04 明るい革命 大きな机のまえに、僕は座っていた。
目の前にあるのは、一通の封筒だ。オレンジ色のランプのしたで、それは白く輝いていた。
天井まで届く本棚たちに囲まれた部屋は、隅のほうまで明かりが行き届かない。封筒を中心とした光の輪の外側は、ぼんやりとした暗がりとなり、黴びたにおいを発しつづけていた。
僕はうやうやしく、封筒から便せんを引きだした。
折りたたまれた便せんを、丁寧にひらいていく。
「お変わりありませんか。こちらは、元気でやっています……」
便せんをひらきながら、僕は目をつむり、歌うように言葉をつむいだ。
儀式のように慎重に、机のうえに手紙を載せる。身を乗りだして、書きはじめを読んだ。
「『お変わりありませんか。こちらは、元気にやっています』―――ほうら、合ってた」
僕は得意になって笑った。
「兄さんからの手紙、僕、完璧に暗記してるんだぜ。もう、何十回と読みなおしたんだからな」
僕は咳払いをし、何十回かと1回目の音読をはじめた。
「じゃあ、また、読みはじめるよ兄さん。『今、俺は、セイヴァールにいます。ご存知でしょうが、セイヴァールは異世界との文化交流が盛んな都市で……』」
自分の声が、記憶のなかの兄の声に重なってくる。僕は、うっとりとしながら手紙を読んだ。
「『……見るもの全てが目新しく、刺激的です。俺はこのセイヴァールで、異世界調停機構の召喚師として働いています』」
僕は手紙を持ちながら、歓声をあげてはしゃいだ。
「兄さんは、本当に凄いよな! なんたって、家を出てそんなに経たないうちに、本当に召喚師になっちゃうんだから」
目の前に兄がいるかのように、語りかける。
「フォルスも、びっくりしていたよ。エルストさんは凄いって言ってた。あいつ、目を輝かせて僕の話を聞いていたんだぜ。きっといつか、兄さんの後を追って召喚師になりたいって、言い出すと思うよ」
僕は、いつの間にか自分の顔から表情が消えていたことに気づき、手に頬をあてた。そしてまた、笑みを浮かべなおした。
「じゃあ、次、読むね兄さん。『……俺の響友は、ガウディという名の、ロレイラルの住人です。堅物で融通の利かない男ですが、いつも俺のことを思いやってくれる、親友です。心の底からお互いを信じ、信じられる関係です』 ガウディ、知ってるよ。前に、手紙で教えてくれたものね」
兄が両親に手紙を書くのはこの一通が最初で最後だったのであるが、僕宛には何通も手紙を送ってきてくれていた。手紙はいつも短かったけど、兄はその都度近況を知らせてくれた。
兄がセイヴァールにいることも、ガウディという名の響友を見つけたことも、異世界調停機構の採用試験に受かったことも、全部全部僕が一番先に聞いていた。
僕は差出人の書かれていない、自分宛の白い封筒をみつけるたび、飛び上がって喜び、自分の部屋に持ち帰った。両親はきっと、その手紙の送り主が誰か、分かっていたと思う。でも、両親からは手紙の内容について、一度だって聞かれたことはなかった。
両親の兄への無関心は、僕にとって好都合だった。僕は兄からの手紙を独り占めできた。
何度も何度も読みかえしてから、返事を書いた。それからさらに読みかえしたあと、特別にフォルスにだけは兄からの手紙を見せてやった。フォルスは目を輝かせて、手紙を読んでいた。
でもいつだったか、僕はそのことを後悔したことがあった。僕自身のミスがきっかけだった。僕は兄への返事のなかに、「フォルスと一緒に、兄さんからの手紙を読んでいます」などと書いてしまったのだ。
そうしたら、素直な兄は、僕への手紙にフォルスへのメッセージをも入れるようになってしまった。胸のうちがチリチリとした。自分はバカだ、と思った。兄さんは分かってないなあ、とも思った。
僕は気づかないうちに、手紙の両端を握りしめていた。あわてて、手紙を伸ばす。
「あぶなかった。兄さんからの手紙を破くところだったよ」
僕は、つづきを読んだ。
「『一度、顔を見せに帰ります』」
何度読んでも、歓喜をかんじる一文だ。この一文だけは、他の文の倍は目を通している。
「『そのとき、ガウディのことを紹介します。きっとギフトとも良い友人になってくれるだろうと思います』」
手紙を胸に抱きしめる。
「僕も早く会いたいよ。兄さんの新しい友だちに」
しばらく、僕は手紙を胸に抱いた姿勢のまま、目をつむった。
ぽつり、とつぶやく。
「それにしても、兄さんは僕が一番求めているときに帰ってきてくれるんだね。兄さんは僕の気持ちを分かってくれているんだ。やっぱり、離れていても、兄弟は兄弟なんだな」
僕は、血と血のつながりの奇跡に打ち震えた。明るく快活に笑う兄。おもちゃの剣をプレゼントしてくれた兄。可愛がっていた野良猫の墓をつくってくれた兄。書物に出てきたよく分からない単語を教えてくれた兄。僕を抱きしめてくれた兄。フォルスの頭を撫でている兄。僕に背中を見せている兄。
僕はまぶたの裏に一つひとつの光景を思いだし、よく吟味した。
目をゆっくりと開ける。
「ああ、でも、それなら兄さんは、どうして今まで帰ってきてくれなかったんだろう。そもそも、どうして屋敷を出て行ってしまったのさ。どうしてあのとき、僕の声に応えてくれなかったんだ」
僕はあんなにも必死で、兄さんを呼んだのに。
父と母が泥に包まれたとき、僕は悲鳴をあげていた。何これ、父さん、母さん、大丈夫なの、と叫んだ。
大丈夫ではないことはすぐに分かった。泥のなかで、母は金切り声を上げていた。父は、声とも言えないような妙な音を出していた。ふたりは死ぬんだ、と分かった。
「うわあああああ。兄さん、兄さん、兄さん兄さん兄さん」
僕は兄を呼んだ。
バタン、という扉の音が聞こえた。僕は振り返った。誰もいなかった。数秒たって、弟子の研究者が、逃げた音だと気づいた。
僕は後ずさった。壁に背をぶつけた。体中が震えてこわばり、扉まで移動するのは無理だった。何より、ふたりの姿から目を離せなかった。
ふたりが泥の中で溶けていくのを見た。取りこまれるまでは早かったが、溶けるのには時間がかかった。
ふたりの目は、僕の姿を見ていた。僕は、ふたりの口から、何か言葉が出てくるのを待った。いわゆる遺言というものが、僕に届けられるのではないかと思ったのだ。極限状態のなかで、僕は長男である兄に一部始終を伝えなければならない、という使命感をいだいていた。
しかし、ふたりの口から言葉らしい言葉が出ることはなかった。
ふたりの体が、ずる、と同時に動き始めた。床にひらいた光る穴のなかに、引きずられていく。ふたりが消えてしまう。
僕の思考は、恐怖と絶望と逃避の安堵で、真っ白になった。
母の顔は、上半分が黒く染まっていた。父の顔は右半分が黒くなり、目のあった部分に、青白い光の穴が開いていた。残り半分の顔は、悲しそうな顔をしていた。はじめて、父の顔を真正面から見た気がする。兄は父に似ていたんだな、と、頭の片隅で思った。
どこかから子供の呻き声がする。自分の口から発せられた声であることに気づいた。
父と母が音もたてず、穴に落ちた。
穴が一瞬、咆吼するように禍々しい白い光を発し、直後に消えた。
静寂が、おとずれた。
いつもどおりの、静かで薄暗い儀式の間だ。僕はその場でへたりこんだ。
半日近く、動けずに過ごした。
途中で気を失ったようだった。冷たい床に頬をつけて寝ていた僕は、体を起こし、手の甲で涎をふいて、儀式の間を出た。目眩がして、廊下を真っ直ぐに歩けなかった。
僕は、自分の部屋に戻り、内側から鍵をかけた。
しかし、落ち着かない気分になり、幾分もせずに鍵を開けて屋敷を出た。
外は昼だった。まぶしかった。
フォルスの家に行った。フォルスの母は、僕にご飯を食べさせてくれた。
僕は笑顔で食卓を囲んだ。
フォルスとその母に礼を言って、屋敷に帰った。僕はしばらく、静かな屋敷の玄関にたたずんでいたけれど、ふと思い立って父の書斎に入り、それから入り浸っているって訳だ。
兄の手紙も、ここで見つけた。それは丁寧に封が切られ、机のうえ、一冊の本と一緒に置かれていた。
僕は恍惚の表情で回想していたが、ふと思い出して、手紙に視線をもどした。声に出して読みあげる。
「『おふたりと話したいことが沢山あります。2年半前、俺は話もしないで家を飛び出てしまったけれど』」
兄の背中が脳裏に浮かんだ。兄の背と、兄の背を見つめる両親の背を、ギフトは見つめていた。
「『今は、まっすぐに互いの目を見て話し合えば、きっと分かり合えると、信じています。ギフトのことも』」
旅支度をした兄の、僕の両頬を包む手のあたたかさがよみがえる。兄の唇が動く。元気で。フォルス君と仲良くな。兄の瞳の美しさ、そのいっときの表情のまばゆさに、僕は深く傷ついていた。
「『相談したいと思っています』―――か」
僕は、首をかしげて苦笑いをした。
「分かってないなあ兄さんは。相談しなきゃいけないのは、僕のことじゃなくて、兄さんのことだよ」
僕は、子供には高すぎる父の椅子に座りながら、足をぶらぶらと揺らした。
「兄さんが家に帰って来なきゃ、話は始まらないんだから」
僕は、あの日から変わった。僕の中で明るい革命が起きたのだと思った。世界の10の命題のうち8までは解が出た、とか、間違っている鍵も念じて鍵穴に差し込めば扉は開く、などという、脈略ない言葉が幾つも心に浮かぶようになった。夜あまり眠くなくなった。研究が楽しくなった。すでに読んだことのある書物を読み返し、再発見があると、涙を流して感動した。空腹を感じなくなった。母の香水を桶にあけて、その中に足を浸して眠った。
そんな中で僕は、兄の手紙を何度も読み返した。何度も何度も読み返して、結論として、僕は兄を取り戻さなければならない、と考えるに至ったのだ。
(そして僕と兄さんは、僕の大事なフォルスを迎えに行くんだ。フォルスは兄さんのことを大好きだし、きっと大喜びだ。皆幸せになれる。これは絶対的に正しいことだ)
手紙は最終行にさしかかる。僕は、鼻がつくほど手紙に顔を近づけて、それを読んだ。
「『それでは皆様、お体にはお気をつけて エルスト』」
ああ、と呆れた声を出して、僕は天を仰いでしまった。何度読んでも失望を感じてしまう。兄は僕より9歳も年上で、才能溢れた男なのだけれど、子供のように無分別なところがある。僕が兄の兄となって、ただしく導いてあげないといけない、と思った。
僕は、机のうえに手紙を置き、目の前の何もない空間に向きなおり、叱咤の声をあげた。
「違うだろ兄さん。兄さんの名前は」
息を大きく吸いこむ。ありったけの憤怒を声にこめる。
「エルスト、ブ・ラ・ッ・テ・ル・ンだろおおお!」
足音が聞こえた。
複数の人が近づいてくる気配がした。荒い息のまま、僕は顔をあげる。期待と不安で心臓が高鳴った。
扉がひらかれる。立っていたのは、フードを目深に被った男たちだった。どれも知らない顔だった。もちろん待ちわびた人ではなかった。
「どちらさま」
眉をひそめて、僕は尋ねた。
先頭に立つ男は、僕の問いに答えず、側にひかえる者に何事か声をかけた。僕は椅子に座ったまま、辛抱強く返事を待った。
男が、ようやく僕に向き直り、重々しく口をひらいた。
「君は、ブラッテルンの生き残りか」
そういうことになるのかな。僕は頷いて、言った。
「たしかに、今この屋敷に残っているブラッテルンは、僕ひとりだよ」
また、男は傍らの部下に声をかけた。
僕は、ピンときてしまった。
男が口をひらく。
「―――我々は」
「ああ、何も言わなくていい」 僕は制止した。「僕には全部分かったよ。貴方達は、父さんと母さんの仲間なんでしょう」
男が、顔をあげた。フードの合間から、暗い片目がのぞく。口元に笑みを刻み、男は言った。
「今この瞬間から、君の同志でもある」
僕はきょとんとし、それから満面の笑みを浮かべた。
僕の明るい革命は、まだ終わってはいなかったのだ。