12 夢渡り 光のなかにいた。
フォルスは気づけばぼう、とひとり立ち尽くし、どこまでも続く白い明るみを見わたしていた。
見わたすといっても、あたりにはおよそ景色というものがない。天と地の境目もない。一枚の巨大な白い布に、世界がすっぽり覆われているかのようだった。
フォルスはそんな世界の真ん中に浮いていた。
―――ここはどこだろう。
ぬるい大気につづまれながら、ぼんやりと思う。
大気は水に似ていた。
腕をうごかせば、意図した動きから少し遅れて指はゆっくり空をかく。透明な波の紋様が、視界の果てにゆるく渡っていった。本当に水のようだ。
しかし、まわりに満たされているのが水であれば、こんなふうに呼吸はできぬはずだと、フォルスは思った。
旧知の友の姿をみつけ、声をかけることだって。
ギフト。
その名前を呼び、泳ぐように近寄ると、空に漂っていた青年は一瞬おどろきの表情を浮かべた。
しかし、すぐに得心したように、にやりと笑う。
(ははあ。さては、夜見に迷いこんできたな。フォルス)
夜見って?
手の届く距離に辿りつき、心のなかで疑問を浮かべると、ギフトは澄ました顔をして、指揮棒のように人差し指をふった。
(いま君がいる、この世界のことさ。ここは、夜見る夢と地つづきなんだ。―――君、もしかして今、眠っているんだろう)
そうかな。
(そうさ)
そう言われれば、そんな気もした。フォルスが腕組みをして考えていると、ギフトは声をたてて笑った。
(しっかりしろよフォルス。寝ぼけているのかい。……いや、待てよ)
言うなり、ギフトはあごに手をあてて考えこんだ。
(寝ぼけている、はこの場合違うのか。どう言うべきかな。寝入りばな……起きかけ……うーん)
相変わらずよく分からないことを言う幼馴染である。
フォルスは、ぶつぶつと呟くギフトから視線をうつし、あらためて辺りを見わたした。
先程何もないと評した世界だったが、はるか上空には、キラキラと輝く水面があることに気づいた。そしてはるか底には、やはり何かがあった。ほのかな色彩。すすのような、黒ずみだ。
見覚えのある光景だった。どこで見た光景であるかは、思い出せない。
(興味があるかい。この世界のこと)
いつのまにか、ギフトは考えこむのをやめ、フォルスを見つめていたようだ。目をきらきらさせ、穏やかな笑みをこちらに向けている。ずいぶんと機嫌がよさそうだ。
フォルスは、10年ぶりに再会してからというもの見ることのなかった純粋に明るい友の表情に安心し、しかし同時に何やら胸騒ぎもして、口をひらいた。
君、何か良いことでも、あったの。
(まあね)
何があったのさ。
重ねて聞くと、ギフトは眉間に皺をよせて笑った。今度は、悪い笑いだ。
(秘密だよフォルス。今はまだ、君に教える段階じゃない)
ああそう。
フォルスは少しむっとして、ぶっきらぼうに答えた。子供のころから、この幼馴染は時々自分に秘密をつくる。それがフォルスには、気に入らなかった。
(すねるなよフォルス。すぐに君にも、見せてあげるからさ。今のところ、首尾は上々なんだ)
ふうん、とフォルスは口をとがらせた。子供をあやすような口調が、面白くなかった。自分が散々フォルスに心配や苦労をかけていることを、まるでわかっていない。フォルスは、この幼馴染に一言くらい文句を言ってやらなきゃならない、という気分になっていた。
―――僕の方は散々だよ。主に君のせいで。
(主にオレのせい? 冗談だろう)
意外そうに口をぽかんと開けるギフトに、さらにフォルスは言ってやった。
いや、違った。主に君のせい、じゃなかった。全部君のせいだ。君と、君の迷惑な研究のせいだ。
(おいおい、ひどいな) ギフトは大げさに両手をひろげ、嘆いている。(言い過ぎじゃないか)
過ぎないよ。
(フォルスは人が努力してやってきたことを全否定するんだなあ。しばらく見ないうちに、君は随分と悪辣な人間に育ってしまったみたいだ)
君に言われたくないよ!
フォルスは声をあらげた。
手をさしのばして、友の顔をぱちりと両手ではさむ。
(おい、フォル……)
僕だって、まさか君がこんな風に成長していたとは思わなかった。
(……)
両の手のひらから、すこし冷たい友の肌の温度がつたわってくる。
僕、エルストさんのことは心配していたよ。眠れない夜があった。どうして姿を見せてくれないんだろう、って悩んだ時期があった。結局自分で探すのは限界だって悟ってからも、ずっと気にしていたよ。
ギフトは、フォルスの手に頬をつつまれながら、大人しく話を聞いている。
でも、君のことは正直、気にもかけていなかった。安心しきっていたんだ。どうしてなのかは今となっては全然分からないんだけど。徹夜で研究して、何度か倒れているかもしれないとは思った。栄養失調で入院してたりするかもしれない、とも想像した。でも君は昔から我がままで強引な人間だったからね、何だかんだいってしぶとく生き抜いているだろう、うまくやってるだろう、って思っていたんだよ。
(ふうん……)
手紙も結局一通もくれなかったよね。薄情な奴だなあと思ってた。でもまさかこんな風に、最悪な方に君が歩いているなんて、考えもしなかった。
(最悪ね。オレにとっては最善だったんだが。それに)
ギフトは顔をかたむけ、フォルスの手のひらに、いとおしげに頬を寄せた。
(手紙は何通も書いていたよ)
嘘だ。どこに送ったのさ。
(夢のなかで、君に。何通も書いて、君に送ってた)
そんなの、届くわけがないだろう。
(届くと、思っていたんだよ……)
目をふせ、頬に睫毛の影をおとす幼馴染の姿をみて、フォルスはふいにさびしくなった。
顔を近づけ、切実な声で、語りかける。
ねえギフト。もうやめようよ。帰ってきなよ。
幼馴染は視線をあげ、フォルスを真っ直ぐに見つめた。
フォルスはその瞳をのぞきこみ、なおも言い募った。
僕たちが喧嘩して、何になるんだい。子供のころみたいに、何も考えずにみんなで仲良くしよう。それで、いいじゃないか。他の世界の住人たちとも、そんな風に仲良くできたら、もう、それでいいじゃない。誰も本当は、他の誰かと争いたくなんてないんだ。みんな、喧嘩したって、かならず仲直りできるはずなんだ。だから君がそんなふうに、力をもとめて戦わなくたって。
ギフトは、まぶしげなものを見るように、フォルスを見つめている。
その透明な茶色の瞳からそそがれる静かなまなざしは、フォルスの胸にせまった。
―――帰っておいでよギフト。
彼の頬をはさむ手をずらし、その髪に指をさしいれる。
さらさらと柔らかく流れる、フォルスの大好きな彼の髪だ。幼い記憶のなかのそれと、何ひとつ変わらない。
どうして君は、僕のそばにいないのさ。僕がいま目を覚ましたら、きっと君はいないんだろう。僕はベッドのなかで天井を見つめながら、夢が夢だったことにがっかりして、こんな何もない空間にぽつんと浮かぶ君を、ひとり思い浮かべたりするんだろう。なあギフト、君は世界のために戦っているというけれど、それならどうして、君はひとりぼっちなんだ。どうして僕をひとりにするんだ。そんなこと、世界の誰も望んじゃいない。すくなくとも、僕はそんなこと、望んでいない……。
胸のうちから、思いを吐いた。
幼馴染は白い静謐の光に照らされ、無言だった。
この手のなかに彼の頬は柔らかく、たしかな感触を伝えてとどまっているのに、目が覚めれば彼を失わなければならない。フォルスはそれが悲しかった。
ギフトは困ったように笑い、フォルスの手に己の手を重ね、口をひらいた。
(フォルス。オレのフォルス。君はほとんど正しいけれど、やっぱり少し間違ってる。本当は君も、気づいているんだろう)
噛んで含めるような、やさしい声だった。
(響融化から300年経った。異界の友と心結ばれる者は、未だひとにぎり。君は、その数少ない召喚師だ。頑張っているんだろう。頑張って頑張って、調停召喚師になって、毎日色々な問題を片づけているんだろうね)
重なる指が組み合わされる。ギフトは目を伏せ、眉根を寄せた。
(君は大人になった。大人びた、さびしげな顔をするようになった。剣もとても強くなった。これまでに何回ふるったんだい。何十回。何百回か。そして君は今、その剣で、オレと殺し合っている。―――なあ、もう気づいているんじゃないのか)
フォルスは、友の唇がうごくのを、じっと見つめていた。
むかし、彼の声は当たり前すぎるほどに近かった。
それが今では、これほどまでに遠く得難い。
(誰もが子供みたいに何も考えず、分かりあってつながりあうなんてこと、できはしないんだ。君の記章と剣が、すべてを証明しているだろう。争いはなくならない。ひとたび伸びた手足はゆりかごのなかに戻せない。意味価値なくば、視線は寄せられない、心の空白は埋まらない。だからオレは力を求めて戦っているんだ。血の使命を背負って、楽園を守る力をさがして、歩きつづけてきたんだ。オレがオレの使命をやり遂げ、楽園を戦いの火から守ることができれば、君も―――兄さんも―――理解してくれる。オレを見てくれる。そう信じて……)
ギフト……。
(はは……何だか恥ずかしいな。お喋りがすぎた。ここではやけに素直になれるみたいだ―――オレも君も。普段のオレは、刃物みたいに研ぎ澄まされているけれど、いつも何だか眠いんだ)
ギフトは照れくさそうに笑った。
(オレの言うこと、分かってくれとは言わない。オレは君がきっと今は分かってくれないことを分かっているからな。でも最後に君と、こんなふうに本音で話すことができて良かったよ。もっと早く、君と話せていたらよかったな。それじゃあ)
離れていこうとする友の両手首を、フォルスは必死につかんだ。
紫の瞳に、友の驚く顔をうつして叫ぶ。
「話せばよかったじゃないか!」
ギフトは、フォルスの剣幕に、薄くあけていた口を閉ざした。
「夢で手紙を書けるなら、夢で直接、僕に会いに来て、言えばよかったじゃないか。エルストさんにだって」
息をすいこむ。光の大気が肺に入りこんできた。体のうちに、甘さがひろがる。フォルスはふいに、自分が目覚めかかっている、と思った。
「君が言いたいこと、思っていたこと、願っていたこと、全部。泣いて、怒って、伝えればいいじゃない。僕たちがうんと―――小さかった頃みたいに」
自分の声が頭のなかに反響して、やけに大きくひびく。
穴の開いた桶の水のように、ゆるやかな渦をえがきながら覚醒に向かっていく意識を、フォルスは必死につなぎとめていた。
「子供のころに戻りたいのは、本当は君なんだろう。戻ろうよギフト。僕たちと一緒に―――」
(もう遅いよ)
友の声は、先よりもくぐもり、遠くに聞こえていた。
(行くところまで行くしかない。もう引き返せないところまできているって、君も分かっているんだろう)
ギフトが両手をひいた。いつしか力の抜けていたフォルスの手のなかから、手首がすりぬける。
「ギフ……」
ギフトは透きとおった笑みをうかべて手を差しのばし、フォルスの頬に指をあてた。慈しむように、輪郭をなぞる。
(フォルス……)
遠い彼方から、声がとどいた。
(会いにきてフォルス。兄さんと待ってる)
***
フォルスは、天井を見上げていた。
見慣れた自室。
未だ部屋は暗く、カーテンから漏れた月の光が、寝台に細い筋を落としていた。
ベッドのうえで身を起こし、うつむく。しばし無言で、手のひらを見つめる。
冷えた床に裸足をおろし、窓際に歩み寄った。カーテンをひろげると、白く凍えた光が全身にふりそそぐ。
天に浮かぶ真円。
そのすぐ隣には影のように、黒い天体が物言わず佇み、地上をじっと見つめていた。
光に紛らせ、つぶやく。
「ギフト……」
僕たちは本当に、この道しか歩めなかったのか。