Cowardly love
夕暮れの部室。ひらりとカーテンが舞うのを視界の片隅で眺めていた。目の前にはリバーシの盤。最近のアズールのお気に入りだ。単純なルールでいて、戦略は奥が深い。アズールが長考を始めてしまったために手持無沙汰になったイデアが、ふと窓の外に視線を投げた。クリーム色のカーテンが揺れる度、外の夕陽がちらちらと差し込む。外から入って来る掛け声はきっと、マジカルシフト部のそれだ。この、たった二人しかアクティブな部員のいないボードゲーム部とは正に真逆。夕方の時間帯とは言え日差しが暑かろう。ご苦労なことだと少し笑って、正面に座すアズールに目を戻した。
長考していたはずの彼がいつの間にか顔を上げている。ブルーグレーの瞳がじっとイデアを見詰めていて、少し驚いた。
「どったの。もう打ったでござるか?」
ちらりと盤を見るけれど、先刻から石が動かされた様子はない。右手を顎に当てたポーズのまま固まったように動かずにいる後輩に眉を寄せた。入り込む夕陽がちかちかと彼の銀色の髪を照らす。
「アズール氏?」
首を傾げて顔を覗き込んだ。レンズの向こうでぱちぱちと長い睫毛が瞬き、ふむとひとつ鼻を鳴らして視線を盤に落とす。オレンジの光が頬を照らして、少し紅潮しているように見えた。ついと伸ばされた指先が黒の駒を置く。そこに置いてしまったら三手先で確実に仕留められてしまうのに。そう思うけれど、顔にも口にも出さずに無難な場所に白い駒を置いた。
再び長考に入るかと思われたが、イデアの石を確認した顔が持ち上がる。
「イデアさん」
「な、なに……」
あんまりにも真っ直ぐに見詰められて、気まずくなった。いくら他の人よりも気安く話せるようになったとは言え、正面切って見据えて来る視線は少し怖い。増して、アズールのように顔が整っている相手は表情がないと何を考えているのかが予想がつかなくて恐ろしかった。
「僕、イデアさんのことが好きです」
「はえ?」
その顔は、照れるでも笑うでもなく、ただただ真顔。そんなであるから、発言の意味と状況が丸で理解できなくて、思わず中途半端な声が出てしまった。けれどそんなイデアを意にも介さずにアズールが淡々と続ける。
「そこでご相談なのですが、一ヵ月僕とお付き合いしてみませんか。お試し期間というやつです」
「お、お付き合いにお試し期間なんてあるの? そんなサブスクみたいな……」
恐らく、突っ込むべきはそこではないことは分かっているのだけれど、思わず口を挟みたくなってしまった。イデアの発言に漸く少し口の端を持ち上げたアズールが得意げに笑う。
「一ヵ月後、恋人になれそうなら恋人に、無理なら単なる先輩と後輩に戻るんです」
恋人。そのワードに眉を寄せた。本気なのだろうか。自慢ではないけれど、イデアは今まで恋人と言うものが在ったことがない。通常の恋人同士がどのように恋人となるのか、アニメや漫画でしか知らないけれど、少なくともお試し期間と言うものは存在しないような気がする。知らないけれど。
「それって……僕に何かメリットある?」
「大ありですよ。恋人なしイコール年齢に終止符が打てます」
思い切りドヤ顔でそう言い放たれて、イデアは思わず声を上げて笑った。それは果たしてメリットと言うのだろうか。とは言え、この機を逃したとして、この先終止符を打つチャンスがあるのかどうかと聞かれると丸で自信はない。
「恋人としての要求は何かあるの?」
「いいえ。ただ、今よりもう少しだけ僕との時間を増やしてくださるだけで結構です」
「ふうん……まあ、それなら別にいいけど」
メリットもなければデメリットもないかという打算的な考えの元、ひとまずは後輩の申し出を受けてやることにした。普段オルトのメンテナンスやら実験の手伝いやらでお世話になっているし、ここらで恩を返しておくのもいいだろう。
「そうですか! では今日から。よろしくお願いしますね、イデアさん」
そう言って笑った顔は、腹に一物抱えているようないつものそれではなくて、年齢相応の無邪気な笑顔だったものだから。ああ、うん。なんて言う生返事をするのが精一杯だった。
■□■
アズールは非常に忙しい。知ってはいたけれど、いざそのスケジュールを目の当たりにすると、よく生きているなと思うくらいだ。朝も早くからラウンジの仕込み、依頼があれば依頼をこなし、授業を受ける。昼休みもあれこれと忙しくしているし、放課後部活がなければ依頼の対応にラウンジの仕事、委員の仕事に寮長の仕事と盛りだくさんだ。
それらを全て終え、漸く自由になるのは夜十時頃。ちらと時計を見上げて、イデアは自室のロックを解除した。十時十五分。トトン、と変わったリズムでドアが叩かれる。
「どーぞ」
「お邪魔します……」
自動開閉の扉がアズールを招き入れた。げっそりとしている彼に苦笑する。今日はひどくお疲れのようだ。いくつかの案件が重なったとか、店でトラブルがあったとか、その辺りだろう。
「今日も疲れてますなあ」
「疲れてます」
パソコンに向かったまま軽口を叩くように言うと、寮服の上着をハンガーにかけ、ワイシャツのカフスボタンを外しながらイデアの後ろに立った。腰を屈めてゲーミングチェアとイデアの背中の隙間に左腕を差し込み、右腕は首元を通過して左肩で組まれる。イデアの右肩に額を寄せて、猫のようにぐりぐりと押し付けて来た。ふふと小さく笑って左手で頭を撫でてやると、そのまま深呼吸をする。
「くんくんしないで、拙者クサくない?」
「イデアさんの匂いがします」
それってどんな匂いだろうと不安になるけれど、不快そうなリアクションではないから、きっと汗臭いとかではないのだろう。中腰の姿勢が辛そうだ。ふわりと香ったのは飲食物の匂い。という事は、今日はラウンジだったのか。ならばずっと立ち仕事で疲れただろうとイスを少し後ろにずらして机との隙間を広げる。イスを動かしたことで一緒に後ろに下がったアズールが顔を上げた。
「よけっ、よければ膝、とかっ、」
思ったよりも顔が近くて思わず声が上擦る。両手を少し広げた姿勢でそう言うと、一瞬逡巡したアズールがそろりと太腿に乗り上げた。横抱きのような恰好でイデアにしがみつく。
「今日も頑張ったね、おつかれさま」
これは。決してイデアが考えたセリフではない。悲しいかな、こんな気の利いた言葉が出るような男ではない。お試し期間が開始されて三日が過ぎた頃、アズールが強請ったセリフだ。疲れた顔をしていたら、そう言って欲しい、と頼まれた。欲しい言葉を察してやれないのは少し情けないとも思うけれど、口下手な自分が何かを言って失敗するよりも、最初から彼の望む言葉を告げてあげた方が絶対いいはずだ。
だからせめて、気持ちだけでもちゃんと込めて、イデアの右の肩に顔を埋めたアズールの耳元に優しく囁く。
「……はい。イデアさん」
銀色のふわふわした髪に頬を寄せ、ゆるゆると頭の形をなぞるように左の手で頭を撫でてやれば、小さく鼻をすする音がした。相当に疲れているんだなあと何だか可哀想になって、アズールの気が済むまでずっとそうしてやっていた。
恋人としてと言う割に、アズールは案外きちんと距離を保ってくれている。イデアが必要以上に人に踏み込まれ過ぎるのが苦手だという事を十分に理解していたから、毎日部屋に来るようなことはしない。多くても二日に一度。それも、日付が変わる前に帰る。
部屋の物に触れようとはしないし、互いに会話もなく、ただ同じ部屋で一緒の時間を過ごすだけの日もあった。時々、イデアのプレイしているゲームの成果を報告したり、アズールの読んでいる論文の解説をしたり、心地いい時間だった。
「大丈夫? 今日はもうこのまま寝たら?」
その日、少し厄介な依頼を引き受けてしまったとげっそりした顔のアズールが部屋に来たのは、既に十時半を過ぎた頃。流石に抱擁といつもの言葉だけでは復活せず、暫くシャツでベッドに横になったままうつらうつらしていた。無理に起こしてオクタヴィネル寮まで帰すのも憚られるくらいに疲労が蓄積している。イデアの声も聞いているのかいないのかわからないくらいだ。仕方ない。ゲーミングチェアから立ち上がり、クローゼットから予備のルームウェアを取り出す。
「ちょっとごめんね。シャツ、皴になっちゃうから。起きられる?」
「………………はい」
たっぷりとした沈黙の後に、漸く消え入りそうな声がした。アズールの隣に腰かけて、腕を引きながら背中に手を回してゆっくりと起き上がらせる。力が抜けてしまっている彼を抱き留めるようにしながら、シャツのボタンを外して行った。
「ふふ、力が抜けててタコみたいですな」
「はい……ぼくはたこなので……」
寝言のようなそれに小さく笑う。いつもの凛とした声とは違う、明瞭でない、少し幼い言い方に頬が緩んだ。ボタンを外し終えて、シャツを脱がせる。一瞬迷ってから、インナーに手を掛けた。きっと汗をかいただろうし、このままでは気持ちが悪いだろうと言う配慮だったのだけれど。
「それは……だめです」
きゅっと結んだ唇と、僅かに朱が差した頬。夢と現の瞳が困ったようにイデアを見上げた。ドン、と胸を叩かれたような。一瞬の強い衝撃に瞠目する。
「あー……ごめんね。じゃあ、これだけ着よう」
誤魔化すようにそう言ってインナーをかぶせた。頭を出して、腕を出して。スラックスも皴になってしまうなと悩んでいると、アズールが倒れるように横になる。
「はきかえるので、イデアさんシャワーとかどうぞ……」
最早ろれつが大分怪しいけれど、ここにいてはいつまで経っても着替えができないだろうと判断してシャワールームに向かった。きっと、部屋に戻ったらイデアのルームウェアに身を包んで眠っているだろう。そしたら自分はどこで寝ようかな。先刻の胸に覚えた衝撃を頭から追い出すように、わざと色んな事を考える。シャワーの温度は、いつもよりも少し低かった。
翌朝。目が覚めて真っ先に目に入ったのは心底申し訳なさそうな、後悔していそうなアズールの顔だった。こんな顔もできたのかと寝起きの頭で考える。
「本当に申し訳ありません……いくら疲れていたからと言って世話をさせてしまった挙句、イデアさんを床で寝かせるとは……」
「大丈夫だ問題ない。拙者しょっ中ゲームしながら寝落ちて床で寝てますし」
「それはそれで辞めた方がいいですけど」
呆れたようにそう言って、一瞬黙った。ふあと大きく欠伸をしてからアズールに目を戻す。少し怒ったような表情を浮かべているアズールに何事かと様子を見守っていると、床に正座した太腿の上で握られていた両手に更にぎゅっと力が篭った。
「次、お泊りするときは一緒に寝ましょう」
怒っているのではなくて、緊張しているのか。薄っすらと入り込む朝日が少し赤らんだアズールの顔を照らしている。固く握られた両手の決意に、イデアは「うん、そうだね」と頷いた。
お泊りが解禁されてから、深夜まで映画を観たり、魔法式の意見交換をしたり、オルトを入れて朝までゲームをしたり、以前よりも遊びの幅が広がったように思う。イデアはこの年齢まで親しい友人を作ったことがなかったから、漫画で見かけるパジャマパーティーや、アニメで見かける映画鑑賞などと言う「リア充のような遊び」が心底楽しかった。
けれど。カレンダーを見詰めながら考える。あと一週間ほどで、約束の一ヵ月になる。ここまでアズールと過ごした日々はとても充実していたけれど、果たしてこれが恋人なのかと言われると、正直分からない。友達だってお泊り会はするし、一緒に映画も観るだろう。相手が落ち込んでいればハグして慰めるし、疲れていれば労うはずだ。
アズールは蛸の人魚だから、狭くて暗い所が落ち着くのだと言っていた。そのせいで、イデアのオーバーサイズなパーカーに入り込むこともあったし、一緒にシーツに潜ることも厭わなかった。そう。友達か恋人かではなく、彼が落ち着くのだからそうしていた。それだけのこと。
何よりも。恋人は終わりがあるのではないか。それなら、終わりのない友人でいた方がより一緒にいられるんじゃないのか。
アズールの来ない部屋でひとりになるのは久し振りだ。残りの一週間を指でなぞって、大きく息を吸い込む。自分の部屋のはずなのに、少しだけアズールの香りがした気がした。