きみはせふれ
大学に行こうとしていたら、ヴヴとテーブルの上でスマホが鳴って光った。何度か繰り返して鳴っているあたり、メッセージアプリだろう。立ち上げると続けて三件メッセージが表示される。
「晩御飯今日決まってる?」
「それともバイトだったっけ」
「何にもなかったら一緒に食べない? 大学の近くにあるかれえ屋さん行きたい」
ああ、量が多いって評判の。友達の誰かが言っていたなと私は思い出した。源君たくさん食べるから、そりゃあ魅力的だろう。クスクスと笑って、私は「決めてなかった、行こっか」と返した。バイトもないし、ちょうどいい。バイトだと言えばそれはそれで、源君は迎えに来てしまうけれど。
既読のマークがついて、「やった、ありがとう」と短く返事が来る。お腹を空かせておかないと、カレー食べきれるかな。私は鞄を肩から提げて、駅まで早歩きでもしようかなんて考えた。階段を一段飛ばしくらいにすれば、多少空腹になるだろうか。一つ画面を戻ってメッセージアプリの表示を切り替えると、やりとりをしていた友達の一覧になる。そこでふと、清光の名前が随分下にあるなと気づいた。
「……これでいいんだよね」
結局、清光に源君のことは言えていない。でも、それでいいはずだ。言えばきっと心配するだろうし、清光は……ただの友達なのだ。何もかも、話す必要なんてない。向こうから、連絡もないのだし。
「カレー楽しみだな」
それだけ口に出して、私は大学に向かった。
源君とは、取っているのが同じ講義を隣の席で受けて、そのあと空き時間があれば一緒にいるようになった。ゼミの研究を進めるときもあるし、なんでもない話をして学食やベンチで過ごすこともある。休みの日はどこかに出かける日もあれば、私のバイト先に何気なく顔を出しに来て、帰り道を送ってくれるときもあった。
「源君、せっかくの休みの日の夜なんだから気にしなくていいのに」
そう言っても、源君はいつも笑って首を振った。
「君のバイトが終わる時間、結構遅いから。何かあったら大変だもの」
過保護だなあなんて茶化して言えば、そんなことないよなんて口を尖らせる。ストレートな源君の優しさは心地よかった。
今はそういう風に、源君のことを好きになれればいいなと思っている。
「……あれ」
連絡がないと思っていたが、教室にもいない。大教室を見渡したが、源君はそこにいなかった。あのふわふわの髪がない。鞄からスマホを取り出して確認するも、やはり何も表示されていない。
どうしよう、電話か何かしたほうがいいだろうか。メッセージアプリを見てみたが遅刻してくるとか、そういうこともあるかもしれないし……。
迷っていたら、チャイムが鳴ってしまったので私は慌てて着席した。念のため「レジュメ取っておくね、後ろの方にいるから」とだけ送る。けれどその講義が終わるまで、源君が姿を現すことはなかった。
「源君、どうしたんだろう……」
「ごめんね、寝坊しちゃった」とその日の講義が終わるどころか、バイトが終わった頃に返事が来る。寝過ごしたなんて時間ですらないが、昨日何かあったのだろうか。どうしよう、何かと暫くスマホ画面を見つめる。すると私が文字を打つ前に向こうからふっと新しいメッセージが来た。
「明日は行くから大丈夫、気を付けて帰ってね」
明日……は、ゼミの日だ。私は着替えながら源君に「大丈夫?」ともう一度送ってみる。すると十分くらい経ってから「平気」とだけ返ってきた。源君は返事がいつも結構早い。やっぱり何かあったんじゃと思ったけれど、平気と言われた以上何ともし難い。
結局その日はそれだけでだったのだが、源君は翌日になっても大学に来なかった。おまけに連絡まで返って来ず、何かあったんじゃないかと思ったけれど、そこで私は源君の家も知らないことに気づいた。
電話をかけてみる、けれど源君は出なかった。
「ひ、さしぶりに何もない、な」
日曜日に部屋で伸びをする。家事を済ませてしまって、あとはもうやることがない。ラグの上に座って、スマホを見てみた。やっぱり源君から連絡はない。
昨日はバイトがあって、それでも一応電話をかけてメッセージを送ってみたのだが、既読さえつかなくなった。間違いなく何かあったのだろうけれど、源君はバイトもしていない上に家も知らないので、大学とこのメッセージアプリ以外に連絡を取る方法がないことに気づいてしまったのだ。
「……体でも、壊したとか」
一人暮らしで、寝込んでいるだとか。それだとよく食べる源君は困るだろうな。
電話を掛けようかと躊躇う。でも、具合の悪いときに何度もスマホが鳴るのは煩わしいかもしれない。それに、こんなに何度もというのも。私は彼女ではなくて、セフレ、なのだし。
はあと息を吐いて、ひとまずスマホはテーブルの上に戻した。別なことをしよう。源君は必要があれば連絡をしてくるはずだ。立ち上がり、何かできることを探す。本を読むか、それとも……。
「あ」
私は速足で花瓶に差したいつかの花束を手に取った。そうだ、押し花とドライフラワーを作ろう。
「綺麗に咲いてくれたね」
できるだけ長く咲いてくれるようにと思いながら活けて世話をしていたら、本当に長持ちをしてくれた。薔薇を押し花にするのは厳しい、だからカスミソウや合わせてもらった観葉植物はそうして、薔薇は逆さにして水気を抜こう。
ぱちぱちとシンクで茎の下の方の葉を落とす。綺麗にできたら……源君にも分けようか。栞にでもしたら、使ってくれるかもしれないし。なあにこれ、と笑うかもしれないけれど。
「……やっぱり連絡してみようかな」
ひとしきり、この処理を終えたらやっぱり。そうしよう。まだ日曜の昼前だ、何かあったなら家を訪ねることもできる。私は手早くカスミソウと観葉植物の水気を取って、薔薇を逆さに吊るした。
しかしシンクのごみを集めていると、ヴヴとバイブレーションの音がしたので慌てて振り返る。源君かもしれない。
「もしもし!」
「ぅわっ、早、何?」
「き、よみつ?」
聞こえてきた声が違う。耳に当てていた画面を離して確認すると、そこに表示されていたのはメッセージアプリではなく普通の通話表示。清光の名前が映されていた。
「あー、久しぶり、ごめん急に」
「え、あ、うん、久しぶり」
何と言ったら、いや友達なのだからこれで正解か。源君とあれこれあってから、清光とろくに話していなかった。もうどういう対応をすれば一番いいのか、考えなくてはいけなくなっている。
「な、んか用だった? ケーキ買いすぎたとか?」
冗談めかして言えば、清光はんーんと返す。違うのか。
「いや違くてさ。ちょっと俺、今実家まで戻ってるんだけど」
「え、なんで?」
「ちょっと物取りにね。それであんたんとこのおばさんに会って、あんたどうしてんのって言うから。どうしてんのか俺も知らないなって思って」
お母さん……。私は顔を手で覆った。余計なことを。
「……源となんかあった?」
勘のいい清光がぽつりと言う。なんか……と言われればありすぎるほどあった。どこから説明したらいいかわからないくらいに。早く何か答えなければ、清光はきっともっと訝しむ。けれど……。
「いや、なんでもかんでも俺に言う必要ないんだけどね! 昔からの友達ってだけだし」
「ごめん……」
また、気を遣わせてしまった。なんでもないよだとか、平気だとか、言いようはいくらでもあったのに。
どこかを歩いているのか、電話口からは清光の足音が聞こえた。コツコツと、そんな高いもの。清光は男の子にしては小柄というか華奢というか、細身ではあった。だからそれを気にしてかたまに踵が高い靴を履く。
最近、別な足音をずっと聞いていた。そんなことを改めて思う。
「あのさ、ちょっと話したいことあるんだけど」
カツ、と靴音が止まる。私も呼吸をするのを忘れていた。
「少しでいいから、今度時間取れない?」
わかった、と返事をするのが精いっぱいだった。プツリと通話が切れたのを聞いたのか聞いていないのかさえ覚えていない。ただ、静かになったスマホを耳元から外した。
話って、なんだろう。
ああ、もしかしたらケーキ屋さんの女の子とうまくいったのだろうか。彼女ができたって話かもしれない。清光から、彼女ができたと聞くのは二度目だ。そうしたら、そうしたら私は前と同じように……同じ、ように。
ヴーっと手の中でスマホが震える。鳴ってる、電話だ。表示された緑のボタンを押して、私は再びそれを耳に当てた。
「……はい」
「兄者の、友人の番号で間違いないか」
「……え?」
それから数分後、私は鞄だけを引っ掴んで部屋を飛び出していた。
ここであってる? 本当に? 私はスマホの地図をもう一度確認した。到底大学生が一人暮らしをしているマンションには見えないのだが、聞いた住所は間違いなくここを指示している。ならここなのだろう。エントランスに入れば、オートロック式らしく自動ドアは閉ざされていた。聞いた部屋番号を打ち込んで、応答を待った。
「はい」
「あの、電話もらった」
「今開ける」
随分落ち着いた声が答えた。男の人の声だ。電話から聞こえてきた声と似ているけれど誰だかわからない、いやしかし、今は急がなければ。私はエレベーターに飛び乗ってボタンを押した。結構上の階まで来てしまった、速足で廊下を進んで、教えられた部屋の前で止まった。ここだ、インターホンを押す。
「兄者の、友人の番号で間違いないか」
急にかかってきた電話は、メッセージアプリ経由の源君からの着信で間違いなかった。しかし聞こえてきたのが源君の声ではなかったので、私は何度か画面で着信元を確認する羽目になる。源君よりずっと低いものだった。
「そうですけど……」
「時間があるなら、兄者の部屋に来てくれないだろうか。熱を出して、ここ数日寝込んでいてな。携帯の電源も切れていた。俺はもうここにいられぬゆえ、代わりの看病を頼みたいのだが」
「えっ、熱っ? あ、今行きます!」
やっぱり体を壊していたのか! 私は慌てて財布の入った鞄にスマホを突っ込んで部屋から出た。途中、メッセージアプリで住所だけが送られてきたのでそれを頼りに何とか部屋に着いたのである。随分立派なマンションだったのは予想外だった。
ドアが開く。源君、と声を掛けようとし、サラサラとした髪の毛が揺れたのを見てやめる。
学生服の、男の子。源君と同じ蜂蜜色の瞳。けれど片方が薄い緑色の髪で隠れている。走ってきたのもあって、一気に頭の中が混乱した。部屋を間違えたのだろうか。
「っは、えっ、誰?」
「……弟だが」
「おっ、弟さんっ?」
噂の、弟さん。源君と顔のパーツは似ていて、でも真面目でしっかり者で、あんまり食べない弟さん。いや、確かに目元はとても良く似ている気がする。
「あ、もしかして、返信くれたのって」
「俺だ。すまないな、わざわざ来てもらって。休日の間は泊まり込めたが、明日は月曜でそうもいかぬ。熱が引くまでは兄者を一人にしておくのも気がかりでな。上がってくれ」
「あ、ううん、平気です。どうしたのかなって思って気になってて……お邪魔します」
大学生の一人暮らしにしてはやや広めのマンションに上がる。源君が私の部屋まで送ってくれることはあっても、私が源君の部屋に来たことは一度もなかった。綺麗に片付いている。
廊下を歩いて、リビングらしきところに通してもらった。荷物はそこにおいてくれと弟さんに促され、ソファの上に鞄を降ろす。やっぱり一人にしては部屋数も多い気がした。
「あの、源君、いつから熱出して」
弟さんは台所に立って、コンロの上にあった鍋の様子を見つつ振り返る。背丈は源君と同じくらいだけれど、背格好は弟さんのほうががっしりして見えた。
「木曜あたりから具合は悪かったようだな。連絡しなきゃとぼやいてるのが聞こえて、大学のことかと思って充電の切れた携帯を見たら、君からの連絡だった。金曜が大事な講義だったのだな、兄者がいなくとも問題なかっただろうか」
「あ、うん、発表はまだだから。一時間くらいいなくても大丈夫だと思う、源君、ゼミは休んだことなかったはずだから……」
「そうか」
なんだかいい匂いがする。なんだろう、スンと鼻を鳴らして……これはラーメンの匂いだ。何故。
「体温計……弟、まだいるの……? もう帰りなよ……明日学校だろう」
ガチャと廊下から音がして、ぺたぺたとゆっくりとした足音が聞こえた。この声はたぶん、源君だ。
「兄者、腹が減ったのではないか。らあめんを茹でたぞ」
リビングの扉に向かって弟さんが声をかける。ギィと体重のかかったドアの開閉音がして、白いパジャマ姿の源君がやってきた。
「ああ、うん、ありがとう、お前もう、帰り、な……?」
いつもの三割増しくらいでふわふわの髪をかき上げ、源君は私と目を合わせた。それからぎょっとして目を丸く見開く。
「こ、こんにちは」
「……なんで君がここにいるの? 弟、お前僕の携帯見た?」
ぐるんと勢いよく首を回し、源君は弟さんを見やった。しれっとした弟さんはどんぶりにラーメンを移し替えながら頷く。
「いくつか彼女から連絡が入っていたからな。授業のこともあった、無視するわけにはいくまい」
「いや、そうかもしれないけど、いつから携帯放っておいたっけ……」
珍しくあっちにこっちにふらふらする源君を余所に、弟さんはドンとどんぶりをテーブルに置いて自分は学ランの上着を羽織った。下から順にボタンを留めながら。あれやこれやと指示を出す。しっかり者、確かに。
「食材は買い足しておいた。水もある。薬も買ったが、明日まで熱が下がらなければ医者に行ってくれ。そもそも金曜に行っておけばここまで長引くことはなかったのかもしれないのだぞ」
「金曜は一日寝てて、あっ、携帯金曜から見てない、君ゼミは」
源君が焦ってこちらを見た。私も鞄を探ってクリアファイルを取り出す。大学のときと同じ鞄で来ていてよかった。
「あ、持ってきたよレジュメ、木曜の分も一緒にある」
「そういうわけだ。申し訳ないが後は頼む、改めて礼はするゆえ。兄者、麺が伸びる」
高校の校章ロゴの入った鞄を手に、弟さんはスタスタと玄関のほうに向かった。源君はテーブルに備え付けの椅子に引っ掛けてあったカーディガンを手に、「弟」と声をかける。
「土日にごめんね、ありがとう膝丸。うつっているといけないから、帰って早く寝るんだよ。らあめん、いただきます」
それを聞き、弟さんはふんわりと瞳を緩めて微笑んだ。ああ、今の表情は確かに源君によく似ている。
「ああ、早く良くなってくれ。君、あとはよろしく頼む」
「あっ、はい、こちらこそ」
リビングの扉を閉じ、私は弟さんを追いかけて玄関先まで向かった。靴箱からローファーを取り出し、弟さんはごそごそとポケットを探って一つキーホルダーのついた鍵を取り出した。
「これを渡しておく、必要であれば使ってくれ。この部屋の鍵だ。返すときは兄者に渡しておいてくれればいい」
「わかった。本当に、連絡くれてありがとう。どうしてるかなって気になってたから」
履いた踵を正して、弟さんはしゃんと立った。やはり背格好は弟さんのほうが大きいなと思う。そういえば、源君と一緒に剣道やってたんだっけ。
「君だろう、兄者を振った、想い人というのは」
ぎくりと肩を震わせる。そういえば、弟さんは何もかも知っているのだ。私と源君のことを、全部。
私が源君の告白を断ったことも、そのあとセフレなんかやっていることも。ついでに言うと花束と血液検査の助言も弟さんだった。
「携帯を充電器に繋いだとき、女子の名前でいくつも連絡があった。兄者が女子に自分から連絡先を教えたことなど一度もない。だから登録してあるのは君だと思ったのだ。兄者は来てくれて、嬉しいだろう。礼を言う」
ぺこりと弟さんは私に頭を下げた。ひょこひょこと跳ねた頭頂部の髪がふわふわ揺れたので私は慌てて首を振る。
「い、いいの本当に。源君、平気と大丈夫しか言わなかったから……弟さんが言ってくれなきゃわからなかったよ、具合悪いのなんか」
「ああ、そういう人なのだ。俺も習慣で顔を見に来なければ、寝込んでいるのなど気づかなかった。普段なら、もっと聡く自分の不調は隠すゆえ。悪いが体温を測るときは必ず傍にいてくれ、適当に『もう平気』などと言われては敵わぬからな」
そうかも、と私は納得した。水曜まで同じ講義を受けて、何ならバイトから送ってくれたのに、体調が悪そうな素振りは一切見せなかった。それ以外だってそうだ。源君は、辛いだとか悲しいだとか、そういうマイナスの感情は全部自分の中にしまいこんでしまう。
強がりとは、きっと違うのだろう。そうするほうがいいと思うから、源君はそうしているのだと思う。だって、いつもそうだ。多少手間でも、なんでも、源君は全てそうすべきだと自分で考えたことをする。
「俺はその、君と兄者がせ……いや、その」
気まずそうに弟さんは口をもごもごとさせた。両手を振って、それは制する。
「あっ、言わなくてもいい、本当に。ごめん……」
「いや、そんな突拍子もないことを言ったのはどうせ兄者だろう。わかっている。それが正しいとは思わない。だが、そうまでして食い下がるほどの相手なのだと、君には知っていてほしい」
ではな、と弟さんは出て行った。がちゃりと鍵を閉めて、私はリビングに戻る。すると源君が咳き込みながらシンクにどんぶりを持って行って洗おうとしている。もう食べたのか、いやそうではなくて、早く寝かせなくては。
「源君、いいよ。シンク借りていい? 私やるから」
「いいよ。君にもうつったらまずいから、家に帰ったほうがいい。ね? 僕はあと一日くらい寝てれば治るよ」
「木曜に明日は行くって言って来なかったじゃない。休んでて」
半ば強引にどんぶりを源君の手から奪って、私は流しに立った。片付けだけならすぐに済む。弟さん、食材と薬は買い足したと言っていたから、買い出しだとかに行く必要はないだろうか。
コンと源君は一度だけ咳をした。尚も何か言いたげにしているので、首を回して念を押す。先程の弟さんの様子を見ていて分かったが、たぶん強めに押せば源君は聞いてくれる。
「部屋に、戻って、寝てて」
源君はむ、と口を噤んだけれど「わかったよ」と大人しく従ってくれた。ホッと息を吐いてどんぶりを洗って片付ける。それにしてもなんで熱が出ているときにラーメン。もっと滋養のありそうなものとかのほうがよかったんじゃないだろうか。
冷蔵庫を開く。一通りのものは作れそうな食材が足されていた。それからスポーツドリンクもある。隣の棚にあった薬箱を開くと、市販の解熱剤が見つかる。というかそれ以外がない。傷薬とか、頭痛薬とか絆創膏だとか常備しておいてもいいのでは。私は解熱材と水を汲んで源君の部屋のドアを叩いた。
「源君、起きてる? 薬、飲んでくれない?」
「……起きてるよ」
返事があったのでドアを開く。部屋はリビング同様によく片付いていた。コン、とまた源君が咳き込む。
「悪い風邪でも拾ったの?」
「ん、そうかもしれないね。だから君ももうお帰り」
「体温測って」
ベッドサイドの机に置いてあった体温計を手渡す。すると源君は眉根を寄せて布団を肩にかけ直した。寒いのだろうか。私は特に何とも思わないのだけれど。
「さっき測ったら下がってたから」
「弟さんに、測ってその場で体温見ろって言われた」
若干苦々し気に膝丸、と源君が言う。誤魔化す気でいたのは明らかだ。弟さんの指摘は正しかったらしい。私が頑としてそこから動かない素振りを見せると、源君は溜息を吐いて体温計を受け取る。それから大人しく脇にそれを挟んだ。
無言で体温計が鳴るのを待つ。暫くすると、ピピピと音がしたので受け取った。それなりに高い。私は解熱剤の箱を源君に渡した。
「はい。スポーツドリンク取ってくるから、ひとまず薬飲んでくれる?」
「……本当に、僕のことはいいから。帰っていいよ。弟が薬買ってきてくれたし、お腹が減って死にそうだったけど、今とりあえずらあめん食べたから」
あれは純粋な食糧補給だったのか……。
「私が熱出してたら、源君薬飲ませてご飯食べさせて、それから帰る?」
「……」
「帰らないでしょ? 弟さんにも頼まれたから、今日はいるよ」
一度リビングに戻って、スポーツドリンクを冷蔵庫から出す。コップ……だと倒したりするかもしれない。何かないかとシンクの下の棚を開ければマグがあった。これでいい。中にいくつか氷を入れて、それにスポーツドリンクを詰めて持って行く。
「薬飲んでくれた?」
「うん」
「じゃあもう後は寝ちゃおう。少し寝たらまたお腹空くだろうし、用意するから」
「……」
源君は何か言いたげにしたが、結局は従って目を閉じてくれた。就寝するには早すぎる時間だし、今薬を飲んだからきっと汗をかいて一度起きるはず。
眠っている間に、何かお腹に溜まるものでも作ろう。滋養のあるものより、ラーメンだとかそういうほうがいいんだろうか……。いや、消化に悪いかな。
「ねえ」
そんなことを考えながら部屋を出ようとすると、声を掛けられたので振り返る。源君は目を閉じたままだった。
「そこの箪笥に、僕のでよかったら、着替えがあるから。君には大きいだろうけど」
「……」
「今日いてくれるなら……お風呂とか、好きに使っていいよ。僕は君が言うように暫く寝るから。起きたら、君も一緒に食べられるものを作って」
明日の時間割、朝からだったな。私は源君の部屋の扉を閉めた。このマンションは、駅からも近かった。最寄り駅も私のところより大学に近いから、何時にここを出たらいいんだろう。知らない廊下を歩く。台所に立って、何を作ろうかと思った。
弟さんがお米を炊いて行ってくれたので、それはひとまず握ってお握りにした。凄い量が炊かれていた。あれが源君の一食分なんだろうか。
それから味噌汁と、なんてありきたりなものしか用意できない。申し訳程度に体が温まるよう、具にジャガイモだの少しショウガだの入れる。起きたらすぐに食べられるようにしたあたりで部屋を覗いたが、源君はよく眠っていた。
「……今日、バイトなくてよかった」
何もない日で、よかった。源君を放っておかないで済んだ。
はあ、とベッドの隣に座り込む。それにしたって、具合が悪かったなら言ってくれればよかったのに。木曜も、金曜も。言ってくれたら様子を見に来た。見に来たのに。
「来ないと、思ったのかな」
私がセフレだから、言ってくれなかったのだろうか。
そうだと言われてしまえば、仕方ないと返す他ない。実際私は、セフレなのである。彼女ではない。厳密にはそういうことはしていなくても、正式に彼女ではない以上弟さんが言い淀む名前の関係なのだ。
では、それが嫌ならどうなりたいのだろう。私は一体、源君とどうなるつもりなのだ。
「そんなところに座ってないで、向こうの椅子使えばいいよ」
トントンと頭頂部を指先で叩かれる。視線を上げれば、目を覚ました源君が私を見下ろしていた。
「起きたの?」
「ん、汗かいちゃった。熱下がってないかな」
首をこきこきと鳴らしながら、源君は起き上がった。先程よりは動きが滑らかというか、重さがない。確かに多少は楽になっているようだ。体温計を手渡せば、また脇に挟む。
「おにぎりとお味噌汁あるよ」
「本当? あ、でもその前にお風呂入っちゃいたいなあ。首のあたりが気持ち悪くて」
体温はやや下がっている。薬の効果もあるようだ。ご飯の前にお風呂と源君が言うので、私はその間に味噌汁を温めることにした。この調子で明日の朝には平熱に戻っているといいのだが。
「あー、気持ちよかったあ。お味噌汁の匂いだ」
十分だか十五分くらいで源君はお風呂場から帰ってきた。濡れた髪をタオルで拭きながら、真新しいパジャマに着替えてこちらにやってくる。スンスンと鼻を鳴らした。
「早かったね。ごめんね、勝手にあるもの使っちゃったけど」
「君が待ってるのにゆっくりお風呂に入るのももったいないかなって。いいよ、ありがとう。さっきのらあめん、鼻が詰まってて味も匂いもあんまりしなかったんだよね。君のお味噌汁はそうじゃないといいんだけど」
電子レンジで温めたおにぎりを取り出して、味噌汁と一緒にテーブルに並べた。流石に食べ合わせが悪い気がしたので、スポーツドリンクはやめておく。代わりに麦茶を源君には差し出した。
いただきまーすと源君は元気よく食べ始め、そりゃもう……よく食べた。いつもの倍くらいを平らげたような気もする。
「君、足りる? 足りなかったら何か適当に食べていいよ。そこの棚おやつとかもあるし」
「いや、平気なんだけどむしろ源君足りる?」
「ん? 美味しいよ、ありがとう」
多めに作っておいたつもりだったのだが、味噌汁の鍋は空になった。私は嘘おと小さくぼやく。どう考えても熱が出てる人の食欲じゃなかった。
「ごちそうさま、たくさん食べれば早く良くなるよ。一人で寝込んでると、どうしてもご飯がどうにもならなくてね」
ふうと満足げに、作ったものの大半を食べた源君が笑う。そういうものなんだ……いや、深く考えるのはやめておこう。片付けは僕がやるよなんて源君は言うので、私は慌ててそれは止めた。病人にさせることではない。
私がそうして後片付けをしている間、源君は大人しくリビングのソファに座ってこちらを眺めていた。髪が濡れたままだと体が冷えると言えば、「うん」とだけ返事をしてそれを拭いた。普段ふわふわの源君の髪は、濡れてしんなりして、いつもよりも細く見えた。
「何もないなら寝たほうがいいよ。朝にはよくなってるかもしれないし」
そう言えば、源君は立ち上がって一度は部屋に入ったが何かを持って戻ってくる。タオルと着替えだった。
「はい、君もお風呂使うだろう?」
「……いや、一日くらいなら」
「ううん、だめ。うつるといけないから、ちゃんと洗って温まってきて」
ぐいぐいと手にそれらを押し付けられ、私は結局お風呂を借りることになった。洗濯物、ここに置くのはちょっと。考えた末に、私は下着類はくるくるとまとめて服の中に隠す。当然だが明日の着替えなんか持ってきていない。大学に行く前に一度家に帰ったほうがよさそうだった。
ちょっと前まで源くんが使っていたお風呂場は、まだ少しだけ湯気が残っている。あんまり、長く使うのも。できるだけ急いで上がろう。源君のお風呂場は男の子らしくあまりものがない。私の部屋のユニットバスの倍くらいある広さだが、ただのシャンプーとリンスと、石鹸しかなかった。当たり前なのだけれど、洗顔料だとか化粧水とかないんだなとしみじみ思った。
さっとお風呂を使わせてもらい、髪の水気を切って洗面台にあったドライヤーを借りる。いつもと違う匂いのする髪と着替えになんだかどきどきしたが、私は頭を振った。今日は看病しに来たのだ、違う。これで源君の熱が下がらなかったら、明日は病院に連れて行かなくてはならない。弟さんにも頼まれている。
洗面所を出て部屋に行けば、源君はベッドの上でスマホを眺めていた。やや薄暗い部屋の中で、パリッとした明るい青い光が源君の顔を照らしている。
「弟さん?」
声を掛ければ、源君はこちらに顔を向けた。それからにこりと笑う。
「うん、具合はどうだって。だいぶいいよって返したところ」
「そっか。お風呂と着替えありがとう。すっきりした。熱は測った?」
「上がってないよ、大丈夫」
本当だろうか、というのが顔に出ていたのか源君はくつくつと肩を揺らして首を振った。
「嘘じゃないよ、大分薬も効いたみたい」
「……ならいいんだけど」
ほっと一息ついて、私は源君のベッドサイドのマグにスポーツドリンクを足した。夜中に喉が渇くかもしれない。あるに越したことはないだろう。
いつも眠るよりはずっと早いけれど、それなりの時間にはなっていたので私も一度スマホだけ確認した。……そういえば、時間を作ってくれと清光から言われていたのに返事もしていない。今日だけは、源君のことに集中しよう。私は特に何もせず、電源ボタンを一度だけ押して画面を消す。
「源君、リビングのソファ借りていい?」
「え?」
私がそう言えば、源君は驚いたように上半身を起こした。ギシリとベッドのスプリングが揺れる。
「えって」
「君あんなところで寝るつもりなの? だめだよ、近頃冷えるから。僕だってうっかり木曜あそこで寝ちゃってひどくなって」
「いや、うっかり寝落ちないでよ」
ぶんぶんとふわふわの髪を揺らして源君は首を振る。
「絶対にだめだよ、貸さない」
「貸さないって、じゃあどこに寝れば」
「ここ使っていいから」
「はあっ?」
思わず声が裏返ってしまった。いや、それはない。それだけはないだろう。だって、それは源君のベッドだ。病人を余所で寝かせるわけにはいかないし、かといって私がそこに寝るわけにも。
「無理、無理無理無理、絶対無理」
「嫌なら僕が出て行くよ」
「何言ってんの? 寝落ちて熱出した人が?」
「じゃあここで寝るしかないよね」
そういう言い方は、ちょっと狡い。だが思い返してみれば、源君の申し出はいつもちょっとだけ狡かった。セフレなんて言い出したときも、それ以外のときも。
するすると音を立てて源君が布団を捲る。冗談なら、今そう言ってくれないだろうか。けれど源君はいつもの柔らかい笑顔のままで、ぽんぽんと白いシーツの上を叩いた。
「大丈夫、君の嫌がることはしないって、言ったよ」
「……う」
「それとも僕が一日寝てたこのベッドが嫌なら布を替え」
「いい、いいもう寝てて!」
これからベッドのシーツを交換するなんてとんでもない。深く息を吸って、吐いた。腹をくくるしかない。寝るだけ、相手は病人だし、そもそも何かするはずもなければする気もない。向こうだってそう言っているのだ。それなら、私のほうが意識するのが変である。
「失礼、します」
「うん」
ギシリと音を立てて、片膝をベッドに乗せた。幸い、ベッドは一人用にしては少々広い。端と端を使えば大して接触もしないで済むのではあるまいか。
私が上がり込めば、源君は先程捲った布団を正した。もう横になるほかない。物差もかくやと言わんばかりの姿勢で、私は体を倒した。ああ、落ち着かない。源君が隣に寝る音がやけに響いて聞こえる。
「ありゃ、そんなに硬くならなくても」
「ならないはずないでしょ!」
「あっはっは」
なぜ逆にそこまで楽しそうなのだ。源君はニコニコとしてこちらを向いている。仰向けになってくれないだろうか、せめて。
「緊張しなくても、この部屋に女の子を入れたのは君が初めてだよ」
「えっ? 女の子にモテてたくせに」
「ほんとだよ」
若干やけくそになって言った言葉に、ややむきになって源君が答えた。それからコンと一度咳をする。慌ててマグを差し出せば、源君はそれを受け取って飲み、ふうと息を吐いた。
「弟以外、誰も来たことがなかったんだよ。入れなかったから。誰にも家は教えたことなかった。知りたがった子はたくさんいたけど」
知りたがった子はたくさん、か。でも源君はちっとも嬉しそうではなかった。前と同じだ。
「……弟さん、ほんとにあんまり似てなかったね」
話題を変えようと、やや無理やりに方向転換した。それがわかったのか、ふっと源君も表情を緩める。
「ああ、うん。ちゃんと紹介できなくてごめんね。弟の膝丸だよ」
「源君もだけど、古風な名前だね。確かにあんまり似た感じしなかったけど、笑った顔はちょっと似てた気がする。弟さんもモテるでしょ?」
「ふふ、でも、そういうところ要領が悪くて。自分のことになると、あんまりうまくできないのかな」
お兄さんの源君のことはあんなによろしく言ってたのに。私はくすくすと笑った。男兄弟っていうのは、皆こうなのだろうか。そうだとしても、そうじゃないとしても、きっと源君と弟さんはとても仲の良い兄弟なことはわかる。
「広い部屋だけど、案外ちゃんと掃除してるんだね」
「おや、案外って、君そんな風に思っていたのかい?」
「だって、源君どこか大雑把っていうか、大まかっていうか」
細かいことは全然気にしないのだ。気にしていたら、きっと私とはこんな風にならなかっただろう。振られたことは、振られたとしないで諦めずにやってくる。何度も何度も。
源君は目を閉じて、少しだけ眠たそうにしながら微笑んだ。流石に熱が上がったり下がったりして、体のほうは疲れているのだろう。当たり前だ。少しずり下がっていた布団を掛け直す。
こうして話している間に、源君は眠ってしまうだろうか。そうだといい。
「それにしたって、随分広い部屋だね。びっくりした、私の家よりずっと広いよ」
「来年、弟が大学に受かったら一緒に住めるようにって。空いてる部屋があったり、少し広いのはそのためなんだ。二年間、僕が一人で使ってるけど」
「ああ、なるほど。弟さん、うちの大学志望校なんだ」
「うん。たぶん、楽に受かると思う。そうしたら、君に遊びに来てもらって、弟と三人か。楽しそうだなあ」
熱のせいか、源君の口調はなんだかふわふわしていた。当たり前のように、来年のことを話す。来年も、こうして一緒にいるのだろうと私のことを話す。
「……今、諦める気ないんだって思った?」
くすくすと笑いながら源君が言った。ふわふわしていても、勘は鈍っていないらしい。
「……ちょっと思った」
「ふふ、ないよ。一つもない。君が許してくれているうちは、僕をせふれにしていてくれるうちは」
ゆっくりとこちらに伸びてきた手が、顔の輪郭をなぞるようにして私の頬に触れる。ほんのりと温かい手のひらは、まだ熱があるんじゃないかと思ってしまうほどの体温を持っていた。
「納得がいくまで頑張ることにしたんだ。だから諦めないよ。そのつもりでいてね」
薄く開いた瞼の隙間から、蜂蜜色のビー玉の瞳が覗く。ぎゅっと思わず唇を噛んでしまった。ぐるりと体を捻って、源君に背を向けた。
どうしてとなんでと、ぐるぐると回る。どうして頑張れるのかわからない。だってそれは、私にとっては辛いことだった。自分のことを好きじゃない、好きな人の隣にいることは。でもそれができたら、何か違ったんだろうか。そんな風にひたむきになれたのなら。
「顔が見えないと寂しいなあ」
「寝るんだから一緒だよ」
「えぇ? そんなことないよ」
「普段こっち向いて寝てるの」
別にそんなことないけれど、私はただもう眠る体勢を取った。もう何も考えずに寝てしまったほうがいい。
するとふぅんという声と共に、伸びてきた源君の手が私の手を後ろから掴んだ。背にダイレクトに伝わる体温にぎょっとする。もしかしなくても背後のゼロ距離に源君がいた。
「なにっ?」
「僕も普段こっち向いて寝てるんだよ」
「絶対嘘!」
「おやすみ」
面白がっているような調子で源君は一方的に会話を打ち切った。信じられない。だがしっかり体を固定されてしまったので、もう身動きも取れない。何か言いたかったけれど、もう私は諦めることにした。なんだかんだ、源君に口で勝てたことがないのだ。
一拍、二拍置いて深呼吸する。無理やりに目も閉じてしまった。二人で入っている布団の中は温かい。足元もとろとろと火に当たっているような心地のいい温度だった。これなら眠れるはず。そのはずだったのに。
「寝れない、んだけど」
根負けして声に出す。絶対に起きていると思ったのだ。
「……どうして?」
「……」
どうしてもなにも、どこもかしこも源君の匂いがする。私のを掴んでいる大きい手は、熱のためかいつもより熱い。大きく吸って、吐く呼吸の音まで聞こえる、こんな場所じゃ。
頭がおかしくなりそうだ。
「寝れるわけないよ……」
絶対に寝返りなんか打たない。そう決めて、私はせめてもの仕返しにと掴まれている手を握り返してやった。源君も眠れなくなればいいんだ。
「嬉しいって言ったら、君、怒るかな」
ふふふと笑って、源君が私の背中に頭を押し付ける。明日は私のほうが寝不足で熱を出してしまいそうだった。
翌朝になると、源君の熱は下がっていた。すっきりしたと笑って起き上がっていたので、私もホッと安堵した。本当に、質の悪い風邪にただ空腹で負けていたようだ。朝食にはトーストを食べたのだけれど、源君は朝から三枚も平らげた。食費すごそうだな、とそんなことぼんやり思った。
やはり大学の前に着替えを取ってきたかったので、私は一度家に戻ることにした。電車で数駅なので、今から行けば問題ないような時間だったのだ。だから帰るね、と声を掛ければ源君は自分も着替えてぺたぺたと裸足の足音を立てながら玄関までくる。
「僕も行くよ、せっかくだから一緒に大学行きたいし」
「着替えてくるだけだよ?」
「うん」
源君はいつも大学に行くとき提げているトートバッグを持つと、そのまま一緒に私と部屋を出た。鍵をかけているのを見て、私はふと思い出し鞄を探る。もしもの時使えと弟さんから預かっていたのだった。
「源君、これ返すね。弟さんに渡して」
「ああ、鍵。あ、ちょっと待ってね」
一度閉めた鍵を源君はもう一度開け、玄関先にあったホルダーから一本鍵をガチャガチャと取ってくる。途中ホルダーのどこかに引っかかって何かが倒れる音がした。ありゃあなんて源君がぼやく。
「じゃあ代わりにこっちをあげるよ」
なんのキーホルダーもついていない、今しがた合鍵屋さんから作ってもらいましたと言わんばかりの鍵。銀色の、ダブルリングがついているだけのそれ。
「なにこれ?」
「すぺあきー? だっけ、引っ越して来たときもう一本貰ったから」
「それは見ればわかるけど」
でも、それを私が受け取る意味が分からない。けれど源君は合鍵を私の手のひらの上に乗せてしっかり握らせた。
「次は来てくれるんだろう?」
落とさないように、何かつけてねと源君はまた鍵を閉める。それから行こっかと私の手を握った。
私、源君とどうなりたいんだろう。昨日の夜ベッドの傍で考えたことが頭を過る。源君と、これから、何という名前の関係になりたいんだろう。
今手を繋いでいるこの人と、どこに行きたいんだろう。
「着替え、もだけどごめん化粧とかしたくて、あの」
「ん、いいよ、僕ここで待ってるから」
私も大学二年生、流石にすっぴんで大学に行く勇気はない。源君はひらりと手を振ってマンションの廊下に寄り掛かったが、そうはいくまい。源君のいいマンションと違って、私の住むここは廊下は吹きさらしなのだ。病み上がりをこんなところには置いておけない。
「散らかってるんだけど、だからできるだけ部屋は見ないでほしいんだけど、上がって」
今度は、私が源君の手を引っ張った。そうするべきだと思ったからそうした。いつも源君がしていることだ。
源君はやや吃驚した顔をして、おじゃましますと小さく言って、それから私の狭い部屋に上がった。おじゃましますだって、と私は内心で少しだけ笑った。
「絶対、絶対そこにいて、着替えるからこっち見ないで」
「ふふ、はいはい」
ひとまず源君には部屋に座っていてもらって、私は着替えと化粧品だけ持って洗面所に駆け込んだ。本当は化粧をするところだって見られたくない。昨日一晩一緒にいて何を、と思いはするがそれとこれとは別だ。嫌なものは嫌だ。恥ずかしい。
……でもどうして、嫌なんだろう。昨日から着ていた服を脱ぎながら考えた。私は今まで、清光の前ではなんだってできた。なんだって話せた。たぶん、化粧をすると言えば清光はアイシャドウはどの色がいいだとかそういうアドバイスをくれる。それが私には嬉しくて楽しかった。
源君相手だと、違うんだ。そんな当たり前のことを思う。源君が相手なら、違う。
それは、どうしてだろう。
「仕度できたかい?」
扉の随分近くで声がする。私は慌てて顔を上げた。
「あっ、待って、今終わるから」
手早く、最低限の化粧を済ませて私は洗面所を出る。座っていてと言ったのに、源君は扉のすぐ前に立っていた。うわ、と小さく声を上げてしまう。
「うん、可愛くなったね」
にこりとして、源君はその場から離れた。手持ち無沙汰に、私は耳元の髪を掻き上げる。
「そういうこと簡単に言うから、女の子にもてるんだよ……」
ぼやくように言えば、源君は聞こえたのかラグの上に投げ出していたトートバッグを取りながら振り返った。
「君だから言うんだよ」
清光とは違うこの気持ちも、恋だったらいい。
もしこれが恋だったら、恋なら。私は源君のセフレ以外の何かに、なれるのだろうか。
「大学行こうか、今日はバイト? 僕、君のバイト先のぱふぇ好きだなあ」
再び駅に向かって歩きながら、源君は笑顔で言った。パフェなんて絶対だめだ、体が冷える。というか当たり前にバイト先に迎えに来るつもりでいるのもだめだ。
「き、今日はだめ、早く帰ってちゃんと寝て」
「えぇ? じゃあ僕の家に帰ってくる? そっちの方が近いもの」
「えっ?」
恋だったら、いいのに。
この気持ちも恋なら。
「あはは、君の好きな方でいいよ」
ふわふわの髪を揺らして、源君が言う。行こうよ、と促すように源君の手が差し出された。
私の、好きな方。
体の横にぶら下がっていた手を上げる。それを伸ばして、源君の手を取ろうとして……止めてしまった。
「……清光」
源君も私の視線が向いた方向を振り返る。何と言ったらわからないと、如実に顔にそう書いてある清光がそこに立っていた。