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    ピアノ 殆ど毎日、放課後の音楽室は吹奏楽部が使用している。毎週木曜日のみ軽音部が小一時間ほど間借りしているようであったけれど、演奏をしに来ていると言うよりは楽器の調整だけをして、本来の部室に戻って行った。そんな中で唯一、火曜日の夕方は吹奏楽部は体力作りの日として校庭や体育館に移動してしまうため、音楽室を使う生徒は誰もいなくなる。
     そのスケジュールに気付き、ある時から時々ぽろりぽろりとピアノを弾きに来る生徒があった。銀色の柔らかそうな髪は差し込む夕焼けのオレンジに映える。シルバーフレームの眼鏡の奥は蒼い瞳。ここへ来るときは何か考え事がある時であるのか、小難しい顔をしていることが多かった。いつも抱えている文房具や教材が入っているのであろうバッグを近くの机に置き、ふうとひとつ溜息を吐いて手袋を外す。グランドピアノのカバーを持ち上げて、ぽん、とひとつ白鍵を叩いた。鍵盤は従順に彼の力を音に変えて誰もいない教室に響く。透き通るようなその音に満足したらしい彼が椅子に座り、右手だけで簡単に音を奏でた。
     タイトルも付けられていないような創作曲は、その日によって音を変える。時には柔らかく、時には苛立ったように。何音か鳴らしただけで止まってしまう日もあった。幾つか弾いてから唐突に手が止まり、暫く何かを考えた後に教室を飛び出して行く。そんな様子も何度か見かけた。考え事を整理するためにピアノを使っているのだろう。考えをまとめるのに文字を書く、散歩をする、会話をする。人間たちはそうしてそれぞれのやり方で思考をクリアにして行くけれど、その手段が彼にとってはピアノらしかった。

     毎日快晴が続く夏。窓の外は太陽がぎらぎらと輝いているけれど、音楽室は空調が効いているお陰であまりその影響はなかった。熱に弱い楽器も保管されている事もあり、音楽好きな妖精たちが温度には気を使ってくれている。陽も傾きかけた時間、からりと開いた教室の扉から彼が入って来た。そう言えば、最近はあまり見掛けなかったように思う。久々の銀糸は相変わらず美しく、やはりいつものように、息抜きのための溜息と共に移動用のバッグを机に置いて、手袋を外した。
     ぽんと鳴らしたその音が僅かに迷っている。微かに濁ったような和音は、何を示唆したものか。いつもはすらすらと紡がれる五線譜も、今日ばかりは途切れ途切れで上手く流れない。本人もそれに苛立ちを覚えたようで、小さく舌打ちをして鍵盤から手を離した。ピアノに触れていた手で前髪をぐしゃりと掴んで、苦し気に眉を寄せる。暫くそうしてから、やがて大きく深呼吸をしてから、両手を鍵盤に置いた。
     彼の創造曲ではない曲がその指から奏でられるのを初めて聴いた。けれどそれは余りに切ない響きを帯びていて、その反面ひどく苛立った調子を孕んでいて、窓の外の夕焼けは深い紫に変わろうとしていた。

     秋を迎え、窓の外の木々が次第に色付いて来る。時々ピアノの上で昼寝をしに来るルチウスの毛足が更に長くなり始めて、吹奏楽部の生徒が何度かくしゃみをしていた。大会を控えた吹奏楽部の練習は熾烈を極め、日曜以外は随分と遅くまで練習している。魔法で操られた楽器達も随分と疲れている様子だった。それも、今日で終わりだ。明日は本番であるから、恐らく明後日からは暫く音楽室はもぬけの殻となることだろう。軽音部辺りが楽器調整のために来るかも知れないけれど、恐らく暫くは静かな放課後だ。
     数日後、案の定生徒達が休みに入った音楽室は人の出入りがなく、毎日が静かに流れる。予想していた軽音楽部の生徒達も顔を出すことはなかった。

     久々に、教室のドアがそろりと開く。様子を伺っているのはあの銀髪だ。誰もいないことを確認してから入室する。珍しく人の気配を警戒する様子で荷物を置き、再びぱたぱたとドアに駆け寄った。幾つか会話を交わして部屋に引き込んだのは、蒼い髪のひょろりと背の高い生徒だった。この教室ではあまり見ない彼の腕を引き、ピアノの前に座らせる。幾つか言葉を交わしてから、得意げに眼鏡を中指で押し上げた彼が鍵盤に両手を置く。彼の演奏は、いつか、あの複雑な感情を音符に変えて以来だ。
     滑り出したその音は焦燥や苛立ちと言ったネガティブな感情の一切を排除した、満ち足りたそれだった。誰かに語り掛けるような優しい音色が音符に変わる。それらが綺麗に五線を彩り、部屋を満たした。
     流線を辿って奏でられたピアノにひとつ、足された音種が彼の音波を柔らかく撫でる。細く、小さく寄り添ったその音に彼は一瞬泣きそうに顔を歪めて、けれどそれをどうにか誤魔化すように微笑んで演奏を続けた。チッペンデールに並んで腰を掛けた二人の肩が寄り添った音符たちのように触れ合う。ピアノ伴奏に重ねられたハスキーボイスがぽつりぽつりと音符に色を付けて彼らを包んだ。
     きっちりと制服を着込んだ銀髪の彼の肩に蒼い髪が乗せられる。蒼く縁どられた瞼が閉ざされて、読み聞かせをするように歌声が空を辿った。それを一音、一音と聞き逃すまいとする眼鏡の奥の瞳がいつもよりも少し潤んで光る。
     窓の外で木々が揺れ、はらりはらりとかろうじてぶら下がっていた葉が落ちて、外から教室を覗くものはいなくなった。

     迷って、切なく想って、追いかけて苛立って、複雑な思いを重ねた結果、手に入れたのはこの恋であったのかと思う。『私』はしがない、音楽室に飾られた絵画の一つだけれども、長い事この教室で色んな生徒を見て来た。これほどに完成されていて、けれどもこんなに稚拙なピアノボーカルを聴いたことはない。願わくば、このアンバランスな演奏をいつまでも聴いていたいと教室の高いところから彼らを見守った。
    KazRyusaki Link Message Mute
    2021/04/07 0:41:49

    ピアノ

    ##ワンライ

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