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    11 二重に歩く 10年、旅をしてきた。

     汚れたコートをかき合わせ、荷物ひとつ持たず、歩きつづけてきた。
     地面を踏むたび、体は金属のこすれ合う音をたてた。月の光を浴びて、鋼の体は錆びた。
     体は泥にまみれていた。黒い泥はぬぐってもぬぐっても内側から沸いて出てきた。そのうち、ぬぐうことを諦めた。

     うつろう空のもと、歩きつづける蒼い影。

     喉は渇かなかった。腹も減らなかった。太陽を浴びるだけで、体は維持された。
     そうして気づけば、いつしか口がなくなっていた。泥に覆われた体の内部から音声をひびかせ、意思を外に伝えることはできた。しかしその声はくぐもり、硬質で、もはや人のそれではなかった。そのうち言葉で語ることを、厭うようになった。

     昼も夜も無言で進みつづけるこの身は一見静かな存在だったが、その実、旅はとても賑やかだった。
     耳元でいつも誰かが嘲り、怒鳴り、喧嘩していた。
     旅をしていたのは俺だけではなかった。俺は数えきれない汚れた命を道連れにしていた。
     長い長い尾のように続く、透明な獣の列。幽鬼の行進。
     俺はその先頭を歩いていた。
     だが、何も知らない人からすれば、いつもひとりで歩いているように見えただろう。

    ***

     ゆりかごを飽きもせず、のぞきこんでいた。

     部屋の窓からは明るい光がさしこみ、床に四角い白色をおとしていた。時計の音もきこえない、穏やかな午後だ。
     ゆりかごのなかの赤子が、ころんと顔をめぐらせた。真ん丸な目で、こちらを見上げてくる。
     やわらかい頬をつつくと、赤子は口をひきむすんだ。
    「お前、本当に、よくやってきたなあ。生まれてくるのは、大変だったろう。お腹のなかでゆっくり眠っていたのに、突然外にだされてさ」
     赤子は小さな手をさしのばし、宙をさまよわせる。その手を握り、やさしく振った。
    「こんなにちいさいのに、えらいぞ」
     白いレースカーテンが、外から入りこんだ風をはらんで、ふくらんでいる。漏れ出でるあたたかな空気が、太陽のにおいを部屋につたえてきた。
     ゆりかごの縁にあごをのせて、赤子にささやきかける。
    「お前はきっと、俺に会うために、やってきたのだよな」
     赤子が、うー、と声をあげた。そのかわいらしさに、思わず笑みがこぼれる。
     細い五本指を手のひらでつつみ、額につけた。
    「俺の名前はエルスト……お前の兄さんだ……おぼえるんだぞ……」

    ***

     ふたつの魂は、融合するまさにそのとき、爆発的な熱と光を放射した。
     一瞬のうちに、魂に蓄積された思念と記憶と履歴が極彩色に輝き、そして融解した。幾千幾億コマの心象風景が、流れては消えていく。

     光の奔流が過ぎ去り―――。

     「俺」は目覚めた。

    (どこだ、ここは)

     俺はぼんやりと、あたりを見わたした。何もなかった。
     木も草も花もなかった。見上げれば雲はなく、うつむけば土がなかった。大地はあるが透明だった。
     何もない。どこまでも茫漠とした明るみに満ちた、だだっ広い空間が広がっているだけだ。

     首をかしげようとして、俺はふと、自分に首がないことに気づいた。
     体がない。腕も足もない。もちろん目も口も鼻もなかった。
     俺は得体の知れない、ゆらゆらとした存在となって、このゼロの世界に浮いていた。

     ゆらり、ゆらりと頼りなく揺れながら、俺は自分が何者であるか考えた。
     すぐには思いつかなかった。俺はかつて「何か」であった気がするのだが、その何かがわからない。何とも心許ない気分だ。
     だが、とりあえず歩かなきゃいけない、という思いが浮かんだ。
    (じゃあ歩くか)
     俺は呑気にそう思った。
     歩くということは足がある。足があるということは胴体がある。胴体があれば頭もあるし、多分腕もあるんだろう。
     ぼんやりと浮かぶ存在だった俺は、少しずつ形を成していった。四肢をのばした姿で、透明な大地におりる。手をつき立ち上がり、両の足で立った。
     俺は両手の指で、自分の顔をさわった。目口鼻があった。都合よく、服なんかも着ている。纏っているのは白いコートだ。変なデザイン。
     裾をつかみ、手を離すと、花弁のようなそれは重力にしたがってゆっくりと降りた。
     どうやら俺は、「人」であるようだった。

     俺はしばし、その場に立ち尽くした。相変わらず世界には何もない。空気は透きとおり、水のようだった。
     ぼうっと空を見上げながら、こうして在るということは、俺は何かをするんだろう、と思った。
     そういえば尋ね人がいた気がする。それも何人か。
     腕組みして考える。が、寝起きの頭では何も思い出せない。

    (まあ……とりあえず、歩きながら考えりゃいいか)


     何もない大地を歩いた。
     透明な地面は青味がかり、靴で蹴るたびに硬質な音をたてた。

     歩きはじめてすぐに、奇妙なことに気がついた。
     俺の歩みに合わせて、何かが動く気配がするのだ。
     俺が歩けば、うっそりとそれは動き、俺が立ち止まると、それも立ち止まる。
     おそるおそる、空を見上げた。そこにはとてつもなく巨大で透明な影のようなものがそびえていた。
    (うわ……でかいな)
     奇妙な影だった。それは吐息のように透きとおっていたが、蒼の色彩を感じた。人の形をしていたが、人ではないようだった。光沢があった。
     蒼い影の頭の部分には、白く光るふたつの目があった。じっと眺めていると、その目を通して何か景色のようなものが見えてきた。木の幹が見えた。暗い緑の葉が見えた。それは夜の森の景色のようであった。
    (きもちわるいな。何だこれ)
     首をかしげた。蒼い影も首をかしげる。
     俺は頭をかき、腕組みをした。
     蒼い影も腕組みをしている。俺はため息をついた。
    (考えても仕方がないか。何から何まで分からないことだらけ、奇妙なことだらけなんだから)
     俺は腕をとき、とりあえず、当初の目的どおり「尋ね人」を探すことにした。
     俺が歩みを再開すると、蒼い影も暗い森のなかを歩き出した。俺は、二重に歩いているような妙な感覚におそわれた。
     俺と影は、それぞれひとりで、あてどなく歩く。


     最初の「尋ね人」は、すぐに見つかった。
     見た瞬間に、そいつが俺の「尋ね人」だと分かった。

     そいつは空に浮かんでいた。
     驚くべきことに、真ん丸だった。遠い面影はもっと違う体型だった気がするのだが、ロレイラルの愛らしい機精のように、見事に丸い形をしていた。
     しかも、とてつもなく高い位置までのぼっている。呑気にぷかぷかと浮いている奴だというイメージはあったが、あそこまでの上空を飛んでいるなど、想定外もいいところだった。
    「何やってんだお前」
     俺は呆れて声をかけた。
     天と地ほどの距離をこえて、俺の声はそいつに届いたようだった。丸い体がくるりとこちらを向いた。
     俺の姿を見て、奴は驚かなかった。奴の方は、とっくに俺の存在に気づいていたようだった。それならそうと、とっとと声をかけてこい、という話だ。
     空に叫ぶ。
    「そんなところに浮かんでないで、降りてこいよ」
     あいつは応えない。ぷい、とそっぽを向くと、何もない空で、澄まして自転をはじめた。
     そうして何故か、ライトみたいに光っている。月を気取ってやがるのだ。この世界がぼんやりと明るいのは、あいつが白く輝いているからだと分かった。
    「ヘンな奴」
     俺は可笑しくなって、肩を揺らして笑った。
     蒼い影も笑っていた。


     俺はあいつの名前が分からなかった。あいつも俺と同じく、この世界では名前のない存在だった。
     俺はあいつを、「機械」と呼ぶことにした。


     それから俺は、「機械」の放つ白い光のなかを、何となしに歩いた。
     蒼い影は、相変わらず俺に付きしたがっていた。
     だが、蒼い影の主人は俺ひとりという訳ではないようだった。「機械」もまた、俺と同じように蒼い影の動きに干渉できた。「機械」の光に照らされて、蒼い巨大な影は容易にゆらめく。
     ふたりの人形使いに操られる人形の足取りは奇妙だった。
    「笑える動きだな」
     つぶやくと、なにやら上空で「機械」が怒っている。そんなことを言っている場合か、と言いたいらしい。冗談の通じない奴である。
    「そういうことを言うなら、お前、こいつの運転を俺に任せろよ。ふたりでハンドル取り合っていたら、前に進むものも進まないだろ。こいつの正体が何なのかは分からないけれど、俺たちのせいで転ばれたりしたら、気分が悪い」
     いつの間にか、俺は蒼い影に対して愛着をもっていた。得体の知れない奴ではあるが、雛のようについてこられれば情もうつるというものである。
     「機械」は黙し、承諾した。
     蒼い影は、俺があやつることに決まった。
     俺は満足して胸をそらせ、蒼い影を見上げてウインクした。


     仲間を得た俺の足取りは軽かった。
     ぐんぐんと歩く俺の隣には、丸い月がぴたりと寄り添いついてくる。蒼い影もついてくる。
     いい気分だった。どこまでも歩いて行けそうな気がした。
     たまに歩みを止めることもあった。しかしそれは、休息をとるためではなく、月を見上げるためだった。
     月を見るのが好きだった。あの間の抜けた丸いシルエットを見ていると、胸の奥底にもやのように漂う疑問と不安が、潮のように引いていった。
     俺は何もない世界の透明な大地に膝を抱えて座り、白い光に頬を照らされながら、空に浮かぶ球体を眺めていた。
     蒼い影も暗い森のなかで、月を見上げていた。

     何かが勢いよく飛びついてきた。思わず、よろめく。
     みおろすと、小さな子供が足にしがみついている。猫のような目を悪戯っぽくきらきらさせて、兄の顔を見上げている。
    「こら。危ないぞ」
     叱ってやると、子供はキャッキャッと笑い声をあげた。光をはなつ声だった。かがんで、腕のなかに閉じこめると、子供は身をよじってよろこぶ。
    「いたずらっ子だなあ、お前は」
     胸にしみていく、あたたかい温度。
     肩口に顔をのせると、子供はくすぐったがる。細くやわらかい髪が、頬にさらさらと流れた。

     ああ―――お前は光の化身だな。

     そのぬくもりの心地よさに、なぜだか涙ぐみそうになる。
     抱きしめる腕に力をこめて、心に強く強く思った。

     お前に、絵本を買ってやろう。村の子供が読むような、ありきたりで温かいお伽噺を。
     この寂しい屋敷に住まう誰もが得られなかった「普通」の幸せを、お前こそは手に入れられるように。
     ふるい家のしがらみになど、小さいお前をからめとらせてなるものか―――。

    ***

     寝起きの頭にかかる霧が晴れるにつれて、俺のなかに眠る「記憶」は、徐々に呼び起されていった。
     そうして少しずつ分かってきた。
     ―――「俺」という存在と、この蒼い世界の理について。

     ここはどうやら、魂の内面世界であるらしい。
     世界に張り巡らされた大地と壁は「魂殻」。
     水のような大気は「意識」。
     そして俺と機械は、意識の水に浮かぶ「意識核」だ。

     かつて別々の存在であった「人」と「機械」の魂は、ある尋常ではない事態のうちに融合した。
     ほとばしる光と熱のなかで、固体は液体にほどけて交わり、魂殻も意識も、完全に混合した。
     しかし、それぞれの意識の核の部分だけは、百万度の灼熱のなかでもしぶとく溶け残ったようだ。
     俺たちは冷え固まった魂殻のなか、意識の混合液をただよい、それぞれ元の魂の思考をかもしだしながら、今もこうして生きている。

    「自分のことを思い出して、まずはめでたし、だ。次は2人目の『尋ね人』を探さなくっちゃな」
     蒼い影を操縦しながら、つぶやいた。俺はすでに、この蒼い影の正体が、俺たちの魂をつつむ「肉体」であるということに気がついていた。
     俺は意識核の首座に陣取り、目に集中し、蒼い影をとおして外面世界をのぞき見る。
     黒い水が映った。湿った土の小さなくぼみ。そこにたゆたう、濁り水。
     俺たちの肉体は、うつむいて、森の地面の水たまりを見下ろしているようだ。
     濁った水面には、鋼鉄の蒼い鎧兜をまとった人間の顔が揺らめいてた。
     中々の男前である。視界のなかで、顔がにやりと笑った。
    (何をやっているんだ俺は)
     照れて頬をかこうと右腕をもちあげた俺は、そこに不気味な黒い裂傷を見つけ、笑みをかき消した。
    「……あとは、この『冥土』のことも詳しく調べなければならないな」


     ―――俺はひとつ、とても大事な「記憶」を手にしていた。
     俺の原存在である、ひとりの男の遺言である。

     名を「エルスト」という。

     魂が溶ける最後の瞬間、彼はある望みを抱いていた。
     それは、「弟の解放」であった。
     幼くして狂ってしまった、彼の弟。その弟の邪悪な研究を止め、呪われた家の楔から解き放つことを、「エルスト」は心の底から願っていた。
     その願いは、彼が溶け、「俺」という存在に生まれ変わっても消えることはなかった。

     俺は、彼の遺言を執行することこそが己が使命と心得た。

     「機械」も俺に賛同した。かつて「エルスト」に愛された機械―――あいつはその名残だった。
    「『エルスト』の思いを守る。それがお前と、お前の原存在の望みなんだろう。それじゃあ、俺とお前の目的は、ほとんど同じだ。違うか」
     白い光が俺の頬を撫でる。俺はくすぐったさに、目を細めた。

     ……実際のところ、「機械」と俺との目的はほとんど同じだったが、完全に一致していた訳ではなかった。
     あいつはたしかに「エルスト」の望みを叶えたいと切望していたが、同時に、「エルスト」の存在を守ることを最善としていた。
     融合体を危険にさらすことを良しとせず、俺が蒼い影を操って無茶をすると、あいつは激しく憤った。時には俺を蹴落として、操縦桿を乗っ取ることさえあった。
     また、あいつは「エルスト」を歪めた冥土を憎悪していた。そして、「エルスト」を冥土に沈めた彼の弟のことを、心の底では許していなかった。
     そのせいか、俺と「機械」の間では、「エルスト」の遺言である「弟の解放」についての解釈が微妙に異なっていた。
     その微妙な差異が、ふたりの間に不和や論争を生むこともしばしばあった。

    「あの弟を庇護して、まっとうな人生に導くのが『エルスト』の望みじゃないか」
     手振り身振りをまじえ、俺は訴えかけた。
     聴衆は空の月だ。蒼い影はというと、あぐらをかいて熱弁をふるう俺を抱きすくめ、大人しく座っている。
    「お前の言うやり方はただの隔離で、排除だ。解放じゃない。え?―――手遅れじゃないさ。まだ子供だ。いくらでもやり直しがきく」
     天体は丸くキラキラと輝いている。投げかけられる白い光のなかで、俺は必死に答えをかえした。 
    「ブラッテルンの家名は、弟自身の意思で捨てさせるし忘れさせる。そんなことができるのかって。そりゃあ……」
     俺は語尾を濁した。
    「でもさ。『エルスト』の望みは、そういうことじゃないのか。たぶん……」
     たぶん?
     空から、疑問符が燦々と降ってくる。大気を震わせずに直接届くそれらを振りはらうように、俺はかぶりを振った。
    「実は、俺も自信がない」
     俺は正直に告白した。
     俺は「エルスト」から生まれ、「エルスト」と同じ姿をし、「エルスト」の記憶と人格パターンを引き継いでいる。
     しかし俺は自分のことを「エルスト」そのものだとは思っていなかった。誰に否定された訳でもない。ただ、自覚と自我がなかった。思い出のなかの彼はどこか遠く、他人事のようにさえ思えた。
     俺の告白を聞き、「機械」は黙りこんでいる。
    「……しかたないよな。俺はすっかり生まれ変わったんだから」
     でも、と俺は殊更明るく言った。
    「たぶんそれは悪いことじゃあない。俺は彼じゃないからこそ、彼のむかしの記憶を、客観的に見ることができるんだ。淡々と、やるべきことをやれるんだからさ」
     そう口にして空を見上げると、「機械」が物言いたげに俺を見ていた。
     俺が生まれ変わって「エルスト」ではなくなったならば、俺と同じようにこの世に生まれたあいつも、彼の相棒の機械兵器そのものではない、ということになる。
    「どうするのが一番いいのか、俺たちで考えよう。なあ、相棒」
     「俺」の、相棒だ。

     俺は、月を愛していた。
    (俺の親友。俺の相棒)
     この世で唯一、心を共有できる存在だ。時々喧嘩もしたりはするが、俺はあいつを何より大事に思っていた。
     同じようにあいつも俺を、慈しんでくれていた。

     俺は何となく気づいていた。
     あいつがあんな風に空に浮かんで光っているのは、闇をおそれる俺のためだ。
     口では調子の良いことを言ってはいるが、本当は心許なくて仕様がない俺を励ますために、あいつはランプの代わりに俺の足元を照らしてくれているのだ。
    (ありがとうな。相棒)
     俺は月を見上げながら、声には出さずにつぶやいた。

    ***

     淡々とやるべきことをやる―――。
     そうは言っても、俺たちの挑戦は順風満帆にはいかなかった。

    「ぐあああ……っああ」
     俺は右腕をおさえ、うずくまった。大きく開けた口から、間断なく悲鳴がほとばしる。
    (まただ……また、失敗だ)

     がらんどうの、ブラッテルンの屋敷。その地下室。
     ひび割れたランプのオレンジ色の灯のした、蒼い影は体を折り、床に額をすりつけていた。鎧兜のした、額には脂汗がうかんでいる。
    (……ッ、ちくしょう。ちくしょう……)
     真っ黒に染まり、ふるえる右腕には、目玉紋様がしきつめられた札が巻かれていた。俺自らが蒼い影にほどこした、解呪式だ。
     悪しき一族に伝わる、術式のひとつである。無論、正道のものでは有り得ない。呪われた遺産の例に漏れず、外道の技だった。
     あらゆる呪いをとくために有効とされるこの術式を、俺は書にしるされたとおり正しく実行した。しかし、解呪はならなかった。失敗である。
     冥土は呪に非ず。―――俺はまたひとつ、この泥の何たるやを学ぶこととなったが、その代償として、魂に針さす返呪の苦痛にもだえることとなった。

     地に額をつけ、ぜいぜいと喉に引っかかる息をたてながら、俺は視線をずらした。
     蒼い影の目をとおして、床に薄ぼんやりと光る魔法陣が見える。視界の隅には、本や術具が乱雑に積まれているのが映った。

     俺は冥土を研究するために、しばしば実験をおこなった。実験体は俺たち自身の肉体である。
     最初は通常の技や道具を試していた。しかし功を奏さず、直に諦め、かつての「エルスト」が忌み嫌っていた遺産を用いるようになった。
     腐食を喰らう悪魔を喚ぶ呪具。憑りついた魔ごと溶かす薬液。魂殻を削りとるナイフ―――。
     全部自分に使ってみた。しかし、いずれも冥土を克服するに至らず、俺たちの肉体と魂を傷ませるだけだった。

     何事も直感で動いてしまう俺は、どうやら徹底的に研究職には向いていないようだった。
     「エルスト」の弟とは違って。

     心にひらめいた皮肉に笑おうとして、俺はふたたび身を襲った激痛に絶叫した。薄明りの精神世界、そして屋敷の地下室に、それぞれ悲鳴がひびきわたる。
     精神世界の悲鳴は、俺と「機械」の二重音声である。
     俺は歯を食いしめ、荒い息を整えると、「機械」にむかって詫びた。
    「す、すまない。また、お前を、巻きこんじまった」
     応えはない。
     俺は不安になって顔をあげる。内面世界の空高く、悶え苦しむ白月をかすめて、先端の尖った巨大な柱がゆっくりと降りてくるのを見た。
     魂を串刺す返呪の針だ。魂殻を突き破ってここまで来たのだ。俺は大地のうえでうずくまりながら、心細い思いで、それを見上げた。

    ***

     俺が研究に失敗するたび、蒼い影の操縦桿は「機械」に取り上げられた。
     俺は母親に玩具を取り上げられる子供のように、身をすくめて、大人しく影を明けわたすほかなかった。
     階段したの暗がりから、客たちをみていた。

     服の裾をひく手があり、ふりむくと、子供が立っていた。
     いつものように頭を撫でてやると、子供は目をほそめて寄りかかってくる。
    「兄さん。あの人たち、だあれ」
    「さあな……」
     顔をもとに戻す。冷めた目で、屋敷の奥に通されるローブの男たちを見やる。
    「父さんの友だち?」
    「友だちじゃあないだろう。あの人たちと父さん、お前とフォルス君みたいな、仲良しに見えたか?」
    「みえなかった」
    「だろう」
    「じゃあ―――『同志』?」
     ごく自然と。子供の口から出てきた言葉に、頭を撫でる手が止まった。前を向いたまま、しばし沈黙する。
     子供は、つづけた。
    「兄さんは、行かなくていいの? 父さんと一緒に、同志にあいさつ、しないの」
     勢いよくふりむいた。子供がびっくりしている。
    「兄さん?」
     見上げてくる無邪気な顔を見つめているうちに、何ともいえない気分になって、顔をしかめた。
    「……お前は、気にしなくていいんだよ。そんなこと」
    「あ……」
     歩き去る背中から、子供の声がついてくる。
    「待ってよ、兄さん。待って……」

    ***

    (やっぱりあいつら、どこかで見たことがある)

     相変わらず俺は、何もない世界のなかを歩いていた。
     蒼い影はついてきていない。
     影は、「無謀な実験によって肉体と魂に無茶をさせた罰」として、先日来「機械」に没収されていた。
     俺は暇を持てあまし、やむなく内面世界を探検したり、考え事をしたりして時間をすごしていた。

    (「エルスト」が最後に弟に会ったとき、後ろに付きしたがっていた胡散臭い奴ら。あいつらの中の数名の顔は、記憶にあるな。たしか屋敷に出入りしていた)

     俺は顎に手をあて、「エルスト」の記憶を紐解きながら、蒼い大地を踏み歩く。
     この魂の内面世界では、重力や空間の概念は一応あったが無視することも自由であり、俺は空をも飛ぶことさえできた。しかし人としての性(さが)か、大地を離れればやたら体力を消耗した。そのため俺は、大地のうえを好んで歩いた。

    (おそらく、というか考えるまでもなく絶対に、無色の関係者だよな……。でも、「エルスト」の父親の直属の部下じゃないことは確かだ。父親に挨拶にきていた、関係組織の構成員か。どこの組織だ)
     俺はいらだって、頭をかきむしった。
    (あーちくしょう、分からん。そいつらに関する映像も音声も、断片しか残っていない。そもそも「エルスト」が、ちゃんと見聞きしていないんだ)
     無色を継ぐ一家の長男として、彼は彼なりに、無色関連組織の動向を気にはしていたようだ。
     しかし同時に家に対する反抗心をもっていた彼は、自身の興味関心を素直に満たそうとはしなかった。横目でちらちらと見ては、そっぽを向いて走り去る、その繰り返しだったのだ。
    (万事が万事、そうだよな。あの男は)
     俺は心のなかで吐き捨てた。
     家のこと、弟のこと。
     異世界調停機構に入り、首脳から疑いをかけられていると気づいたときもそうだった。
     「エルスト」という男は、気にかかっている問題が目の前にあるのに向き合わず、解決せぬまま逃げてしまう。
     そうして誰かに預けてしまうのだ。「信頼」という言葉を使って、笑顔で人に頼りかかる。逃避による欠落を、他人の力で埋めようとする。
     実際、うまくいけばそれでも良い。だが、全てが全て、都合よくいく筈がない。世の中そんなに甘くない。
     彼は「本当に大事なこと」を人に任せようとして失敗し、やりかけ仕事を残して勝手に消えた。おかげで彼の義務を全部継いだ相続人の俺が、彼の尻拭いのために、今こうして働いているという訳だ。
    「……」
     俺はため息をついた。
     正直に言うと俺は―――「エルスト」があまり好きではなかった。
     あの甘えの含んだ笑い声を思い出せば嫌な気持ちになったし、彼のせいで俺たちが今これほどまでに苦労をしていると思うと腹も立った。
     彼は自身の目の前にある問題と同様に、すぐ側にある小さな幸せをも見過ごしがちで、いつも道を誤った。そうして幸福を手放した後になって思うのだ。あのときこうしていれば良かった。最初からああしていれば良かったんだ……と。そう思うときには、すべてが手遅れだというのに。

    (でも、「機械」は「エルスト」が好きなんだよな)
     俺は上目で、空をみあげた。
     今日も今日とて、あいつはぽっかり丸く浮かんでいる。飽きもせず、ピカピカ白く輝いている。
     月に重なるように、蒼く巨大な透きとおった影も宙に浮き、手と足をゆっくりと動かしていた。歩く動作をしているのだ。なんとも奇妙な光景だ。
    (なあ「機械」。お前もお前の原存在も、「エルスト」のせいで不幸になったんだぞ。そこのところ、ちゃんと分かっているのか)
     あのお人よしは、本心で「エルスト」を想い、彼の望みを守りたいと願っている。彼を恨むことなく、不満も持たず、淡々と。目的を達成するためだけに生きている。
    (そんなに「エルスト」が大事か。世界の誰より―――俺よりも? お前は俺の、相棒だっていうのにさ)

     浮かない表情で天を見上げていた俺は顔を正面にもどし、ふと歩みをとめた。目をみひらく。
     行く手に、真っ黒な巨大な煙が吹きあがり、天高く立ちのぼっていた。
    「なんだこれ」
     大地に禍々しい大穴がぽかりと開き、黒い煙をもうもうと吐きだしている。この何もない世界で、はじめて目にする光景だ。
     ふと鼻先に息苦しさの粒子がただよい、俺は数歩後ずさった。
    (冥土の巣か)
     地上の様子に気づいた月が、あわてたように、白い光を俺の爪先に投げかけ、警告する。
     身をひるがえし、俺は逃げだした。口をおさえ、後ろを振りかえらずに一目散に走る。
     俺の背後では、柱のように立ちのぼる噴煙が、内面世界を汚しつづけていた。

    ***

    「どうして死なないんだ」
     俺は、蒼い影の内側から叫んだ。

     のぞき穴から俺が凝視するのは、黒い泥のかたまりだ。
     故郷の森を背景にゆらめくそれは、「エルスト」たちが修羅道に足を踏みいれることとなった、そもそもの原因となった泥である。

     弟の行く先と冥土の手がかりを得るために、屋敷のなかを漁る日々を送っていた俺は、故郷の森のなかで「エルスト」とその響友が倒したはずの冥土の泥と再会した。
     俺はもちろん、蒼い影を操縦し、即座に打ち倒した。
     しかしそいつは、何度倒しても、繰りかえし繰りかえし、悪夢のように俺たちの目のまえに姿をあらわした。
     俺ははじめ、泥を喚んでいる術師が、近くにいるのではないかと疑った。名前を叫び、夜の森をさがしたことだってある。
     しかし直に俺は、真相にたどりついた。
     泥は、「復活」していたのだ。

    「どうすればいい……これではキリがない……」
     両手をだらりと体の脇におろして、立ち尽くす。蒼い影の右腕は外も内も肘のあたりまで黒く染まり、二の腕は歪に変形していた。あの融合のときから、半年以上が経とうとしていた。
     小さな子供くらいの大きさの獣は、重そうな頭をもたげ、ゆらゆらと不安定に体を揺らしていた。頭の真ん中にぼうと光る小さな円が、まるで純粋無邪気な生物の眼球のように、俺たちの顔を見上げていた。
     その光を力なく見つめながら、俺は愕然とする。
    (俺はずっと歩きつづけてきた)
     焦りが、チリチリと胸を焦がしはじめる。
    (それなのに俺はまだ、あの夜から一歩も前に進めていないというのか)

     がさり、と葉擦れの音が聞こえて、振りかえった。
    「ギフト!?」
     自分が無意識にその名を発したことに気づき、俺は口を閉ざした。
     視線の先にいたのは、俺の尋ね人ではなかった。少女であった。
    「きみは……村の子か」
     年は10かそこらか。
     少女は腕に子猫を抱きしめ、泣きそうな顔をして、木の幹の影に立ち尽くしている。逃げた飼い猫を追って、森のなかに入ってでもきたのだろうか。
     俺は表情をゆるめ、少女を怖がらせないように優しく語りかけた。
    「駄目だろう。女の子が、こんな夜中に出歩いたりして」
    「……」
    「おうちに帰りなさい。きっと今頃、親御さんが心配して―――」
     そのとき。
     視界の端で、のそりと泥が動くのを見た。
     そいつは地面に垂れた幾筋かの細い泥を足のように操り、蜘蛛のうごきで、突如駆けだした。あらわれた弱く美味そうな獲物に向かって、一直線に。
     蜘蛛の行く手に立つ少女は身をすくめ、息をのんだ。
    「危ない」
     考えるよりも前に、体がうごいた。

     子猫が鳴いている。

     俺たちは、地面に両膝を落とした。
     鋼の鎧が、激しく打ち鳴る。

    「…………あ……」
     少女のあどけない顔が、恐怖に歪んでいる。
    「……」
     奇妙に静かな間があった。
     背を丸め、おのれの肩を抱くように腕を交差していた俺たちの体は、顔をあげると、離れたところに立ち尽くす少女に語りかけた。
    「大丈夫かい」
     少女は応えず、鋼の腕のなかを凝視している。少女の胸で、抱きしめられた子猫が、窮屈そうに身じろぎをした。
     俺はほほえみ、穏やかな声音で少女をさとした。
    「夜の森は危ない……。今すぐ家へお帰り。ここで見たことは忘れて。いいね」
     少女はうなずきもせず2歩、3歩と後ずさると、身をひるがえして、森の闇のなかに走り去っていった。
     小さな靴裏のひらめきが見えなくなると、俺はゆっくりと、腕のなかのものに視線を落とした。
     泥の獣がいた。
     獣は鋼の腕に押さえつけられ、苦しげに暴れていたが、蒼い影と目があうと力を抜いた。甘えるように、腕に体を預けてくる。
     その重さに、ふと、呼び起される記憶があった。
     鼻をかすめた甘美さに気を散らしたその瞬間。
     血のように生温いものが右腕の傷をこじあけ、中に入ってきた。
    「―――っ」
     息が止まる。
     質量をもったものが体を浸食し、逆流していく。その強烈な感覚に、俺はうめいた。
     視界が白く焼かれていく。右腕に飽和する違和感は首のうしろに突きぬけて、後頭部を痛いほどに痺れさせた。胸が熱くなり、かと思うと冷たくなり、背骨が内臓が魂が、ねじれ、歪んでいく。
    『兄さん』
     体を小刻みに震わせる俺の耳に、どこからか、子供の声が聞こえた。
     口をひらく。
     空気にさらされた喉奥から、名を呼ぶ声をひびかせようとするも、漏れ出でるのは喉に引っかかる喘ぎだけであった。
    「―――あ……あああ……」
     蒼い影はガタガタと数度体を大きく震わせると、突如、糸の切れた操り人形のように、土のうえに倒れ伏した。
     操縦士である俺の気が遠のき、蒼い影を支配することができなくなったのだ。

     内面世界に知覚をもどした俺は、蒼い大地に仰向けに倒れている自分に気がついた。
     体を起こして頭上を仰ぎみると、空で「機械」が動揺し、俺の無謀をなじっている。
    「だって、仕方が、ないだろう」
     途切れ途切れに、声をあげる。
    「どうしようもない。こうするしか、なかったんだ」
     見上げた先、何もなかったはずの天に、暗い雲が広がっていく。
     俺はおののいた。―――冥土浸食だ。
     水に落ちたインクのように、黒いものは空に広がっていき、俺と「機械」の間に割りこんでいく。月のかがやきを、隠していく。
    「こうするしか……」
     右腕に強烈な違和感を感じ、俺は咆哮した。泥のすべてが、体のうちに吸いこまれたようだ。
     そのとき、頬に、ぽたり、と黒い滴が落ちてきた。
     かすむ目をこらす間もなく、厚い雲から、黒い雨が俺の全身に降りそそいできた。髪に口に肩に胸に。腐臭のスコールだ。蒼い大地と、そのうえであがくちっぽけな「人」とが濁り水に浸され、余すところなく汚されていく。

    (どうして俺たちは)
     閉じた瞼に、生温かい滴りを感じながら思う。
    (こんなにも苦しまなければならないのか)

    ***

     俺たちの魂が汚れたのと引き換えに、故郷の森から泥の獣はいなくなった。
     泥にまみれた俺は疲労を感じていたが、そのことを素直に喜んだ。
    (あの女の子は無事に帰れたかなあ)
     汚れた頬で微笑む。濁った水たまりのなか足を投げだして座る俺は、空の月に語りかけた。
    「お前が怒るのは分かる。でも、俺たちは正しいことをした。だって俺は―――俺たちは、正義の味方なんだから。そうだろう、『機械』」
     「機械」は何も言わなかった。

     黒いちぎれ雲は未だ空にとどまり、ゆっくりと流れ、月の光を時折翳らせる。
    「兄さん」
     おずおずと、子供が声をかけてきた。
     最近になってまた少し背が伸びた子供は、幼いのに分別がつき、むかしのように突然飛びついてくるようなことはなくなった。
     身をすこし屈めてやると、子供は安心したようにはにかむ。
    「兄さん、聞いて。僕、この本、読み終わったんだ」
    「へえ……」
     差しだされた本を受けとった。
     厚い表紙。腕がかたむく重み。
     屋敷につたわる蔵書だ。それはもちろん、「普通」の子供が読む本ではなかった。
    「先生から渡された本か」
    「うん」
    「そうか……」
     頁に目を落とし、無味乾燥な字の羅列を見やる。
     むずかしい本を読んでいた。
     この早熟な子供はきっと、兄が贈った絵本なんかは、とっくに飽きてしまったことだろう。
    「……」
     子供が褒め言葉を期待していたことは知っていた。
     だが、心のなかのわだかまりが邪魔をして、どうしても褒め言葉をかけることができなかった。せめて、子供の頑張りを否定しないようにすることだけで精一杯だった。
     無言でページをパラパラとめくり、本をとじて子供にかえすと、子供はがっかりした顔をした。
     だが、すぐに気を取り直したように、明るい声をかけてくる。
    「ねえ、兄さん」
    「うん?」
    「僕たちは大きくなったら、世界をすくう戦いをするんだよね。先生が、そう言っていたよ」
    「世界をすくう戦い、ね」
     思わず、苦笑いをしてしまう。
     その笑みを肯定と受けとった子供は、なおも言い募った。
    「僕たちは、そのために生まれてきたんだろう。異世界の敵から、世界を守るんだろう。今は誰も―――あのフォルスだって、そのことを知らないけれど。そのうち、みんなも気がついて、僕たちに感謝をして―――そうしてこの世界の王さまに、兄さんはなるんだよね」
    「……はは……」
     体の芯が、急速に冷たくなってくる。胸のうちの隙間が大きく、暗くなっていく。
     この小さな子供を見下ろす目が、刃物のように鋭いものになってやしないか、すこし心配になった。
    「僕、たくさん勉強するよ。兄さんの手伝いができるようにさ。僕は、参謀になって、兄さんの隣に立つよ。物知りで役に立つ、ブラッテルンの名に恥じない、立派な参謀になるんだ」
     言うと子供は白い頬をかすかに染めて、消え入りそうな声でつぶやいた。
    「だからさ……兄さん……」
    「お前は―――えらいな」
    「兄さ……」
    「えらいよ」
     穏やかな笑みを子供に向け、しずかに言った。
     子供は兄の顔をじっと見つめていたが、やがて力なく、うつむいた。

    ***

     「エルスト」の弟を追うことにした。

     弟をかくまっている組織の手がかりは、当主が管理していた資料のなかにあった。
     バルジオン―――無色の派閥から派生した数ある組織の中でも一定の人員を擁する集団であり、狂界戦争の折に冥土召喚術を使用した召喚師の系譜につらなる者たちである。
     冥土召喚術に手を染めたブラッテルンの次男の受け入れ先として考えられる組織は、奴ら以外にはなかった。

     この半年、屋敷の地下室で没頭していた冥土研究は結局成果がなく、冥土とは一体何であるのか、未だ分かっていなかった。冥土の克服方法も、もちろん分かっていない。
     しかし、俺は2度目の冥土汚染を経験し、どこか吹っ切っていた。冥土の正体が分からないなら分からないで、それでもいい。まずは弟を見つけ、説きふせ、したがえて、それから腰を据えて冥土研究に取り組めばいい。そんな楽観的な考えが、俺の心を占めていた。
     ……あるいは俺は、考えることを放棄してしまっていたのかもしれない。


     旅立ちの日。
     屋敷を出、森に足を踏みいれたところで索敵レーダーに反応をみとめた俺は、蒼い影をあやつり木の陰にかくれた。様子をうかがう。

    (また、あいつらか)

     異世界調停機構の調停召喚師たちだった。
     事件の直後から、俺の故郷には、異世界調停機構の調査チームが出入りするようになっていた。
     悪しき血をひいた、要注意人物の行方。そして彼が最後に残した「冥土」という言葉。
     それらを調べるために、彼らはここにいるのだろう。

     俺は、彼らをうるさく思っていた。

    (邪魔をするなよ。これは、お前たちの仕事じゃない。俺の役目だ)

     ブラッテルンの屋敷には、仕掛けがある。俺はブラッテルンの研究資料や遺産が他人の目に触れぬよう、その仕掛けをうごかしておいた。腐っても旧き理の頂点である、その技術はやすやすと突破できるものではない。
     そして「要注意人物」である俺はいま、村を去るところだ。
     彼らの調査は、空ぶりに終わるだろう。

     だが、この先は分からない。異世界調停機構が本腰を入れれば、いつか辿りつかれてしまうかもしれない。
     俺は蒼い影の内側から、森のなかを進む一団をにらんだ。
    (あいつらよりも早く、弟を見つけなければならないな……)
     調査の最中だってのに、能天気に会話をしている緊張感のない召喚師たち。その胸には、懐かしい記章がついていた。
     彼らの隣には、異界の住人である響友がそれぞれ付きしたがっている。視線をかわしあい、言葉をかけあっている。
    「……」
     俺たちの蒼い影は彼らに背を向け、森の暗闇へと分け入っていった。


     組織の拠点を暴くことに腐心した。
     その組織は、無色末裔の結社の例にもれず社会の裏にもぐっており、容易に足跡をつかませない。根城も短期間でうつしてしまう。
     しかし俺たちは、奴らの尻尾に、必死に食らいついた。

     進む道の方向が間違っていやしないか、不安に思うこともあった。
     しかしそんな不安をかき消したのは、皮肉にも例の泥だった。
     俺たちの行く先々に残されている、黒い痕跡。暗く狂気のにじんだ汚れ。
     いまだ社会の誰も気づいていない、俺たちだけがかぎ分けることのできるその泥は、「エルスト」の弟がのこした足跡に違いなかった。


     俺は弟を追いながら、泥を片端から吸いとった。
     冥土の克服方法が分からぬ以上、こうするしかなかった。放置すれば、二次的、三次的に被害が拡大していく。それだけは防がねばならなかった。
     弟が残す泥の獣は、はじめは原生動物のように不定形にうごめく土塊ばかりだったが、時を追うごとに、命の形をしたものが増えていった。
     あの幼子は、ただ泥をこねるのに飽きたらず、生物の体に泥を宿らせ、むしばませる邪悪な実験をすすめているようだった。
     悪夢の中から迷い出てきたかのように黒く染まった、鼠。蛇。鳥、魚、犬―――。
     被害者となった哀れな獣は時を追うごとに数も種類も増えていき、そのうちとうとう四界住人の形をしたものが含まれるようになった。

     俺はすべてを引き受けた。

     冥土汚染体の引き受けは、純粋な冥土を身のうちに入れるのとは訳が違った。
     まがりなりにも魂としての形あるものを、取り入れるのである。すなわち「エルスト」とその響友が行ったような融合をせねばならぬ。

     蒼い影の右腕から取り入れた汚染生命体と、融けあう瞬間。
     魂の接触面から発せられる光は、その都度意識をまがまがしく焼き、俺たちをひどく消耗させた。
     しかし俺は、その病的な熱波のなかで、ほとんど快楽のような感覚をも味わっていた。

    (俺は世界の役に立っている。世界を救う戦いをしているんだ)

    ***

     薄明りの内面世界には、黒い煙をまとった新たな命が、つぎつぎと降ってきた。
     俺は蒼い大地に立ち、空をいろどる流星群をみあげた。

     流星は、大気を切りさきながら、それぞれ思い思いの姿に変化した。
     ある星は地面に落ちる直前に急上昇し、そのまま流線型の軌道をえがく巨大魚となって、空をおよいだ。
     ある星は呪針の柱に衝突して長虫となり、幾本にも尾を枝分かれさせてツタのように巻きついた。
     暗雲うずまく曇天からは雨のように火の玉がふり、剛毛に覆われた六本足の野犬が地をかけ、泥水たまりを跳ねあげては、羽虫のような小鬼たちと喰らい合う。

     俺はそんな光景を、大地のうえから笑みを浮かべて見つめていた。

    (これでいい。これでよかったんだ。この醜い奴らを身の内に封じこめ、世界を守りながら、弟を探すんだ。そうして冥土を克服する方法を見つけて、俺たちのなかにたまった邪悪を一気に消滅させる。これで全部元通りだ。世界の誰もが幸せになる。あの損ばかりしている「機械」のバカ野郎だって、きっと……)

     そうして俺は、「エルスト」が完全に生まれ変わったことを世界に証明できる。
     ただ生きるだけで己と周囲を不幸にするブラッテルンの血。その呪われた宿命は、終わったのだと宣言できる。
     もう誰も俺たちを疎まない。絶対的な幸福だ。

    (俺たちの戦いは、決して無意味なものなんかじゃないんだ)

     恍惚のなか夢想をしていた俺は、急に、気道のせばまる息苦しさを感じた。口に手をあて、はげしく咳きこむ。渇いた音が、あたりにひびく。
     手の甲で唇をぬぐい、俺は目をみひらいた。
     目の前に、黒い点が漂っている。数えきれないほどの、細かい砂だ。
    (空気が)
     砂の一粒一粒は、ごく小さな声を発していた。
     否定。疑念。不安、焦り、哀しみ。後悔。
     邪悪な心の、ささやき声―――。
    (よごれている……)
     ふたたび体を折って咳きこむ俺を、獣たちが動きを止め、遠くからじっと見つめていた。

    ***

     俺たちのひそやかな戦いは、すくなくとも現時点では、外の世界で全く評価されていなかった。
     それどころか、俺たちは世界に憎まれた。
     俺たちの蒼い影は、どこへ行ってもいじめられた。
     街を歩く俺たちの姿を見た者は皆一様に、嫌悪を顔に浮かべた。
     避けられ、おびえられ、ひどいときには銃で追われた。
     右腕を中心にひろがる黒いしみが不気味なのかと思い、コートをまとって体を隠してみたが、結果は同じだった。
     冥土におかされた身は、生き物に嫌われる悪臭のようなものを発しているようだった。
     街に背を向け、人目を避けて行動するようになった。
     深い森を歩いた。
     鳥や虫たちは、俺たちを見ると一目散に逃げた。
     森にさしこむ光が、ひとり歩く蒼い影の光沢ある体を照らしていた。

    ***

     外面世界で蒼い影が疎まれていたのと同じように、内面世界での俺もまた、虐げられるようになっていた。
     弟は、時を追うにつれて知性を持つ生物を実験の対象とするようになった。
     そのせいか、内面世界の新たな住人の中には、憎き冥土召喚師と俺とがどこか似通った容姿をしていることに気づく者たちがあらわれはじめたのだ。

     蒼い大地を歩いていると、加虐の光を目にたたえた獣たちが俺を取りかこみ、襲ってきた。
     あらゆる蹂躙を受けた。
    「どうしてひどいことをするんだ」
     震える声で問うも、獣たちは応えず、俺を見下ろして不気味に笑うだけだった。


     俺は、内面世界の獣たちと戦った。
     単に無力化させるためではなく、息の根を止めるために剣をふるった。
     数えきれない獣を屠った。
     獣は死ぬとしんと静かになり、泥となって崩れおちた。黒い泥はやがて大地にたまって影のようにたちのぼり、山をつくり河をつくり森をつくった。どれも歪な姿をしていた。
     泥の森からは獣が生まれ、再び俺を襲ってきた。俺はその黒い血液をしぼりとらんとするかのように獣たちを憎み、打ちたおす。その繰り返しだった。

     俺は死んだ獣をうず高く積んで壇をつくり、頂上に玉座をつくった。俺がこの世界の支配者であると、獣どもに知らしめるためだった。下らぬことだが、今の俺にはすがるものが必要だった。それがたとえ、まじないのような気休めだったとしても。

     また、俺の心のうちには、少しでも高い位置にのぼり、「機械」の近くにいたいという思いもあった。
     かつて俺を見守ってくれた月の母なる光は、いまや黒く濁った大気に邪魔をされ、泥水にしずむ白鏡のように、ぼうっとした輪郭だけをゆらめかせていた。そのゆらめきは瞳にたゆたう涙のようで、見上げる俺を不安にさせた。

     俺は泥の玉座を意識核の首座と定め、まもることに決めた。
     壇を這いのぼる獣たちを蹴落とす日々に、休息のときは一秒たりともなかった。

    (俺たちは、正義の戦いをしている)
     俺は壇の頂上から、曇り空を見上げた。
     信仰の対象を仰ぐように、両手をひろげて天にかかげる。
    (でも苦しいよ「機械」)
     空の瞳が、ゆらゆらとゆらめいている。
    (苦しい。苦しい。苦しい……)

     黒いもやの向こう。
     白月は、徐々に赤みを帯びていった。

    ***

     それから幾度か季節がめぐったころ。
     俺の頬はこけ、眼光鋭くなっていた。
     蒼い世界の大気には常に黒いもやが漂い、吹きすさぶ風の軌跡が分かるほどに密に濁っていた。
     天では、相変わらず球体が輝いている。しかし球体の放つ光は、優しい月のそれではなく、苛烈な陽光となっていた。自らの光が大地に届かぬことに憤怒した「機械」は、その体に熱をわたらせて赤く燃え、中天の太陽と化していた。

     「機械」の陽光は、澱んだ空気に直線的に差しこんだ。
     俺はその光にはげまされ、休まず剣をふるいつづけていた。
     剣の切っ先は陽を反射してチラチラと光り、黒い血のこびりついた右手は、柄を握る形のままに固まっていた。
     敵は獣だ。俺は歯向かってくるか否かを問わず、行手にあらわれる者は問答無用で切り伏せた。迷い、躊躇をすれば、傷つけられるのはこちらの方だ。
     獣におそわれ、不覚をとってはいたぶられる日々をすごすうちに、俺は獣はすべからく討たねばならぬと決めていた。


     そんな俺の行動原理は、蒼い影のふるまいにもあらわれた。
     俺があやつる蒼い影は、外面世界で俺たちの行方を邪魔する者を、ためらいなく討つようになった。
     その存在が警察騎士を名乗っていたとしても、異世界調停機構の記章をつけていたとしても、かまいやしなかった。
     「機械」は、そんな俺を止めなかった。
     むしろ魂の守護者である「機械」は俺よりも一層激しく、融合体を傷つけようとする者を決して許しはしなかった。
     「機械」が操縦桿を握っているとき、蒼い影は裁きのように、敵を払った。

     俺も「機械」も、殺しはしなかった。
     しかし、疲労した俺たちが意識核の首座を手放したとき―――外で何が起こっているかは、俺たちは知らない。
     獣の風が強く吹くと、俺たちの意識には生臭い企みが広がっていく。蒼い影は、残虐で歪んだ笑みを浮かべる。
     あるいは、何かが起こっているのかもしれなかった。

     俺たちが旅をはじめて5年が過ぎるころ、俺たちは外の世界で危険な狂人として扱われていた。

    ***

     内面世界と外面世界における、二重の戦いは地獄そのものだった。
     眠りを必要としない歪んだ命には、心にも体にも、休息は一瞬たりとも与えられなかった。

     しかし俺にとっての最大の不幸は、休みなく獣と戦うことでも、犯罪者として追われることでもなかった。
     「エルスト」の記憶を持っていたことだった。

     内面世界で、黒い血のしたたる剣をにぎり、肩で息をし、落ちくぼんだ目で宙をにらんでいると、どこからともなく漂ってくる情景があった。

     青い空。
     どこまでも続く、白い石畳。
     緑の街路樹。
     光りかがやく視界のなかで、それらは歩みにしたがって穏やかに揺れる。
     となりを見れば、そこには、心をゆるす相棒が―――。

    (やめろ)

     友から名前をよばれ、楽しげに笑う声が耳をかすめ、俺は歯ぎしりをした。
     右手をひらめかせ、獣を斬り捨てる。

    (やめろよ。俺に余計なものを見せるな。聞かせるな。「エルスト・ブラッテルン」)

     むかし他人のように思えた男は、今や俺にとって憎悪の対象であった。外面世界でその名を聞けば、俺は我を失った。

    (お前のせいだ。お前が選択を間違ったせいだ。だから今、俺たちがこんなろくでもない目に遭っている。遺言なんて、くそくらえだ)

     耳にながれる声音がかわり、哀しみと悔恨が入りまじる。

    (やめろ、関係ない。俺はお前なんかじゃない。これ以上俺を苦しめるな)
     俺は獣を真っ二つにし、頭をかかえた。
    (わかった―――遺言は執行する。だから、もう……帰れよ……)

    『エルストさん』

     ふと、記憶の彼方から、ささやき声が聞こえてきた。
     子供の声だ。
     光に縁どられた赤い髪の面影が、おぼろげにちらつく。

    『エルストさん』

     俺は頭をふった。
    「ちがう。俺は『エルスト』じゃない。俺は―――」
     つづく言葉がなかった。

    『エルストさん。また―――会えるよね……』

     俺は額をきつく抑え、剣をにぎるもう片方の手を力なく降ろして、立ち尽くした。

     空から投げかけられる陽の光を浴び、俺のあしもとには、黒い影が伸びている。
    「兄さん。蝶が飛んでいるよう」

     子供の声に、読みかけの本から顔をあげた。
     木漏れ日のした。幹に寄りかかって見上げる空は、どこまでも青い。
     すこし離れた草むらに座る子供の、小さな指がさし示す方向を見やると、空の青のなかで白いものが揺れていた。
    「ああ、寄ってきた」
     ささやかな風のなかで頼りなく舞う蝶は、ひらり、ひらりと木陰に向かって飛んできた。すこしずつ、時間をかけて、近づいてくる。
    「兄さんのところに行ったよ。兄さんは、蝶にも好かれるんだな」
    「なんだそりゃ」
     笑いに揺れる右腕に、蝶はとまった。
     子供が、声をひそめて注意する。
    「動かないで、兄さん……しずかにね……」
    「すぐに飛んでいくさ」
     蝶は、人の腕を何と勘ちがいしたか、無防備に止まっている。
     薄い翅が、寝息をたてているかのように穏やかな一定のリズムで、かすかに揺れていた。
     子供は膝をかかえ、その動きを食い入るように見つめていたが、やがてため息のような声を口から漏らした。
    「……兄さんは、蝶だ」
     その惚けた声音に視線をうつすと、頬をほのかに染め、指をかむ子供の姿があった。
    「真白で綺麗で、どこへでも自由に飛んでいける蝶だ。光をあびて、いつだってキラキラしてる。フォルスだって……」
     声音はか細く、ともすれば、そよ風にさらわれるものだった。
    「……どうした、お前」
    「僕は、芋虫だ。いつも地べたで本を読みながら、兄さんとフォルスを見上げているもの」
    「何を―――言っているんだ」
     困惑して、たずねた。
     子供は成長するにしたがって、しばしばよく分からないことを言うようになった。
     今だって、子供が何を思い、何を伝えたくてこんなことを言っているのか分からない。血を分け、こんなにも近くにいる2人だというのに。
     問いに答えず、子供はつづけた。
    「でも、いつかきっと。僕も僕だけの何かを手に入れて、兄さんやフォルスにも負けない、きれいな蝶になって空を飛ぶんだ」
     言って、こちらを真っすぐに見つめてくるその目は、陽光を浴びて爛々と輝いている。
    「そうしたら兄さん、僕を褒めてくれるかい」

     子供の言うことは、相変わらずよく分からなかった。
     しかし、彼が彼だけの目標を持つということは、とても良いことのように思えた。
     血にしばられ家名に埋没する人生を送るよりは、きっと。
    「ああ、そうだな……」
     前に向きなおり、ふ、と息を吹きかけて、蝶を飛ばせた。
     白い翅がゆらゆらと、青い空に飛んでいく。
    「お前がお前だけのものを見つけられたら、そのときは……」

     ふたりが見あげる先でゆらめきは光を浴びて燦々とかがやき、やがて太陽の影のなかに溶けていった。

    ***

    (辿りついた)

     俺は、暗い天井を仰いだ。
     蒼い影、その左手の先には、虫のように悶えるローブの男がいた。男は鉄の腕に胸倉をつかまれ、宙に浮き、顔を真っ赤にして喘いでいる。

     ある町はずれの廃屋。
     その地下室に、例の泥の「匂い」を感じとった俺は、人のすくない深夜を待って襲撃した。
     ―――当たりだった。
     バルジオンの施設であった。
     しかも、そこはまだ引き払われていない、生きている研究施設だった。設備そのものは殆どなく、メインの研究施設とは考えられなかったが、檻に入った実験動物が保管され、見張り番も配置されていた。
     弟はすぐ側にいるに違いない。目を閉じれば空想のなか、その息遣いすら聞こえてくるようで、俺は興奮した。

    (ここまで来るのに、時間がかかった。5年もかかった。だがこれでようやく、長かった旅も終わりだ。あの弟を組織から引き離し、そして―――)

    「く……くる、し……」
     虫のうめき声に我に返り、俺はいつの間にか握りしめていた左手の力をゆるめた。窒息をまぬがれたそいつは、涙と洟をたらしながら浅い呼吸をくりかえす。
     この虫は、寒々しい地下室の見張り番にして、ブラッテルン当主の元部下だった男だ。
     おろかにも「エルスト・ブラッテルン」の名を口にして俺を怒らせた男は、2発殴り、軽く締めあげてやっただけで口を割った。涙を流しながら、弟の現在の状況、そして弟がかかわる直近の計画についての情報などをベラベラと吐いた。
    「し、知っていることは全部、話しました……だからもう……たすけ、て……」
    「そうみたいだな。しかしお前、組織のことを売って、このさき生きていけるのか」
     俺は意地の悪い笑みを浮かべて言った。
     裏切り者には例外なく死を与える。それが、狂界戦争以前から現在まで連綿とつづく、無色の伝統である。ブラッテルンに仕えていた者であれば、知らぬ筈はあるまい。
    「組織の制裁よりもなお、俺が怖かったのか?」
     俺は左手で男の胸倉をつかんだまま、黒い右手でその頬を優しく撫でた。触れたところには、泥の跡がつく。男は歯の根が合わぬほどに震えだし、浮いた爪先が宙をかいた。
     俺は、ブラッテルン当主の元部下の怯えようが可笑しくなり、また同時に腹も立って、さらに追いつめた。
    「なあ、答えろよ。怖いのか。狂った一族の、狂った長男。この」
     口づけでもするかのように、顔を男に近づける。互いの睫毛が触れ合いそうになる距離で、俺はささやいた。
    「『エルスト・ブラッテルン』がさ」
     至近距離、男の見ひらいた瞳に「エルスト」の―――黒く染まった右半分の顔、そして茫漠と光る右目がうつるのを見た。
     ふいに、男の体がだらりと弛緩した。
     次の瞬間。
    「―――っ!」
     嫌な予感がして、左腕を瞬時にのばした。爆発音がひびき、衝撃で腕がはねる。
    「あ……」
     言葉を失った。
     伸びた左腕の先、つい先ほどまで男の汗まみれの顔があった場所から、もうもうと黒い煙が噴きだしている。
     男の首から先が、炎を吹いて燃えていた。自決したのだ。
    「どうして……」
     俺は唖然とし、手のなかで燃える頭を見つめていた。
    「違う……俺は殺すつもりなんて……」
     見逃がしてやるつもりだったのだ。適当に脅して、二度と目の前に姿をあらわさぬと誓わせたうえで、街の外に放ってやるつもりだった。
    「……」
     俺は、蒼い影の泥におおわれた顔の右半分に、指先で触れた。
     頭が炭と化したころ、死体を床に落とした。音をたてて崩れおちたそれを見おろす。

     顔をめぐらせた。
     地下室の片隅に置かれている檻に、ゆっくりと歩み寄った。鉄でできた柵に両手をかけ、力をこめて、こじ開ける。
     中には、黒く大きな獣が、背を丸めて座っていた。服を着ていた。人の、形をしていた。胸には、異世界調停機構の記章がついている。
     表情の見えぬほどに泥に覆われた獣であったが、その顔の輪郭と服に、思い当たる記憶があった。
    (とうとう、ここに至ったか……あの弟は)
     瞑目する侵入者の顔を、黒い獣は無邪気な目で見上げてくる。

     彼は、かつて「エルスト」の同僚だった男だ。同じチームで働いてもいた。「エルスト」は彼を尊敬し、好意を持っていた。

     融合の日のあと、彼はしばしば、俺たちの前に姿をあらわした。失踪したブラッテルン家の長男に差し向けられた、異世界調停機構の追っ手として。
     言葉をかわし、武器をまじえた。俺は彼をうるさがり、会うたび叩きのめした。
     しかし彼は、俺たちに手を差し伸べつづけた。帰ってこい、と―――そう言った。
     俺はその手をとらなかった。彼を信じることはできなかった。

     俺たちは、彼に何度も「関わるな」と警告をした。彼はその警告を無視した。その結果が、これだ。
     
     彼の響友であったメイトルパの大犬はどうしたのだろう、と俺はふと気になった。いずれにせよ、幸福な末路をたどっているとは思えなかった。

     俺たちの蒼い機体は、物言わぬ召喚師の前に歩み寄り、片膝をついた。
    「すまない。貴方をこんな目に遭わせてしまって。貴方が『エルスト』に関わってしまったばかりに」
     黒く染まった肩を、優しく抱きしめる。
    「すぐに楽にするから……」
     俺は鋼鉄の右腕に力をこめ、爪をとがらせて、召喚師の肉体に突き立てた。背中まで、貫通する。腕のなかの体は大きく震え、脱力した。
     すぐさま、泥にまみれた召喚師の肉体は、内側から溶けだしはじめた。
     串刺された胸を中心に、細胞はとろけ、うずまき、そうして流動体となった肉と血と精神が、蒼い影の右腕の亀裂をこじあけ染み入ってくる。浸食のはじまりだ。慣れた感覚が伝わってきて、俺は喘ぎをかみころした。 
     眉根を寄せて魂がおかされる感覚に耐えながら、召喚師の肩口に顔をうずめて、語りかける。
    「俺と、ひとつになろう。俺のなかの王国に、貴方はくるんだ。俺のなかでは、貴方は好きな姿をとることができる。俺は内面世界の王として、貴方の行動の自由を約束し、貴方の身を守ることを誓おう。すべてが浄化され、皆が救われるその日まで生き抜くんだ。俺と共に―――」
    「エルスト」
     腕のなか。
     ほろびゆく人の体から、声が聞こえた。
     はっきりとした声音だった。
     俺は口を閉ざし、彼の顔を見た。
    「エルスト」
     彼は丸く光る眼で、真っ直ぐにこちらを見ていた。
     蒼い影―――いや、蒼い影をすかして、この「俺」の目を見つめている。
     彼はすべてを分かっている。そう思った。
    「俺は……」
     肉体の覗き穴から外を見つめていた「俺」は、その視線の強さにおののき、後ずさった。
     声を、しぼりだす。
    「エルストではない」
     召喚師の眼から、光が失われていった。
     腕のなかの体から力が抜け、輪郭がとけていき、やわらかい泥となって一気に崩れおちた。
     俺は、蒼い影の内側から、鋼鉄の胸にぶちまけられた黒い液体を、ただ茫然と見つめていた。

    ***

     その日、俺たちの内面世界に、ひとつの星が落ちてきた。

     星は魂殻の大地に落ち、おびただしい色彩をはじけさせ、「景色」となった。

     海のみえる公園。なだらかな丘陵。点在する集落。尖塔あおぐ大通―――。

     その「景色」を、俺は知っていた。

     輝かしい街並みのまえで茫然と立ち尽くす俺の耳に、力強い声がとどいた。
    『エルスト』
     声は「景色」全体から、地鳴りのように響いてくる。
    『エルスト』

     俺は言葉を失い、足をひき、身をひるがえして逃げた。
     背後には、美しき無人の都が、ただ、残されていた。

    ***

    「待て……待てよ……ちくしょう……ま、て―――」

     葉擦れの音を立てながら走っていた蒼い影が、足を止めた。
     膝を落とす。
     荒い呼吸を繰りかえし、唾をのみこむと、地面を両のこぶしで叩いた。何度もたたいた。額を土に擦りつけ、うめく。

     ―――行ってしまった。

     やっと見つけた。目が合った。声もかけた。
     しかし、弟は行ってしまった。
     物言わず、恐怖の目でこちらを見やり、俺ではなく「同志」の手をとって逃げてしまった。
     そのままその背は、森の闇のなかに消えた。
     そうして今、俺たちは夜の森でひとり、手負いの獣のようにうずくまっている。
     警察騎士どもが邪魔をしたせいだ。胸のうちに憎悪の炎が燃えたぎり、俺は両手の鉤づめで、土をかきむしった。

     別離の日から、5年。
     探しつづけてきた弟は、記憶のなかの姿よりも成長していた。
     かつて柔らかかった髪はからまり、ふくりとしていた頬の線は鋭利になり、やせた野良猫のように、目をぎらぎらさせていた。
     見張りの男から、弟は、国家重要機関の夜襲計画の首謀者であると聞いていた。そのとおり今夜弟の目前では大きな混乱が起き、幾人もの人間が死んだ。
     弟は笑っていた。

     弟に会ったときにかけようと準備していた言葉は、その姿を目にした途端消えてしまった。
     思考は白く塗りつぶされ、心の奥底から沸き起こった衝動のまま、俺は叫んでいた。

    (帰ってこい)
     ふるえる腕をさしのばした。 
    (俺は『エルスト』だ)
     血を吐くように、声をふりしぼる。
    (お前の兄さんだ。ギフト―――)

     身を起こして地面に座った。背を丸めてうつむく。
    「俺は」
     泥土にまみれた、蒼い鉄の両腕を見つめて、つぶやいた。
    「俺は……」

     何かの気配を感じて、勢いよく顔をあげた。
     森の闇を見やる。
     緊張をわたらさせた鋼鉄の体に向かって、何かが近づいてくる。
     人ではなかった。ごく小さな―――破片のようなものだ。
     それは慌ただしく円をかきながら、奇怪な動きで、宙を上下している。
     凝視していた俺は、徐々に近づき、暗がりのなかから具現化していくかのように輪郭が明確になっていくそれが、何であるか気づいた。
     蝶だった。
     片翅が、半分まで壊れている蝶だ。ひとつしかない翅を必死で打ちふり、痛々しく闇にもがいている。
     時間をかけて鼻先にまで寄ってきたそれを、目をみひらいて見つめていた俺は、唇をふるわせた。

     ―――こんなものまで、お前は。

     蝶の薄い、薄い翅は、黒い泥に覆われていた。

    (兄さん。蝶が飛んでいるよう)

     俺は泣いていた。
     身を折り、両の手で顔を覆い、声をあげて泣いていた。
     蒼い影から漏れた嗚咽が、夜の森にひびきわたる。
     黒く染まった右頬にぴしりと亀裂がはいり、右目から白い光が溢れだした。

     黒い蝶は、鉄に覆われた腕に甘えるように止まった。
     俺はその蝶の翅を優しくつまみ、右腕の亀裂のうえに置いた。蝶は腕の傷に沈んでいく。俺は涙を流しながら、無表情でその様を見つめた。融合の閃光が意識に満ちていくのを感じ、まぶたを閉じる。

    ***

     内面世界の空に、一匹の蝶があらわれた。
     蝶はまたたく間に何百、何千にも増殖し、雪のように舞い、空を覆った。

     俺は、無人の街の大通りに寝転んで、暗い空を見上げていた。

    「そういえば昔」
     蝶のカーテンの向こう側、尖塔が突き刺さる天には、渦まく雲がひろがっている。
     その黒色の天蓋には、太陽の巨大な白い影がうつっていた。この冷たい世界で音をたてて燃えさかり、俺を無言で見つめつづける火輪の瞳だ。
    「お前と一緒に、ここを走ったっけな。寝坊して、異世界調停機構に遅刻しそうになってさ……。途中で『機体に乗せて飛んでくれ』と頼んだら、お前、キレやがったんだ。昔っから、ケチで短気な奴だった」
     俺は微笑む。
    「異世界調停機構についたら、管理官がまた猛烈に怒っていたな。正義の味方は遅れてやってくるもんだ、って軽口たたいたら、板みたいなので殴られたっけ」
     くつくつと肩を揺らした。
    「寝坊しないように、帰ったら早く寝なさい、なんて子供みたいなこと言われてな。でも仕事が終わって異世界調停機構を出たら、家につくのがもったいなくて、ぶらぶらと街をうろつきまわって……3人で住めるようなアパートなんかを、探したりして……」
     太陽の光を喰らう蝶たちの影が、降るように舞っている。
     まるで、俺をなじる呪句のように。
     あるいは、何かを必死に語りかけてくる、幼子の言の葉のように。

     俺のまなじりから、涙が一粒、二粒とこめかみに流れていく。

    「『エルスト』の話だ。『エルスト』と、その響友だった機械兵器の―――」

    『エルスト』
     寝転ぶ道路の奥底からひびいてくる声に、俺はいやいやをするように首をふる。

    「俺じゃない……」
     両手で顔を覆った。
     太陽と蝶たちの視線から逃げる。


     俺がもし「エルスト」だというなら、どうやって受け止めればいいのだ。
     過去の過ちを。
     失ったものの大きさを。

     俺が誰よりも憎み、誰よりも羨ましく思う男と、「俺」が同じ人間なのだとすれば。
     夢と居場所を奪われ、友と家族を不幸にした罪を背負い、世界の気晴らしのように無意味に崩れゆく一個の人間。そんな惨めな人間が「俺」という存在なのだとすれば。
     俺はどうしたらいい。そんなことを認めてしまえば、俺はもう、狂うしかないではないか。
     そこまで求めるのか。今の、この俺に。
     逃げることすら―――目をそらす権利すら、俺には与えられないというのか。

     顔を覆う指が、どうしようもなく震える。この魔境において、引き裂かれつつある人間の心が、悲鳴をあげていた。

    (どこまで残酷に俺を痛めつければ気が済むんだよお……世界……そんなに俺が憎いか。うとましいのか。なあ……)

     何か、動くものの気配を感じた。
     手の覆いをはずし、目をあけると、いつの間にか通りを歩く通行人の姿があった。幾本もの黒い足が、視界の片隅にうつる。四界の住人たちの―――成れの果てだった。
     足たちは屍の歩みで、俺に徐々に近づいてくる。
    (こたえろよ……世界……)

     俺は涙をぬぐいもせずに起き上がり、剣をかまえた。この景色だけは、汚させる訳にはいかなかった。

     無人の列車の影が、音もなく俺の背を走り抜けていく。

    ***

     さらに数年が経った。

     その頃にはもう、俺たちの肉体のほとんどは、黒く染まっていた。

     泥を身のうちに抱えた蒼い影は常にもたりと重く、歩くたびに汚い滴をこぼした。口はとっくになくなっていた。
     左の頬骨のあたりだけを残して泥に喰われた体は、皮膚がとけて神経のすべてが空気にさらされているかのように痛み、意識核たる俺たちに尋常ならざる感覚を絶え間なく伝えてきた。
     もっとも、苦しみにさらされつづけた俺は痛みに慣れ、激痛のシャワーが降りそそいでも、ただひたすらに無感情だった。


     このころ俺たちは、冥土について、ひとつの答えを得つつあった。
     それを確かめるため、俺たちは、森のなかに忘れ去られた一軒の屋敷を訪れた。


     人の足音が絶えて久しい屋敷は、さびれていた。
     草は伸びきり、窓という窓は割れ、黴生えた廊下の赤じゅうたんに、夕日が直接差しこんでいる。森から吹いてきた風が、天井にはられた蜘蛛の巣を弱く揺らした。

     ガラスの破片が散り落ちる廊下をすすんでいると、ふと、郷愁が香って顔をめぐらせた。
     俺の手にしがみつき、見上げてくる子供の幻が瞬間ただよい、かき消える。
     視線の先、割れた窓いっぱいに、夕日が差しこんでいた。

     当主の部屋に、足を踏みいれた。
     白くつもった床の埃に、足跡がつく。

     そこは仕掛けによって守られていない、素通しの部屋だった。
     資料も特に持ちださなかった。異世界調停機構から隠すべきものはない、と俺が判断したためであった。
     屋敷から血族が消えた日そのままの状態で、部屋の時間は止まっている。
     だが、いま思えば、ここにすべてのヒントがあったのだろう。
     俺は、当主の机のうえから、一冊の本を手にとった。表紙の埃をはらう。

     それは、輪廻転生に関する本だった。
     魂の輪廻は、ブラッテルン一族が最も深く研究してきた分野である。その300年の研究の結果は、一冊の本にまとめられていた。
     当主が生前、この本を好んで読んでいたことを、「エルスト」は知っていた。

     ページをひらく。

     そこにはブラッテルン血族であれば皆当然に知っている、「魂の一生」について書かれていた。

     ひとつの生を終えた魂は界をはなたれ、「転生の輪」と呼ばれる空間にうかぶ。
     そして空間に満ちた万物のスープをわたって、次の界へと巡っていく。これがいわゆる、「転生」である。

     転生の過程で、魂に宿ったあらゆるものは洗われる。記憶は世界の全知に還元され、正の想念は光となって水面にうかび、負の想念は闇にこごって沈殿する。
     無数の魂からはなたれた光の結晶は、綺羅星のように転生の輪をかがやかせ、闇の増殖をおさえながら、魂たちの歩みをはげます。光は輪をまわすエネルギーだ。
     それに対して、闇は魂にとって有害無益なものであり、利用価値などどこにもない―――本来は。

     闇は魂をゆがませる。
     負の想念は本能にちかく、獣の条理でうごくものだ。取りついた魂を喰らい、支配し、増殖する。そして光に照らされなければ、決して消えることはない。

     闇に憑かれ、あまりに歪んでしまった魂は、界をわたることができない。一説には水底ちかくの魂の受け皿におち、歪みをたださなければ輪には戻れぬという。

     俺は、本から顔をあげた。

     ―――俺たちは早くから、冥土は「負の想念」を呼びこみ、魂にとどまらせる何かであると考えていた。
     負の力で魂と肉を縛る呪。
     別存在の抱える正負両方の質を注ぎこむ憑依。
     負の想念を湧き立たせる源罪……。

     俺たちは冥土はきっとこれらのようなものであると考え、克服しようと努めた。
     しかし、努力は結局、実らなかった。

     そして俺たちは、ようやく分かったのだ。

     冥土は、闇を招くものではない。

     闇そのものなのだと。

     本来目に見えぬはずの、負の想念。
     その想念が、転生の輪という特殊環境において無数の魂から集められ、濃厚に凝縮され、視認できるほどにこごったもの。
     それこそが「冥土」の正体だ。

     呪や憑依など、負の想念を呼びこむ原因がほかにあれば、その元を止め消し去ることで、負の想念も取り除けよう。すくなくとも、現状より事態が悪化することはなくなる。
     しかし、植えつけられたのが負の想念そのものの凝縮体であり、それ自身が自己増殖を続けているというのであれば。

    「もう、助からないな」

     あごから伝った黒い泥水が落ち、本のページに染みをつくった。
     転生の輪の闇のこごりを消し去ることができるのは、唯一、光の結晶体だけだ。
     俺たちの世界にかがやく太陽の力は、かぎられている。いずれ、闇を抑えきれなくなるだろう。

    「助からないな」

     負の想念が満ちみちた魂は歪みきり、腐りおちる。生まれ変わりなど、望みようもない。
     俺たちは、魂にとっての最高罰を受けるのだ。
     何に対しての罰かは、分からないが。

    「なあ『機械』」
     俺は、内側の太陽に向かって声をかけた。
    「いつか首都の研究所を襲撃したとき……読んだよな……冥土を召喚し、おのれも冥土に取り憑かれて、結局ゲートの果てに追放された召喚師の記録を」
     俺はまぶたを閉じ、世界から捨てられ、異界の汚泥にしずむ一人の男の姿を思い浮かべた。
    「もう、それしかないよな……」
     冥土をかかえた忌むべき存在として、この世界の「英雄」たちの手により、世界から追い出される。
     憎まれ、疎まれ。可能な限りの穢れを道連れにして、塵として捨てられる。

     俺たちの「世界を救う戦い」の終着点は、もうここにしかないと思った。

     「機械」は、反対しなかった。

    「試してみようじゃないか……無数の魂から排出された汚物を、ひとつの魂がどれほど抱えられるのか。ブラッテルンの300年の歴史で、誰ひとり挑戦したことのない実験だろう」
     俺は歌うように言葉をつむいだ。
    「どこまでいったら、壊れるのかな」

     なぜそうまでして、世界を救わねばならぬのか。
     その意義も見出せぬまま。

    ***

     俺の精神は極まってきた。

     内面世界で、俺は、常に目を血走らせ歯を食いしばっていた。
     しばしば怒りが収まらず、周囲の物に当たり散らすことがあった。
     陰鬱な無表情で、蜂のような音を一日中たてていることもあった。

     「機械」の太陽は、厚い雲に覆われて見えない。
     声もほとんど聞き取ることができない。
     「機械」に会いたければ、俺が黒い大気をかきわけ、空へと昇らなければならない。
     しかし俺の力も限界だった。そうそう、会いに行くわけにもいかなかった。
     そして会ったところで、特に話すべきこともなかった。

    「『エルスト』は愚かな男だった」
     俺は地団太を踏んだ。
     足を振り下ろすたび、大地に満ちた泥が跳ね上がる。
    「くだらない信念にすがりついた痴れ者だ。俺は『エルスト』を否定する。甘えた理想主義者。唾棄すべき夢想家だ」
     両手をひろげ、吠えた。
    「奴は結局ブラッテルンの血を克服できなかった。しかし俺たちは違う。俺たちの体には、人間の血なんてとっくに流れてない―――ブラッテルンの血など、そんなもの」

    (兄さん)

     俺は睫毛を震わせた。
     両耳を手のひらできつく押さえてふさぎ、喉の奥から唸り声をあげる。

     俺は、はっとした。
     玉座につづく壇のふもとに立ち、こちらを見上げてくる獣たちの姿を見つけたのだ。
    「邪魔だ」
     俺は、壇を駆けおりる。
    「邪魔だ邪魔だ邪魔だ」
     剣をふるい、片端から首をかき切り、突き刺す。
     獣の体をなげうち、俺は壇を中ほどまで駆け上がった。腹の底から叫ぶ。
    「俺はこの世界の王だ! 最古参の意識核。王国の支配者だ」
     遠巻きに俺を見つめる獣たちに向かって、牙をむいて威嚇する。俺自身、まるで野生の獣のようだった。

    「俺はあああ、俺はああああっ」
     頂上まで一気にのぼり、俺は乱暴に、玉座に腰をおとした。黒い泥が跳ね散る。
    「俺は……」
     濡れた背もたれに身を預け、髪に張りつき頬を流れる泥のなかから、つぶやく。
    「エルスト・ブラッテルン……なのか……」
     厚い雲に覆われた天からは、太陽が囂々と炎を巻きあげる音だけが聞こえてくる。


     ―――かつてひとりの青年は、思春期の青さを胸にかかえ、希望と幸せをもとめて故郷を飛びだした。
     きっと何かをつかめると信じて。まばゆい光に出会えると信じて。
     そうして青年が辿りついたのが、この泥の玉座だ。

     世の中の人たちは、ブラッテルンにふさわしいと笑うだろうか。
     子供の手をひいて、道をゆっくりと歩いた。

     久しぶりに握る手は、やわらかかった。

    「手紙を書くよ」
     昼をつたえる日差しのなか、眩しさに眼を細めながら、子供に声をかけた。
     子供は、黙りこんでいる。
    「菓子も送ってやるからな。きっとセイヴァールには、村じゃ食べられないような、うまい菓子が沢山あるよ」
    「……いらないよ」
     子供が、ぽつりとつぶやいた。
    「くさっちまうから」
    「くさらない菓子もある」
     ふたたびふたりは、口を閉ざした。
     道端に、薄紅色の花が咲いていた。
     ふたつの人影は、土を踏み歩きながら、花のとなりを通りすぎていった。

     遠くに、屋敷の屋根が見えてきた。
     肩に背負った荷物を、抱えなおす。荷は、重く感じた。
    「―――俺が召喚師になったら」
     つとめて、明るい声をだした。子供が顔をあげる。
    「石が手に入るはずなんだ。このくらいの大きさの」
     つながれた手の反対側の手のひらを、目の高さにかかげた。
     ふいに、いつか子らと遊んだ水切りの、丸い石の感触を思い出した。あわてて、笑顔で追憶をかき消す。
    「きれいな石らしい」
    「……サモナイト石よりも?」
     さして興味もなさそうに、子供が問いかえしてきた。
    「たぶんな」
    「ふうん……」
     疑わしげな声に、にやりと笑う。
    「ん? さては、信じてないな」
    「別に」
     はは、と声をたてて笑った。
    「ようし、じゃあ、比べてみようか。俺が新しく手に入れる石と、家の石。どちらがきれいか。俺が石を手に入れたら、いの一番にお前に見せて―――」
    「兄さん」
     声に押し被せるように放たれた子供の声は、冷たかった。
    「もう、ここでいいから」
    「……そうか」
    「もう行きなよ。途中まで、歩いていくんだろう」
    「ああ」
    「それじゃあ」
     別れの言葉を自ら口にした子供はそれきり黙り、握った手を離さなかった。
     その手の力は思いのほか強い。言葉と矛盾する子供の行動に、ひどく戸惑う。
     しかし、いつまでもこうしている訳にはいかない。意を決し、手のひらをひろげ、小さな手をはなした。
     未練のように、ゆっくりと。ふたりの指先は、離れていく。
    「……じゃあな」
     言って身をひるがえし、屋敷とは違う方向に、ひとりすすんでいく。
     立ち尽くす子供の、哀しいまでに強い視線を、背中にひしと感じながら。

     村はずれの森に分け入ると、子供の視線はもう感じない。振りかえったとしても、もう何も見えはしないだろう。
     屋敷は遠く、追ってくる者はもちろんいない。
    (脱出成功だ)
     目の前を邪魔する緑の枝をかき分けながら、森をすすむ。
     その足取りは軽い―――はずだった。
     しかし、何故か足は重い。胸のうちに入りこんだ森の濃厚な香りが体の内側で重石となり、故郷を遠ざかる歩みを邪魔していた。

    (全部、俺の望みどおりに進んだはずだ)
     うつむき、濡れた葉を踏みしめ歩きながら、唇をかむ。
    (だのに、なんなんだ。この、胸にわきだす暗いものは)
     思い浮かぶのは、子供の顔だ。
     首をふる。
    (どうしてだ。俺は間違っちゃいない)

     黙って家を出ずに、説明をした。信頼できる一家のもとを共におとずれ、後のことも託した。手紙を書くと約束した。もちろん、二度と会えぬ訳ではない。新しい生活が落ち着けば、いつかまた、故郷に寄る日もくるだろう。自分に過ちはないはずだ。
     それなのに、この胸のうちには、ぽかりとむなしい隙間があいていた。
     そして隙間を埋めようとするかのように、何かもやのようにとらえどころのないものが吹きだし、広がっている。

    (何故、心に穴があく。俺が何を喪失したっていうんだ)

     眉をひそめ、歩きつづける耳元に、もやは問いを投げかけつづける。

     お前がいま、小さな手とともに手放したものは、一体何だったのだ―――と。

    ***

     内面世界の闇のなか、膝をかかえて記憶のスクリーンを眺めていた俺は、力なくうなだれた。
     腕に顔をうずめる。

    (ああ―――この日に戻ることができたら。そうすれば、きっとすべては……)

     スクリーンのなかには、荷を背負い、拳をにぎりしめ、うつむき歩きながら、何かを考えつづけるひとりの青年の横顔がうつっていた。

     やがて光源は力なく薄れ、残像だけをのこし、スクリーンは消失する。
     あとに残るは、膝をかかえて闇にうずくまる、俺、ひとり。

    ***

     喪失感があった。

     ぼう、としていた思考が、わずかにはたらく。

     蒼い影の錆びついた体をたしかめた俺は、ああそうか、とぼんやりと思った。
    (石を落としたんだ)
     大事にしていたきれいな石が、なくなっていた。
     きっと、先日セイヴァール地下水道で調停召喚師たちと戦ったときに、落としたのだろう。

     この10年で、はじめてのことだった。
     足場の悪い岩山を駆けのぼったときも、警察騎士たちと激しい戦闘を繰りひろげたときも、あの石を落とすなどということは一度もなかった。
    (俺もここまで衰えたか。それとも―――この出来事にも何か、さだめられた意味があるのだろうか)
     無意識に考えてしまい、俺は可笑しくなった。こんな風になっても、昔のクセは抜けないんだな―――と。

     響友に出会った召喚師は皆、運命論者になる。
     召喚師は、見つけることこそが唯一要求される才能だ。それは単に「運」とも言い換えられたが、多くの者は「運命」と呼んだ。
     かつてのエルストもまた、運命という言葉を好んで使った。
     自分が出会う人、物、出来事のすべてに、意味づけがあると信じた。

     むかし、田舎から出てきたばかりの青年に、この考えを植えつけた男がいた。
    『この世のすべての事象には意味がある』
     隻眼の男だった。
     男はソファに差し向いに座り、まるで父が幼子に言い聞かせるかのように、おだやかに青年に語りかけた。
    『エルゴから生まれし我等の魂は、決して意味のない物語はつむがない。君が今、ここにいることにも、意味があるはずなのだ。私が今、君と向かい合っていることにも、きっと意味が―――』
     青年は、語る男をうっとりと見つめていた。男の言葉を、疑いようもなかった。青年は、男からあたえられる餌を、顔をかたむけついばむ雛だった。

     あの男にもし、もう一度会うことができたら―――答えてくれるだろうか。
     青年たちが、汚泥に沈まなくてはならなかった理由を。
     俺たちがこの10年、泥沼をひた走ってきた理由を。
     今、俺がここで人を待っていることにも、エルゴは意味をもたせてくれるのだろうか。そうであれば、俺はもう、世界を恨まない。

    (でもどうせ本当は……意味なんて……ないのだろうが……)
     あきらめて笑う。あの男に会うことも、もう二度とないはずだ。
    (何にせよ、今の俺には、もう待つことくらいしかできない……)


     俺たちの内面世界は、静かになっていた。
     ここ数日、召喚師たちとの戦いのせいで痛んだ肉体に引きずられ、意識の汚染は急速にすすんだ。
     内面世界に満ちる大気は、すぐそばの物も見えぬほどに黒く澱みきり、およそ生き物の住めぬ場所になっていた。
     獣たちは、この息苦しい濃い霧のなかで我を失い、相食み、あるいは自傷し、勝手に死んでいった。
     俺と「機械」だけが残った。
     一番はじめのときと同じように、俺たちは世界でふたりきりだ。

     俺たちが生きているのは、俺たちをむすぶ、絆のおかげだ。
     お互いが、息絶えずに今もなお存在している―――その細い希望がよすがとなり、俺たちの命を維持しているのだった。

     だがもう、長くはないだろう。
     この汚れた世界で、息をするにも常に苦しく、俺の頭はしばしばぼうっとなり、気が遠くなった。胸に刻まれた使命感が意識をかろうじてつなぎ止めているが、それもそろそろ限界だった。
     「機械」もきっと、同じ状態であるはずだ。

     もう、いくらも歩くことはできない。

     旅の終わりが、近づいていた。


     消滅を覚悟した俺が、最後に会いたいと願った相手は、赤い髪をした、年の離れた幼馴染だった。
     俺の3人目の、「尋ね人」だ。


     俺は弟を追い、第二の故郷であるこのセイヴァールを訪れ、彼と出会った。
     意図せぬ邂逅だった。成長し、召喚師になっていた彼の姿をみて、俺は少なからず動揺した。
     彼を巻き込みたくはなかった。これ以上大切な存在を、不幸にしたくはなかった。
     しかし彼は俺たちの前に幾度も立ちふさがり、
    『エルストさん!』
     変わり果てた俺たちに、手を差しのべてきた。

    (その名を呼ぶなと、言っているのにな)
     彼の声を思いだし、苦笑する。
    (関わるなといくら言い聞かせても、平気で首を突っこんでくるし。俺の言いつけなんて、まるで聞きやしない)
     小さい頃は、弟と一緒に、目を輝かせながら言うことを聞いてくれたというのに。
     いまや彼は強くたくましく成長し、仲間を得て、一丁前に俺に反論し、説教までしてくるようになった。
    (まったく、どいつもこいつも……)
     この地でようやく追いつき再会した弟もまた、俺の言うことを聞かず、悪戯をやめない。
     そんな弟をいさめることも、殺すことも、俺はできなかった。
    (ままならないな……なにひとつ……)
     俺は疲れた頬に、笑みを浮かべた。

     すりきれた俺の心は、あの赤い髪の青年の強引さを疎ましく思いながらも、どこか心地よさを感じていた。
     俺の独りよがりを否定する声に、まばゆさすら感じていた。
     俺は己の足が止まりつつある今このとき、青年に、俺の旅を終わらせてほしいと願った。
     俺と、俺の大事な友の希望を断ち切り、踏みにじるのが彼であれば、もう何も言うことはない。いまの俺には、これ以上の結末は望むべくもない。満足して、世界から消えることができると思った。


     俺は落ち着かず、蒼い影の目から、外を見やった。待ち人は、いまだ来ない。
    (はやく、来てくれ……)
     最期のときを前にして、俺は、心を躍らせていた。
    (はやく俺に、会いに来てくれよ……)

     重い腕を持ちあげ、蒼の鋼鉄に覆われた手のひらを見つめる。
     蒼い影のこの姿は、元はエルストとその響友の、召喚武装の姿である。
     響命覚醒によって、エルストの響友はその身を変じ、召喚師の体を、隅々まで覆いつくした。
     むかしのエルストは、そのことを深くは考えていなかった。強そうで格好いい変身姿だ、なんて無邪気に喜んでいた。
     しかし、今ならば分かる。
     あの姿は、エルストを守りたいと願う、響友の想いのあらわれだったのだ。
     想いは意識に満ち、意識は魂殻を形づくり、魂殻は肉体を模る。
     響友は、いつも無茶ばかりする友を守りたいという一心で、己の体をほどき、友の指先までをも抱きしめていたのだ。
     その想いは、ふたりが融合した今もなお、続いている。
     機械は俺を守るために、俺の体の隅々までをも、覆いつづけてくれている。
     誰かに傷つけられるたび、必死に修復をして。俺の身を、危険にさらさぬように。
     機械からそそがれる大いなる愛を思うたび、俺の乾いた心には、光がともった。

     しかしその機体も、いまやほころび、ボロボロに崩れ落ちつつあった。

     蒼い影の拳をにぎりしめる。

    (俺たちの全部を、君が踏み砕いてくれ……君の手で、俺たちの希望も絆も想いも―――全部終わらせてくれよお……フォルス君……)


     ひゅう、と喉に引っかかる音をたてて、俺は濁った空気を吸った。
    「『機械』。起きているか」
     おびただしい数の蝶の死骸が敷きつめられた大地のうえから、俺は、空に向かって弱い声をあげた。
    「お前に会いたいんだ。最後のときは、お前に、側にいてほしいんだ。でも、俺はもう、空までのぼれそうにない。だから」
     かすみ、揺れる瞳をなんとか定め、懇願した。
    「降りてきてくれるか。わがままを言ってすまない。お前もつらいのは十分わかっているが、もう―――本当に、最後の最後だからさ」
     目をつむり、吐息のようにささやく。
    「たのむよ……」

     そのまま思考は薄くなり、俺はしばし、うつらうつらとした。
     きらめく湖の夢を見た。


    『……さん』

     名前を呼ばれた気がして、睫毛をふるわせた。

    『エル……さん』

     なつかしい―――記憶の奥底から、立ちのぼってくる声だ。

    『エルストさん!』


     まぶたを開けた。

     清浄な空気が、頬に吹きつける。
     
     視界いっぱいに、空がひろがっていた。
     夕焼けだった。
     地平が赤く燃えさかっている。赤の中心には蜜色の円が浮かび、黄金の光を天に放射していた。
     黒く沈んだこの10年。ついぞ目にすることのなかった鮮やかな色彩に、俺の心はふるえた。

    「これ、は……?」
     夢のつづきだろうか。自分の言葉が、ひどく遠くから聞こえた。
     みひらいた目がふちどる、視界が揺れる。
    「俺たちの、内、面、世界、なのか」
     信じられなかった。
     これほどまでに美しい情景を、この魂のうちにふたたび見ることができるなど、思いもよらなかった。
    「たいよう……俺の……」
     呆然と立ち尽くしていた俺の、かわききっていた目に、涙がにじんでいく。頬を、熱いものが伝っていく。
     押しだした声は、湿っていた。
    「きれいだ……」

     うるむ視界で、あたりをみわたす。
     なだらかな草原。雲のように散らばる白い石柱たち。
     ―――暁星の丘だ。
     俺はこの「景色」を、よく知っていた。
     友と、幾度も魂をかさねた丘だった。何の憂いも苦しみもなかった、光の時代に。
     黒く塗りつぶされていた先程までは、自分が立っている景色がどこかすら、気づかなかった。

    「ここは……エルストの、思い出の場所……」
     足を踏みだそうとしたとき、背後から、なつかしい声がひびいた。
    「私タチ、フタリノ、デス」

     息が止まった。頭が真白になる。
     ぎこちなく首をめぐらせ、振りかえった。

     蒼い機体がそこにあった。

     世界で一番美しいと思うフォルムが、夕日をあびて浮かんでいた。
     俺は声もなく、歩みを覚えたばかりの子供のような足どりで、2歩、3歩と歩み寄る。
     その顔を撫でた。
     なめらかな機体に手のひらを滑らせ、みずからの頬を寄せる。
     背に、鋼鉄の腕がまわされるのを感じた。慈しむように、髪をすかれる。
     俺たちは、長く長く抱擁した。

     涙にぬれた顔をあげる。
    「じゃあ―――あの太陽は何だ。お前がここにいるのだったら、あの光はいったい」

     友の指に指し示され、俺は蒼い影の目から、外の景色を見つめた。

     折しも、外面世界もまた黄昏の光に満ちていた。
     地平にしずみゆく太陽を背に、ひとりの青年の姿が立っていた。
     彼の髪は、燃える空を模して赤い。彼の視線は、まっすぐに俺に注がれている。
     俺が生まれてはじめての信頼をよせ、快く応じてくれた少年。その少年が、強くたくましく成長して、いま、俺たちの目のまえに立っている。
     彼の身は、強い光を帯びていた。
     それは全てを燃やし浄化する、あかい焔―――汚れや不純が決して犯すことのできない、無垢の光だった。
     青年に駆けよった少年もまた、同じ光を身にまとわせていた。それぞれ異界にうまれながら、兄、弟のように寄り添い俺を見つめる、きらめくふたり。
     むかし俺が泥のなかでひっそりと諦めたものを、彼らは持っていた。
     
    「この光……」
     俺はふるえていたが、ふたつの光から目を離すのが惜しくて、目蓋を閉じることができないでいた。

     青年たちから発せられる光は、俺たちの魂の壁を透かしてあかあかと輝き、内面世界を夕日のように照らしていた。光は波動となってひびきわたり、黒い闇を後退させていく。

    「そうか……君たちが……」

     ―――導きの光だったのか。

     俺の体を耐えず汚していた泥はいつしか拭われ、風が髪をそよがせていく。
     肺いっぱいに澄んだ空気が満たされ、頭に胴体に四肢に、清浄がいきわたる。

    (なんということだろう……こんな奇跡が、まさか―――)
     香りたつ夕影が、俺の頬を濡らしている。

    「よかった……」
     指から、力がぬけていった。
    「君たちになら、任せられる……信じて……後を……全て……」
     長きにわたる無意味な戦いに、終止符が打たれるときがきた。
     それも、闇のなかではなく―――光のうちに、幕はとじられる。友に抱きしめられ、信頼すべき人に出会い。
     これほどの僥倖はなかった。

    (フォルス君……頼んでも、いいかな。俺のやりかけ仕事―――君に、託していいかな)
     俺は涙をながしながら、久方ぶりに、心からの笑みを浮かべていた。
     最後の言葉を伝えるため、口をひらく。
    (―――をたのむよ。俺は君を、信じているからな……)


    「……?」

     ひらいた口からは、しかし、言葉はでなかった。
     妙な感覚が、俺にまとわりつき、喉をふさいでいる。
     俺は手をもちあげ、喉仏に指をあてた。
    (なんだ、この感覚は……)

     既視感であった。
     痛烈なデジャヴが、俺の喉をさしている。
     前にも、同じようなシーンが、あった気がするのだ。

    『―――をたのむ。フォルス君、君を信じているからな』

     たしかに俺は、かつてこの台詞を言ったことがあった気がする。
     いつ、どこで言ったのだったか。
    「……」
     俺は夕陽に頬を照らされ、喉に手を当てたまま、思いだそうとしていた。何か大切なことを、忘れている気がした。

     考えつづける俺のまえで、ぐらり、とのぞき穴ごしの視界が揺れる。
     蒼い影の顔が、無意識のうちに動きはじめたのだ。俺たちの肉体は、機械仕掛けの人形のように、きしむ音をたてながら首をめぐらせていく。のぞき穴にうつる外の風景が、赤い光から青い闇へと、ぎこちなく移動していく。

     蒼い影の首が止まった。
     のぞき穴の真正面。
     そこには、夕影の反対側、青くしずむ空を背にして立つ、ひとりの男の姿があった。

    「言うことはそれだけかい、兄さん」

     弟が立っていた。
     俺は、喉にあてていた手を、ゆっくりと下ろす。
     青く暗い空は、「ひずみ」の巨大な影のように、弟の背後に覆いかぶさっていた。

    「兄さんは、いつもそうなんだ……」
     赤い光に全身をてらされた弟は、視線をうつろに漂わせ、血反吐をはくように言葉をつむいだ。声は不安定に揺れている。
    「自分と、フォルスのことばかり」
     手を伸べ、俺を糾弾する。
    「実の弟のことは、見てもいなければ信じてもいない」
     その手は、たよりなく宙をさまよっていた。
     まるで、生まれたばかりの赤子のように。あるいは、別離を惜しむ、子供のように。

    (そうだ。「あの日」だ)
     弟の、その心細げな手を見つめながら、俺はようやく気がついた。
    (今のこの状況は、「あの日」と同じ―――「あの日」の再現なんだ)

     全く同じなのだ。
     俺が旅立ちを決意したあの日。
     弟をよろしく頼む、と幼馴染に頼んだあの日。
     小さな手を、放したあの日と。

     登場人物、状況、立ち位置。何もかもが同じだ。
     俺たち3人は今、俺が故郷を飛びだしたあの日あのときに、立っているのだ。

    (そうか)
     俺は、鮮烈な赤い光のなか、雷にうたれたように突如理解した。
    (そうだったのか)

     ここに、「意味」があった。
     すべては、「あの日」をやり直すために用意されたシナリオだったのだ。
     汚泥をひた走り、堂々巡りの無意味な戦いをしているように思えた日々は、すべてこの瞬間のためだけにあった。

     俺は、未来に向かって歩くと同時に、過去に向かって歩いていたのだ。
     俺の最初の後悔に、もう一度、向き合うために。
     俺がはなした幼い手を、もう一度つかむために。

     そのためにこそ俺は歩きつづけていたのだ。
     そして俺はようやく今、ぐるりと巡って、「あの日」に辿りついた!

    (おおおおお)

     奥底からマグマのように噴きだしてくる激情があった。この10年、ついぞ味わうことのなかった原色の歓びだ。純粋な赤色のなか、土塊のように冷えていた身が、内側から燃えたぎっていく。

    「俺は……他の全てを誰かに委ねたとしても、あの小さな手だけは自分で守るべきだった―――いや、守りたかったんだ。あいつだけは、俺のこの手で」

     陶然と叫び、よろめく足を踏みだす。

    「ずっと後悔していた……あの日に戻りたいと思っていた……世界は、俺の声を聞き届けてくれていたんだ……最後の最後に……やり直しの機会を、与えてくれた……!」

     試練を超えて闇をあらわれ、世界の祝福を得た今の俺の言葉であれば、かならず弟に届くという確信があった。

    「巡っていたんだ。時間の円環を。俺が真実の意味で―――生まれ変わるために―――!」

     俺は頼りない足どりで歩みをはやめ、駆けだそうとした。
     ぐい、と抵抗を感じて、動きをとめる。見おろした。
     そこには腰に強くまわされる、友の鋼鉄の腕があった。
    「機械……」
    「行ッテハ、ナリマセン」
     硬質な機械音声が、背中ごしにひびく。
    「最期ノトキヲ、ドウゾ―――静カニ―――」
     俺はその腕に愛しげに触れ、心からの感謝をささげ、言った。
    「聞いてくれ、機械。フォルス君が、俺を信じてくれているんだ。たぶん―――あいつも。だから、もう一度だけ」
     言葉をきり、前を向く。
    「もう一度だけ、自分を信じて戦いたいんだ。それが『エルスト』の」
     友の腕をつかむ手に、力をこめた。
    「―――俺の望みなんだ。俺が、俺自身が、そうしたいんだ。今戦わなきゃ、俺はきっと、俺のことが大嫌いなまま消えることになっちまう」
     言って俺は、祈るように目を閉じる。
    「頼むよ機械。いや……もう、こう呼んでもいいよな」
     俺は万感の思いをこめて、その名を呼んだ。
    「ガウディ」
     機械の腕から、力が抜けるのが分かった。
     俺はその蒼い鋼鉄の手をとり、口づける。
    「ありがとうガウディ。お前のおかげでここまで来られた。でも、もう、行くよ」
     自分の額を、友の手の甲に押しあて、俺は決然と括目した。
    「俺はエルストとして、やるべきことをやる」

     手をほどき、歩きだした俺の背中から、悲鳴のような声がした。

    「―――えるすと!」

     過去に向き合えない弱い俺を気づかい、10年名を呼ばないでいてくれた、やさしい友の声だった。


     外の世界で、弟は幼馴染と戦っていた。
     幼馴染の周りには、彼を慕う兄弟がいた。背をあずけあう仲間たちがいた。
     弟は、ひとりぼっちだった。
     ひとりぼっちで笑っていた。笑いながら泣いていた。

     弟の剣が弾かれた。痩せた体が、地面になげだされる。目をみひらいた顔が、土に埋もれてよごれていた。
     ふらつきながらも立ちあがる。剣をひろい、無様に振りまわし、赤子の泣き声のような、狂った高笑いを繰りかえしている。

     ―――導きの光と言ったか。確かに厄介だな、そこの邪魔者は。
     哄笑をふいにかき消し、にくしみの表情で呟くと、弟は剣を幼馴染に向けてかかげた。
     ―――今のオレに呼べる、すべての冥土をぶつけてやる。
     弟の頭上に、巨大に練り上げられた邪悪がうまれた。ふくらみ、飽和し、勢いよく放たれる。


     俺は咆哮し、渾身の力をこめて地を蹴った。

     液体をかぶった。
     弟から放たれた粘着質の黒い泥は、俺という意識核の頭からつま先までぶちまけられ、したたった。鉄をもとかす濃硫酸。音をたてて煙があがり、焦げた肉の匂いがたちこめていく。追いかけてきた友の腕が背後から伸びてきて、俺の体をかき抱いた。蒼いアームが黒く錆びほころびて、俺の体に埋没していく。
     煙のうちから、俺は弟を見やった。弟は身をかたくし、呆然と立ち尽くして、俺を見ている。
     俺は思わず、苦笑いを浮かべた。

     ―――なんて顔してる。
     
     悪いことをやっちまったって、自分でも分かってるんだろう?
     
     俺は叱ってやらなければならない、と思った。
     叱って、それからあいつを強く抱きしめてやらなきゃならない。
     あいつのたったひとりの、兄として。

    「やめ……ろ。ギフト」
     俺は口を大きくあけ、泥にまみれた舌を動かそうとつとめた。
    「お前たちは……友人だろ……う……友人なら……傷つけ、あっては―――」

     頭を殴られたように、ふいに意識が遠のいた。
     視界がかすんでいく。地平の残照が二重、三重にとひろがっていく。
     俺は、真っ黒にしぼんだ腕を、あいつに差しのばした。

     ちくしょう……もう少し……のに……―――。

     指先が震える。赤い陽が黒く白く明滅し、俺を見つめる弟の心細げな瞳が、星のように瞬く。ああ―――あああ―――。

     ギ、フ、ト。
    yoshi1104 Link Message Mute
    2018/09/29 4:36:31

    11 二重に歩く

    (エルスト融合体)

    ##サモンナイト

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