み合わせの三人が、そうして酒場から去っていった。