どうしても君だけは幸せにしたい
色々疎い自覚はあるものの、自分が避けられていることには流石にすぐに気がついた。
「ねえ、まだ眠らないの?」
いつも食事を摂るテーブルで、髭切の主は何か書き物をしていた。背中を向けられているのだが、書籍の頁を捲ったり書き付けたりしているのはわかる。ベッドの上にごろりと転がりながら、髭切はその後姿を眺めた。ちらりと時計を見れば、普段ならもう眠っている頃合である。
「先に休んでいてください。この報告書が明日の朝提出なので、私はまだ起きてますから」
こちらを一切振り返ることなく、彼女はそう言った。髭切が湯を使っている間に彼女は恒例のトレーニングも一人で済ませてしまっていて、髭切は先ほどから手持ち無沙汰にベッドの上にいる。やれ書類でも手伝うかと起き上がり、髭切は側に引っ掛けてあった上着を羽織って彼女の正面の椅子に手をかけた。
しかし顔を上げることさえなく、彼女は筆記具を走らせながらそれを止める。
「大丈夫です、これ、審神者の分しか記入欄ありませんから。私一人で平気ですよ」
「こっそり手伝ったってばれやしないよ、貸してごらん」
髭切はただ、彼女の記入にしている書類に手を伸ばしただけだった。しかしパッとそれは避けられてしまう。流石の髭切にも、それが「拒絶」の動作であることくらいはすぐにわかった。
「明日も出陣の要請があるかもしれません。髭切さんは先に休んでいてください。ああ、後からベッドに入りますから、今日は髭切さんが壁側使ってくださいね。おやすみなさい」
取り付く島もないその様子に、髭切は仕方なしにとぼとぼとベッドに戻る。言われたとおり奥につめて横になったが、そうすると今度は見えている彼女の背中が遠ざかった上に、ベッドがやけに広く感じられる。こんな風だったかなあと髭切は首を傾げた。
「……おやすみ、僕の主」
いつものようにそう言ってみたけれど、聞こえていなかったのか返事はなく、髭切はそれにもなんとなしに肩を落とし目を閉じた。
「そういうわけなんだけど。ねえ、僕の顔どこかおかしくなった?」
「……俺はあの子の監督、相談役であってお前の相談を受けるのは仕事ではないんだがなあ」
髭切が自分の頬を引っ張りながらそう尋ねると、三日月宗近は呆れたような顔をして肩を落とした。だって仕方がないじゃないか、話し相手はここでは限られているし、今の自分には弟もいないのだ。髭切もまた、はーあとため息をついて茶菓子に手を伸ばす。三日月は諦めたように、髭切が早々に空にした湯飲みにお代わりを注いでくれた。
「僕、どこも変わっていないよね? この間大きい手入れをされたから、そのときにどこか変わっちゃったのかな。腕だってちゃんとついているよね?」
「はは、お前が自分の顔の美醜を気にするなぞ珍しいな」
「だって、あの子全然僕の顔見ないから」
髭切はぐにぐにと自分の顔を揉んでみる。何も変わってないと思う。いや、意識して自分の顔を見たことなんてないから、変化があるかどうかわからないのだけれど。だがここ数日鏡を眺めてみても、何も解決しそうにはなかった。髪の毛かなあと引っ張ってみたが、これも違うだろう。
自分の見てくれで彼女が自分を避けているとは、なんとなく考えられなかった。だってそれならば、手入れをした直後からこうなっているはず。それが、どうして急に。
「また泣かせちゃったからかなあ」
「なんだ、またよからぬことを言ったなら今すぐ謝ってこい」
「それがわからないんだったら」
三日月宗近はあの子には優しいのに、自分には随分と大まかな助言しかくれない。むっとむくれて髭切は手足を伸ばし倒れこむ。三日月の面談室はあの子用に椅子とテーブルのある部分と、三日月の好みなのか畳のある部分とに分かれていた。畳のほうは床よりやや高くなっており、髭切は段差で足をふらふらとさせる。カコン、カコンと革靴の踵がぶつかって音を立てた。
そろそろ頭が痛いのだ。頭が痛いというこの感覚さえも、なんだか煩わしくて不愉快で仕方がない。
「なぜ泣かれた?」
「……わからない。弓を引いていたら、急に」
それまで調子がよかったのに、彼女の矢の五射のうち、最後の一射だけ的から大きく逸れ背後の土嚢に当たった。それが随分珍しいことだったから、彼女のほうを見たら泣いていた。彼女が泣く様は何度か見たことがあるが、あれはその中でも初めての表情だった。
声を上げてわんわん泣くのではない、ただただ静かに、涙をこぼしていただけだ。
「僕の幸せって何ですかって、聞かれたんだよね」
「……幸せか。前に自分で言っていたではないか、この主と幸せになると」
「それはあの子がそうしろって言うから。ああ、でもそういえば君の主に怒られたよ、あの子は僕のものじゃないって」
三日月の主である少女に包帯まみれの手で胸倉を掴まれ、睨むかのような視線を向けて言われた。
「忘れるな、髭切。この子はまだお前のものじゃない。お前が好き勝手に、幸福を決めていいものじゃない」
そんなことはわかっている。わかっているとも。
髭切は黙って天井を眺める。「一緒に幸せになる」と言ったのは、彼女がそうしろと言ったからだ。幸せになれと言ったから。鉄の塊である髭切に、ヒトの子の幸せなど分からない。分かるはずもない。解すことなどできない。だって髭切は、ヒトではないのだから。
「では今のお前は幸せではないと?」
髭切の位置からでは、三日月の形のいい頭しか今は見えなかった。天下五剣一美しい三日月のような容姿であれば、あの子も自分のことをちゃんと見てくれるのだろうか。正直顔のつくりなどどうでもよいのだが、そうならあの顔と取り換えたい。
「……わからないよ、幸せなんて」
彼女にもそう言った。弓道場で泣く彼女に。それに対して、返事はたった一言、「そうですか」だけ。
今までは、彼女に使われることがおそらくその「幸せ」ってことなんだろうと髭切は考えていた。だから彼女が強くなって、長く自分を使ってくれれば、それは「幸せ」なことで、自分がそう感じていれば彼女も納得して自分の主でいてくれるだろうと。でもそう答えると、いつも何故だか彼女は少しだけ眉を下げる。苦しそうな、顔をする。どこも怪我なんてしていないのに。悲しいことなんて、ないはずなのに。
「僕はただ、あの子に主でいてほしいだけなのに。こっちを見てもくれない」
「ふむ」
「それどころかまともに話だってしていないんだよ、最近は。忙しいとか言って僕は放ったらかし。三日月宗近、僕ができる仕事ならいいけど、あの子の仕事は少し減らしてよ。書類だのなんだのはあの子触らせてくれないんだ」
「まあ、あれは審神者の仕事だ、仕方がない」
「おかしいなあ、僕の主のはずなのに。あの子、最近僕よりも書類だとか本だとかを見ている時間のほうが長い気がするよ。それに前にあの子が自分で言ったんだよ? 私の髭切さんって」
そう、あの子が言った。あの子が自分で言ったのだ。
あの子は髭切のことを眠っていると思ったのかもしれない。髭切が何度も「僕の主」と言ったから、それに答えてくれただけなのかもしれない。けれど、口に出して言ってくれたのだ。髭切の髪を拭きながら、「私の髭切さん」と。
あの小さなヒトの子が、自分のものでないことなんかわかっている。けれど、確かに自分はあの子のものなのに。
「……ふふ」
「何笑ってるんだい」
こちらを向いた三日月が何となく、瞳を細めて笑っていた。
「お前は寂しくて拗ねているだけだな、髭切」
さみしい。
髭切はそれには首を縦にも横にも振らなかった。さみしいが、わからなかったので。
「三日月さん、呼びましたか?」
コンコンと音がして面談室の扉が開く。聞こえてきた声に髭切は起き上がった。あの子だ。
体を起こすとやはり戸口には彼女が立っていた。三日月宗近が呼んだのだろうか。どうして自分の主なのに、三日月宗近が呼びつけるんだとか今はどうでもいい、今朝も彼女はサッと出て行ってしまったからあまりちゃんと顔を見ていないのだ。髭切を見た彼女は、一瞬だけハッとしたように身を固くしたけれど、すぐに普通の顔になって三日月のほうに向きなおってしまった。
「言われた書類なら今朝届けましたが」
「うむ、よくできていたぞ。だいぶ板についてきたなあ、良いことだ」
「ねえ、君、仕事は終わったのかい?」
髭切が聞けば、彼女は小さな声で「まあ、はい」とだけ返事をした。気のない返事に、髭切はやや苛立つ。仕事もないのに、どうして自分をほったらかしにして部屋からいなくなってしまったのだ。
彼女の何も持っていない空の手を髭切は握った。いつもこうして移動しているのだ、何もおかしいことはない。それなのに彼女はややびくりと体を震わせる。
「なら部屋に帰ろう? 僕は君がいないから、ここにいただけだもの。君に教えなくちゃいけないこともあるし、僕の相手もしてくれないと困るよ。君は僕の主なんだから」
「……でも、まだちょっとやらなきゃいけないことが」
まだそんなことを言うのかと髭切が文句を言おうとすると、ぽんと三日月宗近が彼女の肩を叩いた。
「それは急ぎではあるまい。いや、そなたが受け持っている書類仕事は一度俺が預かろう」
「えっ」
「なにやらそなたの髭切は寂しいようだ。ここでずっと拗ねていてな、俺には手に負えん」
「寂しい……?」
彼女は三日月の言葉を不思議そうに繰り返してから、髭切を見上げた。正直寂しいがなんなのかわからないが、久方ぶりにこちらを見てくれたからそれでよしとする。髭切は彼女を引っ張って同じように言った。
「そうだよ、これ以上放って置かれたら僕は寂しくて拗ねて寝てしまうよ」
「この通りだ、しばらく構っておやり。なに、自分の刀剣としかと歩み寄り、互いを理解しあうのもそなたの勤め。逃げていても何もならんぞ」
「……はい」
三日月にそう言われ、彼女は再びやや俯いた。髭切が僅かに胸をどきどきとさせながらその手を引けば、おとなしくついてくる。ほっと安堵して髭切は面談室を出た。
「えーっと……」
「……」
しかし出たはいいものの、髭切は暫く歩いたところで足を止めてしまった。どこに行ったらいいのかわからなかったのである。
まかり間違っても弓道場には連れて行けない。前回あそこで泣かれたばかりだ。……理由は、わからなかったけれど。でも部屋に戻っても何をすればいい。ただでさえ最近仕事、仕事で放って置かれている始末。新しいことを教えたらそれに拍車がかかるのではないだろうか。
今まで髭切は基本的に、彼女の「教育」しかしてこなかった。話して、教えて、鍛えて、一緒に任務に出向いて。彼女がどんなものを好きで、どんなことをすれば喜んでくれるかわからない。
どうすれば、彼女はこっちを向いてくれるんだろう。
「お……やつでも、食べる?」
咄嗟に髭切の口から出てきたのはそんな言葉だった。辛うじて、脳裏に茶菓子を食べる三日月宗近が過ぎったのである。三日月宗近は自分よりもヒトの子の感情に聡いはず。その三日月が喜んで菓子を食べるのだし、面談室にはいつも置かれているようだ。きっとこの子も食べるに違いない。そう、そういえば「茶菓子があれば幸せな気分になる」とか言っていなかったっけ。
「えーっと、どこかそういう、食べられる場所あったよね。どっちだったか」
「おなかでも、空いてるんですか?」
「い……」
いや違う、といえば彼女は「じゃあいいです」と言いそうだ。特段空腹感を覚えているわけではないが、この際そんなことはどうでもいい。髭切はとりあえずうんとひとつ頷いた。
「少し食べたいなあって、思ったんだけど、だめ?」
「……構いません。食堂はこっちですよ」
ついと彼女が方向転換し、繋いだままの髭切の手を引いた。半歩先を行く頭を見て、髭切は「この子、こんなに小さかったっけ」と考える。
組み付きで思い切り胴に飛びつかれることもある。弓を引く姿勢を直すために、背後から一緒になって構えることも。始終一緒にいて、毎日毎日その姿を見ているはずなのだが。手袋越しに髭切の手を握っている指さえ、ぎゅっと力を入れれば簡単に折れてしまいそうだ。何度も何度も、この手を繋いでいるはずなのに。この子はこんな風だっただろうか。
「何食べるんです?」
髭切がその政府の厨に足を踏み入れることは、今まであまりなかった。それは大抵彼女が部屋で食事を賄ってくれるからである。そもそもここに来る必要性がないのだ。だからここに何があるのかさえ髭切にはわかっていなかったため、彼女に促されて髭切は品書きを見る。だが正直、どれでもいい。というか違いが分からない。
ああ、そうだと思い至って髭切は彼女に尋ねた。
「君は? 君は何を食べるの?」
「私ですか?」
「君はどれを食べたいの? 僕も同じものを食べるよ」
この子の好みがわからない。だから今聞いてしまおう。丁度いい機会だ。髭切は名案だと言わんばかりに彼女のほうを見た。彼女は少し悩んだのち、何やら甘そうだけれどこじんまりとしたものを指差して注文する。
「そんなものでいいの? 足りなくはない?」
「そんなにお腹が空いているわけでもないですから。髭切さんは好きに召し上がってください」
「ううん、君と同じでいいよ」
彼女と二人で席に座って待っていると、管狐の姿をした店員が頭の上に盆を乗せ頼んだ菓子を持ってきた。硝子の器に入った、こじんまりとした菓子。どうやら氷菓のようだった。
「フルーツパフェにございますう! お二つですね!」
「ありがとう」
盆の上のそれを受けとり、彼女は細い匙と一緒に髭切の前にも置いた。白いふわふわとしたものと、果物が乗っている。しげしげと髭切が眺めている間に、彼女は頂きますと手を合わせた。
「早く食べないと溶けちゃいますよ」
「溶ける? これ、溶けるのかい?」
「あー、そっか……パフェもアイスも初めてなんですね」
彼女は細い匙で白くふわふわした何かと、その上に乗っていた苺を器用に掬い取った。それから髭切のほうにそのまま差し出す。
「これは溶けちゃう冷たい食べものなんです。溶けても味はしますけど、あまり美味しいとは言えない状態になってしまうので」
「ふぅん……いただきます」
カチリと歯が匙に当たり音を立てる。口の中に入ったそれは確かにひんやりとした。突然摂取した冷感は甘さより先に刺激になって伝わって思わずびくりとしたが、それからすぐに苺の酸い甘さが広がる。髭切が口の中に氷菓を溶かしていったのを確認して、彼女は匙を引いた。
「美味しいですか?」
「ん……不思議な味がする」
「あはは、冷たくてびっくりしたんですかね。溶けちゃう前に食べてください。きっと気に入りますよ」
彼女が言うからには、きっとそうなんだろうな。そう思って髭切はぱかっと口を開けてもう一度彼女のほうを向いた。すると彼女は若干慌てて身を引き、カツンと匙が器に当たる。
「いや、自分で食べてください自分で! スプーンもあるでしょ!」
「え、ああ、うん、わかったよ」
柔いそれは、髭切が自分で掬う分にはかなり指先に神経を使わなくてはならなかった。果物だけは先の尖った匙でぐさりと刺して口に運ぶ。溶けてから流し込んでしまったほうが早いような気がした。
もそもそとそれを食べながら、髭切は正面に座る彼女を見た。彼女のほうは器用に白いのも果物も均等に口にしている。時折嬉しそうに顔を綻ばせたり、冷たいのが沁みたのかきゅっと目を閉じていた。
「美味しい?」
髭切が聞けば、口の中にものが入っているのか指先で押えながらこくこくと頷いた。
「はい、ここの好きなんです。最近はあんまり食べられてなかったんですけど」
「どうして? だってここは政府の施設だから、すぐ来れるよね」
「でもまあ、部屋にキッチンがありますから」
髭切はあっという間にその器を空にしてしまったのだが、彼女は少し時間をかけてそれを食べた。最後にごちそうさまと手を合わせる。
「君、こういうのが好きなの?」
「そ、うですね。疲れてるときとかは食べようかなって気になります」
「そっかあ、じゃあもうちょっと食べる? あんなに少なくちゃ足りないよね」
「えっ、大丈夫、大丈夫ですよ」
髭切が追加で頼もうとすると、彼女は慌ててそれを手で押さえて止めた。
「あんまり食べてもお腹壊してしまいますし、平気です」
「そう? でも疲れているときは食べたくなるんだよね? たくさん仕事をした後だもの、食べたほうがいいんじゃあないかい? それに、君とても嬉しそうに食べていたよ」
何気なく髭切はそう言ったのだが、彼女のほうはやや驚いてぱちぱちと目を瞬く。それからそっと押さえた髭切の手から自分のものを離した。
「……ごめんなさい、気遣ってくれてたんですね」
その呟きに、髭切は是とも否とも言えなかった。そんな優しい考えで、髭切は彼女をここに連れてきたわけではない。自分が、もっと彼女との時間をほしいと思ったから。最近ずっと放ったらかしにされていたから。
「君の好きなものが、わからなかったから」
素直にそう言えば、彼女はやや眉を下げてゆっくりと一度だけ瞬きをした。それから側にあった品書きを開いて、今度は笑顔で髭切に問う。
「温かい飲み物でも頼みましょうか、三日月さんが仕事預かってくれましたから、少しのんびりできますし」
「わあ、本当?」
「はい、おすすめはこれなんですけど」
彼女はなにやらカタカナがつらつらと並ぶものを指差してそう言った。特にこだわりもないので、髭切も同じものを頼んだ。彼女がおすすめだといったのだ、ならきっと、美味しいに違いない。
湯気の上る器が二つ運ばれてきて、二人で同じものを飲む。彼女は備え付けてあった砂糖壷を先に手に取ったのだが、髭切はまず手始めに一口飲んで顔をしかめた。苦い。
「あー、ちょっとはお砂糖かミルクか入れないと少し苦いと思いますよ」
「放っておいた緑茶よりも渋い味がするよ」
「お砂糖とミルク、どっちがいいです?」
彼女が壷を二つ指したが、髭切が砂糖のほうを手に取った。さっき彼女は二杯ほど中に放り込んでいた気がする。
「こういうの、普段から飲むの?」
「部屋にもありますよ」
「どうして出してくれなかったの」
部屋にあるもので好きなら教えてくれればよかったのに。髭切がややむくれて言えば、一瞬彼女は呆気にとられた表情をしたものの「はは」と声を上げて笑い始める。
「ごめんなさい、髭切さんは日本のお茶のほうが好きかと思ったんです。生まれも古いですし」
「ええ、僕は君が出す食事全部食べていたのに、酷いなあ」
「あはは、今度から出すようにしますよ」
取り留めのない話を髭切と彼女はしばらく、その茶が冷めるまでしていた。学校で普段どんなことをしていたのか、好きな食べ物、嫌いな食べ物。髭切が体作りのために指定して作ってもらっていた献立の中に、その嫌いな食べ物も混じっていて髭切は一人「ありゃあ」と思った。
髭切は彼女の部屋に一体どんなものがあるのか、あの冷蔵庫の中身も棚の中身もよくわかっていなかった。でもきっと、開くと彼女が好きなものがたくさん詰まっているのだろう。今度から彼女が構ってくれなかったら、そこを開けてどれか取り出して、それから……。
「……なあんだ、君の好きなもの、たくさんあるんだね」
こんなにぐるぐると頭を痛めることなどなくとも、もっとこうして話をしておけばよかったのか。なんだ、そんなことか。
空になってしまった器を眺めながら、髭切は目を細めた。
「これからはたくさん、君のことも教えてね」
そうすれば、悩むことなんてなくなる。主のことをもっと知れば、きっとずっと長く一緒にいられる。書類仕事を触らせてもらえなくたって、他にも彼女がこっちを見てくれる方法がわかる。
髭切はやっと落ち着いて息をついたのだが、彼女のほうは顔を曇らせた。かちゃりと手にしていた茶器が音を立てる。
「……どうして、私のこと知りたかったんですか?」
「え?」
それは、えーっと。なんだろう。
主のことを知るのは大切だと思う。だって、そうでなくては今回みたいに放ったらかされることになりかねない。それは困る。だって髭切は彼女の刀なのだ。
……そう、髭切は彼女のものだ。彼女と共に戦場を駆け、彼女に使ってもらう刀。そのためのこの肉体、そのための存在。彼女は髭切の主なのだ。
だから彼女は自分を放ったらかしたりしてはいけないのだ。ずっとずっと長く、自分を使ってくれなくてはならないのだ。それゆえに髭切は彼女を強くして、鍛えて、それから、それから……。
「私はもう、審神者の仕事なら、一通り自分でできますよ」
小さく彼女が呟く。それは、そうだ。だってそうなるように髭切が育てたのだから。立派な主になるように。彼女はだからちゃんと、今は「審神者」になれる。仕事をこなせる。問題はない、そのはずなのに。
ぽつん、と髭切の脳裏に浮かんだのは自分に向けられている背中だった。あの部屋のベッドから眺める背中。仕事をしている彼女の背中。あれは正しい姿のはずだ。だってあれは正しく、彼女が審神者の仕事をしている姿。髭切の育て上げた主のはず。
けれど、もっとそれ以上に……髭切はあの背中が嫌だと思ったのだ。
……ありゃ?
「僕、は」
何と言ったらいいかわからないまま口を開きかけたとき、聞き覚えのある警報音が彼女の携帯端末から流れはじめた。すばやく彼女が反応する。
「出撃要請です」
間の悪いことだ。彼女が携帯型の通信端末をいじる横で髭切も立ち上がった。髭切は任務がないといえど内番のジャージを着ていることはあまりない。だから本体は常に帯刀しているため問題はなかった。装備も異常なし。念のため籠手の結び目だけぎゅっと締めなおした。
「髭切さん、この近くに敵性反応があって迎撃に出るよう命令が来ています、出られますか」
確認を終えたのか彼女が端末をしまい顔を上げた。髭切は頷いていつもの通り手を差し出す。
「もちろんだよ、行こうか」
一瞬、ほんの一瞬だけ彼女はその手を取るのを躊躇った。しかし髭切のほうから掴み直して走り出す。
今までも何度か政府施設周りの迎撃には出てきた。ついこの間の負傷のときだってそうだ。政府所属の審神者の主な任務は、この政府施設周辺の適性反応の殲滅である。だからもう慣れっこなのだが、前回が前回なのでちらりと髭切は彼女を見た。
「……もう怪我はしないから」
「え?」
彼女には走りながらでうまく聞こえなかったのかもしれない。だがわざわざ言い直すことはしなかった。負傷しなければいい、それだけだ。今更そんなへまはしない。
敵の近くまで来て、髭切は立ち止まり彼女の手をするりと離した。
「じゃあ行ってくるよ。君はいい子でここで待っていること、いいね?」
「わかり、ました」
きゅっと彼女が自分の手を握り締めたのがわかった。ぽんぽんと二度彼女の頭を撫でて、髭切は念を押す。
「この間みたいに呆けていてはだめだからね」
だって髭切は、「死なない主」を育てるためにこれまで待っていたのだ。
適性反応はそう多くなかった。しかし前もそう思っていたらあんなことになったので、髭切はさっさと終わらせてしまおうと決める。あの子と話したいことがまだある、早く帰って、続きを言わなきゃ。
僕は、君にこっちを見てほしかったんだよって。
「さみしい」は、やっぱりわからない。
けれど背中を向けられているのは、なんだか不愉快だ。一人であんな広いベッドで眠らされるのも嫌、話すときに目が合わないのも嫌だ。彼女は自分の主なのに、三日月宗近のところにばかり行かれるのも、胸のあたりがむかむかとして不快である。
けど、もしかしたら。こっちを振り向いてと思うこの気持ちが、そうなのかもしれない。こっちを見て、君の刀はここだよって。いつだって思っているこの気持ちが。
「その腕、もらったっ!」
前のお返しと言わんばかりに敵の腕を斬り飛ばし、相手をしていた敵太刀に髭切は止めを刺した。ハッハッと短い息を吐いていると、ひらっと桜の花弁が舞う。
おやおやと自分の左腕を見やれば、先ほどまでと籠手の色がより濃いものに変化していた。これはもしや、前にもあった特段階というやつなのだろうか。自分にはそれが複数回あると聞いた、きっとそうだろう。
ああ、また自分は強くなったのか。胸の辺りが温かくなって、髭切は踵を返した。前のときも、彼女は喜んでくれた。今回も笑ってくれるだろう。あたりを見渡したが、もう敵影はない。髭切は主の元へ駆け戻った。
「主!」
「髭切さん!」
自分の様子をちゃんと確認していてくれたらしい彼女は、顔を上げてぱっと嬉しそうな顔をする。ああほらやっぱり、あの子は自分が強くなったことを喜んでくれた。そのことに髭切もまた自然と笑顔になる。
「あはは、また強くなったよ、僕」
「特二がついたんですね、おめでとうございます」
歩み寄ってきた彼女の両手を掴んで、髭切は口を開いた。ああ、言わなきゃ。さっき言いかけたことを、伝えなきゃ。
ぎゅっと小さな手を握り、真っ直ぐと目の合うように屈みながら髭切は切り出す。
「ねえ、この間の話だけど」
「……えっと」
「僕の幸せって、何って、君が聞いたこと」
彼女が僅かに顔を強張らせたので、逃げてしまわないように髭切はしっかりと手に力をこめた。
「君が、寿命は百年くらいかもしれないけど、その間ずっと僕の主でいればいいって、前に言ったよね」
「……はい、覚えてます」
「それは今も変わらないよ、ずっと変わらない」
この子が生きている間、それはたかだか百年に満たない時間かもしれない。けれどその間中はずっと、自分の主でいるように。その寿命が途中で不意に途絶えることのないように。髭切はそのために彼女を強くし続けてきた。それが自分の「幸せ」なのだと思っていた。
「でも、でももうそれだけじゃ満足できないんだ」
「え……?」
「それだけじゃ、嫌なんだよ」
彼女の二つの瞳が、しっかりと自分のほうを見ている。うん、やっぱりこうでないと。
長生きしてくれれば誰でもいいのではない。強くなれば誰でもいいのではない。この子が、自分を見ていてくれないと。
髭切の言うことなすことに泣いて笑って、それでも諦めずに歯を食いしばって戦場に走ってきた、髭切に「幸せになれ」と言ってくれたこの子でないと。
だからそう、言わなくては。髭切が口を開いた瞬間だった。
「あのね……」
「っ、髭切さん!」
突然、ハッと彼女の目が見開かれ突き飛ばされる。不意を突かれたせいで、髭切はそのとき初めて彼女に地面に倒された。ひゅうっとなにか冷たい風のようなものが通り抜けていく。同時にパッと土の上に真っ赤な飛沫が散った。
「つ、ぅ……」
「っ主!」
ぎゅうと髭切の腕を、彼女の指が痛いほど握り締めていた。その肩の辺りに赤く血が滲んでいる。荒い息をして自分にしがみついているその姿を見て、髭切の中でぞわぞわと熱いものが込み上げた。全身の毛が逆立つような感覚が背筋を走りぬけ、ぎりぎりと奥歯を噛み締める。片腕で彼女を抱き上げると、髭切は吼えて立ち上がった。
避けていてどうにもならないのは、彼女にもわかっていた。
「あれは難儀な性格をしているからなあ、あまりはぐらかしていると後で痛い目を見るぞ」
三日月に困ったように笑いながら言われた。それはわかっている。わかって、いるのだけれど。でも向き合う勇気もなかった。
自分の、気持ちと。
「よいではないか。あれは今そなたにとってたった一振の刀剣。これまでの経緯を考えても、そなたがあれを大切に思うのは至極自然なことに思えるが。それがどういう意味であれ」
「……そうでしょうか」
「何を迷う? 髭切もそなたが主であることを望んでいるではないか」
それは、わかっている。三日月の言葉に彼女は自分の衣服を握り締めながら俯いた。
とても幸せなことだ。自分の刀剣男士が自分を主にと強く望み、それに応えられるだけの環境がある。審神者としては恵まれすぎている。本丸に所属する審神者がそれぞれ資材管理や戦績の良し悪し、数多くの刀剣たちとの関係で思い悩んだりする中で、自分はどれだけ幸福な立場なのか痛いほどわかる。政府という、あくまで守られた場所で髭切と三日月の指南を仰ぎ、庇護され、その上で戦っている。そんなのは、甘えでしかない。戦争なんかではない。生ぬるい。
包帯だらけの少女がまた頭を過ぎった。
「この間、三日月さんの、主さんを見て」
「……うむ」
「私、怖いと思ってしまって」
その言葉に、三日月は呆れることなく優しく微笑んで頷いた。
「それは、ヒトの子として至極当たり前の感想だ。俺の主は主として戦い、負傷し、覚悟の上あの姿でいる。むしろ自分の刀剣たちを犠牲にして、我が身は怪我のひとつも負わねば、あの子は納得せなんだろう。だがそれを今のそなたに強いるのは酷というものだ。そなたにはまだ、経験も見識も足りん。それほどの心積もりを今からする必要はない」
「……ありがとうございます、わかっています。私はまだまだ新人で、怖いものも知らないこともたくさんあるって。でも、私、思ってしまったんです」
「何をだ?」
軽蔑されるかもしれない。そうわかっていながら、彼女は三日月の問いに答えるため口を開いた。
「私は、髭切さんに怪我をしてほしく、ないんです」
どこも、損なってほしくない。その体のどこも。刀身だけではない、あのヒトの器もひっくるめて全部、怪我をしてなんてほしくない。
毎日笑って、食事をして、楽しいことをしていてほしい。そんなの、主としてあるまじき願いだ。武器である彼らに、鈍らであれと言うようなものだ。審神者として完全に失格だ。特に、「君の刀剣でありたい、君に主でいてほしい」と願う、髭切にとっては。
「それはヒトとして当然の感情だ。俺たちは刀とはいえ今はヒトの形を得ている。俺たちがどう振舞おうと、思おうと、ヒトの子がそれを損ないたくない、忍びないと感じるのは真っ当なこと。そなただって見てきただろう、他の審神者を。ヒトとモノとの齟齬に苦しみ、酒に逃げた者もいた。俺の主のように、何が俺たちにとってもっとも誠実であるか惑った者もいた。悩み苦しんだのはそなたも同じだ」
「でもそれじゃ、髭切さんを幸せにはできないんです!」
思わず彼女は叫んでいた。三日月の、月夜の瞳が見開かれる。
「……そなた」
「私は、髭切さんに幸せでいてほしいんです。刀としてだけじゃない、ヒトの体がある、生きているモノとして、幸せでいてほしいんです」
この感情が間違っていると、わかっている。これは髭切が望む感情ではない。主として抱く気持ちではない。でもそう願ってしまうのなら、彼女ができることはもうたった一つしかないのだ。何も言わないでいてくれる三日月に、彼女はただ呟いた。
「だから私は、強く、立派な主にならなくちゃいけないんです」
髭切が望むのが「死なない主」だというのなら、そうなるしかない。もう二度と髭切に主を失わせないために。決して目の前でなんて死なないために。それが髭切の幸せだと、言うのなら。
だから、些細な書類仕事にも打ち込んだ。できるだけ、自分で一人でもこなせる仕事を増やしていこうとした。主として一人前になれば、髭切も喜んでくれるはずだ。加えてそれで髭切を避けることになるのは、彼女にとって好都合でもあった。
自分の中の恋心を、無視できる。なかったことにできる。
けれどいざというとき反射的に動く体は止めることができなかったのだ。そこにそれまであった死への恐怖と最早遠い普通の日常への執着は、もうなかった。
麻酔が効いているので一刻程眠り続けるが、傷はそう深いものではない。ただし左肩に負担をかけると治りが遅くなるゆえ、この間までお前がしていた三角巾を付けさせよ。
三日月宗近はそう髭切に言い置いて部屋を出て行った。返り血で真っ赤になった上着やら何やらは適当に洗浄しておいてくれたらしく、今は跡形もない。髭切が抱えていたがためにともに汚れた彼女の衣服や体も、治療のときに清めてくれたようだ。傷の負担にならないよううつ伏せに寝かされた彼女の顔や髪も普段通りだった。
ベッドの傍らでじっと彼女の横顔を眺めていると、一刻が過ぎたのか眉をしかめて彼女が呻く。ハッと髭切は立ち上がりかけたが、やめて足を組みなおした。
「目が覚めたのかい」
一瞬だけ何が起きたのかわからないという表情をした彼女は、髭切の声を聞いてハッとしてこちらを見た。その視線が思いの外はっきりしていたので、僅かに髭切のざわめいていた心がやっと落ち着いていく。
「ひ、げきり、さん」
「ここがどこかわかるかい」
「……」
慌てて彼女は起き上がろうとしたのだが、傷が痛んだらしく顔を顰めて崩れ落ちかける。髭切は腕を伸ばしてその体を支え、座るのを手伝ってやった。緩く着せられた寝巻から覗く包帯は白いままだ。傷はうまく塞がろうとしているらしい。
「傷が治るのに三月かかるって。その間君への出撃要請はもちろんなし、治療に専念するようにって三日月宗近が言い置いて行ったよ」
「う……は、はい」
目に見えて彼女は髭切の声音や態度に怯えていた。目が合ったのは覚醒したときの一度だけだ。それからは居たたまれなさそうに視線を伏せている。いや、当然である。そうでなくては困るのだ。髭切とて自分の声があまりに怒気を隠せていないことはわかっていた。
「しばらくは肩に負担を掛けないようにこの間僕が使っていた三角巾を使えって。それからゆっくり休むようにって言っていたよ」
「はい……」
「他に何か聞きたいことはある?」
そう尋ねれば、彼女はいくらか惑ったようだった。何度か髭切の手足を目で確認したあとに、おずおずと口を開く。
「あの、髭切さんに、怪我はありませんか?」
ぐっと髭切は奥歯を噛み締めた。よりにもよってそんなことを聞くのか。自分が無傷かどうかだって? 何を言うんだ。
「ないよ、どこかの愚かな主が庇ってくれたおかげでね」
棘のある言い方をした、とすぐに思った。けれど堰を切ったようにぽろぽろと口から言葉が出てくる。髭切は苛立ちのままわっと話し続けた。
「君は僕の教えたことをすっかり忘れてしまったのかい」
「ご、ごめんなさい」
「この間といい、何度言えばわかってくれるの? 僕が戦っているときは安全な場所にいるべきだって、最初からずっと言っているじゃないか」
審神者がいなければ、刀剣男士である髭切は戦うことができない。どうやったって無理だ。顕現を維持できないのだから。いや、それ以前の問題である。主が先に死ぬなど言語道断だ。そう何度も何度も言ってきたというのに、よりにもよって髭切を庇って負傷するとは何事なのだ。
「ねえ、僕がどうして君を育てているのか忘れてしまった? 僕はそんな風に君に物を教えた覚えはないよ。がっかりしてしまうな。僕に主なしでどう戦えっていうんだい?」
「……はい」
「僕を庇えだなんて一度だって教えなかったよ、なのに」
それなのに、どうして目の前で怪我なんて。
言ったのに、君は前に、確かに言ったのに。
「僕を置いて死んだりしないって、言ったじゃないか。ねえ、忘れてしまったの?」
ずっと俯いている彼女の顎を掴んで、こちらを向かせた。そして、髭切は動きを止めた。いや、止めざるを得なかった。
「……どうして、笑っているの」
ほろ、ほろと彼女の瞳からは涙が零れていた。けれど口元には確かに笑みを浮かべていたのである。泣きながら笑っている。髭切の指先を、温かい涙が伝っていった。
「ごめ、ごめんなさい、私」
「……」
「髭切さんが、怪我、してなくてよかった、って、一番に、思ってしまって、髭切さんが無事で、幸せだって」
あはは、と力なく彼女はそう言った。ひくりと彼女の喉が嗚咽で震えたのがわかる。次から次へと涙が頬を落ちて、髭切の手指を伝いぱたぱたと音を立てて布団の上に落ちていく。
胸のあたりがひどく痛い。きゅうと締めつけられるように苦しくて、何だか息まで止まってしまいそうだ。堪らなくなって、髭切は彼女の顎から手を離し、そのまま抱きしめた。
「愚かな主だね、本当に、本当に、愚かだ」
ああ、小さい。この子は本当に、小さい、ただの女の子だった。どんなに髭切が鍛えたって、育てたって、それに変わりはないのだ。
思い返してみれば、ずっとそうだった。髭切が出会ってからの彼女は、ずっとそうだった。
好きだという氷菓を暫く食べに行っていないのは、部屋で髭切の食事を作り、言われた通りの献立を食べるため。筋肉が付き、しなやかな体になったのは髭切がいざという時のために強くしたから。でもその代わりにこの子は何を失った。
年頃の女の子らしい楽しみもなく、初めて戦ったあの日は普通でいたいと泣いたのに。怖いのは嫌だと、人間の男性と幸せになりたいと言ったのに。それなのに髭切はこの子から何を奪った。そしてこれから、何を奪おうとしている。
「ごめ、なさい、髭切さん、ごめんなさい」
「……よしよし、いい子、いい子。大丈夫」
シャツがじんわりと涙で濡れて、体温が伝わってくる。泣いているせいかいつもより高いそれと、早い心臓の音。
この子の寿命は長くて百年かそこら。その間中、ずうっと自分の主でいればいい。途中で死ぬことがなく、いつまでも自分を使ってくれる主が欲しい。
それが髭切の「幸せ」だった。この子と一緒に、そう在ろうと思った。彼女に自分を見ていてほしかった。髭切と共に在ろうとしてくれたこの子にそうしてほしかった。
でもそれは、この子の幸せではない。
髭切は一度だけ長く瞬きをして、ぎゅっと彼女の体をそれでも痛まないように抱きしめた。大切な、僕の主。
「大丈夫、大丈夫。大した問題じゃないよ。……僕が必ず、君だけは幸せにしてあげるからね」
その為に、この手を離すなら今しかないのだ。