07 月満ちる 滴が落ちた。
私と「彼」は、青く照らされる草のうえに横たわっていた。
鳥の羽ばたきも聞こえぬ夜。木々の合間にのぞく白い月を、ふたり、無言で見上げている。
彼がどのような表情を浮かべているのか、知ることはできない。
私は彼の鎧だった。
響命の術によって、私のからだはひらかれた鉄になり、彼の指先までをもつつんでいる。
また一粒、滴がうまれた。
滴は「彼」のこめかみに流れ、柔らかいその髪を濡らして、私に伝わった。
彼は泣いていた。夜の森の真ん中で。
彼の流す涙を機体にうけとめながら、私の胸部回路が花のようにふくらみ、ひらいていくのを感じた。蛍光の水色信号が涌きで、音もなく流れる。
あふれる光の流れにしたがい、私の丸い思考は、鎧の胸のあたりにゆらゆらと浮かんだ。しばし揺れ、漂ったのち、ふたりのあわさった心の臓をめがけ、沈んでいく。
そうして私は、私たちふたりの精神世界の闇に、落ちていった。
深く。どこまでも深く。
***
あるスクリーンの前に浮遊していた。
闇のなかに、ただ浮かぶ四角い画面は、明々と赤く、光っている。
目映いそのスクリーンには、ひとりの人間が映っていた。
「彼」である。
私は、探し人をうつしだすスクリーンに、一歩近づく。
赤い光のなか、愁いをおびた横顔が、うつむいている。
ふと、彼がまたたきをした。そこではじめて、これが静止画ではなく、映像であると知る。
私の食い入るような視線のなか、ふるえる彼の睫毛の合間に、水が浮かんだ。その水はみるみるうちに滴となり、表面に赤色の光を反射する。
赤色の滴はやがて、頬をつたい、顎からしたたり落ちた。
私は滴が描いたその厳密で得難い軌跡の一切を、機械の目で記録していた。記憶回路の奥底に、つぶさに刻む。
私はふと気配を感じとり、追憶のスクリーンから目を離して、振りかえった。
ほんとうの「彼」が立っていた。
映画の主人公役の青年は、闇のなかに浮かぶスクリーンを一瞥すると、気まずそうに言った。
「そんなもの、みるなよ」
スクリーンの赤い色を反射したか、心なしか彼の顔は赤い。
彼はきびすをかえして、そのまま立ち去ってしまった。
私はあわてて彼のあとを追った。背後では、観客を失ったスクリーンが、赤い光にそまった映像をうつしつづけていた。
追った先は、まったくの暗闇であった。光源がなく、数メートル先を見るのもおぼつかない。
ほんの少し前をすすんでいるはずの彼の姿すらも、闇に隠れがちで、彼のコートの裾や、靴のかかとが、時折ちらちらと見えるばかりだ。
私は懸命に、彼の背中を追いかけていく。
闇のなかは、何もなかった。ただ轟轟と、低い音が鳴っているばかりだった。
その音は、風が吹いている音に似ていたが、機体に感じる空気の流れはない。よく聞けば、自分自身の機体音のようにも思えた。機械仕掛けの私の音が世界に反響し、私自身の集音機に届いているようである。
やがて、彼の姿が、完全にみえなくなった。
(待ッテクダサイ)
私は闇のなかをすすみながら、焦りを感じていた。
なぜ、彼は、立ち止まってはくれないのだろうか。私がついていきていることを、知っているはずなのに。
このままでは、暗闇のなか、彼とはぐれてしまう―――。
とそこで私は、ふと、自分にライト機能がついていることを思い出した。
何故今まで思いつかなかったのか。そう自問するより前に、私は最大光量でもって闇を照らした。
辺り一面が明るくなった。
まわりを見渡すと、見覚えのある光景がそこにはあった。
異世界調停機構の、トレーニングルームだ。
グレーの壁と機材にかこまれた、整然とした室内。
(イツノマニ、コンナ場所ニ……)
私は事態が呑み込めず、まわりをみわたした。
すぐ隣に、彼はいた。
彼は訓練生の制服を着て、腰に左手を当てて立っていた。目が合うと、彼は眉をひそめた。
「おい相棒。なに余所見してるんだ。もう戦闘訓練はじまるぞ」
彼の右手には剣が握られていた。ライトに照らされ、刀身がぎらりと光っている。
「コレハ、ドウイウ」
「御託は後だ。来るぞ」
彼が叫ぶと同時に、ルームの奥にある大扉が音を立ててひらいた。3体の巨大な機械兵器があらわれる。
私は機械のはやさで兵器に向きなおり、迎撃態勢をとった。彼が剣をかまえ、突進する。私は滑るように、彼のあとに続いた。
数十分後。
私のビームが最後の一体をほうむると、「それまで」と担当管理官の声が上がった。
私は満足して、機体をそらした。パーフェクト。訓練は無事終了した。
「嘘をつけ!」
青年が私の内心の声を聞きつけ、怒ったように突っ込みをいれた。
「何が『パーフェクト。訓練は無事終了した』だ。お前が誤射しまくったおかげで、制限時間オーバーして叱られただろうが」
私は内心の声を聞かれたことに、むっとして言い返した。
「私ノセイデスカ? 貴方ノ負傷ノ治療ニモ、随分時間ヲ費ヤシタト思ウノデスガネ」
「俺のは仕方ないだろう。戦闘中の怪我なんだから」
「エエ、負傷ノ原因ガ、相棒ノ制止ヲ聞カズ突出シテ集中攻撃ヲ受ケタセイダ、トイウノデナケレバ、私トテ何モ言イマセンヨ」
うっ、と彼は声を失う。
「大体貴方ハイツモ、調子ニ乗リスギルノデス。毎度毎度突ッ走ッテ、生傷ヲ負イマクッテルデショウガ。少シハ、手当スル相棒ノ身ニモ―――」
うるさい俺は何も聞こえないぞ。むっつりと口を結んで耳を塞ぐ彼の、内心の声が聞こえてくる。そのままくるりと後ろを向いたと思うと、彼の背は少しずつ薄れていった。
私は慌てた。
「コラ、待チナサイ。逃ゲルノデスカ」
知らん、という音なき声が聞こえたと思うと、彼の姿は完全に消えた。
私は機体をめぐらして彼の姿をさがした。いない。私は彼を追って、慌ただしくその場を後にした。私の背後でトレーニングルームは明度を落とし、跡形もなくなった。
彼をさがして、ゆめを泳ぐ。
それは途方もない作業のように思えた。この空間はあまりにも広すぎ、私はあまりにも小さすぎた。
私は無限世界を浮遊する、一匹の蜂であった。彼が両の手をさしだして私を包めば、すっかりおさまってしまうだろう。
セイヴァールアベニューを抜け、集いの公園をぐるりとまわり、ヴェルディアの大樹のてっぺんに葉を散らして飛び出、引っこんだ。
建物の螺旋階段を上から下にめまぐるしく降りていると、視界に何かが入った。
絵だ。階段に沿ってはりめぐらされている丸い壁面に、風景写真が飾られている。
どの写真も同じ景色がうつされていた。連続写真のようだった。
私は興味をひかれ、適当な一枚に近づいてみた。そのまま、波紋をひろげて絵に進入する。
絵のなかは、懐かしい場所だった。
天に突き刺さる幾本もの鉄塔。地面にはりめぐらされたコード。灰色の倉庫、倉庫、倉庫。機能停止した同胞たち。
錆びた空。
そこは私の故郷であった。もう何年も訪れていない、起源の地だ。
「ここが……ロレイラルか!」
声がして振り向いた。
「彼」が立っていた。
「一目でいいから、見てみたいと思っていたんだよ。そうか……これがお前の故郷なんだな」
空を見あげながら、興奮したように頬を染めている。
「俺は……界を渡れたんだな」
ふりかえった彼の、感極まった表情をみて、私は痛みを感じた。
―――馬鹿な青年。ここはロレイラルではない。
ちっぽけな機械兵器の記憶が投影されただけの、まがい物の世界だ。
だのに貴方は、ゲートをくぐったような気分になって。子供のように喜んだりして。
私の痛みをよそに、彼は笑みを浮かべ、灰色の空を味わうようにまぶたを閉じた。
「嬉しいよ。もう、死んだっていいくらい」
「馬鹿ナコトヲ言ワナイデクダサイ」
機械音声で怒鳴った。彼は笑い声をたてる。
「へへ、冗談だよ」
「クダラナイ冗談デス。殴ラレタイノデスカ」
「そいつは勘弁。お前に殴られたら本当に死んじまうだろ。つうかお前、自分の馬鹿力を分かっているのかよ」
「馬鹿ハ貴方デス。一遍死ンダ方ガイイカモシレマセンネ」
「ひどい相棒だな」
肩をすくめる彼に溜息をついた私は、その姿に違和感を感じて機体をかしげた。彼の衣服の、右手の部分が、不自然に風に揺らめいている。
「右手……ドウシタノデスカ」
「ん? ああ。よく分からないが、なくなった」
「!」
ほれ、と彼は右手を持ちあげた。服の裾が肘から垂れ下がっている。本当に、右腕がなかった。
私は視覚センサーが飛びでるほど驚いた。
「何ガアッタノデスカ!!」
「いや、俺にもわからん。どこかに落としてきた」
「馬鹿ナ……傷跡ヲ見セナサイ」
「いいよ」
右腕を、さっと背中にかくす。
「何ヲ言ッテイルノデスカ。見セナサイ」
「いいって。ここは現実の世界じゃあないんだし、そのうち戻るよ」
「ツベコベ言ワズ」
言って差しだした私のアームは、かつり、と音をたてて何かにはばまれた。
アームの位置をうごかす。そのたび、「何か」が硬質な音をたてて私の行方を邪魔し、彼まで届かない。
それは壁だった。ガラスのように透明な壁が、彼と私との間にはりめぐらされ、ふたりを隔てていた。
「あれ。何だろうな、これ」
彼も、不思議そうに左手を壁にあてて、つぶやいている。
「下ガッテイテクダサイ」
私はアームを変形させ、粉砕モードにチェンジした。浮遊したまま後ずさり、勢いをつけて、渾身の力で拳を壁にぶつける。
壁に亀裂がはしった。ひびガラスに、驚いたような彼の顔が一瞬だけ映って、ふいに消えた。
彼の姿はふたたび見えなくなった。
私は機体を左右に揺らして彼の姿をさがし、大急ぎで、故郷の絵から脱出した。
私は、いつしか、夜の森を浮遊していた。
嫌なことがあった場所だ。それも、つい最近。
私は「不快」信号を全身から発しながら、くらげのように、木々の合間をあてどなく彷徨っていた。
そうしているうちに、おかしなものを見つけてしまった。
空間に、黒い傷が浮いているのだ。一刀、切りひらかれたような形の黒い入り口だ。
ちょい、と覗き、表情というものがない機械の私でも、顔をしかめたくなった。中はタールのように真っ黒な闇が広がっていた。森のなかより暗い。
とても嫌な気分がした。ろくでもないものを見つけてしまった、と思った。
こんなものは無視しよう、と決意し、立ち去ろうとした。
しかし背を向けた瞬間、声の気配がしたような気がして、立ち止まる。
耳を澄ませた。たしかに、声が聞こえる。傷口のなかからだ。
私は汚い場所に入るかのように慎重に、壁をおおう粘着質な泥に触れぬよう、中に進入していった。
中は案外、広かった。洞窟のように、がらんどうだった。
それにしても、妙な臭いがセンサーを刺激する。私はその臭いの発生源に、すぐに気づいた。あたりには、黒く薄い霧のようなものが漂っている。この、通常の「悪臭」とはまた違う妙な臭いは、その霧が発するものに違いなかった。
嫌悪感は穴の中にはいってさらに増し、私の警報システムも前進を制止する命令を必死に発していた。
だが、人の声がする限りは、私は行かねばならない。彼を見つけるため、どんな小さな手がかりも見逃すつもりはなかった。
とりあえず、私はライトをつけて辺りを確認しようとした。
しかし、一体どうしてしまったのだろう、ライトはつかなかった。もう一度、点灯させようと試みた。ライトはカメラのフラッシュのように一瞬闇を照らし、頼りない音を立てて消えた。
私は躊躇した末、そろりと闇に身をすすめることにした。
しばらく進んだころだ。
(……?)
ぶん、という音が、機体をかすめた。
虫のようであった。私はすぐさま、データベースの分析を開始した。その最中にも、ぶぅん、という耳障りな音が、私の機体のすぐ脇を飛んでくる。音はひとつだけではなく、複数あった。円をえがき、交差して、私を不快にさせる。
データベース検索結果は、しかし、「未確認生物」の回答を弾きだした。虫のようで虫ではない黒い何かが、群れなして飛んでいるようだった。
私は耳障りな羽音のなかを、浮遊しながら進んでいった。闇の奥に進むにしたがい、霧は濃くなり、虫は際限なく増えていく。
虫柱のむこう、人影があった。
何かを胸にかき抱き、うつむき床に座りこむその姿。
「彼」だった。
私は速度をはやめ、虫をかきわけ近寄る。
ガツン、と壁にあたった。ここにもやはり、透明な壁が張りめぐらされているようだった。
ただ、見あげると、ここの壁には一刀、わずかな亀裂がはしっている。そこから霧状の黒いなにかが、こちらの空間にも漏れているようだった。
「ごめんなあ……」
亀裂を通して、声が聞こえた。
あわてて彼を見やる。腕のなかの何かにつぶやく姿があった。その表情は見えない。
ふたたび壁の裂け目から、声がとどいた。
「俺をゆるしてくれ……これからはお前と一緒にいるから……元のお前にもどってくれ……たのむから……」
言って傾けた顔のしたから、腕のなかの物体が見えた。彼が頬をすりよせる、その黒い物体の正体が。
それは、泥人形であった。
「ある者」のかたちをしていた。
私は驚愕して飛びあがる。
「イケマセン」
彼が顔をあげ、私のほうを向いた。疲れきりやつれた、ひどい顔をしていた。
「スグニ、ソレヲ捨テテクダサイ。ソレハ敵デス。貴方ノ敵ナノデスヨ」
「一体、何、を、言っている。これは俺の……だぞ。お前にも、紹介……しただろ」
ぼんやりとした視線に不安を感じ、私はなおも叫んだ。
「アナタハ自分ガ何ヲ抱イテイルノカ分カッテイルノデスカ。ソノ泥ハ、アナタニ害ナスモノダ」
「この子は泥なんかじゃない。俺は……こいつのことを愛しているんだよ……」
彼の弁明のような言葉が闇に響く。腕の中の黒いものは身じろぎをした。
耳元では、ひっきりなしに不快な羽音がうずまいている。
ソノ存在ガ、と私は悲鳴をあげた。
ソノ存在ガ、貴方ノ未来ヲ奪ッタ。ソノ存在ガ、私カラ貴方ヲ奪ッタ。私タチノ不幸ト悲シミノ元凶ガ、ソイツナノダゾ。
彼には、陽光のもとで笑う、輝かしい未来が待っているはずだった。
強がりで調子の良い彼が―――本当は弱く、寂しがり屋な彼が、真実強く美しくなって花ひらく季節をむかえるはずだった。
私はそれを隣で、誰よりも近くで、見守るはずだったのだ。人生の夏をむかえるひまわりの喜びを、分かちあうはずだったのだ。
それを、よくも。
私は目を赤く光らせ、機械兵器として、「それ」を凝視した。体表温度を急激に上昇させ、放電の火花を、機体の表面にかよわせはじめる。
彼が私の様子に気づき、泥人形を抱きしめなおした。
「待ってくれ。俺はこいつのことを」
その音声はみだれていた。彼の腕のなかで、泥人形が喜ぶ。
頭脳回路に、ばちりと火花が散った。機体全体に、深紅の信号が血液のようにめぐっていく。
私は機械の身でありながら「憎しみ」という感情を完全に理解し、冷たい熱を回路の隅々まで通わせることに成功した。
そして私は同時に、自身の使命を了解した。
私はこの「憎しみ」という感情において、人間である彼に一歩先んじた。
私は彼の教師となって、彼に教えてあげなければならない。この黒いものへの「殺意」と「憎悪」を。
彼が誤った道に進まぬように。
言葉で教えて聞かぬのであれば、力ずくでも―――。
彼の腕のなかの泥人形が、私の憎悪を見透かしたように笑い、彼の柔らかい髪に手を伸ばそうとした。
私は、新しく習得したばかりの感情をありったけこめて、彼の名を絶叫した。
「えるすと」
「エルスト」
俺の唇が、勝手にうごいた。喉から声が発せられる。
俺は驚き、立ち止まった。―――これは俺の、俺自身の名前じゃあないか。
なぜ、俺は自分の名前を呼んだのだろう。
思考の糸がほつれて、うまく考えがまとまらない。
俺は無表情で首をかしげていたが、ふと、右手を見た。
何かの余韻が残っている。さきほどまで、腕の中に抱えていたものがあったような気がするが、どうにも思い出せなかった。
そのまましばし手のひらをみおろしていたが、かぶりを振って、俺は歩みを再開した。全身には、ひどい虚脱感がただよっていた。
俺は相変わらず、森のなかを歩いていた。いろいろなことを思い、考えながら。
変わらない景色に心がくじけそうだったが、それでも惰性で足を前にすすめていた。ほかに進むべき道はない。そんな意識に支配されていた。
堂々巡りだろうが無意味だろうが、とにかく休む訳にはいかない。歩むのは義務だ。俺は何としても歩みつづけ、あいつを探しだし、救いださなければならない。あいつは今でも、俺のことを信じてくれているのだから。
背を丸めてうつむいて歩いていた俺は、ふと、木々に隠された暗い空をみあげて、つぶやいた。
―――あいつ、って誰だっけ……。
首をかしげて考えていると、夜の森にふたたび、追想の扉がひらいた。
(こちらにはいなかったぞ)
男が駆け寄ってくる。回想のなかで俺は、そうか、とがっかりした。
俺は、消えた少年の、捜索隊のリーダーになっていた。
―――子供が森で迷子になった。捜すのを手伝ってくれ。
そう村人に呼びかけるとき、俺の心のなかには、一瞬のためらいがあった。
しかし、村人たちはというと、そんな俺のためらいはほとんど気にもしなかったようだ。
自然に。ごく自然に。
森の屋敷の子の呼びかけに、村人たちはこたえた。
(もう3日目だ。そろそろ他の街からも応援を呼ばないといけないかもしれないな)
ああ、そうだな。俺はうなずく。
男は、俺に真っ直ぐ向きなおり、言った。
(ところで、あんたの弟さんの方は本当に大丈夫なのか)
心配いらない、と答えた。弟は少し怪我をして親元で治療をうけているけれど、たいしたことないんだ。俺の口は、すらすらと嘘をついた。
それならいいんだが、と男は言った。
(それにしても、あんたとこうして話す日がくるとはなあ。むかしから、森の屋敷に自分と同じくらいの年の子供がいるのは知っていたが、どうにも近寄りがたくてな。あんたのことは外でよく見かけたけれど、あんた、俺たちのことは見えていないみたいだったから)
―――逆だろう。
俺は、出かかった言葉を飲みこんだ。男は照れくさそうに笑う。
(でも、ずっと気にはなっていたんだよ。あんた、いつもひとりで、悲しそうな顔をして歩いていたからさ。召喚師になったんだな。すごいなあ、村のほこりだ。……の奴が見つかったら、一杯飲もうぜ。じゃあ、俺はもう一度、森のなかを見てくるよ。またな)
呆然とする俺の目の前で、追想の扉が音もなく閉じた。
俺の足はすっかり重くなっていた。
一歩を踏みだすのにも苦労した。いったい何のために進んでいるのか分からない。使命感だけで歩いているが、その使命が何なのかが今や漠然としていた。
俺はどこに向かっているのだろうか。光かがやく街、新しい理をつむぐ都か?
どこからか、うらみがましい子供の声が聞こえてくる。
(オレを置いて屋敷を出て、遠い街の召喚師なんかになって……)
耳にまとわりつく響きだった。
俺は歯がみした。ギリギリと、目元に険がこもる。
―――お前、俺を責めているのかよ。
俺にあのとき、お前を連れていくという選択肢があったと思うか。俺はまだ何者でもないガキで、お前はさらに幼かった。子供ふたりで家出なんかして、野垂れ死にするのがオチだろう。しかも、お前には、家を出る理由なんてなかった。友達もいた。お前は、親父やおふくろとも会話できていたじゃないか。俺がお前を連れていく理由なんてあのときにはただのひとつも……俺は……俺は親父たちがまさか……冥土なんてものに手をだすとは思ってなかったんだ……。大体、お前は俺に一言でも連れていってほしいと頼んだかよ。
俺は、ふいに、足を止めた。
背後をふりかえる。
「俺が、戻ればよかったのか?」
来た道を凝視しながら、俺は自問する。戻れば良かったのか?
目の前には、果ての見えない一本道が真っ直ぐにのびている。どうする。今からでも戻るか。
だが、戻ってどうする。俺は見ひらいた目で、背後の闇を見つめた。
手遅れだ。屋敷にはもう誰もいない。あの冷たい瞳をしていた父も、ついぞ俺に笑いかけてくれなかった母も、もうどこにもいないのだ。俺が捨てた屋敷のなかで、すっかり崩れて消えてしまった。もう二度と会えない。
歯の根の合わぬほどに、体が震えだした。真実を知った今、あの誰もいないがらんどうの屋敷に入る勇気はなかった。
「俺は、どうすれば良かったんだよお」
己の肩をだき、闇に叫ぶ。俺はもはや、進むことも戻ることもできず、一歩も動けなくなっていた。
答えるものはなく、声は木々の幹に吸いこまれていく。
「限界だったんだよ。壊れそうだったんだよ。どうしていつもこんな……」
すすり泣くように懇願した。
「誰かこたえてくれよ。誰か……俺の声に……」
俺は湖のほとりに立っていた。
視線のさきでアメンボが、濁った水のおもてに波紋をひろげて奇怪に動いている。
俺は、熱もなくその様を見下ろしながら、つぶやいた。
「信じ、信じられることが力になる……」
風が吹き、湖面にさざなみが立つ。俺の原初の澱みが、水底で、もやのようにうごめいている。
生き物のようなその動きを瞳にうつしながら、俺は気づかぬうちに、自嘲の笑みを浮かべていた。
「俺は結局、ずっとこの場所から動いていなかったのかもしれないな。こうしてずっとひとりで……立ちつくして……」
ふたたび表情を吹き消す。
靴底が、やわらかな腐葉土にじわりと沈むのを感じる。濃厚な森の香気が胸に腹にはいりこみ、俺を苛む。
森のざわめきが、俺自身の声を借りて、語りかけてきた。
―――お前はひとりだ。お前は裏切られた。見捨てられた。孤独だ。
すべて抜けおちたような顔で水面を見つめていた俺は、澱から吹く風の冷たさに耐えかね、眉根をよせてささやいた。
「誰か、俺をたすけてくれ。俺をひとりにしないでくれよ―――頼む―――ガウディ」
宙に、波紋がひろがった。
幾重にも折りかさなる。
不揃いの青い円が無数、無法則にきらめいて形をなしていき、水色にかがやく細い光の線が、その輪郭をふちどる。
「ヤット喚ンデクレタ」
目の前にいた。
青い蛍光をはなつ、この世で一番美しいと思うフォルムが、夜を背にして浮遊していた。
キュイ、と音をたてて、人差し指で眼鏡を押しあげ、おどけたように肩をすくめる。
「マッタク。シンドクナッタラ、スグニ喚ンデクダサイ、ト普段カラアレホド言ッテイルノニ。イツモノコトナガラ、本当ニ困ッタ人デスネ。強ガリナノダカラ」
「……!」
俺は、ぶつかるように、機械の体を抱きしめた。声にならない呻きをあげた。彼の鋼鉄の腕が、背にまわされるのを感じた。力強く。しかし俺を傷つけないように優しく。
聞き慣れた機械音声のささやきが、鼓膜をくすぐる。
「透明ナ壁ノ向コウカラ、貴方ヲ見テイマシタ。ズット、ネ」
身を起こして、友の顔を見つめた。
「本当か。ずっとか」
「エエ、ズット」
頬に、手が添えられる。
「アノ日約束シタデショウ。私ハズット、貴方ノ側ニイマス、ト。ダカラ私ハ、イツダッテ貴方ノ側ニイマス。コレマデモ。コレカラモ」
安心しきって、体から力が抜けた。
友の機体が音もなくほどけ、鎧となって俺の体を包む。頭からつま先までを抱きしめられる。
あまりの心地よさに俺はため息をつき、鋼鉄の友に背をすっかりと預けた。
背中から羊水に、ゆっくりと沈んでいくような錯覚をおぼえた。俺は海にもどった水棲動物のように、安息の極みにいたった。はるか頭上にゆらめく水面を見あげながら、恍惚の表情をうかべる。
(気持ちいいなあ。お前と重なりあっていると)
自分の心臓の鼓動にあわせて、規則的な水色信号が、友の機体にわたっているのを感じる。
(でも、まだ足りない。心のなかの腐った部分ががらんどうになってむなしい。悲しみの水が入りこんで、真っ黒に染められていきそうなんだ)
信号が、水色から紫に変化する。
(ああ、もっとお前が近ければいいのに。俺がお前で、お前が俺だったら良いのに。今の俺は俺だけしか信じられないけれど、お前が俺であれば俺はお前を信じられる)
信号が赤色に変わった。背後から、『肯定』、という声を聞いた。
じわり、と背が濡れた。
機械回路が液体に接触し、ショートするのを感じた。2度、3度、目のまえが白く光った。
接触面の被覆が融解し、内容物が流入する。あるいは流出する。視界が根こそぎ揺れるような眩暈を感じた。
ふたつの魂を分かつ透明な境界は今や薄い細胞膜となり、両者を素通しにしていた。血と肉と精神が互いの体に行き来し、器の隅々までを満たしていく。混在し、膨張する。空白は塗り替えられ、欠落は埋められていく。結合した精神の果実が自重によってたわみ、零れ落ちた欠片が無意識の底へと沈殿して精神の根本に張りめぐらされる魂の根をかすめ、火花を散らした。その痛みにも似た快楽の、病的なまでにまばゆい光は、水泡となって天へとのぼっていく。
吐息が熱くなっていく。
憎悪と悲哀が互いに互いを打ち消しあい、静寂と幸福感の明るみのなかで、静謐な気分にも、ひどく淫らな気分にもなっていく。
世界のどこかで、割れかけた石が馴染み、ふたたびひとつになったのを感じた。
青い草むらに、風が渡った。
俺たちはひとつになって、いつか訪れた丘に立っていた。
空を見上げる。凄まじい夕焼けだった。鮮やかすぎる総天然色のパノラマが、天の全方位にはりめぐらされている。機械でしか認識できない色彩と、人でしか認識できない色彩が混じり合い、圧倒される美しさをもって空を飾っていた。
俺たちの鋼鉄の両足は、瑠璃色の大地をしっかりと踏みしめている。五感はさえざえとし、力がみなぎっていた。鋭い爪にまもられた両手を空にかかげ、俺たちは咆吼する。
(あああああ)
伸べた両手の合間、赤い空の向こう側から、白い月がのぼっていく。完全な真円の月だ。
白道に在り、光輪をともなって中天にのぼらんとする円を追い、俺たちは顔を仰向かせた。
腐りゆく果実の、甘い芳香が鼻をかすめる。いつか聞いた退廃的な旋律が耳をなでる。
俺たちは、目のくらむ万能感に溶かされ笑みを浮かべた。燃える天球そのままに、全身が熱い。
(ここにはすべてがある。望んでいたすべてがある、まさに、ここに)
月が天頂に至った。俺たちは手をのべたまま頭上をみあげ、降りそそぐ月影を燦々とあびた。
滴が、頬に落ちた。一粒。
はっとした。今のは、何だろう。
不思議に思っていると、また一粒、滴が落ちてきた。
天上の白月から、この熱い大地に。
「雨かな」
思わず、声にだして呟いた。
「雲ひとつないのに。不思議なものだな、―――」
ひらいた唇の動きがとまる。
呼ぶべき名が、喉から出てこない。誰の名を呼べばいいのか、分からなかった。
顔をめぐらせ、丘のうえを見渡した。自らの長い影がひとつ、青い草むらにのびていた。
風が、ただ、渡っていた。
***
青い闇に包まれていた。
冷えた空気のなか、俺たちは草の上に横たわっていた。
天には丸く白い月。満ちた円の外側はがらんどうの暗闇で、ひたすらにむなしかった。
森は息をひそめたように静かだ。鳥の羽ばたきも聞こえない。
無機物のように体を包む鎧のなかで、声もなく、俺たちは泣いていた。
夜の森のなか。たったひとりで。