893パロ
胸倉を掴んで引き上げられた男はもう、文字通り虫の息で、原型も分からない位に顔の形を変えてひたすらに許しを乞うている。足元に倒れている彼の仲間らはもうピクリともしていなかった。中央に立つ背中に、思わず息を飲む。
護ってもらったはずなのに、鬼気迫るその圧力が恐ろしい。無意識にずりずりと後退って、廃工場の汚れた壁に背中がぶつかった。殴られた顔の痛みはもう、忘れてしまった。じんじんと熱だけが先刻の暴力を忘れまいと主張している。そう言えば腹も痛かった。鉄パイプで払われた脛は無事だろうか。
もし、あのまま彼が来てくれていなかったら、あんな風になっていたのは自分だったかも知れないと思うと背筋に冷たいものが走る。
無言でいたイデアが、ふと右手に携えた男を見下ろした。その眼の何と冷たいことか。何も映していない瞳は手にしたものを人とすらも思わず、ただ眺めている。やがておもむろに、頭上高くまで持ち上げた。大の大人を持ち上げられるなんて、なんて馬鹿力だ。いや、そんな場合ではない。このままでは。
「いっ、イデアさん、もう、やめてください!」
ピクリと反応した眼がギロリとこちらを睨む。温度のないプリムローズイエローが僕を捉え、暫し何かを逡巡したあと、ああ、と掠れた声が零れた。これ以上やっては死んでしまう。そうなれば幾らイデアさんでも逮捕は避けられない。暴力沙汰ならまだしも、殺人となればその分少年院生活も長引いてしまう。それだけは避けたかった。
興味を失ったように男をその場に投げ捨てる。まるで人形だ。落とされた男が呻き声を上げ、その声に生きていることを知って安心する。これで万が一の事があっても、多少はマシだろう。座り込んで前に両手を着いた姿勢で項垂れた。
「ねえ」
いつの間にか僕の所へ歩み寄っていたイデアさんの声がして、顔を上げようとしたが僕の動きよりも早く彼の大きな掌が力いっぱい(彼にとったら何割かの力かもしれない)僕の頬を掴んで、ぎりぎりと持ち上げられる。あまりの力に頬骨がみしりと軋んだ。
「どういうこと? 僕よりもあの男の方が大事なの? ねえアズール」
「な、に……」
頭痛がする。力を弛めてもらわないと、話すこともままならない。けれどそんな事にも気付かないくらいに静かに激昂しているらしいイデアさんは瞬きもしないで僕を見詰めていた。
「あいつが死のうがどうしようが関係なくない? それとも何かあいつと関係あったの? てっきりキミがハメられてここでボコられてると思ったから助けに来たんだけど。違った? もしかして合意で輪姦してたとか? スワッピングが好きなの? ねえそれって僕とのセックスよりも? 痛いのが好きならいくらでもしてあげる。何なら今からでも慣らさないでぶち込んだら痛いんじゃない? ねえ、そうしてあげようか」
「ち、がう、」
「じゃああいつが死んでもキミには関係ないよね?」
「だ、て、あなたが、」
痛みに滲む涙が悔しくて、それでもここで踏ん張らなければ何をされるか分かったものではない。一度キレると何をしでかすかわからない男だと思っていたけれど、それは僕には向けられないのだと、どこかで慢心していた。そんなはずはないのに。失敗したと心の中で繰り返しながら、どうにか口を動かす。
「つかま、てほしくな、から」
「……なに?」
ふと、力が緩まる。弾みで崩れ落ちた身体をどうにか励ましながらイデアさんを見上げた。
「あいつが死んだら刑期が長引くでしょう。あんなののために下らない。早く撤収しましょう」
「……アズール、あいつは知り合い?」
「なはずないですよ。この前ちょっとやり合った小物が雇ったチンピラです。貴方の言う通り、ハメられてボコされたんです!」
何故そんな事を自己申告せねばならないのか。あまりの悔しさに舌打ちをして立ち上がろうとするけれど、思ったより足の傷がひどいらしく上手く行かなかった。よろけた僕をイデアさんが慌てて支える。
「そ、そうだよね、何言ってんだろ僕。アズール氏に限って拙者を裏切るなんて有り得ないのにね」
そうして、うっそりと笑った笑みが丸で、死神か何かのようだと。抱き上げられて包み込んでくれた体温よりも全身を走った寒気に小さく身震いをした。
ああ、とんでもない男に惚れてしまったものだ。