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    昨日目指した東の星


    「ちょっとぉ! 今日の朝食当番村雲だったじゃん! 何寝坊してんの!」
    「ごっ、ごめん、朝苦手で」
     身支度を整えて厨の方に向かうと、何やら喧しい声が聞こえた。それにおやと彼女は首を傾げ、同時に少し笑う。暖簾を捲って中を覗き込めば、寝起きらしく跳ねたふわふわの髪をそのままにしてバタバタと動き回る村雲と、既にばっちり身なりを整えた清光とが朝食の支度をしていた。
    「おはよう」
    「あっ、おはよう主! ごめん今朝ごはん出すからね!」
     彼女が挨拶すれば、清光が振り返ってはきはきと言った。手にはしゃもじと三人分の重ねた茶碗を持っている。どうやらお米はもう炊けているらしい。彼女は食器棚から三膳のお箸と皿を取り出した。
    「ううん、大丈夫だよ、ありがとう。手伝うよ。お皿用意するね」
    「うぅ、ごめん、おはよう」
     半べそをかいた村雲が、フライパンから目玉焼きを移す。毎日声を掛けに行っていたときから、朝は特に顔色が悪かったから本当に起きるのが苦手なのだろう。それに平気平気と返しつつ、彼女は村雲が目玉焼きを載せた皿を厨にある大きめのテーブルに並べた。まだ大人数で食事を摂るわけではないので、彼女たちは今厨でそのまま食事を摂っている。
     しかしフライパンを流しに置いた村雲は、戻ってきて食卓を見ると彼女の並べた皿を入れ替えた。自分のものと彼女の席に置いたものとを交換している。
    「どうかした?」
    「ううん、君のはこっちだから」
     何でもないように村雲は言って、再び踵を返し冷蔵庫の方に戻る。野菜室からプチトマトなんかを取り出していた。清光も手早く配膳を進めているので、当番が寝坊したとは言っても特に問題なく朝食は摂れそうである。とはいえ三人分だけだから今はなんとかなるけれど、これで本格的に本丸の運営を始めたら厨当番はかなり責任が重いのでは……。
     そんなことを考えつつ彼女はグラスに水を注ぎ、それも並べつつふと先ほどの目玉焼きに視線を落としておかしなことに気づいた。
    「あれ?」
     彼女の分の目玉焼きだけ、焼き具合が違う。
    「……なんで私の好み知ってるんだろう」
     村雲にそれを教えた覚えはない。清光にもない。偶然だろうか。しかし村雲は先ほどわざわざ彼女の皿を「君のはこっち」と入れ替えてさえいた。
    「主ー、ご飯にかけるのなんかいる? ふりかけとか納豆とか」
     だが疑問を覚えたのと同時に、清光にそう言われて彼女は顔を上げた。清光は既に自分用の納豆を取り出している。
    「あ、平気。そのままでいいや」
    「そ? 村雲は?」
    「俺も大丈夫。……加州朝から納豆食べるの?」
    「納豆って肌にいーんだって。美味しいよ?」
     一体どこでそんな知識仕入れてきたんだか。あははとつい笑ってしまう。そして得意げにしている加州に気を取られ、彼女はすぐにその疑問のことは頭の隅によけてしまった。



     やることが、ない。いや、ないわけではないが、実はもうこの彼女がこの全八回に分けられた講習動画を見るのは四周目なのである。ため息を吐きかけて、咄嗟に口を押えた。いくら何でも研修中にそんな態度はよろしくないだろうと思ったのだ。とはいえ、いつまでこの研修が続くかわかったものではないわけだから、こうして惰性で延々と見続けるのも……。
    「いや、もうだめだ、休憩、雲さん休憩にしよう」
    「え?」
     カチリと動画を止めると、彼女は隣で本を読んでいた村雲に声を掛けた。相変わらず彼女の影法師をしている村雲だけれど、近頃は膝を抱えてただこちらを凝視するのはやめて、今日のように読書をしたり好きに寛いでいることが多くなった。
     村雲の困惑を他所に、彼女は立ち上がると執務室から中庭に向けて声を張った。清光はこの時間中庭の花の手入れをすると言っていて、執務室からは座り込んで土を弄る内番着の後ろ姿がやや遠くに見えている。日除けが欲しいなとこの間言っていたので、清光には現世から持って来たつばの広い帽子を貸していた。
    「清光ー、お茶にしよう! 映画見よう、一段落したら広間来て!」
     彼女の声が届いたのか、清光は立ち上がるとこちらに向かって手を振った。よし、じゃあ清光が戻ってくるまでにおやつの準備をしよう。そう決めた彼女が厨と自室に向かおうとすれば、村雲は慌ててこちらに声を掛けた。
    「えっ、映画? え、ねえ、君」
    「雲さんは広間でお茶の準備しててくれる? 今日は冷たいお茶がいいかな。ちょっと待っててね」
     確か実家から持って来たはず。彼女は村雲に言い置くと速足で部屋に戻り押入れを開けた。目当てのものを取りだすのにさほど時間はかからず、彼女が広間に着いたときには村雲がグラスとお茶の準備をし、ちょうど清光が母屋に戻ってきたところだった。天気の良い今日はやや気温が高かったからか、清光はパタパタと帽子で顔を仰いでいる。
    「おかえり清光、ご苦労様。雲さんもお茶ありがとう」
    「う、うん」
    「主帽子ありがとー、俺も買おうかなこういうの。それよりなにー? 映画って」
     不思議そうにする清光に、彼女は笑って部屋から持って来たパッケージを見せた。
    「うん、これです。現世から持って来たの。清光は映画初めてだよね」
     こちらに来るとき、私物の持ち込みには絶対に遵守しなければならない決まりがあった。それは名前の書いてあるものは基本的に持込不可というもの。刀剣男士は神格が比較的低い付喪神とはいえ、神の一柱でもある。だから神隠しの防止のため、名前は秘匿しなければならないということだった。だが逆を言えば、それ以外なら基本的には自由だったのだ。
     それで彼女は気に入っていた服や慣れ親しんでいた寝具なんかは勿論、本やこういった映画のソフトなんかも本丸に持ち込んでいる。本丸は純和風の建築物だけれど、通信環境や電子機器に関しては現世と変わらないと説明を受けたので、それならば見られるだろうと思った。そして案の定、広間に備え付けのテレビには最初からプレイヤーが繋がっていた。
     彼女に薄いケースを渡された清光は、しげしげとそれを見つめる。その間に彼女はテレビとプレイヤーの電源を入れた。
    「え、なにこれ、これで何が出来んの?」
    「その中に入ってるディスク、えーっと円盤でね、中に入ってる映像が見られるんだよ」
    「そんなことできんのっ?」
     ぎょっとして清光が言うのに、彼女はクスクスとしてパッケージを開いてディスクを見せる。そりゃあ幕末に活躍したと言う清光には珍しい代物だろう。
    「うん、ほら。これで見られるからね」
    「へ、へえー。すごいねー、こんな風になったんだ世の中……」
    「ふふ、うん、雲さんは? これ見たことある?」
     プレイヤーにディスクをセットしながら彼女は村雲に尋ねた。するとグラスに冷えた麦茶を注いでいた村雲はちらりとそれを見て頷く。
    「映画じゃないけど。その丸いのは見たことある」
    「そっか。じゃあ雲さんの本丸にはDVDとかプレイヤーがあるんだね」
     ついでに、それらを見る人も。いや、刀かもしれないが。セットのために屈みこんでいた彼女は体を起こした。すると村雲がはいとグラスを手渡してくれる。先に渡されたそれに口を付けていた清光が、一口お茶を飲みほしてから彼女に尋ねた。
    「で、それ何のえーが、なの? 主の好きなやつ?」
    「うん。結構古い映画ではあるんだけど、私は好きで。あとタイムスリップ……えっと過去に戻ったりとか未来に行ったりとかするから、参考になるかなと思って持ってきたんだよね」
     向こうでは名作中の名作だが、刀剣男士の清光と村雲には初めてだろう。彼女はいくらか画面を操作して、言語を英語から日本語に切り替えた。初めて見るのなら、慣れ親しんだ言葉のほうがいいに違いない。
     映画が始まると、その二時間近い物語を清光と村雲はじっと見つめていた。少年が知り合いの博士の開発したタイムマシーンで過去に向かい、ひょんなことから自分の両親の馴れ初めを邪魔した結果、「未来の自分」が生まれなくなってしまうその映画。未来が変わった瞬間、清光が小さく「げ」と漏らしたので彼女は少し笑った。彼女はたまに清光が「あれ何?」だとかなんだとか聞いてくるのに答えるだけにして、できるだけ二振が集中して見ることができるようにしたかった。こういうものは、最初の感想だとか印象が大切なのだ。しかし村雲はそのあたり何も質問してこなかったので、やはり清光よりはヒトの体で経験を積み、人間社会に対しても知識があるのだろうなと彼女は思った。
     持ってきたお菓子を食べ終え、お茶が入っていたグラスも空になる。映画が終わり、エンドロールが流れ始めると清光がはあと小さく息をついた。それから勢いよく彼女の方を見る。
    「えっ、これで終わり?」
    「ううん、実は後続きが二本ある」
    「だよね、びっくりした。でも、へー! 面白いんだね映画って、俺割と好きかもしんない」
     キラキラした表情で言う清光に、彼女も微笑む。自分が好きなものを清光も好きになってくれたことが何となく嬉しかった。
    「うん、私も映画好きでね。向こうでよく見てたんだ。今はすごく便利になって、このディスクがなくても配信で見られたりするんだけど……ここでも使えるのかなあのサービス。今度聞いてみるね」
     通信環境があると言うことは、動画配信も見られるかもしれない。彼女はうーんと首を捻りつつ、停止ボタンを押して再びディスクをケースにしまう。続編はまた今度にしよう。このまま見続けるとそれなりの時間になる。
     その一方で後半は固唾を飲んで見ていた清光は、体が凝り固まったのか大きく腕を伸ばして伸びをした。「え」だとか「うそ」だとか小さく声を漏らして見ていたのを、実はこっそり横目で観察していた彼女は微笑む。思ったより楽しんでくれたようだ。
    「えー、でもあんな簡単に歴史が変わっちゃたまったもんじゃないよねー。どおりで、政府からはできるだけ時代に介入するなって言われるわけね。よくわかった」
     うんうんと頷きつつ、清光が「刀剣男士らしい」感想を言うのに彼女は少しおかしくなった。まあ確かに、清光の言うことには一理ある。映画ではかなり不運なめぐりあわせで主人公は自分の両親の馴れ初めを妨害してしまったわけだが、何も知らないで車に引かれそうな「目の前の誰か」を見過ごせというのは無理がある。そしてその結果「自分が生まれなくなった」という状況は不運な事故としか言いようがない。だがそのくらい、未来は不確かで頼りないものなのかもしれない。些細なことで全てがまるきり変わってしまうくらいに。
     そういう意味では、やはりこの映画は審神者として参考になる作品だなあなんて彼女は思った。どんな歴史も、この映画のようにほんの少しの干渉ですべてが変わってしまうなら。出陣や遠征には細心の注意を払わなくてはならない。
     そして彼女と同じように思ったのか、不意に清光が首を回して村雲の方を向いた。そう言えば、ここには例外的に「歴史を守る先輩」がいるのだ。
    「ねえ、実際問題としてどうなの? 出陣してて、ああいうことってあるー?」
     軽い口調で清光は尋ねる。だが村雲の方はといえば、かなり真剣な、そして神妙な表情でテレビ画面を見つめていた。
    「え、なに、どうしたの。またお腹痛いの? 膝掛けいる?」
     押し黙った村雲に清光は側にあったブランケットを手に取って差し出した。しかし村雲はそれを受け取ることはせず、視線を惑わせる。
    「あれ……歴史を変えたことに、ならないのかな」
    「え?」
     清光の質問とてんで違うことを言って、村雲は困惑したようにこちらを見た。
    「だって、あれ、過去で未来を教えて、撃たれることがわかってたから最後あんな風にしてたんだろ。ならあれってだめなんじゃないの?」
    「え、あー、どう、なんだろ、確かにね」
     想定もしていなかった質問返しに、清光は驚いて返す。だが改めて村雲から提示された疑問には説得力もあり、それには彼女も同様に疑問を覚えた。
     村雲の言う通り、本来なら主人公の知り合いの博士は物語の冒頭で銃で撃たれ死ぬ運命にあった。だがそれを、過去で主人公が博士に教えてその運命を回避させた。
     それは、過去改変に当たらないのだろうか。
     当たり前にあの映画の内容を受け入れていた彼女は、それに対してすぐに答えを出すことはできなかった。言われてみれば村雲の言う通りのようにも思えるし、事実主人公の周囲環境は物語の最初と最後で大幅に変わったのだから過去改変と言えるのかもしれない。だがいくらか考えて、清光のほうが先に口を開く。清光は薄い唇に赤く塗られた指先を当てていた。
    「でもさあ、大まかには変わってないじゃん。お父さんとお母さんは無事結婚したし、兄弟は生まれたことになったみたいだし、まあ助かってはいたけど銃で撃たれて倒れたとこまでは過去に戻る前のあの主人公が見た光景と全部一緒じゃん。でしょ? そのときの状態と、生きてる人間は大体合ってるから別にいーやってことなんじゃない?」
     なるほど。清光の答えを聞いて、彼女もまた考える。清光の指摘におかしなところはないように思えた。主人公からしてみれば、博士が撃たれる瞬間までの歴史は何も変わっていない。見ていた光景は、過去に戻る前と何も変わらない。だから厳密には「過去改変」ではない……のかもしれない。少なくともそう考えるのであれば不自然はなかった。
     それに政府の映像講習でも聞いた記憶がある。出陣の際万が一時間遡行軍による妨害を受け、歴史が変わってしまった場合、「完全には無理でもできるだけ大多数の人間の知る歴史に戻るように」修正を試みることが先決だと。つまりはやはり、観測できる範囲で如何に史実の通りの状態に近づけるかということを時の政府は重要視しているのだ。いわば歴史の教科書に載る年表程度の事実が死守されていれば良い、経緯がどうであれ、結果さえ史実通りなら問題ないと考えてもいいのなら、今の映画の結末でも支障はない。
    「……でも、でもあの博士、生きてるよ」
     小さく、村雲がそれでも呟く。それに対し彼女は「あれは映画だから」と窘めようとしてやめた。
     村雲は、何かを迷っているような表情を浮かべていたのだ。映画の構造に対する、刀剣男士としての単純な揚げ足取りではない。もっと真剣に博士が生き延びたことに対して正しいのかよくないのかを決めようとしている。
    「……私もよくわからないけど、でもほら、あの状態だと名のある誰かじゃなくてただの博士だし、教科書に載るような大きい歴史には大した影響がないからってことなのかもしれないよ?」
    「影響?」
     村雲が繰り返すのに、彼女はうんと一つ頷いた。
     仮にあの博士が本来の歴史と逸れた形で生き延びていたとして、それが歴史の大きな流れに干渉しない程度の小さな影響しか持たないのだとしたら。たった一人の人間の生存くらいは大した問題にならないということなのかも。
    「うん。もちろん、これは予想の域を出ないけどね。もしその人が生きていてもその後の歴史に大きな変化がないんだとしたら、歴史にとってはそういう人の一人や二人、誤差なのかもしれない。だから見逃してくれたのかも」
    「……誤差」
     彼女の出した結論を、村雲はやはり繰り返していた。そんな村雲が納得してくれたかどうかはわからないが、清光の方は合点の言った風で頷く。
    「あー、なるほどね。主の言うことも一理あるかも。徳川将軍が一人死んだ、とかじゃないもんね」
    「うん、まあ全部想像だけどね」
     それにやはり当然この映画は「実際に過去改変をすることができ、かつその勢力から本来の歴史を守る勢力もある」ことを想定していない。だから全ては机上の空論なのだ。
     しかし村雲はそれに是とも非とも相槌を打たず、お茶のおかわりを持ってくると厨に消えて行った。その態度にどうにも釈然としない気持ちになり彼女も首を傾げる。やはり既に実際に戦場に出て歴史を守っている村雲と、まだ実戦経験のない彼女とで意識に差があるだけなのだろうか。それならばただ、彼女の方がもっと真剣になればいいだけなのだが。
    「……ねーえ、主」
    「ん?」
     だが彼女がそんなことを考えつつ村雲が向かった暖簾の方を見つめていると、今度は清光が声を上げる。
    「やっぱあいつ、変じゃない?」
    「え? 雲さんが?」
     彼女がそちらに視線を向ければ、清光は厨の方をちらりと見やりつつ声を潜めた。
    「だって……全然、あいつここから帰りたがらないじゃん。前からおかしいなって思ってたけど……やっぱ俺、それ変だなって気がしてさ」
     がしがしと少し、清光にしてはやや荒っぽい動作で襟足の髪を掻き乱した。
    「もし、もしだよ? もし俺が迷子になったりしたらさ。何が何でも本丸に、っていうかあんたの所に帰ろうとすると思うんだよね。だって俺、主の刀だもん」
    「う、うん、ありがとう?」
     見当違いな返答だとわかっていたが、彼女はついそう答えた。それはとても嬉しいと思ったのだ。何が何でも、必ず自分の元に帰ろうとすると清光が言いきってくれたことが。すると清光もそれを聞いて、パチパチと二度瞬きを繰り返した後にえへへと笑う。どうやら先程の珍しい粗雑な動作は照れ隠しだったらしい。
    「へへ、そりゃね。……でもあいつそうじゃないんだよ」
     清光は不可思議そうな、けれどどこか村雲を心配するような様子で言った。
    「主がお願いしてる政府の調査が進まないのは、なんか政府の方で事情があるかもしれないけど。でもあいつ、そういう調査にも協力しようともしないじゃん。だって自分の本丸に帰るための手がかり、何にも持ってないってことはないでしょ、多分」
    「それは……清光の言う通りだと思う」
    「うん。俺たちと村雲は縁もゆかりもないんだから、どうしてもここに居たいってことはない、だろうし。だから帰れないっていうより、なんか理由があって帰りたくない……だと俺は思うんだよね」
     なるほど、それは考えが至らなかった。彼女もまたちらりと村雲のいる厨の暖簾を見やる。
     あまり考えたくないことだが、「刀剣男士」に対して良くない接し方をする審神者がいることは彼女も映像講習で知った。清光の予想が正しかったとして、帰りたくない理由は様々あるかもしれないが、最悪の場合に関しては考えておかねばならないだろう。
    「……ありがとう、清光。雲さんのことは、気を付けて様子を見ておくようにするね。私はまだわからないことの方が多いから、教えてくれて助かるよ」
     彼女が言えば、清光は片眉を上げて微笑んだ後に首を振った。
    「んーん。俺は俺でできる見方あるし、主は主で気づくことあると思う。だから二人で何とかやってこ。村雲、いつまでもここに置いとくわけにもいかないし」
    「うん……、そうだね」
     村雲に関して、政府からの連絡はない。一度せっついてはみたが、「調査中」と最初と変わりない報告が返ってきただけだった。だが清光の言う通り、村雲をずっとこの本丸にいさせることはできない。村雲は迷子で、彼女の刀ではないのだ。しかし村雲とはいくらかここで一緒に暮らしたのだし、清光と喧嘩をしたときは彼女の背中を押してもくれた。だから彼女としても経験の浅い審神者ながら、できるだけ村雲にとって良い形で本丸に返すなりなんなりしてやりたいと思っている。
     そのためにはやはり、村雲の現状と村雲自身がどう思っているかを正確に把握しなければ。
    「おやつもお代わり、いる?」
     暖簾から顔を出し、煎餅の袋を持った村雲が言う。それに彼女は笑って首を振り立ち上がった。
    「ううん、そろそろご飯の用意しちゃおう。晩御飯何にしよっか」
    「あ、じゃあ手伝う。朝は寝坊したし」
    「本当? ありがとう、雲さん手際が良いから助かっちゃうな。じゃあ一緒に作ろう」
     元々手先が器用な方なのか、それとも本丸で厨担当をすることが多いのか、村雲は料理が上手い。だからそう褒めると、村雲はパッと顔を明るくして頷いた。
    「う、うん! 一緒に作る!」
    「えっ、何それ狡い! 俺も主と一緒に料理する!」
    「それじゃあ当番の意味なくなっちゃうね」
     一緒になって立ち上がった清光と彼女は笑って厨に入る。村雲は既にいそいそと調理の準備を始めていた。当番ではないはずなのに、一番やる気があるように見えておかしい。
    「何作る? お米、昼のが余ってる」
     村雲が言うのに、彼女は炊飯器の中身を覗き込んだ。まあまあの量があるし、確か冷凍でもいくらか保存していたはず。
    「お米あるなら手っ取り早く炒飯かオムライスかなあ」
    「わかった、じゃあふらいぱん、出さなきゃ」
     手早く髪を一つに結い直し、村雲は流しの下の収納を開けた。調理器具はそこに重ねておいてあるのだ。清光はそれを見て内番着に襷を掛けつつ肩を揺らした。
    「あんた迷子のくせになんでもううちの厨使い慣れてんだよー」
    「え……えへへ」
     照れ臭そうに村雲ははにかんで肩を竦めた。
     それを見て彼女はどうしても考えてしまう。村雲の審神者は、村雲が帰ってこないことに何とも思っていないのだろうか。少なくとも村雲は既に半月近くここにいるのに。
    「……こんなに可愛いのに」
    「え? なに?」
     ついぼそりと彼女が呟けば、フライパンを手にした村雲が体を起こして振り返る。それに彼女は慌てて首を横に振った。見ず知らずの審神者の刀剣男士に「可愛い」はちょっと気が引ける。
    「ううん! 作ろっか、私、具切るね」
    「うん、俺も準備する」
     村雲は着ていたワイシャツの袖を捲った。この本丸に所属しているわけではない村雲の衣服は、最初に迷い込んできたときの戦闘服のみ。だから清光のように内番着はなく、楽な服装をすることもできない。このままずっと、そんな状況にはしておけない。
     どうするのが一番いいか、考えなくては。彼女はそう考えながら流しで手を洗った。


    「……俺の主が普段してたこと?」
     村雲が首を傾げるのに彼女は「うん」と一つ頷いた。
    「そう、先輩の審神者がどういう風に本丸を運営してるのかなって、ちょっと参考に聞きたくて。教えてくれる?」
     もう毎朝の日課になっている一日の予定を村雲に伝える際、彼女はそう頼んだ。ちなみにこれは半分嘘で、半分本当である。
     現状同期も同僚もいない彼女は、他の本丸がどのような一日を過ごしているのか知る機会はゼロに等しい。勿論理想、規範とされる例は映像講習で見たけれど、実体験に基づく話を聞けるのなら聞いておきたい。今の彼女にとって、参考例はあればあるだけいいのだ。
     そしてそれを村雲から聞くことで、彼女は村雲が本丸で置かれていた環境も何となく知ることができる。どんな小さなことも村雲が元いた本丸の手掛かりになるだろうし、逆に口を噤むようであれば「そういう事情」があるのだという判断材料にもできる。彼女としては、できれば後者でないことを願っているけれど。
     さて、村雲はどう出るだろう。彼女がやや緊張しながら様子を伺うと、今日も執務室で本を読むつもりだったらしい村雲は所在なさげに本の表紙を撫でる。それから微妙そうな表情をして上目遣いでこちらを見た。
    「それは別にいい、けど」
     ひとまずの了承を聞いて、彼女は内心でホッと安堵する。これでひとまず村雲は余所に話しても平気な本丸から来たと思っていいだろう。
    「本当? ありがとう、助かるよ」
    「うん、でも……うー、……こっち来て」
     逡巡したのち、村雲は本を机の上に置いて彼女の手を握った。どこかに行く様子だったので、彼女は大人しくそれについていく。村雲はどこかに寄り道したり迷ったりすることなく、一直線に彼女を鍛冶場まで連れて行った。まだ一度も使用されていないこの本丸の鍛冶場は、鍛刀の為の妖精もいない。火も熾されず、真新しいが造りも相まってどこか冷たい場所だ。
    「鍛冶場が、どうかした?」
     ここに来た意味を解しかねたので、彼女は素直にそう尋ねた。すると村雲は何とも言い難い、やりづらそうな表情でちらりとこちらを見る。
    「……大体、朝一番で鍛刀する」
    「……あ」
     なるほど、そういうことか。彼女はそこでやっと先ほどからずっと村雲が気まずそうにしていた理由を察した。申し訳ないと思いつつも、彼女は念のため尋ねる。
    「……ちなみにその後は?」
    「えっと……遠征部隊を見送って、第一部隊も演練で見送って、日課分の出陣、とか」
    「……なるほど、聞いてごめん」
     そうか、それは仕方ない。まだ村雲に手を掴まれていた彼女は空いているほうの手で顔を覆う。通常の本丸の運営でするべきことが、今の彼女はほとんどできないということがよくわかった。だから村雲は答えるのを躊躇ったのだ。
     けれど彼女が顔を覆っていると、村雲も慌ててこちらを覗き込んだ。
    「こ、こっちこそごめん、だから言おうか迷ったんだけど」
    「ううん、でもそっか、そういう仕事って大体午前中にしちゃうんだね」
     気を取り直し、彼女は顔を上げできるだけ良い方向に話の舵を切った。言っても仕方のないことを気にしたってどうしようもない。ならば今できることをするのが一番だ。
     すると彼女が明るい表情をしたことに安堵したのか、村雲もホッと息を吐いて頷く。
    「うん、他の本丸はどうかわからないけど、うちはそうだったよ」
    「へえ、でも午前中だらだらしちゃうと午後もやる気でないし。それはいいかもしれないね。参考にする」
     きっと、どの審神者にも各々のルーチンがあるのだろう。彼女も正式に審神者として就任したら、自分のリズムを見つけていかなくては。まだ空の鍛冶場を見つめつつ彼女がそう思い直していると、少し考えた村雲が「あ」と呟いて視線をあげる。
    「でも、出陣も遠征もできなくても、週一回くらいしてること、あるよ」
    「そうなの?」
    「うん、こっち」
     再び村雲に手を引かれる。村雲は鍛冶場から程近い部屋の扉を開けた。資材庫である。この部屋もまだ始動していない彼女の本丸では、最低量が保管されているだけだ。しかし村雲はその資材を指さして言う。
    「資材の数を、数えるんだ」
    「数を? 一応、記録を取るっていうのは指導されてるけど」
    「うん、そうなんだけど。でも本当に数が合ってるか目視したほうがいいからって聞いた」
     資材というのは、一定量までは時の政府からの補助を受けられる。けれどそれ以上は、本丸が自発的に出陣や遠征などで収集しなくてはならない。資材は鍛刀は勿論、刀剣男士の手入れにも必要不可欠なもので、どれだけあっても困らない。それに場合によっては鍛刀のみで縁を結べる可能性がある刀剣男士も存在するため、できる限り貯蔵に努めるべきだというのは彼女も知識として知っている。
    「遠征で回収して、数の記録だけ付けて保管するだろ。今は少なく見えるからいいけど、段々ここには入りきらなくなって、蔵とかで一部保管するようになるから。念のため目視したほうがいい……って」
    「一応聞いてもいい? 数があってなきゃいけない以外に、理由ってある?」
     はい、と彼女が挙手して尋ねれば村雲はやや考えた。
    「えっと……万が一だけど、本丸に侵入者がいないかの確認、とか。勝手に使う奴がいたら、まずいし」
    「あ、なるほど。それはそうだね」
     納得して彼女は手を下げる。本丸に所属している刀剣男士以外で資材を必要とするもの、つまりは時間遡行軍が侵入している可能性を疑っているのか。負傷した敵が紛れ込んでいることまで考えなくてはいけないわけだ。
    「週一で棚卸するようなものなんだね」
    「たなおろし?」
     村雲がきょとんとして首を傾げるのに、今度は彼女が説明する。まあ村雲には耳慣れない単語だろう。 
    「あ、えっとね。現世のお店屋さんで、在庫のデータを実際にあるものの数が合ってるかを確認して、資産の計算を……、ちょっとややこしいね。まあとにかく、せっかくだし数えてみようかな」
    「うん、手伝う」
     着ていた服の袖を捲って彼女が言えば、村雲も笑って頷く。まだそこまで多い数が保管されているわけではないから、さほど時間はかからないはずだ。
     資材は整理されて棚に並べられている。固形物ではない冷却水はペットボトルのような容器に詰められている他、木炭や玉鋼、砥石もそれぞれケースに入っていた。棚からその一つを抜き出して覗き込めば、中には木炭が詰まっていた。それからよいしょとケース移動させれば、村雲は慌ててそれを持っている彼女の手に自分の手を添えて支えた。それから静かに床に下ろす。
    「も、木炭は大して重くないと思うけど、他は俺が下ろすから、どれ取るか言って」
    「あはは、ありがとう」
     さて、と彼女はケースを開く。未使用の木炭は最初に並べられたのを崩すことなく、綺麗に箱の中で整列していた。これだと掛け算で中に入っている個数をカウントできそうなものだが、それではこうして目視する意味がない。彼女は「いち、に、さん」と小さく数えながら木炭を一つずつ端から指で示した。
    「なかなか地味な作業だね」
    「うん、だから週に一回でも結構疲れるって、聞いた。もっと多くなったら、一つ一つは無理で、この入れ物を数えるので精一杯だって」
    「ふふ、確かに。今はこれだけだからいいけど。増えたら途方もないなあ」
     くすくすと笑いつつ、彼女は木炭を数えていく。他のケースも同数入っているのなら、一箱に大体三十本というところだろうか。せっかく時間もあるし、もうちょっと効率よく管理できる方法がないか、考えてみるのもいいかもしれない。例えばケースの中に間仕切りを作って、一目で数えやすくするだとか。そもそも炭って一般的にどうしまわれているのだろう。
     そんなことを考えつつ彼女が地道に数えていると、彼女の正面で膝を抱えて屈んでいた村雲がぽつりと言った。
    「君は、偉いよ」
     ちらりとそちらに視線をやれば、村雲は彼女の手元をじっと見つめている。それにいくらか落ち着かない気持ちになりながら、彼女は答えた。
    「えー? そうかな」
    「偉いよ。新人の頃は大変だって、俺も聞いてはいたけど。でもこんな状況だっていうのは、知らなかったし」
     そんな村雲の言葉に、彼女はやや肩を竦めた。この状況下で褒められるのは些か申し訳ない。なぜなら彼女は、本来審神者が果たすべき役割の殆どに手も付けられていないのだ。それに負い目がないわけではない。
     今の自分はかなりの安全地帯にいて、自身が傷つくリスクもなければ、刀剣男士を戦場に送る責任も背負っていない。それは痛いほどにわかっている。
    「……でも、私は特殊だよ。それに他の審神者さんよりはかなり、時間に余裕があるし。むしろ楽してるくらい」
    「それでも、やることはずっと、やってる」
     彼女の言葉を遮り、村雲ははっきり言い切った。思わず木炭を数えていた手が止まる。顔を上げて、彼女は村雲を見つめた。村雲の薄桃の瞳はまだ彼女の指先に向けられている。
    「自分ができること、しようとしてるし、その準備もしてる。できることが少ないのはそうかもしれないけど、それでも君はここでずっと頑張ってる。悩んではいたけど、逃げたりしなかった。君がここに居てくれるだけで、俺たちには意味がある」
     そこまで言ってからやっと、村雲は彼女の手が動いていないのに気づいたのか顔を上げる。そこで彼女がずっと自分の方を見ているのに気づき、ややぎくりとしたようだった。だがいくらか目線を左右に惑わせた後に、もう一度真っ直ぐ彼女と目を合わせて言う。
    「……君は、とても偉いよ」
     息を吸いこみ、彼女は何か言おうと思った。彼女からしてみればやはり、今の自分はただここに「居る」だけで、何もできていないように思う。それに清光のため、いつかここに迎える刀剣男士たちのために何かしてやりたいと思ってはいても、うまくできるかどうかはわからない。そんな自信のなさもある。
     けれど本当に、そう思っていいのなら。ここに彼女が居るだけで、ここから戦場に向かう刀たちにとって何か意味があると言うのなら。それは彼女にとってもまた、かけがえのない励みなのだ。
    「……ありがとう」
     小さく、彼女は言った。それが精いっぱいだった。不安はまだ変わらずあるけれど。それでも確かに今、肩の力が抜けたのがわかる。ゆっくり、ゆっくりと彼女は息を吐きだした。
     数えるために指で一つずつ示すと、木炭はカコカコと普通の木材よりも軽く鳴る。彼女は再び作業に戻った。手伝うと言ってくれた村雲も同じように一ケース木炭を取り出していたので、静かな資材庫の中にはドミノを倒すような、木琴を叩くような音が響いていた。しかしそれらに突然ミシと小さく何かが軋むようなものが混じる。
    「ん?」
    「っ!」
     顔を上げる前に、彼女は村雲に飛びつかれて床に仰向けに倒れ込んだ。同時に何かが崩れ散らばる激しい物音が響く。彼女は驚いて目を閉じることもできなかった。視界には資材庫の木の天井と、村雲の着ている緑のジャケットと黒い襟が見える。
    「は、え……?」
     目だけを動かして今まで自分がいたほうを見ると、彼女がいた場所には砥石が散乱していた。側にあった棚の一番上の天板が折れている。
     何故、あんなの直撃したら間違いなく死ぬ。自分の置かれていた状況を理解して、彼女の呼吸は急激に早くなった。
     そのまま呆然としていると、村雲が先に体を起こして彼女の頭やら顔やらを慌てて探る。
    「君、怪我はっ? どこも打ってない? 何も当たって」
    「へっ、平気、だけど」 
    「なにっ? 今の何の音! 主っ? 村雲っ?」
     どたばたとこれまた喧しい足音を立てて走ってきた清光が資材庫を覗き込む。それから室内の惨状と倒れこんでいる彼女を見て血相を変えた。
    「なにこれっ、主、怪我は」
    「だ、大丈夫、ちょっと擦ったくらい、っそうだ雲さんは」
     飛びついて庇ってくれた村雲のほうが怪我をする危険はあったはず。彼女はやっとそれに思い至り、慌てて村雲に向き直った。けれど村雲は既に別な方向を凝視している。
    「……おかしいだろ」
     今まで聞いたこともないような低い声で村雲は呟いた。
    「一年も経ってない本丸なのに、こんなの」
     厳しい目で村雲は散らばった資材を見つめていた。確かに、村雲の言うことは尤もだった。この本丸は彼女が着任してから一年も満たないまだ新築と言っていい城。それに大した量が載っていたわけでもないのに、棚が傾いで資材が降ってくるなど、正直考えられなかった。
     散らばった玉鋼が不気味に光って見える。彼女もやや薄寒さは感じていた。
    「と、とにかく俺、今救急箱持ってくるから! 主は他に痛いところないか確認しといて、すぐ来るからね!」
    「あ、うん、ありがとう……」
     再び清光が飛び出して行ってしまうと、村雲は彼女を助け起こして今度は腕や手を検める。右の手首の辺りに村雲の指が触れたとき、僅かにピリピリとした痛みがあった。
    「いたた」
    「あっ、ごめん、ここ擦ったんだね」
    「だ、大丈夫大丈夫、血も出てないし」
     見ればそこは僅かに皮が剥けて赤くなっていた。こういう出血を伴わない程度の擦り傷は痛みだけは強いものだ。それにそれなりの勢いをつけて倒れ込んだのだから、この程度は仕方ない。むしろこれで済んでよかった。散らばった砥石を改めて見て改めて彼女はゾッとする。
     そんな青ざめた彼女と視線の先を見て、村雲もまた眉間に皴を寄せた。それから僅かに自分の腹を押える。
    「ごめん、怖かった、よね」
    「だ、大丈夫、大丈夫。びっくりしたくらい。擦り傷だけでよかった、ほんと、ありがとうね雲さん」
     自分でも空笑いだと思ったけれど、彼女は「ははは」と声を出した。そうしないといくらか震えている指先を隠せないと思った。しかし村雲はそれを見て一層苦しそうに表情を歪める。
     それはまるで、彼女がここで怪我をしたのは自分のせいとでも言いたげなものだった。
    「……ごめんね」
     泣き出しそうな表情で村雲は腹を押さえ項垂れる。彼女は村雲に向かって手を伸ばしかけて、迷ってやめてしまった。
     わからない。ここに来てから何度か、村雲は今のような、苦しく悲しそうな顔をすることがある。初対面のときもそうだった。だが彼女と村雲は当然のことながらここに迷い込んでくるまで面識はないはずなのだ。彼女はまだまだ新米の審神者で、演練や政府の研修会にも出席したことはない。だから刀剣男士「村雲江」の姿を見たこともなかった。
     それなのにどうして、村雲がこんな表情をしていると胸が苦しくなってしまうのだろう。それはまるで、近しい家族に感じるような、今は清光に思うような。そういう親しさを何故だか村雲相手に覚える。確かに彼女と村雲はここで一緒に暮らしてはいるけれど、それはたかだか半月程度のはずなのに。
     本当はもっと、長く、古い。昔から知っているような。
    「……私ね、前から、運が悪くて」
     静かに、彼女は村雲に話しかけた。すると村雲は、まだ眉を下げてはいたものの僅かに首をもたげる。
    「……運?」
    「うん、言わなかったっけ? よく言われるんだよね、私は運が悪いって」
     ツイてないなと思うことが、今までもとても多かったこと。それを彼女はぽつぽつと村雲に話した。
    「大事な試験の日に限って、熱を出したり。あと電車が遅れたり? 普通に転んだだけなのに打ち所が悪くて骨が折れたとかもあったっけ。とにかくね、昔からそういうことが多くて。あー、今の状況もそうかなあ」
     召集された時期が悪くて、研修を受けられず正式な審神者になることができないなんて。そんなこときっと早々ないだろう。けれど外れくじを引いたのだと思えば、彼女は何となく納得できた。
     自分は、運が悪いのだ。
    「でもね、不思議なことにいつも決定的に悪いことにはならないの」
     わざと明るく彼女が言えば、村雲は不思議そうに首を傾げた。
    「どういうこと?」
    「うーん、試験の日に電車が遅れると、試験官の人もその電車で大丈夫だったりとか。怪我しても傍にたまたまお医者さんとか看護婦さんがいてすぐに見て貰えたりとか? そんな風にね、あ、ツイてないなって思っても、寸でのところでなんとかなるんだよね」
     今日もそうだ。彼女は擦りむいた自分の手首を見た。怖い思いはした、驚いたし、やや嫌な気持ちにもなっている。けれど庇ってくれた村雲に怪我はなく、彼女の怪我も痛みはあれど血の一滴さえ出ていない。
    「だから今日のもたぶんそうだよ。気にしないで。運は悪いけど、いつも最後にはなんとか」
    「そ、れは、たぶん、考えようだと、思う」
     急に、そして食い気味に村雲が言った。そのまま村雲はわたわたと身振り手振りをしながら、彼女に一生懸命話す。
    「君は……君は運が悪いんじゃなくて、ついてないような目に遭ってもなんとかなるくらい、運が良いんだよ」
    「え、まあたまに、そう言われることもあるけど」
    「じゃ、じゃあそう思ってて。言われるだけじゃなくて、君も、自分は運が良いんだって思って」
     彼女の右の手のひらを両手で握って村雲は言った。彼女は柔らかなピンク色で塗られた村雲の爪をじっと見つめる。
    「……それはいいけど、どうして? そんな必死にならなくても」
     やや肩を竦めて彼女が聞けば、村雲はそろそろと視線を下げながら答える。
    「悪いって思うと、本当に悪くなっちゃうかもしれないから。できる限り、良いほうに思ったほうがいいって」
    「良い方に?」
    「……って、俺の主が、前に言ってた」
     そう言った村雲の様子を、彼女は慎重に伺った。
     もしかしたら、どういう事情で村雲がここに居るのか聞きだすことができるのではないだろうか。村雲が自分の主のことを口にするのはこれが初めてだ。
    「雲さんの主さんって、どんな人?」
     彼女が尋ねると、村雲はぎくりとして肩を震わせた。それから握っていたままだった彼女の手のひらをそろそろと離す。
    「えっ? な、なんで」
    「あ、いやごめん、他の審神者さんってどんな人かわからないから、ちょっと興味があって」
     それは嘘ではない。事実彼女は村雲の主に興味はあった。彼女の先輩で、本丸を既に立派に運営している人。村雲にそんな風に前向きな言葉を掛ける人。
     一体その人はどんな風にこれまでを歩んできたのだろう。どんな風に覚悟を決めて、数多の刀剣男士の主として本丸で過ごしているのか。
    「よかったら教えて? 雲さんの主さんって、どんな人なのかな」
     やや緊張しながら彼女が聞けば、村雲はちらりとこちらを一瞥した。それからおずおずと口を開く。
    「俺の、主は……」
     言葉に迷ったのか、村雲は一度だけ唇を噛んだ。しかしきちんと彼女の問いには答えてくれる。
    「ちょっとのんびり、した子、だったかも」
     ちょっと、のんびり。思っていたのと違う答えが返ってきた彼女はやや首を傾げた。ここまでの話を聞くだに、村雲の主はしっかりとした先輩審神者という印象が強かったのだが。
    「……どういうこと?」
     彼女が問い直せば、村雲は慌てて左右に首を振る。ふわふわの癖のついた髪が揺れた。
    「あ、いや、それが悪いって言うんじゃなくって! ……俺がお腹痛くなってると、いつも傍でにこにこしててくれてた、から」
     眉を下げ、しかしどこか懐かしそうに村雲は瞳を細める。
    「俺が何言っても、そうやって……ただずっと、隣でにこにこしてる子だった」
     何度か、村雲はピンクのセーターの上から腹を撫でた。今までも村雲が腹痛を訴えたことは複数回ある。口には出さずとも、鳩尾の辺りに手を当てていることも多かった。しかしこの口ぶりだと、村雲のそういった不調というのはここに来てからというわけではなさそうだ。体調が悪いのが常態化しているのだろうか。彼女はそっと村雲に尋ねた。
    「ごめんね、言いたくなければ、いいんだけど。雲さんはどうして、お腹痛くなるのかな。今更だけど、気を付けておいた方がいいことある?」
     すると村雲は彼女のほうを見た後、再び首を横に振る。
    「ううん……これは俺が負け犬で、二束三文のせいだから」 
    「まっ、負け犬!? 二束三文!? 雲さんがっ?」
     ぎょっとして彼女は声を上げてしまった。そんなのおおよそ誰かに投げかけていい言葉ではない。
    「誰が言ったのそんなの、えっ、まさかほ、本丸で」
    「ちがっ、違うよ、本丸に来てからはそんなの一度も、一度も言われたことないからっ!」
     焦って村雲が否定したので、彼女はひとまずホッと安堵した。
     いや、村雲自身が自分のことをそんな風に思い込んでいることは何も良くないのだが、清光だってたまに自虐的に自分のことを「川の下の子」と自称したり、可愛がってもらうことに固執したりもする。彼女がからしてみればそれはとても、心配な一面だった。
     だが、彼女にだって自信のない点はある。清光の「愛してほしい」も村雲の「負け犬、二束三文」もそれと同じなのかもしれない。ならば、必要なのは時間と、そんなことないと否定する周囲の環境だけ。いつか自分でそう思えなくなる日まで、周りの誰かが「それは違う」と言い続ければいい。
     そしてこの様子を見るに、きっとその誰かは既に村雲の傍にはいるということだ。
    「そうだよねぇ」
    「……」
    「だって、雲さんがそんな、負け犬とか二束三文とかなはずないもの。誰もそんなこと言わないよね」
     確かに最初はコミュニケーションに難があったし様々なことを気にしすぎるきらいはあるが、村雲は周囲に目を配ることができるし、この本丸の清光とだってうまくやっている。料理だって上手で、彼女が審神者の仕事について聞けばきちんと説明してくれる。負け犬や二束三文であるはずがない。ここに迷い込んできたのだって、転移の結果なのだから何か任務の途中だったはずだ。立派に刀剣男士としての務めは果たしている。
     彼女が笑ってそう返したのに、村雲はゆっくりと二度瞬きを繰り返した。それからくしゃりとした顔で笑って頷く。
    「……うん。誰も、言わなかった。主も違うって、言ってた」
     照れくさそうな表情で、村雲は答える。それに彼女も微笑みつつ、うんと一つ頷いた。
    「そっか。雲さんの主さんって、とてもいい主さんなんだね」
     村雲がどこか難しい性格であることは、彼女も何となく理解している。それでも村雲との間に、これだけの信頼感をその審神者は築いているのだ。だからやはり、経験を積んで優秀な審神者であることは間違いあるまい。
     だから素直に彼女はそう褒めたのだが、村雲はそれを聞いて僅かに眉に皴を寄せ、苦しそうな顔をしてから笑った。村雲はちょっと泣きだしそうだった。
    「……うん」
     しかしその表情を見て、ああ、いいなあと彼女は思った。
     いつか、自分もそうなれるだろうか。離れている刀剣男士が、遠くでこんな風に言ってくれるような主に。
     いつかきっと、そうなれたらいい。
    「主! 救急箱持って来たよ、ばんそうこ貼ろ!」
     そう言って救急箱を小脇に抱えた清光が資材庫に飛び込んでくる。清光が彼女の手首に絆創膏を貼るのをじっと見ていた村雲は、「早くよくなるといいね」と言った。彼女がこんなのすぐに治るよと返せば、村雲はただ笑っていた。


     たかだか皮が剥けただけだと言っても、清光は「そういうのが一番痛いし傷になるかもしれないから」と入浴後にもう一度処置をしに来た。血も出ていないのに、清光は彼女の擦りむけたそこを丁寧に消毒する。足だけは胡坐をかいていたけれど、清光はピンセットを使って綺麗に消毒液を彼女の傷口に塗った。
    「過保護だなあ」
    「いーの、俺の目が黒いうちは主に傷なんか残さないから! 今日だけはちゃんとどこにも傷が当たらないようにして、明日は乾かそ」
     ふふと彼女は小さく笑う。確かに傷はひりひりと痛みだけは訴えていて、清光の判断は正しいようだった。とはいえやや仰々しいようにも思える大きめの絆創膏を清光は救急箱から取り出す。それを見ながら、彼女は口を開いた。
    「清光、ありがとうね」
    「なにが?」
    「さっき、私が話し終わるまで資材庫に入るの待っててくれたでしょ?」
     彼女は刀剣男士ほど誰かの気配に聡くはないけれど、急いで救急箱を取りに行ってくれた清光ならもっと早く戻ってくるだろうことくらいはわかっている。だからきっと、清光は彼女と村雲の会話が一段落するまで待ってくれていたのだ。
     清光はちらりと彼女に視線をやると、悪戯っぽく笑って消毒液を片付けた。
    「まーね。俺も空気ぐらいは読むし、主の刀だから。あんたのすることの邪魔はしないよ。村雲の主と本丸の話、したかったんでしょ?」
    「うん、……ありがとう。おかげで雲さんとちゃんと話せた。色々、可能性は考えたけど……私、雲さんのいた本丸に問題があったとは思えない。少なくとも雲さんは、本丸とか、審神者さんに問題があってここに居たがってるのは、違うと思う」
     だって、村雲はあんなに優しい表情で自分の主のことを話していたのだ。一瞬だけ泣きそうな顔をしたのを見るに、本当は帰りたいのかもしれない。とにかく本丸や、自分の主に対してマイナスな感情を持っていないことは明らかだ。
     胡坐をかいた自分の膝に頬杖を突き、清光は薄めの唇を指先でなぞる。いくらか考えている様子だった。
    「そーね。俺もそう思う」
    「だったらやっぱり、何か理由があって帰れないってことなのかな。自分で帰れるならきっと、もっと早くにそうしてるよね」
    「それはそうだろうけど、でも帰れないって何? この本丸だって一応、転移装置は生きてるよ。それにあいつ、政府にも行こうとしないし」
     それには彼女も困って視線を下げる。どうしても説明がつかないのはそこなのだ。
     村雲が元居た本丸や主を慕っているのなら、帰らない理由はないと思う。それなのになぜ、村雲はここに来てからずっとそうしないのか。
    「まあ、もうここまで来るとそれは本人に聞くしかないんじゃない」
     体を起こすと、清光は救急箱を探って絆創膏を一枚取り出した。大判のそれは、彼女の手首をしっかり覆ってくれる。
    「……やっぱりそれしかないかな」
     彼女もそうは思っていたのだが、流石にそれを聞く勇気はなかったのだ。最初政府に行こうと言ったときも、村雲はお腹が痛くなるからと頑なにそれを拒んだ。それからもずっと、一度たりとも村雲が本丸に帰りたいと言ったことはない。何か理由があるのだろうと確信を持てば持つほど、どう聞いたらいいかわからなくなる。
     唇を噛み彼女が眉を寄せていると、清光は右手で絆創膏を持ったまま左手の人差し指で彼女のそこを押した。ちょいちょいと皺を伸ばすように清光の指の腹は二度眉間を擦る。
    「大丈夫だって。ここ来てすぐの村雲ならまだしも、今の村雲ならきっと話してくれるでしょ」
     切れ長の赤い瞳を和ませて、清光は優しく笑む。腕を降ろしつつ、清光はぎゅっと彼女の手を握った。
    「主はずっと、ここで村雲の話聞いて、村雲と話して、半月だけでもちゃんと付き合ってきたんだから。主が聞けば、村雲だって話してくれるって」
     清光は「ねっ」と言ってから、彼女の手を離した。それから彼女の右手のひらを上に返して、処置をしやすい向きにする。丁寧に丁寧に処置を進める赤い爪を見つめ、彼女も肩の力を抜いて息を吐いた。
    「……ありがとう」
    「どういたしましてー」
     軽い調子だったけれど、清光はにこりと歯を見せて笑った。それにつられてくすくすと彼女も笑い、再び清光の指先に視線を戻す。
    「ねえ清光」
    「んー?」
     村雲が本当に元の本丸に帰ることができるようになったら、この本丸はまた彼女と清光と二人きりになる。けれどもう、彼女はそれに緊張したり不安に思ったりすることはなかった。
    「この間も言ったけど、私ね、審神者になるの、ちょっと怖かったんだ」
     ほんの一瞬だけ、絆創膏を固定しようとしていた清光の手が止まる。けれどすぐに、清光は彼女の手首にそれを当ててテープ部分を剥がし始めた。ぺりぺりと音を立てて剥がれた台紙がゴミ箱に捨てられる。
    「うん」
    「でもね、今ならちゃんと、審神者になれる気がする」
    「どうしてー?」
     柔らかいガーゼがひりひりと僅かに痛む傷跡に当てられた。こうしておけば、今夜寝るときどこかに擦ったりぶつけたりすることもないだろう。
     これと、同じ。彼女がやるべきことは。痛んだら処置をする、痛まないように気を付ける。ただそれだけのことだった。
    「やることはずっと変わらないって、わかったから」
     背負うべき責任も、その重さが軽くなったわけでもないけれど。でもそれでも、今の彼女にはわかる。
     村雲相手にそうしたように刀剣男士達と真摯に向き合って、話をして、ここで生きていくこと。自分がするべきことは、これから繰り返していかなくてはいけないことは、ずっと変わっていかないのだ。無暗に怖がることはない。彼女が恐ろしいと言えば、きっと彼らはわかってくれる。その上で、寄り添おうとしてくれる。
     だから彼らと一緒に、戦っていけばいい。
    「だから私、頑張って……とはいっても、私のペースかもしれないけど。それでも、何とかやっていくよ。私はここで、一人前の審神者になりたい」
     清光の美しい指先が絆創膏のテープ部分をなぞって、それを貼り付ける。もうこれで、大丈夫。
     顔を上げて、彼女と視線を合わせ清光は微笑んだ。
    「うん。一緒に、頑張ろ」
     今度は彼女から清光の手を握った。温かい、自分と同じ手だ。
    「ま、俺はもう少し主と二人でもいーけど?」
    「あはは、うん、これから人数増えてもたまには二人で遊ぼうね」
    「やった。それ忘れないでよねー」
     再び頬杖を突いて、清光はニカッと笑う。新しく仲間を呼ぶことも、清光とこれから本丸を作っていくことも、今では楽しみになっている。早く、そうできるようになるといい。
     彼女の処置を終えると、清光は自分も入浴すると言って部屋を出て行った。彼女も既に寝支度は整えてあったけれど、翌朝の食事当番なのもあり、厨の炊飯器のスイッチを入れたかどうかだけ確認しようと襖を開ける。
     木造建築の本丸は夜更けになるときちんと明かりをつけなければ結構な暗さなのだけれど、今夜は良く晴れているのか縁側の方から月の光が差し込んでいた。厨へは少し遠回りにはなるが月でも眺めようかと彼女がそちらに向かえば、縁側にぽつんと佇んでいる背中を見つける。浴衣姿の村雲だった。
    「雲さん」
     そう呼びかければ、空を見上げていた村雲はこちらを振り返る。湯上りの村雲はまだ髪が湿っていた。
    「まだ夜は冷えるから、こんな縁側に立ってたら風邪引くよ」
    「……うん」
    「雲さん、ただでさえお腹弱いんだから」
     そう言えば、村雲は少しだけ「えへへ」と笑った。それから手にしていた戦装束を持ち直す。
    「ここで何してたの?」
    「……空、見てた。今日はよく晴れてて星が見えるから、雨さ、ううん、仲間が……喜ぶ気がして」
     ふっと瞳を緩めて微笑み、村雲は夜空を見上げていた。言いかけた呼び名を聞くに、きっと村雲とは親しかった相手なのだろう。彼女は村雲の隣に立って、空に目をやり聞いてみる。
    「その人ってどんな刀? 星が好きなの?」
    「星がっていうより、歌が好きで……だからすごく、季語も、好きで」
    「季語?」
    「うん。いつも探してた。俺にも良く、見せてくれて」
     刀も十人十色なのだなあと話を聞きながら彼女は思う。雲さんのように些か内向的で部屋でのんびりするのが好きな刀もいれば、ちゃきちゃきとして人当たりが良くてお洒落が大好きな清光もいる。きっと自分もこれから様々な刀に会うのだろうなあと思うと、楽しみなようなちょっと緊張するような。ふふと彼女は小さく笑った。すると村雲は不思議そうにこちらを見る。
    「どうかした?」
    「ううん、なんでも。それで? 雲さんは星、好き?」
    「俺? 見てるのは、好きだけど、そんなに詳しいわけじゃ、あ、でも」
     村雲はきょろきょろと何かを探して首を回すと、パッと夜空の一点を指さした。ひときわ明るく見やすい星が浮かんでいる。
    「あれは名前、教えてもらった」
    「あれ、あ、ベガ、織姫」
     もう見える時期だったのかと彼女もその星を見上げた。その星は彼女も学校で習った記憶がある。
    「本丸で七夕でもしたの?」
    「う、うん。俺も七夕は知ってたから。そしたら主が、あれは星座の一部だって言ってて」
     ベガはこと座で最も目立つ星。傍にあるわし座のアルタイルと白鳥座のデネブで夏の大三角というのだと、遠い昔理科の先生が言っていたのを彼女は思い出した。
    「そうだね、あれはこと座」
    「うん。俺が七夕しか知らないって言ったら、主が、そのこと座の話教えてくれた」
     こと座は黄泉の国、つまりあの世まで死んだ妻を迎えに行った男の神話が元になっている星座だ。ある死んだ妻を生き返らせたかった男が、黄泉の国の王に琴を聞かせた。その音色に感心した王の妻に乞われて王は男の妻を連れ帰ることを許すけれど、この世にたどり着くまで、男は後ろをついて歩いてくる妻を振り返ってはいけないと申しつける。だがもうすぐこの世というところで、男は振り返ってしまう……。
     そして結局、男の愛する妻が蘇ることは叶わず、男はそれから再婚することもなかった。さらに不幸なことにかなり酷い死に方をするのだが、その後男を憐れんだ神が天に召し上げたのがあの「こと座」なのだそうだ。
    「なかなか救いのない話だよね」
    「うん……俺、それ聞いて結構、落ち込んじゃって」
    「そうなの?」
     彼女が尋ねれば、村雲はそのときのことを思い出したのかうぅと顔を顰めて片手を鳩尾にやった。
    「だって、せっかくあと少しでまた奥さんと暮らせるところだったのに。もうちょっと我慢できなかったのかなあ。それにその後別な神様の命令で八つ裂きにされて死ぬって聞いて本当、お腹痛くて」
    「あはは」
    「笑い事じゃないよぅ……」
     あまりにも神妙に村雲が話すので、彼女はつい笑ってしまった。それに村雲が更にしょげた顔をしたのですぐに謝ろうとしたのだが、唇を噛んだ村雲は暗い表情で呟く。 
    「……だって、大好きな人ともう一度会えるなら、なんだってするって思ったから、その人はあの世まで行ったんだろ。それなのにあんまりだよ」
     確かに、そうだ。そこまでしたのだから報われてほしいと、彼女もその話を聞いたときに思った。だがそうはいかなかったというのも、彼女は何となく納得できてしまったのだ。
     だって妻は死んでしまった。死んだものを蘇らせるということ自体が奇跡に近い願いだったのだ。どれだけ願っても、努力しても、だめなことはある。諦めなくてはならないことはある。彼女はそう思った。しかし村雲はそうではないらしい。
     彼女はぽんぽんと村雲の背中を軽く叩いた。それからできるだけ明るく言う。
    「……雲さんって結構ロマンチスト?」
     すると村雲は首を傾げてパチパチと瞬きを繰り返した。
    「え? ろ、まんち……?」
    「あ、わかんないか。でも私はどっちかって言ったら、自分がうっかり死んじゃっても相手が元気に楽しく生きててくれる方が嬉しいけどなあ」
     そう言いつつ、彼女は宥めるように何度か村雲の背を撫でた。村雲は当然、彼女よりいくらか上背もあるのだけれど、どうにも小さい子どもにそうしてやっているような気分になる。
    「それにね、その話はいくつか終わりにパターンがあって。死んだ後琴は星座になって、男の魂は黄泉の国に行って妻と再会する話もあるし」
    「……そうなの?」
     僅かに視線を上げた村雲がこちらを見る。それに彼女は頷いた。
    「うん。どっちかが死んじゃっても、いつか会えるなら。私は生きてる間は大切な人が楽しく幸せにしてくれてる方が嬉しいと思う。そりゃ、自分のためにあの世まで来てくれたことは嬉しいよ。でもそのあとずっと悲しかったり苦しいなら、割り切って楽しく生きててほしいな」
     村雲はもう一度夜空に光るベガに視線をやったあと、逡巡していくらか瞳を伏せた。それから顔を彼女の方に向けて尋ねる。 
    「……そういえば、君はどこか行くところだったの?」
    「ん? 厨、明日の朝当番だから。炊飯器の予約ができてるか、一応確認しようと思って」
    「じゃあ俺も一緒に行く。夜で危ないし、お水、飲みたいし」
     厨なんて目と鼻の先なのだけれど、彼女はくすくすと肩を揺らした。
    「あ、じゃあせっかくだし、一緒にアイスでも食べる?」
    「えっ、あいす? いいの?」
    「雲さんちょうどお風呂上がりだし! あ、私は寝る前だから、清光には内緒にしてね」
     そう冗談めかして言えば、村雲ははにかむように笑って頷く。気分もいくらか持ち直したようだ。
    「う、うん、じゃあ食べる」
    「あっ、でも雲さん冷たいの食べてお腹平気?」
    「だっ、だいじょぶ、そのくらいなら、たぶん……?」
     一応手でお腹の辺りを撫でつつ村雲がそう言ったので、彼女は笑って顔周りの髪を耳に掛けた。まだ夜風が心地よい。本丸の夏はどんな風だろう。彼女には日本家屋で過ごす夏の経験がない。室内には冷房が完備されているのを見たけれど。
     すると村雲は何かに気づいたらしく、僅かに屈んでこちらを覗き込んだ。
    「擦ったところは?」
    「もう平気。お風呂に入ったときもそんなに痛まなかったし、それにほら、清光がまた絆創膏も貼ってくれた」
     腕を上げて、彼女は寝巻の袖を少し捲る。どうやら手首が見え隠れしたらしい。先程貼ってもらった絆創膏を見て、村雲はホッと息を吐く。心配してくれていたようだ。
    「大丈夫だよ、このくらい。清光も雲さんも過保護だなあ」
     彼女が揶揄って言えば、村雲は慌てて、しかしややむくれて答える。
    「だっ、だって、傷が残っちゃ嫌だなって思ってたから」
    「これくらいなんともないよー。刀剣男士って、皆これぐらいでハラハラするの? それじゃあ先が思いやられるなあ」
     ふふと彼女は嘯いて笑った。だってこれから、彼女は戦場に向かうのだから。彼女自身だって、多少の負傷には慣れなくてはならないだろう。逐一冷静さを失っているようではいけない。
     しかし村雲はそれを聞いて表情を強張らせた。ぎゅっと戦装束を抱える手に白く力が籠ったのがわかる。
    「……これから先だって、怪我なんか、一つもしない方がいいよ」
     そう言って、急に村雲が心を閉ざしたような気がしたので彼女はやや困惑した。村雲の言うことがわからないわけではないけれど。
    「でも、雲さんたちは怪我をするのに私が何の覚悟もしないわけにはいかないよ。もちろん、できるだけ避けるつもりではいるけど」
    「俺たちが怪我するのと、君が怪我するのは全然、全然意味が違うよ。君はそんな覚悟なんかしなくていいんだから」
     村雲にしては珍しく、強い語気だった。彼女は困ってやや視線を下げる。どうして急に、こんなに頑なな態度を取るのだろう。村雲が最初に迷い込んで来たときと比べれば、確実に距離は縮まったと思う。コミュニケーションだって問題なく取ることができるようになった。だがそれでも、彼女は村雲のことがわからない。
     不意に泣き出しそうな顔をするのも、ここにいたがるのにいると苦しそうにするときがあるのも。きっと理由があるのだろうけれど、彼女はそれを知らない。
     ……村雲の主ならば、こういうときどうするのだろう。彼女は眉間に僅かにしわを寄せて考えた。いつも笑って隣にいたという村雲の主なら、何と声をかける。どうしたら村雲の胸の奥に沈んだ重たい石のようなものを除けてやれるだろう。村雲が、彼女にそうしてくれたように。
     今の自分では、その正解を導き出すことができない。
    「……ねえ雲さん、私ね、運が悪いんだって言ったでしょ? だからね、審神者になったのもまた運が悪かったんだろうなって思ってた」
     やや俯いている村雲に、彼女は静かに言った。
    「それなりに気合入れてきたつもりだったけど、暫くは待機って言われて、いきなり出鼻くじかれた感じで。段々、色々怖くなったりもしたし。そもそも自信なくて」
     刀たちの命を背負う自信がなかった。自分の選択一つで取り返しのつかないことになるのが恐ろしかった。これは戦争で、これから向かうのは戦場なのだと考えるだに足が竦んだ。それができるかどうかは別として、ここから逃げ出したくならなかったと言えば嘘になる。自分の責任ではないとはいえ先輩の審神者たちからかなり置いて行かれている状況を、情けなく思ったりもする。
     だが、それでも彼女は今自分の意志でここに立っている。
    「でも、これからはもっと前向きに考えてみる。ここに来たから、清光や雲さんに会えたんだし。それは私にとって嬉しいことだったから、良いことの方を数えたい」
     そう思えるようになったのは、一度諦めそうになったとき「ちゃんと話して」と言ってくれた村雲がいたからだ。
    「ねえ雲さん、ありがとう。あの日、私の背中を押してくれて」
     彼女は村雲の瞳を正面から見つめ、はっきりと言った。
    「あの日雲さんが清光とちゃんと向き合えって言ってくれたから、私は何とか一歩踏み出せたんだよ。雲さんがここで、色々教えてくれて、話してくれたから、自分がどんな審神者になりたいのかわかったんだよ」
     目標が定まったなら、もうあとは一歩ずつ進むだけ。どんなに小さな歩幅だったとしても着実に。そうしようと彼女は決めた。それはとても微々たることだけれど、そう決められたことをまずは一つ成果として数えたい。
    「だから私、ここで一人前の審神者になりたい。やらなきゃいけないことは多いし怖いことも多いだろうけど、どんなことからも目を逸らしたくないし、起きたことにはちゃんと対処できるようになりたい。経験だって少しずつでもちゃんと積んで、ここで刀剣男士の皆と生きていけるようになりたい」
     手を伸ばして、彼女は村雲の手をしっかり握った。
    「元の本丸に帰ろう、雲さん」
     ぴくりと村雲の手が震えたのがわかった。色の薄い、村雲の唇が引き絞られる。だが彼女はそのまま続けた。
    「きっと雲さんの主さんも、雲さんが帰ってくるのずっと待ってるはずだよ。私もう一度政府にかけあってくる。一緒に政府の人に、帰れるようにお願いしよう。雲さんは? 自分の本丸に帰りたくない? 雲さんにだって、役目はあるよね」
     ぎゅっと村雲が手を握り締めたのがわかった。半月の間、迷子の村雲は抱えている戦闘服にしか袖を通していない。内番着や他の楽な服がここにはないからだ。けれど出陣も何もしていない。そんなのは、刀剣男士としてもどかしいはずだ。
    「俺……」
    「もし何かあるなら、私も力になる。雲さんがどうしたいのか教えて。困ってるなら、何でもするよ。だって私、雲さんに助けてもらったから。そのお返し、させてほしい」
     ほんの少し、本当のことを言えばお別れは寂しい。
     自分の刀剣男士じゃないけれど、たった半月程度だったけれど、彼女は村雲に真剣に向き合ってきた。どんなことも話したし、逆にどんなことも聞いてもらった。
     けれどそれだから、村雲にこそ彼女は自分が一人前になったところを見てほしい。
    「それで次に会ったときはきっと、私も立派な審神者になってるように頑張るからね」
     そう言ったとき、村雲はとても不思議な顔をした。出会ってからよく見る、泣き出しそうな顔。しかしどこか笑っているような、何かを懐かしんでいるような顔。それでいて絶望したような顔。そして喜怒哀楽の全てがないまぜになった表情で村雲は僅かに体を倒し、正面に立っていた彼女に寄せる。
     目も閉じることができないまま、彼女は村雲に口付けられた。まだしっとりと濡れた薄桃色の髪からふわりとシャンプーの匂いが薫る。彼女も同じものを使っているはずなのに、僅かに生花のような瑞々しい甘い香りがした。
    「……え?」
     一歩彼女は後ずさる。何故だか村雲もパチパチと瞬きを繰り返していた。ややひんやりとしかけていた耳が急に熱くなる。
    「えっ?」
     後になって思えばもう少し可愛い声を出せればよかったのだが、驚いた彼女は残念ながら低めのトーンでそう繰り返すことしかできなかった。
     すると村雲もそれで我に返ったのか、ハッとすると彼女同様後ずさり、それだけでなく踵を返して逃げ出したのである。
     ポカンとして彼女は口を開けた。ばたばたと慌ただしく村雲が走っていく音が縁側に響く。
    「いや、なんで雲さんが逃げるのっ?」
     思わず言ったけれど無論返答はない。星空の煌く夜空に彼女だけが取り残された。
    micm1ckey Link Message Mute
    2024/12/25 19:28:32

    昨日目指した東の星

    #雲さに #刀剣乱夢 #女審神者
    新米審神者の本丸に迷子の村雲江が来た話。
    2023年6月に頒布して完売した本の再録です。
    続きは来週掲載します。

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