小説家×書生 長く続く石畳は所々凸凹としていて、時折下駄が引っ掛かる。袴の裾を捌きながらどうにか持ち堪えて進んで行くと、椿が顔を出す垣根が目に付いた。艶やかな葉が紅い花を支え、竹の格子を彩る。その向こう、滑らかな蒼い髪が揺れているのが見えて、アズールは少しむすりと頬を膨らませた。春の見えたこの時期でも、寒い日は寒い。例えば、今日のように。
「イデアさん」
垣根の切れ目に佇む痩躯に声を掛けると、待っていたように振り向いた青白い顔が笑った。白い着流しは袖と裾だけが青で染め抜かれ、次第に白く溶けて行く。好んで着ているそれは彼の儚げな雰囲気にとてもよく合っていたけれど、問題は羽織も何もなくそこに立っている事だ。一体いつからいたのやら。アズールの顔を確認した彼が困ったように眉を寄せた。
「怒っているの?」
「そうお見えになるならそうなんでしょうね。心当たりがおありなのでは?」
大股で彼に近付いて、手に持っていた帯革で留めた書籍と共に彼を家の中に押し込める。手のひらに触れた彼の着流しが冷たく、思い切り顔を顰めた。
「いつからいらしたんです?」
「うーん、小一時間前?」
それだけ長く外にいては身体が冷えるのも頷ける。痛むこめかみに、はあー、と長く溜息を落として上がり框に押し上げた。
「身体に障ります」
「大丈夫でござるよ、このくらい」
軽く笑って流されたのを抗議するように眉間を更に狭めた。部屋に上がったイデアに続いて部屋に上がり、火鉢の傍に腰を下ろしながら脱いだ学生帽と書籍を畳に置く。着物の下の詰襟を僅かに緩め、ほっと息を吐いた。ぱちぱちと火の粉が鳴っているのは、火をそのままに外に出ていたと言うことか。万が一火事にでもなったらどうするつもりなのかとこめかみを押さえる。どうにも浮世離れした彼には、そう言った事を何度伝えても響かなかった。
「今日も学校だったでござるか」
「ええ。ですが、あと数ヶ月でお終いです」
この先の家に書生として下宿を始めて三年。あっと言う間だったと思う。その間に、学校と下宿の間にあるこの家の庭先で彼と知り合った。
出会った当時も矢張り青白く窶れたような姿で庭の桜の木の下に立ち、春だと言うのに全く咲く気配のない枝を見上げていたのを覚えている。それはもう、鮮明に。だってこんなに綺麗な男を、アズールは見た事がなかった。
「そう。学校が終わったらどうするの?」
「官僚試験を受けようと思います」
「帝都に出るんだ」
「はい」
この地でも然程不便はないのだけれど。けれどもより高い地位を、より高い給与を求めるのであれば、やはり帝都を目指すのが男子たるもの。そう信じたアズールの発言に、火鉢にかけたやかんを持ち上げて急須に湯を注いだイデアが、長い睫毛を伏せ、そう、とだけ頷いた。
「イデアさんはまだここにいらっしゃるんですか?」
いつか、暫くしたらこの地を去るのだと話していた事があったのをふと思い出す。んー、と間延びしたように鼻にかけた声で唸って、アズールの前に緑茶がなみなみと注がれた湯呑みを差し出した。暖かな湯気を立てるそれを有難く頂戴して、左手で湯呑みの底を支えながら右手で持ち上げた。猫舌であるから、何度もふうふうと湯気を吹き、眼鏡を曇らせる。そんなアズールであったから、曇った硝子の向こうでイデアがどんな顔をしていたのかを知る事が出来なかった。
彼の庭には随分と立派な桜の木がある。冬を越し、そろそろ蕾が膨らむ頃。僕の手元には官僚試験の合格通知が届いていた。報せを受け取って真っ先に、イデアの家へと駆け出す。椿の垣根はもう葉を残すのみとなってしまっていたけれど、彼の家までの途中途中で梅の花を見掛けた。きっと、もう少し暖かくなった頃に、彼の庭の桜も咲く事だろう。去年も一昨年も、どうしてか花がつかず、けれども今年は既に蕾が膨らんでいたから、きっと今年こそあの桜が花をつけるのを見られるはずだ。
息咳切って到着した家の磨り硝子の玄関戸を叩く。
「ごめんください」
かしゃんかしゃんと音を立てて家主を呼ぶけれど、中々そこは開かれない。
「ごめんください」
再度呼びかけてみても、返事はなかった。留守なのかとがっかりして、ふと庭に目をやる。桜の木の、高い所にただ一つ、小さな花が付いていた。桜が咲いている。ああ何て可愛らしい。あの花はもう、イデアに見付けてもらったのだろうか。あれを見た彼は、どんなにその顔を綻ばせたのだろうか。共に見たかったなと合格通知を胸に抱き、肩を落とした。
留守ならば仕方がない。改めて出直そう。卒業式にはまだ日があるし、帝都に移り住むのは更にその先だ。この地に心残りがあるとするならば、唯一彼との別れのみ。走ったせいで汗の浮いた首筋を手の甲で拭い、詰襟を弛めた。袴の中に篭った熱を蹴飛ばしながら歩き始める。
「……アズール?」
ふと、名を呼ぶ声に振り向いた。桜の木の更に向こう。勝手口の方からひょこりと顔を出したイデアがアズールを認めて庭に出て来た。
「どちらにいらしたんですか?」
「ん、勝手口。どうしたの」
「あっ、これ、見てください。僕、官僚試験合格したんです」
差し出した合格通知に目を見開き、封筒に書かれた合格通知の文字を辿ってから細められる。その文字を指先で辿り、やがて口許に柔らかな笑みを乗せた。
「すごいね。おめでとう」
「はい」
「あー……お祝いするような物が何もないな」
「そんな、結構です。ただ貴方に見て欲しくて」
ひとつに結った長い髪を乱暴に掻き、困ったように眉を寄せる。お祝いと言う言葉にはっとして慌てて首を振った。それはそうか。合格したのだと報告されたら、祝ってやらねばと思うのが普通だ。これでは丸で祝いをねだりに来たようなものだ。何と失礼極まりない。途端に恥ずかしくなったアズールが俯いて、骨と筋の浮いたイデアの草履の足を見詰めた。
「桜、見付けた?」
そんな足元に転がった質問に恐る恐る顔を上げる。首を傾げた彼の蒼い髪が右の肩に流れ、黒の半纏の上で曲線を描いた。
「は、はい。先ほど」
「よかった、キミに見てもらえて」
寂しそうに笑う顔の理由を、どう捉えてよいものか。勉強は沢山して来たけれど、如何せん人との関わりを余り持たずに来てしまったアズールは、こうした人の機微を掬う事については拙かった。
「いつ帝都に行くの」
桜の木の幹に掌を当てたイデアが問う。
「三月の終わりには」
「住まいはもう決めたの」
「いえ。今の下宿のご主人が不動産屋を紹介してくださると」
これから忙しくなる。卒業式に、引越し先探し、就職に必要なものも買い揃える必要があったし、一人暮らしをするのであれば生活用品も一式必要になる。実家は貧乏ではないけれど、そんなに纏まった金を借りるのは忍びない。多少他所から借金をして揃えて行かねば。
桜を撫でたその白く長い指先が、そろりと僕の頬に触れる。輪郭を確かめるようになぞって、彼の左目がくつりと引き攣った。酷く苦しそうな表情につられて、思わず眉を下げる。
「イデアさん……?」
丸でその場から消えてしまうのではないかと思うほど、青白い顔が更に白かった。具合が悪いのか。心配にますます表情に不安を映す。そんなアズールの頬を、イデアの両の手が包み込んだ。
「僕もここからいなくなるんだ」
「……いつ?」
「桜の花が散る頃」
「……」
ならば、アズールの方が一足先かと思う。何処へ、と聞いても良いものか。迷った唇をきつく閉じた。近付いた彼の瞳は、春の夜の月を思わせる不思議な色をしている。
「僕も帝都に行くんだ、アズール。もしキミさえよかったら、僕と一緒に暮らそう」
さざめいたのは垣根の葉か、アズールの心臓か。胸の奥が熱くなり、包まれた頬に熱が走った。イデアと、帝都に。この先も彼と一緒にいられるのか。けれど、頷いてしまうには、イデアの事を知らなさ過ぎた。
「嬉しいですが、僕はイデアさんの事を何も存じ上げません。所詮貧乏学生ですし、きっとご迷惑をお掛けします」
「いいんだ、そんな事」
真剣な眼差しに浮かされて、耳の奥がどきんどきんと脈打つ。懇願するようなその顔にごくりと唾を飲み込んだ。
「キミが納得してくれるまで僕の事を話すよ。何が知りたい? 仕事? 年収? 家族? 夜通しだって話してあげる。だからお願い、僕と一緒にいて」
縋るように抱き締められて、その体温に目眩がする。嗚呼彼はこんなにも、僕を愛しく想ってくれていたのか。初めて知った彼の気持ちに、アズールは初めての戀を識った。
彼は、数年前に肺を患い、田舎で療養していた小説家なのだと言った。著書を並べて見せてもらい、どれもこれもアズールが読んだことのある小説で、思わず絶句する。そんな傍らで大学で教鞭を執っていたと言うものだから、分からないものだと感心してしまった。
「元々、あの桜が咲いたら帰ろうと思ってたんだ。でも何故だか中々咲かなくて。キミと引き合わせてくれたあの桜が、キミと共に発てる日まで待ってくれていたのかも知れない」
ロマンチストだと笑うかい、と問われ、慌てて首を振る。耳慣れない言葉に正座した足の先が落ち着かなかった。
「キミさえ良ければ春を待たずに移ろう。生活の準備もあるし、街を知らないと通勤も出来ない。住まいはキミの便利な所にしよう。僕は何処ででも仕事は出来る」
火鉢から下ろしたやかんから注がれた緑茶はやっぱり熱くて、ふうふうと吹いた湯気で眼鏡が曇る。それを嫌って外した眼鏡の向こうで、彼が見た事がないくらいに優しく笑っていたものだから、思わず触れた湯呑みで舌を焼かれた。
あの花弁が散る前に、
ねえ君を奪ってもいい?
膝の上に置いた手を握り、囁かれたその声に、深く一度頷いた。
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いであずのタイトルは『あの花びらが散る前に』
煽り文は『ねぇ、奪っていい?』です
#CP本タイトルと煽り #shindanmaker
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