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    もう恋なんて、 ガスレンジの上でしゅんしゅんと音を立てるケトルが急き立てる。そんな傍らで一向に目的の物が見付けられない僕は盛大に舌打ちをした。何となくのこだわりで使い続けてきたガスレンジ用のケトルは、最初こそマリンブルーの綺麗な色をしていたけれど、今やもう底の辺りは直火のせいで黒ずんで、全体ももう青であったのかどうか疑わしいほどに色が抜けている。それでも、電気ケトルや魔法を使わないのはもう半ば意地だった。
    「……くそ、」
     呟きが湯気の音に紛れる。仕方なしに立ち上がって火を止め、ガスレンジの正面に作り付けた食器棚に腰を預けた。ここで苛立ちに任せてタバコのひとつでも取り出したら格好がつくのかも知れないけれど、生憎あれは好きじゃない。浅く溜息を吐いて食器棚の下を開けてインスタントコーヒーのスティックを取り出した。
     カウンターから続きになっているダイニングテーブルの上では既にトーストが冷めかけていて、やはり電気ケトルが必要かなと今更考える。けれど、買い換えてしまうには学校を卒業してこの部屋を借りた時に買ったあれには愛着があり過ぎた。いっそ電気ケトルに改造してやろうかとも思うけれど、それも何となく憚られてトーストを齧る。ひとくち飲み込んでから、バターを塗り忘れたことに気付いた。

     こんなだから、という声は、一体誰のものだっただろう。自分のそれのような気もしたし、ここを出て行った彼のもののような気もした。いっそ、実家にいる弟のそれのようにも聞こえて、頭の後ろに滞る幻聴に苦笑する。
    「こんな、ねえ」
     呟いてみたところで、この1LDKの家の中には自分以外誰もいない。この部屋に越して数年の間響き続けていたアクアリウムの呼吸音も今はなかった。零れた呟きはコーヒーに溶かして、苦みと共に飲み込む。ペアだったはずのカップも今や一人ぼっちで、無表情のはずの猫のイラストが少し寂しそうだった。

     半年前にここを出て行った面影は何を思っていたのか、今なら少し分かる気がする。元々他人を慮るような性格ではないし、気が利くような性質でもない。それを分かっててここに来たんだろというのは流石に傲慢だった。一緒にいるだけでは見えないことも、生活を共にすることで可視化する。不満は少しずつ蓄積して、こうしていつか決壊するのだ。
    「自分勝手」
     自嘲するように肩を揺らして、空っぽになったカップと皿を持って立ち上がる。朝食のひとつくらい僕にだってできるんだと胸を張ってみても虚しいだけだ。
     一人暮らしになってから初めて休暇を取った。仕事をしていれば私生活のことは忘れられたし、研究に没頭していれば全てを忘れられた。けれど一旦ここへ帰ると、そこかしこに記憶が落ちていて途端に落ち着かなくなる。いっそここを出て行くかとも考えるけれど、あちこちに染み付いた想い出の欠片がそうさせてはくれなかった。
     結局、零した言葉は自分へ向けたものだったのか、いなくなったその人へ向けたものだったのか、それすらも分からないまま流しの中で水を受けるカップと皿を遠く見詰める。

     玄関ドアでかたんと小さく音がした。ドアポストに朝刊が差し入れられたのかと水を止めて、短い廊下を歩く。白地に薄いグレーのスリッパは僕の趣味ではなかった。ポストから覗く新聞紙の頭を引き抜いて、何となくその場で広げ、そこで漸く違和感に気付く。新聞が配達されるには少し遅いような気がして時計を確認しようとリビングに踵を返そうとした背後で、がちゃりとキーシリンダーが回る音がした。ドアノブが傾くのに思わず喉を鳴らす。だって、この部屋の鍵を持っているのは。
    「少しは生活力が身に付きましたか?」
    「お陰様で。てかティーバッグどこにしまったの? 随分探したんだけど」
    「冷蔵庫の脇のストックケースの中にあったでしょう」
    「なかったよ」
    「ちゃんと探していないからです」
    「全部見た」
    「そんなはずないです。もう、貴方全然変わってないじゃないですか」
     ショートブーツの踵を鳴らしながらまっすぐキッチンに入る背中を追いかける。迷うことなくストックケースを開けたその手の上に、あれだけ探しても見つからなかったティーバッグが乗せられていて、今朝の探索時間は一体何だったのかと溜息を吐き出しながら壁に凭れた。
    「引っ越そうかと思った」
    「そうされているかと思いました」
    「戻って来るつもりだったの?」
    「貴方がここにいれば。引っ越していたらそれはそれで」
    「……それで、何?」
     ティーバッグを押し付けるようにして擦れ違って、リビングのソファに小さめのボストンバッグを置き、その隣に腰を下ろす。責めるような口調になった僕をちらりと見上げた蒼い眼がゆるりと弧を描いた。
    「追いかけて行って罵ってやろうかと思っていました。喧嘩もできない意気地なしと」
     そもそも事の発端は、あまりに生活力がなく、同居人への気遣いもない僕への当てつけだった。蓄積した不満が決壊した彼の一方的な正論を受け止めきれずに駄々をこねたのは僕の方。愛想をつかされた、というやつだと気付いたのはアズールがここを出て行って一ヵ月も経った頃だった。
    「恋人ができてたかもよ」
    「貴方にそんな社交性ないでしょう」
     あっさりと切って捨てられたそれに苦笑して、久々に見るその姿に眉を下げる。戻って来るつもりだったと言うのなら、きっと彼も他に移るということはせずにいたのだろう。
    「何かもう、暫く恋愛とかそういうのはいいやって思ってた」
    「そうですか」
    「でもやっぱりキミに会ったらもうダメだ」
     アズールの隣に腰を下ろして、外気を纏って冷たい指先を包み込む。触れられることを嫌がられたら再起不能になっていたところだったけど、そうはされずによかったと内心ほっとした。
    「ねえ、もう一度僕と恋をして」
     祈るようにそう言った何とも情けなかっただろう僕と、柔らかく笑ったアズールの微かに色付いた頬の端は対照的だったに違いない。仕方がないですねという声にキスをして、洗濯ものが山積みになっている寝室を見られる前にどうにかしなければと頭の後ろで考えた。
    KazRyusaki Link Message Mute
    2021/11/17 10:43:39

    もう恋なんて、

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