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    日記卒業してすぐに住み始めたこのアパートは、お世辞にも優良物件とは言えなかったし、むしろ安いぼろアパートと言う方が近かった。そんな2DKの城を、明日、遂に引き渡す。
    引越し先はさほど遠くない。より都市部に近くなる分便利かも知れないが、僕自身はどちらかと言えば静かな暮らしの方が好きだからどちらがいいとは一概には言えなさそうだった。
    荷物は多い方だと自覚している。本当は黒い猫ちゃんのお任せ引越しパックを頼みたかったけれど、いかんせん精密機器が多いもので、他人に任せるのは怖かった。一通りの荷造りを終えて、それでも未だ残っている荷物達にうんざりする。取り敢えずここら辺で休憩だ。根を詰め過ぎるのも良くない。スウェットのままベランダに出て、うんとひとつ伸びをした。
    ベランダだって全然広くない。けれど、どうせ洗濯物は浴室乾燥、ベランダ菜園なんか興味はない、となると、特に狭くても困ることはなかった。何ならこうしてベランダに出たのは今が初めてかも知れないくらい。何とはなしに見上げた星空に、溜息を吐いた。
    誰よりも一緒にいたはずの人は、元気だろうか。ふと思いを巡らせる。目が覚めたらそこにいて、夜眠る時も傍にいた。仕事が忙しくなってからは随分とすれ違うようになって、会話も減ってしまったけれど。もうルーチンになっていた出発と帰宅のキスだけは欠かさなかった。誤魔化すように、ふと脳裏に蘇ったヒット曲を口笛でなぞる。この曲いつ頃のヒット曲だっけ、と髪を乱暴に掻き上げながら部屋に戻った。
    再び視界を占領するダンボールと、詰められていない荷物に肩を落としてしぶしぶリビングに腰を下ろし、寄せられていたダンボールを引き寄せる。見覚えのないそれに首を傾げて、蓋を開けた。
    「あー……」
    僕の物ではないそれに思わず声が漏れる。薄い紫の膝掛けや、参考書、小物入れ。これはこのまま箱にしまっておくべきか。しまっておいた所でどうしたらいいのかは分からないけれど。一番上に積まれた参考書には見覚えがあった。彼がよく読んでいたもの。その下も、更にその下も。どれもこれも見覚えがあって、自然と眉が下がった。
    その下、黒のリングに青い表紙のノート。授業用のそれにしては少し可愛らしい。彼は可愛いものが好きだったけれど、決して人前でそれを見せようとはしなかった。曰く、弱みになるからと。その選択はあの学園では正しかっただろう。
    引っ張り出したノートをぱらりと捲って、息を止めた。日記帳。彼が学園に入学してからの毎日がそこに記されていた。
    過去問を元にした試験の傾向と対策。寮長になるための下準備。内申稼ぎのイベントスタッフ。あの学園の中で彼が頑張った日々がそこにある。ひどく懐かしくて、悪いと思いつつもページを読み進めて行った。
    『あのイデア・シュラウドだったらしい』
    突然出て来た自分の名に心臓がばくんと跳ねる。どきどきと脈打って、手が震えた。いや、その前からちらほら出て来ていたのだ。そう言えばこんな事あった気がする、と言うレベルの、僕と彼のやり取り。けれど初めて明確に名前を出されたそこで、顔に熱が集中した。
    『イデアさんが』『イデアさんの』
    幾度となく繰り返し登場する当時の自分に何だか擽ったさを覚える。あの頃からこんなにも彼と接点を持っていたのかと改めて懐かしくなった。ダンボールばかりの部屋でひとり、ノートを開いて過去に想いを馳せる僕はきっと誰から見てもセンチメンタルに違いない。
    僕の髪を綺麗だと綴り、素晴らしいと賞賛しているその文字列に胸が熱くなった。僕にしてもらったこと、僕とやったゲーム、ひとつひとつを書き記していた時の彼は、一体どんな顔をしていたんだろう。じわじわと熱を帯びた身体はもう全身が暖かくなっていた。
    もうすぐノートが終わる。一年生の終わり、だろうか。年が明け、ラウンジの準備も整い、そして16歳の誕生日を迎えた。もう少し読みたかったと残念に思いながら、最後のページを開いた。

    「イデアさん……何ひとの荷物勝手に開けてるんですか……」
    「ひえ……」
    いつの間にか目の前には恋人が鬼の形相で立っていて、思わずノートで鼻から下を隠して見上げる。こめかみに青筋を立てたアズール氏がノートを取り上げてダンボールの中に戻した。
    「これはもう荷造り済だから触らないでくださいって言ったじゃないですか!」
    「そ、そうだっけ……?」
    「また聞いてなかったんですか!? もう! いい加減怒りますよ!」
    「も、もう怒ってるでござる……」
    床に転がっていたガムテープでびっちりと蓋をしてから、思い切り睨まれる。先刻までの淡い思い出のどきどきは、今や殺されるんじゃなかろうかと言うどきどきに変わった。
    「て、ていうか、アズール氏出張の帰り明日になるって……」
    「どうせ引越しの準備終わらせてないだろうと思ったんで急いで仕事を切り上げて帰って来たんです!」
    「さ、さっすがぁ〜……」
    明日、ここを出て僕らは二人で新居に移る。二人の金で買ったマンションにはリーチ兄弟とオルトの部屋もあって、みんなそこへ引っ越すことになっていた。この、二人だと手狭だったアパートを後にして。
    「支度が終わっていないどころか人の日記帳を盗み読むなんて……」
    ぷりぷりと怒りながらダンボールをてきぱき片付け始めた背中を半ば呆然と眺めてから、ゆっくり立ち上がった。一歩、二歩。たったそれだけ移動したらすぐに彼に触れられるくらいのこの狭い部屋が、本当はすごく気に入っていたのだけれど。
    「ねえ、アズール」
    怒った背中は呼び掛けにも答えてはくれなかった。それでも乱暴に荷物を詰める背中に触れる。
    「……僕を好きになってくれて、ありがと」
    怒ったような背中が本当は、照れ隠しなのを知っていたから。そっと後ろから抱き締めて、赤くなった耳にそう告げるけれど、知りません、と叱られてしまった。
    それでも、ねえ。最後のあのページの言葉は、きっと今も続いているんでしょう。

    『ああ、そうか。なるほどこれが。恋なのか。僕はイデアさんの事が好きなんだ』
    KazRyusaki Link Message Mute
    2021/04/07 8:32:04

    日記

    ##ワンライ

    🐙日記の後日談。

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