TO麺×$ 20検査を終えた足で中庭を歩く。もうどこも悪くないはずなのに、何でここにいるんだろう。兄さんが心配するから早く家に帰りたいのに。もう少しもう少しって繰り返されて、ここ一年間で結局病院に来なかった事がない。はーあ、と溜息を吐いて、高い空を見上げた。
昨日のライブも成功だったとメールが来てた。送ってくれた写真の中の兄さんはやっぱりカッコよくて、思い出すだけでにこにこする。いつかボクもあの場に行って、生であのカッコいい兄さんを観てみたい。それが今一番の望みであり、楽しみだ。だって、もうすぐホールライブがある。着席で、空気もそんなに悪くない会場なら、オルトも来られるねって兄さんが笑ってた。早くその日になればいいのに。
鼻歌交じりで建物沿いにあるお気に入りのベンチを覗いた。ここはちょっと見つけづらい所で、多くの人が入院しているこの病院でも穴場。のはずだけど。珍しく先客がいる。俯いた横顔にメガネの縁が光った。
「……お姉さん泣いてるの?」
思わず声を掛けると、はっと顔を上げたその人が空色の瞳をまん丸くして僕を見る。あ、声を掛けない方がよかったかも。泣いてるところなんて見られたくなかったよね。今更後悔してみるけれど、もう遅い。それ以前に、顔を上げたお姉さんは泣いてなんかいなかった。
「泣いてないです」
「うん、泣いてるように見えたから声を掛けちゃったんだけど、ごめんね」
「いえ」
驚いたままきょとんと返事をするお姉さんから何となく目を離せないでいると、居心地が悪くなったのか、座りますか、と少しずれてくれる。元々このベンチで空を眺めに来ていたから、一度頷いて開けてくれたそこへ座った。
「考え事してたの?」
「……ええ、まあ。病室にいると気が滅入ってしまって」
肩を竦めたお姉さんが困ったように溜息を吐く。わかるわかる。何故だか病室で考え事をしていると、ネガティブな事ばっかり考えてしまってよくない。僕もそれが嫌で、こうして外を歩くようにしていた。
「お姉さん、個室?」
「ええ」
「じゃあ余計にだよね。ボクも個室なんだけど、やる事なくてつまんない」
足をぶらぶらさせながらそう言うと、ふと笑ったお姉さんが膝の上で手帳を開く。あまり見ない方がいい気がして、敢えて視線を空へと投げた。
静かに時間が過ぎる。お姉さんの隣は何となく居心地がよかった。元々人見知りはしない方だから、こういう事は珍しくもないのだけれど。ただお互い会話もなく、お姉さんは手帳を、ボクは流れる雲を見詰めていた。
病院でレンタルできる赤と白の細かいチェックのパジャマの上に、白のカーディガンを羽織ったお姉さんの肩にかかる髪が風に揺れる。さらさらと流れる銀色の髪を視界に入れながら、どことなく覚えた既視感に首を傾げた。どこかで見たことがあるような。でも、ボクも兄さんも女の人の知り合いってあんまりいないし。どこで見たんだろう。細いフレームのメガネに、口許のほくろ。
うんうん唸っていると、不思議に思ったらしいお姉さんが顔を上げた。
「どうしました? 具合が悪いとか?」
「あっ、ううん! 何かお姉さんを知ってる気がして」
「えっ」
思ったよりも大きな声で驚かれて、ボクまで驚いてしまう。慌てて口を押えたお姉さんが、すみません、と肩を縮めた。銀色の髪。蒼い瞳……
「あっ、わかった、お姉さんのライブ、ボク観た事あるよ」
そうだ、兄さんが大好きなアイドルさんだ。いつも新しいライブの配信があると必ずアドレスを送って来て、すぐに観ろって言うから欠かさず毎回観ている。そうか、すぐに分からなかったのは、ステージの上だと髪を頭の後ろでひとつに結ってるから印象が全然違ったんだ。
「えーっと、アズールさんだ。アズール・アーシェングロットさんでしょ」
「よ、よく知ってますね、そんな、全然小さいユニットなのに……」
慌てて顔を隠すようにサイドの髪を指で梳く。耳が赤いのは気のせいかな。あんまりこうやって言われることがないのかも知れない。アズールさん達のユニットはものすごく有名って訳でもないし。兄さんがいっつもそれを残念がってる。
「うん! ボクいっつも配信観てるんだあ。ちょっと前のワンマンでアズールさんが歌ってた歌、ボクも大好きなんだ」
「本当ですか? あの曲いいですよね」
ぱっと顔を上げたアズールさんは嬉しそうに笑っていた。素直な笑顔に、年上だろうけど可愛い人だなあと思う。兄さんが創った曲はどれも好きだけど、あの曲は少し再生数に伸び悩んだ曲だったから特に好きだった。どこが悪いのかわからない、でも良いとは言ってもらえない、何だか僕みたいだなと思ったから。
「音楽は好きですか?」
「うん、大好きだよ。ボクの兄さんもバンドやってるんだ」
兄さんが“ネクラP”である事は内緒だから、ここでは言わない。バンド名もきっと、聞かれても誤魔化した方がいいんだろうな、と考えていたけれど、その心配は必要なかった。そうですか、と膝の手帳に視線を落としたアズールさんが少し苦し気に眉を寄せる。
「……何か困りごと?」
「いえ、そう言うわけじゃないんです」
言ってることと表情があんまり合ってないなあ。横顔を見詰めていると、苦笑したアズールさんがボクを見た。
「あの……つかぬことをお伺いしますが、僕らのライブを観て、どう思いました?」
そう来るとは思わなかったから、少し驚く。熱狂的なファン以外と出会うのが初めてなのかなとも思った。兄さんも「ファン以外で僕らの音楽を聴いてる人の意見は必要」って言ってたし、そういう事なのかも知れない。
「可愛かったよ」
「他には……」
「……うーん?」
それ以外に。と言われると、困ってしまった。歌は上手。ダンスも上手。MCも上手。みんな顔は可愛いし、衣装もいつも可愛い。でもそれが、他のたくさんいるアイドルユニットと比べてどうか、と言われると、わからない。一言で言ってしまえば、当たり障りがない、と言う印象が拭えなかった。兄さんはいつも、いいところを沢山挙げるけど、残念なことに僕からすると、特筆すべき点は見当たらなかった。
僕が答えに窮しているのを察したアズールさんが、肩を落とす。傷付いたようには見えない。むしろ、やっぱりな、と言う雰囲気だ。
「ごめんなさい」
「いえ、謝らないでください。そう言ったご意見は貴重です。ありがとうございます」
きっぱりと言い切った眼にはもう落胆はない。意志の強そうな眼に好感が持てた。残念ながら、僕は他にアイドルを沢山知っているわけじゃないし、ここをこうしたら、なんてアドバイスできる知識も立場でもない。でも、アズールさんを見ていると応援したくなる気持ちはよくわかった。
「ボク応援してるよ。また配信観るね」
「ありがとうございます。そう言ってもらえるだけで嬉しいです」
兄がファンなんです。沢山ライブに行っていて、いつもアズールさんの事褒めてます。いっぱい応援してます。とは、何となく言えなかった。きっと、いまのアズールさんが欲しいのはそういう事ではなくて、一体何を直したらいいのかの原因究明。あんまり再生数が伸びなかったあの曲みたいに、アズールさんは足掻いているんだなと思う。
「ボク、悪い所が特定できなくてずっと入退院繰り返してるんだけどね」
何だか他人事に思えなくてそう切り出すと、アズールさんは少し顎を引いて、でも静かに続きを待ってくれた。
「でもきっと、いつか治して病院なんて来なくていいようにするよ」
「じゃあ、僕もあなたが健康になるように応援します」
「うふふ、ありがとう! ボクの完治が先か、アズールさん達が売れるのが先か、勝負だね」
「おや、それは負けられませんね」
お互いに、悪い所が分からなくて、それでも足掻くしかない者同士。笑ったアズールさんはやっぱりステージにいる時よりも等身大で可愛かった。