二度目の結婚①・一章 【 政略結婚 】
運命の分岐点とは前触れなく現れる。
何か兆しがあれば備えることができたかもしれない。どうすべきか考えておくことができたかもしれない。
しかし現実とは優しくないもので、個人だけではなく大勢の運命を変えてしまうような分岐点であってもその瞬間にならなければ姿を見せてはくれないのだ。
そしてリックも運命の分岐点に翻弄される人間の一人だ。
リックという男は数奇な運命を辿るように定められているらしく、彼の前には何度も運命の分岐点が現れた。その選択の結果がもたらした大半は血であり、涙であった。
つい最近もリックの前には運命の分岐点が現れ、進んだ先に待ち構えていたのは残酷すぎる結末だった。
大切な仲間を奪われた。生き方における自由を奪われた。必要不可欠な物資を奪われた。
リックやその仲間たちからあらゆるものを奪い続ける人間の名前はニーガン。圧倒的な支配者。リックにとってニーガンとの出会いはこれまでの人生の中で最悪な出来事だったかもしれない。
今日も支配者は徴収と称して町を訪れ、リックに「二人だけで話したいことがある」と言って教会に足を向けた。何を企んでいるのかと警戒心を抱きながらもリックは目の前の大きな背中に付いていく。
ニーガンは教会に入ると祭壇の前に立った。リックはその正面に立って男の顔を見上げる。
「リック、お前に良い話がある。」
そう言って話を切り出したニーガンにリックは鋭い眼差しを向けた。
この男の持ち出す「良い話」には裏がある。対価として何かを差し出すように要求してくると考えて間違いないだろう。
リックは更に警戒心を強めて「良い話?」と続きを促した。
「徴収量はそのままで回数を減らしてやる。月一回だ。それとダリルも返そう。良い話だろ?」
来た時から少しの変化もないニーガンの笑みにリックは苛立ちを覚えながらも提案された話について考える。
ニーガンの申し出は正直に言えばありがたい話だ。アレクサンドリアには生産物がない。畑はあるが軌道に乗っているとは言えず、調達やヒルトップとの取引で食料を得ている状態だった。他に何か生産しているわけでもなく、このまま徴収が続けば差し出す物資が尽きるのは時間の問題だろう。
その話がなかったとしてもダリルが帰ってくることは何よりの望みだ。彼を返してもらえるだけでもいい。
しかし、ニーガンという男の性質を考えれば無条件でうまい話を持ち出すわけがない。
リックはニーガンの目を見つめながら問う。
「代わりに何を差し出せと言うんだ?」
「その言葉を待っていた」と言うようにニーガンは歯を見せて笑い、手に持っているルシールという名のベースボールバットの先をリックに向けた。
「お前だよ、リック。俺との結婚が条件だ。」
リックは目の前に突きつけられたバットを睨み、視線をニーガンへと移す。
ニーガンの顔には軽薄そうな笑みが浮かんでいるがその目は本気だった。
リックは背筋を這い上がる悪寒を拒むように「ふざけないでくれ」と頭を振った。
「俺と結婚したいだなんて頭がおかしくなったのか?」
「期待を裏切るようで悪いんだが、俺はお前に惚れたから結婚したいわけじゃない。政略結婚って奴だ。」
「どういう意味だ?」
リックは訝しむように目を細める。
ニーガンはバットを下ろすとリックに一歩近づいた。
距離を縮めて見つめ合う二人の表情は対照的だ。リックは厳しい表情を崩さず、ニーガンは楽しげに微笑んでいる。
「アレクサンドリアを見て回ってわかった。この町は徴収に耐えられるだけの体力がないってね。それはお前が一番よく理解してるんだろ、リック。」
ニーガンの言葉に対してリックは何も言い返さない。いや、言い返すことができなかった。
「畑はまだ赤ん坊のよちよち歩き状態だし、調達で凌ぐのが精一杯って感じだよな。他に何か生産してるわけでもない。今のペースで徴収を続ければ……二ヶ月も保つかどうかだ。」
「だから徴収量を変えずに回数だけ減らす、ということか。」
「そういうことだ。」
そう言ってニーガンはウインクを一つ寄こした。
リックは鬱陶しげに眉を寄せると疑問を口にする。
「あんたの言うことは理解できるが、どうして結婚の話が出てくるんだ?」
「徴収の回数を減らすってことは俺の目が行き届かなくなる可能性が出てくる。そうなるとお前たちが良くない計画を立てるかもしれない。例えば──反乱、とか。」
「武器はない。あんたたちが全て持っていった。」
「それでも探し回れば見つかるかもな。反抗されると面倒なんでね、それは避けたい。押さえ込むために時間も労力も使うし、誰かに罰を与えなきゃならなくなる。お互いにメリットなしだ。」
アレクサンドリアが反乱を起こすことを前提に話を進めるニーガンにリックは無性に腹が立った。
戦いに必要な武器はない。
反抗する気力を持つ者は少ない。
奪われて、捻じ伏せられて、叩きのめされた。
無事に生きている仲間を守ることだけで精一杯の自分たちに何ができるというのか?
リックは怒りを必死に堪えて握りしめた拳に力を込めた。
「生活と徴収に精一杯で、武器も持たない今の俺たちに何ができるって言うんだ?反乱なんて起こせない、起こす気もない。」
怒りに声を震わせながら反乱の意思はないことを告げるとニーガンの顔から笑みが消える。
ニーガンの顔に怒りはなく、真剣さだけが残った。
「できるさ。お前がいればな。……リック、お前はタマなし野郎のケツを蹴飛ばして奮い立たせることができる奴だ。俺と同じでトップに立って率いることを許された人間だ。だからお前が反乱を起こすと決めれば反乱は起きる。」
そう断言するニーガンを見てリックは悟る。
「ニーガン、あんたがここに来るのは俺を抑えつけておくためだったのか?」
リックの確信を持った問いにニーガンは「そうだ」と頷いた。
「お前を野放しにすれば反乱が起きるかもしれない。だからアレクサンドリアの奴らからお前を取り上げて俺の手元に置いておきたい。」
ニーガンの答えを聞いてリックは唇を噛む。
ヒルトップの話を聞く限りではニーガン本人が徴収に来たことは一度もないようだ。その例外がなぜアレクサンドリアに起きたのかというと、リックのせいなのだ。
リックが反乱を先導することを警戒するニーガンはリックの首根っこを掴んでおくために頻繁に町にやって来る。つまり、リックがニーガンを呼び寄せていると言ってもいい。
リックは自分の存在が皆を苦しめる元凶を呼び寄せていたことにショックを受けたが、それを隠して次の質問を投げかける。
「あんたの考えは理解できるが、結婚する必要はないんじゃないか?部下にすれば十分だろう。」
リックの疑問にニーガンが微かに嘲笑を浮かべる。それを見てリックの中に沸き上がるのは怒りと恐れだ。
バカにされることには怒りを感じるが、遥か上から見下されているような感覚には本能的に恐怖を感じる。支配者への恐怖は簡単に拭えるものではないということなのだろう。
リックは薄っすらと汗ばむ掌を解放するために拳を解いた。
「おいおい、仲間を殺された恨みを持ってるのが自分たちだけだと思ってるのか?こっちだってお前らに大勢が殺されてるんだぞ。」
ニーガンのストレートな言葉に心臓をギュッと掴まれたような心地がした。
渦巻く怒りと悲しみに囚われて頭から抜け落ちていたが、リックと仲間たちは救世主を何人も殺しているのだ。その救世主にも自分たちと同じように家族や仲間がいて、彼や彼女が自分たちを憎んでいても不思議ではない。
もちろん、目の前にいる男も。
そのことが頭に染み込むとニーガンと目を合わせていることができず、リックはニーガンから顔を背けた。
「単純に部下にするだけだとお前を恨む奴が何をするかわからない。お前が殺されても困るし──ああ、簡単に返り討ちにできそうだな。まあ、俺の夫だってことにしておけば簡単には手出しできないだろうさ。」
「……俺がいると反乱が起きると言うなら俺を殺した方が簡単だろ。恨みを晴らすこともできる。」
リックが絞り出すように言葉を吐くと、ニーガンは一瞬キョトンとしてから苦笑を浮かべる。
そして片手でリックの肩を掴んだ。肩を掴まれたリックは体を小さく震わせる。
「俺は人殺しジャンキーじゃないぜ、リック。それにお前を部下にしたいのは嘘じゃない。これでもお前の能力を買ってるんだ。」
ニーガンの手がポンポンと肩を叩いて離れていく。
「で、どうする?この話を受けるのか、受けないのか。」
リックはすぐには答えられなかった。
徴収量が変わらずに回数だけが減れば町にとっては大きな負担減だ。生活自体がかなり楽になるだろう。ダリルも早く解放してあげたい。
しかし、ニーガンのところへ行けば直接的に仲間を守ることはできなくなる。皆が困っていても手を差し伸べてやることもできない。
家族とも呼べる仲間たちと離れて生きることになる。その事実は途方もなく重く、結論を出すことを遅らせた。
悩み抜いた末にリックは何度も躊躇いながら口を開く。
「本当に負担を……軽くして、くれるのか?」
リックがやっとの思いで声を出すとニーガンは笑顔で答える。
「もちろん。月一回の徴収にはお前も同行させてやる。町の様子が気になるだろ?」
「ああ。……ダリルも……本当に返してくれるのか?」
「今日あいつを連れてきたのはそのためだ。お前が受け入れるならこのまま解放する。」
それを聞いてリックは深く息を吐き出す。
今の自分にできる最善はニーガンの言葉を信じること。
リックは覚悟を決めてニーガンの目を見つめ返した。
「ニーガン、話を受ける。あんたと結婚する。」
声が震えなくてよかった。リックは心の底からそう思う。
自分の決断が正しいかなんてわからない。自信も持てない。それでも選ばなければアレクサンドリアに待ち受けているのは破滅だ。
リックは視界に映るニーガンが滲み出したことに気づく。
泣いてはいけない、と必死に涙を堪えるリックの目の前でニーガンが悠然と笑う。
「よかった。賢い選択だぞ。」
「……一つだけ頼みがある。」
リックの言葉にニーガンが軽く首を傾けた。
小さな子どもに「言ってごらん」とでも言うような仕草に苛立つが、今はそれを堪える。
「カールとジュディスがこのままこの町で暮らすことを許してほしい。」
「子どもたちを手放すのか?お前の全てだろ?」
ニーガンは意外そうに目を瞠った。リックにとって誰よりも大切なのが我が子たちだと知っているからだ。
カールとジュディスはリックにとって生きる意味そのもの。だからこそニーガンの傍にいさせるなんてできない。
リックは涙の引いた目でニーガンをしっかりと見据える。
「あの子たちを愛してるからこそ、あんたの傍にいさせたくない。カールとジュディスはこの町でみんなと一緒に生きていくべきなんだ。」
リックの言葉を聞いてもニーガンは怒りを見せることも不快感を示すこともなかった。落ちついた様子で自分を見つめるニーガンに戸惑いながらもリックは目を逸らさなかった。
やがてニーガンが「わかった」と頷いたのでリックはホッと息を吐く。
「俺のところへ来るのはお前だけ。本当にそれでいいんだな?」
「構わない。」
「じゃあ、交渉成立だ。誓いのキスでもしておくか?」
からかうような口調のニーガンに対してリックは首を横に振った。
そしてニーガンに右手を差し出す。
「握手でいいだろう。これから、よろしく頼む。」
ニーガンは差し出された手をまじまじと眺めてからリックの顔に視線を向け、笑みと共に手を握る。
握手を交わすニーガンの手の力は強い。まるで「絶対に逃さない」と言われているようでゾッとする。
リックは汗が頬を滑り落ちていくのを感じた。
「これで俺たちは夫婦だ。裏切るなよ、リック。」
「わかってる。」
長い握手が解かれ、リックは己の右手を見る。その手が震えていることがひどく情けなくて、手をギュッと握り込んだ。
リックがニーガンと共に教会を出ると、ニーガンは近くにいた住人と救世主に全員を教会前に集めるよう指示を出す。
リックはその傍らに立ちながら顔を俯けていた。集まってくる仲間たちの顔を見るのが辛かった。
やがて町にいる全員が集まり、ニーガンは声高に宣言する。
「俺とリックはついさっき結婚した!リックはこのまま俺と一緒にサンクチュアリに行って暮らす!さあ、祝福の拍手に遠慮はいらないぞ!」
誰にとっても予想外のことにアレクサンドリアの皆が言葉を失ったように黙り込む。ある者は目を丸くして驚き、別の者は青ざめて唇を震わせ、怒りに顔を歪める者もいた。驚いているのはアレクサンドリアの人間だけなので救世主たちはニーガンの計画を事前に知らされていたようだ。
皆が動揺を隠しきれない中で真っ先に口を開いたのはカールだった。
「ふざけるな!父さんはどこへも行かない!お前と結婚なんかするはずない!」
カールは怒りを剥き出しにしてニーガンに迫った。今にも殴りかかりそうな勢いのカールを止めるためにリックは後ろからカールに抱きつく。
「カール、落ちつけ!」
「放してよ、父さん!勝手なことを言わせて──」
「俺はニーガンのところへ行く!」
リックが叫ぶとカールは凍りついたようにもがくのを止めた。
「嘘だ」と呟くカールを見つめながらリックは首を横に振る。
「嘘じゃない。徴収の回数を減らすのとダリルを返してもらうための条件だ。」
リックが努めて落ちついた声で言うとカールが勢い良く振り返った。その顔に浮かぶのは怒りと悲しみだ。
カールはリックの顔を凝視して唇を震わせる。
「父さん一人で決めたの?何で?みんなと相談すべきじゃないの?」
「この町のためにそうすべきだと思ったからだ。みんなのためだ。」
「それでも全員で話し合うべきだよ。」
カールの表情にも声にも悲嘆が滲む。リックはカールの顔を見ていられず、手を離すと背を向けた。
カールに背を向ければ町の皆と向き合うことになる。
誰の顔を見ても辛さだけが募り、リックは少し俯きながら集団の中を通り抜けていく。
リックが進むごとに皆は一歩下がるため道ができた。その道を通りながら自宅へ向かうリックの腕を掴む存在がいた。
腕を掴まれ、振り返った先にはミショーンがいる。彼女は強張った顔でリックを睨んだ。
「行く必要ない。みんなで乗りきれる。」
「……手を離してくれ。荷物を取りに行かないと。」
「リック!」
リックはミショーンの手を振りきって足早に家を目指す。決心が揺らがないうちに町から出たかった。
家に着くと寝室へ直行し、一番大きいリュックを取り出して衣類を詰め込めるだけ詰め込む。その他に必要なものを入れてから最後に写真立てを入れた。町に来たばかりの頃に親子三人で撮った写真だ。
リュックを手に一階へ下りるとカールとミショーン、アーロン、ユージーン、ゲイブリエル、トビンがいた。ロジータとタラは調達で不在だった。後から説明を受けた二人はひどく怒るだろう。
リックは様々な感情を宿した眼差しを受けながら皆の前に立って口を開く。
「徴収量は変えずに回数が月一回になる。それだけでも負担はかなり減るはずだ。それからダリルもこのまま町に留まる。これは決定事項だ。」
「その条件と引き換えにニーガンと結婚するなんて……結婚はそんなことのためにするものではない。」
途方に暮れたような顔のゲイブリエルの言葉を皮切りに、それぞれが思いを口にする。
「僕たちを置いて行かないで」とカールが、「あいつを信じたらだめ」とミショーンが、「みんなで他の方法を考えよう」とアーロンが、「効率的な調達や農作の方法を考えてみる」とユージーンが、「リックがいなくなったらみんながバラバラになる」とトビンが、それぞれにリックを引き留めようと必死に思いを紡いだ。
一人ひとりの思いが心に染みるのを感じながらもリックは「だめなんだ」と返す。
「みんなも感じているだろうが、この町は今のペースの徴収には耐えられない。このままだと差し出す物資が足りなくなって誰かが見せしめに殺される。負担が軽くならなければ俺たちに待っているのは破滅だ。」
それには誰も異を唱えなかった。懸命に走り回っているからこそ「このままでは物資が足りなくなる」と実感しているからだ。
リックは全員の顔を見回しながら言葉を続ける。
「それに、ニーガンが来るのは俺のせいなんだ。あいつは俺が反乱を起こすことを警戒して俺を押さえつけるために町へ来る。俺が呼び寄せているようなものさ。……ニーガンが来ると食事や飲み物を出さなきゃいけないだろう?それだけでも大きな負担だ。回数を減らせるなら減らさなきゃならない。」
「それが何で結婚になるの?」
納得できない様子のカールが顔をしかめながら質問してきた。
当然とも言える疑問にリックは苦笑いを浮かべる。
「監視のためにも俺を部下として手元に置いておきたいそうだ。だが、俺を恨む奴に手出しさせないためには『ニーガンの夫』という肩書きが必要だって。」
リックの回答にカールは不満げに顔を歪めたが、これ以上何を言えばいいのかわからないようだった。
リックは仲間たちに「頼むからわかってくれ」と訴えた。
「リーダーを引き受けておきながら情けない男だと自分でも思う。それでも今の俺にできる最善がこれなんだ。もう、この方法でしかみんなを守れない。向こうに行ってもアレクサンドリアのために何かできないか探してみる。約束する。」
リックはありのままの気持ちを伝えた。そうしなければ納得してもらえない。納得してもらえなくても誠意を示さなければならない。
そんなリックの思いを受け止めた仲間たちはそれ以上反対はしなかった。
ただ、カールだけはリックに近づくと間近で目を合わせて問う。
「僕たち、二度と会えなくなるの?」
カールの声は涙声だった。
最近ではすっかり大人びたカールが幼い子どものような顔で泣くのを堪えている。そのことに胸が痛くなり、リックはカールを強く抱きしめた。
「徴収には俺も同行させてもらえるからまた会える。ジュディスを頼むぞ、カール。」
「わかった。……愛してるよ、父さん。」
「俺も愛してる。」
リックは抱擁を解くとリュックを背負って無言のまま玄関に向かった。
胸が苦しかった。泣いてしまいそうだった。情けない自分を見せたくなかったから何も言うことができなかった。
リックはドアノブを掴んで深呼吸をしてからドアを開けた。
家を出て、そのままの足でオリビアの家に向かう。ジュディスをオリビアに預けているのだ。
オリビアの家のドアをノックするとジュディスを抱き上げたままオリビアがドアを開けた。彼女はリックの顔を見た途端に痛ましそうに顔を歪める。他の住人からリックとニーガンの話を聞いたのだろう。
「リック、何て言ったらいいのか……」
「いいんだ。ジュディスに挨拶したくて来た。」
リックがそう言って小さく笑みを浮かべるとオリビアは頷き、ジュディスをリックに渡した。
ジュディスは大人たちの重苦しい雰囲気など気にもせず無邪気に笑っている。その笑顔に救われるのと同時に別れることへの寂しさが増した。
リックは愛娘と目を合わせて微笑む。
「パパとはあんまり会えなくなるが、お兄ちゃんと仲良くするんだぞ。離れていてもお前のことを想っているから。……愛してるよ、ジュディス。」
心を込めて小さな額にキスをするとくすぐったげな笑い声が響いた。
リックは再びオリビアにジュディスを渡し、名残惜しむように娘の頬を撫でてから二人に背を向ける。
そして顔だけで振り返って「ジュディスを頼む」とオリビアに告げ、門の方へ向かった。
門へ向かう途中、アレクサンドリアの住人たちからの視線を浴びた。誰もが無言で居たたまれない様子だった。町のために生贄になる男にかけるべき言葉が見つからないのだろう。
リックは向けられる視線に敢えて視線を返すことはせず、真っ直ぐに門へ歩いていった。
門の前ではニーガンが待ち構えるようにして立っていた。その傍らには悲痛な面持ちのダリルがいる。
近づいていくとダリルが一歩前に踏み出して「リック」と名を呼んだ。
「リック、行くな!あんたが犠牲になるなんて──」
「ダリル、お前のためだけじゃない。お前を含めたみんなのために行くんだ。だから自分を責めないでほしい。お願いだ。」
リックの願いにダリルは顔を歪めた。
そんなダリルを押し退けるようにして前に進み出たニーガンがリックの肩を抱く。
「別れの挨拶は済ませてきたか?」
「ああ。荷物も持ってきた。」
「じゃあ早く俺たちのスイートホームに帰ろう!お前を案内する時間が必要だからな。」
ニヤニヤと笑うニーガンの手を叩き落としてやりたかったが、手が動きそうになるのを堪える。
ニーガンに促されるまま車まで移動し、助手席に座ってリュックを抱え込む。運転席にはニーガンが乗り込んできた。
ニーガンは腕を伸ばして後部座席にルシールを座らせるとリックに顔を向ける。
「泣くなよ。」
リックはからかうように笑うニーガンから顔を背けて反論する。
「泣いてなんかない。」
「そうか?月に一回は会えるんだから悲観することはないさ。さあ、ドライブだぞ、ハニー。」
ニーガンは上機嫌で車を走らせ始める。
外から「父さん!」と呼ぶカールの声が聞こえ、リックは助手席側の窓を開けて外を覗き見た。
走り出した車を追いかけるように走るカールの姿が見えた。その姿もすぐに見えなくなり、もう一度「父さん!」と叫ぶ声だけが耳に届く。
リックは窓を閉じ、顔を窓の方に向けたまま口をグッと閉じた。目から溢れた涙が頬を伝って唇まで辿り着くと微かに涙の味がする。それでも涙を拭おうとはしない。
ニーガンに泣き顔を見せるのも涙を拭う素振りを見せるのも嫌だった。泣いていると気づかれていても構わなかった。それはリックなりの意地だ。
リックは見慣れた景色が流れていくのを眺めながら、我が子二人と仲間たちの幸運を心の底から願った。
ニーガンの本拠地であるサンクチュアリに到着し、車を降りたリックは巨大な建物を見上げて溜め息を吐く。
まるで要塞だ。車の中から眺めた時にも感じたことだが、工場を利用した巨大な拠点は要塞のように見える。
コンクリート製の建物は冷たさを感じさせ、城を取り囲むフェンスに括り付けられたウォーカーの存在が不気味さを生み出していた。こんなところで暮らさないければならないのかと思うと憂鬱さが増して溜め息を吐きたくなる。
リックがもう一度溜め息を吐くと、肩にニーガンの手が置かれた。
「行くぞ。みんなにお前を紹介しなきゃならない。」
肩から手を離して先に歩いていくニーガンの背中を追いかけ、ニーガンが建物の中に入るのに続く。
広い空間には既に人々が集められていて、新顔のリックに興味深げな視線を投げてきた。リックは自分に集中する視線に居心地の悪さを感じながらもニーガンの少し後ろに立つ。
「紹介しよう!アレクサンドリアから来たリックだ。今日、俺たちは結婚した。」
ニーガンの報告にその場がざわついた。隣り合う者と顔を見合わせて何やら話をしたり、リックの方を見て目を丸くしている者もいる。
驚きと戸惑いの入り混じった中でニーガンがルシールで手すりを叩く。その音に人々は一瞬で静まり返った。
ニーガンは全体を眺めてから報告を再開する。
「驚くのも無理はない。だが、すぐに慣れるさ。リックは俺の夫だが救世主として働いてもらう。わからないことがあったら教えてやれ。じゃあ、解散。」
ニーガンは解散を告げるとリックの肩を抱いて歩き出す。
「今から建物の中を案内してやる。お前の部屋はちゃんと用意してあるから安心しろ。だが、今夜は俺の部屋で寝てもらう。」
その言葉にリックは眉を寄せた。
「なぜ一緒の部屋で寝なければならないんだ?」
「そりゃ新婚初日だからさ。俺たちは熱々の新婚夫婦なんだぜ?初日から別々の部屋で寝るなんておかしいだろ。」
「単なる政略結婚だ。そんなことをする必要はない。」
「おいおい、リック。どんなことでも楽しまなきゃ損だぞ。心配するな、単純に寝るだけで何もしない。そういう意味で男に興味はない。」
「……知ってる。」
ニーガンが妻を何人も囲っていることは聞き及んでいた。それにアレクサンドリアに来た時のロジータへの態度を見てもわかることだ。
こういった軽薄なところも嫌いだった。シェーンも女性との付き合いが途切れなかったが、彼は二股をかけるような男ではなかった。比べること自体が間違っていると思いつつ、リックはニーガンとシェーンを比較してますます隣の男への嫌悪を募らせる。
ニーガンはリックが渋い顔をしていることを気にせず案内を始めた。労働者の寝起きするエリアと救世主の私室があるエリアの説明、各階にある共用部の説明、他の建物に繋がる廊下のある階などを説明され、他にも規則や生活に関わることの話もあった。
案内の途中ではニーガンの妻たちが集う部屋にも連れて行かれた。部屋の中には何人もの美しい女たちがいて、その誰もが黒のワンピースを着ていることが奇妙だ。
ニーガンは彼女たちにリックを紹介しながらそのうちの何人かとキスを交わす。「ニーガン、愛してる」と言ってからキスを交わす女たちの目に情はない。妻たちは愛の言葉を口にしながらもニーガンへの愛情はないのだとリックは目の前の光景を眺めながら漠然と感じていた。
部屋を出た後、リックは再びニーガンと並んで廊下を歩く。
「良い女ばかりだろ?大勢の女と楽しむのは男のロマンだ。」
「俺は違う。愛するのは一人だけがいい。」
「じゃあ俺だけを愛すればいいさ。俺は博愛主義だから大勢を相手にするけどな。」
からかうように言って楽しげに笑うニーガンに怒りは沸かなかった。ニーガンに対する疑問があるだけだ。
聞くだけ無駄だとわかっていてもリックの口は疑問の言葉を紡ぐ。
「ニーガン、彼女たちが本当にあんたを愛してるとでも思ってるのか?」
ニーガンは目を瞠ったが、次の瞬間にはいつもの笑みを取り戻していた。
「心なんて見えないし誰にもわからない。目に見える形がどうなってるかが大事なんじゃねぇか?」
「それが全てじゃない。……もういい、変なことを言って悪かった。」
これ以上話しても無駄だと理解したリックは話を切り上げた。
ニーガンは周りの人間が自分を恐れていても憎んでいても構わないのだ。心の底に殺意を秘めていようと嫌悪を募らせていようと反抗せず従順でいることが大事であり、それを好んでいるように思える。
ニーガンは皆に「部下」という役・「妻」という役を演じきることを求めているのであって心までは望んでいない。リックにはそんな風に思えた。それは同時にリックも「夫」という役を演じきるのを求められるということだ。
リックは更に気が重くなったのを自覚しながら、ここで暮らすために必要なことの説明を一通り受けた。
そのうちにニーガンが一つの部屋の前で立ち止まる。
「ここがリックの部屋だ。俺も同じ階に部屋がある。」
そう言いながらニーガンはドアを開け、リックに中に入るよう促した。
部屋は広いとは言えないがベッド、チェスト、小さな丸テーブルに椅子が二脚、それに加えて小さな本棚があり、必要なものは揃っていた。ここのルールから考えれば新入りなのに破格の対応だ。
リックはゆっくりと部屋の中を見回してからニーガンに向き直り、「ありがとう」と感謝を口にした。
「食事は毎食持ってこさせる。俺の部下と同じように働いてもらうが、部下とは違うってことを示しておかないとな。」
「わかった。他には何かあるか?」
「夫婦なのに一緒に夜を過ごさないのは良くないから、たまには俺の部屋で寝てもらうぞ。拒否権がないことはわかってるな?」
リックは仕方なく頷いて了解を示す。
ニーガンと同じ部屋で寝るのは嫌だが、毎日というわけではないのだから我慢するしかない。
「今日は夕食が済んだら俺の部屋に来い。そのまま朝までいてもらうからシャワーを浴びてこいよ。」
「わかった。ところでニーガンの部屋はどこにあるんだ?」
「焦るな、今から連れていく。」
ニーガンはそう言ってリックの鼻先を指で弾いて部屋を出ていく。
リックは持っていたリュックをベッドに放り出し、痛む鼻を撫でながらニーガンの後を追った。
ニーガンの後ろに追いつくと振り返って顔を見つめてきた。リックが恨めしげに睨めばニーガンは軽く笑い声を上げる。
「悪かったよ。ちょっと力が強すぎたな。」
「ちょっと?」
嫌味を込めて返すとニーガンは肩を竦める。
「コミュニケーションを取ろうと思ったんだ。これから一緒に暮らすわけだし、少しでも親しみを持ってもらおうと俺なりに考えたんだが──悪かったって。」
「俺たちは契約しただけだから親しくなる必要はない。」
「わかった、わかった。」
そんなやり取りをするうちにニーガンの部屋に到着し、ニーガンが「どうぞ」と気取った仕草で中に案内する。
リックは部屋の中に一歩入ると呆れの溜め息を零した。
ニーガンの部屋には豪華な家具が集めてあった。この世界でこれだけのものを集められるというのは余程の力を持つ人間だけだ。ある程度予想していたとはいえ、権力の象徴のような部屋に呆れてしまう。
「あんたらしい部屋だな。」
思わず漏れた感想にニーガンは楽しげに笑った。
「良い部屋だろ?あのベッドはなかなか寝心地が良い。今夜試してみるか?」
「遠慮する。ソファーで寝させてくれ。」
リックはそう言って三人掛けのソファーに視線を向けた。
ニーガンとベッドを共有するなどゾッとする。多少寝心地が悪くともソファーで寝る方がマシだ。そんなことよりも他に話したいことがある。
リックはニーガンに視線を戻すと一番聞きたいことを思い浮かべた。
「俺はここでどんな仕事をすればいいんだ?」
その質問にニーガンの顔がリーダーのものへと変わる。
目には真剣さを宿し、笑みはリラックスしたものから少し威圧的なものになった。
「調達と死人共の駆除がメインだ。徴収はアレクサンドリアに同行するだけでいい。どうせアレクサンドリア以外のコミュニティー相手でも向こうに肩入れするだろ?お前は徴収に向いてない。他の仕事は……そうだな、その時に指示する。しばらくはサイモンに付いて仕事を覚えろ。」
サイモンとはニーガンの右腕と称される男だ。特徴のある髭が印象的だが、ニーガンに匹敵する威圧感と存在感の方が強く印象に残っている。
リックはサイモンの顔を思い浮かべながら「わかった」と頷いた。
「説明はこんなところだな。部屋に戻って荷物を片づけておけ。今日は特別に仕事を免除してやるから夕食までのんびりしてろ。」
リックは再び頷いて部屋を出ようとする。
「おい、リック。」
呼び止められて振り返ればニーガンは真っ直ぐにこちらを見ていた。
薄ら笑いやニヤけた顔ではなく、引きしまった表情のニーガンがそこにはいた。その真剣な顔をリックも見つめ返す。
「俺たちは夫婦になった。だから裏切ることは許さない。覚えておけよ。」
ニーガンが「裏切るな」と言うのは二度目だ。リックはその意味を考えながら「わかった」と答えて部屋を出る。
自分の部屋まで戻る途中、溜め息が零れるのはどうしようもない。
建物内を案内されて今後についての説明を受けるとこの場所で生きていくことを嫌でも実感させられる。もう後戻りはできないのだと突きつけられる。
足元から不安が這い上がってくるような気分になるが、それを追い払うように拳を握った。
(俺は仲間を……家族を守る。それはどこで生きていくとしても変わらない。これからも、みんなのために動くだけだ)
リックは自分を奮い立たせながら歩き、部屋に着くとリュックを開けて荷物をベッドの上に広げていく。
持ってきたのはほとんどが衣類なので荷物の片づけはすぐに終わった。最後に写真立てを本棚の上に飾り、それをじっくりと眺める。笑みを浮かべる我が子二人の写真を見ていると恋しさが募った。
離れずに傍で守ってやりたい。成長する姿を間近で見ていたい。困った時にいつでも助けてやりたい。
しかし、ニーガンが頻繁に来るのは二人のためにならない。あの男が周囲に与える影響は大きく、それを遠ざける必要があった。
リックは写真の中で微笑む我が子たちに指先で触れる。
「お前たちを必ず守るよ。」
どんな形であっても守る。
それだけが今のリックの支えだった。
リックが窓辺に立って日が沈んでいくのを眺めていると部屋のドアが軽快にノックされた。そのリズミカルなノック音に眉を寄せながらドアを開ける。
立っていたのはサイモンだった。料理と飲み物が乗ったトレーを持って現れた男にリックは目を丸くする。
「ご機嫌よう、お姫様。俺はサイモン──ああ、知ってるよな、そうだった。挨拶のついでに食事を持ってきたぜ。」
リックは目の前に差し出されたトレーを受け取り、「ありがとう」と言ってドアを閉めようとした。
しかし、それはサイモンの手に阻まれて敵わない。ドアを押さえるサイモンは顔を近づけてきた。
「もう少し会話しようって気はないのか?俺はしばらくお前の面倒を見るってのに。」
「……すまなかった。明日は何をすればいい?」
「明日は調達だ。戻りは明後日の予定だから外で寝る準備をしておけよ。ニーガンから聞かされてるか知らないが、外に出て活動する時の荷物は自分で用意しろ。普通は食事も自分で用意するんだが、お前の分は勝手に用意される。なんてったってニーガンの結婚相手だからな。」
いきなり泊まりがけでの調達に行くと聞かされてリックは驚いた。ここでのやり方に慣れておらず、まだ他の者との連携も取れていない人間を大切な任務に就かせるとは思わなかったのだ。
リックの驚きを察したのか、サイモンは呆れたように肩を竦めて笑う。
「きれいなお部屋の中で大事にしてもらえるとでも思ったか?働かなきゃ食わせる価値はない。当然だろ?」
リックはバカにされたことに対する怒りを視線に乗せてサイモンを睨む。
「まだ慣れていない奴を大事な任務に就かせると思っていなかっただけだ。仕事はきちんとやる。」
リックの言葉にサイモンが目を細めた。
そしてリックの肩にサイモンの手が置かれて軽く掴まれる。
リックは肩に置かれた手を見下ろしてから再びサイモンの顔に視線を戻した。
「ニーガンはお前の能力を買ってる。その期待に応えろ。」
そう言った瞬間のサイモンの目がギラリと光ったように見えた。
見定めるような、威圧するような目。その迫力に心臓が跳ねた。
ニーガンから右腕と呼ばれるだけのことはある、とリックは冷静であるように努めながらサイモンと目を合わせる。
サイモンはしばらく無言だったが、やがてニッと笑ってリックの肩を軽く叩いた。
「残さず食べろよ。食料は貴重品だ。」
ヒラヒラと手を振りながら去っていく男を見送り、今度こそドアを閉める。ドアを閉めると深く息を吐き出した。緊張していたのだ。
リックは丸テーブルにトレーを置いてから椅子に座り、出されたものを胃袋に収めることにする。
皿の上にはパンも肉も野菜も乗っている。グラスに注がれているのは果物を搾って作られたジュースだ。上等な食事と評することができるものをニーガンは惜しげもなくリックに与える。
「──ニーガンの夫、か。」
愛情のない思惑だらけの結婚だ。それでも「自分たちは結婚した」とリックとニーガンの両者が認識している以上、二人は夫婦であり続ける。誰が疑問に感じようとリックはニーガンの夫であり、ニーガンもまたリックの夫なのだ。
心情的にはニーガンはリックを部下として見ているが、己の伴侶としての体裁を保つつもりなのだろう。リックはそれに応えなければならない。
「俺はニーガンの夫だ。あいつが夫としての俺に望むのは──」
考え込むリックの脳裏にニーガンに言われた言葉が甦る。
『俺たちは夫婦になった。だから裏切ることは許さない。覚えておけよ。』
ニーガンの言葉から考えると、ニーガンはリックに対して誠実さを求めているように思えた。
夫婦なのだから相手に対して誠実でなければならない。それは隠し事や裏切りを絶対に許さないということだろう。
その結論に至ったリックはフォークを手に取ったものの心に引っかかるもののせいで食事を口に運ぶことができなかった。
(マギーがヒルトップにいることを黙ったままでそれがバレたら……アレクサンドリアにとってもヒルトップにとっても最悪な展開になるだろうな)
マギーは死んだことになっている。その彼女がヒルトップで生きているとわかればリックが嘘を吐いたことが明るみになり、アレクサンドリアとヒルトップが繋がっていることも知られてしまう。そうなればヒルトップにも罰が与えられるのは間違いない。
救世主がヒルトップに出入りする以上、マギーが見つかるのは時間の問題だ。その前に手を打たなければならない。
つまり、マギーがヒルトップに身を寄せていることをニーガンに打ち明けるのだ。
誠実さを求められているのならば、これはそれを示す大きな機会だ。誠実さを評価してもらえれば罰は軽くなる可能性がある。もし何も言わないまま知られてしまえばニーガンの怒りは相当なものになり、与えられる罰が過酷なものになるのは避けられない。
しかし、これは賭けと言ってもいい。ニーガンの怒りに火を付けてしまえば全てがお終いだ。
リックは思い悩みながら料理を口に運ぶ。素材の味を生かしたはずのそれは何の味もしなかった。
*****
リックは食事を終えてからシャワーを浴びに向かった。シャワーは共用のものを使うことになっていたが、シャワールームに行ったのが夕食の時間帯だったため他には誰もいなかった。
リックは誰も来ないうちに急いでシャワーを終えるとTシャツとスウェットパンツに着替え、ブーツからスリッパに履き替えた。
そして部屋に戻って洗濯物を置き、ニーガンの部屋へ足を運ぶ。
リックは廊下を歩きながら鼓動が全身に響くのを感じていた。
緊張は強い。それはニーガンと同じ部屋で一晩過ごすことに対してのものではない。
リックはニーガンの部屋の前に立って深呼吸をしてからドアをノックした。
「入れ。」
入室の許可を得たのでドアを開けると、リックと同じようにTシャツとスウェットパンツに着替えたニーガンがソファーでくつろいでいた。
ニーガンはリックの全身をジロジロと眺めてからニヤッと笑う。
「その格好は新鮮だな。」
「あんたもな。……ニーガン、話がある。」
「何だよ、改まって。そこに座れ。」
ニーガンは一人用のソファーを顎で指した。
リックはニーガンの正面に座ると両手を膝の上に置いて拳を作った。
「俺はあんたに嘘を吐いた。以前、マギーは死んだと言ったが彼女は死んでない。──マギーはヒルトップで生きている。」
リックが告げた言葉によってニーガンの眉間にしわが刻まれる。静かに怒気を放ち始めた男を前に、リックの心臓を恐怖が撫でた。
それでもリックは怯むことなくニーガンの目を見つめる。
「俺とあんたが初めて会ったあの日、俺たちは具合の悪いマギーをヒルトップへ連れて行こうとしていた。アレクサンドリアには医者がいないから医者がいるヒルトップを頼るしかなかった。その途中であんたたちに取り囲まれて……あんたたちが去った後に彼女を連れてヒルトップへ向かった。」
「そのままマギーだけ残ってるってことか。」
「サシャという女性も一緒だ。マギーに付き添っている。」
「なるほどね。……ヒルトップとの付き合いはいつからだ?うちの基地を潰したのと関わりがあるか?」
そう尋ねるニーガンの目は鋭い。アレクサンドリアとヒルトップとの関係がどの程度深いのかを知りたいのだろう。
リックは頭の中で慎重に文章を組み立てる。
「あんたの部下が俺の仲間を脅してしばらく経った頃、調達の最中にヒルトップの人間と出会って、それから交流を持つようになった。食料を支援してもらったり向こうの住人を救出したこともある。」
「救出?」
訝しげな顔のニーガンにリックは「そうだ」と頷いてみせる。
「調達のために外に出てウォーカーに襲われていたのを助けたんだ。ニーガン、ヒルトップは戦闘に不慣れな住人が多い。それでも自分たちの生活や徴収に備えて物資調達に行かなきゃならない。彼らが外で安全に活動できるようにヒルトップ周辺のウォーカーをもっと減らしてやるべきじゃないか?支配するなら守ってやる義務があるはずだ。」
リックの話を聞いたニーガンは腕組みをして顔をしかめた。それでも怒りを爆発させる様子はない。
リックは少しの間ニーガンの様子を見てから続きを話し始める。
「話が逸れて悪かった。ヒルトップの住人からあんたたちのことを聞いて俺たちのところにもいつか来ると思った。一度脅されているから、やられる前にやると決めて基地を潰した。」
「ヒルトップの奴らに協力させなかったのか?あいつらが俺たちを鬱陶しく思っていても不思議じゃない。救世主を追い払ってくれるなら援助する、とか。」
ニーガンの目には嘘を見抜こうという意思が見えた。綻びを見つけて、そこから真実を引きずり出そうとしているのだろう。
リックは喉元にナイフを当てられているような緊張を感じながらも冷静でいるよう自身に言い聞かせる。
正直に述べることは必要だが、全てを話せば破滅へ向かう。事実の中に少しだけ嘘を混ぜるのだ。
リックは声が震えないように祈りながら口を開く。
「俺たちが──アレクサンドリアが決めたことだ。俺たちがやった。」
リックは目を逸らすことなく言いきった。ニーガンも視線を外すことはなかった。
「嘘を吐いた理由は?」
リックは乾いた唇を舐めてから答える。
「交流があることを知られたらヒルトップに余計な疑いがかかるかもしれないと思ったからだ。巻き込みたくなかった。」
睨み合うように視線を交わらせたまま時間が過ぎていく。沈黙は重く、時間の経過がいつもより遅いように感じられた。
リックが唾を飲み込むと音が大きく響き、リックはその音に肩が跳ねそうになるのを堪えた。
それを見てニーガンが不意に笑みを零す。
「そんなに緊張するな。……いいだろう、お前たちを許そう。」
ニーガンはそう言って身を乗り出す。
「今の話にも嘘はあるんだろう?それでもほとんどが真実だ。だから、それでいい。お前が俺の夫としての自覚があることを評価しよう。」
その言葉にリックは頬が引きつるのを感じた。
わかっていたことだが、ニーガンは手強い。
黙り込んだままのリックに向かってニーガンは「心配するな」と笑った。
「俺は人殺しジャンキーじゃないって言っただろ。それに寛大なところを示すのも必要さ。」
ニーガンは立ち上がって廊下に顔を出すと「誰かいないか?」と部下を呼んだ。すぐにやって来た部下にサイモンを呼ぶよう命令し、再びドアを閉める。
リックはソファーに座り直したニーガンから目を離して自分の膝に視線を落とした。
とりあえずアレクサンドリアとヒルトップに罰が与えられることはなさそうだ。そのことに安堵しつつ、今回は運が良かっただけだと痛感する。
リックが自身の不甲斐なさを噛みしめていると「リック」と呼ばれた。顔を上げればニーガンが微笑みながらこちらを見ている。
「お前の判断は正しい。何も聞かされずにヒルトップでマギーを見つけていたら俺は間違いなくマギーを殺すし、ヒルトップとアレクサンドリアの住人も何人か殺さなきゃならなかった。それはお前が夫である俺に不誠実だったことに対する罰だ。記念すべき新婚初夜に打ち明けてくれて良かった。」
穏やかに微笑みながら話すニーガンにリックは戸惑い、恐る恐る口を開く。
「本当に許してくれるのか?もしペナルティーがあるなら俺だけにしてほしい。他の誰にも手を出さないでくれ、頼む。」
リックの懇願にニーガンは少し考え込む。
やがて何かを思いついたように目を瞬かせ、楽しそうな笑みを浮かべた。
「嘘がバレることに怯えながら過ごすのがあいつらの罰としては十分だが、お前への罰はこうしよう。俺の部屋で寝る時は俺とベッドを共有すること。ソファーで寝るのはなしだ。文句ないだろ?」
ニヤニヤと笑うニーガンを見て、リックは溜め息を吐きたくなった。
恐らくニーガンはリックが嫌そうな顔をしたり、うんざりするところが見たいのだろう。その推測は外れていないはずだ。それでも誰も罰を受けないで済むのなら安いもの。
リックが首を縦に振るとニーガンは喜びを表すように手を叩いた。
「心配しなくても何もしないさ。並んで寝るだけだ。」
そうであってもリックは安眠できそうにない。
リックはご機嫌な男を見つめながら密かに溜め息を落とした。
「──というわけだから、ヒルトップでマギーを見つけても放っておけ。」
ニーガンは部屋を訪ねてきたサイモンにリックが打ち明けた内容を全て話した。リックは黙って二人の様子を見守っていたが、話を聞いているサイモンが面白がるような眼差しを向けてくることにうんざりしていた。
立ったままのサイモンは腰に手を当てて考え込む素振りを見せ、その次に指で額をかく。
「あんたが納得してるなら俺はそれでいい。で、グレゴリーには話しておくのか?」
その質問に対してニーガンは首を横に振る。
「必要ない。うちの誰かがマギーを見つけたり向こうから打ち明けてきたら『ニーガンは知ってるしどうこうするつもりもないから勝手にしろ』とでも言っておけ。」
「了解。それにしても、よく打ち明ける気になったもんだ。俺なら言えないね。」
バカにしているのか感心しているのかわからないような口調のサイモンがリックを見てニヤニヤと笑う。その笑い方がリックにはニーガンに似ているように思えて嫌気が差した。
ニーガンはリックに顔を向けながらニッコリと笑う。
「愛する夫に嘘を吐いたままでいたくなかったらしい。俺のリックは本当に健気だぜ。」
「お熱いことで。じゃあ、新婚夫婦の邪魔をするのは悪いから出ていこう。」
「気を遣わせて悪いな、サイモン。ハニー、早くベッドに行けよ。」
ニーガンはベッドを指し示してリックにベッドへ行くよう促した。それに渋々従ったリックがベッドに座ってスリッパを脱ぐと、ニーガンもベッドの傍に移動してスリッパを脱ぐ。
その様子を目撃したサイモンは目玉が零れ落ちそうなほどに目を見開いて口をあんぐりと開けた。かなり衝撃的だったらしい。
ニーガンはスリッパを床に転がすとベッドに座り、今気づいたといった様子でサイモンを見て瞬きをする。
「何だよ、まだいるのか?早く行け。」
「……信じられねぇ。人生最大の驚きだ。」
サイモンはリックとニーガンを凝視しながら部屋を出ていった。
足音が遠ざかるとニーガンはベッドに背中から転がって笑い始める。
「今の見たか⁉最高に面白い顔してたぞ!あー、楽しい!」
リックは腹を抱えて笑い続けるニーガンをジロリと睨んでからベッドに横になった。ベッドの縁ぎりぎりの場所に体を落ちつけると布団を被って目を閉じる。
隣でゴソゴソと動くのを気配で感じ、それが終わると「おい」と呼びかけられた。
「そんなに隅っこで寝ると落ちるぞ。もっと真ん中に寄れよ。」
「結構だ。落ちたりなんてしない。」
「大した自信だ。俺は忠告したからな。」
呆れの滲む声に言い返したくなるのを堪えて目を閉じ続ける。
隣にニーガンがいることを意識してしまい、なかなか寝付けそうにない。寝不足が明日に響かないことを願いたいが無理だろう。
いつか、この状態に慣れる日が来るのだろうか?
(それはそれで嫌だな)
リックは心の中だけで溜め息を吐き、居心地の悪さに小さく身じろぎした。
どうにか眠ることができたリックだったが、夜中に寝返りを打った途端にベッドから転げ落ちる。強かに体を打ち付けたため大きな音が出てしまった。
落下音と呻き声が響けば当然ニーガンが目を覚ますことになり、キョトンとした顔でリックを見たニーガンは徐々に顔全体に笑いを広げていく。
リックが「笑うな!」と訴えたのも虚しく、ニーガンは腹を抱えて笑い転げたのだった。
To be continued.