【Web再録】春に眠るきみのこと③
「金木犀の匂いがしますねえ」
審神者が目を閉じてそう言った。三日月もまた鼻を鳴らしてみる。確かに風に乗ってほのかに甘い香りがしてきた。もうそんな時期が来たのか。
「本丸内に、金木犀は一本しかないんです。もう少し増やせばよかったですかね」
「主は金木犀は好きか?」
そう聞けば、彼女は深呼吸してから「はい」と返事をする。思い返してみると、金木犀の木は執務室より少し離れた場所にあったはず。それでも強い香りのその花は、風に乗ってここまでその芳香を届けてくれるらしい。
三日月はふと思い立って、隣に座って仕事をしていた彼女を抱え上げる。突然宙に浮いた彼女は驚いて、わたわたと手足を動かした。
「えっ? なんですか? えっ?」
「金木犀が遠いなら俺たちのほうから向かってやればよい。さあ行こうか主」
自分で歩けますとか、降ろしてください恥ずかしいですとか騒ぐ審神者を他所に、三日月はすたすたと進んで金木犀の植えてある辺りまでやってきた。ちょうど中庭に面していたので、下駄を突っかけて庭に下りる。金木犀の木下、よいしょともう一度彼女の体を抱えなおし、小さな橙色の花を数え切れないほどに咲かせた木を見上げた。
「どうだ主、よい香りだな」
「……はい、とても。可愛らしい花ですね」
ほんの少し頬を染めていたけれど、それでも顔を綻ばせて審神者は再び深く息をする。ちょうど腕に座らせるようにして彼女を抱えていたため、三日月の顔の横には彼女の胸元があった。何気なく三日月はそこに耳を寄せてみる。当然ぎょっとした彼女は慌ててそれを引き剥がそうとした。
「なっにしてるんですかっ! 離れてください!」
「んー? そなたが息をすると、胸が膨らむだろう?」
「そりゃそうですよ、息してるんですから」
「生きているのだなあと思ってなあ」
彼女は三日月の髪をかき乱していた手をぴたりと止める。三日月は嬉しそうに目を細めて、彼女の呼吸音と鼓動を聞いていた。
仕方なしに動くのをやめ、彼女は大人しく三日月の首に腕を回してじっと金木犀を見上げた。確か花言葉は「初恋」、因果な花だなと思ってしまう。
それからふああと一つ欠伸をした。
「眠いのか?」
「最近どうも眠くてですね。暑すぎず寒すぎず、気温がちょうどいいからでしょうか」
彼女が答えると、三日月は踵を返して本丸に上がった。今度はすたすたと執務室ではなく審神者の私室に向かう。
「え、ちょっと、執務室こっちじゃないですよ」
「眠いならじじいと昼寝でもしよう。無理は禁物だぞ」
「だったら一人で寝ますから! 降ろしてくださいっ」
はっはっはと大らかに笑う声が本丸に響く。
葉が色づくにはまだ少し早い。けれど時間は刻々と過ぎていた。秋が確かにやってきたのである。
❀
『長月晦日
今日の菓子、団子
みたらしがいいかあんこがいいか、燭台切に問われたゆえどちらも一串ずつ頼んでおいた。二つも食べるのかと驚かれたが、主と半分ずつにすると言えば快く二串持ってきてくれたぞ。ともに食べると菓子はうまいなあ。秋は食欲の季節らしいな。主もたんと食べねばな』
三日月が懐からノートを取り出し、審神者に手渡す。いつぞやの夏の日に買った、あのノートだ。
「主、今日の分だ」
「あ、はい。頂きます」
どうしてもあのノートで交換日記をするのだと、三日月が駄々をこねたのはデートをした翌日だった。交換日記なんて、もう過ぎ去った時代の産物ですよと彼女はたしなめたのだけれど、「嫌だ、するのだ」と聞きやしない。結局彼女のほうが折れて、交換日記に付き合うことになった。とはいえやはり恥ずかしく、せめて備忘録にさせてくださいと譲歩してもらう。とりとめのないことを書きつけて、その隣に一言コメントを添えて、日記のように。二人で毎日を綴るためのノートにと。
一回に一ページ毎。三日月が右側、審神者が左側のページを埋める。結構分厚いノートなのだが、そうして使うと確かに早いうちになくなってしまいそうだった。だがもちろん彼女も忙しくて書けない日があったりして、たまに日付が飛ぶ。
「三日月さんは筆まめですよねえ。一日でノートが返ってきてしまいますから」
「その点主は遅いなあ。最初の何度かは袖にされたのかと思ったぞ」
「あはは、すみません。なかなかどうして、何を書いたらいいのかわからず」
「何でも構わんさ。そなたの日々を、そなたの口から聞きたいんだ。それが何であっても構わない」
交換日記なんて、小学生の頃したっきりのような気がした。そのときは女の子同士、好きな人の話やら、授業の話やら色々書いたような記憶もあるけれど。相手が三日月となれば話はだいぶ変わってくる。彼女がなかなかノートを返せないのには、そういう理由もあった。
対して三日月のほうは、つらつらと迷った形跡もない美しい字がいつも綴られていた。今日の菓子に献立、それから感想。中庭の花が咲いた、こんな夢を見た。割と何から何まで書いてくる。最初は達筆すぎる字を解読するのに時間がかかったけれど、この頃は彼女も少し笑いながら三日月の筆跡を追うことができるようになっていた。
「ふあ、あ。あとできちんと読んで、返しますね。今は仕事が立て込んでいないので、割とすぐに返せると思いますよ」
「はっはっは、待っているぞ。それより主、また眠たいのか?」
「え? ああ、失礼しました。大口で欠伸をして」
「いやそれは構わんが。眠れておらんか?」
「いいえ? そんなことないですよ」
むしろ前田や清光が随分世話を焼いてくれるので、安眠しまくっているくらいである。前田はそろそろ気温が下がってきますからと、まだそんなに必要もないのに大量の毛布を出してくるし、清光は病気をしやすい季節の変わり目だからとリラックス効果のあるアロマを焚いたり、加湿器をつけたりする。審神者の体は相変わらず快調そのもので、特に風邪ひとつも引いていないのに。くすりと彼女は笑った。
「皆さん過保護ですよねえ、私、そんなにやわじゃないのに」
ふふふと笑う彼女を、三日月はじっと見つめた。注意深く、頭の天辺からつま先まで。どこも変わった様子はない。痩せたりなんだりもしていない。だがそれでも、三日月の脳裏ではこんのすけの声が響いていた。
『主さまの最期は、ヒトで言う老衰に近いものでしょう。段々とお休みになっている時間が長くなり、最期にはそのまま……』
最近、彼女は欠伸をしていることが多い。おやすみの挨拶をしてからも、前は本を読んだりなんだりしていたようだが、近頃はすぐに寝入っている。いや、寝入っているというよりは気がついたら眠りに落ちているという表現のほうが正しいのかもしれない。
まだ早い、と三日月は内心で呟く。まだ秋だ、彼女が死ぬといわれている一年までに半年もあるはず。こんなにも早く、衰えていくというのか。
「ふむ、だが主がいかに丈夫だといえど、油断は禁物だぞ。眠いのなら少し休んでいるといい。じじいが代わりに仕事をしておこう」
「ええ? 結構ですよ、大丈夫です。さ、続きを片付けてしまいましょう」
彼女はノートを文机の端に置いて、記入していた帳簿を捲り始めた。その指先をじっと注視する。ページを手繰りよせ、するりと動くその指。三日月はふと、不思議になった。
「……そなたは何で動いているんだ?」
「ええ?」
何を元に、動いているのだろう。食事だろうか、それとも呼吸だろうか。どうして動いているのだろう。
すると彼女は何を言っているのやらという顔をして、くすくすとまた笑い声を上げる。
「そりゃまあ、生きてますから」
彼女は「何を元に」ではなく「どうして」動いているのかと質問されたように思ったらしい。けれどなるほどそうか、この娘は生きているから動いているのか。三日月はそのどこかちぐはぐな解答に納得した。
……では、死んでしまったら動かなくなるか。そんな当たり前のことにふと思い至り、三日月はそれを惜しいと素直に感じた。動いている彼女はとても好ましいのにと、それを見ているのが自分は好きなのにと、酷く惜しかった。
たたたっと軽やかに、だが焦った様子の足音が響く。そしてすぐに広間の襖がスパンと開けられた。息を切らして部屋に駆け込んできたのは前田藤四郎である。
「主君が目を覚まさないんです!」
その一言でさっと清光と三日月が立ち上がる。前田がすぐに踵を返したのと同時に、広間から飛び出した。
確かに、いつも早起きをしてくる審神者にしては今日は顔を出すのが遅いとは思っていた。だがそういう日もあるだろうし、ゆっくり眠らせたかったのでそのままにしておいたのだ。前田は体調でも崩したのかと声をかけたのだろう。
私室では審神者が仰向けのままじっと横たわっている。三日月は一番にその胸元を見た。微かにだが上下している。呼吸をしているということはまだ生きているということだ。とりあえず一息つくと、救急箱を持った薬研が彼女の枕元に膝をついた。
「脈はある、息もしてるな。だがいつもよりずっと弱いぞ。加州の旦那、こんのすけを呼んでくれ。俺じゃあ手に負えんかもしれん」
清光がぐっと唇をかみ締めて頷き、再び審神者の部屋を駆け出していった。前田が傍で「主君、主君」と声をかけている。いつもどおりの落ち着いた表情と声音ではあるが、若干ながらその手が震えていた。
三日月もまた、審神者の傍に屈んでその額に手を押し当てた。体温が低い。燭台切が厨に走っていって、湯たんぽを作って持ってきた。それと同時に、こんのすけが短い手足を懸命に動かして飛び込んでくる。
「主さま、主さまっ? ああどうしてこんなことにっ、予想していたよりずっと早いですうっ!」
「予想してたよりってどういうことだよ! 主はあと一年は大丈夫なんじゃ」
「ううう、気温が下がってきたのがいけないんでしょうか、それともお疲れなんでしょうか? とにかく今主さまのお体は弱っていらっしゃいますっ! まだ微弱ながらといったご様子ですから、長くとも数日で目をお覚ましになるかとは思いますが……」
霊力が少なくなり、同時に生命力が衰えたことで、起きている時間が徐々に短くなる。そして最後にはそのまま死んでいく。こんのすけは刀剣男士たち全員に、以前三日月にしたのと同じ説明を広間で繰り返した。
一年間丸々時間が残されていたと思っていた刀剣たちは愕然とする。そんな、ではこれから冬になるにつれて、時間が過ぎるにつれて、彼女との時間はどんどん短くなっていくというのか。
肌寒い程度に思っていた気温が、突然急激に下がったかのようだった。広間に集まった刀剣たちは、黙りこくって食卓を見つめる。昨日までは、何もなかったのに。いつもどおりに主は目を覚まし、食事を摂り、それから……。
「ねえ、どうしたら、主さん長生きしてくれるの?」
乱がスカートを掴んだ拳を震わせながら、小さな声で問う。誰もそれには答えなかった。代わりに髪をくしゃくしゃとしながら清光が口を開く。
「違う、それもだけど、問題はこれから俺たちがどうするかだ。主だってきっと、一年丸々時間があると思ってたはずだから、これからどんどん寝てる時間が多くなるなんて知ったらきっと落ち込むに決まってる」
「で、でも、それ、どうしたら」
五虎退がしゃくりあげながら聞いた。清光もまた困ったように眉間にしわを寄せる。三日月が傍にあった暦に目を向けながら、静かな声で言った。
「暦を誤魔化すしかあるまい……。主にとっては、目が覚めた日は眠った次の日でなくてはならん。受け入れられるようになるまでは、そうしてやろう」
暦を、捲らないでおく。彼女が起きた日しか、時間は進まない。子供騙しかも知れないけれど、それでなんとか誤魔化せる。しかし清光も考えた末に頷いた。
「……そうだね、じゃあ、そうしよう。皆部屋の暦も、広間も厨も、主に合わせて捲るんだ」
主を謀ることになる。そのことを皆わかっていた。だがこれ以上、自分たちの主を悲しませたり苦しませたりしたくない。その一心だった。
「これから、出陣は最小限だ。主に不要な手入れやらなにやらをさせちゃダメ。これ以上霊力を使わせないこと。日課をこなす程度にしよう」
「それから、今宵より俺たちが交代で主と眠ることとしよう。眠っている間、主の体に何かがあっては困る」
「主の前では普通に振舞うんだ。いいね? 主の起きている間しか、俺たちの時間は過ぎていかない」
清光と三日月が言ったことに、広間の皆は頷いた。こんなに早く心積もりをすることになるとはと、清光は唇を噛み締める。まだ半年あると、思っていたのに。
握り締めすぎたせいか、赤くマニキュアを塗った爪が手のひらに食い込んでいた。ハッとして、それを開く。
「右手は塗りづらいでしょ? してあげるね」
まだ仲間が少ないとき、たどたどしく審神者が塗ってくれたマニキュア。本当は、もう右手も自分で塗ることができる。でもどうしても構ってほしくて、たまにマニキュアの瓶を持って審神者の元を訪れていた。
加州清光は、池田屋で折れた刀だ。大和守安定と違って、前の主の最期を看取ることはなかった。彼女こそが初めて、最後まで一緒にいられる主。
そして彼女にとっても、初めての刀。右手の指先をぎゅっと握り締めて、清光は目を閉じた。
……まだ行かないで。
「ごめんなさい、寝坊したみたいで」
すっと静かに襖が開き、目を擦りながら彼女がそこに立っている。広間にいた刀剣達の雰囲気があからさまに和んだ。こんのすけの言うとおり、今日の睡眠はちょっとした疲労から来るものだったらしい。とりあえずほっと胸をなでおろした清光は、じわりと視界が滲むのを堪えながら笑う。いつもどおり食卓に頬杖をついて、何でもなかったというように。きっと
「主の寝坊なんか珍しいから、もう少し寝かせておこうと思ったのに。おーはよ」
『神無月、いやここでは神在月というべきか。ヒトの子はこの月をそう呼ぶんだろう?
今宵から主は皆と眠るわけだな。まあそうだな、俺だけが主を独り占めにするわけにはいくまい。そなたは俺の恋人でもあるが、皆の主でもあるのだからな。
しかし妬けてしまうなあ。俺より先に皆と床を共にするか。まあ楽しみは後に取っておこう。皆との夜を楽しんでおいで。だが俺を忘れてくれるな。』
うーんと苦笑して審神者は廊下で立ち尽くした。彼女が今いるのは、刀派左文字が生活している部屋の前である。しかも彼女は寝巻きで、枕まで持っている。
「どうした? 主や、廊下に立っていては体が冷えるぞ」
隣に立つ同じく寝巻きの三日月が彼女の背を押した。困惑顔の彼女は三日月を見上げて問う。
「え、いやあの、本当に順番に皆さんと寝なきゃだめですか?」
「主に残された時間を、俺だけが独占してはずるいからな。さあ、最初は左文字からだ、お入り」
審神者は今日起きるなり突然、今夜から順番に皆と寝てと清光から言われたのだ。俺たちも主との時間がほしいからという言い分を聞いては断れないのだけれど、それにしてもなかなか緊張する。しかも最初が左文字とは。
彼女がいつまでたっても動かないものだから、閉じていた襖のほうがすっと開いた。中からはんなりとした顔の宗三左文字が訝しげに彼女を見る。
「何してるんです、もう布団は用意してありますよ。おや、枕も持ってきたんですか。僕らの部屋のあまりでもいいかなと思っていましたが」
「えっと、え? ちょっと待ってください、布団その配置なんですか?」
宗三の体の隙間から中を見た審神者は思わず声を上げる。部屋のうちでは、小夜がせっせと寝具を並べていた。江雪が右端の薄水色をした布団に座しているところを見ると、江雪はそこで寝るのだろう。そして桃色の掛け布団がある左端が宗三。そして真ん中の青いものが末弟の小夜なのは理解ができる。しかし小夜が自分の隣におそらく彼女用の枕を置いたのは何なのか。
兄弟三人で川の字ならば微笑ましい。左文字の兄弟は仲良くやっているのだなと彼女も安堵した。けれどなぜその真ん中に自分も入っているのだ。
「わ、私も端でいいですよ」
「おや、お小夜の隣は不満ですか。聞き捨てなりませんねえ」
「そうじゃないですっ! そうじゃないんですよ小夜、寂しそうな顔をしないでください」
あわあわと審神者が弁解をしていると、枕を並べ終えた小夜がさっと彼女の手を掴んで中へと引っ張る。審神者が困惑していると、三日月が再び彼女の背を押した。
「では宗三、後は頼んだぞ」
「ええ、わかりました」
三日月に押され、小夜に引っ張られる形で審神者は左文字部屋に足を踏み入れる。宗三がすかさず襖を閉めた。布団の上で本を読んでいたらしい江雪も顔を上げる。
「では兄上、もう明かりを消しますからね、本はしまいにしてください」
「わかりました」
「えっ、本当に私が真ん中なんですか?」
「そうだよ、寒いのも寝不足も主の体に障るから早く寝よう」
暗い中立ち尽くしていても仕方がない。結局彼女はじわじわと屈みこんで、小夜が捲ってくれた同じ布団にもぐりこむ。すると小夜はその細い腕を彼女の体に巻きつけて抱きついた。温い幼子の体がしがみ付いてきて、普段の小夜の様子を思い返した審神者は戸惑う。もちろん嬉しくないというわけではない、単純に驚いたのである。すると背後から宗三のほうも彼女に体を寄せ、江雪もまた側臥位を取って大きな手を彼女の肩に乗せた。
普段飄々としてあまり距離を縮めてこない左文字のそんな態度に、彼女は目を丸くする。これではまるで、小さな家族のようだった。
「ど、どうしたんです? 今日は一体」
やっとこさ小夜の体を抱き返しながら、審神者は聞いた。その問いには、江雪が寝かしつけるように彼女の体をたたきながら答える。
「何かおかしいですか、私たちとてあなたとの時間を惜しみます」
「そ、それは嬉しいですが」
「僕たちは少し、後悔してるんですよ。まだ時間があると思って胡坐をかいていたことに」
そういえば、と彼女は思い返した。決して忘れていたわけではないのだけれど、宗三左文字はこの本丸に初めてやってきた打刀であった。最初のころは清光と前田と宗三と、何とかやりくりをしつつ暮らしていた。
ツンとしてあまり素直なところのない宗三だったけれど、あるときとても懐かしそうな表情で「僕には兄弟がいるんですよ」と語った。それを見た彼女は、どうしても早く宗三を兄弟と会わせてやりたくて、躍起になって小夜と江雪を探した覚えがある。この本丸で一番に揃った刀派、それが左文字だった。
「あなたはとても若い。それに馬鹿がつくほど元気だったでしょう? 初めに呼ばれて来た僕だから、そして一番に顔を揃えた僕らだから、まだまだあなたと過ごせるときはあると思っていたんです。それがあと一年だなんて、全くあなたは生き急ぐにも程があります。反省なさい」
「ご、ごめんなさい」
宗三の物言いに、彼女は思わず謝罪する。別に彼女だって好きで死ぬわけではないのだけれど、なんとなしにそう言わなくてはならないような気のしてくる言い方だった。加えて小夜が彼女の胸に頭を預けながら続けた。
「宗三兄様は素直じゃないだけだけど、でも言っていることは本当だよ。僕たちはまだ、主と一緒にいられると思ってた」
「ええ、ですから、今急がずともあなたが落ち着いたときにでも、私たち三兄弟との時間を少しでもいただければと思っていたのです……。今となっては、言っても仕方がありませんが」
彼女はそれを聞いてもう一度だけ、ごめんなさいと繰り返した。あと一年の余命というのは自分にとっても青天の霹靂であったが、彼ら刀剣男士たちにも予期せぬ出来事であったに違いない。左文字がそんな風に考えていてくれたことも、彼女は知らなかった。
暗い中でも、部屋の隅にかけられた三振揃いの袈裟が見える。後悔はあるけれど、彼女は早いうちにこの三振を会わせてあげることができてよかったと安堵した。
腕の中の小夜と、肩に掛けられた江雪の手と、背後から小夜ごと彼女を抱きしめる宗三の三つの体温に集中する。とても愛おしい、暖かなもの。
低く、物静かな江雪の声が室内に響いた。
「……ですが私たちは、あなたに感謝をしております」
「感謝、ですか?」
「ええ。この形を私たちに与えてくださったこと、私たちを会わせてくださったこと。私たちは僧衣を纏うヒトの身を与えられました。あなたとの時間は取れずとも、真っ先にあなたを弔うことができます」
刀ではなく、ヒトの体を以ってして、左文字の兄弟は審神者の死を悼むことができる。彼ら自身の手で祈ることができる。
「僕たちは、一番にあなたを悼むよ。主が黄泉路を惑うことなく、安らかな場所で眠れるように。復讐に囚われた僕が祈っても、意味はないかもしれないけど」
「そんなこと」
「元は刀ですから見様見真似になってしまうかもしれませんけどね。あなたのために、手を合わせて差し上げましょう。僕をたくさん使ってくれた、あなただから」
「立派に勤めを果たした主のために、そして旅立つ一人のヒトの子としてのあなたのために。私たち兄弟は祈りましょう」
きゅうと胸が苦しくなって、審神者は思わず小夜を抱きしめる。小夜はじっと、彼女の鼓動に耳を澄ませているようだった。三つ布団は並んでいたけれど、左文字の三兄弟と審神者は、真ん中の小夜の布団に固まって目を閉じた。
審神者と共に眠る順番は、皆で話し合って決めたらしい。初めて揃った刀派左文字から始まり、順に全振と。彼女の本丸は一応個々人の部屋を持たせてはいたものの、寝るときは好きにしてあった。だから刀派に留まらず、思い思いにまとまって順番が決められている。最後は、清光と前田と。初期刀と初鍛刀とだった。
来派のときはまたもや審神者が真ん中に眠り、両脇に愛染と蛍丸を抱えて明石は彼女の手を握っていた。伊達ではいつも素っ気無かった大倶利伽羅が、それでもまとまって寝ようという鶴丸と光忠の言に従い、枕を片手に彼女の傍にやってくる。青江派の数珠丸とにっかりに挟まれて眠ったときはなんだか面白くなってしまって、くすくすと彼女は笑いをこぼす。
「何が面白いんだい?」
にっかりが暗闇の中で彼女の手を弄びながら問う。
「いいえ、ふふ、まさか数珠丸さんと青江さんに挟まれて寝る日が来るとは思わなかったので」
「不満かい?」
「とんでもない」
くすくす笑いを繰り返す審神者に、数珠丸もまた笑みをこぼしたようだった。低いがどこか楽しげな声をかすかに漏らし、にっかりに話しかける。
「せっかくです、にっかり、何か主に子守唄でも歌って差し上げましょうか」
「んっふふ、いいねえ」
「それは遠慮しておきます」
それはなんだか、同年代の友達とお泊り会をしているようで。ああそうか、これも自分のしたかったことのひとつなのかもしれないなあと審神者は天井を見上げた。両隣では辞したというのに本当に青江派が子守唄を歌っている。声の低い二人が、粛々と歌うものだからそれはいっそ読経のようだった。
やめてくださいよと笑いながら、彼女は目を閉じた。
「皆と眠るのはどうだ、主や。楽しいか?」
「ふふ、ええ、それなりに。なんだか友達とお泊まり会をしている気分です」
「そうかそうか、こちらの希望を聞いてもらっているつもりが、主の希望も叶えられているようで何よりだ」
「そうですねえ……ってうわっ、ここで読まないでくださいよ」
三日月が開いた交換日記を、横から慌てて審神者が閉じる。最近三日月は、主からもらった交換日記はその場で開く。中身が気になるし、内容でわからないことがあればすぐに聞けるからだ。だがぴしゃんと勢いよく閉じられたそれに、三日月は目をぱちくりとさせる。
「うん? だめなのか?」
「だ、だって恥ずかしいじゃないですか」
「何故だ? 何か恥じるようなことが書いてあったか?」
「別にそんなんじゃないですけど、なんだか気恥ずかしいんでだめです!」
やや耳の辺りを染めながら、彼女は交換日記の表紙を押さえつけている。三日月はその様子にくすくすと笑いながら、あいわかったとそれを懐にしまった。
「では読むのは後の楽しみにしておこう。して、主はいつ俺と寝てくれるんだ?」
「げほっ」
三日月が日記をしまったことで一瞬ほっとした表情を浮かべたものの、彼女はその言葉にむせ返る。げほげほと咳き込むものだから、三日月は慌ててその背を摩ってやった。
「どうした主、大丈夫か?」
「だ、大丈夫ですけど、え? 三日月さんとも寝るんですか?」
「うん? 皆と眠るのに、なぜ俺とだけは寝ないんだ」
仮にも恋人役をしているというのに、心外である。三日月がむーっとむくれた顔を見せれば、彼女はえーっとと手帳をめくった。彼女が回る刀剣男士たちの部屋の順番は、清光と三日月とが話し合って決めたもの。それを表にして彼女に渡してあるのだ。こほんと一度咳払いをして、彼女はそれを読み上げる。
「昨晩虎徹さんのところにお邪魔したので、三条さんのところはその次の次です」
「ふむ、なるほど。だがそれは三条派の部屋に主が来るというだけだろう? 俺のところにはいつ来てくれるんだ」
う、と審神者は言葉を詰まらせて手帳で顔を隠した。にまりと唇を緩ませて、三日月は畳に手をつき彼女を覗き込む。するすると三日月の上質な狩衣の袖が、畳の上を滑る音がした。
三日月は彼女の顔を隠している手帳に手をかけて、ずり下ろさせる。彼女はもう耳だけではなく、顔はもちろん首筋まで真っ赤になっていた。
「なあ主や? 俺たちは恋をしているんだろう?」
「う……」
「そうだろう? 主や」
優しく問いかければ、彼女は目を伏せながらこくりと頷いた。そのことに三日月は目を細める。
相変わらず恋がどんなものかいまいちわかっていないけれど、あの夏の日から彼女が少なからず三日月に気を許してくれていることは実感していた。眠たそうにしているところを昼寝に連れ込んでも、恥ずかしがりはするものの嫌がりはしない。交換日記も続けてくれている。
目が合えばほんの少し恥ずかしそうにして、距離を縮めようとすれば慌てて離れていこうとして。どこか挙動不審で、だが微笑ましいそんな様子は、三日月が乱や燭台切から借りた本に載っていた様子そのものだった。だから、きっと今彼女は自分と「恋」をしてくれているんだと、そんな気がして。直接気持ちを伝えあったわけでも、何が変わったわけでも、無いのだけれど。
「あるじ」
下唇を噛んで、彼女は目を伏せた。それから意を決したように小さく口を開く。
「きよみつの、あとは」
「うん?」
「一番最後に、清光たちと寝た後は、順番、終わりですから」
ぼそぼそとだが、そう呟いたのが聞こえた。皆まで言われなくても、その意味は三日月にだってわかる。三日月はぱちぱちと瞬きをしたのちふわりと微笑んだ。
「はっはっは、そうかそうか」
「そ、添い寝ですもんね? 皆と一緒ですよね? 話しながら寝るだけですよね?」
「んー? さあなあ?」
「さ、さあなじゃなく!」
審神者がぽかりと三日月の腕を叩いた。三日月はそんなの気にもせずに仕事に戻る。彼女は変わらずぽかぽかと三日月の背を叩いていた。「字がよれてしまうぞ」なんて言いながらも、三日月も唇は緩んでしまう。だって、彼女が楽しそうなのだ。
彼女が嬉しそうに笑っている。楽しそうに話してくれる。それだけで三日月も嬉しい。なんだかこうして、審神者が幸せそうにしている時間はゆっくり過ぎているような気がするのだ。だからこうしていれば、彼女はずっとここにいるような、そんな気さえして……。
「三日月さん」
不意に自分の背を叩いていた拳が止んで、代わりにポスりと温かい何かが触れた。
「うん? なんだ、主や」
「……ありがとうございます」
すり、と衣擦れの音。そこで、今背中に触れているのは彼女の額と手なのだと三日月は気付いた。
「最初は、もう自棄だったんですよ。どうせ死ぬんだからどうにでもなれって。でも、三日月さんがああ言いだしてくださって、どうせ死ぬなら好きなことしなきゃって思えました」
「……」
「皆との時間作るのも……そのうちの一つで。今まで仕事ばっかりだったから。私じゃできなかったこと、三日月さんはたくさんさせてくれます。後半年……頑張りますね。本当に、ありがとうございます」
こんな風に誰かに甘えるのも、今までありませんでしたねえと彼女は小さく呟いた。それからスッと体温は離れていって、「お菓子取ってきます」という声と襖の閉じる音が聞こえてきた。
三日月は手にしていた筆を置く。一息吐いて、天井を見上げた。
ヒトの過ごす時間のなんと短いことだろう。ちらりと文机に置かれた暦をペラリと一枚捲る。本当は、今はこの月なのに。何も言わずにじっと三日月は暦を捲ったり戻したりを繰り返した。もう既に、彼女の時間は半月ほどずれ始めていた。
まだ長時間眠ったままでいるわけではない。だが確実に眠る時間は伸びている。そういった時間は積み重なり、今は半月のずれを生み出している。これからきっともっとずれる。それを一体いつ彼女に告げるべきか、三日月は決めかねていた。あの子はそれに耐えられるだろうか。もう刻々と時間は過ぎているということに。彼女の知らないうちに、無情にも、ずっと同じだけの速度で。
『昨夜は、源氏の皆さんと眠りました。膝丸さんと髭切さんに挟まれて寝ました。皆さんの真ん中で眠るのも、最近は少し慣れて来たんですよ。二人とも手を握りたいというので片手ずつお貸ししたんですが、お二人とも同じタイミングで、全く同じ体勢で寝るものですからなんだか面白くなってしまいました。ご兄弟は似るものですね。
庭の木が葉をたくさん落としたとかで、焼き芋をしたいと鶴丸さんから申請がありました。そう言えば毎年そんなことをしていましたね。早速明日あたりしようと思って、万屋に芋を注文をしておきましたよ。三日月さんも召し上がるでしょう? 熱いですから、火傷なさらないようにしてくださいね。』
今開かないで、と言われていたけれど。三日月は交換日記の整った字をなぞる。その日の献立やら、お菓子やらのメモの傍に、添えらえた一言。日付が半月分ずれた日記帳。彼女の中で、時間は過ぎていない。今日発注したと言った芋は恐らく明日には届くだろう。だがそれを焼くのはいつになるだろうか。その日が彼女にとっては明日でも、自分たちにとっては何日後になるのだろうか。
審神者と一緒に眠った刀剣たちは、必ず翌日清光と三日月に夜の彼女の様子を事細かに報告する。皆一様に同じことを言うのだ。「とても静かに眠っていた」と。
もっと寝返りでも打ってくれたらいい。寝言でも言ってくれたらいい。でも彼女は、一度目を閉じたら一切動かないのだと。それはまるで、まるで……。
「三日月さん? 今日のおやつたい焼きなんだそうです。粒餡と漉し餡どちらがいいですか?」
審神者が襖を開いて顔を出す。それからむうっと頬を膨らませた。
「だから、ここで読まないでくださいってお願いしたじゃないですか」
「はっはっは、すまんすまん。どうしても気になってな。たい焼きは半分にしよう。二つとももらってきてくれんか」
そう言えば彼女は言われた通りにたい焼きをもらいに行った。
伝えなければ、と心は焦る。だがどう言えばいいのか、考えあぐねていた。どう言えば、あの子は傷つかないだろう。もう残された時間は丸々半年残されているわけではないのだと、一体どう伝えたら。
一番傍で、笑うところを見ていたい。だから恋をしようと思った。彼女と恋がしたいと思った。それゆえに、できる限り、悲しい顔はさせたくなかった。
三つぴったりと並べた布団で眠る。真ん中は言わずもがな審神者である。清光が嬉しそうな声を上げた。
「やーっと俺たちの番だよ。ねえ前田」
「お待ちしておりました、主君」
「いやですねえ、大げさですよ」
くすくすと審神者が笑った。もう明かりは落としているので、後は眠るだけ。だが前田がそわそわとしているのを見て取って、清光はにやにやと唇を緩めた。
「せっかくだから、主に抱きしめてもらえばー? 前田だって短刀だし、主の懐は落ち着くでしょ? 小夜は抱っこしてもらったって言ってたよー?」
そうからかうように言えば、前田は暗闇でもわかるほど真っ赤になって首を振った。
「なっ、な、いいですよっ!」
だが審神者のほうは「そうですねえ」なんてのんびり言って、前田に向かって腕を広げた。前田はぎょっとする反面、一層赤くなっておろおろとし始める。
「うん? いいですよ、さあどうぞ。いらっしゃい前田君」
逡巡した後、前田は結局審神者の胸に納まった。「しゅくん」と小さな呟きが聞こえて、清光は微笑む。いつもしっかりしている人ほど、甘えるのが下手だというのを清光はよく知っていた。今隣に横になっている主も、そういう性格だったからだ。
みーんな素直じゃないんだから、と内心でぼやきながら清光は微笑んで目を閉じた。いや、閉じようとした。というのも、隣から夜着を引っ張られたのだ。
「どうしたの? 主」
「清光も、ほらどうぞ」
「えっ?」
片腕で前田を抱えながら、審神者は清光にも手を伸ばしている。清光は慌てた。そういうつもりではなかったのだ。
「い、いいよ俺は。打刀だし」
「関係ありませんよ。ねえ前田君?」
「ええ、加州さんもぜひ」
にやあと前田は笑っている。完全に確信犯の表情だった。こいつめ、と清光が思うよりも早く、審神者が彼の手を掴んで引く。危うく前田同様に抱きかかえられそうになり、清光は寸でのところで自分が審神者を抱く体勢をとった。ここで前田と同じようにされたのでは、他に見られたとき何と言われるかわからない。
前田ごと清光は審神者を抱え、顔が赤くなるのを悟られないよう「これでいい?」とやけくそに聞く。それでも彼女は満足げに笑った。
「なに、そんなに嬉しそうにして」
「ふふ、いいえ。何でもないですよ」
ぐっと清光は奥歯を噛み締めた。気を緩めたら泣いてしまいそうだったからだ。
本当に死んでしまうのか。本当に、いなくなってしまうのか。そんなこと考えたくもなかったけれど、こうしていると嫌でも考えてしまう。自分とヒトの子は、生きている時間がまるで違うのだと……。
「あ、主はさっ、結局今のとこどうなの? 三日月と」
苦し紛れに話題を変える。いきなり爆弾を飛ばされた審神者は慌てふためいて清光を見た。
「えっ、ええっ」
「俺たちが押し付けるみたいにして、恋してなんて言っちゃったからさ、もし困ってたら、あれだし」
「お、押し付けだとは思っていませんよ」
「じゃあ、好き?」
あーとかうーとか言ったあとに、審神者は小さく「感謝しています」と呟く。
「きっと、三日月さん恋なんてわからなかったでしょうに。そんなことを言い出して、私を思いやってくれたことを、とても……感謝しています」
「感謝だけ?」
「う……いいえ、少しだけ」
彼女は皆まで言わなかった。だがそれでも、彼女を抱えて寝ていた清光は、彼女の体温が少し上がったことや頬の辺りが赤くなったことから、それから先を察する。そして同時に安堵した。今まで一緒に過ごしてきて初めて、彼女のそういう表情を見たのだ。
「……なあんだ、心配して損しちゃったよ」
「でも、ど、どうしましょう。実はうっかり次は一緒に練るって約束をしてしまって」
「ええっ?」
「主君と二人きりですかっ?」
途端に前田の目の色が変わった。清光はやばいと直感的に感じる。粟田口の中でも、怒らせてはいけない男ナンバーワンが前田藤四郎である。
「嫌々とかではないですよね、主君」
「無理やりとかではないんですよ、でも、その、つい口に乗せられたというか」
「今なら何とかできますよ主君」
「ま、前田、落ち着いて、ね?」
そう嗜めつつも清光はくすくすと笑う。
主が楽しそうにしている。今まで見たことのないような表情を浮かべている。
ただそれだけで、もうよかった。あとはもう、願わくは……これからの毎日が、できるだけ多く残されていることを祈るのみだ。
❀
トントン、と襖を叩く音がした。審神者は今まで見つめていた通信端末の画面を消して、一度だけ深呼吸する。それからやっと「はい」と返事をした。
「入るぞ」
寝巻きの単衣に紺の羽織を着た三日月が、審神者の私室に足を踏み入れる。清光たちと眠ったのだから、今日は三日月の番だ。昼間に、審神者は三日月にそっと囁かれた。「今宵、参るぞ」と。
部屋に招きいれたはいいものの、審神者はおろおろと落ち着かなかった。その様子を見ておかしかったのか、その正面で胡坐をかいた三日月がくつくつと笑う。
「主、何をそんなに慌てる? 夜共に眠るのは二度目だろう?」
「だ、だってあれは、三条の皆さんもいらっしゃったじゃないですか、最終的には枕投げ大会になってましたし」
「まあそうだが、俺が夜にこの部屋に来るのも二度目だぞ」
それで彼女はああ、と思い出す。最初に三日月がこの部屋へ来たのは、「恋をしよう」と言い出した日だった。
「……そうでしたね」
あれは春の夜のことだった。もうなんだか随分昔のことのような気がする。たった、半年ほど前のことなのに。
「この半年、随分たくさんのことがあったので忘れていました」
しみじみと彼女は呟いたが、三日月はむっと頬を膨らませる。
「おや、恋人の訪れを忘れるとはいかんなあ、主」
「あっ、あのときは恋人じゃなかったじゃあないですか」
三日月の表情を見て、彼女は慌ててそう言った。あのときは、本当に突拍子もないことを言うものだなあと、あまりに驚いてそれどころではなかったのだ。それに、彼女自身現状に混乱して、羞恥や何やらを感じ取る余裕もなかった。何せ、ちょうど余命を宣告されたすぐ後だったので。
唇を緩め、彼女は微笑む。本当に長い半年だった。今までの一年はあっという間に過ぎていて、色んなことを見落としていたかもしれない。それが今は、とても惜しい。
「何を、考えている?」
「いいえ、今まで随分勿体無いことをしてきたなと」
「何をだ?」
「長い年月をおざなりにしてきたような、そんな気がするんです」
もっと、もっと時間はあると思っていたから。浅はか過ぎましたねと彼女は反省した。急に、今まであると思っていたものがなくなるのなんて、よくあることなのに。
「……よいではないか。主は半年前、それに気づいた。時間はまだある。得たものは後悔だけではないだろう?」
膝を進めた三日月に、手を取られる。彼女は小さく、そうですねと返事をした。
三日月は取った彼女の手をしげしげと眺めて、それから自分のものと合わせた。当然だが、その大きさには結構な差がある。それに刀を持つ三日月と彼女とでは、手のひらや節々の感触がてんで違った。
「主の手は小さくて柔いなあ」
「そりゃあ、三日月さんと比べたらそうですよ」
「はっはっは、それもそうか。しかしそれにしても、愛い手だ」
合わせていた手を、指を絡めるようにして握られた。思わず彼女はどきりとする。なんだかちょっと感傷に浸っていたので忘れていたが、そういえばこれから一緒に寝るのであった。
急に耳や頬、首の辺りが熱くなる。慌てて手を離そうとしたのだが、三日月のほうが離してくれなかった。
「んー、主、あまりにつれなくはないか。布団が随分離れているようだが」
「え、ええとそれはですね」
「以前はさておき、今日の俺は主の恋人のはずだが?」
「そ、そうなんですけど」
「主や」
ぐいと手を引かれて、彼女はいいように三日月の腕に倒れ込む。寝巻に薄い浴衣を着るんじゃなかった、と彼女はやや後悔した。これでは、全てがダイレクトに伝わってしまう。体温も、鼓動も、全部全部。何もかもがそのまま三日月にわかってしまう。
彼女自身の、気持ちまで。
肩に腕が回り、抱きしめられていよいよ審神者は焦った。彼女とて子どもではないので、男女で、二人きりで夜一緒になんているのがあまりに不用心なのはわかっていた。だがそれでも、今日は三日月に聞きたいことと、伝えたいことがあったのだ。
「主」
「あ、あの、えっと」
大きくて暖かい手が、首筋のあたりをなぞって頬に触れる。軽く持ち上げるように力を込められて、彼女は三日月のほうを向かせられた。
あの月を浮かべた瞳が、真っ直ぐに自分を見つめているのがわかる。それを逸らすことなんてできやしなかった。頬に添えられた手が顔を押え、三日月の鼻先が近づいたとき、彼女は思い切りその胸を押した。
「まっ、待ってください!」
「……主?」
今、キスできたらきっと幸せだっただろう。彼女はずっと普通の女の子がすることを自分もしてみたかった。恋愛はその一つで、それを三日月はこの部屋で始めてくれた。それなのに、こんな気持ちのままでキスなんてできない。
「私、三日月さんに、聞かなきゃいけないことがあるんです」
「なんだ?」
すっかり興ざめだったに違いないのに、三日月は優しく微笑んで小首を傾げ、彼女に問いかける。その様子に少しだけ安心して、彼女は文机の上の通信端末を取った。
「どうした、またこんのすけが面妖なことでも言うてきたか?」
「いいえ、違うんです。これ、通信が主な機能ですけど、写真も撮れるんですよ。私はあんまり、使わなかったんですけど……」
画面をなぞり、彼女は一枚の写真を三日月に示した。前日、寝る前に執務室の文机の上にあった花を写したものだ。
「これは?」
「五虎退が、昨日くれたものです。綺麗な花が咲いていたと、私にくれました。活けておいたんです。執務室に」
「ふむ」
「それで……これが、今朝起きたときの、同じものです」
画面を、スワイプした。
ハッと三日月が瞳を見開く。その表情を見て、彼女はただ目を伏せた。やっぱりという納得と、悲しさと、どうしてという憤りと、それからやはり、苦しくて切なくて、何も言えずにただ口を閉じた。
今朝、あの花は枯れていたのだ。
おかしいと、少し前から思っていた。盛りだった金木犀はいつの間にかすべての花を落としてしまっていて、庭の紅葉は気が付いたら真っ赤になっていて。たった一日眠っていたはずなのに、時間に置いてけぼりにされている。
「……いつだ、いつから気づいていた」
「やっぱり、そうなんですね」
自分の一言が彼女の疑心を裏付けたことに気付いた三日月は口を押えたが、もう遅い。彼女いっそ笑い出してしまいたかった。三日月は元々実直な性格で、こういう隠し事には向いていないのだ。相手が清光はきっと、審神者を思って何が何でも嘘を吐き通す。だが三日月は優しいから、きっと。
だから、確かめるのも三日月に聞くのが一番だと思った。
「どのくらい、なんです?」
「……」
「どのくらい、置いて行かれてるんですか? 私」
はあと息を吐いた三日月は、諦めたように目を閉じる。それから「一月と少しだ」と小さく答えた。
一月。彼女は暦を見る。一年には、どう頑張っても十二か月しかない。そのうちの一か月、眠っている間に過ぎてしまったらしい。カレンダー一枚分ですね。内心で呟きながら通信端末をスリープモードに戻した。
「俺が、言うたのだ。主を謀ることになろうとも、それでもと」
呟くような三日月の懺悔に、彼女は大した相槌も打てなかった。余命を宣告されたときとは違う、今日は少なからず覚悟ができていたはずだった。しかしそれでも、やはり言葉にされると重みが違う。
一年の内のたった一か月。だが彼女にとっての一か月はもう、大きすぎる。
「……そうですか」
やっと出てきたのはそんなあっさりとした一言だ。他に何も出てこなかった。しかし今度は三日月のほうが、それを聞いて悲痛な表情を浮かべる。
部屋の外はやけに静かだった。清光や前田は今夜三日月が審神者の部屋に行くことを知っていたから、気を利かせてくれたのかもしれない。けれどそれは彼女に一層の孤独を感じさせた。
「泣け、主」
三日月は苦しそうにそう言うと、彼女の両肩を掴んだ。ガクリと揺さぶられて、彼女はゆっくりと顔を上げる。
「怒ってもよい。気がそれで治まらんのなら、俺を殴ってもいい。だからせめて、主や。黙るのはいかん」
「……」
「頼む、大声で、泣いておくれ、怒っておくれ。その身の内に全てしまいこんで、黙るのだけはやめよ。それではそなたが壊れてしまう」
体を揺すられても、彼女は何も言えなかった。喉の奥に何かがつかえてしまって、言葉が出てこない。これでは春の時と同じだ。
三日月は力いっぱい彼女を抱きしめて、肩口に額を押し付ける。ぎりぎりと締め付けられる痛みでやっと、彼女は首を振った。
「ど、して」
「うん」
「どうして、嘘なんて吐いたんです」
「すまん」
握った拳を三日月の胸に叩きつける。鈍い音が静かな部屋に響いた。抱きしめられているせいで、彼女は碌に動けやしない。だがそれでも腕を思い切り振って、三日月の胸を叩いた。
「気づくまでどうするつもりだったんです? ずっと隠して、そのまま一年経って私が死んだら一体どうするつもりだったんです」
「……うん」
「騙したままですか? 隠したままで、そのままで死なせるつもりだったんですか? ならどうして、どうして恋をしようなんて言ったんですかっ!」
抱きしめられていて、息もできない。涙なんてものは押し込められてしまって出てきやしないし、三日月を叩いている手は痛いし。もうどうしたらいいかわからない。
彼女だって馬鹿ではないのだから、わかっている。嘘を吐いたのは彼女のためだ。優しい刀剣たちは審神者が傷つかないように、注意を払っていてくれただけのこと。だがそれでも叫ばずにはいられなかった。だってもう、胸の奥が苦しくてたまらない。
「い、一年しかないのにっ! それなのにどうして、こんなに大事な、大事な気持ち、私にくれたんですか……っ! 三日月さん、恋なんて、わからないんでしょうっ? なのに、どうしてっ!」
春からたくさん、三日月の前では泣いた。だが怒ったのは初めてだったような気がする。かなり理不尽な怒り方なのはわかる。恋をしたいと言ったのは彼女のほうで、三日月ではない。けれど三日月はずっと殴られたままで、抱きしめたままでいてくれた。
「どうして、どうしてっ」
一層強く、拳を打ちつけた。それからもう動けなくなって、肩を揺らして荒い息を吐く。じんわりと少しだけ視界が滲む。だがそれでも泣き出したくはなかった。八つ当たりをした上で更に泣くだなんて、三日月にとっては面倒くさいに決まっている。
しかし三日月は彼女の頭を撫でて、自分の頬を寄せた。
「……そなたの言うとおりだ。俺たちのしていることはきっと、そなたにとって酷でしかないのかもしれん。例えそなたが望んだことと言えど、あと残された時間がわかっていた上で、恋をするなど。だが」
それでも。
「俺はそなたと、恋をしてみたかった」
恋は落ちるもので、するものではないと彼女が断ったときも、三日月はそう言った。『俺は、そなたと恋がしたい』と。
「そなたの姿を、一等傍で見ていたかった」
「……やめてください」
「笑ったり、泣いたり、ああそうだな、今のように怒ったり。余すことなく見つめていたかった」
「やめてって、言ってるんですよ」
「俺は今、生きているそなたの姿が愛おしい。この気持ちの名は」
「やめて!」
パンと乾いた音が響く。三日月の体を押し返した審神者が、その頬を思い切り打ったのだ。三日月は避けたりしなかった。ただまっすぐと、彼女の目を見つめて微笑む。ああこれも、春のときと同じだった。違うのは、三日月がただ優しく笑って彼女を抱きしめていること。
「やめぬよ」
「……っ」
言葉にされたくなかった。はっきりと言われてしまっては、気持ちを形にされては、もう本当に後戻りができなくなる。この気持ちに残りの時間全てを費やすことになる。
だって、この気持ちの名前は。
「俺は、今、そなたに恋をしている」
そうだろう、と三日月は彼女に聞いた。ぐっと彼女は手を握り締め、うつむく。
この気持ちは、恋に間違いないだろうという確信を、何度も何度も、否定した。「恋なんて三日月にはわからないはずだ」と、「これ以上大切なものを残したくない」と、様々な気持ちが邪魔をして。けれどもう溢れて止まらない、夏の日に気づいてしまった心は。
抑えていた涙が溢れ出す。今度は声を上げて泣いたりなんてしなかった。ただ顔を押さえて、身を縮ませて嗚咽だけを漏らす。声を上げるのはおかしい気がしたのだ。何故なら、彼女は今、悲しくて泣いているわけではない。
どうしてだろうか。悲しいはずなのに、切ない気持ちも確かにあるのに。狂おしいほど嬉しくてたまらないなんて。
「なあ、主や。年が明けたら祝言を挙げよう」
俯いた彼女の頭を撫でながら、三日月が暖かな声で囁く。
「祝言……ですか?」
「む、現世の言葉ではなんと言ったか。おおそうだ、うぇでぃんぐというやつだな」
げほっと彼女はむせ返る。するとはっはっはと三日月はおおらかに笑った。咳き込む審神者の背をなでて、柔らかに笑い身を寄せる。
「恋をしたのだから、祝言をあげねばな。乱の書物にもそう書いてあった」
「……三日月さん、結婚は人生の墓場って言葉知ってます?」
やっとこさ息を整えた彼女が、もう疲れてしまって髪を耳にかけつつ聞いた。さっきまで怒って三日月を叩いていた気持ちはどこへいったのだろう。今はこんなにも穏やかだ。
審神者のやや意地悪な問いに、三日月は嬉しそうに答える。
「やあ、墓場まで俺を共に連れて行ってくれるか。嬉しいな」
そういう意味じゃないですなんて、否定は野暮だ。三日月は少し手を伸ばし、彼女の私室の窓の障子を開けた。月が煌々と輝いて、夜だというのに明るい光が部屋に差し込んでくる。思わず彼女は目を細めた。
一月遅れていても、秋は美しい月を見せてくれた。今はもう、それでいいか。審神者が納得し、唇を緩めたとき、何かふにりとしたものが頬に当たった。
「え?」
「月が綺麗だな」
その台詞に思わずどきりとしたものの、彼女はあははと笑ってしまった。春にも同じことを言われたけれど、三日月は意味をわかっていないようだったのだ。どうせ今日も同じだろう。無論だが、彼女はその意味を知っている。だからわかるまいと思って、静かに返事を返した。
「月ならずっと綺麗でしたよ」
すると三日月はぐいと審神者の腰を抱き寄せる。それから耳元で囁いた。
「今なら死んでもいい」
その返しを聞いて、彼女は目を見開く。三日月は愉快げにはははと笑った。
「なっ、え? 知ってたんですかっ?」
「んー、俺は主の理想の恋人になるべく、乱たちに多くを教わったからなあ。これを教えてくれたのは……ああ、燭台切だったか?」
ああ流石伊達男。ロマンチックな告白の台詞は網羅しきっているわけだ。油断していた。
「ああもう、知らないと思ったのに……」
「はっはっは、うん、よきかなよきかな」
しっかり抱きしめられて、二人して月を眺めてその晩は過ごした。翌朝はとても眠たかったけれど、幾分かすっきりとした。一枚、月捲りの暦を破り捨てる。
もうじき、冬がやってくる。