二度目の結婚⑤・五章 【 心の中にあるもの 】
何となく早く目が覚めてしまう朝。リックにとってそれが今日だ。
寒さで目を覚ます時期はとっくに通り過ぎ、今は暖かさに目覚めを促される季節である。
ニーガンの部屋のベッドの上で静かに目覚めたリックは隣で穏やかに眠る男の寝顔を見つめて小さく笑みを零した。
擦れ違いを乗り越えた二人は以前よりも更に親密さを増していた。リックがニーガンの部屋に泊まることが再開されると、それに伴って朝食を共にすることも再び始まった。それだけでなくニーガンがリックの部屋を訪問する回数が増えたり、最近では馬の散歩を兼ねて一緒に遠乗りに出かけることも少なくない。
最も大きな変化は身体への接触が増えたことだ。
肩に、腕に、指に、背中に、頬に、髪に。
ごく自然な触れ合いは一方的なものではなく相互に行われていた。気心の知れた親友同士のようでもあり、仲の良い兄弟のようでもあるそれは季節の移り変わりと共に当たり前になっている。
ニーガンの寝顔を見るのをやめたリックはこの後をどう過ごすべきかと考える。完全に目が覚めてしまったのだが、横になったままだと身動きしてしまうのでニーガンの睡眠の邪魔になるだろう。
頭を悩ませていたその時、リックは新しく作った屋上菜園の存在を思い出す。
屋上に畑を作ることを提案したのはニーガンだった。プランター栽培を自発的に手伝う者が増えたことから、もう少し作物の栽培に力を入れても問題ないと判断したのだ。重量を考慮すると大規模なものにはできないが、プランター栽培に不向きな作物を育てられるのは大きな魅力だ。ニーガンの提案に皆が賛同して菜園作りに参加したため、春の始めから作り始めた屋上菜園は中頃には完成し、次の季節に移りつつある今では様々な野菜の芽が出ている。
プランター栽培と同じく屋上菜園の責任者もリックなので特別な何かがなくとも様子は気になる。それならば菜園の様子を見に行くのも悪くない。今から行って戻ってくれば、その頃にはニーガンも起きているはずだ。
作物の様子を見に行くことに決めたリックは慎重にベッドから抜け出すとスリッパを履いてドアの前まで移動した。
そして、ドアノブを握った時。
「……朝っぱらから誰と密会するつもりだ?」
ベッドの方から飛んできた声にリックは驚いて肩を跳ねさせた。軽く息を吐いてから振り向き、ベッドの上で体を起こして欠伸を噛み殺すニーガンの顔を見る。
「おはよう、ニーガン。起こしてすまない。」
「おはよう。で、どこに行く?」
「目が覚めてしまったから屋上の畑の様子を見てくる。朝食までには戻るから寝ていてくれ。」
「俺も行く。」
ニーガンはそう言ってベッドから起き上がるとチェストの方に向かう。
「お前も着替えてから行くんだろ?部屋まで迎えに行くから待ってろよ。一人で勝手に行ったらお仕置きだ。」
スラスラと言葉を並べるニーガンにリックが言うことは何もない。これは決定事項なのだ。リックは苦笑と共に「わかった、待ってる」と答えてから部屋を出て自室を目指す。
一度部屋に戻ると顔を洗いに行き、それからシャツとジーンズに着替える。ブーツを履き終わった頃に部屋のドアがノックされたのでドアを開けると支度を終えたニーガンが立っていた。
二人は並んで廊下を歩き、畑のある屋上に出るためのドアを開ける。雲一つない青空が広がる様子から今日は一日中天気が良さそうだと予想し、思わず口元が緩む。今はまだ日差しを「心地良い」と感じられる季節なので快晴なのは嬉しいことだ。
行儀良く並ぶレンガに囲まれた畑には無数の野菜の芽が生えている。ここからどれだけ大きく育ってくれるのかは天候と育てる人間の世話次第だろう。
リックは複数ある畑の一つ一つをしゃがみ込んで観察する。小さな異変も見逃さないようにするには日々の丁寧な観察が必要なのだとハーシェルから教わった。そんなリックの隣にニーガンもしゃがみ込み、二人揃って畑の様子を見る。
「今のところは虫に食われてても深刻な状態じゃないな。とりあえず問題ないだろう。」
「病気も大丈夫そうだ。──と言ってもこれからが本番だが。」
「しっかり頼むぜ、リック。新鮮な野菜はみんなが食べたがる。」
「ああ、もちろんだ。」
そんな会話を交わしながら二人は全ての畑を観察し終わり、立ち上がると全身を伸ばしながらサンクチュアリ周辺の景色に目を向けた。
少し遠くではあるが目に見える範囲に森がある。いずれ農場を作る予定なのであの森を切り拓くことになるのだが、それをやるには一年どころか数年はかかるかもしれない。
効率の良い方法を考えなければならない、とリックが考え込んでいると少し後ろに立つニーガンから「何を考え込んでる?」と尋ねられたので森の方に顔を向けたまま答える。
「農場を作るためには森を切り拓かないとならないが、良い方法を考えないと完成までにかなりの時間が必要だと思ったんだ。」
「……そのことだが、ここから歩いて三十分くらいの場所に農場があるだろ?そこを使う計画に変更しようと考えてる。」
リックは予想外の計画を聞き、「何だって?」と驚きを隠さないまま振り返った。
サンクチュアリから少し離れた場所に打ち捨てられた農場があることはリックも知っている。きちんと測ったわけではないが、規模はハーシェルの農場と同等に見えた。
一から作るよりも元々あったものを利用した方が時間も資材も節約できるが、運営のことを考えるとサンクチュアリから遠すぎるように思える。
「徒歩で行ける距離だが、あの農場はここから遠すぎないか?移動距離が長いと大人数で通うには危険だ。」
「通うんじゃなく住み込みにすればいい。農場を実際に見てきたが、敷地内に建ってる家は大勢で住める。多分、住み込みの手伝いを何人も雇ってたんだろうな。グループを四つぐらいに分けて一定期間の交替制で行かせるようにすれば危険と負担は最小限で済むはずだ。」
「それはそうだが、柵や壁をしっかりしたものにしないと危険だぞ。」
「わかってる。だからお前や他の奴らの意見が聞きたい。次の会議の時に話す。──リック、この計画をどう思う?」
真剣な表情のニーガンには自信が溢れている。森を切り拓いて農場を作るよりも既存の農場を利用する方が良いと確信しているのだ。そうであっても意見を求めてくるのは「皆で一緒に進めていきたい」という強い気持ちがあるからなのだろう。
リックは微笑みながら頷くことで答えを示した。それを見てニーガンの表情が和らぐ。
「賛成か。」
「ああ。あそこを上手く利用できればそれが一番良いと思う。危険を減らす方法を考えてみる。」
「頼んだぞ。……さて、そろそろ戻るか。」
ニーガンはそう言ってリックの手を握り、そのまま歩き出す。手を繋いだ状態で部屋まで戻るつもりなのだ。
ニーガンと手を繋いだ状態で誰かと擦れ違ったら非常に気まずい。そう考えたリックは「手を放してくれないか?」と控えめに頼んでみた。
しかし、ニーガンはリックの頼みとは反対に振り解くことができないよう手に力を入れてしまう。
「いいか、リック。俺たちは夫婦なんだから手を繋いで歩いたって少しもおかしくない。」
「それはそうかもしれないが……」
「じゃあ問題ないな。このまま部屋に戻るぞ。なあ、今日の朝飯は何だと思う?」
ご機嫌な様子で話し続けるニーガンに何を言っても無駄だ。
そのように悟ったリックは手を放してもらうことを諦めて話に耳を傾ける。
ニーガンの部屋に戻るまでの間に救世主や労働者と擦れ違い、その誰もが繋いだ手に視線を向けてきたのは言うまでもないことだった。
朝食後、リックはニーガンの運転する車に揺られてアレクサンドリアを目指す。今日は月に一度のアレクサンドリアの徴収日であり、リックが家族の元に帰ることを許される日だ。
町に入ると中の様子を見て回りながら困っていることがないか確認し、仲間たちと一通り話してから家で待っている子どもたちに会いに行く。今回もカールとジュディスは家の前で待っていて、父の姿を見た途端に笑顔が弾けるのを見るとリックは嬉しさと切なさを感じるのだ。
愛する我が子たちを抱きしめて再会を喜んでから家に入り、束の間の親子の時間を楽しむ。成長著しいジュディスはお喋りな子どもに成長しており、楽しかったことを笑顔で報告してくれた。カールも話に加わり、楽しそうに笑い合う兄妹を見ているだけでリックは幸せだった。
ダイニングの椅子に座って三人で盛り上がっていると玄関のドアが開いてニーガンが入ってきた。その瞬間にカールが顔をしかめるのを見てリックは苦笑するしかない。
ニーガンはわざとらしく顔をしかめながら近づいてきた。
「ダリルとミショーンが『リックを返せ』としつこいから逃げてきた。嫌になっちまう。」
リックの傍に立って大げさに溜め息を吐くニーガンをカールが睨みつける。
「二人がそう言うのは当たり前だろ。いいから早く出ていけよ。」
カールが冷たく言い放つとニーガンは両手で顔を覆って「ひどい!傷ついた!」と泣き真似を始めた。そのニーガンを見て、リックの膝の上に座るジュディスが声をかける。
「おじさん、泣かないで。」
ジュディスの慰めに反応したニーガンは腰を屈めてジュディスに顔を近づけた。
「ジュディスは優しい子だな。じゃあ、ニーガンおじさんと一緒に遊んでくれるか?」
「いいよ!」
ニーガンは満面の笑みで答えたジュディスをさっさと抱き上げると「上に行こう」と言って二階へ上がっていった。止める暇もなかった父と息子は目を丸くしたまま階段の方を見つめ、続けて顔を見合わせる。
ようやく現状を飲み込んだカールが目を釣り上げた。
「──連れ戻してくる!」
「カール、やめておけ。」
リックは立ち上がりかけたカールの腕を掴んで首を横に振った。
そして「だって、父さん」と言い募る息子に穏やかに微笑みながら言い聞かせる。
「ジュディスなら大丈夫だ。ニーガンはあの子を傷つけない。お前にとっては嫌なことだが、ジュディスはあいつに懐いてるから無理に引き離すのはやめよう。」
人見知りをしないジュディスはニーガンにもよく懐いている。幼い彼女から見ればニーガンは「時々来て遊んでくれる愉快なおじさん」なのだろう。この町の人間にとってニーガンという存在が複雑なものなのだと理解できるようになるまで、無理に引き離すのはジュディスにとって良くない。
リックの話を理解したカールは渋々といった様子で椅子に座り直した。
「悪いな、カール。心配するお前の気持ちはわかる。」
「謝らなくていいよ。父さんの言う通り、無理に引き離したらジュディスが傷つくね。……でもさ。」
カールは苦笑いを滲ませながら真っ直ぐにリックを見る。
「やっぱり父さんはニーガンが好きなんだね。前ならあいつのことを庇ったりしなかった。」
カールから言われた言葉にリックは頭を強く殴られたような衝撃を受ける。
ニーガンに対する気持ちの変化をカールに見抜かれていたという事実が頭に染み込むと裏切りが発覚したような気分になり、罪悪感の塊が腹の底にズシリと落ちた。
リックは手の震えを自覚しながら「何か言わなければ」と必死に唇を動かそうとしたが、言うべきことが何一つ浮かんでこない。空回りを続ける頭で考えても無駄だった。
その時、カールの手がリックの腕に触れた。
「父さん、落ちついて。僕は怒ってるわけじゃないよ。」
カールの穏やかな声といつもと変わらない笑みにリックは冷静さを取り戻し、「すまない」と小さな声で詫びた。
リックが落ちついたことを察したカールは手を離し、穏やかさを保ったまま話し始める。
「前から感じてたんだ。父さんはニーガンが嫌いじゃない、上手くやっているんだって。あいつを見る目つきが前と全然違うって自覚ないでしょ?」
そう問われれば頷くしかなかった。
頷いてそのまま俯くとカールが苦笑する気配がした。
「気づいたばかりの頃は『何で?』って納得できなかった。……でも、よく考えたら僕はニーガンのことを一部しか知らない。父さんはきっとニーガンのいろんなところを見てる。僕の知らないあいつを知ってる。だから嫌いだと思えなくなっても仕方ないんだって思うようになった。そう思うようになってからニーガンのことを観察するようになったんだけどさ。」
カールはそこで言葉を切ると溜め息を吐く。
リックが恐る恐る顔を上げてみるとカールはテーブルに肘を突いて遠くを見ていた。その表情には呆れの色が見える。
「あいつって父さんのこと大好きなんだよ。いつも父さんのこと見ててさ。特にジュディスと遊んでる時の父さんを見るあいつの顔、すごくだらしないんだ。デレデレ。」
「……そうなのか?」
「本当だよ。ニーガンが結婚ごっこに飽きたら父さんは帰ってくるかも、なんて期待してたけど無理だってわかった。父さんたち、ごっこじゃなくなったんだね。」
カールは視線だけをこちらに向けて寂しそうに笑った。その笑みに胸が痛む。
カールはリックとニーガンの互いへの気持ちの変化に気づき、リックがアレクサンドリアに帰されることはないのだと悟った。それでも誰のことも責めずに現実を受け入れた我が子のことが悲しく、そして受けれさせてしまった自分を情けなく思った。
リックはカールの肩に手を置いて「本当にすまない」と声を絞り出し、それを受けたカールは頭を振った。
「謝らないで。人を大切に思う気持ちは悪いことなんかじゃないよ。それに『ニーガンを嫌いになってほしい』って頼んだら嫌いになれる?無理だよね。」
「ああ、無理だ。嫌いにはなれない。」
リックは正直に答えた。ここで嘘を吐いても何にもならない。
その答えにカールは満足したように目を細め、肩に置かれたリックの手に自らの手を重ねた。
「僕はそれでいいと思う。ニーガンは憎いし嫌いだけど父さんには自分の気持ちを大事にしてほしい。だから、みんなが反対したり父さんを責めても僕だけは父さんの味方でいる。約束するよ。」
誓いを示すように重ねられた手に力が込められた。その力強さが何よりも心強い。
カールは本当に頼りがいのある大人になった。親としては大人にならざるを得ない状況を作ってしまったことを悔やむが、親だからこそ息子の成長を誇らしくも思う。
リックはカールと視線を交わらせながら微笑む。
「ありがとう、カール。だが、お前が考えているほど深い仲になったわけじゃないんだ。」
「どういうこと?」
首を傾げるカールが手を離したのでリックもカールの肩から手を離す。
「ニーガンに惹かれているが、どうしてもみんなに対しての罪悪感がある。今はニーガンへの気持ちと夫婦としての関係を深めることを俺の心が受け入れている最中なんだ。だからニーガンには待ってもらってる。」
「つまり友だち止まりってこと?」
「そうなるな。」
リックが頷くとカールは目を丸くして、思わずといった様子で呟く。
「……意外。あいつ、もっと強引かと思った。」
その感想にはリックも大いに同意するが、それほどに大事にされているのだと思うと胸の奥が甘く疼くような気がするので深くは考えないことにした。
そこへ玄関ドアをノックする音が響いた。リックが玄関に向かい、ドアを開けるとアラットが立っていた。
「荷物を積み終わったからいつでも帰れる。ニーガンは?」
「二階だ。知らせておくから先に車に戻ってくれ。」
アラットが「わかった」と頷くのを見てからリックはドアを閉めて体ごと振り向く。いつの間にかカールが傍に来ていた。
カールは肩を竦めて小さく笑う。その笑みから寂しさを感じ取り、リックは息子を抱きしめた。
「また来るから。体には気をつけろ。」
「うん、父さんもね。無理しないで。」
互いを思いながらのハグを終えて体を離し、リックはニーガンを呼びに行こうとする。
それを引き止めるようにカールから呼ばれたので振り返ると真剣な眼差しが向けられていた。
「父さん、みんなへの罪悪感に囚われないで。自分の気持ちに素直に従っていいんだよ。何が起きてもおかしくない世界だから後悔だけはしてほしくない。」
カールの声はどこまでも穏やかで優しかった。優しさに満ちた声と言葉に心を解されたような気分になる。
リックはカールの言葉に深く頷いてから階段を上っていく。
そしてジュディスの部屋の前に立ち、ドアをノックしようとしてその手を止める。中からはニーガンとジュディスの楽しげな笑い声が聞こえてきた。
いつか、ニーガンへの想いを受け入れられる日が来るのだろうか?
いつか、ニーガンに「愛してる」と告げることを自分に許す日が来るのだろうか?
リックは漏れ聞こえてくる声に愛しさを感じながら「いつかそんな日が来てほしい」と願いを込めるようにドアをノックした。
*****
アレクサンドリアの徴収日から二週間ほどの間、リックはニーガンと農場の建設・運営計画について毎日話し合った。
農場を守る壁はどのように作るか。
農場の改修や壁の建設に必要な材料をどうやって調達するのか。
農場とサンクチュアリの両方の運営に支障が出ないような人員の配置方法は何か。
農場とサンクチュアリの行き来における安全な方法はないのか。
考えなければならないことは山ほどあり、二人だけで考えていてはいつまで経っても終わらない。それでも二人で考えたのはある程度のレベルの計画を提示しなければ説得力がなく、皆からの協力を得られないからだ。
絵空事で人々は動かない。過酷な世界で生きていくのに夢物語は必要ない。必要なのは実現可能な計画だ。
次の会議で提案することを目標に定め、二人はそれぞれに資料を持ち寄って夜遅くまで徹底的に話し合った。
意見の衝突は数えきれず、議論が白熱しすぎて互いの胸ぐらを掴んだこともある。「今夜は解散だ」と怒りながら各自のベッドで眠った翌日は、少し情けない顔で朝早くから押しかけてきたニーガンにリックが苦笑いを浮かべて仲直りとなった。
そんな風に練り上げた計画を幹部たちに披露した時、皆の目が確かに輝いたのを見てリックの心は喜びと期待で満たされた。
現状を変えられるという手応えはリックとニーガンだけのものではなく皆のものになった。だからこそ新たなものを生み出す計画に皆が目を輝かせるのだ。
幹部全員が計画を進めることに賛成し、各自の意見を出し合って計画内容を更に良いものにしていく。改善した計画をサンクチュアリで暮らす全員に向けて発表した後はアイディアを出す者は更に増えた。こうして農場の運営計画は当初のものよりも遥かに中身の濃いものになった。
「農場の運営を次の春から始める」という目標を設定し、準備は初夏から始まった。
まずは農場を守る壁の材料に使えるものを集めた。木材・トタン・鉄板などの一般的なものはもちろん、大きな看板やガス欠で放置されていた車も貴重な材料だ。同時進行で農場内に建つ家や小屋の改築と補強に使うための材料も集めていたため、材料集めだけで夏が過ぎていった。壁の建設と農場内の建物の改築や補強の作業を始めるのは暑さが落ちついてからということになり、本格的な作業が始まるまでは細々とした作業を行った。
農場に関する作業が忙しかったとはいえ野菜の栽培や馬の飼育が疎かになることはない。新たに始めた屋上菜園は順調に進み、初めての収穫は上々だった。プランター栽培の方ではハーブを育て始めたのでハーブ療法が行われるようになった。馬の飼育数は拠点で飼っている馬も含めて十頭にまで増やすことができており、見回りや拠点への物資の輸送に馬を使うことも少しずつ増えてきた。
様々なことが動いている今、サンクチュアリの中は以前よりも活気づいている。「自分たちで生み出したものを使って生きていくことは可能だ」という認識が浸透しているのが雰囲気でわかり、どの作業も滞ることがなかった。他から奪ったり与えられるだけだった人々が自ら生み出すことを考えるようになったことをリックはとても誇らしく思う。
いつか徴収に頼らなくとも生きていけるようになればいい。
そんな希望を抱けるようになったことが心の底から嬉しかった。
部下たちと共に調達の任務に就いたリックは無人の家にある机の引き出しを漁る。
調達は簡単なようで難しい。リックはそのことを実感しながら目ぼしいものがないことに溜め息を落とした。
今日の調達は目的のエリアまでの移動に午前中を費やし、昼食を終えてからエリア内に点在する建物の探索を行っている。月日が経てば経つほど誰にも見つかることなく残されている物資は少なくなり、遠方まで行かなければ新たな物資を得るのは難しく、片道の移動だけで午前中が終わるのは珍しいことではなかった。泊りがけで調達に行くことも以前より増えてきたが、そのために消費する物資の量が持ち帰る物資の量を上回る日はそんなに遠くないだろう。
リックが今探索しているのは森の中にポツンと建つ平屋の一軒家。他にも数軒の家を見て回ったが、住人が逃げる際に物資を持っていったのか見知らぬ誰かが漁った後だったのか、使えるものはほとんど残っていなかった。この家も荒らされた痕跡があるので期待はできそうにない。
リックはベッドルームの探索を担当しており、取りこぼしを期待してクローゼットや机の中を細かく見た。丁寧に探してようやく見つけたのはハンカチと下着がそれぞれ数枚、そして筆記用具だけだった。何もないよりはマシだと溜め息を吐きながら見つけたものをリュックサックにしまって部屋を出る。
この様子では他の部屋も似たような結果だろう。そう考えながら玄関に向かおうとするとリビングの探索を担当している部下が慌てた様子で廊下に飛び出してきた。部下のただならぬ様子を見て、緊張が背筋を這うのを感じながら声をかける。
「どうした?」
「ウォ、ウォーカーが、外にたくさん……!」
青ざめた顔の部下の答えにリックは目を見開き、「ここで待て」と言って急いでリビングに入った。そして中途半端に閉められたカーテンの隙間から覗く窓の外の光景に愕然とする。
家の周りには数えきれないほどのウォーカーがいた。家の中に生者がいることに気づいていないのか家の傍を通過していくだけだが、こちらの存在に気づかれてしまえば押し寄せてくるのは間違いない。防音がしっかりした家だったために外の音が聞こえずウォーカーの群れが来たことに気づかなかったが、中の音が漏れなかったことでウォーカーに気づかれずに済んだとも言える。
リックはリビングのカーテンを全てきっちり閉めてから廊下に戻った。廊下には部下全員が集まっており、事態を把握して厳しい表情を浮かべる者や途方に暮れた様子の者もいる。少人数で、しかも拳銃やナイフ程度の武器しかない状況を考えれば「死を考えるな」と言うのは無理だ。
リックは深呼吸をしてから全員に視線を巡らせる。
「落ちつけ。奴らは俺たちがいることに気づいていない。玄関や裏口は閉めてあるが鍵をかけていないから、すぐに鍵をかけて家具で塞げ。それと家中のカーテンを閉めて外から中が見えないようにしよう。全て済んだら廊下に戻れ。外にいるウォーカーに一番気づかれにくいのはここだ。」
リックが落ちついて指示を出したことで部下たちは少し冷静になれたようだ。部下たちがしっかり頷く様子を見てリックは更に言葉を続ける。
「この家は防音がしっかりしているから静かにしていればウォーカーには気づかれない。奴らが立ち去るまでの辛抱だ。絶対に全員で帰ろう。」
リックの言葉に部下たちはもう一度頷くとそれぞれのやるべきことを行うために散っていった。
リックは玄関の封鎖を行い、各部屋の様子を確認してから廊下に戻る。リックの指示通りにカーテンを閉めて玄関と裏口の封鎖を終えた部下たちも戻ってきたので、床に座って静かにしているよう指示を出す。リックは玄関に一番近い場所に座って手斧を握った。
それからの時間はひたすら我慢が続いた。微かに聞こえてくるウォーカーの声に耐え、ドアや窓が破られるかもしれないという恐怖に耐え、今すぐ車に飛び乗って逃げたいという焦燥に耐え、とにかく湧き上がる感情に耐えるしかなかった。
恐怖と重圧に押し潰されそうな状態でウォーカーの群れが通り過ぎるのを待つ間、リックは何度も部下たちに顔を向けて視線や表情で「大丈夫だ」と励まし続けた。そうすることで部下たちの強張った表情が少し和らぐのがわかる。そんな部下たちの顔を見ることでリックも「部下たちを絶対に守る」と自身を奮い立たせていた。
やがてリックの腕時計が夕方の六時を指す頃にはウォーカーの声が漏れ聞こえてくることはなくなった。
「外の様子を見てくる。このまま待ってろ。」
リックは小声で部下たちに声をかけてから足音を立てないようにリビングへ移動する。
窓に慎重に近づいてカーテンの隙間から外を覗いてみると、見える範囲にはウォーカーの姿がなかった。そのためもう少し隙間を広げても問題ないと判断し、リックはゆっくりとカーテンの隙間を広げてみた。
そうすると眼前に広がるのは木々の姿だけであり、ウォーカーは一体もいなかった。他の部屋の窓から外を確認してもウォーカーの姿は見当たらない。
「……よかった、完全に移動したな。」
リックは安堵の息を落としてポツリと呟いた。
そして表情を緩めたまま部下たちの元へ戻ると笑顔と共に報告する。
「群れはいなくなってた。もう大丈夫だ。」
リックがそう告げると全員が嬉しそうに笑い、ホッと肩の力を抜いた。
危機を乗りきった喜びを満足するまで味わうと部下の一人がリックに顔を向けた。
「リック、この後はどうする?もう暗くなってきてるが。」
「このままこの家に留まろう。群れがどこまで移動したのかわからないし、暗い中で群れにぶつかったら致命的だ。明るくなってから出発した方が良い。交替で見張りをして寝よう。」
リックの提案に反対する者は誰もいなかった。人数も装備も頼りない状態での夜間の移動は危険だ。もしウォーカーの群れに遭遇してしまったら今度はどうにもならないだろう。
「反対意見がないから夜が明けたらすぐに出発で決まりだ。今のうちに準備しておいてくれ。……大した荷物はないだろうがな。」
リックが苦笑いしながら言うと皆も同じように笑う。
夕方にはサンクチュアリに到着する予定だったので食料は昼の分のみ。飲み水は一日分しか持ってきておらず、寝袋やランタンもない。小さいながらも懐中電灯は全員が持っているので明かりには困らないが、各自の飲み水の残りは少ないため節約しながら飲まなければならない。運の悪いことに今回の調達では食料が手に入らなかったので夕食は抜きだ。
リックは腹の虫が騒ぎ出すのを自覚しながら皆にリビングへ移動するように指示を出す。もう廊下で過ごす必要はない。
リビングに移動すると部下たちがそれぞれに寝る場所を確保するのを見守り、リックは最後に出入り口付近に座った。
部下たちは荷物の整理をしたり小声で雑談をしていたが、そのうちに次々と眠り始めた。まだ眠るには早い時間だが緊張による疲れが出たのだろう。穏やかな寝息の響く部屋を見渡してリックは小さく笑みを零した。油断は禁物だが、ウォーカーの群れの脅威が去った安心感に身を委ねたい気持ちは理解できる。
そんな部下たちを待つ家族や友人のことを考えると無事であることを知らせる術がないのが歯痒い。リックは通信手段が皆無に等しい今の世界に溜め息を吐きたくなった。
今日中に帰還予定だった調達班が戻らないことにより、サンクチュアリの者たちはリックたちに何かトラブルが起きたのだと察しただろう。心配させないためにも連絡を入れたいが、バッテリーの節約で「調達任務でトランシーバーを携帯できるのは長期の泊まりがけの場合のみ」という新たなルールができたためにトランシーバーを持ってくることができなかった。
太陽が上り始めたらすぐに出発して帰りを待つ者たちを早く安心させたい。リックはその思いを胸に抱きながら壁に背中を預けた。
その時、今夜はニーガンの部屋に泊まることになっていたのを思い出す。「忘れて自分の部屋で寝るなよ」と笑うニーガンの顔を見たのは今朝のことだ。
(約束を破ってしまったな)
そのことをとても残念に思う自分に気づき、リックは小さく苦笑する。
ニーガンの部屋で過ごすのは好きだ。結婚したばかりの頃は足を踏み入れることさえ嫌だったニーガンの部屋は、今ではサンクチュアリの中で一番過ごしやすい場所になっていた。
ボードゲームやトランプで遊んで笑い合い、仕事のことで真剣に議論し、「おやすみ」とベッドの上で身を寄せ合う。
ニーガンと過ごす時間はリックにとって大切で愛おしいものになっていた。その時間を今夜は掴み損ねてしまったことが残念でならない。
リックは微かに眉値を寄せて胸を押さえる。込み上げる感情が胸を苦しくさせたせいだ。
(ニーガンに会いたい)
危機的状況は去り、朝になればサンクチュアリに帰ることができる。それでもリックはニーガンが恋しくて、会いたくて堪らなかった。仲間たちへの罪悪感によって押し止められていたニーガンへの想いが思いがけないタイミングで溢れ出ている。
「今夜は一緒に過ごす」という約束を果たせなかっただけでこんなにも胸が苦しくなるとは思わなかった。
明日になれば会えるとわかっているのに今すぐに会いたくて仕方ない。
きっと、抑えつけてきた想いは何かの弾みで溢れてもおかしくなかったのだ。それが今日だっただけのこと。今日ではなくともいつか必ず溢れ出て、リックの心を埋め尽くしたのだろう。
ニーガンへの想いを噛みしめるリックはカールの言葉を思い出す。
『みんなへの罪悪感に囚われないで。自分の気持ちに素直に従っていいんだよ。何が起きてもおかしくない世界だから後悔だけはしてほしくない。』
リックはカールの言葉が心に染み込んでいくのを感じた。
仲間たちのことを大切に思う気持ちは変わらない。これから先も自分にできる精一杯で守り続けていくつもりだ。それでも──ニーガンが好きだ。
(サンクチュアリに戻ったらニーガンに気持ちを伝えよう)
心の中にある想いを包み隠さずニーガンに差し出そう。想いを打ち明けてくれた時の彼のように本音でぶつかるのだ。
リックは己の決断を肯定するように小さく頷いた。
どんな言葉で伝えようかと考えるだけで胸がときめく。
リックは湧き上がる感情を慈しむように自身の胸を撫で、ニーガンを想って笑みを浮かべた。
翌日、リックたちは太陽が顔を覗かせ始めた時刻に家を出発した。まだ少し薄暗いが移動に問題はない。
リックは運転を部下に任せて助手席に座り、ウォーカーの群れを警戒して周囲に視線を送り続ける。ウォーカーの群れらしきものは見当たらないが、どの方角に向かったのかわからないので警戒を怠ってはならない。
リックは振り返って後部座席に座る部下たちに声をかける。
「おい、周りを警戒しておいてくれ。群れかもしれないと思ったら必ず知らせろ。」
リックの指示を受けた部下たちは「了解」と頷いたが誰の顔にも疲労が浮かんでいる。硬い床に寝転んでの睡眠は安眠とは程遠く、昨日の昼食を最後に何も食べていないせいでエネルギー不足でもあった。
車内の誰もが空腹と疲れに耐えながら車に揺られること数時間。運転している部下が前方を指差した。
「──あれ、サンクチュアリの車?」
その言葉の通り、前方から車が走ってくるのが見えた。サンクチュアリにある車と同型ではあるが、乗っている人間が見える距離ではないのでサンクチュアリのものだと断定できない。他のコミュニティーの車である可能性を捨てきれないため速度を落として接近していく。
徐々に距離を縮めていくと相手の運転手と同乗者の顔が見えるようになり、その見覚えのある顔にリックは驚いた。向こうの助手席に乗っていたのはアラットであり、それが示すのは向こうの車にはニーガン直属の部下たちが乗っているということだ。
リックは停車するように指示を出し、車が停まると真っ先に降りた。そうすると相手の後ろに車がもう一台いることに気づく。それはニーガンのお気に入りの車だった。
(まさか、ニーガンが?)
その予想にリックは戸惑う。捜索隊が出ることは予想していたが、そこにニーガンが加わるとは考えていなかった。
基本的にニーガンは部下に任せる人間だ。今回のような場合は捜索範囲や捜索方針などを指示して自分は拠点で待つはず。
予想外のことに戸惑うリックの視線の先では車から次々と人が降りてくる。一台目の車から降りてきたのは全員ニーガン直属の部下であり、二台目の車から降りてきたのはニーガン本人だった。車を降りたニーガンは真っ直ぐに視線を向けてくる。
リックは信じられない気持ちでニーガンに近づき、その顔を見つめた。
ニーガンの顔にいつもの笑みはなく、緊張感を漂わせている。そんなニーガンを前にしてリックは気を引き締めた。
「ニーガン、計画通りに任務を果たせなくてすまなかった。全員ケガはしていない。空腹と疲れがあるから元気とは言えないが、休めば回復する。戻ったら彼らを休ませてやってほしい。」
「ああ、そのつもりだ。リック、お前は俺の車に乗れ。話を聞かせてもらう。」
ニーガンはそう言って自分と共に来た部下たちに顔を向けた。
「帰るぞ。誰かあっちの車の運転を代わってやれ。」
命令に頷いた一人がリックたちの乗ってきた車に向かうのを見届けてからニーガンは自分の車に戻っていく。リックはその後を追い、ニーガンが運転席に乗り込むのに続いて助手席に乗った。
そして三台の車はサンクチュアリのある方へ向きを変えて走り出す。
リックはハンドルを握るニーガンの横顔に視線を向けた。見慣れた横顔を見ているだけで安心感に全身を包まれたような感覚になる。
「リック、昨日は何があった?」
ニーガンは横目でリックの顔をチラッと見てから質問してきた。
「家の中を探索していたら、いつの間にかウォーカーの群れに家を囲まれていた。囲まれていたといっても気づかれていなかったから家の傍を通過していくだけだったが。」
「群れ?どれぐらいの規模だ?」
その問いにリックは首を横に振る。
「わからない。気づかれないように家中のカーテンを閉めて隠れていたから。ただ、完全にいなくなるまで二時間はかかったと思う。」
「かなりの規模の群れだと考えて良さそうだな。その群れが向かった方向は?」
「すまない、知らないんだ。あの辺りでの調達を続けるなら対策を立てないとまずいと思う。今回は運が良かったが、次に遭遇したらどうなるかわからない。」
「わかった、どうにかする。それで、お前たちはどうやってやり過ごしたんだ?隠れてたと言ったな。」
そう尋ねながらニーガンは視線を一瞬だけリックに寄越した。
リックは「そう、隠れていたんだ」と説明を始める。
「群れに気づいたのは家の中で物資を探している最中だったから玄関と裏口を封鎖して、カーテンも全て閉めて外から中が見えないようにした。その後はずっと静かにしていたんだ。気づかれなければ奴らは勝手にいなくなるからな。」
「逃げるのは無理だったのか?」
「ああ。車に乗ることができても群がられる可能性が高かった。そうなったら動けなくなる。それよりも家の中で隠れていた方が安全だと判断した。」
「帰りが今日になった理由は?」
「ウォーカーがいなくなったのは夕方だった。ウォーカーの群れは立ち去ったとはいえ近くにいる可能性は十分にある。もし暗くなってから群れと遭遇したら終わりだ。だから朝になってから帰るべきだと思ったんだ。連絡ができないから余計な心配をかけるとわかっていたが安全を優先した。すまなかった。」
「謝るな。必要なことをしただけだろ。」
リックは「そういうわけにはいかない」と頭を振る。
計画通りに日帰りができなかったことだけでなく持ち帰った物資の量が少ないのだ。今回の調達は失敗だと言える。
「今回は調達できた物資の量が少ない。その上、計画通りに戻ることもできなかった。完全に失敗だ。今回のことは探索の最中に警戒を怠った俺に責任がある。罰は──」
「罰は俺が受けるって?バカか、お前。」
リックの言葉を遮ってニーガンが話し、呆れの笑みを浮かべた。
「それぐらいで罰を与えてたら働き手がいなくなる。失敗の理由がくだらない理由だったら罰を与えるが、そうじゃないなら必要ない。」
そう言ってニーガンは再びリックの顔を見て、すぐに視線を正面に戻した。
そして「リック」と真剣な声音で名前を呼ばれた。
「人材は貴重だ。簡単に失うわけにはいかない。そして、お前は俺の預けた人材を守った。無傷でな。だからお前の今回の判断は正しい。よくやった。」
そのニーガンの言葉がリックの心に染み込んでいく。
肯定の言葉は強い。その言葉が自信となって心を守ってくれるのだ。特にニーガンから与えられる肯定の言葉はリックにとって何よりも救いを与えてくれる。
気が緩んだせいか視界が滲み出した。目の奥が熱くて、泣きそうになっているのだとリックは自覚した。
それを悟られまいとニーガンから顔を逸らして瞬きを繰り返していると、隣から「頼みがある」と声が飛んできた。
ニーガンがお願いをするなんて珍しい。リックは目を丸くしながらニーガンの方に顔を戻した。
「今から話すことはリーダーとしてじゃなく俺個人としての話だ。お前は黙って聞いてるだけでいい。いいか?」
「わかった。」
ニーガンはそれに頷いて話し始める。
「リック、お前は優秀な男だ。判断力もあるし戦うのにも慣れてる。だからお前たちに何かトラブルが起きたとわかっても必ず戻ってくると思った。お前なら解決するし簡単に死なないってな。……それでも。」
ニーガンはそこで言葉を切ると唇を噛む。その表情がリックには悔しげに見えた。
「捜しに行きたかった。部下たちを総動員して暗闇の中を捜しに行きたかったし、それが無理なら一人でも行きたかった。だが、それはリーダーとしての俺が許さない。たった数人のために夜の捜索なんて危険なことを部下全員にさせるわけにはいかない。リーダーが単独で勝手に動くのもだめだ。だから夜明けと同時に出発するしかなかった。……リーダーをやってることを後悔したのは今回が初めてだ。」
自嘲気味に笑うニーガンの横顔にリックの胸が痛んだ。
ニーガンがリーダーでなければ一人でリックたちを捜しに来ることもできただろう。もし何かあってもそれは自己責任だ。
しかし、リーダーはそうはいかない。リーダーが一人で動いて、もしものことがあれば組織全体に影響が出る。そして危険だとわかっていることに大勢を巻き込むのは指導者として失格だ。リーダーというのは己の好きにできるように見えて実は人々に縛られているのだ。
リックが戻らないことにどれほど不安を募らせようと、「捜しに行きたい」と焦燥に突き動かされてしまいそうでも、ニーガンは夜が明けるまで我慢するしかなかった。夜明けまでのニーガンの心境を思うとリックは胸が痛くて仕方なかった。
リックは胸の痛みと共にニーガンへの愛しさを感じながら話に耳を傾ける。
「これから先、同じようなことがあっても俺はリーダーであることを優先する。お前が俺の夫だってことは関係なく俺は部下や労働者たちを優先する。お前に惚れてると言ったくせに『他の大勢よりお前を選ぶ』なんて言ってやれない。夫としては最低だな。」
「ニーガン、俺は──」
「黙って聞け、と言っただろ。……こんな最低な夫だが、お前をアレクサンドリアに帰らせる気はない。絶対に別れない。だから何があっても生きて帰ってこい。俺はいつまでも待ってやるから。」
続けて「意外と気は長いんだ」と笑うニーガンに、リックは深く頷くことしかできなかった。
リーダーであることを放棄するつもりがないのなら、ニーガンはこれから先も「大切な人の危機に動くことができない」という状況に苦しむことになるだろう。それならば大切な存在など作らない方がいい。
しかし彼はその苦しみを受け入れる覚悟をした。それはリックを心から愛しているからだ。
リックはニーガンの自分への想いの深さと覚悟に引っ込みかけていた涙が勢いを取り戻そうとするのに耐え、心の中に湧き上がる思いを素直に受け入れる。
──ニーガンと、ずっと一緒に生きていきたい。
*****
リックたちがサンクチュアリに戻ったのは昼よりも前だった。朝早くに出発したので早く帰ることができたのだ。
リックとその部下たちはニーガンから「食事の準備ができるまでに診察を受けてシャワーを浴びろ」と命令され、それに従って医務室を目指す。その道中、擦れ違う人々から「無事でよかった」「ケガはないか?」などの無事を喜ぶ言葉をかけられた。それによりリックは自分がここで暮らす一員として受け入れられていることを実感した。
診察では全員が「異常なし」と言われ、「水分と睡眠をしっかり取りなさい」との指示に頷いてから医務室を後にする。
リックは部屋に戻って着替えとタオルを用意してシャワールームに向かったが、普段使っているシャワールームは掃除中だったので他の階のシャワールームに足を運ぶ。下の階のシャワールームに行くと既に部下たちが集まっており、リックが現れたことに目を丸くしたが事情を話すと「ツイてない」と笑った。
そのやり取りの後、リックは皆と一緒にシャワーを浴びた。調達班のメンバーと並んでシャワーを浴びるのは初めてのことで、会話しながらのシャワーは保安官時代を思い出させた。シェーンや他の同僚たちと他愛のない話に花を咲かせる時間は一時の安らぎであり、サンクチュアリで暮らす人々はリックにとってその時間を共有できる相手になったのだ。その実感と共に「誰も失わなくてよかった」と全員で帰ってこられた喜びを噛みしめる。
シャワーを終えると全員で食事を貰いに行き、談話室で揃って食事をした。ウォーカーの群れに囲まれながらも全員が無事に帰還できたことを祝いたい気持ちがそれぞれにあったからなのだろう。リックは楽しい食事の時間を過ごしながら「アレクサンドリアの仲間と同じように彼らも守りたい」という思いを強くした。
食事を済ませると自分の部屋に戻ってベッドに直行する。昨夜は質の良い睡眠を取ったとは言い難く、眠気が限界に来ていた。
ベッドに仰向けに寝転ぶとブーツを脱ぎ捨てて毛布を体に引っ張り上げる。すっかり体に馴染んだマットに身を委ねれば、あっという間に眠りの世界に連れ去られた。
リックが眠りの世界から戻ってきたのは太陽が沈み始めた頃。
窓から差し込む日差しの様子が眠る前と大きく変わっていることに驚く。「もう起きなければ」と、リックは眠い目を擦りながら起き上がってブーツを履いた。
その時、テーブルの上に水差しとグラスが置かれていることに気づく。眠る前にはなかったので誰かが持ってきてくれたのだろう。他人の気配に気づかないほどぐっすり眠っていたことに苦笑しながら、グラスに水を注いで一気に飲み干した。
リックは空になったグラスをテーブルに戻すと部屋を出る。向かうのはニーガンの部屋だ。自分の気持ちを打ち明けると決め、部屋に着くまでの短い時間で言葉をまとめようと試みるが簡単にできるものではない。
考えがまとまらないうちにニーガンの部屋の前に到着し、ドアの正面に立って軽く深呼吸をする。そしていつもより丁寧にドアをノックした。
「──入れ。」
入室の許可を得たのでドアを開けるとソファーに座るニーガンが驚いた様子でこちらを見た。リックが来ると思っていなかったようだ。
リックはドアを閉めてニーガンの傍らに立つ。
「体調はどうだ?」
見上げながら尋ねてくるニーガンは気遣わしげな目をしており、リックは「問題ない」と頷いた。
「今日は休ませてくれてありがとう。明日から仕事に戻る。」
「問題ないならいいが、無理はするなよ。そういえば部屋に置いた水は飲んだか?カーソンからきちんと水を飲めと言われたんだろ?」
その言葉にリックは目を丸くした。部屋に水差しを置いてくれたのはニーガンだったのだ。
「水を置いてくれたのはあんただったのか。ありがとう、起きてから飲んだ。」
「どういたしまして。様子を見に行くついでに持っていったんだ。間抜けな寝顔を晒してたぞ。」
そう言ってニーガンはニヤリと笑った。
脱いだブーツを適当に床に転がしておいたほどなので寝顔だけでなく寝姿そのものが間抜けだったかもしれない。そう考えてリックは少し恥ずかしくなった。
ニーガンはニヤニヤとした笑みを引っ込めると穏やかな表情で見つめてきた。
「それで?何か用があるんじゃないか?」
「ああ。話したいことがある。」
リックは気を取り直すとその場に膝を突き、ニーガンの膝に両手を乗せる。
リックの思いがけない行動に驚いたニーガンが全身を硬直させたのを見てリックは思わず笑みを零した。そんな些細なことが愛おしい。
リックはニーガンの目を真っ直ぐに見つめながら「何も言わずに聞いてほしい」と乞う。
「昨日はこの部屋に泊まる予定だったが、トラブルのせいで約束を守れなかった。俺はそれがとても残念だった。あんたとの約束を破ったことが申し訳なくて、あんたと一緒に過ごすことができなくて寂しかった。この部屋で過ごす時間は俺にとって大切なものだから。」
目を瞠るニーガンには構わず言葉を続ける。
「ニーガンに会いたい、と強く思った。会いたくて、恋しくて、もう自分の気持ちを抑えていられない。そう思った。……俺は──」
リックは一つ深呼吸をしてから続きを口にする。
「ニーガンを愛している。」
そう言ってリックは両手に力を込めた。そうすることで掌から伝わってくるニーガンの体温を更に強く感じられる。
この体温が愛しい、と思いながらリックは微笑む。
「後悔したくないから自分の気持ちに素直になることにしたんだ。それに、俺があんたに惹かれている事実は変わらない。だから俺たちの間に起きた出来事も仲間たちへの罪悪感も何もかも受け入れて、その上でニーガンと一緒に生きていく。そう決めた。」
心の中にあるものを全て伝えるとニーガンの顔が歪んだ。泣き出しそうな、喜びを噛みしめるような、そんな表情をしていた。
初めて見る表情に目を奪われているとニーガンが立ち上がり、両手を取られて立ち上がるように促される。
リックが膝を突くのをやめて立ち上がった瞬間、ニーガンに強く抱きしめられた。
息苦しいほどの抱擁をリックは愛しく思う。言葉にされずとも愛されていることが伝わってくる抱擁がとても嬉しかった。
リックがニーガンの背中に腕を回すと熱の籠もった声で「リック」と名前を呼ばれた。
「政略結婚なんてするんじゃなかった、愛されてもないのに結婚するんじゃなかった。そう思って何回も後悔した。恋愛してから結婚しておけばよかったって……お前が俺に惚れるなんて腐った奴らが喋り出すくらいあり得ない話だけどな。」
ニーガンの言葉にリックはクスッと笑った。
「俺はこれでよかったと思う。そうじゃなきゃ俺はあんたの一部しか知らないままだった。そんな状態の俺があんたを好きになることは絶対にない。」
「断言されると腹が立つが許してやる。その通りだからな。政略結婚から入らなきゃ俺たちはこうならなかった。」
ニーガンはそう言うと体を少し離した。そうすることで目が合う。
目尻の垂れたニーガンの顔が本当に幸せそうで、リックも釣られて笑みを深めた。
「なあ、リック。俺はキスするのが好きなんだが──」
その続きを奪うようにリックはニーガンの唇に己の唇を押しつけた。
以前、ニーガンからキスされそうになった時にリックはそれを拒んだ。その時はまだニーガンの気持ちも自身の気持ちも受け入れることができなかったからだ。
しかし、今は違う。だからこそリックは自分からニーガンにキスしたいと思い、それを実行に移した。
リックが唇を離そうとすると頭の後ろを押さえ込まれて今度はニーガンの方から唇を押しつけてきた。ニーガンの舌が唇の隙間を割り開いて口内に侵入し、舌を絡め取られる。
リックは「ここまでするつもりはなかった」と焦ったが、心のどこかでこうなることを期待していたような気もした。その証拠にニーガンの背中に回した腕に力が入っている。
息苦しくなってきた頃に唇が離れ、目を開けると間近にニーガンの美しい瞳があった。
「愛してる、リック。」
囁かれた愛の言葉は熱を帯びていた。それに応えるように再び自ら唇を触れ合わせれば深い口付けへと変わる。
リックはキスを交わしながら、ここに来たばかりの頃を思い出した。ニーガンには憎しみと恐れしか抱いておらず、共に過ごすことが苦痛で仕方なかった。「大嫌いだ」と何度思ったかわからない。
それが今ではキスを交わしたいと望むまでに愛するようになった。人の心も運命も、どこでどう変わるかわからないものだ。
ニーガンへの想いは仲間たちを傷つける。全員からの祝福を得ることが叶わない愛だ。それでも全てを受け入れると決めた。何かを失う覚悟もできた。ニーガンへの想いは誰にも変えられない。
リックは揺るがない想いを誓うようにニーガンと唇を重ね続ける。
二人だけの婚姻の儀の際に交わすことのなかった誓いのキスは、心を通わせ合った日のために取ってあったのかもしれない。リックにはそう思えてならなかった。
To be continued.