TO麺×$ 1マドルを受け取ったその手で10cmほどの長方形の紙を5枚手渡す。印刷面を下にしてまとめて渡して、次の方どうぞ、と声を掛けた。
「うわっ、アズールかよ」
彼にとってみたら小声だったのかも知れない。けれどそれは数歩離れた私にも聞こえて来たくらいだったから、この列に並んでいる人達には届いただろう。一緒にいた男性が慌てて、しい、と諌めているけれど、声を上げた本人は全く気にする様子がなかった。気にしないように私も次の男性からマドルを受け取り、指定された枚数のそれを差し出す。
ランダムチェキ。イベント会場でのみ販売されるそれは、イベント直前の楽屋にてインスタントカメラで撮影された写真。複製が出来ないので、全てが一点物だ。それを、一枚千マドルで販売する。原価はフィルム代と、せいぜいカメラの本体代。ボロい商売だと思うけれど、参加者は挙ってまとめて数枚買って行くのだから、需要と供給は成り立っているのかも知れない。
先刻騒いでいた男は未だに販売ブースの近くにいた。友達らしき男性とあれこれ話しては笑っている。チェキ購入列も大分人が減り、彼らの会話がまた時々耳に届いた。
「だって性格悪そうじゃん」
「やめろって」
「みんな分かってるよ」
ああこれあれだ、イキリオタクってやつだ。知ってる知ってる。アズールと言うのは、銀髪に眼鏡、何と言ってもメンバー1の巨乳を誇るメンバーのひとり。このチェキの商売を始めたのも彼女の提案で、実はグループの運営方針は殆ど彼女が担当していた。けれど、その事は事務所内だけの秘密。表向きは単なるメンバー。
「巨乳なのは分かるけど、歌もダンスも上手くないしさあ。人気あんのマジ謎」
段々とご友人との距離が離れていってる事にそろそろ気付くべきでは? 周りをちらちらと気にしながら青ざめて行くお友達が憐れで、接客をしながら行く末を見守る。
「て言うか誰か買取か交換してくんないかな。五枚買って三枚アズールとか地獄」
独特の引き笑いで肩を揺らした彼に、どうしようもないなと溜息を吐いた。ここはアズールさんを含めた、リドルさんとカリムさん三人のイベント会場であり、アズールさん以外の誰かの一人の場所ではない。と言う事はつまり、アズールさんのファンだってこの場にいるのだ。そんな当たり前の事を考慮せずにそこそこな声量でそんな事を話していては、アズールさん推しの方々も気分が悪いだろう。実際、数人が舌打ちをしたり睨み付けたりしている。直接文句を言いに行く猛者はいないらしい。仕方ない。みんなオタクだからそんな度胸はないのかも知れない。
「……10枚ください」
ふと、小さい割に聞きやすい声に顔を上げ、ああと頷いて、長方形の缶に立てて詰められたチェキをランダムに10枚引き抜く。マドルを受け取って、金庫にしまった。あざーした、と客を見送ってから、可哀想にと肩を竦める。
イキリオタクは未だに何やかんやと騒いでいて、私はそれを聞きながら時計を確認した。そろそろ物販を終え、握手会の時間になる。そうしたら私は剥がしに回らねばならないので、案外時間がないのだ。最後の客が買ったチェキをチェックしながらのそのそとイキリオタクの方へと歩いて行く。恐らく好きでそちらに行ってるんじゃなくて、握手会待機場所にイキリオタクがいるから仕方がないのだ。周りの人達も可哀想だけれど、狭いライブハウスでは仕方がない。目当てのチェキをポケットにしまいながら、彼も足を止めた。
既に友人さんは話すら聞いていなく、他人の振りを決め込んでいるにも関わらずイキリオタクは勝手にヒートアップして、しまいには大きく笑いながら下ネタまで持ち出し始める。
「握手会じゃなくてお触り会とかやってくれたらレーン並んでやってもいいのにな」
ざわりと周りが怒気と呆れに包まれた。同時に、どよめきが沸き起こり、何事かと目をやる。
「じゃあお前はそんなに立派なもん持ってんの?」
あー。ご愁傷さま。私は内心手を合わせて、鍵をかけた金庫とチェキを詰め込んだボックスを抱えた。
床を這いずるような静かで滑らかな声は、最後の客のものだ。青い髪をフードで隠し、黒いマスクに黒ずくめの背の高い男。ちらと覗く目つきは鋭く、スタッフや常連の中ではめちゃくちゃ有名な、「アズールのトップオタ」。あまり背が高くないイキリオタクの背後にひたりと立って、真上から見下ろすようにすると、彼を見上げたイキリオタクが喉の奥でひっと鳴いた。彼の前でアズールさんを貶めるような事を言うのは自殺行為なのに。あまり見た事のない顔だったし、新規なのか、ミーハーなのか。どちらにしたって、ファンが大勢いる中でのメンバーの悪口は常識的にNGだ。自業自得。
「ねえ。じゃあ君がアズール氏よりも優れてる点を教えてよ。あんなに綺麗で努力家なアズール氏よりも、君なんかのどこが優れてると思って上から目線でものを言ってんの? スタイルの良さが妬ましい? 仕方ないか。君みたいなキモヲタには一生かかったって手に入らないかも知れないもんね。君みたいなのに応援されるメンバーが可哀想だ、今すぐ出てってくんない?」
低く艶やかな声は丸で蛇のようにまとわりついて、顔を蒼白にしたイキリオタクは、ただはくはくと口を動かしていた。
「はいはーいそこまでー」
のんびりとした声が響き、彼、がひっと声を上げて退く。面識はあるはずなのにどうも彼はうちのスタッフであるフロイドさんのことが苦手らしかった。
「ちょっといいですかあ〜」
あくまで何でもない事のように言って、もう動くことすらできないでいるイキリオタクの方を抱いてフロアを出て行く。会場全体に、終わったな、と言う空気が流れ、やがて弛緩した。きっと、もう二度とあいつはここには現れないだろう。それがお互い平和なのだ。
荷物を抱えて楽屋に帰ると、むすっとした顔のアズールさんと苦笑いのカリムさんがいた。隣のリドルさんは困り果てていて、状況が理解できない。どうしたのかと視線で問い掛けると、きっと眦を釣り上げたアズールさんが勢いよく立ち上がった。
「確認しました!?」
「あっはは、もう遅いんじゃないか?」
「落ち着きなよ、アズール」
肩を掴みかからんばかりの勢いで詰め寄られて、漸くイベント前にチェキを撮っていた時に頼まれていた事を思い出す。やばい、と言う私の顔を見て全てを察したらしいアズールさんが、深い深い溜息と共にメイク台の前の椅子に再び腰を下ろした。
「きっと、もうあの人はいません」
拗ねたように唇を尖らせるアズールさんのそれを受けて、握手会の準備がほぼ整ったフロアを袖口から覗き見る。確かに。もうあの黒いフードから覗く青い髪はどこにもいなかった。
「ほんと不思議だよなー。ライブの時は最前下手でド派手に打ってるのに、握手会には絶対に来ないもんな」
「グッズも絶対大量に買って行ってくれるのにね」
カリムさんとリドルさんが首を傾げるのを、メイク台に突っ伏したアズールさんが「あああ」と声にならない叫びで打ち消す。応援の仕方はそれぞれだから、とは言え、彼のようなタイプはかなり珍しかった。認知されたくないのかもなあと抱えた荷物をやっと下ろした。
イベント前、チェキを買ったらそのまま帰ってしまうだろう彼をどうにか引き止めて握手会に参加させよとアズールさんから厳命が下っていたのだけれど、あのイキリオタクのせいで完全に忘れていた。落ち込んだアズールさんの背中に胸が痛む。
「逃げられちったあー」
「こちらもダメでした」
フロイドさんとジェイドさんまで使って彼との接触を試みているのか。アズールさんももうここまで来たら意地なんだろうなあとぼんやり考えながら、ぱちんと両手を鳴らした。
「さっ、握手会です。気持ち切り替えて」
瞬間、駄々っ子のようにしていたアズールがすっと立ち上がり、三人が綺麗に、可愛く並ぶ。にっこりと笑ったこの宝石のようなキラメキは、こんは狭い箱で終わるはずがないのだ。
私が信じた宝石箱は、まだまだこれから。