03 瞳石 赤い髪がゆれる。
おおきくあけた口で、せわしなく呼吸。細い手足が上下に動き、靴のうらが土をはねる。
フォルスは走っていた。
村の広場を抜け、建物裏の小道をとおり、林の坂を駆けあがる。雲雀のはやさですすむ。
フォルスが目指すは、村はずれ―――緑の森だ。
腰にさがったおもちゃの剣が、地を蹴る彼の動きにあわせて、羽のようにはためく。
立ち止まり、荒い息をついた。服で顔の汗をぬぐう。
息を落ち着かせ、柵門を見あげた。自分の背丈より高いそれに手をかけ、体重をこめて押しひらく。ぎい、という錆びた音をたて、門はフォルスを中に通した。
緑生い茂る枝が、風にゆれた。
まだ若い緑の葉がゆらりと舞いおち、つま先をかすめる。
眼前には、大きく古い屋敷がそびえていた。
壁一面蔦がはって陰鬱としており、まるで屋敷自体が、うっそうとした森に埋めこまれた装飾の一部であるかのように思えた。
敷石の隙間に生えた長い草を踏んで、フォルスはすすんだ。
あたりは、はじめてフォルスがここを訪れたとき―――こっそりと忍びこみ、兄弟に見つかったあのときと変わらぬ静けさに満ちている。
フォルスは豪奢な玄関扉の一歩手前にたどりつき、しかし扉はあけずに右を向いた。いつもフォルスは、玄関からは入らない。森の屋敷の兄弟たちとの取り決めだ。
やや伸びた芝生を踏みしだき、玄関から数えて6つめの窓に到着。
そうっと背伸びをして、部屋の様子をうかがう。
窓際の机に並ぶ本が見える。その向こう側までのぞくには、まだちょっと背が足らない。
フォルスは偵察をあきらめ、腕を目いっぱいのばして、ガラスをノックすることにした。
「やあ」
突然窓がひらいた。にょき、と子供の首が出てくる。
「ギフト!」
フォルスはびっくりして、心臓を縮みあがらせた。
あらわれたのは、森の屋敷の兄弟の、「弟」だった。
―――といっても今は、この屋敷には弟の方しかいないのだけれど。
ドキドキと跳ねる胸に手をあて、見おろす首に語りかける。
「おどろかせないでよ。よく分かったね。ぼくがきたこと」
「そりゃあ分かるさ。赤い髪が見えたもの。おはよう、フォルス」
「おはようギフト。でも、そろそろ『こんにちは』じゃない?」
「そっか、もう昼すぎか。じゃあ、『こんにちは』。フォルス」
ふたりは、お互いの顔をみあわせて吹きだした。肩をゆらして笑いあう。
ギフトが机のうえにのぼって、身をのりだした。その胸には本が抱えられていた。
フォルスはたずねる。
「また、本読んでたの」
「うん。朝からずっと、この机でね。でも、もう終わった」
言ってギフトは、手に持っていたタイトルの分からない厚い本を、机のうえに置いた。
「本、好きだねえ。ギフト」
感心したフォルスの声に、にやりと笑ったあと、ギフトは言った。
「それで、今日はどうしたんだいフォルス」
「あ、そうだった。―――ギフト、昼ご飯は食べた?」
「たべてない」
「おなか、すかない?」
「うーん、どうだろうなあ。すいてないかな。でももしかして、実はすいてんのかな」
あごに手をあてて、何ともいい加減なことを言っている。
蒼い森の屋敷に住まうこの友だちは、昔っからちょっと変わったところがあった。
同い年とは思えないくらい難しいことを知っているかと思えば、村の子供なら誰でも知っているようなことを知らない。大人よりも大人のような顔をするときがあると思えば、赤ん坊よりも危うかったりもする。
いつか、辞書よりもむつかしい本を歩き読みしながら森の小川におっこちて、溺れてしまうんじゃあないかと本気で心配している。
フォルスは早速、彼を救命ボートに乗せて救出すべく、両手をひろげて「今日ここに来た用事」を発表することにした。
「これから、家に来ない? お母さんが、シルドの実のパイを焼くんだって。ギフトと一緒に食べたいから、誘いにきたんだ」
次の瞬間、友は窓からボートに飛びのってきた。
「もちろん行くさ!」
扉をあけると、甘酸っぱいにおいが鼻をくすぐった。
思いだしたように靴の泥を落とす。ついでに、いつの間にか砂まみれになっていた手のひらを払い、声をあげた。
「ただいま!」
「お邪魔します」
台所の母が振りかえった。
「あら、いらっしゃいギフト君。おかえりフォルス。早かったわね」
「行くとき、走っていったから」
言ってフォルスは、食卓の椅子に座った。ギフトは、その向かいの椅子に座る。いつものふたりの定位置だ。
おもちゃの剣を腰からはずして食卓に置きながら、フォルスは尋ねた。
「パイ、できた?」
「まーだ。焼くのはこれからよ。今、パイ生地と、中に入れるシルドの甘煮が完成したところ。―――ちょっと待ってね」
言って母は、ふたつの小皿に、茶色に透きとおる果実を一かけらずつ取り分けた。小さな木のフォークを皿に添える。
「味見してみて。結構うまくいったのよ。あら、ところで貴方たち、手は洗ったのかしら?」
後半は無視して、フォークで素早く口に放りこんだ。シャクリとかみしめた欠片からひろがる味に、フォルスは足をバタバタさせた。
「おいしいーっ!」
ギフトも満面の笑みを浮かべている。
「本当だ! 甘くて、酸っぱくて、最高においしいよ」
「そうでしょう。これがパイの中いっぱいにはいるの。期待していてね」
母は自慢げに言って、ふたりの皿をさげた。
「さあて、パイが焼きあがるまでもう少しかかるから、ふたりとも、外で遊んでいらっしゃいな。できあがったら呼んであげるから。つぎ家に入ってきたら、すぐに手を洗うのよ」
「わかった。ギフト、外で剣の練習しよう」
「うん、そうだな。今日こそ負けないぞ、フォルス」
ふたり同時に、剣のさやを手にとった。
ふたりのおもちゃの剣は、元々は鞘がついていない剥きだしのものだった。それをフォルスの母が、丈夫な布を縫いあわせ、剣ぴったりの鞘をこしらえてくれたのだ。
鞘は紐をむすんで腰から下げられるようになっており、丸い石飾りなんかもついている。
おそろいの剣の、おそろいの鞘。フォルスもギフトも、大のお気に入りだった。
「? あれ、ギフト……」
玄関に駆けだしたフォルスは、友がついてこないことに気づいて振りかえった。
ギフトが、部屋の真ん中で立ちつくしている。
彼のまえには、首をかしげる母の姿。
フォルスと同じ赤色の髪、そして友の茶色の髪が、台所の窓から差しこむ真昼の光に隅取られていた。
「ギフト君?」
「……おばさん」
「なあに」
「いつも、ありがとう」
「どうしたの、ギフト君。あらたまって」
母はギフトのまえにかがみこんだ。目線の高さをあわせ、甘く煮た果実の香りそのままの優しさで、ギフトに微笑みかける。
「お家で何か、あったの?」
ギフトは睫毛を幾度かふるわせてから、うつむき、首を横にふった。
「ううん―――何も。何もないよ。でも、ちゃんと言いたかったんだ。ぼく、おばさんたちに、お礼言ったことなかったからさ」
「お礼なんて、いいのよ。あなたはフォルスの大事なお友だちなんだから」
言って母の指が、ギフトの髪をなでた。
サラサラとして、それでいてホイップクリームのように柔らかい、フォルスが大好きな彼の髪だ。
「それに、貴方のお兄さんにも頼まれているしね。大切な弟をよろしくって」
「お母さん!」
なんとなく割りこみがたく、ふたりを離れて見守っていたフォルスは、聞き捨てならない母の台詞を耳にして思わず声をあげた。
「エルストさんに、ギフトをよろしく頼まれたのは、ぼくだよ」
ここは結構大事なところだ。駆けより、間違いを訂正した。
母は苦笑いしている。振り向いたギフトも、笑っていた。そこには何の陰りも見当たらなかった。
「はいはい。そうだったわねフォルス」
「さ、そろそろ行こうよ、ギフト」
差しだしたフォルスの手を、ギフトがとった。かさねた手を、どちらともなく力づよく握る。
「ああ。―――行こう、フォルス!」
駆けだす2つの背中に、母からの声が飛んできた。
「いってらっしゃい」
ふたり手を握って日差しのなかを走りながら、フォルスは、ひとりの青年の姿を思い出していた。
広い背中。優しい声音。
―――ぼくの憧れの人。
***
「えい、やぁっ!」
菜の花畑のなか、甲高い子供の声がひびく。
「たーっ!」
剣が飛んだ。
花の茎が大きく揺れ、蜜をあつめていた蜂が飛びたつ。
蜂は不満そうな声をあげながら円をえがき、ふたたび花の先へと舞いもどった。
子供のひとりが両手をあげ、力なくつぶやく。
「まいった……」
フォルスは、突きつけていた剣をおろした。武器をはじかれたギフトは、手をたたいて悔しがる。
「あーくそ、また負けたっ」
「えへへ! ぼくの勝ち!」
ギフトは身をかがめて、剣を拾った。
数週間前、プレゼントしてもらったばかりの、ピカピカのおもちゃの剣。ギフトは刀身についた泥を、丁寧にぬぐった。
「くっやしいなあ。どうして一回も勝てないんだろう」
きれいになった剣を目の高さに持ちあげ、ギフトは首をかしげた。フォルスはにこにこしている。
「でもさ、フォルス。僕も強くなってるよな? フォルスが強くなってるのは、もちろんだと思うけどさ」
フォルスは大きくうなずいた。
「うん。はじめにくらべたら、ぼくたち、かなり強くなったよ。きっと」
「だよなあ。―――なあ、フォルス」
「うん?」
「いどんでみようぜ」
黄色の花々を背景に、ギフトの猫のような目が、キラキラとかがやいている。
フォルスは、友に負けない不敵な笑みを、頬にうかべた。
「うん!」
茂みに隠れ、息をひそめた。
ふたりは、そっと首をのばし、葉の隙間から向こうを見やる。
日の光を反射してキラキラと輝く湖のほとりに、ひとりの青年が座っている。
草むらに足を投げだし、わずかに前かがみになっているその背中は、同じ姿勢のまま動かず、髪だけがそよそよと風になびいている。気をすっかり抜いて、眠っているようにも見えた。
フォルスは、隣にかがむギフトと目配せし、うん、とうなずきあった。
腰から剣を抜き、緊張をみなぎらせて、胸のまえでかまえる。
ふうっと深呼吸してから地を蹴って、一気に茂みを突き抜けた。
「ていやーっ!」
葉っぱを散らし、ふたり同時に飛びだす。まっしぐらに、その背に向かって駆ける。
ふたりの小さな影が躍りかかり、まさに切りかからんとしたそのとき。
「甘いな」
背中から声がひびいたと思うと、青年は座ったまま地を蹴って、体の向きをくるりと変えた。
ふたりが驚くまもなく、青年の両足がひらめく。ブーツのつまさきが、ふたりの剣をトンと蹴りあげた。
「あっ」
「うわ!」
ふたつの剣はくるくると宙にまわり、弧をえがいて青年の両手に鮮やかにおさまった。
「よっ、と。―――俺の勝ち。かな?」
青年が、にこにこと笑って襲撃者を見ている。
フォルスは、切りかかるポーズのまま呆然と止まっていたが、空になった自分の両手と彼の笑顔をみて、自分たちの負けをさとった。大きな声で叫ぶ。
「まいりました!」
湖のほとり。
白い蝶が、舞いおちる花弁のように空から降りてきた。湖の真上に羽をまたたかせてとどまり、水面と平行に、ふわりふわりと飛んでいく。
膝をかかえ、陽光の照り映える白い羽のうごきを眺めていたフォルスは、隣から溜息まじりの声を聞いた。
「あーあ。やっぱりエルスト兄さんは強いや。今日こそは、兄さんをびっくりさせようと思ったのになあ」
腕組みをしながら、ふたりの横に立っていたエルストは、わはは、と笑い声をたてた。
「ふたりとも、俺がいくつ年上だと思ってるんだ? こんなにちっこい子供たちに俺が負けちゃったら、さすがに格好悪いだろ」
「でもさあ、ふたりがかりだぜ」
ギフトの不満の声に、フォルスもつづいた。
「そうだよ。しかもぼくたち、エルストさんの寝こみをおそったのに」
「こらこらフォルス君。寝てないぞ、俺は」
「じゃあ何してたの、エルストさん」
「うーん……考え事、かな」 すこし困った顔をして、エルストは言った。「年齢を重ねるとな。その分、考えることが多くなるんだ」
「うへえ、兄さん、年寄りみたいだ」
「言ったな、ギフト」
「ぎゃー!」
エルストが小さな弟に飛びついて、両腕でかかえこんだ。脇腹をくすぐる。ギフトが顔を真っ赤にして身をよじりながら、笑い声をたてている。
湖のほとりでじゃれ合う兄弟の姿を、フォルスは、うっとりと見つめていた。
おもちゃの剣。異世界の切手。丘の木にのぼって見る風景。砂時計―――。
フォルスには宝物が沢山あるけれど、そのなかでもこの兄弟は、飛びきり大事で、お気に入りの宝石だった。綺麗な細工のほどこされた箱にいれて、いつまでも眺めていたい、きらめく透きとおった一対の石。
「えいっ」
気合をいれて投げた石ころが、陽の光をうつす湖面を2回、3回と波紋をひろげ飛び跳ねていく。
「うまいぞ、フォルス君」
かけられた声に嬉しくなって、フォルスは肩越しに叫んだ。
「エルストさんも、もう一回やってみせて」
「俺か? よおし、見てろよ」
エルストは、拾った石ころを手のなかで跳ねさせながら湖に歩みより、慎重にねらいを定めて、手を水平に振り切った。
回転した石が、飛び魚のように湖面をはしる。4回、5回、6回―――。
「すごい、エルストさん!」 フォルスは、頬をそめて拳をふりまわした。「石、とっても遠くに飛んだから、ぼく、最後まで数えられなかったよ」
「へへーん、どうだ」
盛りあがる二人の横で、ギフトは、手に持った石を難しい顔で見つめていた。意を決したように湖に放つ。
石は一度もはねず、ぼちゃん、という音を立てて、湖底にしずんだ。溜息をつくかのように、まきあげられた泥が水のなかに澱を吐く。
「あー……」
落胆の声をあげる弟をみて、フォルスと兄が笑い声をあげた。
「ははは、修行が足りないなギフト。もっと手は横から出すんだ。こう、水面と水平になるようにな」
手振り身振りで教えようとする兄を、弟はうらめしそうな上目づかいで見やった。
「リクツはわかるんだけど、うまくいかないんだよなあ」
「コツだコツ。理屈じゃなくて」
言って、エルストは、目をやさしく細めた。
「それにしても、ふたりとも元気に遊んでいて、えらいよな」
「えらくないよ」
フォルスは、真顔でエルストをみあげた。
「ぼくのお母さんは、ギフトが来ているときは『たくさん遊びなさい』って言うけどさ。ぼくがひとりのときは、『ご本も読もうね』って言うんだよ。本好きのギフトくんを見習おうね、って。きっとお母さん、ぼくに勉強してほしいんだよ」
フォルスが頬をふくらませて告げ口をすると、青年は大笑いをした。
「そりゃあ、お母さんはそう言うよ。ただ、な」
フォルスの頭に、大きな手のひらが置かれる。
「子供のうちは、そんなに勉強なんてしなくていいって俺は思うんだけどな。朝から晩まで、目いっぱい体を動かして楽しく遊ぶ! それが子供、ってもんだからさ」
フォルスは、顔をかがやかせてエルストの金言を聞いていた。
エルストの言うことは大体ただしい。彼の言うとおりにしていれば、間違いが起こるなんてほとんど考えられないのだ。
しかし、隣のギフトはというと、何だか顔を曇らせている。
フォルスは、眉間にしわを寄せている友の顔をのぞきこんだ。
「どうしたの、ギフト」
「別に」
そっぽを向く友だちに、フォルスは、首をかしげた。
エルストは、そんな弟の様子に気づいた風もなく森へと歩をすすめた。地面から適当な枝をひろいあげ、ふりかえる。
「これでいいかな。―――よし、ふたりとも。剣の稽古をつけてやろうか」
「本当に? わあ、ありがとうエルストさん」
フォルスは剣を片手に握りしめ、エルストに駆け寄った。
ギフトは、動かない。
「……なんだよ」
「おーいギフト! お前はこないのか」
「勉強ばっかりしてるぼくが、まるで駄目な奴みたいじゃないか」
遠くからかけられる呼び声に、尻から土をはらって立ちあがったギフトのつぶやきは、結局他の誰の耳にも届かなかった。
「さあて、ふたりとも。そろそろ帰ろうか。すこし寒くなってきたからな。一旦屋敷にギフトを置いてから、フォルス君を送っていくよ」
草むらに、大の字になって休んでいたフォルスとギフトは、その言葉にむくりと起きあがった。顔を見合わせる。
「そうだね。今日もいっぱい遊んだし。家に帰ろうっか、ギフト」
「えー、まだ明るいけどなあ……」
名残惜しさに、ギフトがぶつぶつと言っている。
水際にたつエルストが苦笑し、湖に向きなおった。
「そんなことを言っていると、ほら、風が―――」
折から強い風が、吹いた。水面にさざなみが立ち、森がざわめく。
フォルスは咄嗟に、腕で顔をかばった。
風のなか、湖のほとりに立つ青年が、ゆっくりと腕を広げていくのを見た。
青年のコートの裾が、ばたばたとはためく。フードが浮きあがり、茶色の髪がなびく。
彼はうごかない。風を、受けとめるように。味わうように。
―――あるいは、何かを待ち望むように。
フォルスは、子供特有の残酷なまでの真摯さでもって、その光景を見つめた。腕の覆いの影から、荒削りの水晶の瞳に深く刻む。
飛びたつ蝶。いまだ飛びたたぬ蝶。その壊れそうな翅の、翳った白さを。
いつしか湖面は鏡のように静かになっていた。
水際には青年がたたずんでいる。
振りかえった青年の、その口元には、穏やかな笑みが浮かんでいた。
「……な?」
「うん」 フォルスは、顔の前から腕をおろしながら、つぶやいた。「びっくりした」
「すごかったな、今の風。飛ばされるかと思った」
エルストは、ふたりの頭をくしゃりと撫でた。
「さあ、ふたりとも忘れ物ないかな。帰ろう」
青年が故郷を出たのは、それから半年後のことであった。
「フォルス」
呼びかけられ、はっとして立ちどまった。
振り向くと、握った手のさきで、友が自分を見つめている。
ギフトは眉をひそめて、口をひらいた。
「―――手」
「え?」
「痛いよ」
「ご、ごめん」
フォルスはあわてて、握っていた手をはなした。
とりもどした手をさすりながら、ギフトが言う。
「何、ぼーっとしてるんだよ、フォルス。ぼく、何回かきみのこと呼んだんだぜ」
「ごめんね、ギフト。ちょっと考え事してたんだ」
「考え事? 何を?」
「エルストさん。どうしてるかなあって」
森の屋敷の兄弟の「兄」が召喚師になるといって村を出て行ってから、もう2年以上が経っていた。
もっともフォルスは、彼とそれほど長い期間、離ればなれになっている実感がなかった。
家を出たエルストは、ときどき弟に近況を知らせる手紙を書いた。フォルスはその手紙を、特別に読ませてもらっていた。
彼の手紙を読むことは、よろこびだった。
すこし癖のある字。飾らず率直で、読み手の少年たちに対する親愛の情がにじむ文章。
優しい声と大きな手のぬくもりが伝わってくるようで、フォルスは便箋を手にとるたび、あの青年がすぐ近くにいるかのような、そんな錯覚をおぼえていた。
「ああ……エルスト兄さん、ね」
フォルスの言葉に、しかし手紙の名宛人は不自然な沈黙をおいた。
「元気で、やってるんじゃないのか」
その突き放したような物言いに、フォルスは意外さを感じた。
ギフトが遠くはなれてしまった兄のことを語る言葉は、いつだって、懐かしの歌を口ずさむような、思慕と哀愁に満ちていたから。
「ギフト……?」
フォルスの怪訝な視線の先で、ギフトは空を見つめ、惚けたような顔をしていた。蜻蛉の羽のように薄く破れそうな空気の膜が、彼の表面をすっかりおおっているようだった。
「ねえギフト。君、どうかしたの?」
不安になって、フォルスはギフトの腕にふれた。ギフトがゆっくりと首をめぐらせ、フォルスを見やる。
「なんか、おかしいよ。本、読みすぎじゃないの。エルストさんも昔、言っていたでしょう。勉強しすぎはよくないんだよ」
ギフトは一拍おいてから、吹きだした。肩をゆらして笑う。
「よくないことはないだろフォルス。君が勉強しなさすぎなんだ。兄さんもああ見えて、子供のときからすっげぇ勉強してたんだからな。君、兄さんにだまされたんだよ」
悪戯っぽく細められた目には、強い光がもどっていた。
フォルスはほっとすると同時に、彼の言葉に衝撃をうける。
「ええー! そうなの?」
「おばさんも嘆いてたぜ。あの子は集中力がつづかないから、机に向かうのも3日が限界だって。ぼくは実は、おばさんの相談役なのさ」
「えー……うそ。そうだったの……」
フォルスはがっくりと肩を落とした。
自分がギフトをよろしくしていたつもりなのに、まさか自分の方がよろしくされていたとは思いもよらなかった。
ギフトは、すっかり元の調子に戻って、偉そうな態度でフォルスの肩をたたいた。
「まあ、そんなにがっくりするなよフォルス。ぼくだって、勉強だけが大事だとは思ってない。いくら勉強ができても、力がなけりゃ意味がないからな。兄さんは剣も強かった。―――だからさ」
言ってギフトは、腰の剣を抜きはなった。太陽にかかげる。
「ぼく、君にはどうしても剣で勝ちたいんだよ。勝って、君に認めさせたいんだ。ぼくは、君の背中についていくだけの奴じゃないんだって。君のとなりを走って、君と一緒に兄さんを追いかけることのできる、唯一の人間なんだって」
「ギフト……」
「そのためにも、剣の練習はいっぱいしないとな」
そう言って下ろされた友の剣に、フォルスは違和感を感じて声をあげた。
「あれ。君の剣、なんか光ってるよ。ここの、柄の部分」
「ああ。もう気づいたのか、流石フォルス」
ほら、とさしだされた剣の柄に、フォルスは顔を近づけた。
装飾がないはずのおもちゃの剣の柄に、透明な丸い石が埋めこまれている。
単なるガラス玉とは思えぬ純度の高いきらめきのなかには、天使の輪のような円状の光が浮かんでいるのを見た。
刀身と並行にうかび、瞳の虹彩のようにフォルスを見つめるそれは、注意深く観察すると、ゆっくりとまわっているのがわかった。
フォルスは柄から顔をはなして、声をあげた。
「すごい! なに、このきれいな石」
「父さんがつけていたピアスだよ。きれいだったから、埋めこんでみたんだ。剣の柄を少し削ってさ。どうだい、なかなか見栄えがいいだろう」
「へえ」
ギフトが得意げに言うだけのことはある。本当にきれいだ。
おもちゃの剣とは明らかに不釣り合いな宝石のはずだが、なぜか不思議と、石は剣となじんでいた。
「この石、おじさんからもらったの?」
「いや、拾ったんだ」
―――拾った?
首をかしげるフォルスをよそに、ギフトは石を目の高さにもってきて、うっとりと見つめていた。
「見てみろよフォルス。角度によって色が変わる―――これ、サモナイト石でできてるんだぜ」
「サモナイト石」
「知らないのかい。一般人じゃあ簡単に手に入れることはできない、貴重な宝石なんだ。特別な石なんだよ」
「へえ」
「しかもこいつは、ただのサモナイト石じゃない。特殊な加工がほどこされている、価値の高い魔石なんだ。本当はこれは兄さんが持つべきものかもしれないけれど」
ギフトは剣を右手にもったまま、太陽にむかって、一歩ずつあゆみだした。
彼の小さな後姿が、かげっていく。かかげた剣の石に光が入り、薄暗いシルエットの唯一の白点となって浮かぶ。
「フォルス」
逆光のなか、ふいに、ギフトは振りかえった。
影のさした顔は、笑っていた。
「兄さん、帰ってくるよ」