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    あなたの知らない十のこと 窓から見える夕日が、徐々に重く暗い雲に覆われていく様子を見るに、この分では明日の天気は思わしくなさそうだ。雪になりかけのまま落ちてくるみぞれか、それとも冷たく刺さるような雨か。いずれにしても出かけるには向かい日になりそうだ。せっかくの予定が入った休日なのに、雨で寒いのはやだなあ。野明は小さくため息をつく。東京の冬自体は寒くない、しかし雪にならず冷えた針が降るような雨は苦手だし、なにより建物の中は北海道の方がよほど温かい。もっとも雪まつりの警護に行った際の第二小隊の面々の感想は「建物の中があったかすぎる」だったが。本土の人はこれだから、あったかい中で食べるアイスクリームの美味しさを知らないなんて。
     手をハンカチで拭いたあと尻ポケットに手をやって、そのときに手洗いに忘れ物をしたことに気がついた。おっと。野明はきびすを返して再び化粧室へと向かった。

     三が日の間の東京は一部の神社仏閣に初詣客があふれて、かき入れ時とばかりにデパートが初売りを行うほかは、閑散としていて平穏という言葉そのままだ。その平穏を守るためと、警視庁が見栄えと自慢を兼ねた警備計画を立てるものだから、特車二課には正月という行事は訪れないのが常である。
     今年は第一小隊にもついに新型機が配備されたものだから、両隊ともに明治神宮や浅草寺に派遣され、格好の写真スポットとしての役割を三日間立派に果たしてきた。工事も止まり交通量も極端に少なく、自家用レイバーの所有率も低い東京においては悪酔いしたあげく重機を使って派手に暴れるような事件もなく、毎年と同じようにのんびりとした年始が過ぎていった。
    「結局今年も初詣行けなかったな」
     野明がそうぼやいたのは松の内も過ぎたころで、「三が日は神様のところに詰めっぱなしだったろ」とポテトチップスを頬張りながら突っ込んできたのは遊馬だ。大発会の拍子と共に東京はまた忙しく疲れた人にあふれて、あっと言う間に日常が戻ってきた。それと共に症状が少し重い風邪が関東で大流行し、第一小隊や整備員の中には倒れたものも出ている。そんな惨状なものだから、田舎に帰るのは来月までお預けで、帰ったところで特別な行事かなにかがあるわけでもない。ただ今年は雪が多いと父親が言っていたから、雪かきにかり出されるかもしれないが。
    「仕事と初詣は違うよ」
    「そうか? わざわざ人混みの中に突っ込まなくても正月気分を味わえたと思えばお得なんじゃないの」
    「遊馬はそう思ったの?」
    「いや、全く」
     相変わらずああ言えばこう言う男だ。
     要はメリハリの話で、小さなイベント事によってほんの少しだけ心を躍動させたいだけなのだが。
     確かに初詣に行くようなことはないけどさ、息抜きというか、小さなハレがあると嬉しいじゃないか。給湯室にマグカップを洗いに行きながら思わずため息をつくと、
    「どうした、正月疲れか?」
     とその給湯室から出てきた誰かに、前触れなく声を掛けられた。
    「隊長、脅かさないでくださいよ」
    「そんなつもりはないよ。で、やっぱちょっときつい?」
     後藤は洗ったばかりのコーヒーサーバーを片手に、相変わらずの調子で労りを向けてくる。第一小隊に病欠が出ている分の穴埋めは第二小隊に回ってきていて、南雲が第二小隊のオフィスに顔を出しては、悪いわねとわざわざねぎらってくるほどの状況なのだから、後藤にしたらなによりも部下の状態が気になるのだろう。野明は、上司のこういうところを尊敬している。
    「あ、大丈夫です、もっときついときもあったし」
    「そうか、さすがに若いねー」
    「ただですね、ずっと詰めっぱなしだから気晴らしはしたいな、なんて思っちゃって」
     気さくに本音を話すと、後藤は「気休め、か」と小さく繰り返すと、そのまま尻のポケットから長財布を取り出した。そして、確か……と中を覗きこむ。
    「お、これだ。泉、お前こういうの嫌いじゃないだろ」
    「こういうのって……、あ、はい! 大好きですこういうの!」
     後藤が取り出したのは科学博物館の特設展のチケットだった。それも二枚。新聞の広告に載っていたときから気になっていた空と宇宙展は、飛行機や衛星だけでなく、先日宇宙で初ミッションを行った宇宙空間用レイバーいずもが展示されているのが魅力的だ。しかし、寮から上野がやや行きにくいとか、なにより博物館や美術館には縁が無いもので、なかなか腰が上がらなかったものだが。
    「いずもが見れる、っていうから行こうと思ったんだけどさ、第三小隊が出来るあれこれで明日も会議だしそのあとも会議だしで予定が埋まっちゃってね。よかったら行ってきなさい。代金はいいから」
    「え、いいんですか? 隊長のおごり?」
    「たいした金額じゃないしいいよ」
     本当にたいしたことじゃないという風に、後藤はふらふらと手を振って去って行った。
     そんなわけで、思いも寄らぬ形で転がり込んできたいずもを見る機会に心が躍っていたわけだが、そのチケットをついでに寄った化粧室に忘れてきたらしい。うっかりしててたなあと慌てて来た道を戻ると、人影があった。
    「あ、お疲れ様です」
     野明が礼儀正しく頭を下げると、まさに手を洗っていた南雲は顔を上げて、柔和な顔でお疲れさま、と返してくる。定時上がりなのか、柔らかなベージュのワンピースと大ぶりのピアスが目にまぶしかった。私服のときの南雲は小隊長としての厳格を制服と共に脱いでいるかのようで、特に最近は上司という以上に気の置けない同性の先輩という雰囲気すら漂わせる。自分の隊に新型機が導入されたから余裕が出てきたんだろというのが遊馬の見立てで、確かにあの旧式レイバーを必死に運用していくしかないってなると、余裕なんてなかったろうなあ、と野明も納得したものだ。
     野明の探しものは案の定洗面台のスペースにあった。後ろポケットに入れていたものを、トイレに落とさないようにと置いてそのままだったらしい。
    「あったあった」
    「その忘れ物、泉さんのだったの」
    「そうなんです、さっき隊長がくれまして」
    「あらそうなの」
     礼儀として聞いたものの、その名前には全く興味がありませんという態度の見本のようなそっけなさだ。後藤のほのかな恋心を――本人は周囲を煙に巻いているつもりということも含めて――知っている一人としては、こりゃ今年も厳しそうだなと余計なことを考えてしまう。なお、後藤の年と性格に似合わないかわいらしい恋心について知らない人は主に本庁にいる課長と、南雲本人を除いてこの二課棟にはいない。
     それじゃあ、と改めて挨拶して去ろうとした野明は、しかし立ち止まり、ハンカチで手を拭く南雲の手をうっかりまじまじと見た。
    「……なにかしら」
    「あ、すみません」さすがに失礼だったと慌てて頭を下げる。ただ。
    「あの、南雲さんの爪がきれいだなって」
    「きれい? 爪? ああ、これ」
     野明の言葉に南雲は一瞬目を見開いたが、すぐに納得して、そっと手の甲を見つめた。
     外見の割にゴツゴツとして荒そうな指の先。形が整えられた爪は美しい深緑から淡い海の色のグラデーションを描き、一つ一つを飾る小さなストーンは星座のように気まぐれに美しく指先を彩っている。洗練されていて、愛らしい。
     目に賛辞が現れていたのか、南雲は少し照れるように手をさりげなく隠して、
    「成り行きで初めてやってみたのだけど、どうしても慣れないわね」
    「そんなことないです、とても似合ってます!」
     南雲は野明の力強い肯定に少し目を丸くして、次に小さく吹き出しながら目を細めた。
    「ありがとう泉さん、とても嬉しいわ」
     まだ恥じらいは払拭されないままで、しかし嬉しそうにお礼を言われて、野明はいえいえ、と丸い気持ちで言葉を返す。普段、制服姿であなたたちも警官としての自覚を持って、と注意してくる勇ましさから打って変わって、年上の女性に抱くには失礼だが、とても可愛い。自分の地位やイメージと、爪の先のおしゃれとの間で思わず戸惑ってしまっていたのかもしれないな、そういうのって女性として少しだけどわかる、と野明は考えて、そして、南雲と自分の間には、階級や立場というものがあれど、実際それほどの隔たりがないことに気がついた。
    「南雲さん今日は上がりですか」
    「ええ、明日の会議の前に、ゆっくり休めるといいけど。第三小隊が出来たらもう少し楽になるはずよ、お互いに。泉さんも無理しないようにね」
     それじゃあお先に。そう言ってクラッチバックを片手に出て行く南雲を見送って、野明もチケット片手に化粧室からオフィスへと急いだ。自分は爪を飾るかわりに、いずもを見て感嘆のため息をつく。そうして小さな、時には大きなハレを糧に毎日の平凡を責任もってやりくりしていき、日常を積み重ねていく。きっとそれが大人ということなのだ。
     明日遊馬の予定が空いてるといいんだけどな。
     そして、明日、南雲の爪を見た上司の、やきもきしたりときめいたりする複雑な気持ちを想像して、きっとチャンスがありますって、多分。とチケットをもらった分だけの応援を、心の中でしておいた。

     化粧を上手に直したことを何度も確認してから、しのぶはクラッチバッグを乱暴に鞄に詰め込み足早に二課を出た。
     願わくば、明日の会議までは誰の電話にも捕まりたくない。夜は南雲警部補でなく、私人の南雲しのぶで過ごしたい。それくらいのことを願ってもバチは当たらないはずだ。
     なんたって、今は人生でも一番浮き足立っているし、浮き足立つことが許されるはずの時期なのだから。
     帰る直前、事務の副島に書類不備を指摘されて、大慌てで修正したとはいえ予定よりもすっかり遅くなってしまった。ぎりぎりで飛び乗った埋立地折り返し経由駅行きのバスは渋滞にも捕まらず順調に湾岸の道を行き、終点に着いた途端にしのぶはバスを飛び降りた。待ち合わせ先は駅ビルの一階の喫茶店。それほど待たせていないはずだが、それでも早く向かうに越したことはない。
     店に飛び込むと、奥の方の席に座っていた待ち人が、さわやかとは程遠い、しかし幸せしか込められていない笑顔でこちらに手を振ってきた。
     ついさきほどまで見ていた顔なのに、それだけで胸が跳ねる。
     しかしそのことは微塵も表に出さないように心がけて、しのぶは向かいの席に座った。
    「慌てなくてもよかったのに」
    「お気遣いをどうも、大して慌ててもないわよ」
     しのぶがそう返すと、後藤はただ笑って冷めかけているコーヒーを口にする。
    「しのぶさんも頼む? ここの美味いんだよ」
     暗に一息つきなよ、と促されて、素直に提案を受け入れることにした。確かに一息入れたい、ただそれは急いで来たからではなくて、この後のことを考えて緊張してしまう自分を落ち着かせるために。
    「それにしても本当に浅草寺でなくていいの?」
    「浅草寺なら三が日に散々拝ませていただいたわよ、それに鬼子母神って東京に住んでるのに行ったことがないし」
     あなたが毎年初詣に行っている神社だっていうし、という一言はすんでのところで飲み込んだ。
     後藤はしのぶの内心など知るよしもなく、いつもの調子で、「鬼子母神の裏にさ、釜めしが美味い居酒屋があるから、そこで夕飯食べようよ」と提案してくる。
    「行きつけなの?」
    「あの辺は俺の庭だよ。とはいえ、東京といえばあのあたりしか知らないんだけどね」
    「そんなものでしょ、私も成城の周りしか知らないわ」
    「案外知らないもんだよね、身近なものって」
     その言いまわしになにか意味がある気がして、しのぶはコーヒーを飲む手を一瞬止める。そして、
    「知らないから、知ったときに嬉しいのかもしれないわね。いろいろなことを」
    「そりゃそうだ、いつまでたっても新しいこととの出会いはときめくことだよ」
    「ときめいているの?」
    「そりゃもちろん森羅万象に」
     そのとき後藤の目にかすった光が、自分と同じものに見えてしのぶは不意に安心出来た。二人は同じ場所に立って、同じものを見ていると、思っても良いのだと感じられて。
    「それじゃあ、行きますか」
     おもむろに後藤が立ち上がり、そこの駐車場に停めてあるから、としのぶに穏やかな笑みを浮かべる。そして、
    「爪……。しのぶさんらしくて、いいね」
     と言って目をそらすものだから、しのぶも少しだけ照れてしまった。
     ああそれにしても、恋人の家に泊まりにいくなんて、もう縁が無いものと思っていたのに。男の家で朝を迎えるのは、男の日常に招かれるようでとてもくすぐったい。こうして二人だけの秘密がこれから積み重なっていくと思うと、心が躍った。
        

     節分も終わり、寒さが少しずつ緩み始めたころに、その悲しい知らせは二課を駆け巡った・
     一度は導入された機体を再び工場へと戻す書類に判を押して、しのぶはひとりため息をついた。久しぶりに眉間にしわが寄り、気疲れから頭痛すら覚える。
     ようやく、待ちに待った、首から手がでるほど待ちわびた、待望の第三小隊創設が叶うはずだったのに、それが最後の最後で台無しになるのは気分のいいものではない。
     そもそも、上層部に後藤と自分とで上申したように、それぞれの隊の管理職候補――つまり五味丘と熊耳だ――のどちらかを隊長として任命するべきだったのだ。なのに鈴をつけたかったのか、どうにかしてここを自分たちの陣地として取り込みたいと図ったのか、わざわざ腰掛けのキャリアを送り込んできたあげく、そのキャリアが正式に着任する前の準備期間中に挫折したときたら。
    「一年でも楽になるなら別にいいんじゃない?」
     人事の話が福島からきたときに、そう感想を述べたのは後藤で、
    「でも毎年新人が代わる代わる来て、その面倒を見させられるのは私たちだわ。そんな余裕はないから第三小隊を設立してほしいのに、これじゃ本末転倒じゃない」
     結局ここのことをなにも考えてないのよ、と文句を言うと後藤はそりゃそうだろうね、と全く嬉しくない肯定をしてくれた。
     そして実際に赴任してきた隊長候補は、真面目で一生懸命なのかもしれないが、頭でしか動けない男だった。自分も昔は真面目が過ぎて一生懸命で融通が利かない働き方をしていた自覚があるが、でももう少し理論や理想値では物事は動かないことを知っていた気がする。もっとも、大して間を置かず後藤が飛ばされてきて、腹を立てて振り回されているうちに、いつの間にかすべてが組み立て直され、しのぶ自身の仕事への取り組み方も変わっていたわけだが。
     そしてしのぶは変化なのか成長なのかはわからないが、とにかく柔軟さや臨機応変さ、あるいは十割の成果を目標とせず八割でも十分よくやったと思えるだけの余裕を得ることが出来たが、新人候補はその機会すら得られず去った。この悶悶とした気分を今こそ同僚と分け合いたいが、そういうときにあの男はいない。斜め前の空っぽの机を見て、しのぶはまたため息をついた。
     そもそも今回の顛末について布石を打ったのは、今ここにはいない後藤だった。彼は先週から十日ほど、アメリカはニューヨークへはるばる出張に出向いている。香貫花がニューヨーク市警レイバー隊の初代隊長に抜擢されるとかで、NYPDの方から、彼女と縁がある後藤をぜひアドバイザーにと指名されたのだ。それだけなら一週間経たずに帰ってこられるはずだったが、さらにワシントンにも顔を出す用事が加わったとかで、長い不在と相成った。
    「ニューヨークにワシントンなんてアメリカのいいところ取りじゃないの、せっかくだから学芸にでも浸ってきたら? 自然史博物館のプラネタリウムなんて憧れるわ」
     本庁からの電話を切って心底面倒そうにワシントン行きのおまけつき、と落ち込む男にそう言ってやると、後藤は口をへの字に曲げて「意地悪なんだから」と返してきた。実際日程はみっしり詰まっており、道を歩いているだけで目の前に現れる有名な古本屋や博物館美術館群に心を躍らせる時間もほとんどなさそうだ。それに、漏れ聞こえた問答から推し量るに、ワシントン行きは昔の部署の、昔手掛けたなにかの仕事の一環とのことで、どうにかして過去と決別したい後藤にはただの苦行なのだろう。
     しのぶはパソコンのモニタから目を離して、大隅さんもなんだかなあ、とぶつくさと言っている後藤の方を見た。
    「嫌みじゃなくて、本音よ。あなたなら半日ぐらいの時間ぐらいひねり出せるでしょ、そのときだけでもなにか良いものに触れていらっしゃい。……だってそれくらいのご褒美を、自分にあげるべきじゃないの」
     後藤は呆けたように口をぽかんと開いたあと、照れたように「そうだね」とだけ返事をしたものだ。 
     そんなわけでしばらく二課を留守にする後藤が提案していったのが、「自分がいない間、熊耳に補佐をさせた上で新人に隊を指揮させてみる」というもので、後藤いわく俺だって部下なんか持ったことがない状態からいきなり小隊の編成からまかされたんだから、警部になったばかりのキャリアだろうが若かろうが、やって出来ないことはないだろうということだった。
    「誰だって初めてはあるんだからさ、熊耳や、いざとなれば五味丘やしのぶさんの補助もあればどうにかなるでしょ、俺の留守中大きな仕事もないし。あ、イギリスの首相の来日のときに警備があったっけ、あれも立ってるだけだから、たいしたもんじゃないしさ」
     まさかそのイギリス首相のバビロンプロジェクトの視察中にすったもんだがあるとは誰も予測出来ず、なんとか平穏に収めたころにはくだんの新人の心がぽっきりと折れてしまい、お偉いさんたちが慌てて人事も小隊編成も白紙にして事態そのものをなかったことにする、なんてことも、もちろん誰にも予想出来なかったことだ。
     いや、本当に予想出来なかったのだろうか。
     後藤は自分の留守中、最後は熊耳が収めてみせるとはいえ、新人がミスをする可能性を無視したとは思えないし、そもそもしのぶもまた、後藤と同じようにその可能性を認識したうえで、それすら無言で承知したうえで、後藤に賛意を示したのではないか。
     自分に対しても他人に対しても、たらればを考え始めればキリがない。確かなのは、しのぶがお客さんと称したキャリアの新人は隊長職を務めるにはあまりにも細い人間だったことと、また当分二小隊でシフトを回していくしかないということだ。
     こういうときに、話を聞いて、相づちを打ったり冷や水のような一言でしのぶを落ち着かせたりする人間がなぜいないのだろう。
     後藤が長く留守をするのは今回が初めてではなく、再訓練だ他県への出張だと言っては、一週間ほどいなくなることはこれまでもあった。そのときは、置物がいないとさっぱりするが味気ないとか、書類仕事の効率が上がって申し分ないとか思っていたのに。
     あるいは後藤がまめに連絡をくれるから、不在が一層浮かび上がるのだろうか。
     毎日始業時間のころ、一枚だけ貼られた写真とともに一言「疲れた」とか「醤油が恋しい」と書かれ、そして「何かあった?」とだけ尋ねるメールがしのぶの私用携帯に届く。時差から考えて丁度向こうは深夜になるころで、一日真面目に英語で仕事に取り組んで、へとへとになっているのが、その短い文面からなぜか見えるようだった。それに対してしのぶは淡々と第三小隊長候補と第二小隊の巻き込まれた騒動とその経過を簡潔かつ淡々と報告し、そして最後に、判を押したように「お疲れ様」とだけ返すのがこの一週間の風景だった。ただ一回だけ、アポロの帰還船の写真と共に「こっちでも、月が綺麗だよ」とだけ書かれたメールが届き、彼がしのぶの願い通りわずかでも自分のための時間を得たことがうかがえて、そのときだけは「素敵ね」と返したものだ。
     その定時連絡のようなメールも今日は届いていない。飛行機の写真とともに今から帰るよ、とだけ書かれたメールが昨日寝る前に届いたからだ。スケジュール通りならあと小一時間後、後藤を乗せた飛行機が成田空港に到着する。明日は予備日となっており、後藤が出勤するのは明後日になってからだ。
     明後日。しのぶは口に出さず繰り返した。相談したいことも報告したいことも山とあるのに、特に幻になってしまった第三小隊のあれこれについて早急に話したい、話を聞いてもらいたい。
     そして――
     続く言葉をしのぶは慌てて打ち消した。いまは就業中で、制服を着ている間、後藤はただの同僚だ。うさんくさく、何を考えているかわからず、そのくせわかりにくいが仕事熱心な同僚。気さくに話が出来て、一見とんでもないが確実な解決策を出せるほどに柔軟で、優しい男。
     しのぶは思考を断ち切るように勢いよくリターンキーを押して、そして先ほどとは違うため息をついた。
     ふいに、昔ラジオで聞いて耳に残ったフレーズが、声にならないまま口からこぼれる。
     今日も明日もあなたに会えない。

     からからに乾いた夜空にはオリオン座が西の方に、シリウスが頭上に輝いていて、冬はまだもう少しだけ続くと意地を張っているようだった。
     後藤の住む公団から一区画だけ離れた場所にある時間貸しの駐車場に車を停めて、何度か通った道を気が急くままに歩く。自分を落ち着かせるように「疲れてるところ悪いけど、第三小隊について一刻も早く話したいの」と、車のなかで何度も繰り返し練習した台詞を口にして、誰もが見ている通りの、職務熱心な警察官の姿勢を整え、コンクリートの階段を上りいざドアの前に立ち、もう一度だけ小さく呼吸を整えてから、おもむろに呼び鈴を押すと、文字通り間髪入れずドアが開いた。
    「……どうしたの」
     後藤は愛用している、寒さを防げているのかいまいちわからないキャメルのコートを羽織っていて、髪はラフになでつけられ、前髪の一部が顔に掛かっている様子は、プライベートでしか見られない素朴さを醸し出している。
    「あ……。ごめんなさい、出かけるところだったなんて」
    「いいから。本当にどうしたの?」
     電話すればよかったわね、と謝るまえに後藤にもう一度促されて、しのぶは用意してきた台詞を言おうと、あのね、と口を開いて、
    「会いたかったの」
     と、言うつもりもなかった本心がぽろりとこぼれた。
     後藤は鳩が豆鉄砲を食ったような顔になったあと、すぐに柔らかい目になり、タンゴのような所作で体を横へとずらした。
    「どうぞ」
    「でも、出かけるところなんでしょ?」
    「いやあさ」視線をわずかに下にずらし、はにかむように言葉を続ける。「実はね、あんたに会いに行くところだったんだ」
     今度はしのぶが目を丸くする番だった。後藤はしのぶの反応にいよいよ照れたように眉を下げて、「第三小隊の顛末とか留守中のことも聞きたいし、……会いたかったし」
     ここまで聞いて、ついにしのぶは小さく吹いてしまう。
    「なんですか」
    「なんでもないわよ」
     だってあまりにも似たもの同士なんだもの、ということは言わないでおいた。

     なにより醤油と出汁と漬物が欲しい、という後藤の強い要望により、ふたりで近所のコンビニに出向いてカツ丼と鍋焼きうどんを買ったころには、そこはかとなく漂っていた気恥ずかしさも薄まり、十日の不在などなかったかのようになった。
     恋人同士とはいえ、関係の根幹は同じ仕事をする同僚なものだから、食卓について開口一番、第三小隊長のあれこれと本庁の決定について話し始めたら互いに止まらなくなり、気付けば東の窓から春の大三角形らしき星が顔を覗かせていて空だけはもう春である。ふたりとも去って行ったキャリアには未練もなく、ただ、治安や現場のためでなく自分たちのゲームのためだけに第三小隊を作ったり作らなかったりする本庁への呆れや諦めを共有して、そして今後のことについて知恵を出し合うのだ。後藤はしのぶの言葉に同意したり意見を挟んだり、そして第三小隊のあれこれはあれどそれ以外に特に変わったことがなかったことを確認しては目の端に安堵の色を浮かべたりして、いつものようにそこにいてくれた。
     こういうときに同じ方向を見ている人が同僚であることに、しのぶは内心で感謝する。苦労させられたり腹立たしかったり、仕返しをしたくなることも多々あるが、後藤について嬉しく思うのは、なによりも、そして認めがたいという気持ちもまだどこかにあるが、彼が素晴らしい同僚であり尊敬に値する警察官であることだった。
    「泊まってくでしょ?」
     食事も終わり、居間でお茶を飲みながら、留守中の出来事についてようやく一通り話し終わったあと、後藤がそう聞いてくる。しのぶはうなずきながら、ふと思いついたことをそのまま聞いてみた。
    「ところでうちに来たなら、最後はここに連れてくるつもりだったの?」
    「しのぶさんが承知してくれるならね。そして」
    「そして?」
     もう一つ尋ねると、後藤はさりげない振りをしてズボンのポケットを探った。
    「これで入って、ってねだろうって思ってた」
     人の顔をまともに見ないまま、ぽん、と器用に投げてきた鍵をしのぶは反射的に受け取った。作りたての新しい鍵は、後藤の体温でほんのりとした熱を持っており、なにか魔法の道具のように感じられる。しのぶはこぼれそうな気持ちを抱えるように、合い鍵をそっと握りしめた。
    「いつきてもいいからさ。俺が留守のときでも、朝でも、夜でも」
     しのぶは後藤の手の甲に自分の手のひらをかぶせて、今度は心を込めて、彼の目を見る。
    「ところで後藤さん。……私、あなたに会いたかったの」

     春の強い風が吹くたびに、東京からカラカラに乾いた空気と寂しさが似合うような寒さがどんどん払われていって、いつしか二課棟の前の駐車場という名の空き地にも、早咲きのタンポポが顔を見せるようになってきた。太陽は惜しみなく光を注ぎ続ける。春だ。
     野明は職場の前で大きく深呼吸した。
     春は好きだ。眠っていたつぼみが一斉に芽吹き、枝に足下にと色があふれ、道を歩くだけわくわくとしてしまう。北海道にいたときも春は特別だった。本州よりも遅く来るその季節は、暖かな風とともに目から心へと沁む彩りを毎年届けてくれたものだ。夏の星空、秋の夕日、冬の雪の色、と四季折々の変化とともに過ごしてきたから、どの季節も特別だと野明は思う。
     もっとも、本土に来てから、夏はあまり好きとは言えなくなってしまった。暑いのはともかく湿気がいただけない。その点では、職場が海の側で、常に風が抜けることは、多少ましな程度とはいえ幸いなことだった。
     身体を伸ばしながらそんな風にあちこちに思考を飛ばしていたら、ようやく待ち人がやってきた。
    「泉、これか」
     いつ聞いてもどこか偉そうな口調とは対照的に、小走りでここまで来るのが太田という男で、進士と山崎がたまに言うように「いい人」だし「悪い人じゃない」のだ。一緒に働き始めてもうすぐ三年になるが、太田の古い男らしさも、雪を見ると少しだけ切ない顔をする意外と繊細な面も含めて、いい人だと思う。
    「そうそう、ありがとう太田さん」
    「泉お前なあ、写真を撮りたいっていうのにカメラを忘れてくるっていうのはいくらなんでもぼけてないか?」
    「あはは、……我ながらちょっと抜けてるとは思う」
     恥ずかしさを笑いでごまかしてから、改めて野明はカメラを構えた。先日退寮した先輩が、私は新しいものを買ったから餞別に、とくれた百二十四万画素のデジタルカメラは、旧型だけどいい機種だという進士のお墨付きもあり、野明のお気に入りの一つとなった。シルバーのフォルムはもちろん、薄いから持ち運びしやすいのがいい。電源を入れて、容量が十分空いているのを確認してから、野明は太田に合図をした。
    「と、言うわけでお待たせー、太田さん、いい?」
    「俺はいつでもかまわんぞ」
    「じゃあポーズ取って」
    「取ってるぞ」
    「えー、ただ突っ立ってるだけじゃん」
    「他にどんなポーズを作れっちゅうんだ」
    「こう、力こぶ作るとかさあ」
     野明が左腕に力を入れてみせると、「警察官たるものもっと鍛えとけ」と突っ込みが入った。
    「ほら見ろ、俺の鍛え抜いた腕をだな」
    「あ、太田さんそのポーズそのポーズ」
    「こんなかあ?」
    「香貫花も太田さんが相変わらずだってわかって喜ぶって」
    「泉、お前俺のことを筋肉バカと思ってるだろ」
    「いやいやまさか」
     いいからほら、と液晶モニターを覗き込んだとき、後ろから車のエンジン音がした。振り向けば上司のミニパトが入ってきたところで、どうやら本庁での会議が無事終わったらしい。隊長職候補がまさかの脱落をしてしまい、誰もが待ち望んでいた第三小隊設立が立ち消えになってから、南雲と後藤はちょいちょい本庁に行ってはなにかいい方策はないかと模索しているようだった。忙しいようで忙しくないようで、やっぱり忙しい特車二課としては、八王子に戻っていった新機種たちに、どうにか戻ってきてほしい。
     運転席のドアから出てきた南雲の顔を見ると、今回の会議も手応えがなかったらしい。下で働いているおかげで、後藤のよくわからない交渉力や南雲の上を上とも思わない豪胆さというのを知っているものだからこそ、この二人がこれだけ四苦八苦しているのだから、どれほど困難な状況なのかはよくわかる。あの分だと、どうやら当分両隊フル稼働で回すことになりそうだ。
     それにしても南雲さんが隊長のミニパトを運転するなんてなあ、と思っていたら、助手席から下りてきた後藤が不自由そうに左腕を前後に振った。そして自由に動くらしい右手で泉と太田にようと手を上げてくる。
    「なにしてるのお前さんたち」
    「あ、いま香貫花に送る写真を撮ってるんです。せっかくデジカメが手に入ったから、いつでもこっちの様子を送れるんだなあって思って」
    「せっかくだから写真を撮ろうって?」
    「ええ、まあ」野明は照れ笑いしたあと、すぐに後藤と、後部座席から荷物を取り出し終わった南雲に声を掛けた。「せっかくだから隊長たちも一枚どうです?」
    「たち、って私も?」
     突然の振りに目をぱちくりとさせた南雲に、「いいじゃない、南雲さん」と後藤が加勢してくれる。おそらくは下心込みに違いない。
    「いいじゃないって、業務中よ」
    「まあまあ、腕の上がらない俺を助けると思って」
    「写真のどこに助けになる要素があるのよ、それに、だから車運転してあげたでしょ」
    「隊長、腕痛めたんですか?」
     そこで太田がひょいと話に加わった。
    「ん、そうなの。ちょっと起きたら左手がしびれてる感じになっててね。右手でなくてよかったよほんと。おかげでいつも行ってるラーメンや寄れなくてさあ。あ、帰りに病院行かなきゃいけないんで、今日は定時で帰るからよろしくね」
     そう言って後藤は左腕をあげてみせたが、左手は力が入らないようにだらりと下がっている。口調こそたいしたことがないよう装っているが、あの分では当分遊馬か熊耳とともに指揮車に乗っての出動になるだろう。
     それにしても痛々しいと思った野明と違い、太田は大真面目な顔で後藤の手を見つめていると思ったら、
    「隊長、それおそらく病院に行っても無駄だと」
    「そうなの?」
     きょとんとしたように後藤。
    「失礼ですが隊長、左手でこう、グーを握れるでしょうか」
    「あ? まあ、無理すれば」
    「で、こんな感じにあげて」
    「こうか?」
     後藤が太田の動きをまねして見せると、太田はやっぱりと納得した顔になった。
    「自分が思うに、それは橈骨神経症だと」
    「とうこつ?」野明が繰り返すと、そうだ、と太田が頷いた。「あれだ、机に片手だけで突っ伏して寝てたりするとしびれてたりするだろ。こう、腕の外側の神経がな、圧迫されて麻痺してしまう。で、手が上手く動かなくなると」
    「太田、お前そういうの詳しいの」
    「高校のときの同級生が、東京で柔道整復師をやってまして。自分も前に片手だけ圧迫して麻痺したときにそう診断されたんです」
    「へえ」後藤が素直に感嘆の声を上げた。「じゃあ、これ麻痺がとれるまでほっとくしかないってわけか」
    「太田さんすごいね」
     野明も心からの賛美をあげると、太田は照れたように「持つべき者は友ってやつだ」とぶっきらぼうに言った。と思ったら苦虫を噛み潰したような顔になって、
    「まあいい友人なんだが、ただ一言多くてな」
    「一言?」
    「ああ」太田はむすっとした顔で、「わかりやすい名前だとハネムーン症候群とか腕枕症候群っていうんだけど、お前に限って幸せな朝を迎えたとかなさそうだしって、失礼なやつだ」
     確かに失礼だ。が。
    「泉、なんだその顔は」
     太田が野明の考えを正確に読み取って、さらにむっとした顔で聞く。
    「別になんでもない、なんでもない」
    「それに隊長までなんですか」
    「俺は違うよ」と心外だなあという声を出したと思ったら、「ただ、そう、ハネムーン症候群ねえ」
     後藤は色っぽい呼び方が気に入ったようで、まんざらでもなさそうに繰り返した。そこで第二小隊の漫才には付き合っていないといわんばかりに南雲が「後藤さん」と強く声を上げる。
    「ほら、写真を撮らないなら行くわよ」
    「撮ります、すぐ撮ります!」
     慌てて野明が仕切り直すと、南雲はいらいらとした顔をしながらも歩みを停めてくれた。こういうところに寬容さが現れる人だ。
    「じゃあ並んで、ちょっと寄って……そうそう、で、なにかポーズ取っていただけますか」
    「ボーズって言われても……」
     南雲はそう戸惑う素振りを見せながら、荷物を申し訳程度に映えている草むらの上に置いて、後藤の隣で手を前で軽く組んだ。
    「ありがとうございます! せえの」
     ズームして上半身がほどよく入るように調整してシャッターを押す。切り取られた二人は、同僚というより戦友のようにも見えた。
    「どんな感じ?」
    「こんな感じです」
     興味を示した後藤のために、野明は記録された写真を液晶に映し出す。
    「南雲さんしかめ面だね、撮り直す?」
    「けっこうです!」
     ほら、行くわよ、と催促する南雲のことを気にすることもなく、後藤は野明に「それ、使い勝手いい?」
    「いいです、片手でだいたいの操作ができるし」
    「へえ、ちょっと貸してみてよ」
     野明からデジタルカメラを受け取った後藤は、確かに片手で行けるねえと感心しながら、道路の方にレンズを向けてピントを調節してみたり、と思ったら限界までズームして、よく見えるねえと感心したりしている。
    「隊長もデジカメ買ってみたらどうです?」
    「うんまあ、そうだなあ。これメーカーどこ?」
    「後藤さん!」
     際限なく脇道に逸れそうになったところで、ついに耐えられなくなった南雲が、顔を赤くしながら吠えた。
    「あ、はい行きます! 泉、ありがとな」
     そうしてすたこら歩き始めた南雲の後を追って、上司がひょいひょいという風体で慌ててオフィスへと去って行くと、また野明と太田だけが残された。
    「隊長も尻に敷かれるタイプだよね」
    「あの人の場合、面倒なことは全部南雲さんに任せてるようにも見えるな」
     太田が意図なく厳しいことを言った。
    「ま、さっさと撮っちゃおう。太田さんポーズ取って、こんな風に」
    「だから俺の力こぶを見て、本当に香貫花が喜ぶのかあ?」
    「大丈夫喜ぶって、はい撮るよー、で、次はこんな風なのとか」
     本当かぁ? とまた大きな声が響いた。

     急速に発達した通信網の力によって、写真を撮った二日後には、香貫花からの返信が野明のアドレスに届いた。海の向こうの戦友は、なんだかんだ言ってまめで情に厚い。
    「ほら、太田が相変わらずで安心しました、って」
    「褒められてる気がしないぞ」
    「そりゃそうだろ、相変わらずなんだから」
    「篠原ぁ、お前それはどういうことだ!」
    「どうってそりゃ」
    「あーっ、二人とも朝からやめなよ!」
    「他にはなんて書いてあるんです?」
     進士が大人らしいスルー力で場に水を差してくれ、野明はありがたくそれに乗った。
    「みんなに一言あるよ、この夏にまた来るって。あとは……」野明は眉を少しだけ寄せた。「隊長宛の、時計お似合いですってなんだろう、なんか写ってたのかな」

     さて、あの食わせ物の日本の上官は、メッセージをどんな顔で読んでくれるのだろうか。
     香貫花はふふっと笑って、ブラックコーヒーを口にした。
     朝のマンハッタンはいつも通りの喧噪で、行きつけのベーカリーから眺める風景は、目を閉じても再現出来るほどだ。
     あと数ヶ月経ったら、斜め前のドーナツスタンドの前に止まっているパトカーの側に、自分が率いるNYPDレイバー部隊の新型機が並んでいるかもしれない。アシモフの機体はシノハラとは全く違う視点から設計されていて、先月日本から出張してきた後藤もしきりにへー、とかはー、と声を出して、そして泉や篠原が見たら興奮するだろうとか、先月来たシゲさんの様子が見たかったとか、南雲さん乗りたがるだろうなあと感想を述べていたものだ。
     そして帰国する前日、少ないが自由に出来る時間が空いたからと、後藤が香貫花にこんなことを尋ねてきた。
    「香貫花、ここから三十分ぐらいで行ける範囲で、時計やとかないかなあ」
    「時計ですか?」
    「ああ、俺のもだいぶ古くなってきたから、そろそろ買い換えどきかなって」
    「思うのですが、日本で買うのと大して変わらないと」
    「そうじゃなくてさ、ニューヨークで買った、っていうハクが大事なわけよ。俺みたいな俗物には、特にね」
     あのときに求めていたハクは、大事な人に相応しいなにか、というわけか。
     野明から送られてきた写真の南雲の腕に巻かれていた、あの日案内した時計ブランドのウィメンズモデルのフォルムは確かに彼女に似合っていて、後藤の見立てに素直に感服してしまう。とはいえほんの半年在籍しただけでもわかるほどに、後藤の恋情は強いものだったから、ずっと見つめていた人に贈る物の見立てが完璧なのも当たり前なのかもしれないが。
     あと、野明からのメールには、隊長は橈骨の神経を痛めているともあった。釣り合わないようでよく似合っているともいえる二人が、ハネムーン症候群に悩むほど幸せな朝を迎えているとはめでたいことだ。
     香貫花の口角が自然に上がっていった。脈があるかといえばないように見えたが、南雲のかたくなさを乗り越えて手を掴めたのはなによりのことだと思う。香貫花は後藤のことを彼女なりに尊敬していたし、なにより、あのとぼけたふりですべてをごまかしている上司をからかうネタが出来たのだ。それに勝る楽しみが果たしてあろうか。彼女は残りのサンドイッチを食べながら、鼻歌交じりに今夏の長期休暇の計画を描き始めた。
        

    「で、なにを探っているの」
     風呂上がりに寝間着のズボンだけはいて、台所で牛乳を飲んでいたら、先に寝る支度を済ませていたしのぶが表情も変えずに尋ねてきた。
    「ん?」
     唇を白くしながら行儀悪く返事をすると、しのぶがちゃぶ台に頬杖をついて、後藤を見上げてくる。洗い立ての髪を雑にまとめて、すっぴんのまま上目遣いで自分をみている姿はいつでも胸をときめかせるものだが、しかし今は、昼間仕事をしているときによく向けられる醒めた目なものだから、後藤は少しだけ身構えてしまった。
     同じ職場で、同じ仕事に従事する、同じ階級の人間同士であることは、後藤としのぶの間の根本にあるものであり、職場と私生活は分ける、という目標を掲げたところで、実際は仕事と立場と私生活はすべて絡み合い、ほどくことも出来ないほどに二人の間に溶け込んでいる。
     後藤は目の前の同僚に、なにをどこまで明かすべきか、それともまた流すべきかとわずかの間だけ迷った。もしいつも通りにごまかしたとして、しのぶはため息をついて、それで終わりにしてくれるだろう。後藤は飲み終わったコップを流しに置いて、しのぶの前に座ってから、おずおずと切り出した。
    「いつ気付いたの」
    「先月、泉さんのデジカメを試してるふりをしたでしょ」
    「ああ、あのとき……」
     先月、泉が太田をけしかけて写真を撮っていた風景が思い起こされる。
     あの日、液晶画面越しに、さも性能を確かめていますという振りをしながら思い切りズームをかけて、先ほど道を通り過ぎた瞬間に目の端をかすっていったなにかを探したが、そのときは、それがなになのか皆目掴めなかった。一月経ったいまも、探しているものの全体像を掴めているとはまだ言えない。
     つまるところ、勘で動いているだけだ。自分の勘ほど信用できるものはない。これまでも、これからも、後藤が一番信じ、重んじるのは自分の勘であり、それが後藤を支える基礎であると言えた。ただし、それは何も証明してくれないし、警察官である自分を重んじる以上、物理的でも状況的でも、証拠がない推論は推論でしかない。
     しのぶはなにも言わず、ただ後藤の次の言葉を待っている。初めて互いに名乗り合った日から数年、彼女はとても辛抱強くなった。
    「……気のせいだと思いたいんだけど、監視されてる気がしてさ」
    「先月から?」
    「いや、年明けから」
    「もう三ヶ月以上経ってるじゃない。証拠は掴んだの?」
    「それがね、車の影が見えたり、見えなかったり。車も多分レンタカーなんだと思うんだけど、毎回ばらばらだから、俺が過敏になってるだけかもしれない」
     しのぶは湯飲みの白湯を口にしながら、目で続きを促した。しのぶは後藤に対してこんな風に信頼を示してくれる。
    「気付いた限りではだいたい週に二度ほど、でも曜日や時間はバラバラ。出動がないときは大抵午前中から五時間ぐらい張り付いてて、出動するときはついてきて、収めたころには消えてる」
    「マスコミという可能性はないの?」
    「それももちろん考えてる」
    「誰がなにに興味を持つかなんて本当にわからない世の中よ。それこそ第三小隊が立ち消えになった顛末とか」
    「ああ、確かにねえ。それだったらいいんだけど」
    「でも、違うって思っているんでしょ」
     その言葉に頷く。そしてほんの少しだけ、ばつの悪い顔をしているだろうなと思った。週刊パトスあたりの取材力がある大衆週刊誌がなにかを嗅ぎつけている可能性については、監視に気付いたときに違うと結論を出している。なにがいざなのかはわからないまま、いざというときごまかすカードに使えるとも思っていたが、そんなに甘くはないようだ。
    「取材というよりも、観察に近いかな」
    「監視とか観察って言われると、とたんに気持ち悪くなるわね。今もどこかで見張られているように思えてくるわ」
    「実際わからないんだよね、一回監視されてると気付くと、いつでも見られている気がしてさ。だから自意識過剰なのかとも疑ってたりもしたんだけど、実際は家を壊された市民のみなさんに依頼された弁護士が、訴訟の前に下調べしてるだけかもしれないし」
     後藤としのぶは同時にため息をついた。商売柄、監視されたり恨まれるのも仕事のうちだし、ましてや「未熟で乱暴な仕事ぶり」というイメージはいまだ根強く、運用している機材も機材だから、一回のミスがとんでもない惨事を招いたりする。だから他の部署よりもやや多めに恨みを買いやすく、そういうところも警視庁のお荷物として扱われる理由の一つであった。もっともそんなことは部署が立ち上がる前にとっくに想定されていたことで、だからこそ真面目すぎて警視庁の論理に迎合しないしのぶや、本当の厄介者である後藤を、責任を押しつけ首を切る口実にするために異動させたのであろうが。
    「うちは想定外の破壊はほぼないわよ。だとしたら、第二小隊のとばっちりを課全体が受けているってこと?」
    「うん、そうだとしたら、ごめんね」
    「謝っても遅いわよ」
     しのぶが呆れたように言う。どうやら納得してくれたかな、と思ったら、彼女がまた真面目な顔をして、じっと後藤のほうを見た。
    「本当に、それだけ?」
     うん、と即答するタイミングを逃してしまい、後藤はぐっと口をつぐんだ。
     二課で働く以上、大小の恨みは買うだろうと思っていたし、そのときに責任を背負うのは後藤であり、あるいはしのぶ、そして福島だ。上に立つというのはそういうことだ。
     しかし、一方で、後藤はどうしても、後藤喜一という個人に対しての監視なのでは、という疑念を否定できないでいた。監視しているなにかは第一小隊が出動したときも、隊を追って埋め立て地を出て行く様子が見られる。しかし、いくらなんでも毎回つかず離れずでつけられたなら、第一小隊の誰かが必ず気付くはずだ。警察官としての基礎を身につける前に赴任してきたものばかりの第二小隊と違って、第一小隊の隊員は警官としての経験が豊富なのだから。
     前の部署でも、その前の部署でも、優秀と称えられ、そして部署の全員から敬遠されていたのをいいことに、治安や仕事という言葉で責任を放りだして好き勝手にしてきたから、いつしっぺ返しが来てもおかしくないと、後藤はそう覚悟しているし、すでに一度復讐を試みた人もいた。あのときは運良く証拠を掴んで、祖父江一家が容疑者だと絞れたうえに、たまたま手作りのへっぽこレイバーで襲ってきたものだから、幸い誰にも被害が及ばなかった。そう、たまたまの話だ。
     つまるところ、思い当たる節がありすぎて、証拠がないうちは用心する以上の対応策がない。だから、これ以上話すことはない。
     合理的かつ簡潔な話だし、そう説明すればいいだけなのだが、しかし後藤はそれもごまかしだと知っている。しのぶは自分の悪評をさんざん知っているとはいえ、それでも自分の勘を、つまりは過去を、洗いざらい話すことについてはどうしても躊躇してしまうのだ。
    「……言えない? それとも言いたくない?」
     しのぶが沈黙をやぶり、そう問いかけてきた。優しいとも悟っていると取れる、すべてを認め、許容してくれている落ち着いたトーンだった。だからこそ、その一言に心の奥のほうに冷たい水が入り込んだように感じる。急にタバコがほしくなり、手が無意識にちゃぶ台の灰皿へと動いた。火をつけて、ニコチンで頭をすっきりさせて、そしてすべてを自分だけのペースに戻したい。
     しかし、後藤はためらうように指で机の表面をなぞっただけだった。
    「吸わないの?」しのぶが手を見て、次に後藤の顔を見た。「遠慮しなくてもいいのに」
     後藤は結局手を引っ込めて、代わりに立ち上がった。
    「ちょっとコンビニ行ってくるわ、アイス買ってくる?」
    「はい?」
     唐突なことにすっとんきょうな声を出したしのぶにむかって、後藤はばつが悪そうに微笑んだ。
    「……もうちょっとだけ、時間、くれない?」
     蛍光灯に照らされたしのぶの瞳にはまるい光が浮かんでいて、後藤はそれをまぶしいと思う。いかなる状況であろうが、腹立たしいことであろうが醜いことであろうが、目を開いているところがしのぶの好ましいところの一つだった。目を伏せて、世界のすべてを拒絶しているようなしぐさを見せることはほぼなく、逆にいつだって相手へと目を合わせてくるのだ。時間は欲しいが、でも彼女の瞳に対してなにもごまかしたくないと思うのは、ロマンが過ぎるだろうか。
     その目が少しだけ細められ、しのぶはさきほどより、もう少しだけやわらかい声でじゃあと言った。
    「チョコミント」
    「チョコミント、ね。女の人好きだよね」
     後藤はその辺に転がっていたポロシャツを直に着てから、もう一度しのぶのほうを見た。
    「……ありがとう」
    「はいはい」
     手をおざなりに振るしのぶにすぐ帰ってくるから、鍵閉めなくていいよと言い置いて後藤はまだ肌寒い夜の空の下へと歩き出した。
     すっかり甘えていると思う。
     後藤にしてもしのぶにしても、仕事の時は互いに厳しく、自分の隊の素晴らしさを誇るように嫌味を言い合うことも珍しくないが、これがただの男と女になるとまったく変わってしまう。
     後藤は愛したがりな部分が強いから、しのぶのことをぎゅうぎゅうに甘やかしてしまうし、しのぶもしのぶで、後藤のどうしようもなく弱いところをいったんは受け止めて、仕方ないわねと呆れたように笑ってくれる。まだ距離を取り切れていない過去のすべてについて、時間をくれることで甘やかしてくれている。彼女のことをもっともっと甘やかして、いわば家のソファで安心して昼寝をしているときのようにゆったりと過ごしてほしいが、自分はそろそろ甘えることから自立しなくてはいけないだろう。
     最初に自分の甘え方は健全ではないし、次に、人に寄りかかり生きることは、自分には無理なことだと後藤は思う。基本独りで立つことが、後藤の信条の一つだ。
     曇りがちの東京の空には、東から登ってきたばかりの不完全な月といくつかの惑星ぐらいしか星が見えない。ふと、いつかしのぶと天の川を見て感嘆の声を上げたいな、と思い、そんな未来を夢見てしまう程度には彼女に本気なのだと他人事のように思いながら、後藤はひとり微笑んだ。

     夜が更け始め、雨があがりかけている東京は肌寒く、海沿いでかつ建物が古い二課棟であってはいっそう、まだ春は浅い。エアコンで暖まった部屋で一人書類を片付けていたしのぶは、不意に時計を見て、伸びをした。午後九時すぎの二課棟は、当直の隊員や整備員以外はみな帰宅し静まりかえっている。まだ報告書が二件ほど残っているが、締め切りにはまだ余裕があるし、自分もそろそろ切り上げるべきだろう。これが去年の自分だったら意地でも机の上のものを綺麗に片付けていっただろうと思い、しのぶは知らず口の端をあげた。全力であることが優良であると思っていた働き方が変化して、無理をせずメリハリを意識するようになったのはここ半年のことだ。
     帰宅の支度をする前に一息入れようと給湯室に向かう。冷凍庫を開けるとそこに「泉」と書かれた大きなラクトアイスや「五味丘」と書かれたチョコモナカアイスが並んでいる。そのうちの一つ、「後藤」と書かれたチョコミントを取り出して、再び隊長室へと戻った。
     暖房を入れた部屋で、こたつで食べるアイスクリームってごちそうでなかった? と同僚が聞いてきたのは、後藤がここで初めて冬を迎えたときだったか。たしかに、子供の時、冬に食べるバニラアイスはとっておきのものだった。そうね、とそっけなく返事をすると、妙に嬉しそうに、だよね、とだけ返してきたものだった。
     後藤にとってはアイスクリームというのはほんの少しだけ特別なものなのか、それとも適度な贈り物と思っているのかはわからないが、先日しのぶがチョコミントフレーバーが好きだと言ってから、こうして時折冷凍庫に彼女宛のチョコミントアイスが用意されるようになった。自分の字で「南雲」と書くわけにはいかないから「後藤」と書いているのだろうが、恐らく第二小隊の面々は自分たちの上司がチョコミント好きだと勘違いしているのではないか。
     アイスを開け、誰も見ていないことをいいことに、蓋についたアイスをスプーンで削りながらしのぶはこのアイスクリームの意味を考える。特別なのか適度なのかはともかく、これが後藤なりの詫びの現れなのは確かだった。
     後藤が夜のコンビニにアイスを買いに行ったあの日、けっきょく後藤の口からそれ以上の言葉が出ることはなかった。これから互いに用心すること、監視について気が付いたことがあればすぐに相手に伝えること。それだけをミーティングのように決めて、それきりだ。後藤はおそらく自分の過去の行いになんらかの原因があると疑っていて、それが彼の口を重くしているのだろう。
     そのことをしのぶは理解出来ると思う。過去はその人個人だけのもので、基本としては人が踏み込んでいいものでも、勝手に探っていいものでもない。ましてや後藤はどのようなことであれ自分のことはひとり抱え込む癖がある。
     だからしのぶは、後藤が確信を持てたところで覚悟して自分に話すそのときまでは、ただ待つつもりであった。それは同僚として後藤への信頼以外の何者でもない。後藤は口八丁でありながら、一方で沈黙と熟考の意味をよく知り、不必要に口を開かない人間であると、この数年の付き合いでしのぶはよくわかっていた。
     しかしこうして、話せないことにある程度の苦しさを感じていると知ると、そこまで自分のことを責めなくていいのにと思う一方で、それが、後藤が勝手になにかを決めることを止めた現れにも思えて、ほんのりとした感情が心に湧くのだった。
     一口食べたチョコミントは、今日もさっぱりとした甘さで、しのぶは後藤の家の歯磨き粉のことを思い出しながらもう一口掬って口に運ぶ。あれはもう十日前のことで、それから怪しい車は姿を見せず、後藤も厳しい顔をして窓の向こうを見るものの、その車の影は見付からないようだった。
     そういえば、後藤の家にも、もう十日行っていない。とたんに部屋着の後藤に会いたくなって、明日でも訪ねてしまおうか、と思ったときにスピーカーからの警報音が建物内に響いた。
     警視庁から入電、という声を耳にしながらしのぶは席を立つ。さきほどまでの私人としての自分は奥にしまわれ、鋭い目つきのまま素早くハンガーへと急いだ。残りのアイスクリームは帰還してからのお楽しみだ。
    「隊長」
    「すぐ出られるか?」
    「五味丘巡査部長もすぐに」
    「急ぐぞ」
     早足で階段を下りると、整備員たちも慌ただしく装備の点検をしている。しのぶはきりりとネクタイを締め直しながら指揮車に乗り込み、前を向いた。
     
     二台目のピースメーカーをキャリアに載せたときにはとっくに日付をまたいでいて、第一小隊も応援に駆り出された野明ら第二小隊も、隊長二人も、誰もが皆疲労を隠さないまま、現場の惨状を見ていた。
     先行する第一小隊から救援要請が出た、と後藤から連絡が来たのが午後十時すぎ。遅くに悪いが急いでくれ、と言う口調はいつもよりシリアスで、野明は化粧をする間もなくスクーターを走らせた。
     こういう夜はこれまで何度もあった。規模が大きくなり興奮状態になっている集会、事前の情報以上の台数で立てこもる過激派、違法に輸入された軍用レイバーとの交戦。「悪いが」と切り出す後藤の声を聞くたび、野明は大きく深呼吸をして、覚悟を決めて夜の道を走る。自分が選んだ道が、ただのレイバー乗りではなく、治安という大きなものを担う一つの点になることだと、改めて思い出すからだ。
    「埠頭に乗り捨ててある盗難レイバーを回収するだけ、だったんでしょ」
     後藤が南雲に情報を確かめている横で、脚と腕一本がやられ、自立が難しくなっていたピースメーカーを野明は黙って眺めていた。これがアルフォンスだったら、第二小隊のイングラムだったらどの程度のダメージを受けていたか。自分たちならどう対応したか。
     そのとき、向こうから歩いてくる人影に気付き、野明は慌てて頭を下げた。
    「お疲れさまでした。……五味丘さん、大丈夫ですか?」
    「ああ、泉巡査。隊長にも伝えたけど打ち身ぐらいで済んだよ」
     五味丘はそう言って笑って見せたが、いつもあふれていた自信がそこから欠けていて、誠実さだけが弱く残っていた。
    「まあ、篠原のコクピットの強度設計に救われたようなものだな。前に――」
    「軍用の開発を進めているという噂も納得するほどの丈夫さでしょ」
     五味丘が一度言葉を切ったのは側にいる遊馬に対する配慮だったが、その遊馬は作業を続けながら、知っているし気にしないでくださいとばかりに、ただ手を上げてそう流した。野明はただのレイバーのパイロットとして、
    「わかります、イングラムに乗っていると安心感があるんですよね」
    「救急隊員の方たちも感心していたよ、市販のものなら、あの惨状ですとこんなものじゃすみませんって。篠原はいいものを作るよ」
     そこには仕事の相棒であり、命の恩人でもある自分の機体への心からの賛辞があった。野明も、さきほど自分が持ち上げた五味丘機を、五味丘の視線に釣られるように見上げる。機体としての仕事を果たし、ぼろぼろになった姿を痛ましいものではなく、よくやってくれた、と思えるようになったのはいつからだったのだろう。
     それにしても、と野明は口を開く。
    「それにしても、なにがあったんです?」

    「で、なにがあったの?」
     後藤の問いかけにしのぶはほんの少しだけ顔を伏せ、口を一文字に結んだ。
     その辺のブロックに座り込みながら、レッカーされていく指揮車に視線だけ向ける。あれは大してダメージを受けていないから二、三日もすれば戻ってくる。機体のほうはどうか。第二小隊の手を借りて持ち上げた様子では、八王子でないと直らないのは確実だ。
     とんとん、と軽く指で叩かれて、見上げると後藤がペットボトルの水を渡してくれた。黙って一気に煽ると、少しだけ気持ちが落ち着いた。
    「先月盗難届が出ていたタイラントが放置されているからと通報があったのが、午後七時前だっけ」
    「そう……。現場検証も済んで、うちの出番だということで近づいたのだけど」
     いまも耳の奥がキンとする。
     いつものように指揮車からフォワードに指示を出していく。後藤が言うように、回収するだけ、の任務だった。レイバーには使用された形跡も改造された形跡もなく、過激派が時にやるような爆発物などの細工も見当たらない。盗難したのち売り飛ばそうとしたもののなんらかの理由で放置することにしたのでしょうな。所轄の刑事は花粉で鼻をぐずぐずと言わせながらそんなことを言っていた。
     じゃあ持ち上げるぞ、そうインカムから声が聞こえた瞬間の閃光、そして音と衝撃。
     指揮車も大きく揺さぶられ、振動から軽く打った身体をどうにかすぐに立て直す。
     なにがあった! 無事か? どうした、返事をしろ! と叫ぶ自分の声が、他人のものように鼓膜に響いた。熱せられた鋼鉄と火薬のにおいが充満する外では、鼻をすすっていた刑事を介抱しているベテランの警官がまだ若い部下に叫んでいる、なにぼーっとしてるんだ本庁に入電、あと救急車、早く――
     入庁してから十年以上一環して現場で働いてきた警察官だ、小隊長に任命されてから今日まで、幾度となく惨事の渦中に巻き込まれてきた。事態が急変することも珍しくなく第二小隊の隊員がようやく全員揃った年末には罠に掛かり、隊員たちとともに監禁されたこともあった。
     しかし、初めてないことと、慣れることはまったく違う。
    「――とにかく、タイミングは完璧だった」
     コンテナに仕掛けられていた爆発物はタイラントを大破すると同時に、第一小隊の機体に深刻なダメージを与えた。
    「目的は警察……あるいは二課だったとしたら」
    「テロ、か」
     後藤が表情なく続けた。目にはなにも映らずただ遠くへと視線をやり、酷薄にも見えるその佇まいはまれに後藤が見せる素の姿の一つで、どこか爬虫類を連想させる。しかしすぐにその空気は消え、いつもの人間らしいとぼけた仮面をまとって、「第三小隊が頓挫してて逆によかったかもな。新人の塊だったら下手なことが起こったかもしれない。にしても、こりゃ当分忙しくなるな」と頭を掻いた。
     そしてほんの少しのあいだ、ふたりは黙って現場検証の様子を眺めた。今日と、これから訪れるものと対峙するまえに、わずかでも音のない世界で休憩しておきたかった。

     次の日は綿のように重い雲の合間からため池のように空が覗くような天気で、あまりにも穏やかなものだから、しのぶが目が覚めてから、昨夜のことを思い出すのに数秒ほどかかるほどだった。
     昨日は帰還後、次の日の段取りを確認したあと、宿直室で倒れるように寝入った。横を見ると泉もまだ寝息を立てていて、緊張疲れが課の全体を覆っていたことを改めて知る。枕元に置いておいた腕時計が指す時刻は午前六時を回ったばかりだ。あと小一時間ほど眠れるはずだが、二度目する気分にはならずに、しのぶはそっと身を起こした。
     化粧室でおざなりに顔を洗った後、とりあえずコーヒーを飲もうと、まだ人の気配がない建物をひとりオフィスへと上がる。はたしてドアを開けると、コーヒーを入れたばかりの香ばしい匂いがしのぶを迎えた。
    「……寝たの?」
    「多少はね」
     窓際に立って明けたばかりの風景を見ていた後藤は、昨夜と全く変わらない様子でしのぶに笑いかけた。
    「相変わらずタフね」
    「そうでもないよ。腰とかもうバキバキで」
     わざとらしく腰をさする様子は演技がかっているが、よく見れば無精ひげに覆われた顔は少しやつれているようにも映る。後藤がそんな様子なのだから、自分の目の隈も相当のものなのだろう。せめて疲れを顔に出さないようにしないと。
    「……今日一日倒れないようにね」
     マグカップにコーヒーを入れながらそう口にして後藤を気遣い、すぐに心の中で後悔した。淡々と伝えるつもりだったのに、あまりに感情が籠もりすぎた。制服を着ているとき、職務についているときはただの同僚としてお互いを扱うこと。そのルールを提示したのは自分だというのに。冷たくしないと思い詰めているわけではなく、そうして厳しく律しないと、最後引きずられるのはしのぶのほうだからだ。理性で表に出すすべてをコントロールしている後藤と違い、少しの油断であっという間に持って行かれるのが自分だろうと、しのぶはうっすらと感じている。自認している以上に、理性のブレーキが弱いのだ、後藤が相手の時には。
     しのぶの声と表情からなにを読み取ったのか、後藤の茫洋とした目にかすかな感情が浮かんだ。と思ったら、ふっと力を抜いたように笑って、
    「しのぶさん、今日の聴取って何時からだったっけ」
    「九時半からだけど、それがどうかしたの?」
    「ちょっと、温泉行かない?」
    「は?」
     突然の提案にしのぶがすっとんきょうな声を上げると、後藤は普段のようにへらりと笑って、
    「前に日帰り温泉なら付き合ってくれるって言ったじゃない」
    「言ったけど、あなた何言ってるかわかってる?」
    「わかってなかったら言わないよ」後藤はほんの少しだけ眉をさげて、優しい口調で言った。「人前に出る顔じゃないでしょ、これじゃ」
    「……確かにね、でも」
    「じゃ、ちょっと行ってこようか。ついでに朝飯も買ってきちゃおうよ」
     後藤は一見優しげで、実際有無を言わさぬ強い目でしのぶについてくるよう促した。時々、この男はこうして、人をたやすく従わせるときがある。

     二課のある埋め立て地から橋を渡り、通りを左に曲がってしばらく行くと羽田の街に出る。住宅街の真ん中に大きな煙突が見えてきて、すぐに早朝営業をしている銭湯が姿を現した。蒲田から羽田のあたりは黒湯が沸くんだよ、という説明でなるほど日帰り温泉だと納得はしたが、素直に銭湯でひとっ風呂浴びない? と言わないあたり本当にひねくれている。自分以外の誰がこの人に付き合えるのだろうと、しのぶは内心独りごちた。
     二課に置いておいた着替えをもって、途中のコンビニで化粧水を買って。早朝の銭湯は夜勤明けの人と朝風呂の習慣をつけた老年の人がぽつぽつと身体を清めていて、高い天井に響くのは水音だけという空間は、とても贅沢なものに感じられた。少なくともぬるい天然温泉に浸かっているときだけは、なにも考えずにいられるのがありがたい。中年になったら身体を甘やかすって決めてるの、と言って無理に連れてきたんだという態度を取った後藤だが、実際はしのぶが抱え込みそうになっている焦燥を見て取ったのだろう。後藤はこうやってしのぶを甘やかすのが上手い。それは二人の関係がこうなる前、同僚になってすぐに発揮されはじめて、はじめは自分を下に見ているのかと腹立たしかったものだ。そしていまは代わりに自分も後藤を甘やかすことで仕返しをしているような心持ちになっている。
     不意に隣の男湯から調子外れの鼻歌が低く響いてきた。それが後藤の声だとわかって、恐らくは無意識に出たものなのだろうと、しのぶは小さく笑った。

     あまり長風呂にならないようにと忙しない湯浴みだったとはいえ、広い空間で髪からつま先まで洗ったことで、身体以上に心が楽になった。清潔というのは健全さと密接に関わり合っている。ざっと髪を乾かしてから外に出ると、先に出ていた後藤がベンチからやあと手を上げた。
    「いい顔してるね」
    「おかげさまで。広いお風呂はやっぱいいわね」と言ってから、先に言うべき言葉を思い出して慌てて、「ごめんなさい、急いだのだけど」
    「いや俺も二分ぐらい前に出てきたから。じゃ、帰ろうか。の前に」
     後藤は徐に背中に置いていたらしいものを二つ手にした。
    「風呂上がりっていったら、これでしょ」
    「これって、コーヒー牛乳?」
     最近あまり見ない牛乳瓶に入った薄茶色の飲み物を見てしのぶは思わず声をあげた。
    「嫌い?」
    「嫌いじゃないけど、でも」
    「なに」
    「お風呂のあと、いつも牛乳だったからてっきり」
    「ああ」後藤はそういえばそうだねと瓶を振ってみせて、「給食のとき、ミルメークが出ると嬉しくてさ。三つ子の魂百までって本当で、いまも瓶のコーヒー牛乳見ると買っちゃうんだよね」
    「じゃあ銭湯に行くといつもコーヒー牛乳なわけ」
    「そういうこと」
     しのぶはは受け取ったコーヒー牛乳を器用に開けると、一気に煽る。なにか特別におもえてしまうのは、きっと瓶の牛乳自体が久しぶりだからに違いない。しのぶさんでも腰に手を当てるんだね、と小学生のように笑う男に、それがなにっていうのよ、と軽くにらんでやった。

     しのぶが昨夜の件について聴取を受けているあいだ、後藤は隊長室から一人、窓の外を見ていた。どうしてもあの車の影が脳から消えてくれない。今頃不審者情報として、しのぶの口から本庁の捜査員に伝わっていることだろう。
     恐らくは関連している、でも後藤の勘が告げるものであり、証拠も裏付けもない。そしてそれを調べ上げるのは捜査権を持つ警察官の仕事であり、いまの後藤の仕事ではない。せめて車種だけでもしっかり記録しておけば、レンタカー会社ぐらいなら絞れたかもしれないなと頭を掻いたときにドアノブが回る音がした。
    「おかえり、疲れたでしょ」
    「疲れたわよ。でも、昨日現場で倒された所轄の本木さんも、軽い怪我で済んだと聞けたからそこはよかったわ」
    「レイバー以外は軽傷が数名。不幸中の幸い、ってやつか。あるいは」
    「あるいは、たいした腕と言うべきか」
     しのぶが後を続けて、しばらくは重い空気が満ちた。もっとも、それを精査し、見極めるのもこの部署の役割ではないから、当分はもやもやとしたものが残りそうだ。だから、二人は揃って小さく息を吐いてスイッチを切り替える。
    「あ、そういえば、戻ってくるとき事務の中尾さんからこれ預かってたんだわ、はんこが薄かったから押し直して欲しいって。あとこれ。はがき、届いてたわよ」
    「はがき、誰から」
    「表には書いてないわね、自分で確かめなさいよ」
    「だよね。そろそろ印鑑も買い直すかなあ」
     ぼやきながら、しのぶの机へと向かい、書類とはがきを受け取る。パソコンで打たれた宛名にダイレクトメールかなにかかと思いながらひっくり返すと、美しい風景が目に飛び込んできた。

     手から書類が滑り落ち、はらはらと床に散った。
     後藤さん? 呼ぶ声が少しだけ遠くから聞こえる。

     ここは朝日カメラのグラビアを見ながら、東欧なんて生きているうちには行けないなあと笑っていたときの、あのクロアチアにある国立公園の滝の一群だ。東欧に行ったら見てみたいものだという、少しはしゃいだ声がすぐそこで聞こえた。まだなにも知らないくせに世界を知っていると勘違いした面々で一升瓶を二本ほど空けて、酔いに任せていくらでも馬鹿話をしても許された、若い日の話だ。
     わたしはモスクワよりも東欧やな、すぐ横に西欧があるのがええ。強気の笑顔に意味がわからねえよとどっと沸いた、もう忘れたはずの夏の日々が細部までありありと蘇ってくる。
     美しい風景を下敷きに、大きく書かれたmiss me? という癖の強い文字に、知らぬうちに奥歯を強くかみしめる。

     なぁ、会いたかった?

     自分の耳元にささやく声がはっきりと聞こえた。
        


    「篠原、お前稽古に付き合え」
    「シフトのど真ん中で柔道着に着替えてる暇があるかよ」
    「だったら進士」
    「勘弁してくださいよ、待機中ぐらいゆっくりしたいんです。ここのところ泊まりばかりでゆっくりできないんですから」
     むーっと吠えんばかりの顔をして、イライラを隠さずに太田が椅子に座り直す。中古品でガタが来ている椅子が、重い音を立てて軋んだ。
     第一小隊の機体が修理されてくるまでのあいだ、第二小隊がシフトを肩代わりして忙しくなるのは珍しいことではない。逆の場合もよくあるし、特に太田は機体の使い方が荒いから、彼の機体が八王子に行くたびに第一小隊が野明と一緒にフル回転するのもよくある話だ。
     ただし、それは平時の話だ。
     警察に対するテロが起こり、その対象として特車二課が選ばれた、となると話が別になる。
     以前、あの黒い悪魔との長い因縁に巻き込まれたときも似たようなものだったが、それでもあの事件はテロと言うより遊びの延長だった。人を傷つける悪意が動機でなく、自分が楽しむためなら人が傷ついてもいいという化け物の思考実験に付き合わされたようなものだ。
     本庁からひっきりなしに人が来て、入り口の警備が厳重になり、先日の事件の真相は警察へのテロだった、といううわさは本当なのか、と週刊誌の記者がランダムに突撃してきて、という風景のなかで働いていくストレスは、太田だけでなく野明も、遊馬も、この二課で一番精神が安定していそうな山崎でさえも抱え込んでいるだろう。
    「……でも、確かに気晴らしは必要かもしれないわね」
     昨日の出動の報告書のチェックが終わったらしい熊耳が、書類をトントンと整えながらそう、口を開いた。
    「ですね、だったら今日の夕飯、ちょっと手の込んだものでも作りましょうか。昨日大田市場に行ってきたから食材も揃ってますし、早取れのキュウリが何本かあるんですよ」
    「ほんと? ひろみちゃんのキュウリ絶品だよねー!」
     山崎はありがとうございます、とにこにこと礼をする。良質な土を作れて、進士についてコンピューターのあれこれを学んでいて、整備員に簡単な整備を習って、楽しいからと料理も少し手の込んだものを作って、しかも精神が強いとなると、山崎ほどの人間はこの世にほぼいないのではないか、と、野明はときどき賢人のオーラを同僚に対して見いだすのだった。
    「まあ、美味しいのも気晴らしになりますが、作るのも気晴らしになるんですよ。こう野菜を切るとか炒めるっていうのが」
    「へえ」
     野明にはない観点だが、わかる気がする。
    「あとはそうね……」
     山崎と野明がじゃあなにを作ろうか、と盛り上がる間、熊耳がさらに思案するように、ペンを口に寄せた。

     気晴らしをするのなら身体を動かすか、掃除をするかがいい、とは熊耳の持論だ。思い切り身体を動かし、痛め付けて、頭を真っ白にするか、なにかをとことん清潔にしてすっきりとリセットするか。
    「ついでに冷蔵庫も整理しましょうか。この前覗いたときひどい有様だったし」
    「ここんところ忙しかったから、みんな食べかけのもの投げ込んでそれきりですもんね」
     と言うわけで、なにかをとことん整頓すべく、女性ふたりは冷蔵庫を覗いて、なかなか悲惨なことになっている食べ物をポイポイと捨てて行った。半端に残された枝豆、賞味期限がかなり過ぎたプリン、乾ききってお茶を掛けてもどうにもならなそうな梅干し……。名前が書いてないものと腐っていたりしてどうしようもないものは有無を言わず捨て去り、名前が書いてあるもの、例えば古賀と書いてあるゆで卵は、一応確認を取っていく。
    「古賀さん捨てていいそうです。あ、隊長ー、冷凍庫に入ってるチョコミントのアイスどうしますか?」
    「ああ、捨てて置いてくれ」
     おざなりに答えながら、後藤は珍しく革靴を履いて足早に去って行った。おそらく課長室へ向かったのだろう。最近は後藤と南雲と、福島と本庁からの刑事とで会議をしていることが多くなっていて、またそれが今が異なる状態であることの証明のようだった。今日の議題はなんだろうか、警視庁警備部に送られてきた脅迫状について、なにかわかったことがあったとか。
    「それにしても、今どき新聞貼り付けた犯行声明なんて送ってくるんですねえ」
    「私は知らないけど、隊長、昔天津飯で脅迫されたんでしょ。それに比べたら新聞を切り貼りした声明はかなりまともじゃないかしら」
    「確かに」
     納得した野明を横目に、熊耳は躊躇ない手際で冷蔵庫のなかを次々と綺麗にしていく。
    「でも見てみたかったわね。あの後藤隊長に危機が迫ったときってどんな感じだったのか」
    「あー、でもいつも通りでしたよ、なんであんなに前の課長に恨まれてるのかはわからないけど」
     香貫花はなにかが違う、いつもの隊長じゃないって言ってたんですけどね、という言葉は寸前に飲み込んだ。
     熊耳がよし、と小さく声を上げた。ここのところの忙しさでたまりにたまった食べかけと消費期限切れの食べ物は一層され、冷凍庫は清潔になり、確かに気持ちもすっきりした。
    「あとは、この隊長が持ち込んだらしいタッパだけなんだけど。なにかしらこれ」
    「お弁当にしては大きいですよね」
     そのタッパの正体はその日の夕飯の時に明らかになった。

    「あ、隊長が家から持ってきてくれた野菜のトマト煮ですよ」
     山崎が皿によそりながらにこにこと紹介したときの隊員たちの顔はそりゃ見ものだった。美味しそう、とか、お見事、といった反応は皆無で、山崎以外の全員が全員、あの隊長が、ラタトゥイユもどきを作ってる、という驚愕しかなかった。そもそも家で料理を作って持ってくること自体信じられないだろうし、さらに付け加えるなら、料理をするとしてもおじさんらしく茶色くてソース味か醤油味のものばかり作っていると想像していたのだろう。もっともそれは間違いではなくて、普段は和食ばかり作っている。つまり茶色いものだ。
     ラーメンや牛丼で夕飯を澄ますことも珍しくないが、後藤はマメに自炊をするし、料理をするのもどちらかといえば好きだ。就職して実家を出てからもう二十年、独りで暮らすための技能はすべて身に着けていて、それを楽しむ術もある。料理についていえば健康に直結するとても大事な家事で、さらに自分好みの味が常に出てくる利点を考えると作り置きも苦でなくなるというわけだ。
     今も、無心でにんじんを刻みながら、次はセロリと新ジャガを千切りにして、と手順だけを確認していく。トントントン……とリズミカルに響く包丁の音だけが部屋に響く今は、午後十時過ぎ。
     料理はいいものだ。作っているときは余計なことを考えなくなるし、ストレス発散にもなる。ロマンチックなことをいえば、好きな人のために腕を振るうことも出来る。そもそも今日持って行ったラタトゥイユのようなものは、しのぶを初めて家に招いたときになにか一品作っておこうと思いついてレパートリーに加えた一品だ。日本家屋に住み、母親が普段から木綿や江戸小紋を着こなす環境で育ってきたのだから、がんもどきの煮物やとり大根のほうが口になじむのはわかっている。わかっているが、自分にだって少し見栄を張って洒落たところを見せたい欲がある。女性はトマト味を好むというおじさんらしい思い込みでの選択であったが、しのぶは、確かにトマト味のものは大抵好きよ、と喜んで食べてくれたものだ。もっとも彼女も最初は目を丸くして、あなたが、これを? と驚いていたのだが。
     それ以来しのぶが来るときも来ないときも、ラタトゥイユみたいなものはよく作っている。トマトはさっぱりとしていて、それでいてご飯にもパンにも合うので使い勝手が良いし、なによりひたすら刻む過程があるのがいい。トマトにカラーピーマン、タマネギ、ズッキーニに、とただ刻んで、刻んで、刻んで。
     トマト煮を一口食べて、美味しいとほころぶように笑ってから、次に照れてまた笑ったしのぶの顔がふいに思い起こされて、いますぐに会いたいと思った。毎日顔を合わせているのに、なぜか会っていないような錯覚から抜け出せないのは、恐らく混乱しているからだ。
     にんじんを切り終わって、後藤は小さくため息をついた。
     先日、はがきに記された文字をみたとき、らしくもなく人前で動揺をしてしまった。すぐにしのぶの存在を思い出し、「いやあボケたねえ」と適当な振りをする。しのぶも気をつけなさいよ、といつも通りに流してくれたが、その実ごまかされてはくれなかっただろう。そのあと特になにもないのは、同じ日、本庁宛に正式な犯行声明が届いて、警視庁全体が臨戦態勢になったからに他ならない。自分宛にも不審な手紙が届いたことは伝え、あの絵はがきは本庁へと運ばれていった。この手紙が届いたことへの思い当たりは、という問いに対しては、警察に入る前から恨みを買ってる人生ですから、思い当たることばかりで、と嘘はつかずに答えておいた。
     セロリを刻むスピードが一層速くなっていく。
     大学時代のほんの一時期については、あの時期に親しくした人間の話だけは、どうしても人に話せない。これは俺の事件だ、という強烈な自負と、いつかスタートに立たされてピストルが鳴らされるそのときまでは、という予感が、今日まで後藤を警察官としてここに縛り付けてきた。だからだろうか、あの若く愚かな時代の影が見えた瞬間、周りすべてから距離を取ろうとする自分がいる。
     いや違う。
     無表情なままじゃがいもを取って、まな板に置く。うっすらとした予感があったのに、人に過去を話すことにどこか臆病でるうちに、しのぶの隊に被害が及んだ。死傷者が出なかったのはただ運がよかったからにすぎない。
     じゃがいもまで刻み終わり、薄いフライパンにサラダ油を入れながら、シンク下を覗くと、目当てのみりんがない。そうだ、しのぶが切れていると言っていたじゃないか。
     夕方のニュースも終わった後の番組で、ほどよく古くて知っている味のものしかメニューに載っていなさそうな食堂で、あじフライと肉じゃがを同時に頼む健啖家の男にシンクロするように、後藤は知らずつばを飲んだ。さっくりとして肉厚なあじフライもいいが、出汁と新ジャガをけちらずに作った肉じゃがは一層輝いて見える。二課に勤める限り、昼ご飯は持参した弁当か自力で調達した食べ物か、上海亭の油をふんだんに使ったおなじみの味の中華しか選択肢がない。だしと醤油とみりんがきいた肉じゃがなんてここのところすっかり縁が無い。作ればいいのだろうが、じゃがいもは足が早いので、仕事などで結果無駄にしてしまう場合が多いのだ。画面の向こうでは、男が肉じゃが、最高と独りごちながら、ご飯と一緒に白滝を頬張っている。その姿を書類に目を落とす傍らちらちらと見ていたら、しのぶがモニターから目を離すことなく口を開いた。
    「もうみりん切れてたわよ」
    「ほんと?」
     そんなに顔に食べたいと出ていたのだろうか。思わず顎を撫でる後藤のことを見もしないままで、
    「肉じゃが程度だったら今度作ってあげましょうか。豚肉とジャガイモがあればだけど」
    「……肉じゃがなら牛だな」
     何も考えず、無意識の奥の方から出てきた言葉だった。しのぶがはじめてモニターから後藤へと視線を移した。
    「関東育ちにしては、珍しい味覚ね」
    「あ、いや、昔を思い出しただけで、普段は豚だよ」
     さらになにか、言わなくてもいいことを言おうとした時に、割って入ったアナウンスが響き、しのぶは「後をお願い」とすぐに小隊長の顔になって、素早く席を立った。
     そうして数時間後に帰還したときには出動前の空気はきれいに払拭されて、すべては日常に戻ったというのに、モニターから後藤をみたときのしのぶの目の色が、どうしても忘れられない。さみしいとも、いらだっているとも、当惑しているとも、そのすべてを混ぜ込んだような色だ。
     そりゃそうだろう。後藤は他人事のように思う。
     俺だって牛の肉じゃがを食べたいなんて言い出すと思わなかったよ。
     そもそも牛の肉じゃがなんてここ二十年食べていない。大学時代、うちは牛だったし関東人も牛に乗り換えるべきや、と一方的に言われながら、人のどんぶりにたっぷりよそられた思い出があるだけだ。あの忌々しい絵はがきをもらった日から、なにかがずれて、間違って接続しているかのように、後藤の中で混乱が生まれては消える。
     砂糖と醤油を入れたところで後藤はコンロの火をいったん止めて、ついにその場でしゃがみこんだ。平気でいることも職務のうちだからと一切表に出さないが、胃が重くて、しんどくて仕方がない。
     しのぶにこれ以上寄りかかるわけにはいかない。そしてピースメーカーがぼろぼろにやられていた光景が、どうしても頭から離れない。あれが自分の部隊だったらとか、仮に第三小隊が設立されていたらもっとひどい惨事だったかもしれないとか、そういう想定とは別に、自分の責任ではないと、そう正常に認知が出来ない。
     そう、一番混乱してるのはそこだ。昔はあれほど利用させてもらったのに。そして万が一、ついに事態が起こったときには、部下だろうが同僚だろうが立場だろうが、持てるすべてを手駒にする覚悟だったのに。
     ついこの前までの自分なら、今回のことを糸口として、ここから一気に過去にけりをつける策に打って出たかもしれないのに、今はそれが出来ない。部下たちを、しのぶを、二課を巻き込みたくないし、そもそも彼らは道具ではない。
     一方でそう考えること自体、自分に深刻なエラーが出ているように感じてしまう。こんなことはいままでなかった。祖父江が息子と仇討ちに来たとき前に出たのは、榊に状態を耳打ちされたからだと、皆には説明した。しかしレイバーがおんぼろでなくても、姿を見せることが一番合理的に解決出来ると判断したら、きっと自分は前に出た。
     不意に犬の遠吠えが耳に入り、後藤は我に返った。全く、情けないことだ。声を殺すように息を吐くと、もろもろが少しはましになった気がする。これまでだってこうしてどうにか飲み込んで、乗り越えてきたのだから、きっと今回もどうにかなるだろう。
         

     開けた窓から入り込んだ潮風が少しべたつくように感じたら、もう夏が近い。後藤はぐーっと伸びをしながら、裏手の堤防から見える海のことを思った。そろそろアジかゴマサバを狙える頃だ。なにをしても考え込むのなら、久しぶりに釣りに行って、太公望よろしくただ釣り糸を垂らしてもいいかな、と意味の無いことを考える。ここに来てしばらくの間は、整備員の一部に混じって釣りをやってはしのぶに怒られたこともあったが、今はもう混じることもないから、釣り自体とんとご無沙汰だ。
     しのぶさんを連れて行ったら喜ぶかな、そういえばゴカイとか触れるのかな。後藤が一人潮の薫りに誘われるように呆けている間にも、そのしのぶは黙々と書類を片付け、印を押して、一区切りとばかりに「よし」と声を上げた。
    「後藤さんのところにも長く迷惑掛けたわね」
    「お互い様だよ」
    「でも、後ろに信頼出来る部隊がいるというのはやっぱり心強いわね」
     心からの賛辞を耳にして、後藤はここまでの月日を振り返った。昔、仕事の合間に釣りをしていたころは、機材も人員も足りない状態だったからまるで予備兵のような扱いだったし、新型機とパイロットが揃って体裁が整ってから一年ほどは、同僚は素人集団に後陣を任せるなんて、と高慢な苛立ちを隠すことなく口にしていた。いま、第二小隊を一番評価してくれているのは、南雲と第一小隊の面々だ。しのぶの言うようにほぼ素人だった部下たちを育て、指揮官として運用を考え、自分も隊員たちも試し試され続けて、そうして今、ここまでの信頼を得られたことを後藤は素直に誇らしく思う。なのに一方、底に射す影のようなものを拭えないのはなぜだろう。
    「最後の一台は明日?」
    「そう、やっとよ。今回は長く感じたわ」
     首を傾けストレッチをする様子に、「なんならもんであげようか?」と明るい声で提案したら、けんもほろろに「けっこうです」と返された。そのリズムが心地よく感じられて、後藤は知らずかどが取れたような顔になる。どこか身構えているときには、なにもかも変わってくれるなと思うものだ。
     仕事の忙しさもあって、ここしばらくしのぶと二人で時間を過ごすことをしていない。それを寂しいと思いながら、どこかで胸をなで下ろすような気持ちがある。もし二人で会ったら、徹底的に壁を巡らしていつもの自分を演じるか、あるいは聞かせなくても良いことまで口にしてしまうかのどちらかな気がした。
     また潮風が緩やかに吹き込む。風が心地よく撫でてくれるうちに自分も仕事を済まそうとしたとき、控えめなノックがなされた。
    「どうぞ」
    「あの、後藤警部補」
    「ああ副島さん、どうしました?」
     事務職員の副島は、細面をまず後藤に、次にしのぶのほうに向けて、そしてまた後藤のほうに向けて、
    「あのですね……、以前言われてました特徴通りの、差出人不明で印刷した宛名書きの絵はがきが届いてまして。言われた通り極力触らないようにしてビニールに入れておきましたが、そのまま本庁に送りますか?」
    「――私から手続きを取りますので、こちらにもってきてもらえます?」
     奥に座るしのぶが、鋭く息を飲む音が聞こえた気がした。
     すぐお持ちしますね、と副島が去った後も、後藤は閉まったドアを見つめていた。そんな後藤の様子を見たしのぶは一瞬口を小さく、目の前の男の名の形に動かした。しかし後藤が振り返った時には彼女は仕事のとき用の何食わぬ顔に戻って、視線を机へと向けていた。
    「……あのさ」
     何を言いたいのか自分でもわからないまま、とっさに声を掛けたその響きに後藤自身が驚いたとき、今度は出動要請を告げるベルが鳴り響いた。
     ――東京消防庁より、火災現場にて爆発との報あり。複数のレイバーが破損しており、消防庁の依頼により特車二課の出動を要請。現場は江東区東雲……
    「こりゃ、忙しくなりそうかな」
     空気は一変し、二人とも瞬時にスイッチが切り替わる。しのぶは書類を乱雑に片付け、後藤はテレビのスイッチを入れた。今は民放が生放送でワイドショーを放送している時間だ。規模が大きいとなれば、各局が速報とともにヘリを飛ばす。果たして、画面の向こうでは、糸目のアナウンサーが「たったいま入ったニュースです」と真面目な面持ちで江東区の火災現場で爆発が合った模様です、繰り返します、と渡されたばかりの原稿を読み上げる。それを横目に見ながらしのぶは慣れた手つきで素早くブーツを履き、やや乱暴に席を立った。
    「後藤さん、それじゃ後は」
    「こっちも準備しておくから」
     いつも通り淡々と返事をしながら、後藤もまたブーツに足を通した。出動要請が重複することと向き不向きの関係から、熊耳を残して一号機で向かうのがいいだろう。テレビではアナウンサーが、ヘリコプターが届き次第現地の情報をお伝えしますと繰り返すばかりだ。
     足早にオフィスに向かい、「一号機、出動準備に入れ」と短く伝え、そのまま事務棟へはがきをすぐ本庁の大隅宛に送ってほしいと言づてに向かう。長い日になりそうだった。

     予防部の人員と鑑識とが、あれこれ確認しながら現場で話しているのを尻目に後藤としのぶが隊を撤収させたときは日も暮れ、燻されたような色の雲が頭上を覆っていた。
    「今回も人的被害がなかったのは幸いね」
    「東京消防庁肝いりの新型レイバー三台のみ、ならまあ、規模に比べたら本当に幸いだよ」
     二課と似たり寄ったりの、人影が見当たらない埋め立て地での倉庫火災は、煙と熱反応で偽装した可能性が高い先ほど消防庁の調査員が見立てを述べていた。火元へ急ごうとレイバー部隊がシャッターをくぐったそのときに、ドカンという破裂音と衝撃が走ったそうだ。その話を聞いたとき、しのぶの眉が少しだけつり上がるのを後藤は見た。
     二課の両小隊でがれきをどけ、レイバーを引っ張り出すまでを指揮しながら、後藤の脳裏にはまだ見てもいない絵はがきの風景が張り付いているようだった。次はブダペストか、それともついに崩れたベルリンの壁跡か。
     今度はなんと書いてきた? 楽しんでるのか、あざ笑っているのか、……それともいざないが記されているのか。いずれにしても二課に戻ったらすぐに特捜班に連絡をして、それから――
    「後藤さん」
     不意に低く、涼やかな声で名を呼ばれ、再び目の前へとフォーカスが戻る。
    「あ、終わった? うちもそろそろ行けるよ」
     なんでもないふりをして返事をすると、うちもあと少しよ、としのぶが返す。しかし、すぐに自分の指揮車には戻らずに、目にかすかな逡巡を浮かべた。が、それはすぐに意志の力で強い光へと変えられ、あと、と口を開いた。
    「明日の夜、時間あるかしら」
    「明日? いや、特には……」
     後藤は戸惑いつつ答えた。こういうときにしのぶがプライベートの話を切り出すことなどなかったからだ。後藤がなにに当惑しているかを正確に読み取ったしのぶは、
    「唐突でごめんなさい、さっき連絡があって私はこれから本庁に向かうから今のうちに聞いておきたくて。あ、あと、処理をお願い。多分直帰になると思うから」
     面と向かって予定を聞くにはこのタイミングしかなかったということなのだろう。それはそれでいいのだが、
    「それはお疲れさま。で、明日って」
     問いかけにはすぐに答えず、しのぶは顔を明後日の方に向けて、一呼吸分時間を取った。そして
    「……肉じゃが、うちならみりんがあるから」
    「……へ?」
     しのぶはさらになにか言おうとしたが、そのとき向こうから帰還出来ます、と五味丘からの声が聞こえた。
    「今行く」
     しのぶははきはきと答えた後、横目で後藤のことを見て、じゃあ明日、と去って行く。それとほぼ同時に山崎が「帰れますー」と合図を送ってきた。
    「おう、うちも引き上げるか。よくやったな」
     手を上げて答えながら後藤は先ほどの言葉をもう一度繰り返す。
     確かにいつでも作ってあげるといっていた。言っていたけれど、肉じゃが? しのぶの家で? 本当に?

     しのぶの家にはこれまで数えるほどしか行ったことがない。
     第二小隊がまだ準備段階だったころの大雨の日、車検中だという彼女に列車が止まったら困ると思いますよ、と半ば無理矢理送っていったのが初めてで、その後ふたりで小さな慰労会をした帰りに運転を買って出たり、急な発熱でしのぶが倒れそうになったときに残りの書類すべてを引き受けるからとやはり無理矢理送っていったこともある。そして、足をくじいた彼女の代わりに運転をした、あの台風の次の日。
     いずれのときも威厳ある門構えに内心おじけながら、運転席から玄関の引き戸を開ける彼女の背中を見送るだけで、敷居をまたいだことはなかった。
     そんな訳で、玄関どころかダイニングに通された後藤は文字通り畏まり、自分を小さく折りたたむように座りただ俯くばかりだ。
    「後藤さまにもいつもお世話になっておりまして。あのイタリアのトマト煮も、先日のセロリとジャガイモのきんぴらも大変良いお味でしたわ」
     しのぶがあと三十年ほど年月を重ねたらこの顔になるであろう、上品な顔立ちの母親にそう感想を言われたら、後藤は「お口に合いましたならなによりです」とまた慎みと恥じらいを混ぜ込んだ声で返事をするしかない。電話越しの人は、こんな楚々とした風情で着物を着こなしているのか、という感嘆もあり、しのぶもこれくらい格調高く着物を着るのだろうとも思う。この母親が片腕一つで育て上げた娘だ、後藤が知っている以上に端然とした振る舞いを身につけているに違いない。
    「お母さん、あまり後藤さんを困らせちゃだめよ」
    「あらいいじゃない、ようやくお会い出来たのだから母さんだってもう少しお話をしたいのだもの」
     玄関で挨拶をしたときから、しのぶの母親の態度は「娘が普段お世話になっている同僚」へのそれと同じくらい、「娘がようやく連れてきてくれた恋人」に対するものも含まれていた。アメリカ出張から帰ってきたころ、この関係について親に打ち明けたと言っていたので予想外でもなんでもない。ただ後藤のなかで、彼女の母親に会うときは結婚の許しを得るそのときだろうと勝手に思っていたから、大幅に前倒しされたことに、どこかついていけていないのだ。
     しかもダイニングテーブルの上に並んでいるのは、青菜のおひたしに、後藤のお裾分けが美味しかったから作ってみたというセロリのきんぴら、家で漬けたぬか漬けのキュウリとにんじんといった南雲家の家庭料理だ。そこにエプロン姿のしのぶが、「待たせたわね」と言って鉢を持ってくる。汁が少し残り、にんじんがごろりと転がった、新じゃがの照りも美しい思い描いた通りの肉じゃがだ。肉は豚。
    「さあ、遠慮無く食べてください。こうしてお食事出来る日を楽しみにしていたんですよ」
    「お母さん!」
     ごめんなさいね、母ったらお客さんが来てるからってはしゃいでるのよ、と困ったように笑うしのぶは娘の顔で、それこそ自室で抱いているときの恍惚とした顔よりももっと、恐ろしいまでに彼女のコアなものがむき出しになっているような感覚が湧き上がる。まるで本名を初めて知ったときにも似た感触だった。
    「それじゃあ……。遠慮無くいただきます」
     いつも通りに手を合わせてから、まずは、ここしばらく頭から離れなかった肉じゃがを口にする。醤油とみりんを出汁がまとめ、豚の風味も利いた味は、後藤の作るものよりも繊細で柔らかく、よその家の家庭の味そのものだった。
    「美味い、です、ね」
     自然と出た言葉に、しのぶの料理もなかなかでしょ、と母親が胸を張る。ちょっと母さん、としのぶが顔を赤くしながら軽く母親を小突くものだから、後藤もほんのりと紅潮する心地になった。炊きたての白米はつやつやとしていて、おひたしの上の鰹節は豊かに揺れ、汁物を入れた器は手になじみ、使い込まれた家具は温かく、どこを見ても質がよいものばかりだ。ぬかをかき混ぜるのはしのぶの役目で、このこぬか漬けをペットみたいに大事にしてるのですよ、と母親が言えば、また母さん、としのぶが困った顔で照れる。豊潤な生活、なんてどこかで聞いたようなキャッチコピーが浮かんだ。果たして端から見たとき、自分もこの家族の風景に溶け込んでいるのだろうか。
     そのとき、黒電話のベルが廊下から聞こえる。少し失礼しますね、と母親がすっと立ち上がりしずしずと歩いて行く。しのぶが最先端の携帯電話を拡張された身体のように扱う一方で、この家には変わらないものが確固として存在し続けているようだった。
     そうしてダイニングにしのぶと向かい合って座ると、妙な緊張が走る。その辺の新婚夫婦より共に過ごす時間は長く、ましてや男女の仲でもあるというのに、まるで見合いしたてのふたりのようだ。自宅に招かれて、エプロン姿のしのぶに料理を振る舞われるなんてシチュエーションに緊張しているのだろうか、それとも相手のテリトリーにいるから軽口もたたけないのだろうか。あるいは一人思い描く未来が少しだけ顔を覗かせたように感じているのだろうか。考えれば考えるほど違うところで気まずくなって、ぬか漬けを噛む音と母親が廊下の向こうで電話の相手に相づちを打つ小さな声だけがしばらくダイニングに響いたが、やがて後藤がおずおずと口を開いた。
    「肉じゃが」
    「はい?」
    「いや、食べたがってるの、覚えててくれたんだなって……」
     しのぶは後藤のありがとうという声を仕事のときによく見せる顔で聞き、覚悟を決めたように箸を置くと小さく呼吸を整えた。
    「もう、甘やかすのは止めたの」
    「え?」
     後藤のすっとんきょうな声に、しのぶはその凜々しい目で後藤だけを見つめて、
    「最初に言っておくけど、私はあなたの過去になんか興味はない。出来事にも、交友関係にも。興味があるのは今と、明日からのことだけよ。だからあなたが過去どんな人間でなにをしてきたかなんて、聞きたくもないし言わせたくもない。あなたが話したいなら聞くし、話したくないなら話さなくてもいい。ただ、これまでのすべて含めたものが後藤さん、つまり今のあなたでしょ。そして私はあなたがどんな人間でなにをしているかを知っているし、互いに無関係じゃいられない。これからうんざりするほど互いと向き合う覚悟もしてるのよ、驚いたと思うけど」
     しのぶはそこまで強い語調で一気に話して、冷却をするようにいったん深く息を吸った。そしてもう一度後藤の目を見て、
    「だから、あなたが食べたいというのなら牛だろうが豚だろうが羊だろうが腕を振るってあげるけど、あなたの過去のためには、肉じゃがもなにも作らない。もう、甘やかすふりをして互いに対して遠慮なんかしない」、そして視線を少しだけ、下に落として、綿に包んだものをそっと触るような声で繰り返した。「だって私は、今のあなたを知っているから」
     後藤はしのぶの独白を、口を小さく開けて聞いていたが、やがてしのぶと同じように俯いてうん、とだけ頷いた。
    「そうだね……。ちょっと忘れてたわ」
    「……もういいから、食べなさいよ」
     言った後に照れが来たのか頬を染めて、一方的に悪かったわね、といつものように謝られて、後藤は小さく気にしていないと笑った。廊下からは母親の声がまだ響いている。
    「そうそう母さんって長電話なの。……次掛けてきたとき、話が長くなりそうって思ったら遠慮無く切っていいから」
     しのぶがそう顔をしかめて生真面目に忠告してくるものだから、後藤は思わず吹いてしまった。

     しのぶの家から駅までの歩くには少し長い距離をふたりでゆっくりと歩く。食後のお茶までごちそうになったあと、これから、遠慮なくいらしてくださいねと丁寧に見送られたとき、うっかりおかあさん、と呼びかけそうになった。
    「あのさ、……これからちょいちょい留守にするかもしれないから、そのときはよろしくね」
     しばらく忙しくなるかも、と言うとしのぶは「高くつくわよ」といつも通りの調子で言ってきて、そして優しく背中を一回ぽんと叩いてくれた。
         

     ミーティングを終えて隊長室に戻ったしのぶは、自分の席に落ち着いてから、部屋のがらんとした様子を見渡した。
     自宅に招いた日に後藤が予見したとおり、男はちょくちょく本庁からの呼び出しに応じるようになった。江東区の倉庫爆破事件については、次の日に警視庁および消防庁に、前回同様新聞の切り抜きで作成された犯行声明が届いたことで、警視庁のみならず首都の治安機関に対する連続爆破テロ事件として、各課の先鋭たちが投入され昼夜問わず捜査が行われている。後藤に届く絵はがきと一連の犯行については、ただタイミングが符号しているに過ぎない。しかし、後藤やしのぶが属する法と犯罪の世界においては、複数の偶然が重なることはあまりなく、後藤の昔の知り合いがなんらかの形でこの事件に関わっている可能性はとうてい無視できるものではなかった。
     今日も午前中に二号機を率いて事故処理をこなした後、慌ただしく着替えながら「あとはよろしく」としのぶに伝えて、後藤はバスで一路本庁へと向かった。昼の首都高は混むとはいえ車で行けば楽なのに、車通勤を止めて一ヶ月定期を購入してまでいちいち公共交通機関を使うのは、後藤曰く「終電を言い訳に出来るし、あそこにいったら、絶対一杯引っかけたくなるから」らしい。前の部署への嫌悪が過ぎて、ついには飛ばされたという体裁で、自ら望んで特車二課に異動してきた後藤にとって、また古巣にしょっちゅう顔を出すことになった今の状況は、満員電車に揺られて通勤することよりもストレスがたまることなのだろう。
     一時期はしのぶがバス通勤をしていた。後藤の住む公団の周りにコインパーキングがなく、来客用の駐車場もよく埋まっているからだ。もっともこの事件が起こってからは家に行くどころかデートらしきものもしていないのだが。不意に後藤の肌にもしばらく触れてないことを思い出し、空の机の主にかすかに欲情し、そして制服を着ているにもかかわらずそんなことを思った自分に羞恥を覚えた。
     ほら、やはり自分のほうがうまく関係や感情を制御出来ない。
     窓の外の街は梅雨の到来を告げるねずみ色の雲が垂れ込め、蓋をされたように風がない。午後は第二小隊がもう一回事故処理に駆り出されたのみで、つまりはいつもと同じような日だ。ただ、同僚がいないだけで。あと三十分もすれば熊耳が今日の報告書を持ってくるので、後藤の代理として受け取るのがしのぶに託された仕事だった。
     気分を切り替え、土木レイバー学会からの依頼を片付けてしまおうとマウスでファイルをクリックしたとき、机に置いた携帯が小さく振動した。私用のものだ。
     通知を見て受信フォルダを開くと、差出人の欄に「後藤」とある。すぐにボタンを押した。
    「休憩してる」
     この上なく簡潔な文面だ。しのぶもすぐ返信を返す。
    「お疲れ様」
     すぐにまた、携帯が振動した。
    「あいたい」
     四文字のひらがなをたっぷり十秒ほど凝視してから、しのぶはまたすぐに文章を打ち込んだ。
    「迎えにいきます」
     送信ボタンを押してぱちんと携帯を閉じて、しのぶは寄稿へと集中した。今日はなにがなんでも定時に上がらなくては。三分ぐらいして携帯が振動したが、それを読むのは後にした。

     警視庁を出て左に曲がり、総務省の方へと歩いたあたりに車を止めていると、向こうから見慣れたスーツ姿が小走りにやってくるのが見えた。しのぶの愛車を見て顔を少し明るくし、そして素早く助手席のドアを開ける。
    「本当に来てくれたんだ」
    「当たり前でしょ」
    「いや、そうなんだけどさ」
     後藤は嬉しいものだね、と素直に礼を述べ、声と同じくらい素直な笑顔を見せた。そんな笑顔でさえもうさんくささが拭えないというのが、とても後藤らしい。
     しのぶはエンジンを掛けハンドルを切ろうとして、しかしいったん手を止めて、後藤の方を見た。
    「……疲れてる?」
    「まあ、それなりにね」
     目からはいつもの余裕が少し剥がれ、代わりに蛇のような鋭さが覗いている。ここは一線から退いた後藤にあざけりの視線を投げる人間と、後藤がいまだ隠し持っているであろう底冷えするような才能に怯む人間が同時にいる場所だ。摩擦でメッキがはげていくように、人が培ったなにかを削り取られるような心地になるのはしのぶも同じだった。
     後藤はしのぶの目に映った自分の目を恥じたのか、たちまちにいつもの表情を作って、「ここは肩が凝っていやだねえ」と今度は愚痴ってみせる。へらっと笑った顔に、しのぶは腹の底のほう、マグマのようにくすぶるものが放熱するのを感じた。理性的な振る舞いは後から手に入れた盾のようなもので、しのぶの本質はいわば火だ。
     今度はためらうことなくエンジンを入れ、一般道にしてはやや強めにエンジンを踏み込む。
    「入谷に行くならあっちの道じゃなかったっけ?」
     それともどこか当てがあって走ってる? と不思議がる後藤の顔を横目で見ながら、しのぶはそのまま日比谷交差点方面へとハンドルを取る。
    「当ては特にないわよ」
    「だったら」
    「どこまででも走ってあげる」しのぶはバックミラーに目をやったついでに後藤の顔を見た。「北でも南でも、西だろうが東だろうが、望むなら岬の果てまで」
     望むなら、ね、と強気に微笑んでブレーキを踏む。愛車はしのぶの手足で、いつでも思った通りに加速し、なめらかに止まってくれる。助手席に乗せる人は、家族以外だと数えるほどだ。振り返れば、知り合って間もないうちから、後藤と自分は助手席に乗り、そして乗せることに違和感がない関係だったし、それを不思議とも思わなかった。
     ――はじめからそんな関係だったのだ、私たちは。
     しのぶの言葉に後藤は隠すことなく戸惑いを浮かべた。サボタージュとも逃避行ともつかないいざないが、あの南雲しのぶの口から発せられることの驚きで頭がいっぱいなのだろう。
    「どこまでもって……、例えば会津若松の温泉でも?」
     おずおずと場所をあげる後藤にしのぶは強気の笑顔で答えた。
    「いいわね、今の時期の福島なら、そろそろ桃も美味しいし」
    「あの堅いのがまたいいんだよね」
     桃のみずみずしさが鮮やかに蘇ったのか、後藤の喉が小さく上下した。
    「そうだなあ、ずっと南にいってさ、瀬戸内を見ながら関門海峡の先までとか」
    「そのままどこか駅前のホテルで夜を明かして、そして最後は博多でラーメンでも食べる?」
    「中州でゆっくり酒飲みたいなあ。福岡はなに食べても美味いんだよ、知ってる? あ、でもしのぶさん、前にとんこつは苦手って言ってたから」
    「苦手じゃないわよ、ただ澄んだ醤油ラーメンが一番好きって言っただけ。それに博多なら水炊きも美味しいじゃない」しのぶは指で大事そうにハンドルをなぞって、とっておきの秘密を後藤に告げた。「私ね、この車となら、どこだっていけるのよ」
     話の勢いのまま東銀座から首都高の入り口をくぐり、後藤の住む入谷とは反対の方へ、非日常の方向へと車は進む。
    「さあ、すぐに浜崎橋ジャンクションよ、どこに行きたい?」
     後藤は上の方へと視線をやった。「そうだなあ」

     みなとみらいで首都高を下りて、海に沿ってしばらく車を走らせたら有名な公園に出る。デートスポットとして知られているだけあり、後藤としのぶの他にもカップルたちが体を寄せ合い、心地よい潮風に吹かれては花がほころぶようにはしゃいでいる。そんな中、控えめに体を寄せて歩く自分たちは、さながら中年の夫婦のように見えるのかもしれない。のぼせるような感情は色あせ、代わりに情と記憶で結びつけられているふたり。実際のところ、後藤も自分もあからさまな振る舞いがどうも苦手だから控えめなだけなのだが、一方でカップルと言われるよりも中年の夫婦と言われるほうが、違和感がないようにも思えた。
     それにしても横浜、山下のあたりとは。あの短い時間で考えた末の場所なのだろう。ここならどちらかに呼び出しがあったとしても、横羽線を上れば三十分もしないうちに二課にたどり着ける。しのぶにしても後藤にしても、すべてを捨てて地の果てまで行こうとするような、混じり物がない向こう見ずな若さはとうに失われた。想像の中では北海道の北の果ての岬を目指していたとしても、現実において横浜がふたりにとっての限界ということだ。
     それでも、これは立派な冒険であり、その証拠にしのぶはどこか気分が高揚しているし、後藤も心なしか顔から影が払われ、穏やかに木立の向こうの船に目をやってさらに海の向こうの国まで見るように輝いたと思ったら、そのまま先にある埠頭のほうへと顔を向けて、調子が外れたようなささやかな鼻歌を口にする。耳に届くのは知らない曲だ。港が見下ろせる、小高い公園……。歌声に誘われるように後藤の唇をみると、男はふと視線に気付き、照れたように笑って、「古い歌だよ、男の身勝手の」と説明した。
    「ひょっとして、思い出の歌なの?」
     後藤はしのぶの問いに答えず、マリンタワーを見上げる。
    「横浜の歌なだけだよ。この辺から馬車道あたりの古い感じが好きでね、若いときに小旅行気分で散歩に来たもんだよ。ところで」後藤はいったん言葉を切り、しのぶへと視線を下ろす。
    「しのぶさんんこそ、たまにこんな風に、帰る前にドライブをしたりするの」
    「まさか」
     今度はしのぶが、視線を海へと向けた。
    「休日にドライブならするわよ。運転していると気持ちがいいしどこにでもいけるもの。でもこの仕事に就いてから、このままどこかへ行きたいと思うことはあっても、こんなことはいままでなかった。そういう無責任で衝動的なことは苦手なのよ。知ってるでしょ」
    「じゃあなんで……」
    「あなたが、遠くに行きたそうな顔をしていたから」
     初夏の夜風がしのぶの髪を軽く乱した。それがベールになることを祈りながら、しのぶはもう一言、とっておきの本心の一つを付け加えた。
    「きっと私、あなたとならどんな無茶もやってしまうんだわ」
     不意に汽笛の音が周辺を包み、周りのカップルたちが驚いたね、と笑い合う声が潮騒のように聞こえた。そしてもう一度鳴る汽笛は海の向こう、言葉も違う地の果てまで誘う笛の音のように響く。
     後藤はしのぶの告白を冷たいとも咎に帰すとも見える顔で聞いていた。風に髪を撫でられ、目にはただ黒いものがぽっかりと浮かんでいる。その表情を崩さずに後藤はねえ、と顎でしのぶに海の方を指した。指し示した先には、横浜ベイブリッジの堂々たる白い支柱がそびえ立っている。
    「この前言ってたよね、もう互いについて無関係でいるのは難しいって」
     しのぶはただ頷いた。後藤は彼女の目を見ることを出来ないまま、ベイブリッジを茫洋と眺めた。
    「多分あんたも含めて、ここにいる誰もが、あの橋を見て、堂々たるランドマークだと感じたり風景として楽しんだり、あるいは旅情をかき立てられたりする。でも俺は、あの橋を落としたらどうなるか、落とすとしたらどうするか、そんなことを考える」男の口元にいやな笑みが浮かぶ。「俺は、まあ、そんな男だったわけよ」
     そして口元の嘲りはそのまま、目を薄い灰色の哀しみが霧雨のように覆った。総じて、諦観したかのようにたたずむ男は、まるで一人きりのようであった。
     しのぶは内心青息を吐いた。まったくこの男は独りでいることに慣れきってしまっているものだから。
    「そうね」しのぶもまた、橋を見た。「あなたならそれくらいは考えるでしょうね……きっと的確にやってみせる」
     そして表情無く自分を見つめる後藤に向けて、いつもの強気の目で、相手が決して聞き逃さないようにはっきりと口を開いた。
    「でも大丈夫。あなたはそれをしないし、そして誰かになにかをさせたりもしない、あなたには出来ない」
     きっぱりとそう言い切ってやったら、後藤はまるで不意打ちをされたようにきょとんとしてしのぶを見た。
    「ほんと?」
    「本当よ。私はあなたという人を知っているもの。安心なさい後藤喜一警部補。それに、私だってどんな理由であれ橋を落とす側の人間に惚れるなんてことはないわよ、そんなバカじゃないわ」
     そしてもし不安だったら、いつでも一発殴ってあげるからありがたく思いなさい、と付け加えると、後藤はついにそりゃおっかないなあと茶化して、そのまま面目ないという風に小さく笑った。
    「なんか、情けないこと言ったね」
    「本当よ、まったくとんだ甘えん坊だわ。……人には黙っておいてあげる」
    「勘弁してよ」
     後藤はたちまちに情けない顔になる。しかしみっともないところを晒したと恥ずかしげに顔を背けたときに見えたのは、間違いなく安堵だったはずだ。
     心の奥に棲む呪いとはこういものなのかもしれないと、しのぶはぼんやりと思った。払えたのかはわからない。
     ただ、いつだってここに帰ってくればいい、自分の居場所と、仕事を羅針盤にして迷子にならなければ。いつでもお帰りなさいと伝えてみようかと、しのぶは密やかに思った。

    「学生のころは、ジャーナリストになりたかったな……」
     閉まりきっていないカーテンの隙間からは、みなとみらいの観覧車が覗いている。結局山下公園から桟橋のほうまで二人で散歩して、伊勢佐木町のラーメンやで二人サンマー麺を食して腹を温めたころにはもう良い時間になっていた。みなとみらいのラグジュアリーなホテルでむさぼるように互いを奪い合ったあと、まるで逃避行ものの映画のように闇の中で二人で寄り添っている。職場まで首都高で三十分。二人にとって、ちょうどいい距離だと思った。
    「開高健のエッセイが好きでさ、それから『大統領の陰謀』とか。映画なんだけど、見たことある?」
    「今度見てみるわ」
    「見てみてよ、面白いから」
     胸に頬を寄せると、堅牢な手が髪を優しく撫でていった。男のしなやかで柔らかい胸筋を頬で味わう。昔から、普段だらけたように見せて、その実しっかりと体を鍛えているのだと、夏になり首と腕がむき出しになるたびに思っていたものだ。なめされた雄の身体に自分の身体を委ねるときは、互いを侵犯しあい、そして溶けて個と個という形が崩れるような感覚に陥るが、もちろんそれは幻影であり、二人は二人でしかない。それは孤独だが幸いなことだ。
    「向いてたと思うわよ、その性格なら」
    「なにが言いたいのさ」
    「別になにも」
     複雑そうに唸る声に、しのぶはくすくすと笑った。そして腕に寄りかからないよう頭の位置を動かして目を閉じる。肉の奥から響く鼓動が心地よかった。
    「……大学三年のころまでは、片っ端から新聞社を受けようと思ってたんだけど」
     しのぶは薄く目を開けた。後藤の手はまだ髪を撫でている。
    「ロマンチックってやつだよ、でも夢はいつかは覚める」
     身を軽く起こして、男の顔を見つめると、後藤は静かな目でしのぶを見つめ、そのまま天井へ顔を向ける。なにか遠くのものに視点を合わせているのだろうか。
    「少し長くなるかもしれないし、上手く話せるかわからないけど、いいかな」
    「話したいのならね」
    「話したいわけではないなあ」参ったね、というようにわざと明るくそうぼやいてから、後藤はしのぶを少し強く抱き寄せた。「でも、聞いてほしいかな」
     返事をする代わりにしのぶも後藤の脇に手を回し、抱きしめるように力を入れると、後藤がそうだなあ……、と言葉を選び始める。
     密やかに、後藤は過去を紐解いていった。

     警視庁の食堂でいいところと言ったら、安いことぐらいしかない。
     ローカルニュースが、午前中交通事故の処理に駆り出されたときの太田機を空撮した映像を見ながらうどんをかっこんでいると、「よう」と声を掛けられた。
    「後藤さん、最近こっちに詰めてるんだって?」
    「まったく、二課をなんだと思ってるんだろうね」
     後藤のぼやきに松井はまあまあ、といなしながら向かいに腰を落ち着ける。今日はカツ丼とひじきの小鉢、それに漬物というラインナップのようだ。
    「もう午後二時近いのに、松井さんも忙しいね」
    「そりゃこっちの台詞だよ、ここで昼飯とはあんたも大変そうだ」
    「午前中に一回出たから昼食べる時間がなかったんだよ」
    「あれか?」
    「そう、あれ」
     イングラムが、思い切りのよい動きで中古車を道路からよけている映像を見ながら後藤。「今は大井パーキングのそばの事故処理に向かってるって」
    「ここにいて大丈夫なのかい」
    「俺の部下は優秀だからね。とはいえ本当に仕事させてくれないんだもんなあ」
     言いながら、残りのわかめとなるとをさっさと掻き込む。先ほど大隅から後藤待ちだという連絡が来たばかりだ。ここでの用事をさっさと終わらせるためにも、さっさと会議室に向かわなくては。
    「まあ、松井さんが実働部隊にいてくれるなら鬼に金棒だ」
    「心にもないこと言わないでくれよ」
    「やだなあ、心底信頼してますって」
     本当だってば、と言いながら入れ替わるように席を立つと、松井はお疲れさん、と片手をあげた後、少しだけ案ずるような顔になって、「でもよ、後藤さん」と口を開く。
    「なに?」
    「ここじゃもっぱらの噂だぜ、あんたがこっちに帰ってくるんじゃないか。大隅さんはそのつもりで動いてるってさ」
     それは噂の耳打ちというより忠告に近いもので、後藤は「いやだなあ、厄介払い出来たものを戻す物好きなんていないよ」となんとか笑ってトレーを持った。ここは本庁の食堂だ、つまり目も耳もある。
    「松井さん」
    「なんだい」
    「本当、頼りにしてるから」
     大真面目に伝えると、松井は笑い返してきて、頑張れよと手を振ってくれた。足早にかつて歩き回ったフロアに向かい、お待たせしました、と誠意ない声で断り席に座る。
     それにしても本庁でそんな噂が飛び交うとは。火のない所に煙は立たないというが、この場合は誰かが火だねを放り込んでいる。後藤もかつて身につけた、物事をコントロールしたいときの常套手段だ。
     一部からわかりやすいほど疎まれていることを利用して、警備部一のはねっ返りと言われるしのぶの部隊しかなかった特車二課へと異動したのはもう何年も前のことだ。自分は現場にいたいのであって、公のためという大義名分で、一方的なゲームをしたかったわけではなかった。そんなゲームに興じていた未熟でうぬぼれていた自分と決別をしたかったのに、その才能ばかりもてはやされるのはもう沢山だった。
     ひっかかっていたことがあってようやく思い出したが、大学のときの知り合いの字に似ている。彼女が絡んでいるのではないか。ということにして、捜査本部に情報を渡したら、恐らくはあの激しくかけがえなく愚かしい大学時代を探られ、すねにある傷を暴かれる。そういう予測があったからしのぶに「しばらく忙しくなる」と伝えたのに、そうは進んでくれなかった。いや、忙しいことは忙しいのだが、こういう忙しさは想定していなかった。
     後藤が異動希望を出したときに、多くの人間は呆れたり喜んだりしていたが、何人かは信じられないという顔をして、部署にとどまるようにと説得を試みた。その変わり者の面子の一人が、当時組んでいた大隅だ。思えば冬にワシントンに顔を出す羽目になったのも、大隅がそう計らったからだ。あのころ警部補だった大隅はいまは警部で、公安二課で班を一つ任されている。かつての後藤がそうであった以上に優秀で野心がある男だ。そして自分たちは負け戦のための兵隊だと考える後藤と違い、公共についての責任の果たし方がやや荒い。消して嫌いではなかったが、そうなりたくなかった自分が大隅と言えた。
     その大隅が今回の連続爆破事件を仕切っている。総監直々の檄もあったとかで、やりがいもさぞあることだろう。しかし、だからといって後藤を、犯人に迫るカードだと言い張って捜査協力という形を整え、手元に置こうとするとは思わなかった。
     いや、大隅は自分の願望をくみ取り、そして利用しているのではないか。
     もともと警察官を志したのは正義感や生活の安定とかそんな理由ではなく、自分でけりをつけ、そして人生を掛けて証明しなければならないことがあったからだ。絵はがきを送ってきた人間は、そんな後藤の暗い決意を正確に推し量ったうえで、あえてああ言い放ってきた。
     一通目は「miss me?」
     二通目は「enjoy !」
     わかりやすい餌だし、俺はわかりやすい男と言うことか。確かに見えた獲物を追わない狩人などいない。
     どこにいる、どうしたい、どこに行けば足取りが追える、どう動けば誘い出せる――
    「……ということで、後藤、どう思う?」
    「あ、はあ」
     後藤は一度静かに瞬きをして、知った顔と知らない顔が混ざり合った、会議室の面々を見渡した。
     はじめは簡単な聴取という体で、自分と差出人の関係から始まり、性格傾向や、理想や思想についてどんな人間だったかといった情報を提供した。これで次に呼ばれるとしたら聴取という名の尋問になるな、と腹をくくっていたのに、大隅はまるで刑事部から駆り出された捜査員のように後藤を招き入れ、捜査情報を後藤に開示し、そして自分を部下のように重用している節もある。お前、いったん関わったらもう人に任せられないだろう、という、昔の後藤を知っている大隅なりの配慮なのかもしれないが、正直に言えばとても居心地が悪い。しかしそのことをおくびにもださずに、後藤はそうですなあ、と思案する振りをした。
     実際のところ、捜査員たちは先鋭揃いという評判通りに自分たちの仕事を着実にこなし、後藤が顔を出すたびに捜査は確実に歩みを進めているように見受けられる。
     今日もようやく篠原が捜査に協力し、破壊されたレイバーはいずれも随意契約により割安で提供されたフラグシップであり、自衛隊用レイバー開発にデータを収集そして活用するため、その旨が契約条項に盛り込まれていること、そして機体のデータによって、社外秘ではあるが篠原初の空挺用レイバーの試作機ができあがりつつあること、といった情報が出席者に共有されていく。そしてどちらにも篠原からの出向社員がおり、産業スパイの可能性を吟味するため人物照会をした結果、篠原や他のメーカーのフラグシップがどこに配置されているかの確認、といった報告が次々とあげられ、その上で第三のターゲットを絞りそれを餌にする策が討論されていた。
    「警視庁と同じ契約で納入された篠原のレイバーが標的だとすれば、相当絞りやすいんじゃないですかね。さらに、いずれも人的被害が極力抑えられる場所での犯行ですから、次も湾岸あたりと考えるのは、整合性もある」
    「そういうことは聞いてないよ、そうじゃないんだ、後藤」大隅はその人付きする笑顔を惜しむことなく後藤に向けて、ふいに挑むように目を光らせた。
    「なあ後藤、お前なら、次はどうする?」

     大隅班長、奥様から緊急のお電話ですという水入りで会議はいったん休憩となった。猛烈にタバコが欲しくなるが、代わりに自販機で甘いだけの缶コーヒーを買って、そしてポケットから携帯を取り出す。糖分を脳に行き渡らせながら、アドレス帳の「南雲」という文字をまぶしく眺めた。
     抱きしめて、髪の匂いを嗅いで。
     そうして息がしたくて仕方ない。
    「休憩してる」
     この奈落のような会議が終わった後に返信が来ていたら。そんな気持ちで打ったメールだったら、気まぐれか幸運か、すぐに返信が来た。「お疲れさま」という文字列を見て、今頃隊長室で一人真面目に仕事をしているであろうしのぶの姿がありありと浮かんでくる。片付けられていく書類、コーヒーの香り、また太田機に損壊が出たんですってね、予算が厳しいんだからもう少し気をつけてちょうだいと冷たく皮肉を言う声、でも最近はよくやってるわね、と気まぐれに褒めてくれるときの調子。意識する前に指が動いた。
    「あいたい」
     送信してから、机の隅によけておいた未処理の書類の束を思い出して、しのぶにさらにとがめられるまえにさっさと片付けなくちゃなあ、とぼんやりと思った。
     そのあと、彼女の愛車で二人、ささやかな逃避行に出た。一週間前の話だ。

     本庁の捜査会議にはあれから四度ほど呼ばれて、一方未処理の書類は五日ほどかかって片付けられた。本庁に行ってくるたびに疲弊している後藤に、しのぶには夏休みの宿題じゃないんだからこまめに処理しておけばいいのよ、としっかり嫌味を言われ、決済出来るものは代わってあげるから、余裕を持てるようにしっかりやすみなさいよ、と昼間の顔のまま労られた。一見、何もかも元のままだ。
     横浜のホテルで、柔らかな乳房の感触に酔いしなやかな裸体を抱きしめながら、昔の恋の話をしたあと、しのぶは仕事中でも、ほんの少しだけ恋人の顔で優しくしてくれる。なにより、本庁の帰りには、メールでも声でも必ず「お帰りなさい」と言われることに、後藤はなぜかどこかから救われる心地になるのだった。
     喫煙所にこびりついたニコチンの薫りを鼻から吸って、後藤は壁に寄りかかった。
     自分と、どう説明していいか未だにわからない旧友と、ゼミの後輩として入ってきた女。間に割り込んで来たわけではなく、自然と後藤の生活の中に入り込んできて、先輩私のこと好きちゃうの、とけらけら笑いながら牛肉まみれの食事を振る舞ったり、気が乗ったらスポーツの感覚で誰でも気軽に寝たりしていた。恐ろしく頭がよく、信用しないことの価値を知っていて、そしてアナーキー気質。強烈すぎて一度思い出したらまた忘れたふりをするのが難しい人間がまれにいるが、彼女はまさにその一人だった。
     結局旧友にかぶれてアナーキーに磨きを掛けたまでは関わりもあったんだけど……、と言ったところで、ここまで生き延びた褒美のように優しく髪を撫でられた。旧友のことをごまかして話したことには気付いていただろう。しかし彼女が前に宣言したように、話したことから先について触れてくることはなかった。代わりにただ一言、首の付け根に鼻を寄せて「あなたのせいじゃない、けど、あなた自身のものだわ」とだけ言って、布団を探って、手を強く握ってくれた。心臓に直接言っているような響きだった。
     逃亡ごっこの次の日から梅雨が戻ってきて、東京は毎日雨に濡れている。工事が止まる代わりに車のスリップなどが起こり、足場の悪い中の出動が増える時期だ。
    「おう、やっと会えた。ここじゃ久しぶりだな」
     声を掛けられて顔を上げるまえに、榊はよいしょとひとりごちながら、後藤の隣に座った。
    「やっとって探してました?」
    「二号機の修理が終わったから、サインもらいてえんだ」
    「あ、じゃあ」
    「その前に一服させてくれよ」
     榊は断りながら使い込まれたライターをポケットから出して、たばこに火をつける。ニコチンを肺に深く吸い込んでから思い切り吐いて、満足の笑みを浮かべた。いつ見ても美味しそうにタバコを味わう人だ。そしていつものように一本吸うかい、と聞いてくると思いきや、思わせぶりに後藤を見て一言、「南雲さんのために禁煙したいやつがここにいるのは良策とはいえねえなあ」
     後藤はしばし絶句して、幼く見えるほど驚いた顔で榊を見た。それを見て榊はにやにやと楽しそうに笑う。榊に言わせれば、まだたった四十路の男が六十のようなふりをしているのが時におかしく感じられるが、若い顔になって驚いているいまがまさにそのときだった。その、まだたった四十の後藤は榊の笑顔にまた目を白黒させたが、最後納得したように「やっぱ気付いてましたか」と頭を掻いた。
    「だってよ、あんたがタバコを止めようなんて酔狂をおこすとしたら、理由になるのはこの世に一人のためだけだろうよ」
    「そりゃ確かにそうですわ」
     後藤は手品の種を知ったかのようにやられたと笑う。確かに、この職場において、後藤としのぶの関係の変化に気付くとしたら、榊以外にはいない。
    「それにしても南雲さんもたいしたもんだ、ヘビースモーカーの標本みたいな男が禁煙ねえ」
    「いや、南雲さんに言われたわけじゃなくいんですよ。俺一人ならどうでもいいんですが、副流煙っていうのがね、あまりよくないっていうから」
    「なるほどなあ」榊は気持ちいいとばかり豪快に笑った。「いい紳士っぷりじゃねえか後藤さんよ」
    「でもねえ、やっぱ横で美味そうに吸われると、ニコチンが恋しくて」
    「ほら、やっぱりいわんこっちゃない」
     榊はミイラ取りってやつじゃねえか、と灰を灰皿に落とした。
    「で、タバコを吸ったつもりになって考え事ってわけか」
    「まあそんなところです」
     手が無意識に、昔タバコを入れていたポケットを探って、空の手触りにまた勝手に落胆した。一本吸ったらあっという間にヘビースモーカーに逆戻りするからと、ここ一週間ほどは買い足してもいない。しのぶには、昔に比べても相当控えているようだし、別に無理しないでいいのにと言われているが、なにか一つ、自分にとって大きなことを乗り越えてみたいのだ。代わりに違うポケットに入れていたニコチンガムを口にすると、榊が親のような顔で笑うのが目の端に入った。まったくこの人には勝てるところがひとつもない。
     それでも喫煙所に来たのは、しのぶが足を向けないところで一人になりたかったからだ。
     彼女に過去の話を打ち明けたところで、しのぶも言うようにそれは後藤のものでしかない。だから、どうしても自分一人でしか背負えないし、それに人に見せるタイミングが難しい悩みや、底にこびりついたままの苦しみというのはある。ただ、前はぽっかりとした何もない場所でただ一人で立っているような錯覚を抱いたものだが、いまはしのぶがいつでもそこにいてくれるから、孤独でいたいときに孤独でいられる、そんな優しい幻想を抱いている気がする。
     とはいえ、現実に生きている社会人としてはいつまでもサボっているわけには行かないわけで、これを噛み終わったら戻るかと思ったとき、よう、とまた声を掛けられた。
    「……大隅さん?」
     後藤が顔を向けると、まさに大隅がぷくぷくとした手を上げている。雨が強いのか傘が小さかったのか大隅の恰幅が良すぎるのか、両肩の辺りが濡れている。
    「客人とあっちゃ、俺は行くぜ。後藤さんよ、書類は机に置いておけばいいかい?」
    「お願いします」
     榊の背中が去って行くのを廊下に立ちっぱなしの大隅と見送ってから、後藤はガムを吐き出し、来客の方を向いた。
    「一服してるって南雲警部補が言ってたけど、吸い終わってたのか?」
    「ええまあ。にしても珍しいじゃないの大隅さん、本庁から出るの嫌いなくせに」
    「ただ管理職が向いてるだけで、今だって用とあらば現場にも、こうして地の果てにだってくるぜ」
     大隅はそういいながら、左手に持っていた角形二号の封筒をちらちらと降ってみせた。
    「早稲田のときの女だっけ、それらしき人間の身辺調査が出たから興味あるかと思って」
    「やっぱり日本にいるのか?」
     思わず身を乗り出した後藤に、まあ落ち着けとばかりに大隅が大きな手のひらを向けた。
    「写真だけ確認してくれ。あとは捜査資料だから、協力を仰いでいるとはいえ、責任者の決裁がないと出せん」
    「責任者って大隅さんでしょ」
    「そうなんだよ、責任者は俺だ」
     貴族のようにふくよかな腹を揺らすように笑いながらしれっという。そして挑発するような強い光を目に宿した。
    「で、どうだ」
     まるで見透かしている、と言うような強い語調だ。
    「どうだ、ってなにがです」
    「人に任せるの、嫌いだろ」
     後藤は言葉に詰まり、大隅はますます確信を持ったかのように、
    「刑事っていうのはな、才能だしそういう生き物なんだよ。ウサギが住んでいる森があるのに、猟犬を柵の中に閉じ込めてるっていうのは、俺は無駄だと思うね」
    「持論ですか、イソップ童話ですか」
    「事実だよ」
     大隅も背広を探り、百円ライターとタバコを取り出した。そして遠慮無く紫煙を吐きながらお前ももう一本吸うか、と聞いてくる。いいです、と手でジェスチャーをしてから、後藤は自分のサンダルと、大隅のすり減った革靴を交互に見た。靴を履きつぶすのが勲章だったころの感覚はいまも忘れられない。大隅の言うように、間違いなく自分は猟犬なのかもしれない。
     人に任せるのは嫌いだろ、という声と、あなたのものだわ、というささやきが同時に耳に響いた。
    「……大隅さん」
     後藤は汚れたリノリウムの床を見たまま、客人に呼びかける。大隅は返事をする代わりに、また煙を吐いた。
    「いまの山には、確かに俺も関わってます。あんたの言うように、俺は刑事なんだろうし、これは俺の山だ」
     な、というように大隅が目の端で笑う。後藤は顔を上げ、でも、と続けた。
    「でも、今の俺には俺の仕事があって、同僚とも上手くやってて、多分、俺の性分にあってるですわ。だから、今回の件については、俺をどう使ってもかまわないし、俺もいくらでも協力する。でも、今回限りで」
     そのとき、また出動要請の無線が二課に鳴り響いた。今日の当直は第二小隊だ。後藤はよっと小声を出して立ち上がると、どこか晴れやかな顔で大隅を見た。
    「そんなわけで、俺は、俺の仕事をこなしてきます。写真は机の上に置いておいてくれるか、必要ならあとで本庁行きますから」
     ハンガーのほうがにわかに騒がしくなっている。それじゃ失礼しますわ、とまず靴を履きかえるべく隊長室へ急ごうとした後藤は、あ、と思い出したように振り返って、
    「大隅さん、俺、信頼してますから。じゃ、よろしく」
     そういって今度こそ小走りになる。雨の中ならスリップした車か、それとも工事を強行していた現場でなにかあったか。いずれにしても出動準備を急がなくては。
     一方、置いて行かれた格好になった大隅は、タバコを片手にぽかんとしていたが、灰が落ちそうになったのに気付いて慌てて灰皿に落とす。そして、一本決められたという感じに「ちぇ、いい顔してやがる」にやりと口をあげた。

     甲州街道での、雨の中の工事現場に大型車が突っ込んだ事故は思いのほか処理に手間取るものだった。泉と太田への指示と現状を確認しながら、最後は後藤自ら雨の中に飛び出して車の助手席から同じ年頃の男性を助け出し、その一部始終はいつも通り空撮されて、ワイドショーで流されたようだった。と、いうのも、帰還して隊長室に入ったらすぐ、しのぶがタオルを投げてきながら、「大活躍だったじゃない」と労ってくれたからだ。
    「そりゃ俺だっておまわりさんだからね」
    「自覚があって安心したわ」
     二人分のコーヒーを入れながら優しく言われると、どんなねぎらいよりも響くような心地がする。これが恋の効力ってやつか。一口飲むと苦くクリアな味がした。最近はしのぶがコーヒーの粉を買ってくるのだが、いずれも深煎りで酸味より苦みが強い物だ。
    「あと、大隅さんから電話があって」
    「電話? なにか置いて行ったんじゃなくて?」
    「封筒も置いていったけど、ついさっきよ。かけてきて欲しいって」
    「あ、そうなの」
     机の杖には喫煙所で見たものと同じ封筒がある。薄さからみて、写真しか入ってないだろう。定番の人物を特定しろということなんだろうな、と封筒を手に取りながら、後藤は受話器を取り上げる。
    「……あ、もしもし大隅さん、いま帰ってきて、これから封筒を見るのよ、遅くなってすみません」
    「それはもうちょっとあとでいい。それより、ちょっとテレビつけてみろ。NHKあたりがいいな」
    「テレビ?」
     後藤の声に反応して、しのぶが素早くスイッチを入れる。二人で画面を凝視していると、アナウンサーがスタジオで、繰り返します、と原稿を読み上げているところだった。テロップをみて、しのぶも後藤も、あ、と声を上げた。
    「繰り返しお伝えします。警視庁墨田署はさきほど、警視庁および消防庁を狙った連続爆破事件の容疑者を逮捕したと発表しました。警察によりますと、職務質問を振り切って逃走した被疑者を追跡、逮捕したとのことです……」

     へくしゅ、へくしゅ、とくしゃみを連発すると、無言でティッシュの箱が差し出される。
    「しっかりしなさいよ」
    「面目ない」
     後藤は素直に頭を下げた。

     運動部にいたこともないのに幸いにも立派に育った体格と、警察という武道スキルの取得を迫ってくる機関に就職してしまったせいで、二十代から三十代の頃の後藤は、人生で一番頑丈だったといえる。徹夜も短時間睡眠も当たり前、有休を使う暇もなく休日も声が掛かれば駆り出されて、しかもそれが楽しいと感じている時の話だ。大隅の言うように、自分には生まれついての狩人なのだろうと後藤は思う。ただ、犬というよりは野良猫の類いだろうが。
     しかしそれも過去の栄光で、年を取るにつれて身体のあちこちに徐々にガタがくるようになり、昔のような無茶はもう出来ない。
     しのぶはタフよねとよく感心してくれるが、普段休めるときに休むようにしているのと、刑事をしていたときに身につけたハッタリで自分にも周りにも暗示を掛けてごまかしているに過ぎない。確かに、いまだ体力は同世代の平均並み以上にある方だが、体力とあと気力だけで皆勤賞を取れる年齢はとうに過ぎた。
     なので、先日雨の中で職務に邁進し、身体を温める前にさらにもう一度出動したらこの有様だ。一日は風邪薬で症状を抑えて出勤したものの、同僚が顔をじーっと見た後に、呆れたという目になって「管理職たるもの部下の見本になること。今日はもう帰って、明日一日でさっさと治すことね」という苦言におとなしく従うことにした。
     それこそ若い頃なら、雨に打たれてそのまま寝ても、次の日は悲しいぐらいに元気だったというのに。しのぶに指摘された通り管理職として情けない、と帰りの支度をしながらため息をついた後藤に、しのぶは書類から顔をあげないまま「風邪を引かない人類はいないわよ、だからいい子で待ってなさいね」とそっけなく見送ってくれた。
     思えばひどい顔色をしていたのだろう、熱は一晩寝たぐらいでは下がらず、朝、目が覚めたときの身体の重さといったらなかった。空きっ腹に薬だけ入れてもう一度布団に戻りながら、自覚していた以上に疲れていたのだなと思った。
     次に目が覚めたときは夕方前で、体調はかなりましになっていた。テレビをつけると昨日電撃解決した爆発事件の話で持ちきりで、報道によると決め手は一般市民からのたれ込みらしい。
     一般市民、確かにそうに違いない。すべての出来事が解決したわけではないし、これからまたなにかが待ち構えているかもしれない。しかし、犯人は逮捕されたのだ、明日出て行けば細かいことまで聞けるだろうが、今は公には終わったことを確認すればいい。恐らく、通報してきた一般市民の声は、どこかハスキーだったはずだ。
     いつかに備えるという口実もあるし、とりあえずこの鈍った身体をどうにかするかなあ。そんなことを思いながらまたうつらうつらしていたら、不意にドアベルが鳴り、すぐ鍵が回る音がした。
    「いい子で寝てたみたいね」
     ふすまに手を掛けて、乗り出すように寝室を覗いてきたしのぶを見て、後藤は、知らず知らずのうちに、ずっとこの人を待っていたのだと自覚した。

     へくしゅ、へくしゅ、となおくしゃみを連発させてティッシュで豪快に鼻をかむ。そして鼻をすすりながら、お手数を掛けて申し訳ないと頭を下げると、その額に手が当てられた。ほのかに冷たくて気持ちが良い。
    「しのぶさんの手、冷えてるね」
    「あなたがまだ熱があるのよ」
     それはそうだ。
    「それにしても迷惑掛けたね」
    「たいした迷惑じゃないわよ、それに、安心した」
    「なにが」
    「あなたも人並みに限界があるんだっってわかって。そうじゃないとどこまでも無理しそうなんですもの。それにだいたい、その職務への誠意はなぜか日常業務に向けてくれるわけでもないし」
     辛辣な評に後藤が思わず苦笑したとき、電子レンジが出来上がったと音を立てる。この前まで、十年物の、ひねってタイマーをセットするシンプルな機種を使っていたが、寿命がきたのをきっかけに最新式に買い直したのだ。
     進士が推薦してくれた最新鋭の一つ手前のこの機種は、熱すぎるか底が冷たいままかの場合も多いが、設計上は指定した温度まで食品を暖めてくれる優れものだ。予算にもよりますが、機械に任せられるものはどんどん機械に任せた方がいいから、ケチるよりもいい物を進めますね、と実に合理的なアドバイスのおかげで、後藤の料理のレパートリーが三品ほど増えた。
     音に呼ばれて台所へと立っていたしのぶが帰ってきて、「はい」と後藤の前に大きめの湯飲みを置いてくれる。しのぶが持参した甘酒だ。
    「母さんの特製よ。南雲家では風邪のときに、この甘酒にすった生姜を入れて飲むの。とはいえ今日は手抜きさせてもらうわね」
     チューブの生姜をしぼりながらそう言い訳をして、改めてどうぞと言ってくる。乳白色の表面に崩れかけた米粒が見えて、とろりとした液体は眠っているようだった。
    「しのぶさんち、甘酒米こうじなんだね」
    「ひょっとして、酒粕のほうがよかった?」
    「いや、うちもばあちゃんがよく作ってたから、なつかしくてね。好きなんだよなあ」
     一口飲むと、濃厚だが甘すぎない味が口に広がった。混ぜられた生姜が良いアクセントになっている。
    「美味い」
    「よかった。母さんがね、後藤さんに是非ってうるさくって」
    「お母様にお伝えしておいてよ、良薬でしたって」
    「喜ぶわよ。残りは冷蔵庫に入れておいたから、早めに飲んでね」
     もう一口口にすると、全身によく知っているようで全く知らなかったよその家特性の甘さが染み渡る。もう一口、さらに一口……とゆっくり飲んでいると、様子をうかがっていたしのぶがおずおずと切り出した。
    「ところで……、大丈夫そう?」
     後藤は質問の意味を正しく理解し、湯飲みを置いて、そしてちゃぶ台の上で手を組んだ。
    「さてね。取り調べにはあけすけに話したし、これでいつでも俺と悪人を結びつけることが出来るようになったんだから、いつかそのときになったら、上の都合のいいようにつかうんじゃないの」
    「なに他人事のように」
    「俺の力じゃどうにもならないことに気を病んでもしかたないでしょ。それに、始末っていうのは生涯にわたってつけなきゃいけないもんだからね。それこそどんな些細なことでも。いじめっ子は勝手に忘れてもいじめられっ子は忘れないっていったの、しのぶさんんだったっけ」
    「さて、どうだったかしら」
    「まあ、つまりはそういうことだよ」後藤は頬杖をついて頬を指で撫でた。「このあとなにも起こらなかったり、起こったとしても解決出来ればめでたしで、なにか瑕疵が出たときにはそのときだ。俺としては部下に迷惑さえ掛からないように出来ればいいし、とにかくなるようになるでしょ」
     大隅さんが昼に届けてくれた物よ、としのぶが先ほど渡してくれた書類によると、正義とうぬぼれを取り違えた若いテログループ予備軍に、あなたたちなら出来ると甘言をささやき、資金と計画を授けたものがいたらしい。動機は篠原の軍用機製作阻止だというが、データの計測を阻止したところでもう設計も終わり、まもなくプロトタイプが出来上がるころなのだから、ただのデモンストレーションでしかないぞと刑事に言われて、話が違うと犯人の一人は落ち込んだそうだ。
     証拠を固めた上で教唆犯として手配することになるとメモ書きにあった、盗撮された写真に写る中年の女性は、知っている顔とも、他人のそら似とも思える。しかし、今日届いて、本庁にすぐ送られたという絵はがきにあった文字は、やはり見慣れた文字に見えた。昔の自分たちの欲しい言葉をささやけばいいのだから、さぞ楽に扇動出来たに違いない。そして「see ya!」という文字を見る限り、後藤の仕事はまだ終わってはいないようだった。
     だがそれも明日からの話だ。今日は終わったことだけを知ればいいし、今は風邪を治すことが先決で、もう一度第三小隊の話を軌道に乗せて、八王子に預けっぱなしの機体を二課に持ってくるのかを考えながら出動をこなすのかがいまの大事な仕事だ。地に足をつけて生きることは、年を取ったものの宿命のではなくて、老練の知恵を身につけたものにもたらされる道筋だと気付いたのはいつのことだったか。その上で、かつて青年だったころからの、空を見上げる視線をなくさないかぎり、人はどこまでも行ける。だから、今のところ人生は上々だ。
     もう一口、と甘酒を嚥下したところで、後藤の話を黙って聞いていたしのぶがそっと口を開いた。
    「ま、私も管理職だし、いざとなったら一人ぐらいなら養えるわよ」
     後藤は思わずしのぶの顔をまじまじと見てしまう。
    「……しのぶさん、それって」
     しのぶは静かな微笑みをたたえたまま、知っているといわんばかりの目をきらりと輝かせた。
    「でも、あなたこの仕事が好きなんでしょ、後藤さん」
     そして不意打ちにあって呆けている後藤を目にして口の端をあげる。嬉しそうとも得意げとも受け取れるあどけないものだ。ああ、と感嘆する。
     遠い昔から唯一得たいと思ったものが、今、目の前にあった。
    「うん……」後藤はただ小さく頷く。「……俺、この仕事、好きだわ」
     素直ね、という風にしのぶが小さく笑う。その音にならない声と、かすかに届く雨の音と、そろそろ買い換える古い冷蔵庫のモーター音以外は部屋にはなにもない。
     満たされていると思い、同時に満たされたいと思った。
    「あー早く風邪治さないとなあ」
    「どうしたの」
    「今すぐキスしたいのに、それも出来やしない」
     切ない欲望を口に出すと、しのぶが一瞬赤くなり、なかなかの力で腕をはたいてきた。
    「そんな照れないでよ」
    「照れてません」
     そんな態度で言われても、照れてるから素直になれませんと言わんばかりじゃない、と心の中で突っ込みを入れる。そして赤い横顔を見ているうちに不意に横浜の一夜を思い出し、いよいよ原始的な欲望が切迫するようにせり上がってきた。互いのすべてを食らうように交わってからもうしばらく経つ。その間しのぶをかき抱いて、立ち上る匂いを胸一杯に吸いこむこともしていない。もっとも、今日の体調だと勃つものも勃たないだろうが。
     次だ次、と息子に目をやってから、まだ赤い顔のままムスっとしてるしのぶを見ているうちに、やがて欲望の代わりに、だんだんと暖かな感情がせり上がってきた。
     去年までは咳をしても一人が当たり前で、この人のことはなにも知らなかった。たった一年前のことだというのに。
    「どうしたの」
     急に上機嫌な笑い声をこぼした後藤にしのぶは怪訝な顔になる。後藤は笑みを浮かべたまま右手を軽くあげた。
    「いやあね、この一年でさ、俺たちすっかり変わったって思ったらさ。去年までなにもしらなかったのに」
    「さすがに何も知らないってことはないんじゃないの」
     きょとんするしのぶをかわいいと思いながら、後藤は例えばさ、と指を折り始めた。
    「爪の形がとてもきれいなこと、プラネタリウムが好きなこと、仕事中でも時計をつけてくれること、チョコミントが好きなこと、銭湯や温泉みたいな大きな風呂が好きなこと、トマト味が好きなこと、ぬか床を大事にしてること、車の運転が好きなこと、コーヒーは深煎りが好きなこと、そして甘酒は米こうじが好きなこと」
     十、と指を折ってまた広げおわって、後藤はもう一度右手を、大事なものを包むように握った。
    「そんな風にさ、人生を拾えるっていうのは、なかなかの特権でしょ」
     にっと笑うと、しのぶはまた顔を赤らめて、しかし今度はつんとした表情を作った。この、相手の感情を知った上で澄ますときの顔を、後藤はいつも可愛いと思う。
    「そうね……」しのぶは少しだけ黙り込んだ後、一転していつもの勝ち気な目になって、「つまり、釜飯が好きなこと、ロケットに憧れていたこと、警視庁のそばにあるのとんこつラーメンが好きなこと、アイスといえばバニラなこと、風呂上がりにコーヒー牛乳を飲むのが贅沢なこと、料理で多少のストレスを解消してること、うちの肉じゃがを気に入ってくれたこと、固い桃が好きなこと、我慢してニコチンガムを食べてくれてること、そして、米こうじの甘酒が好きなこと」
     後藤の前で同じように指を折って数えたしのぶは、「本当ね、なかなかの特権」と幸せそうに笑った。「どうしたの、顔真っ赤よ」
    「まったく、そうやってすぐやりかえす」
     こっぱずかしさに子供っぽい悪態をついてしまうと、しのぶが小さく吹き出した。そのかわいらしい音に釣られて目をやると、楽しそうなしのぶと目が合う。また、底の方の欲望がそっと熱を持ち、たちまちにしのぶに感染した。
    「……早く、風邪治してよね」
    「うん……」
     キスのかわりに、ちゃぶ台にあった左手に手を重ねて、そっと指の間を撫でる。浅黄色に彩られた爪にそっと指を乗せると、しのぶが吐息を吐いた、気がした。
    「じゃあ……」一分ほどして、しのぶがそっと手を抜いた。もう片方の手で手の甲を大事に撫でて、「お粥作ったらお暇するわね。梅干しでいい?」
    「上等だよ、なにからなにまで悪いね」
    「高くつくわよ」
    「月賦で払うよ」
    「まったく、出来たら起こすから、バカ言ってる間にもう一度寝てなさいよ」後藤をそうして寝室に追い立てながら、小声で本当に早く治してね、と口走るのが聞こえた。それにセクシャルなものが入り込んでいる気がして、後藤はただ幸せになって、胸にその声をしまった。そして寝室のふすまを開ける前、「しのぶさん」と声をかける。
    「なに?」
    「来週、食事に行かない? 麻布十番の美味い店教えてもらったん」
    「来週ね、別にいいわよ」
    「とっておきの店っていうから、楽しみにしてて」
    「期待しておくわ」
     しのぶはうきうきするというように少し声を弾ませる。そして台所に向かう背中に、後藤はもう一度だけ「しのぶさん」と呼びかけた。
    「今度はなに」
    「もしさ、……もしそんときが来たら、バックアップ頼んでもいいでしょ?」
     そういって平気な顔を作って、同僚の目を覗き込む。しのぶの目に映る自分はどんな顔をしているのだろうと、そんなことを思った。
    「もちろんよ」
     返事は簡潔で、そして強いものだった。「ただ」と、しのぶは冷たい目を作って。「もし一つでも隠し事や勝手なことをしたら、本当のことを吐くまで尋問させていただきますからね」
    「おっかないこと」
     後藤がそう笑っておどけたとき、また玄関のベルが鳴らされた。
    「あ、そろそろ新聞屋かな」
    「出るわ、財布のお金足りる?」
    「五千円札、入ってたはずだよ」
     しのぶは勝手しったるとばかり、サイドボードから財布をとりだしてはーいと出て行く。そしてそのまま固まった。

          *     *    *

     しとしとと雨が降る中、お疲れという声が二課棟のあちこちから聞こえる。昨日、今日と幸いにも出動がなく、おかげで上司が風邪でダウンをしていてもまったく気にならないほどだ。第二小隊の面々は平和なのをいいことに書類を片付け、熊耳の仕切りでミーティングをして、定時になったら早々に帰り支度を始める。
     野明も更衣室へ向かいながら窓の外を見て、明日は出かけるにはあまりよくない日だなあとため息をついた。ここ数日は肌寒く、今朝は小さなくしゃみをしてしまったので、おとなしくしておくべきかもしれない。なんたって後藤すら風邪を引くほどの梅雨寒なのだ。
     一昨日の梅雨寒と強めの雨に濡れての出動は確かに辛かったので、後藤がダウンして早々に返されたと聞いたときは納得すると同時に、あの上司も風邪を引いたりするのか、と驚きもあったものだ。走ればすぐ顎が出るし、基本だらだらとしているくせに、計り知れない丈夫さを醸し出しているのだ、彼女の上司は。
     着替え終わってもう一度オフィスに戻ると、シゲさんがあーそんなーと大げさに感情を表している場面に出くわした。いつもながら舞台俳優のような所作だ。
    「どうしたのシゲさん」
    「いやあね、書類のはんこ漏れが見付かってさあ。後藤さん今日休みだから南雲さんか熊耳さんの印が欲しいんだけど、二人とも上がっちゃってて」
    「明日には隊長出てくると思うけど」
    「出来れば今日中にファックスしちゃいたかったのよ。まあこっちのチェックミスだからしょうがないけどさあ、あーやっちゃったなあ」
     シゲががっくりと落ち込んだとき、「じゃあさ、俺が隊長のところもってこうか」という声が聞こえた。
    「ほんと? 図々しく頼める?」
    「ああ、隊長がサインして本庁にファックスするよう言付ければいいんだろ、明日俺と野明非番だし、それくらいの遠出なら平気平気」
    「ちょっと遊馬、なんで私の名前まであげるのよ」
    「いやー、ありがとう遊馬ちゃん、まさに地獄に仏渡りに船! 礼ちゃんとするからさあ、じゃあこれ、よろしく」
    「はいよ、お礼のほうよろしくー」
     軽やかに手を振ったあと、遊馬は野明のほうに向いて「と、言うわけでいくぞ、今日バスだろ」
    「確かにバスだけどさ」
     むすっとしながら、最後のチェックをして、結局野明も遊馬と共に歩き始めた。
    「ほら、やっぱり来るんじゃないか。お前も隊長の家とか興味あるんだろ?」
    「隊長の自宅に興味があるっていうかさ」
     二人は玄関から傘を差して歩き始めた。連続爆破犯も無事逮捕され、二課はまた警視庁管内指折りの人がいない辺境に戻っている。夏至が過ぎ、まだ明るいままの埋め立て地のバス停に並び、バスの影を待ちながら野明はまた口を開いた。
    「隊長さ、ここ二ヶ月ぐらい、すっごい襟が綺麗なんだよね」
    「襟?」
    「襟」野明は繰り返した。「ほら、私もだけど一人暮らしだと、どうしても襟の部分って汚れてきちゃうじゃん。襟汚れ用洗剤買っておけばいいんだけど、休みの日になるとそんなことやる気力もないしさ」
    「その襟が綺麗だと」
    「そう、だからさ、なんか不思議で」
     野明の疑問に遊馬はあーこういうことか、と声を出した。
    「つまり、どういうことか探りたい」
    「探りたいっていうか、ただ、そういえば隊長のこと大して知らないしって思っただけ」
    「というか、見せないよなあの人の場合」
    「そうなんだよ」
     ヘッドライトに雨を映しながら、向こうから駅行きのバスがゆっくりと走ってきた。二人は後ろの席に乗り込み、遊馬が話の続きを口にした。
    「前は香貫花と尾行して、結局巻かれたんだっけ」
    「甘味ごちそうになっちゃったときね。あれはあれで美味しかったけどさ」
     水たまりに乗るたびタイヤが水を跳ねる音が窓から聞こえる。次のバス停に着いたところで、今度は野明が、
    「どうする、ドアをノックしたら、素敵な女の人が出てきたら」
    「それはないだろ。どれだけ脈がなかろうが、あの人が南雲さんを諦めるとは思えない」
    「そりゃそうだわ」
     野明は窓の外へと目をやった。野鳥公園の緑が雨に濡れて一層濃い。
    「でもさ、もし誰かいたら、びっくりするだろうな……」
     ただの相槌のようなものだったが、口にしてから、本当にびっくりするだろうな、と野明は思った。なんとなく南雲以外の人が出てきたらさみしいのだ、恐らく。
     遊馬は前を向いたまま「そうだな」とだけ言った。

     住所録を参考にして、秋葉原から日比谷線に乗り換え四駅。大きな交差点から毛細血管のような道を行き、古い公団の最上階にあるのが後藤の家だという。
    「いいなあ、管理職は独身でも二部屋の部屋借りられて」
    「公団に住みたいの?」
    「だって安いじゃん」
     軽口を叩きながら、雨で滑りやすくなっているコンクリートの階段を上がっていき、表札と部屋番号を確認しながら歩いて行くと、三軒目のドアに「後藤」と書かれた表札が掲げられていた。
    「お、ここだ」
     遊馬はそう言いながらドアベルを押す。りんごーんと古い音が中で響き、向こうから人が歩いてくる音がした。「はーい」という声が高いぞ、と思う間もなく勢いよくドアが開けられ、そして野明も遊馬も、ドアを開けて出てきた南雲も固まった。――恐らく、奥の部屋にいる後藤でさえも。

     最初に我に返ったのは野明だった。正確には我に返ったというよりも、一度凍ってから、セーブモードで起動した。
    「あ、南雲隊長、これシゲさんから預かってきました、後藤隊長にサインをもらった上、今日中に本庁にファックスをしてほしいそうです」
     野明が遊馬から書類を奪い取って南雲に渡すと、南雲も野明に釣られるように、
    「わかりました、後藤に渡しておきます。二人ともご苦労様」
    「南雲隊長もお疲れ様でした、では失礼します」
     そして遊馬の横っ腹を肘でつついて、二人で足早にそこから歩き始める。すぐに重いドアが閉まった音がした。部屋の中では混乱と困惑と驚愕が渦巻いていることだろうが、とりあえず野明たちとしては立ち去る以外の選択肢がない。
     二人無言でつるつるの階段を下り、また傘を差して来た道を戻り始めて、ようやく野明が息を吐くように口を開いた。
    「……びっくりした」
    「俺も」
     遊馬はまだびっくりしているように目をぱちくりとさせてから、「いやあ、まさかなあ」とまた目をぱちくりとさせる。
     ジャケットは脱いでいるものの今日見かけた通りのワンピースに、下ろされた髪。定時でさっさと帰ったのは後藤の看病をするためだったというわけだ。いつも後藤を相手にするときに見慣れている厳しい雰囲気ではなく、まるであの家に住んでいるようにくつろいだ、まるい空気をまとっていたようだった。きっと後藤も奥でくつろいでいたに違いない。
    「……よかった、よね」
     ころりと言葉が転がり出て、野明はそれから本当によかったと思った。あれだけ息が合っていて互いを信頼していて、なにより隊長はあんな純粋に南雲のことを見つめていて。この世の中でかつこんな稼業なのだから、ひとつぐらい奇跡があってもいいじゃないか。
    「……そうだな」遊馬が珍しいくらいに素直に笑いながらそう同意した。「あんな不良でも、幸せになれるっていうのはいいことだ」
    「なに格言っぽく言ってるの」
    「いい言葉だったろ?」
     遊馬がそう胸を張ったのに釣られて吹き出したあと、野明はそういえば、と思案する顔になった。
    「ね、いつからあの二人って付き合ってたんだろう」
     遊馬もその問いに「わからん……」首をかしげる。二課の誰もが知っていた、絶望的にも見えた恋心が実ったのはよかったと思えるが、じゃあいつからなのかと言われると、皆目見当もつかない。
    「警視庁七不思議だな」
     遊馬はしごく真面目な顔をして、そんな風に評価した。
    いずみのかな Link Message Mute
    2023/03/21 17:57:57

    あなたの知らない十のこと

    #パトレイバー #ごとしの
    コミックマーケット94発行の『ワークス!』から再録です。
    後藤が過去に翻弄されながら、しのぶと人生を歩みたいと前を向くまでの中編です。

    more...
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