13 分岐:冥界の王 兄のなかを彷徨っていた。
兄のなかで、兄の姿を探していた。
兄のなかは、黒い霧に包まれていた。霧は鉄錆の臭いがした。
オレは視界を塗りつぶす黒にむかって叫んだ。
「兄さん。どこだい」
答えはない。
再び叫ぼうと開いた口のなかに、霧の粒子が入りこんできた。それは砂利のような感触だった。オレは舌を動かし、砂利を味わう。やはり鉄錆の味がした。
ため息をつき、両手で顔をぬぐった。ざらりとした手触りが、頬を引っ掻く。
「兄さん」
髪に触れると、砂利まみれのそれは指にからまって固かった。
両手を頭にあてたまま叫ぶ。
兄さぁぁぁん
しかしオレの声は霧に吸いこまれ、周囲には響かない。
歩いて探すほか、ないようだった。
延々と歩いた。地面は、黒い泥に包まれ柔らかかった。
どこまで行っても、景色は黒一色だった。
変化のない風景に飽きはじめたころ、黒い地面に、何か青い物が埋まっているのを見つけた。
金属片だ。ほころびた光沢ある破片が数個、地面に散らばっている。見覚えのある青色だった。
辺りを注意深く見わたすと、破片は他にも落ちていることに気づいた。血の跡のようにぽつぽつと、ある方向にむかって、一筋に続いている。
「この色……ガウディかい」
オレは旧知の友を呼ぶかのように明るい声を出した。身をかがめ、破片のひとつに語りかける。
「なあ、もしかしてこれって、君の用意してくれた案内板? この先に兄さんがいるって期待していいのかな」
オレは好意的な笑みを浮かべ、青い破片を踏んだ。そうして靴裏でにじるように、破片から破片へと、歩をうつしていく。
しばらく進んでいくと、ざわざわと、空気が動きはじめた。時折強く、黒いノイズの風が吹く。
―――やっぱりこの先に何かあるんだ。
服の裾をゆらされながら、オレの胸は高鳴った。
足どり軽く、道を歩く。
目を閉じて耳を澄ますと、兄の世界をまわす規則正しい歯車の音が、遠く遠くで聞こえていた。
青い破片の道の終わりにたどり着いた。
突如、視界が開けた。呼吸が止まる。
そこには草原があった。
目の眩む青空があった。
黒い霧に慣れていた体には激しすぎる、胃が縮むほどに明るい景色だった。
しかもオレは、何故か、石柱の上に立っていた。足元から強い風が吹き、オレはよろめく。
ここがどこか、すぐに分かった。
暁星の丘だ。
しかしオレの知る丘とは、決定的に印象が違っていた。目の前のそれは、オレの記憶とは比べものにならないくらい、鮮やかな色彩をもっていた。
あわてて周囲をみわたす。兄の姿はなかった。
「なんだよ」
オレは、兄がいないことへの落胆と同時に、何やら裏切られたような思いを味わっていた。
「兄さん。オレはこんな景色、知らないぞ」
オレが知らない街で、オレが知らない時間をきざむ、オレが知らない兄の顔を見せつけられた気がして、胸が苦しくなった。体のうちに、どろりと熱いものが沸きだすのを感じた―――それは、嫉妬だった。
無意識に後ずさり、石柱から滑り落ちた。体をしたたかに打つ。
オレはしばし動けず倒れ伏していたが、自分が体をつけているのが光る草であることに気づき、慌てて起き上がった。逃げるように、元来た黒い霧に向かって走る。
黒い霧の内側に戻る寸前、オレは息を整え、緑の丘を振り向いた。目に険をこもらせ、睨みつける。
一粒。
天から滴が降ってきた。
また一粒。二粒。
それは黒い水滴だった。
ぽつ、ぽつと降りはじめた黒い雨は段々と激しくなり、どしゃぶりになって景色を埋め尽くす。
オレは、濁った河が幾筋も流れる緑の丘を見届けてすっかりと満足し、暗闇のなかに戻った。
黒い霧をすすんだ。兄を探していた。
相変わらず兄のなかは泥に覆われていた。兄の姿はなかった。
兄のなかには、よくみると、幾つもの残骸が落ちていた。
倒れ伏す獣の死骸。骨。風にはためく乾いた羽。壊れた機械。
皆、黒く朽ちていた。
獣の屍の合間には、ぽつぽつと、マントの切れ端や散った花びら、カフスボタン、幌の下りたゆりかごなんかが落ちていた。おそらく兄の心象の断片なのだろう。
落し物は奥に行くにしたがい徐々に無秩序に、無意味に散らばるようになっていき、あたかも掃き溜めのような様相を呈していった。
思わずつぶやく。
「兄さんの中は面白いなあ」
掃き溜めのような兄のなかに、ふと、見覚えのあるものを見つけ、オレはアッと声を上げた。側に駆け寄る。
泥を素手でかき分け、半分埋もれたそれを掘りだす。あらわれたのは、ひとふりの剣だった。
刀身をぬぐい、空にかかげて確かめる。間違いない。
「これ、子供のころに、兄さんがオレにプレゼントしてくれた剣じゃないか」
オレが何より大事にしていた、おもちゃの剣だ。
「兄さんも、覚えてくれていたのか」
オレはニコニコと笑って喜び、剣の柄を強く握った。この剣を、探検の伴として持っていくことに決めた。
剣を片手に、靴裏のやわらかい地面を楽しみながら歩いた。
歩きながら、故郷の森を思いだしていた。腐敗した落葉が折り重なってできた森の腐葉土。それは丁度こんな風に、オレの靴をやわく包んだ。
子供のころ、オレはよく、おもちゃの剣をもって森を歩いた。剣は草を分け、繁みをつつくための武器だ。オレはいつもがさがさと音を立てながら森をすすみ、湖へと向かった。湖のほとりを根城にする兄の、振り向きざまの笑顔を見るためだった。オレはいつだって、彼に気づいてほしかった。
黒い霧のなか、剣をふりまわして進みながら、オレは懐かしい童謡を口ずさんだ。
世界の外側からオレを見つめる、視線の気配を感じた。オレはことさら大きな声で歌う。
歌いながら、目を伏して微笑む兄の、頬にさした睫毛の影を思った。
さらに黒い霧の中をすすんだ。兄を探していた。
途中、天をつくような巨大な鋼鉄の柱や、赤錆の浮いた金板の森、タールのような黒い河が流れる鉄砂の丘を見かけた。
空のどこからかはオイルが漏れてぽたぽたと落ち、虹色油膜の浮かぶ液だまりを地面につくっている。
興味深げに散策しながら、何となしに巨大な柱に手を触れると、絡みついていた太いコードが大蛇のように暴れ、末端から火花が散った。
ふと空をみあげると、黒い霧のむこう、天に幾筋もの光の亀裂が走っているのを見た。まるで夜空に走る稲妻が、そのままの姿で焼きついたかのような、禍々しく、美しい光だった。
うっとりと見惚れるオレの目の前に、何か白いものが漂ってきた。
一枚の紙だった。
それはゆるい空気の流れにのって、ひらり、ひらりと宙を舞い、オレの鼻先に寄ってきた。
「何だこれ」
持っていた剣を腰にさし、紙をとった。
「ええと、『休暇届』? 滞在目的、帰郷のため。申請者は……召喚師、エル―――」
言葉に出した途端、ぎぎい、と、何かの軋む音が耳元に響いた。錆びた金属がこすれるような、嫌な音だ。
直後、オレの手の中の紙が何かに引っ張られ、乱暴に取り上げられた。紙は、見えない力で、散り散りに破られた。
「なんだ、いまの」
呆然としていたオレは、視界の端に一瞬、人影が映った気がして、弾かれたようにそちらを向いた。
「兄さん!?」
人影は、声をかける前に、幻のようにかき消えた。
駆け寄ると、人影の見えたあたりに、紙包みが落ちていた。
可愛らしい柄が印刷された包みだった。たぶん、幼い子供へのプレゼント。
「兄さんから、オレへの土産か」
あわてて地面から包みを取りあげた。2、3度揺らす。ガサガサとした音がした。きっと菓子だ。
気を急きながら、包みを開けた。
黒い泥のかたまりが入っていた。
指ですくって舐めると、鉄錆の味がした。甘くはなかった。
「腐ってる」
がっかりして、呟いた。
「なんだよ兄さん。やっぱり菓子は腐るんじゃないか」
オレは包みのなかをのぞきこみながら、菓子は腐る、と3回繰り返しつぶやいた。
頭のうしろでは、焼きついた稲妻の光が、低い唸り声を空にとどろかせていた。
「ここが、兄さんが10年かかって作りあげた王国かあ。上々じゃないか」
世界の中心に高くつまれた、黒い壇。
その頂上に据えられた玉座に、オレはゆったりと腰をかけていた。なかなかの座り心地だった。
ここからは、兄の王国を隈なく見わたすことができた。
兄のなかは純粋に汚れていた。国土は、ほぼ黒一色。しかし凹凸の地形があり、国としての体裁があった。民のいない無言の王国は、絶対的な秩序があった。
オレは上機嫌で天を見上げ、鷹揚に声をかけた。
「なあガウディ。君もそう思うだろ」
頭上には、巨大な緑の月が浮かんでいた。
やけに光沢のある月だ。ガラスでできた人形の目玉のように、それは艶やかに光っていた。
「でも、オレは不満だよ。肝心の兄さんが、オレを出迎えにきてくれないんだから」
月が、ぎょろりとギフトを睨んだ。
「それとも君が隠しているのかな。さっきから、オレを監視していたのは君なんだろう。かわいらしい嫌がらせもしてくれたね」
冥土に侵され、異形と成り果てた兄の響友は、未だに守護者を気取って、兄の世界を見つめている。
しかし奴には何もできない。見つめることしかできない。オレは兄がつくったこの王国の、あらたな支配者である。オレが奴に負ける道理はないのだ。
「まあ、君が何をしようと、オレは兄さんをすぐに見つけ出して手に入れてみせる。さぞかしもどかしい気分だろうなあ、自分のものじゃなくなっていく背中を、ただ見つめるしかできないっていうのは。その辺実はオレも経験があってね。君の気持ちはよく分かるんだ……」
同情をたっぷり含んだ口上を終えるか終えないかのうちに、オレは吹きだした。大口をあけ、声をたてて笑う。笑いの衝動が、あとからあとから沸いてでて、どうにも止まらない。
いい気味だった。兄を失う兄の元親友とやらの姿が、滑稽で愉快でしようがなかった。
腹を抱えて哄笑するオレの頭のうえで、巨大な月は、ふたつ、みっつと増えていく。
「お怒りのようだ!」
オレはひいひいと涙を流しながら、何とか息をととのえ、言葉をつむいだ。
「でも怒ったって何もできないだろお前は。この10年、お前は何をしてきた。兄さんの苦しみを長引かせる以外に、何かやったのか。何が魂の友だ。何が守護者だ。あまり人間を笑わせるなよ、ガウディ」
月たちが震えた。音をたてて、無数のヒビが入っていく。ふいに暗く淀み、そのまま明度を失っていった。オレは更にひとしきり笑ったあと、玉座から立ちあがり、王の余裕で壇を下りていった。
黒い霧のなかに、赤いスクリーンが浮いていた。
オレは地面にしゃがみこみ、膝のうえに両手で頬杖をつき、画面を眺めていた。
赤い色は、ノイズ混じりに揺れている。画面は、やや明度の落ちた紫の色に切り替わった。濃淡のなかに何かの輪郭だけが見える。さらに色は切り替わり、緑色になった。
「意識レベルが下がっているのかな。何の景色か判別できないや」
壊れた映像投射機のようだった。モザイク状の光がぎこちなく動く。光のなかからは声の気配もしているが、何の会話かまるで分からない。
オレは首をふって立ちあがり、宙に向けて叫んだ。
「兄さん」
いい加減、兄を探すのに疲れを感じていた。
「出てこいよ兄さん。オレはまだ、兄さんに会ってないぞ。ブラッテルンの、たったひとりの弟が、兄さんに会いにきたんだぞ」
王の呼びかけに、しかし返事はない。
オレは軽い苛立ちを感じながら、辺りを見渡した。
黒い霧のなかに浮かぶ、金属製の黄色い円を見つけた。オレは駆け寄る。
「兄さん」 円に耳を押し当てた。「ここにいるのかい」
円が突如増殖した。大小不揃いな円が無数に、無方式に増えていく。
「やっぱりここにいるんだな」
オレは円と円の隙間に、手を突っ込んだ。外側に開こうと、力を込める。
円の群れは頑なに動かなかった。隙間を開かせまいと、内側に内側にと寄ろうとしていた。
「おいおい……道返しのつもりか」
オレは、金属円の表面に反射する自分の顔を見た。ひどい形相だった。
円のなかのオレの口が動く。
「邪魔をするなよ……」
全身全霊をこめて、その隙間をこじ開ける。少しずつ、隙間は広がっていった。
隙間から、風が吹いてきた。
明らかに異なる空間から吹く冷気だ。湿った緑の匂いが、鼻をかすめた。
オレは歓喜し、さらに両手に力をこめた。そのとき。
ドー ミー ソー
パイプオルガンのような音色が、世界に反響した。
背中の真正面、ある一点を起点とした赤い点滅線が、オレの背後から遥か前方へと、放射状にわたっていく。何かの、信号のようだ。
ぞわりと悪寒がして、振りかえった。
何もない。オレは視線を戻そうとした。
しかしオレのなかに生まれた違和感は、オレの視線を背後の空間から逸らすことを許さなかった。
凝視する。
暗闇から、何かが薄ぼんやりと浮かびあがってくるのを見た。
球体だった。月ほどに巨大な、無数に細かいヒビのはいった、透明なガラスの玉だ。
球体は、ヒビに沿って、毛細血管に血が通っていくがごとく徐々に赤く光りだす。
どこまでも赤くなる。赤く赤く、赤くなる。表面に火がはぜる。
オレは目をみひらいた。
暗闇のなかに、真っ赤な太陽が浮いていた。
熟れた鉄のように、内から病的に光る金属。自由電子の放つ散乱光が、円を縁どる白いたてがみとなってゆらゆらと揺れている。
―――私ハ
ひび割れた超低音の機械音声が響きわたった。
―――彼ヲ守護スル、機械デアル……
それは厳かに、動きはじめた。囂々と炎をあげ、ゆっくりと、しかし強い意志をもって、オレに向かってきた。
精神世界で燃えつづける100万度の炎が、黒い塵を吸いこむ溶鉱炉となって脈動し、直視できぬ光を放つ。オレは咆吼した。赤い光と熱風に顔をなめられ、オレの目は瞬時にして乾ききり、皮膚が焼かれ爛れる。骨までひびく灼熱だった。オレの口は、無意識のうちに、何度も繰り返し絶叫を発していた。
オレという一個の存在を焼き尽くすべく、日輪は加速度的にスピードを上げて真っ直ぐにむかってきた。視界のなかで徐々に大きくなる太陽は、しかし、ふいに頭を殴られたようによろめいた。
天から泥のかたまりが降りそそいだのだ。黒い蒸気があがる。
太陽は、粘着質な泥をふりきり、ふらつきながらも、なおもオレに向かってくる。その太陽に、地からのびる幾本もの泥がすがりつく。蒸気があがる。黒い滓のようなものが、ぼろぼろとこぼれ落ちた。
太陽は蒸気と炎を吹きあげながらなおも進もうとしていたが、泥沼から伸びた黒い舌になめとられ、天から降りそそぐ泥に埋もれ、もうもうと黒い煙をあげながらついに墜落した。暗黒の泥に身の半分までを沈め、断末魔のごとく大量の蒸気をあげ、動かなくなった。
あとに残ったのは、溶岩石のようにぼろぼろと穴の開いた、みすぼらしい鉄の固まりであった。
オレは目をみひらき、肩で息をしていた。声が出なかった。
ぎこちなく前にむきなおり、黄色の円にかけていた指に再び力を込めた。指は固まって、動きづらかった。やっとのことで両手をひろげ、円をどかせた。人が通れるほどの隙間が開いた。
隙間が開いた途端に、円の群れは、薄れて消えた。黒い霧の中に、ぽっかりと丸い穴が残った。
オレは体の痛みに耐えて深呼吸をし、おずおずと穴のなかに身をすすめた。
そこは夜の湖のほとりだった。
ひやりとした空気と、濃厚な緑の匂いが体を包んだ。
湿気のある風に吹かれて、焼けた体の痛みは、いつの間にか癒えた。
黒く焦げた肉体は水を含んで柔らさを取り戻し、指も自由に動くようになった。
オレは深呼吸し、気持ちのいい空気を肺一杯にすいこんで、歩みをすすめていった。
そこにいた。
ひとりの青年が、コートをはためかせながら、湖に向かって立っているのを見た。
「兄さん」
声を張り上げた。青年が、振りかえる。
それは19才の兄だった。
別離のときの姿そのままだった。
気狂いしそうな歓喜に突き動かされ、オレは駆けだした。
「兄さん兄さん兄さん」
よろめき、泥をはねあげながら走る。
「やっと会えた」
オレは兄の体に手を差しのばした。身を引こうとするのを許さず、胸に抱きしめる。
全身の触覚という触覚を刺激された。痛むほどの興奮に包まれていた。オレの腕の中に兄がいる。細く引き締まった体だった。少年から大人になったばかりの、未完成の肉体だった。
「兄さん、ああ兄さん。オレと同じくらいの年じゃあないか。こんなに体が細かったんだな。子供のころのオレには、兄さんの背中が、とても大きく見えていたんだぜ」
兄の柔らかい髪に顔をうずめる。眩暈がした。兄は良い匂いがした。
「やっと追いついた……」
オレは感極まっていた。目に、涙がにじんでいくのを感じた。
「兄さんとひとつになって本当に良かった。いま、オレ、最高に満ち足りているよ。これがきっと幸福ってやつなんだろうな」
兄の肩口から顔をはなし、兄の目をのぞきこんだ。
「兄さん、聞いて。オレ、ずっと、兄さんに言いたかったことが……」
腕のなかの兄の両手が、おずおずと持ちあがり、オレの肩に置かれた。
子供のような仕草に、オレはひどく優しい気持ちになって、兄に問いかけた。
「どうしたの、兄さん」
兄は応えなかった。
オレの見守る視線のなか、兄の腕はゆっくりと伸びていった。
一体何をしているのか、微笑みを浮かべて見守っていたオレは、兄の腕が完全に伸びきったとき、ようやくその動作の意味に気づいた。
兄は、オレの体を引き離そうとしていたのだった。
「何、やってんだよ、兄さん」
殴られたような衝撃がはしった。
オレの声は、壊れそうなくらい震えていた。
「やめてくれよ兄さん。オレを拒絶しないでくれよ」
オレは、兄の背にまわす腕に力を込めた。兄は、それでもなお腕を突っ張って距離をとろうとしていた。明らかな抵抗を感じた。
「兄さん!」
オレは憤怒した。怒りで視界が真っ赤に染まる。
気づけばオレは、左腕で兄の背を抱いたまま、右手で兄の首を絞めていた。兄の喉が鳴る。湖を背景に、薄茶の髪が揺れる。
強張り、薄く開いたオレの唇から、懇願の言葉が流れだす。
「頼むからオレを拒絶するな兄さん……こんなになってまで兄さんに拒絶されたら、オレは……オレは」
指は、ぎりぎりと音をたてて、兄の喉元を締め上げた。兄の表情がゆがむ。指は兄の喉にめりこみ、埋もれていく。そのままオレの右手は兄の首に吸い込まれ、手首まですっぽりと入ってしまった。
「……、……」
兄の目が見開かれ、口が魚のように開閉する。
オレは興奮していた。オレが兄のなかに入っている。その事実にオレは打ち震えていた。
柔らかい喉元に沈んだ手首を、兄の心の蔵に向けて、徐々に降ろしていく。オレの手から解放された兄の喉仏が、ごくりと上下する。代わりに、オレの手に支配された胸が、緊張に震えた。
オレの手は、そんな兄の胸のなかを味わっていた。
ああ、と呻きオレは顔を仰向かせる。
「これが兄さんの中かあ……」
身の内の憤怒は、いつしか恍惚の絶頂へと性質を変じていた。
「あたたかいよ。気持ちいい。最高に気持ちいいよ」
「………フ…ト……?」
オレは顔をもどした。
「ギ……フ、ト……なの……か」
兄の目が、オレを見つめている。
その口から押し出された掠れ声は、初めてオレがオレであることを知ったような、驚きに満ちていた。
「何だよ、もしかして、今気づいたのかい。ひどいな。オレは兄さんの、実の弟だってのにさあ」
みひらかれた兄の薄茶の瞳のなかで、真っ黒な泥人形が笑うのを見た。
「や、め……ギフ、と……こ、んな―――」
兄の口からほとばしった、絞り出すような声に、オレは更に昂ぶった。
「もっとオレの名前を呼んでくれよ。オレを見てくれよ。なあ兄さん、もっと」
兄の胸のなかで、オレは意図をこめて指を動かした。腕のなかの体が、面白いくらいにはねた。内側を親指で撫でると、兄の膝が震えだす。
肉体ではなく、精神の核に対する純粋な蹂躙だ。血が滴ることも、傷がつくこともない。
兄の、絶望的な感情を映す眼の表面に薄い水が張り、ゆらゆらと揺れている。その頬は紅潮し、原始的な感覚に身を浸しているのが分かる。
兄の苦痛と恍惚の滲む喘ぎ声に煽られ、オレは手を更に奥へと差し込んでいった。兄が、腕のなかで、少女のように泣いている。尊敬してやまない兄が。
オレは、赤く染まった兄の目尻に口づけをし、柔らかい髪に頬を押しあてた。
目の前が真っ白になった。
腕に激痛が走ったのだと気づいた。
何かが、兄のなかを探検するオレの腕に、噛みついている。
オレは、兄の顔を見返した。兄の目からは、先程までの熱が消えていた。ひどく冷たい目だった。
その目に映るのは、無機質な、圧倒的な憎悪だった。先程見た冷たい緑の月影。そして灼熱の炎だった。
「ガウディ」
オレは、遠吠えのように叫んだ。
兄の意識核の内側にまで、「奴」はいた。身の一部を切りはなし、兄のなかに潜んでいたのだ。オレの頭は、怒りと嫉妬で煮えたぎった。
「はなせ」
腕を引こうとするが、抜けなかった。機械の傲慢な力が、オレの腕を噛んで離さなかった。
この鉄くず。オレは、兄の目に映る憎悪に引けを取らぬほどの憎しみを燃やした。
「はなせよ……機械風情があっ……!」
絶叫の瞬間。
オレは、はっきりと悟った。
兄は、この機械に憑りつかれていたのだ。
何が響友だ。何が魂の相棒だ。意識核の果てまで融合するなんて尋常ではない。
兄を手放すまいとするこの機械の「欲」。この機械が抱く感情こそ、妄執と呼ぶにふさわしい執着ではないか。
(いま、全部わかった)
これが兄の信仰。兄が盲目的に信じて追い求めた響命召喚術の正体だ。
兄は新世界を標榜する連中の悪しき思想と機械に絡めとられ、囚われて、オレの元に戻ってくることができなくなっていたのだ。
どうして気づかなかったのんだろう。
オレは歯がみした。
オレはずっと、兄がオレの庇護を放棄したと嘆いていた。
しかし本当は、逆だったのだ。
庇護されるべきは兄だった。ほかでもないオレが、兄の兄となって、兄を守らなければならなかったのだ。
「返せ」
取りもどさなければならない。
新世界から、兄を。
「返せよ」
そして、オレの大事な、あの赤い髪の幼馴染を。
オレは噛み切らんとする力から腕を引くことを止め、反対に腕をさらに押しこんだ。左手をも兄の胸に差し入れ、兄のなかの敵を探してまさぐる。兄の顔は、仮面をかぶっているように無表情だ。
左手が、何かの金属を探りあてた。指をかける。息を荒げ、オレは叫んだ。
「お前たちが、オレから奪っていったものを、全部返せよ―――!」
思い切り引いた。
コードに引っ張られる感触があった。何度かの抵抗を腕に感じたが、あらん限りの力をこめ、引きちぎった。右手を噛む力が、弛緩して消える。
オレは自由になった右手も加え、両手で、兄の中から金属を引き抜いた。ボール状のそれが、オレの手のなかからはじけ飛び、草むらに転々ところがる。
オレは咆哮した。
「クズ、が。この、鉄クズが」
支えを失ったかのように倒れかかる兄を、胸に抱きとめた。その身をかき抱く。
オレは喘ぎながら、黒い泥まみれの金属に向かって罵った。
「お前は、そこで、見ていろ。なす、すべもなく。オレと、兄さんが、成し遂げる偉業を、な」
言い終わり、オレはふたたび兄の体を強く抱いた。兄の目はすでに焦点を結ばず、物言わぬ人形のように静かになっていた。
泥のように暗く沈む兄と、その体をむさぼるオレの影が、湖面に映っている。
オレがこじ開けた隙間から黒い霧が忍び入り、辺りに立ちこめていくのが分かる。湖も、空も、森も。草むらに埋もれる鈍い金属も。ふたりの姿すらも掻き消えていく。
オレは全く気にしようともしなかった。オレの腕の中には兄がいる。もう二度と、離れることはない。
そしてこれからふたりで、オレの友を迎えにいくのだ。異界の敵にとらわれた彼を、取りもどすために。微笑みながら、胸を張って。
これほど輝かしく、誇らしいことがあるだろうか。
兄とオレの世界が明度を落としていき、ゆっくりと閉じていく。
そして、完全な闇が訪れた。