大切な本 書店“ファッケル”。ウサギのセリアンの青年が営む店だ。品揃えは豊富で、ここに世話になっている読書家は多い。
そして、また一人客が店へとやってきた。
「ハロー! お願いしていた本、届いてますか?」
「ハロー。ああ、届いているよ。これだね?」
店のカウンターの奥へ向かった店主は、立派な長い耳を揺らしながら一冊の本を持ってくると来客──こちらはヒトの青年だ、随分背が高く体格に恵まれている──へと差し出した。それを受け取り中を改めてから青年……トラヴィスは店主を見た。
「ありがとうございます、助かりました。引っ越しの時に荷物に入れ忘れたみたいで……」
「思い入れのある本なんだね」
扁桃型のくりくりとした緑色の目をわずかに細め、店主は髭を動かした。トラヴィスは頷き、華やかな装画の表紙を優しく撫でる。
「両親が誕生日に贈ってくれた本なんです。もう内容はほとんど覚えているんですが……たまに読み返したくなるので」
「なるほど」
「本当に助かりました。あの、これ良かったら」
トラヴィスがカウンターに置いたのは美しい模様の描かれた紙箱で、それを見た店主の耳がぴんと伸びる。アッシュバレーで一、二を争う美味しさとされる某菓子店のチョコレートである。
「お手間かけさせてしまったので」
「いや、いや……本の代金は貰っているからね、ここまでしてもらうわけには」
「では遅れた引っ越しの挨拶ということで。今後もお世話になると思いますので……」
「……そうか、では遠慮なく」
丁寧に箱を受け取った店主の表情はわかりにくいが少なくとも不愉快そうではなかったため、トラヴィスはにっこりと笑って本を小脇に抱えた。
「では失礼します。よい一日でありますように!」
「きみも、ね」
店を後にするトラヴィスを見送ってから、店主は大事そうにチョコレートの箱をキッチンへと片付けに向かった。
広場のベンチにて、トラヴィスはさっそく本を開いた。元々自分が所持していたものより状態はいい。挿し絵の筆致もよくわかり、何度も読んだ本ではあるがどこか新鮮な気持ちで頁をめくる。
「あっれ~トラちゃんじゃん、ハロー! こんなとこで本読んでんの?」
そこに響いた元気な娘の声。鮮やかな花色の髪を揺らしながら片手を振る若いヒトの女性がトラヴィスの目の前に歩いてくる。
「ハロー! ええ、取り寄せていたものがさっき届いたので、家まで待ちきれなくて」
「わっかる、あーしも買った靴その場で履いて帰るタイプ。あっ挿し絵ちょ~キレイじゃん! 何の本? 新刊?」
「子供向けの騎士物語ですよ。昔からある本ですね」
トラヴィスが目の前で頁をめくっていくつか挿し絵を見せると、娘は興味津々といった様子でそれを眺めていたが、はたと何かに気付いた様子で顔を上げた。
「あっ、ジオちゃんのとこ早く行かなきゃ! ごめんトラちゃん、また今度ね!」
「ふふ、いってらっしゃい」
ぱたぱたと走り去ってゆく娘を見送ったトラヴィスは、再び手元の本に視線を落とす。
“ベルナルドと河の乙女”。昔からある騎士物語だ。この本はそれを子供向けに噛み砕いたもので、挿し絵や装飾枠が美しい。トラヴィスの十歳の誕生日に贈られ、それこそ擦りきれるまで読み返した本である。
──乙女はその白いかいなで騎士を招いた。
美しい乙女と凛々しい騎士が見つめ合う挿し絵。乙女は腕を差し伸べ、騎士は跪き頭を垂れている。彼は乙女に触れることが出来ぬ誓いを立てているのだ。
……トラヴィスは騎士となるべく育てられ、騎士となり、今は騎士ではない。贈られた本の現物を取りに帰ることも出来ない。この穏やかな町のことがトラヴィスは好きだし今の生活に不満もないが、時折感傷的になることくらいはあって、ふとこの本が読みたくなって彼はファッケルへと駆け込んだのだった。それが一月ほど前のことである。
高潔な騎士と清らかな乙女の物語は子供向けに優しくアレンジはされているが、トラヴィスは原作の内容も知っている。その末路を思いながら、今は優しい物語を味わうことを彼は選んだ。