イッツワークス 枕元で人の気配がして、しのぶはゆっくりと目覚めた。
見慣れない天井と乱れたシーツの硬さ、まぶたを閉じていても伝わる、遮光カーテンの隙間から漏れる朝の光。
そっと目を開けると、後藤が音を立てないようにシャツを羽織っているところで、しのぶの顔を見ると温かな笑みを向けた。
「レイトチェックアウトにしてあるから、寝てなよ」
「ええ……」返事をする声は枯れ気味だ。昨夜、耳元で聞こえた自分の嬌声をぼんやりと思い出して、確かに声も枯れるだろうと納得する。身体はくたくたで、腕は重く、世界に乳白色の霧が掛かっているようだ。
それでもなんとか目を上げて「もう行くの?」と後藤に尋ねた。ベッドサイドのデジタル時計が告げる時刻は午前七時八分。ここ湾岸からならば、高速を使えば職場まで二十分掛かるまい
「牛丼やの朝定食食べてこうと思ってね。しのぶさんがよく寝てたから」
「気を遣わないでいいのに」
「そうもいかないよ」
後藤はネクタイまで締め終わると、自然な振る舞いで身をかがめ、しのぶのこめかみに小さくキスを落とした。
「また、明後日にね」
「そうね、明後日」
夢うつつにそう繰り返すと、後藤は和やかな様子でしのぶの頭を撫で、おやすみと小声で告げて出て行った。
温かで乾燥した空気の中、しのぶは寝返りを打ち、窓から入り口の方へと向きを変える。裸の身体に従うようにシーツがまた乱れた。
目の端で見送った背中のたくましさを反芻し、スーツに覆われた身体の野性的な筋肉を思い出す。
今朝をもって変わってしまった。しのぶはそっと目を閉じた。
ついに、変わってしまったのだ。
はたしてどこから思い出せばいいのだろう。あの夏の台風の日、厄災の軽井沢の夜から始まったのだろうか。
いや、正確には違う。
もっと前から、それこそ敬礼をしながら自己紹介をし合った時から、種は蒔かれていたのだろう。そうでなければ、いくら悪天候の日だったからといって、悪い噂しか聞こえてこない、表面的なことしか知らない新しい同僚の助手席に乗り込むだろうか。あるいは遅くなったから泊まっていくよという男にむけて、助手席の扉を開けるだろうか。口では信頼出来ないと言いながら信頼を寄せ、お堅いねえと言われながら信頼をされ、そうして二人とも意識しないうちに胸の内でなにかが育まれていき、そしてあの日についに、積み重なって膨らみきったなにかが弾けたに過ぎない。
とにかく、あのホテルでの一夜は二人の間にあった霧を晴らし、心をむき出しにするものだった。
後藤は自身の欲望を冗談として扱うことでしのぶとそして自分からも遠ざけながら、その内面に抱えた恋情を隠しきれなかった。寝たふりをするしのぶの背中を見る視線に込められた劣情、葛藤、欲望、そして優しさ。
後藤が自分に寄せている感情の中に恋愛感情があることは、昔から気付いてはいた。だが、自分にとって同僚でしかない男の気持ちに応えるわけにはいかず、そして後藤もまた、しのぶを同じ立場の警察官としてのみ扱い、尊重し接してくれていたから、お互いの間にあるものは美しい友情という形を装い巧妙にカモフラージュされていた。
しかし、後藤の視線を受けたとき、しのぶの胸にあったのは不安でも恐れでもなく、ただ覚悟それのみだった。もし一夜限りの熱を求められ押し倒されたらどうすればいいのか。そうなったときには流された振りをしてすべてを受け入れてしまおうと、性差や体格差や疲労を言い訳にしつつ、そう決めていたのだ。
だから後藤が自分になにもせず、ただ横になる自分を見つめていただけでまた横になったときに、しのぶは心にごろりと残った覚悟によって、自分の中にある感情を確認する必要に迫られた。
後藤が寝たふりをしたのを確かめてからそっと起きて、後藤の背中を見つめる。
サボりたいだけだよと笑いながらここまで運転してきてくれた。ちょっとの寄り道といって自分を連れ回して、気分転換させてくれた。いまも寝ていないだろうに、そっとバスタオルを掛けても、微動だにせずしのぶの好きなようにさせてくれている。
喉仏に男を感じたこと、浴衣から覗く腕の太さ。バスタオルをかけ直すとき、緊張してぴくりと動いた肩甲骨から背中のシャープな厚み。
首からうなじにかけてのラインから視線を剥がして、もう一度ベッドに横になり、ただ壁を見つめながら朝を待つ、その間についにあらわになってしまった感情を、心のなかで何度も撫でて、その形を確かめた。
あ、日帰りね、とわざとらしく落ち込む後藤を見ながら、しのぶはどこか芯の方のこわばりが、静かにほどけるのを感じた。
後藤はまだ気付いていない、あるいは気付かないふりをすることを選択した。だから、これからも安心して鈍感でいられる。
いま二人は上手くいっている。
性格も、考え方も、アプローチも違うことを互いに認め合い、同じページを開き、同じものを見ている。出る杭だとか、男の振りをしていながら一皮向けは女のくせにと勝手なことを言われながら、一人で仕事に邁進しているときは楽なだけだったが、後藤が飛ばされてきて、彼が自分を飾りとして崇めることも、女だからと見下すこともなく、ただの大人として尊厳をもって扱ってくれていると知ってからは、心を強く持つことが出来た。
何を考えているかわからないが信頼に足る。物事を一歩引いて見て、時に他人の混乱をおもしろがるところなど残酷に見えるが、一方で人一倍感情に敏感で、人を大事にしようとする。つまりは覚悟が決まっていて、一人で生きていける大人であり、仕事についても人生についてもプロフェッショナルなのだろう。
そんな男との仕事は楽しいし上手くいっている。この上もなく、恐ろしいまでに。だからこそしのぶはこれ以上を望みたくなかった。これからも後藤の気持ちと自分の感情について鈍感な振りをしていたいし、二人の間に男女なんて余計なものを加えたくはない。きっと後藤だってしのぶの判断を賢明だと尊重してくれるはずだ。
だから、東京に帰ったら、すべては元通りで、なにも変わらないし、なにも加わらない。しのぶの中にあるこの感情はいつか過去を振り返るときに、勲章のようにきらきらと光ることだろう。
それが逃げているだけなのはわかっていたが、しのぶはそのことからは目をそらした。口にも態度にも表さないという判断は、しのぶ一人の勝手な決意でしかないことからも。
そうして砂がこぼれて埋もれていくように、音もなくすべてが変わり始めた。
秋が深まる頃になると、後藤もしのぶも第三小隊創立準備のため、東奔西走することになった。二課側の準備としてはオフィスの設置から始まり、整備員のシフトやハンガーの割り振りなどの検討を重ねながら、平行して本庁での調整や関連会議にも代表としてどちらかが顔を出し、どうにかしてこちらの人事案を通すべく根回しをする。第三小隊設立の話もスケジュールも、本庁が独断で決めて二課に押しつけてくる形なものだから、二人としてはどうしても妥協案を引き出す必要に駆られているのだ。勝手に上から決められた案には不都合が多いし、現場の意見を尊重してもらいたい、というわけでそれぞれの方法で戦っていくしかない。資料をもとに正攻法でしのぶが攻めれば、後藤は警備部の縁故や関係者にアポを取っては後方から埋めていこうとする。その合間にもいつものペースで出動要請が掛かり、忙しいから第三小隊設立を求めているのに、その第三小隊によってますます忙しくなっていく。
忙しいって心を亡くすって書くんだよね、明後日な方向を見ながら、そんな言い古されたことを後藤が口にするほど、互いに余裕がなくなっていくのが手に取るように感じられた。余裕がないということは、なにかに割くエネルギーが削減されていくということだ。例えば注意力や集中力、自分の欲望を制御する精神の力。
今日も、午後九時を回ろうというのに二人して書類の処理と資料の作成に忙殺されている。今月は残業代だけで日本全国津々浦々に行けそうな勢いだ。
「しのぶさん、コーヒー飲む?」
目の負担がつらいのか、眉間を刺激しながら後藤がそう聞いてきた。
「ありがとう、といいたいけどこれで何杯目かしら……」
「さすがに数えてないよ」立ち上がりながら彼が言う。首をこきこきと鳴らして、「そろそろ違う味が恋しいけど、選択ないからなあ」
「あの、口にあうかわからないけど、先日友人からもらったハーブティーをもってきてあるのよ」
「そんなのあったの?」
「個人用よ。あまりに癖が強いから共用にするには申し訳なくて、でも背に腹は代えられないでしょ。後藤さん、ラベンダーは飲める?」
「よくわかんないけど、飲めるんじゃないかなあ」
しのぶが引き出しからティーバッグを入れた缶を取り出している間、後藤は思い切り伸びて、そしてそのまま屈伸に移る。見ているだけで筋肉と骨が伸びるぱきぱきという音が聞こえてきそうだ。そんな後藤の脇を通りぬけようとして、ふいに気配なく身体の向きを変えた後藤の肩に、自分の肩が押された。
「きゃっ」
「おっと」
うっかりバランスを崩した身体を、力強い腕が支える。まるでタンゴを踊るペアのように、二人は見つめ合った。
沈黙したのはほんの二、三秒なのだろう。しかしダンスフロアですべてのライトを浴びているかのように、意識がここに集まり、世界はたちまちに消滅した。後藤は雄の本性が透けて見えるような瞳をしていて、男の瞳に映る自分は恥じらいと戸惑いと、予感に満ちているようだ。
「――大丈夫?」
後藤がやっとそう口にしてしのぶを立たせる。そのときにはもう男は普段のうだつの上がらないおじさんの仮面を被り直していて、しのぶを安心させるようににっと笑った。
「しのぶさん、疲れてるでしょ。腹減ってるならなにか夜食でも見繕ってこようか?」
「ありがとう……、じゃ、私、お茶入れておくわね」
「頼みます」
後藤がぺたりぺたりと出て行ったあと、しのぶは後ろのキャビンに寄りかかり、大きくため息をついた。
とっくにわかってはいる。後藤は気付いていないのではなく、気付かないふりをしてくれただけだ……あるいは気付いてしまったのか。
とにかく、二人とも気持ちに小さな穴が空いて、一滴一滴こぼれたものがいつしか部屋にたまりはじめ、いまや洪水のように部屋を埋め尽くしている。この広くもないオフィスではなにも希釈されることもない。
わかっている、そろそろ限界なのだ。
後藤も同じく破裂しそうななにかを感じているのだろう、だから、ああやってすぐにごまかしてくれる。そういうところにも信頼が置けると思い、同時に甘えていることに負い目を感じ、そして彼のそういうところに惹かれているのかもしれない。いずれにしても、いつからか、水が満ちた水槽のように、この部屋では息がしにくい。
早く忙しさから解放されかった。どういう形であれ一区切りがついたら、二人そろって余裕が出来る。そうすれば騎士のように相手を慮る付き合いにまた戻れるはずだ。
そう言い聞かせてハーブティーを入れたりしていたものだから、一方で後藤が夏から今日までのことをどう考えているかなんて視点を、しのぶはすっかり失念していた。
二日後の会議はしのぶが出席し、後藤警部補および南雲警部補両名合同の結論として、第三小隊の隊長として正式に五味丘巡査部長、および熊耳巡査部長を推挙してきた。現場に立ち、あらゆるケースに遭遇し、レイバー隊の業務に精通した人間をトップに据えることの重要性をこんこんと説いて、そして周りの顔を見渡して内心脱力する。贅沢は言わないが、この中の一人ぐらい、たった一人でいいから話を真面目に受け止めて、そして検討に入ってはくれないか。
そんなひとかけらの望みもないことを考えながら会議を終え、残った書類を決算するために二課に舞い戻る。まだ午後五時を過ぎたばかりなのに、警視庁を出て見上げる皇居は宵闇に染まっており、冷たい風が首筋を撫でながら、冬がもうそこに来ているとささやいているようだ。
薄暗い道を走りながら、いつになったらすべてがまた明るくなるのだろうとぼんやりと思う。言葉が浮かんではすぐに崩れるほどには、ただ疲れていた。
渋滞の道をのろのろと抜け、我が家たる隊長室に入ると、後藤が暖房を入れておいてくれたのか全身がほどよい温かさに包まれた。その気の利く同僚は今日の分の仕事を片付けたのか、冬物のスーツ姿で資料を読んでいたが、ドアが開いた音がすると無言で顔を上げてしのぶを迎える。部屋にかすかに残る煙のにおいは、そろそろくつしたにサンダル履きでは喫煙所にいくのもおっくうということか。小言を言おうとしたが、その気力もなくて、しのぶは結局無難なことを口にした。
「今日は上がり?」
「悪いね、歯医者の予約入れてあるの」
「あら、お大事に」
自分も残りの仕事を片付けてしまおうとさっさと席に向かうと、なぜか後藤が音もなく席を立つ。
反射的に、いけない、と思った。
無意識に身体を背けるようにして、無表情で足を速めるが、後藤のほうが若干速かった。普段より大股で移動すると、しのぶの机の前でさりげなく行く道を塞ぐ。
いけない。心の中で警告がなる。本当にいけない。
「……どいてくださらない」
「その前に、一つ話がある」
「聞きたくない」
しのぶは顔を背けたまま、低い声で言った。頼むから、なにかを揺さぶろうとしないでほしい。二人の間にある、水が満ちたコップを揺らしてはいけないのだ。
しかし、後藤はいつものように譲ることも動じることもなく、手を同僚の机についてしのぶの顔を見た。
「そうはいかない」
「どうして」
「あんただってわかってるでしょ、もうそろそろ限界だよ」
しのぶは唇を噛んだ。二人とも疲れているから取り繕えるものも取り繕えない、だからそれだけでしょ、とはとても言えなかった。
互いの感情を勝手に受け止めて、そしてただ、心地よくいたいという望みがどれほど都合がよいものかも知っている。でも、互いにその都合のよさを共有していたかったし、あなただって無傷ですべてを思い出にしたいのではないかと、そう問うことも出来なかった。
顔を背けたままのしのぶの耳へと後藤が顔を寄せる。アクシデントでもないかぎり、こんな近くに気配を感じることはなかった。たばこと整髪剤の薫りが鼻につく。本能的に身体を硬直させた。しのぶの緊張を見て取ってか後藤はそれ以上近づくこともなく、ただささやくように告げた。
「来月の二十四日、午後八時、ニッコーホテルのバー」後藤はそこで一端言葉を切って、そっと身体を離した。「来なくていい、好きにすればいい。……好きにして欲しい」
しのぶは思わず後藤の顔を見ようとする、が、身勝手な男はそこで身体を反転させて、背中を向けたまま普段の声で「お疲れー」とまた大股に去って行く。
すべてが夢のようだった。
呆然としたまま疲労感だけを抱えて椅子に座る。そして机に置かれた月間行事表をみて、今日、来月のシフトが出たのだと知った。歳末特別警戒の直前、非番の一日前。
今は何も考えたくない、ただ、ああ年が変わるのだな、とそれだけ思った。
本当に自分勝手な大人たちだ。
しのぶはそうため息をついた。自分も、後藤も、人生の一番脆いところについて怖がって、閉じこもってばかりだ。しのぶは変化を望まないし、後藤はすべてについて諦めている節がある。だからこそ彼は一方的に日時を指定してきたのだろうが。
次の日には後藤はもう元通りの振る舞いで、まるで誘いをかけた事などないように振る舞っていた、それこそ勝手に区切りをつけたかのように。
実際そうなのかもしれない。しのぶがどう振る舞おうが、きっと後藤はそれでいいのだ。仕事においては現実主義を重んじて、期待というものをあまりしない人間である男だが、私生活においてもそれが徹底されているのだろう。
男の蒸し返さない態度はしのぶにはありがたいものだった。それから一週間ほどはしのぶが当直任務で毎日遅くに帰っていたが、日中の間二人は第三小隊について意見を交わしあい、事件について情報を共有し合い、ニュースをネタに雑談をして、しのぶは後藤の勤務態度に嫌味を言い、後藤は素直に従ったりときどき皮肉で返したりする。形式が整っていることは心地よいことだ。
そして今日、当直を第二小隊に引き継いで、久しぶりに服や日用品を見て回ろうと乗換駅で百貨店に入ったとき、否応なしにすべては変わっていた。
冬用の柔らかなウールのワンピースの上品そうなデザイン、五センチヒールのエナメル靴の形、ラグジュアリーなコスメブランドの薔薇色の口紅、レースをあしらったブラジャー、控えめなピアス。普段なら気にならないもの、必要と思わなかったものまでがいちいちしのぶの目に飛び込んでくる。
自分を美しく着飾りたい、麗しい色を身につけたい。洗練された身体のラインで、高揚したままの姿を見せたい。
こんな欲望は久しく感じなかった。自覚してしまうとすべての服が、靴が、セクシャルな期待を秘めた、特別なものに変貌してしまう。いまや自分は、ただの恋する女性なのだ。しのぶはなぜか泣きたくなって。顔を伏せて早足で駅へときびすを返した。そうして自宅に帰って、日常生活をこなし、自室に戻るまで、しのぶは一人本心を閉じ込め続けた。
本当に自分は自分勝手な大人だ。
部屋に飛び込んで電気も付けずにベッドに座り、携帯電話の通話ボタンをなぞりながらしのぶは自省する。
もう答えは出ているというのに、それを認めるのが怖い。肯定してほしいのか、忠告して欲しいのかわからないまま、アドレス帳から友人の番号を出す。
『――もしもし』
数度のベルのあと受話器から流れてきた、なにも変わらない環生の声を聞いて、唐突に自分はなにも失っていないと感じて、しのぶはまた泣きたくなった。
「もしもし、今、大丈夫?」
『もちろん、いつでもね』電話の向こうで環生が明るく微笑む気配がする。『どうしたの』
「環生、旦那さんとは職場結婚だったわよね」
たったそれだけで、環生はははぁと納得したとばかりに相づちを打った。
『ついにデートに誘われたの。出張先でややこしいことになったって聞いたときはどうなるかと思ったけど、そうかそうかあ』
「環生!」しのぶは思わず電話の向こうの親友に強く声を出してしまった。「そんな、映画みたいな話じゃないのよ」
『恋なんて大抵映画みたいなものじゃないの、違う? ……で、なにが怖いの』
学生時代から変わらない、自分の側にいてくれる温かい声の調子に、肩の力が抜ける心地がした。環生はしのぶが迷ったら手を差し伸べてくれ、間違えたときははっきりとたしなめてくれる人だ。だからしのぶは昔から環生に対して、繕ったことも嘘をついたこともなかった。
「――変わってしまうこと」しのぶは電話を持ち替えて静かにベッドに倒れ込む。子供のときから見慣れた天井の模様を見つめながらもう一言付け加えた。「上手くいっているものを保ちたい、と思うのはバカなことかしら」
『まさか、当たり前のことだと思うよ』
「でも、彼は違った」
『それも当たり前でしょ』環生が柔らかい口調で言った。「だって、後藤さんはあなたじゃないもの」
「でも……」
『でも?』
「でもね、職場で色々あるのはいやなのよ、わかるでしょ」
『あー、所轄のときの彼氏のこと? あれはあの男が悪い』
「いつも一刀両断よね」
『お別れを告げられた瞬間にあれこれ言い始めるケツの穴が小さい男に対しては、容赦など一切無用』
軽快な物言いに、しのぶは小さく笑った。その声を聞いて、環生がしのぶ、と呼びかける。
『でもあなたが怖いことは、前みたいなさ、噂とか立場とかそういうことじゃないんでしょ』
天井を見つめたまま、しのぶは「ええ」と返事をした。
「だって、上手くいってるのよ。環生わかる? これ以上ないくらい上手くいってるの」
そこで押し黙ってしまうと、環生はうん、とだけ頷いてそして数秒ほど沈黙を共にしてから、あのね、と環生は切り出した。
『私が旦那と結婚したのはあの人と一緒にいるときの自分が好きだったからなんだよね。無理もしないし、無理を押しつけられないし、この仕事のことも、私がこの仕事を選んだことも、すべてまず受け止めてくれる。深呼吸が出来ることがいかに大事か、私たちはわかってるじゃない。
で、聞くけど、あなたはどう? 一緒に仕事をして、一緒に食事してるときの自分が好き?』
シンプルゆえに鋭く、すべてを決めてしまうような問いだった。
そして答えはとっくに出ている、恐らくはもうずっと昔から。
「……好き」
耳に届いた自分の声は、少しだけ弱い響きだった。
環生は温かくそりゃよかった、と言ってから、特別のおまけだけど、と少しだけ声を小さくした。
『だったら、とっておきの話をしてあげる』
「とっておきってなに」
『ほら、前に仕事で、うわさの後藤さんに会ったって』
「ああ、夏のことよね」
確か、一見うだつの上がらないおじさんで、精悍とも渋いとも言えないけど、人を見る目があってやり手なのはわかったとか、そんなことを言われた気がする。
『そのときにね、あなたの話になって。もう長い付き合いだけど、当たり前ですが仕事のときにどんな顔をしてるのか知らないんですって言ったらね、そうしたら優しい目になってさ、良い同僚で、良い警官ですよ。前線で指揮をしているときの彼女の背中は、私の誇りですって。もう悔しいぐらいにいい顔でさ』
だからさ、大丈夫だと思うよ。環生の言葉を聞いてしのぶはつんと目の奥が熱くなった気がした。
――私は、あなたは私の誇りです。そう言われるような背中に、私はずっとなりたかったのだ。
真冬の、一年のうちでも華やかな時期、きらめくイルミネーションが一番映えるころの湾岸は、誰もが息を白く染めながら浮かれたように歩いている。
駅からすぐのホテルの豪華な絨毯を踏みしめて、女は一路バーを目指した。仕事が押してしまい午後八時をとうに過ぎているから、待ち人はさぞ気を揉んでいるだろう。あるいは、知っていたとばかりに静かに笑って、一人強い酒をあおっているだろうか。
髪は簡単にまとめただけだが、コートの下に隠していた緩やかに身体のラインを描く薄縹のワンピースと、グレージュレッドの口紅を新調し、いつもよりほんの少しだけ華やかに着飾ったことに気付いたときに、願わくは幸せに笑って欲しい。
果たして後藤はカウンターで一人、ウィスキーグラスを傾けていた。本庁の会議に向かうときに見たのと同じ、ローズグレーのウールのスーツ。慣れた手つきで酒をあおる姿は昔のハードボイルドの探偵のように絵になっていて、孤独と強がりで生きている男のありのままを絵にしたような風情を醸し出していた。
すると私は依頼人の貴婦人か、はたまた身体まで武器にして一人生き延びるスパイという役割か。そんなことを考えて少しだけ緊張をほぐしてから、息を吐ききって、隣に音もなく座る。
「ホワイトレディを」
かしこまりました、とよく通る低い声でバーテンが頭を下げる中、後藤は隣に座ったしのぶのことを、ただ驚いたという目で見た。
「誘っておいてその顔?」
「いや、あそこまで勝手な物言いだったし、やっぱり来ないものと……」
「やっぱり、断られるために誘ったの」
涼しい顔で問いかけると、男は参ったねとばかりにため息をつく。
「そうかもしれないし、違うかもしれない」
後藤はグラスを煽り、薫りを味わうようにほんの少しだけ目を閉じた。
「ただ、どう転ぶとしても、どうにかしてリセットしないと、あの場所が壊れてしまいそうで」
バーテンが「ホワイトレディでございます」と、流れるようなしぐさでショートグラスを差し出した。オレンジの苦みとレモンの酸味を味わいながら、しのぶは後藤の言葉を反芻する。
後藤としのぶは同じものを見て認識を同じくしていたということか。しかし、環生のいうように後藤は自分ではない。なにも変えないために見ない振りをして嵐が去ることを選びたかったのがしのぶで、取り返しのつかないほど壊れてしまう前に行動を起こして、あの場所を守ろうとしたのが後藤だったというだけだ。
「……いい琥珀色ね」
「マッカランっていう酒だよ。俺が警察に入った年に仕込まれたやつ」氷が小さくなったグラスを静かに揺らす。「とびきりの酒を飲んで、そうしたら明日からまた良い同僚に戻ろうと思ってたから……」
もう一口飲むと、後藤は遠くを見るように頬杖をつく。するとチークを塗ったように、ほのかに顔が染まった。
「こういう幸せな不意打ちにさ、慣れてないんだよ」
しのぶもまた一口強めのカクテルを飲んで、黙って後藤と同じように目を遠くへと向けた。なにを勝手なと呆れることも、人を見くびるなと叱ることも出来たが、自分もまた臆病で卑怯だったのだから、自分の弱さに目を瞑るための言葉を相手にぶつけることは出来ない。
代わりに片手をそっと、カウンターに置かれた後藤の堅い手の甲に重ねて、顔を見ないままただ一言「バカ」とだけ言った。後藤は飾り気のない声で「うん」とだけ言った。
携帯電話の無機質な着信音で、しのぶはそろそろと目を開けた。
寝ぼけながら後藤を見送ったときは朝の青い光がカーテンの隙間から差し込んでいたが、今は晴れたカラカラな光が柔らかく床を照らしている。後藤の背中につられるようにこれまでのことを思い出しているうちに、またうつらうつらとしていたらしい。
昨夜は二人とも緊張していたからか、バーを出て客室にいくころには二人ともどこかかちかちになっていて、ロマンチックとはとても言えない空気になった。
後藤ときたらドアが閉まって、明かりが灯った瞬間に、目を引きつらせながら「とりあえず風呂でも入りましょうか」と妙にうわずった声で言ってくるし、しのぶもそうねと返した声の高さに心の中で舌打ちをしてしまったし、ようやく下着姿で押し倒されて見つめ合った瞬間、キスを交わす前に二人して思わず吹き出してしまったときたら。そうしてあまりにも自分たちらしいと互いにくすくすと笑いながら、ようやく受け止めた口づけはとても柔らかいものだった。
「はい、南雲」
起き上がりながら電話に出て、けだるく髪をかき上げながら、非番なのに申し訳ないが、という福島に「わかりました、至急確認して連絡します」と通話を終わらせる。伸びて時計を見れば、午前九時二十分。レイトチェックアウトにしたと言っていたから、これからシャワーを浴びて身なりを整えても、余裕を持って出られるはずだ。
コートのボタンを外しながらオフィスへ続く階段を上っていくと、二階から下りてきたらしい熊耳とばったり鉢合わせた。
「南雲隊長、今日は非番では?」
「そうだったのだけどね」
「お疲れ様です」
仕方ないわよね、と苦笑いを浮かべると、熊耳はまったくですと同情してくれる。彼女と簡単な挨拶を交わしてからオフィスにはいると、そこは――幸いにも無人だった。後藤は榊と将棋でも打っているのか、タバコを吸いにいっているのか。正直どんな顔をしてしまうか自信がなかったから、不在であったことに内心胸をなで下ろす。昨日知ったばかりの吐息の温度が首に残っているうちはなにを口走ってしまうかわからない、だから少しだけ時間が欲しい。
そう、これから私生活でどれほど互いに溺れていき、時に失望したとしても、すべては外のことだとして、大人として公私のけじめをつけて、そうして窒息しそうなほどの思惑が昇華され、また酸素と光で満たされたこの部屋で、二人、また戦っていくのだ。
福島に頼まれた資料を見るためキャビネットを開けて、目的のパイプ式ファイルをひっぱりだしていたら、後ろでドアが開く音がした。
来た。
しのぶは机にファイルを開いてのぞき込みながら小さく深呼吸をして、普段の後藤のことなど興味がない顔を作った。
「あれ、今日」
「先日の出動について、至急の問い合わせがあったのよ。確認したらすぐに帰るわ」
「あ、そうなの。お疲れ……」
言葉が途中で切れたことに気付くまで、ほんの少しかかった。思わず顔をあげると、後藤が席に戻るでもなく、顔を赤くして、ただ呆然としている。まるで途方に暮れている人の見本のようだった。
「な、なによ」
「ごめん、いや、あのね、その、うなじ」
「うなじ? ……ってちょっとまさか!」
「つけてない、跡なんかつけてないです、ただ」後藤はそこで絶句して、ついにへたり込んで片手で顔を覆ってしまった。「たださ、今日来るって思ってなかったから、職場でどんな顔していいかわかんなくなっちゃって……」
そういって気恥ずかしそうにちょっとだけすねた目をするものだから、しのぶは力が抜けたようになって、同じように気恥ずかしく笑った。
まったく何から何まで私たちときたら。
後藤はそんなしのぶの顔をみて、今度は参ったねと苦笑する。そうして互いの目の温かさを確かめながら、二人は少しの間だけささやかに笑い合った。
しばらくはこんな感じで、不器用に照れ合いながら、これからの距離について慣れていけばいい。
私たちは、同僚で友人で、恋人同士なのだ。
ところで熊耳は、今朝の上司の服装と、先ほどすれ違った南雲のワンピースが昨日と替わらないことに気がついていたが、二人の幸せをささやかに祝福しながら、一人胸の中にしまっておくことにした。
こんな世界でこんな稼業なのだから、ハッピーエンドの一つぐらいあったほうがいい。