08 楽園に至る真理 番人は、フードの下で溜息をついた。
足を抱えて座ったまま、肩をすぼめる。石造りの地下室はひやりと冷たく、自分が纏っている薄いローブでは寒すぎた。
―――嫌な任務だ。
番人は、ガリガリと音をたてている檻を不気味そうに見やった。
檻に入っているのは、黒く染まった獣である。エサも食わず、吠えもしない。ただ、時折こうして、石の床で爪をとぐだけだ。
思いだしたように顔を上げ、自分を見やってくるその目の、茫漠とした光に番人はおののく。
こいつは世界のルールから外れた存在なのだ。その事実を、番人は本能の次元で悟っていた。こんな気持ちの悪いものを、自分は一晩中監視していなければならない。
この獣を作りだしたのは、ギフトという名のひとりの少年だ。
彼は、無色の遺産の継承者ブラッテルンの血を引く者である。
バルジオン―――無色の思想を引き継ぐ結社であり、番人も所属するこの組織は、5年前の「ブラッテルンの悲劇」をきっかけに、一族の生き残りであるギフトを同志として迎えいれた。その身を保護し、部下と幾ばくかの資金を与え、ブラッテルンの研究を引き継がせた。
そうして特段横のつながりがない筈の他の無色系列組織に対し、ブラッテルン次男の保護を広く通知した。
そこに政治的意図があったのは間違いないだろう。そう、余所者ならではの冷めた気持ちで、番人はひとりごちた。
(まあ、俺にはほとんど関係ない。俺自身がどこかにつながってさえいられれば)
番人は元はというと、ブラッテルン家当主につかえていた人間だった。5年前の悲劇のときに行き場をうしない、その後ぶらぶらと放浪したが結局職もみつからず、どうしようもなくなってギフトを頼り、バルジオンに入ったというわけだ。
一応、曲がりなりにも口利きをしてくれたギフトには感謝しなければならないだろう。
まあ少し欲をいえば、父の元部下に対して、もっと良い待遇を用意してほしいところではあるが。番人は、手に息をはいて、ローブの腕をさすった。
屋敷にいたころのギフトについては、正直ほとんど印象がない。おそらく会話したことは一度もない。背景にとけこみがちの、非力な子供。番人は、そう思っていた。
だからバルジオンでギフトと再会したとき、番人はおどろいた。灰色にけぶった幼子の面影はどこにも見当たらず、代わりに少年は、その身に華やかな才能の光をまとわせていたからだ。
バルジオンでのギフトは、まさに「天才少年」だった。
バルジオンとブラッテルンがすすめていた冥土研究を引き継いだ彼は、資金面、設備面ともに劣悪な環境下であるにもかかわらず、みるみるうちに成果をあげていったという。
研究を始めてたった2年で冥令支配を実現。4年目には安定的に冥土を呼ぶ術を確立。
そして5年目の現在は、「獣」を利用した実験をくりかえし、効率的な冥土汚染方法を模索しているそうだ。あわせて、開いたゲートを巨大化し、固定する術の研究にも着手しているとのことである。
彼の才能は、ここ数代のブラッテルン家の中でも突出している。
いや、実績という点に着目すると、彼はすでに、ブラッテルン史上随一とすら評価できるだろう。なにしろブラッテルンはこの300年、何も生みださない無為の時間を過ごしてきたのだから。
先代のブラッテルン当主は死に、長男は行方不明。
ギフトは未だ幼く、また次男ではあるものの、空位となっている当主の座の継承を今すぐにでも宣言したとして、誰も文句はないだろう。―――いやむしろ、それこそがバルジオンの望みであるはずだ。 もっとも彼自身は、何故かそれを頑なに拒んでいるという話であるが。
ただ、と番人は思う。個人の感情をいえば、自分は今の彼がおそろしい。
先日彼が、この「黒い獣」の様子を見にきたときのことだ。
少年は片手に、野でつんできたのだろう花の束を持っていた。
彼は檻の前にしゃがみ、無言で、花束を差しいれた。もちろん黒い猛獣が受けとる訳はない。それでも無表情で、花をささげつづけるその姿に、番人は狂気を感じた。
(彼は本当に、我々を楽園の頂点に導く救世主なのだろうか)
番人は、暗鬱とした表情で、目の前の檻を眺めた。
(それとも―――)
どさり、と何かの転げ落ちる音がした。
はっとして立ちあがる。
階段の方だ。番人は数歩、駆け寄った。
人が倒れていた。階上を見張っている筈の同志である。階段から落ちてきたらしい。
番人が同志に近寄るよろうとするより早く、硬質な足音がおりてきた。
精一杯の虚勢をはって叫ぶ。
「な、何者だ」
番人は震える手で、ふところに忍ばせている拳銃を握った。指が定まらず、撃鉄がひけない。戦いなど、生まれてこの方やったことがなかった。
みひらいた視界のなかで、規則的な足音にしたがい、蒼い鋼鉄のつま先、膝、爪、そして腕があらわれる。
(機械兵士―――いや、鎧をまとった人間?)
滝のように汗を流しながら、いつしか壁が背につくほど後ずさっていた番人は、見た。
倒れた同志の体を、邪魔くさそうに足でどけ、地下室に降りたったその男の顔を。
「当主」
腰が抜けた。へたりこむ。
―――いや、まさかそんな筈はない。先代ブラッテルン当主は、死んだはずだ。
それでは、あれは誰だ。当主によく似た、あの男は。
侵入者は、床のうえで身を強張らせている番人を一瞥もせずに、檻の前に立った。無表情で中の獣をみおろし、何事かつぶやく。
番人は、その男の横顔の、思いのほかの若さを見てとり、ふと、ひとつの可能性に思い至った。口がひとりでに、声を発する。
「も、もしや。エルスト―――」
侵入者が、顔をあげた。
「エルスト・ブラッテルン」
ゆっくりと番人に向きなおる、その男の、右側半分は黒く染まっていた。
いまは大人しい檻のなかの獣も、無言で番人を見ている。
男が歩きだした。近づいてくる。
「分かっている。お前は運が悪かったのだろう。だがな」
男の茫漠と光る右目と、当主と同じ薄茶の左目が、床でかたまる番人の姿を冷たく映していた。
番人は、その眼に、少年と同じ狂気の光が宿っているのを見た。
「その名を呼ぶなんてなあ……」
***
ギフトは夢を見ていた。
夢のなかでギフトは、幼子だった。
椅子に腰かけ、膝まで服をまくりあげ、水のはった桶に両足を突っこんでいる。足は泥だらけだ。
「右足を浮かせて」
めのまえにしゃがむ兄の声に、ギフトは素直にしたがった。兄の手が、足の汚れを洗ってくれる。
一本一本、指と指の間もこすられる。濁っていく水のなかで、ぬぐい落とされた砂粒が、桶の底に沈殿していく。
足の甲をさする兄の、濡れて光る爪をみた。
細長い、きれいな形の爪だ。丸っぽいギフトのそれとは違う。こんなところまで、兄は特別なのだと思える。
「次、左足」
眼下でゆれる柔らかな髪の合間から、兄の繊細な睫毛がのぞいている。
ギフトのまえでひざまずく兄。
浮かせた足の、土踏まずを通り、かかとをぬぐう兄の指5本。
こそばゆくて、左足を桶から抜いた。腕まくりした兄の腕に滴が飛ぶ。
「こら動くなって」
言って足首をつかまれ、水のなかに引きもどされた。
足の裏を指でくすぐられる。今度は意図的な動きだった。
兄さんやめてよ。ギフトは、足をばしゃばしゃさせて喜んだ。飛び散るしずく。はじける笑い声。僕と兄の―――。
「ギフト様……ギフト様! お休み中失礼いたします、緊急事態が」
ギフトは腕組みをといた。
いいところだったんだけどなあ。ぶつぶつ呟きながら、夢の部屋から出て現実に戻る。
「別にお休みはしていないけれど」
椅子をまわして、同志に向きなおった。
「オレの目はしっかりと開いていただろう。最近、ほとんど眠らなくても良くなってきたんだけど、その代わり今みたいに目覚めながら夢を見るんだ」
「は、はあ」
「すごくリアルな夢でねえ。現実と地続きで、境界らしい境界がないんだよ。オレは2つの部屋を自由に行ったり来たり―――そういや君、オレの夢をのぞかなかっただろうね?」
眉間にしわを寄せてすごむと、同志は困惑した表情をうかべた。
笑いがこみあげる。オレは頭のおかしいガキだと思われているのかな。
「おいおい、真に受けるなよ……冗談だよ。それで君、緊急事態って奴はオレに報告しなくていいのかい」
***
「あーあ。やられちゃったね」
現場についたギフトは、空っぽの檻を見てがっかりした。
檻のどてっぱらに、穴があいている。強い力で、格子がねじ曲げられたようだった。機械か、怪力のメイトルパ住人でも使ったか。
「貴重な実験動物だったのになあ。オレ、まだデータ取り終わってなかったんだぜ」
「申し訳ありません、ギフト様。警察騎士に、我々の活動が発覚したのでしょうか」
ギフトは鼻を鳴らした。
「警察騎士は死体を残していかないよ。―――ほうら見てごらん。黒焦げだ」
頭部が炭化した一体の死体の脇にしゃがみこみ、ローブの胸ぐらをつかんで持ちあげた。
側に控えていた幾人かの同志が、一様に嫌な顔をする。
皆、死体を見慣れていないのだ。無色の派閥が屍の山を築いてきたのは今は昔、である。
ギフトがローブを手放すと、死体の頭は固い音をたてて床に落ちた。
「それにしてもひどいことするねえ。何も殺さなくてもねえ」
感慨もなくそう言うと、同志のひとりが、額に脂汗を浮かべながらつぶやいた。
「自決したのでしょう。我々バルジオンの構成員となった者は皆、いざというときのために奥歯に爆薬を仕込んでいます」
「ああ、バルジオン!」 ギフトは思わず声をあげた。「さすがは保守本流、実に前時代的だなあ。まあ何にせよ、番人の彼が『敵』と対峙し、実験動物が『敵』に奪われたことは、ほぼ間違いのない事実のようだね。この研究室は放棄しなければならないな」
放棄といっても、実験動物1体を保管するためだけに無断拝借していた、街はずれの廃屋である。メインの研究室はもちろん別にある。
当の実験動物も連れ去られたし、研究資料も設備もここにはほとんど置いていないのであるから、あとはギフトたちがここから去り、二度と近寄らなければ済む話だ。
「せっかくタダで使えていた空き部屋だから、勿体ないけどさ」
地下室、というところが相当気に入っていたギフトであった。
「檻はどうしますか」
「何言ってんの君、置いていくに決まってるじゃないか、こんな重いだけの壊れた檻。どうせ何を保管してたかなんて誰にも分からないさ。問題は、この同志の死体だけど」
ローブの仲間がひとり、階段を駆け下りてきた。フードのしたから叫ぶ。
「ギフト様! 警察騎士がこちらに向かってきているとのことです」
「早速きたか。さすが鼻がきくな、警察って奴は」
「ギ、ギフト様」
「落ちつけよ。床で寝てる彼、身元が分かるものとか魔道具とか身に着けていないだろうね。―――ああそう、じゃあ大丈夫だ。こんなにこんがりしているんだから、どこの誰かなんて分かりっこない。せっかくだから、死体をここに置いていって、警察に殺人事件として捜査してもらおうじゃないか。彼を死ぬほど驚かせた犯人を、しょっぴいてもらおうよ」
兄のうしろを歩いていた。
屋敷の暗い廊下。背中でくんだ兄の指が、ギフトの目のまえで、蝶の羽のようにちらちらと動いている。
(僕を呼んでいるのかなあ)
だなんて勝手に思い、思わず駆けより、その指に飛びつく。
兄は肩ごしに振りかえって驚いた顔をするが、そのままギフトの手をしっかりと握りしめ、一緒に歩いてくれるのだった。
ギフトは歓喜に打ち震えながらつぶやいた。
兄さん。いま僕は、これが夢のなかのことだとはっきり認識しているよ。
本当のオレは―――じゃなかった僕は、兄さんの手に自分から触れることなんてできなかったからさ。
僕は兄さんを喪うのが怖くて近づけない、臆病な子供だった。
駆けより手を伸ばして触れる瞬間、蝶が飛びたつ不吉な予感がするんだ。僕の目のまえで羽ばたいて、森の暗がりに消えてしまう光景を思い浮かべるだけで、僕は―――オレは―――ああ、ちょっと待ってて兄さん。ごめんね。外が騒がしいみたいだからオレ、ちょっと見てくるよ。
***
蝶が止まっている。
青や赤の蛍光色に彩られた黒い翅が、丸い花弁に吸いつき、夢見るようにひらひら動いている。
ギフトは、焦点のぼやける視界が段々と明瞭になり、ぶれた蝶の像がひとつに結ばれていくのを、首をかしげて待っていた。
机をたたく音がひびき、花瓶が揺れた。蝶がおどろいて飛びたつ。
「だから、今夜の計画は中止すべきだと言っているのだ」
「しかし、今日のために、どれほどの手間をかけて準備してきたか」
「そういって計画を強行し、我々が一網打尽になっては元も子もない。見張り番をしていた同志が自決したということは、敵から何らかの詰問を受けていた可能性がある。考えたくはないが、仮に彼が死ぬ前、計画について喋っていたとしたら、敵に今夜の我らの行動すべてが漏れている可能性もある」
「そのような……」
「たしかにその可能性は否定できんぞ。彼が同志となって日が浅く、主要研究施設やバルジオン本拠地を知らされていなかったことは救いである。しかし彼は、今夜の計画には参加予定だったのだ。そうであれば当然」
蝶の行方を目で追っていたギフトは、口をひらいた。
「計画は予定通り決行する」
場が静まりかえった。
同志のひとりが、おそるおそる進言する。
「しかしギフト様。いま動くのは危険が大きく……」
「決行だ」
ギフトは口角をあげて笑みをつくり、言い切った。
吊り下げランプのしたで、同志たちが無言になる。進言した者も、力なく視線をおとした。
ギフトは椅子から立ちあがり、一同を見わたした。
「この段階で計画を中止したら、別行動で準備をすすめてきた同志はどうなるんだい。彼を見殺しにする? 彼はどう思うかな。オレたちを信じて行動してきたのに、突然梯子を外されたりしたら」
テーブルのうえに止まっていた蝶を、同志のひとりが、しっ、と手で追い払った。ふたたび飛びたつ。
「オレは、信じあう同志を裏切るようなことはしたくないんだよ。志半ばで逝ってしまった見張りの、えーと名前は何て言ったっけ、その彼の弔いのためにも、オレたちはオレたちのなすべきことをしよう。なに、正しき真理の庇護があるオレたちが、こんなところで倒れるはずはない。そうだろう?」
返事をする者はなかった。
一同の沈黙を、諾、の意思表示ととったギフトは、満足そうにうなずいた。
ギフトの足に、巨大な黒犬がすりよってきた。背を撫ぜる。
「おーよしよし、お利口だね。君もオレの話をわかってくれたのかな。まあ、君は同志じゃないけどね。実験動物君、今夜はがんばってくれよ」
***
幼いころ、ギフトにとっての真理は兄だった。
兄はよく、ギフトを抱きしめてくれた。体温をたしかめるように腕にかかえ、心臓の音をきいてくれた。
兄が聞いてくれるからギフトの心臓は音をたてるし、兄が触れてくれるからギフトの姿かたちは存在していた。
兄のぬくもりが好きだった。兄の声が好きだった。
しかしギフトは、兄の中身はわからなかった。兄は太陽みたいにまぶしくって、真ん中までは見えなかったのだ。
その事実に、幼いギフトはおびえていた。
「いいかいギフト。異世界からの侵略なんて、二度と起きっこないんだよ。リィンバウムは永遠に平和だ。リィンバウムの民と異界の住人は、信じあい、歩みよろうという努力さえしていれば、きっと分かりあえる。戦争なんて起こり得ないんだ。服従召喚術なんてそんなもの……もう必要ないんだよ」
花を抱きしめているかのような笑顔をうかべ、兄は語った。
ギフトは、それは違う、と幼心に思った。
現に分かりあえていないではないか。兄と弟、これほどまでに近い距離にいるふたりでさえも。
しかしギフトは、兄におもねった。
兄の言葉は正しくなくとも、兄はギフトにとって完全に正しい存在であった。
「兄さんが言うなら、そうかもね」
そのとき自分を見つめた兄の瞳の悲しさを、ギフトは生涯忘れない。
兄の腕は、いつしか遠のいていった。
頭は撫でてくれる。
しかし昔のように抱きしめてはくれない。兄と弟、ふたりの体のあいだには、いつも丸くむなしい空間があいていた。
ギフトが頑張って勉強をすればするほど、兄は顔から甘さを消していき、少しずつ遠ざかっていった。
ギフトが勉強するのは、兄のためだ。ブラッテルンの当主となり、いずれは楽園の玉座にのぼるであろう兄を助けるためだ。
だのに兄は、ギフトを認めてくれない。
(僕は何かやったかな。ふざけすぎた? 甘えすぎた? それとも、僕がダメな奴だからか)
怖くて兄には聞けなかった。
気づけば赤い髪の幼馴染が、ぴたりと兄の後ろに立っている。
お揃いの剣。お揃いの鞘。同じ年、同じ背格好!
そのうえギフトが「こうなりたい」と思う他の全てを持っている少年が、ギフトの場所にすっかりおさまっている。
ギフト自身も、愛してやまない少年。
その少年が、兄と視線をかわして、笑い合っている。いつか追いつくよ、と宣言し、兄が喜んでいる。
完璧な調和のとれたふたりを、ギフトは、スポットライトの外で立ち尽くして眺めるほかなかった。
(兄さん)
光のなか、友の髪を撫でている後姿に呼びかける。
(兄さん、頼むから彼を抱きしめないでおくれよ。僕、もっと勉強も剣も頑張るからさ。兄さんがフォルスを抱きしめちゃったら、僕は……僕は……)
月が、頂点にのぼった。
子供の悪戯をうつくしく演出する、陽気な真円のライト。
放たれる硬質な光は眩しすぎる気もするが、まあ、遠くから大人たちが慌てふためく様子を見るには、好都合だよなとギフトは思う。
「やっぱりさ。同じ研究をしている仲間がいるって聞いたら、研究内容をのぞき見したくなるのが人情だよな。それが名高きライル機関とくれば尚更」
ギフトは、茂みのかげから首をのばして遠くを見やった。その顔は、年相応の少年らしく輝いている。
視線のさきには、ロレイラル工学の粋を集めた建築物がそびえていた。
外壁を覆う滑らかな金属は月の光を反射してぬらりと光り、建物をかこう塀の向こうからは、巡回警備機械の放つライトが、夜空をなめるような動きで放射されていた。
門の前には、番をしている人間がふたり。
―――この高度な機械設備をそなえた機関のなかで、生身の彼らだけが、いかにも脆弱にみえた。腰に銃は下げてはいるものの表情に緊迫感はまるでない。片足に重心をかけて立っている様なんて、完全に「平和ボケ」といった風情だ。
ギフトは、隣に大人しくひかえている、人の背丈ほどある「犬」の背に触れた。
こいつは元々、メイトルパの獣、だったものだ。今は違うナニカであるが。
犬は、茫漠と光る丸い目をギフトに向けた。尻尾を振って、恭順の意を示す。
「さ、行ってこい。あそこの退屈そうなお兄ちゃんたちに遊んでもらうんだ」
犬は咆哮し、地を蹴って、少年の指のさし示すほうへと駆けていった。そのあとに、幾体もの黒い獣たちがつづく。
歪んだ掘削機、ふたつ頭の悪魔、粘液をまき散らす屍鬼―――。
ギフトは茂みのかげで、おのれの呼吸音を聞いていた。
5回ほど荒い呼吸が繰り返されたころ、門のまえで、引き絞るような二筋の悲鳴があがった。
ギフトは自分の口を、手のひらで覆う。引き結んだ唇の内側で、とめどなく笑いが湧きあがった。
(楽しいなあああ)
一拍おいて、けたたましい警報音が鳴りはじめた。
門の内外が急に騒がしくなった。怒声。電子音声。獣の咆哮。
ギフトは我慢しきれず、同志に止められるのも聞かずに、葉を散らして茂みから立ちあがった。叫び声をあげる。
「いいぞ、いいぞ! おおい君たち見てみなよ、皆大活躍だぜ。ライル機関の警備兵器にだって負けちゃいない。あいつら、オレがつくったんだぞ」
「ギフト様おやめください」
「ひはは、警察騎士さまのおでましだ。さすがに早いな! 3分も経ってないじゃないか、ええ?」
銃撃戦がはじまった。警報音と破裂音がひびくなか、赤、青、紫、緑の鮮やかな閃光が破裂し、合間に煙幕がたちこめていく。
地上から照る警報灯の色が反射したか、夜空にうかぶ雲は禍々しい淡紅色に染まっていた。
「花火だあああ!」
ギフトは両手をひろげて叫んだ。
「あげろあげろ、花火をあげろ! もっと派手になあああ」
どん、と腹の底からひびく爆発音とともに、眼前で記憶の堰がこわれた。ひとつの光景が奔流となって、ギフトの体を飲みこむ。
ギフトは子供の目線で、暗い地平線を見つめていた。
一粒の光るしずくが、地から天に向かって、吸いこまれていく。
頼りない音をたてながら。取りかえしのつかない軌跡を描いて、空にまっすぐひとつ、落ちていく。
直後、頭上で音もなく、光の波紋がひろがった。氾濫する色彩。
遅れて、空気をふるわせる音が耳に届く。波紋はくずれ、ぱらぱらと光の残滓が落ちてきた。
村の広場からあがる花火だ。どういう理由であがった花火だったか……興味がなかったので覚えていない。
ギフトは、屋敷のバルコニーの手すりに身を乗りだしながら、それを見ていた。
ふと左を見た。そこには友と―――少し離れたところに、兄がいた。
笑みを浮かべ、空をみあげるふたりの頬に、色とりどりの光がはえている。
ギフトは、不思議なものを見るように、ふたりの横顔をながめていた。
鼓膜をゆさぶる幾つもの音をききながら。
昼の暑さの余韻をぬぐいさる夜風が、3人の体をつつんでいた。
「ラー……」
ギフトは、戦火を遠くに見やりながら、知らず、いつか聞いた童謡を口ずさんでいた。
「ラーララー……ラー……」
すぐ近くで爆音がした。現実に引きもどされ、前方を見やる。
木端をふきとばした煙は、バチリ、と雷撃をふくみながら、大きく膨らみ風にただよっていた。焦げた匂いが、ギフトの鼻をかすめた。
薄れゆく灰色のなかから、一体の影が、のそりとあらわれる。
ギフトは後ずさりながら、その影に目を凝らした。
「機械兵士……か……?」
いや、鎧をまとった人間か。
いぶかしげに目を細めるギフトの肩に、同志の手が置かれる。
「ギフト様」
同志のその声に、影が反応した。
何かをつぶやいたかと思うと、ゆっくりと、歩み寄ってくる。
ギフトはさらに数歩後ずさって、転びそうになった。目が極限まで見開かれる。唇がぽかりと丸く空いて、無意識のうちに、声を発した。
「おお」
ふたたび爆音がひびいた。ついで幾人もの足音が近寄ってくる。
止まれそこの男。無遠慮な警察騎士の声がひびいた。
鎧の男は制止を無視し、ギフトへの歩みをとめない。右手を持ち上げ、ギフトへと伸べながら。
銃声がひびき、その手が弾かれたように跳ねた。青の鋼鉄の皮膚に空いた銃創の丸い穴から、黒い液体が吹きこぼれる。男の顔がゆがむ。
直後、その腕には幾つもの黄色の金属円が瞬時にして湧き出し、かさぶたのように傷口を覆った。
ギフトは叫んだ。
「おおおお」
ギフトは、現実感のない目のまえの光景にとらわれ、動けずにいた。
ギフトが故郷を離れて、10年の半分がすぎた。
そして、自分に手をさしのばす目の前の男の、顔は半分。
これは何の暗示だろうか? 分からない。何も考えることができない。
ギフトに伸びる鋼鉄の指先が、震えている。
燃えさかる夜と、幾つもの銃声を背景に、苦悶に満ちた男の口から、悲鳴のような声がほとばしった。
「帰ってこい!!」
銃弾が男の体に降り注いだ。
男は舌打ちをし、左手を警察騎士の群れに向けた。男のかかげた手のひらの前方に、巨大な光の円が浮かんだ。
「―――く……撃て」
光の円から、電撃がはしる。森の暗がりが明るく照らされ、警察騎士たちの悲鳴があがった。
その様を呆然と見ていたギフトは、誰かに腕をとられたのを感じた。
「ギフト様、逃げましょう!」
そのまま腕を強く引っ張られ、ギフトは歩き方を忘れたかのように滑稽な足どりで、その場を離れた。
背後から、男の声がする。
「待て、行くな。俺は、エルストだ。お前の兄さんだ、ギフト―――」
***
幌をめくって外の様子をうかがっていた同志は、溜息をつくと、馬車の奥へと戻った。
「追ってはきません」
「……」
馬車の隅に座る少年は、答えなかった。
両手で口を覆ったまま、肩で息をしている。
すすまみれの前髪が一房、少年の目の前で揺れていた。
「大丈夫ですか。ギフト様」
手の向こうで、さらに数回、暴れる呼吸をおさえる。
ぐ、と息のかたまりを飲みくだし、ギフトは油の切れた機械のようにぎこちなく、手のひらを口元から離した。こぶしをつくって、両ひざのうえに乗せる。
「いやあ……」
言ったきり、宙を上目でにらみつけ、しばし沈黙した。
やがて、汚れた頬に笑みを浮かべ、ねっとりと唇をなめた。
味わうように、ギフトは言う。
「冥令支配が効いていなかった―――と、思ってね」
少年は、やけに晴れ晴れとした顔で、同志を見やった。
「首尾はどうかな。結構な時間は、稼げたんじゃない?」
「ええ。騒動沈静化までに、軽く1、2時間はかかりました。資料を持ち出して読むには、十分な時間だったでしょう」
ギフトは満足そうにうなずいた。
もともと、ライル機関にスパイとして潜り込ませていた同志に、極秘の冥土研究資料を読む機会を与えるためだけに起こした騒動だった。
ライル機関の一研究員に「冥土獣をあやつる侵入者の襲撃から、冥土の資料を守る」という口実をあたえ、保管場所から資料を持ち出させるのには、十分な緊急事態を演出できたはずだ。
「実験動物たちは、どうなっただろう」
「ほとんどが機能停止したようです」
「そうか。そうだろうね。冥土汚染実験を繰りかえしたせいで、もうボロボロだったもんな。でもまた復活はする訳だから、連中、さぞかし泡を食うだろうね」
ギフトは、悪戯の罠をしかけた子供のように、楽しそうに笑った。
「冥土汚染体の残りカスを手に入れて、これで彼らの冥土研究もちょっとだけ進むだろう。研究に携わる研究員も、増やさざるを得ないはずだ。同志にはなんとか研究チームにもぐりこんでもらって、何か有益な発見があったらこちらに横流ししてもらわないとね」
現実の脅威を目の当たりにすれば、彼らも本腰を入れて研究をするだろう。
―――元々、ライル機関において冥土研究が開始されたのも、ギフトの故郷での冥土出没騒ぎが原因だ。
あのとき、冥土について「正しく」異世界調停機構に通報をしてくれた響命召喚師とその響友に、ギフトは感謝していた。
「それにしても、今日は思わぬ収穫があったな」
「思わぬ収穫……と、いいますと」
「あの蒼い機人だよ。君もみただろう。彼はもう、5年も前に冥土に侵された召喚師なんだ」
ギフトは敢えて断言をした。そう考えるのが自然―――いや、それ以外に可能性はないからだ。
「5年、ですか。しかしそれほどの長い期間が経過していながら、浸食はさほど進んでいないようでしたが」
「そうだね。でも、この現象は理論的に説明できる。ヒントはそうだね……あの機人が何故召喚術を使えていたか、ということだ」
なぞなぞを解けずに黙りこむ同志に、ギフトはもどかしいなあ、と両手をにぎる。
「分からないの? 響命召喚術は、響命石―――響友と信じあうことで生まれる魂の光の結晶を媒介とした召喚術だろ。それに対して冥土は、『信じる心』を汚染する。冥土汚染されて、自分以外の誰のことも、もちろん響友のことも信じられなくなった召喚師は、真っ先に響命石を失うことになるんだ。そうして召喚師は召喚術が使えなくなり、『ただの人』になる」
その辺のことは、昨夜消えちゃった実験動物で証明済みだろ、とギフトは言う。
「でも、あの機人は召喚術を使えていた。じゃあ答えはひとつだ。彼は響友と『融合』したんだよ。響友を自分の一部に取り込むことで、『他人に対する不信』の『他人』から響友をはずした。そうすることで、響命石の破壊をまぬがれることができたんだ。そうして『響友に対する信頼』が防壁となって、結果、魂に対する冥土の浸食を遅らせているんだろう」
「しかし……まさかそのようなことが」
「できるさ、理論上はね。冥土は魂を溶かす。溶け合った魂同士を混ぜて固めたら、それは融合したってことになるんじゃないのかな。まあ、もう少し検証の余地はあるけれども」
同志は吐き気を催した様な、苦い顔をしていた。
反対にギフトは、上機嫌で幌に背をもたれる。
布のむこうにある筈の夜空にむかって、うっとりとつぶやいた。
「兄さんは、自分の響友をそういう風に使うのか……さすがは、兄さんだな」
兄もどうやら、冥土について随分調べているようだ。
故郷の村の冥土復活は、事件から1年もせずに止まったと聞いている。おそらく冥土の性質に気づいた兄が、冥土を隔離するなど何らかの手をうったのだろう。
(昨夜の実験動物も、兄さんが連れ去ったのかなあ。元々は兄さんを追ってきたという召喚師だったけれど)
兄はどのように、あれを処分したのだろう。それを考えるとギフトは、ちょっとだけ愉快な気分になった。
「兄……とは、もしや」
おそるおそる聞いてきたバルジオンの同志に、ギフトは鷹揚に微笑み、うなずいてみせた。
「うん。エルスト・ブラッテルン―――行方不明だったオレの兄さんだ。その名を君たちもよく覚えておいてほしい。次代のブラッテルン家当主であり、いずれ君たちの主になるべき男の名前だから。それにしても」
ギフトは前にむきなおり、まぶたを閉じた。
先の光景を思いだす。追憶の彼方からとどいた、懐かしいその声を。
(帰ってこい!!)
「帰ってこい、か」
ギフトは、大人びた苦笑を浮かべた。
「兄さんはまだ、分かってないんだなあ」
飛びたった蝶に、家への帰り道を教える作業は骨が折れる。
(でもオレ、あきらめないぜ。もっと頑張るよ、兄さん。頑張って頑張って、兄さんが認める弟になるよ。そうすればきっと兄さんは、戻ってきてくれる)
そのとき自分はすべてを許し、両手をひろげて、兄をむかえいれよう。
(だから兄さんも、そのときは。きっと、オレのすべてを受けいれてくれよ……)
黒い蝶が、ギフトの肩に止まった。
「あれ、お前、ついてきていたのかい」
翅をなでると、蝶はガラスのように割れた。ギフトは失望の声をあげる。
「ああ……まだ強度がたらないみたいだ」
「ギフト様。あまりそうやって冥土に触れては」
知らぬうちに擦り傷から入ってしまっては大変です、などとのたまう心配性の同志をよそに、ギフトは腕組みをしてうなった。
オレがスポットライトに入ることができるようになるには、まだまだまだまだ頑張らないといけないみたいだ!
「ふわあ。なんだか無性に疲れたなあ」
ギフトは急に、全身が重くなるのを感じた。今日は色々ありすぎた。
「すこし眠るよ。久しぶりに、目をつむってさ。研究室に着いたら、起こしてくれよ」
「かしこまりました」
ギフトは、かたわらに置いてあった荷物のなかから、ひとふりの剣をとりだした。
ぼろぼろの、布の鞘。丸い石飾りなんかもついている。
それを抱いて、横たわった。毛布をひきよせ、肩までかける。
すぐさま眠りの水が、ひたりひたりと身を浸していった。
ギフトは薄目をあけた。背後から、蒼い影がさしている。
少年の口元に、笑みがうかんだ。気づかれぬように、ふたたびそっと目を閉じる。剣をつよく抱きしめなおした。
夢の気配が形をなして手のひらとなり、優しくギフトの髪を梳く。
自分を見おろす、視線の気配を感じる。
どうしてだろう。
理屈ではわからない、ささやかな痛みが、まぶたの縁をしめらせる。
ギフトは、ギフトだけの真理に祈りをささげた。
(オレの夢……外には漏れていませんように)
懐かしい幻が自分のためにうたう歌は、どうか誰の耳にも届かぬものであってほしい。