【通販頒布中】五月雨の可愛い季語について本編 五月雨の可愛い季語について
「好意を寄せている女性に自宅にいてもらう代わりに寝食と金銭を提供することを条件として提示したところ、承諾していただけたので彼女を飼うことにしました」
隣に座っていた松井が噎せて口を押え、ガチャンと正面に座っていた村雲が持っていたグラスをひっくり返す。五月雨は手元にあった手拭きで村雲の溢した酒を拭いた。
「雲さん、服は濡れていませんか」
五月雨が聞けば、村雲はあわあわとしながらグラスを起こす。中身は空になっていた。
「ぬ、濡れてないけど。そういうときは彼女と同棲するって言ってよ雨さん、びっくりした」
「なんだ、そういうことか……焦ったな」
「おお、五月雨彼女がいたのか! 知らなかったなあ!」
何かを五月雨が言う前に松井が安堵し、豊前が明るく締めたために五月雨はそれ以上説明をすることができなかった。久しぶりに年の近い親族同士で集まっており、場が盛り上がっていてそれほどきちんと話ができる空気でもなかった。しかしまあ村雲の反応を見るに、有り体に伝えたのではあまり良い印象を得ないらしいと思ったので、ひとまず口を噤んでおく。落ち着いてから釈明しても別に構わないだろう。何か急いでいるわけでもないのだし。
五月雨は本当に、好いた女性を飼うことにしたのだ。もちろん合意の上である。
五月雨には昔から好きだった女性がいたのだが、その女性の方はと言えば自分にあまり興味がなさそうだった。とはいえ素っ気なかったり、嫌われている風ではない。彼女は小学校の同級生でかれこれ長い付き合いになるが、大人になった今も定期的に会って、互いの家を行き来する程度には交友がある。しかし恐らく彼女の恋愛対象の範疇に、自分はいないのだろうなと五月雨は予想していた。これまでそういう素振りを彼女が見せることはなかったからだ。
だから、と言ってしまえばかなり強引なのだが、彼女も自分もそれなりの年齢で、かつ彼女の方に縁談が持ち上がったという話を聞いて五月雨は行動を起こした。決定的な失恋となってしまう前に、五月雨は別な手段に出ることにしたのだ。
つまり、彼女を飼うことにしたのである。
「ただいま戻りました」
五月雨は今郊外の民家に住んでいる。そもそも五月雨はあまり人の多い騒がしい場所に住むことを好まないのだが、彼女を飼うことを決めたときにもう少し便のいい場所に越すことも検討した。けれど彼女の方がここでいいと言ったので、そのままこの家を使っている。一人で住むには広いよねと前に村雲が言っていた。
そうは言っても古い民家、五月雨が帰ってきた物音が聞こえたのか手前の襖が開いて彼女が顔を出す。それなりの時間だが、起きていてくれたらしい。
「あ、おかえりなさい。あんまりお酒の匂いしないね、本当に飲み会だった?」
「何事もほどほどが一番です。留守中変わりはありませんでしたか」
「何も。あ、でも宅配の人が来たかな。小包置いて行ったよ」
「手を洗ったら拝見します」
肩に提げていた小さい鞄を置いて、五月雨は洗面台に向かう。彼女の方は部屋に引き返した。茶でも淹れてくれるのだろうと思う。このやや古い家の良いところは、何となくお互いが何をしているのか壁の薄さなんかからわかることだ。
居間として使っている部屋に戻れば、やはり彼女はお茶を用意してくれていた。机の上にやや厚みのある封筒が置いてあったので、荷物とはあれだろうなと目星をつけ五月雨はそれを手に取る。
「お腹は? 空いてない?」
「それなりに食べてきましたので、大丈夫です。貴方は何か召し上がったのですか」
「あ、うん。五月雨が用意してくれたご飯食べたよ」
「それなら構いません」
封を切って、中を開く。献本だろうなと思っていたらやはりそうだった。一応中身を確認していると、彼女が傍に来て覗き込む。柔らかな髪の毛が五月雨の手に当たった。
「五月雨の書いた句が載ってる本?」
「ええ。以前出た旅のものです」
「読ませて」
「どうぞ」
冊子を手渡せば、彼女はそれを捲って読み始める。静かに紙を繰る音が心地よかった。
五月雨が現在、全国津々浦々旅に出てはその先で句を詠み、旅行記のような随筆を書くことで生計を立てている。それ以外にも何か依頼を受ければ文章を書く。不安定にも思えるが依頼が途絶えないためそれなりの収入にはなっており、そもそも華美な暮らしを好まない五月雨にはちょうどいい仕事だった。しかしこれからは依頼を多く受けるようにしようと思っている。本以外必要最低限の支出をしない五月雨の、初めての贅沢が彼女の飼育だからだ。
「珍しく南の方にも行ったんだね」
「はい。普段目にしない季語も多かったので、良い句が詠めました」
五月雨は写真を撮らない。その代わりに句を詠んでいるので、旅に出ても彼女に見せられるものはそれだけだ。彼女は紙面の文字を指でなぞりながらふふふと笑う。
「この花はどんな花だったの?」
「どちらでしょう」
至極目のいい五月雨は別にそのままで読むことができたのだが、体を傾けて彼女に寄せた。
「南の花でしたので、明るく鮮やかな色をしていて美しかったのを覚えています」
「流石にこの辺りには咲いてないよね」
「見かけたことはありませんが……もし花屋にあれば買ってきます」
そこまでしなくていいよと彼女が笑う。昔から彼女は何かを欲しがることはなく、五月雨が何かを与えようとするとそれを固辞するきらいがあった。けれど花ならば家に活けられる。この家に彼女も暮らしている以上、贈っても構わないものだろう。そう思って、五月雨はその花の名前を見つめた。
五月雨の書いた頁を読み終えたらしい彼女は冊子を閉じた。それを彼女の手から取り上げて、五月雨は本棚にしまう。
「ですが、次から宅配の呼び鈴には出なくても結構です。宅配は男性の方も多いでしょうから、私がいるときに出直させましょう」
「受け取るくらいできるよ。一日中家にいるんだから、気にしないで」
彼女はそう言ったが、五月雨は首を振った。
「いえ、ここは郊外で他の家からも離れています。何かあってあなたが声を上げたとしても、届かないでしょう。ですから結構です」
「そんなに気にしなくても」
「……いいえ」
肩を竦めた彼女の顎を下から緩く掴む。五月雨の手は大きいと前に彼女に言われたことがあったが、その手はすっぽり彼女の頤を包むことができた。上から彼女の顔を覗き込み、五月雨は念を押す。
「呼び鈴に出てはいけません。いいですね」
彼女は五月雨の手に指を伸ばしかけたが、やめた。
「……わかった」
「……お湯を頂きます。先に眠っていて構いません」
湯船に浸かりながら嫌なことは嫌と言っていいと、先に提示するべきだったと五月雨は少し反省した。だが彼女が一瞬だけ伸ばしかけた手が、触れられることへの拒絶の意味だったのか何なのか五月雨には判断しかねた。
旧い友人が些か一般常識から外れた人であることは彼女も昔から知っていたけれど、珍しく彼からの連絡を貰って会いに行ったとき「あなたを飼いたい」と言われたのには度肝を抜かれた。何を言われているのかさっぱりわからなかったが、五月雨はいつものいたく冷静な調子で淡々と続ける。
「衣食住は保証します。ほしいものがあれば買えるよう、金銭もお渡しします。収入が心配なようでしたら、こちらの預金通帳をご覧ください」
普通の喫茶店で通帳を差し出さないでほしい。五月雨がたまに茶目っ気を見せることは、昔からの友人である彼女も知っていたがこれは冗談には見えない。こういう笑えもしない冗談を五月雨は言わない。だから彼女はただその真意を図りかねていた。
「家事をしてくれる人が欲しいの?」
一番ありきたりな、家に女性がいてほしい理由を彼女は挙げた。もちろん家事は男女平等にするべきだが、仕事柄家を空けることの多い五月雨である。そういうこともあるかもしれない。それで身近な友人である自分に頼んだとか。
しかし五月雨はただ首を横に振った。
「いいえ。家事は自分でできます。食事も、あなたの分は私が作ります。洗濯のみ、気になるでしょうからご自分でしていただければ。それ以外は私がします。ですから家では何もしていただかなくて結構です」
……それじゃあ、女の人に困っているとか。
流石に下世話で口には出せなかったが、彼女が考え付く理由としてはそのくらいしかなかった。けれどそれも可能性としては低い。女性相手に会話が弾むというタイプではなくとも、五月雨に好意を寄せる女性がこの年月の間それなりにいたことは彼女もわかっている。それを五月雨自身がどう思っていたのかは、知らないが。
だが聡い五月雨は彼女が口を噤んだ理由を察したらしい。顔色一つ変えずに、淡々と答えた。
「あなたの嫌がることはしません。あなたが希望するなら、鍵のかかる部屋がある建物に引っ越しても構いません。ご存じかもしれませんが、生憎、今の私の家にはそういう部屋がありませんので」
「い、いいの、そこまでしなくても、いや、でも」
何を考えて、「飼う」だなんて。一緒に暮らしたいという希望はわかったが、これがごく一般的な愛の告白でなさそうなことは彼女にも理解できた。五月雨は彼女に条件を提示して、それを呑めるなら家に来てほしいと言っている。家事はしなくていい、嫌がることはしない、ただ五月雨とそこで暮らすだけだというなら、確かに「飼う」という表現がちょうどいいのかもしれない。
けれど、なぜ。どうしてそんな言い方をする。
「……あなたが結婚して、家庭に入るかもしれないと聞きましたので」
涼やかな、菫色をした瞳が少しだけ陰る。
確かにそういう話はあった。まだ返事はしていない。五月雨がどこからそれを聞きつけてきたのかもわからなかった。彼女の両親と五月雨の両親の間にも交流があるから、そこからかもしれない。それにしては耳が早いことだ。
少しの間、彼女は考えた。差し出された預金通帳が生々しいなと思いつつ、それは指で押し返す。こんなものはいらない。
「……わかった。五月雨の家に行く」
……不意に目が覚めて瞬きを数度繰り返す。黒いTシャツの襟が見えた。五月雨の胸元だ。まだ夜明け前のようだった。古い木の家だからだろうか、この家の早朝は空気が澄んで気持ちがいい。
枕は彼女に譲って、五月雨は自分の腕を枕にして眠っている。静かな、凪いだ海のような寝顔だった。旅をして歩くからだろう、しっかりと鍛えられた腕が彼女のことを包むように抱きしめている。
前に一度、猫のようで困ると言われたことがあった。
「あなたは猫のようで、困ります」
「あはは、困るって何? 猫は嫌だった?」
以前一緒に公園だかどこかを散歩していたときだったか。五月雨の少し先を歩いていた彼女が振り返って聞けば、五月雨は瞳を緩めて答えてくれた。
「気まぐれにどこかに行かれては、困ります。家に帰れば待っていてくれる犬の方が、私は好きです。……ですがあなたが嫌なのではありません」
猫が困るからと言って強制的にこちらを飼い犬にするのもどうなのだろう。彼女は額をTシャツの胸元に寄せる。
キスも、当然それ以上のことも五月雨はこちらに強要しない。眠るときに、嫌でなければこうして抱きしめさせてくれればいいという。そんな風に大切に、かつ大真面目に五月雨は彼女の世話をして飼ってくれているので、ひとまずは。
彼女は、この五月雨の住む古い民家で飼われている。
「おはようございます、食事の時間です」
「……ん」
「まだ寝ていたいのですか? 私は食事を摂ったら仕事に出ます」
揺り起こすのは憚られたので、五月雨はもう一度彼女に声を掛けた。彼女の寝起きがそういい方ではないというのは、彼女を飼い始めてから初めて知ったことだ。ここに来る前はどうしていたのですかと五月雨が聞けば、「無理矢理起きてた」と苦笑しながら彼女は答えた。
まだぼんやりしている顔で、彼女はゆっくり起き上がった。着ているTシャツの首がやや広いのが気になったので、五月雨は今度寝巻を買ってくることにした。
「あさ……?」
「はい、朝です。おはようございます。食事の時間です」
「うん……」
「居間にいてください」
君起こし、青き炎に鍋掛ける。……捻りも何もないだろうか。
そう思いつつ五月雨は寝室を出て、台所で味噌汁を温めてよそった。彼女は朝に弱いうえに食事を軽くしか摂らない。とはいえきちんと食べてほしいので、徐々に徐々に量を増やしている。彼女がそれに気づいているかどうかは知らない。
五月雨がそれらを居間に持っていくと、彼女も大抵起きてそこにいる。顔を洗って着替えるとやっと意識がはっきりしてくるのか、その頃には彼女も茶碗や箸を用意していることが多い。
「朝ごはんありがとう、おはよう五月雨」
「ええ、おはようございます。どうぞ召し上がってください。いただきます」
「いただきます。五月雨、今日は一日仕事?」
両手を合わせてから箸を取り、彼女が尋ねる。五月雨は首を振った。
「いいえ。仕事の話を聞きに行くだけなので、昼過ぎには終わると思います」
「じゃあ今日は天気もいいし、私、どこか近くまで出るから少し散歩しない?」
「します」
食い気味、と彼女がくすくす笑った。しかし散歩は大切だ。彼女の健康維持も、今は五月雨の責務である。
「いってらっしゃい」
「はい。ではお待ちしていますね」
「うん、あとでね」
鍵は五月雨がするからといつも言っているので、彼女は玄関の引き戸だけ閉める。五月雨はこれまであまり家の施錠に頓着していなかったが、今は彼女がいるのだからそうはいかない。きちんと鍵を回し、扉が開かないのも確認してから五月雨は家を出た。
五月雨は現在、作家や俳人としてどこかに所属しているわけではない。完全にフリーで来た依頼に応える形で仕事を引き受けている。だが旅行記を出している出版社がそう数があるわけでもないので、結局は決まった何社かに顔を出していることが多い。今日はそういう依頼主のうちの一つから連絡があったので来た。
社の応接室で少し待っていると、シャツやスラックスを着崩した男性がゆるゆるとした様子で入ってくる。
「五月雨はん、わざわざ来てもらって悪いですなあ。自分がそっち行ってもよかったんですけど」
「いいえ。外に出るのは嫌いではありませんから」
本当はこの関西訛りの担当編集者から自宅に行くと連絡があったのだが、それは辞しておいた。五月雨は外を歩くのが好きだし、今は彼女がいる。仮に自分がいるときの来訪でも、五月雨は住んでいる古民家に普段若い女性がいるのだとあまり周囲に知られたくなかった。何があるかわからないし、五月雨も常に家にいるわけではない。
担当は容器に入ったお茶と一緒に五月雨に企画書を出してきたので目を通す。いつも通りの原稿依頼だった。
「ちょうどうちの雑誌で北の方の特集することになりましてなあ。五月雨はん、北好きでっしゃろ、寄稿をお願いしたいんですわあ」
ぺらぺらと趣旨だの文字量だのが書かれたものを捲る。この出版社の雑誌にはもう何度も寄稿している。慣れているし断る理由もない。そんな普段と変わらない仕事に思えたが、五月雨はふと手を止めた。
「……取材期間が長いように思えるのですが」
「あれ、長いですか? 五日ですから、五月雨はんにしてみたら普通かと思いましたけど」
「五泊六日、ですか」
五月雨の普段の仕事にしてみれば、確かにそれは平均的かむしろ短いくらいのものだった。だが、しかし。五月雨は捲っていた書類を戻して鞄にしまう。
「返事は急ぎますか」
「おやあ、いつも通り即答してもらえへんのですか? どっか条件悪うなってましたか。多少なら値段の方も交渉してきてもええですよ、五月雨はんに書いてもらえんで困るの自分なんで」
「いえ、特にそういうわけではないのですが」
五日も家を空けるのが気がかりだ。今少し考えたい。担当はふうんと言いながら掛けていた眼鏡をずり上げる。
「なんやペットでも飼い始めたんですか? 他の編集にも五月雨はん、最近家にいることが多いて聞きましたけど。犬でも飼って可愛がってるとか?」
ペット、と表現するのは正しくないしそうしたくはない。まあ、可愛がっているという意味で愛玩はしているが。
「近くはありますね」
だがまさか好きな女性を飼い始めたと言えなかった五月雨は、曖昧に誤魔化して書類を持ち帰る。少し先の号の話だったため、返事は待ってもらえるらしい。けれど、家を空けるなら長くても二泊三日程度で留めたい。それに彼女が来てからはそのくらいの旅もしていない。旅はしたいが、しかし……。
「五月雨」
出版社を出て暫く歩き、彼女と待ち合わせている場所に向かう。ひらりと彼女が五月雨に手を振った。伝えていた時間より早いが、もう来ていたらしい。五月雨は速足でそちらに駆け寄る。
「すみません、お待たせしました」
「ううん、家を少し早く出ただけだから。ゆっくり歩いて来れたし」
「私のいない間に誰かに絡まれませんでしたか」
「立ってただけだから大丈夫だよ。特に行くところもないから寄り道もしてないし」
くすくすと彼女が笑う。いい日和で暑かったり寒かったりもなかっただろうけれど、何もなかったならよかった。
「そうですか、いい子ですね」
五月雨が何気なくそう言うと、彼女は笑いながら首を傾げた。
「そんな、ワンちゃん褒めるみたいな」
「……すみません、そんなつもりはなかったのですが」
彼女を飼ってはいても、犬扱いするつもりはない。しかし彼女はそこまで気にしなかったのか、先に足を進める。この辺りにはちょうど以前から彼女とよく散歩をしていた庭園がある。五月雨のよく向かう出版社は地理的に密集していてその近くだったから、ここなら顔を合わせやすかったのだ。
平日の昼下がりで、庭園にはさほど人がいなかった。代わりに花が盛りで、気持ちのいい風に揺れている。ほうと五月雨は息を吐く。
「いい天気」
「ええ、本当に」
「前からよくこの公園来てたけど、なんだか久しぶりだね。五月雨小さい頃から歩くの早くて、すぐどっか行っちゃって。そう言えば雲さんは元気?」
親しい、というほどのやりとりはしていなかったと思うが、五月雨と一番仲の良い親戚の村雲江と彼女も面識はある。雲さんに彼女のことをちゃんと説明をできていないと思い出しながら、五月雨は頷いた。
「ええ。先日会いましたが、元気そうでした」
「昔はしょっちゅうお腹壊してたね。具合悪くても雲さんは頑張って五月雨について行ってたのに、五月雨は何かに夢中になっちゃうと全然気が付かないんだから」
五月雨と村雲と五月雨と三人で、この庭園に来たことも何度かある。そこそこ広さもあって、植物が多く植えられているこの庭が五月雨は好きだった。だからよく句を読んでいて夢中になって歩いて、彼女の言う様にそれを慌てて村雲が追いかけてくることもよくあったけれど。
「……あなたは私を追いかけては来ませんでしたね」
村雲は確かに「雨さん、雨さん」と後ろからついてくる。だが彼女は仮に五月雨が一人でどんどん歩いて行ってしまっても、一緒に来ることはなかった。五月雨が句を詠むための季語を追っている間は、彼女もまた別なことをしていることが多かった。それどころか五月雨がいつの間にか自分一人で歩き回っていることに気づいて戻れば、彼女がいなくなっていることも。
「その度に肝が冷えました。いたと思った場所に戻っても姿が見えなかったので」
「だって五月雨の足に私がついて行けないんだもの。男の子みたいに岩場とかを登ってはいけないし。真っ青になった五月雨がたまに走って東屋の方まで来てたね」
明るく笑いながら彼女がちょうど傍にあった東屋を指す。笑い事ではない。五月雨は本当に焦ったのだ。彼女に何かあったらどうしようと。けれど彼女ときたら、五月雨がそうして駆けつけても大抵けろっとして「もう旅はいいの?」なんて別なことをしているのだから参ってしまう。表情が変わりにくいだけであって、自分が心底心配したり慌てたりしていることを彼女は恐らく知らない。
気まぐれな猫のようで困る。そう彼女にも言ったことがある。
「あなたがついてきたいと言ってくださったら、今は私ももう少し考えます。もう子どもではありませんから」
彼女はそう言った五月雨を見つめた。それから悲しんでいるような、迷っているような表情で笑うと首を振る。
「いいの。五月雨が行きたいところに好きに行くのが一番いいんだから。私も、その間他のことしながら待つくらいできるし。大人ですから、ここに居るって言うよ」
「……」
五月雨は何も返せなかった。ただ手を取ろうと彼女の方に腕を伸ばしかけて、やめる。彼女の嫌がることはしないと、彼女を飼うときに約束した。必要以上の接触はしない。五月雨が今彼女に許されているのは、彼女を飼うことと、寝るときに嫌でなければ抱きしめさせてもらうこと。それだけだ。
「それでお仕事の話、どうだった? またどこか行くの?」
またそうして歩いていると、五月雨を見上げて彼女が尋ねる。
「打合せでしたので、話だけ伺ってきました」
「返事しなかったの?」
「他の仕事と調整したかったので」
というのは方便だが、調整したいのは確かだ。五泊というのがやはり気になる。
「前は仕事でこっちいないことの方が多かったのに、最近ずっといるじゃない」
「いけませんか」
まるで五月雨がいない方が当たり前のような言い方をされたので、五月雨はむっと彼女の方を覗き込む。彼女は肩を竦めて首を振った。
「いけなくはないけど。五月雨は旅に出てる方が好きなんだし」
「ですが今はあなたも家にいます」
「私だって一人で生活くらいできるよ」
それはそうだろうけれど。五月雨が黙ってただ歩き続けていると、彼女も困ったように続ける。
「いいよ、行っておいでよ。五月雨も旅は好きでしょう? ……それに飼い主さんにちゃんと働いてもらわないと私も困るよ」
冗談めかして彼女が言う。飼い主、と五月雨は心の中で繰り返す。
「……考えておきます」
「うん。あ、ほら見て五月雨、藤棚が満開だよ」
軽く駆けて彼女は五月雨に藤棚を指し示す。以前は五月雨も彼女もあの垂れる紫の花よりも背が低く、藤を見上げるばかりだった。けれど今は、彼女が下に立ってしまうとその姿が隠れる。ゆら、ゆらと風になびく衣服しか見えなくなる。
「……来る春も留めおきたし藤の花」
「五月雨?」
花の隙間から顔を出した彼女が自分を呼ぶので、五月雨は首を振った。
「いえ。そう言えばお昼は食べましたか」
「ううん」
「いけません。何か食べましょう、向こうに団子屋があります。旅先でその地のものを食べるのも季語ですよ」
少なくとも、今の彼女は五月雨に飼われている。彼女にも五月雨が「飼い主」だという認識がある。ならば以前のように勝手にどこかに行ったりしないだろう。気まぐれに、五月雨の前からいなくなったりはしないだろう。
だからそれでいい、今は。そうしてほしくて、五月雨は彼女を飼っている。
「じゃあ帰りに駅前のたい焼き買って帰りたい。五枚買うと安くなるよ」
「夕飯もきちんと食べてくださるなら。それから、あなたの寝巻を買わせていただけますか。今着ているものは首が空きすぎています」
手を繋ぐことができなかったので、五月雨は彼女とほんの少しだけ距離を保って歩いて帰った。
日帰りではやはり限度がある。けれど二泊三日以上の旅に出るのにはまだ躊躇いがあった。まだ彼女が家に来て日が浅い上に、五月雨の住む古民家は郊外だ。何かあっては困る。だからまず二泊三日、と思ってはいるのだが。
「ただいま戻りました」
「おかえりなさい」
台所の方にいたらしい彼女が奥から出てくる。カラカラと音を立てながら五月雨は家の引き戸を閉めた。風情があってこの音は気に入っている。
「変わりありませんでしたか」
「何も。何もなかったから水回り掃除してたとこ」
「それはすみません、手数をかけました」
「ううん、平気」
流しで手を洗い、五月雨はそのまま調理器具を取った。夕飯を作らなくてはならない。あとをついてきた彼女が、困ったように眉を下げて言う。
「五月雨、いつも言ってるけど、家にいるんだから夕飯くらい私が作るよ。それに五月雨だって忙しいんだから、わざわざ朝も昼も用意して出て行ってくれなくていいから」
「いいえ。あなたに来ていただくときに、衣食住は保証すると約束しましたから」
「十分保証してもらってるよ」
米……は今朝炊いた分がある。汁物と、何か作るのがいいだろうか。彼女が棚から味噌を取ろうとしたので、五月雨はそれを手で制した。
「いけません。居間にいてください」
「……はい」
やや不服気に彼女は居間に戻っていく。勘違いしないでほしいのだが、五月雨は彼女に食事を作るのが好きでこうしているのだ。料理は元々嫌いではない、畑で育った季語を五月雨の手で調理することは好ましい。それを彼女が食べると言うのであれば、嬉しいことはあっても面倒なことはない。
とはいえお腹を空かせている彼女を待たせるわけにもいかないので、手早く五月雨は夕飯を用意して持って行った。食卓は彼女が拭いたり皿を用意したりしてくれていた。
「明日から二日留守にしますが、大丈夫ですか」
食事を摂りながら言えば、彼女はこちらを見て頷く。
「うん、仕事でしょう? 平気」
「冷蔵庫の中は買い足したつもりですが、出かけるなら日が出ている間にしてください。それから宅配の方が来ても出なくて構いません。誰か来るとは思えませんが、他に呼び鈴や電話が鳴っても出なくて結構です」
「わかってる、わかってる。それより、二日でよかったの? 五月雨、前はよく結構長い間仕事に出てること多かったよね」
以前から旅に出ている間は、彼女にはよく絵葉書を送った。それで彼女も、五月雨が全国津々浦々どこにでも行くことを知っている。五月雨は首を振った。
「そういう仕事が最近多いだけです」
「本当に?」
「本当です」
まあ、遠方の仕事を蹴っているだけだが。彼女は腑に落ちない表情をしていたが、五月雨は素知らぬ顔で受け流した。だが二日家を空けるのも、多少気がかりではある。
「何か変わったことがあれば連絡してくださいね」
「でも五月雨、スマホ嫌いじゃない」
「……あなたから連絡があれば取るようにはします」
ふふと彼女が味噌汁を啜りながら笑う。彼女の赤い箸は、彼女がここに来たとき五月雨が買ったものだ。
「薄桃の、指先握る赤き箸」
「え?」
「いいえ。ごちそうさまでした」
片づけは一緒にすると彼女が言ったので、五月雨と彼女は流しには並んで立った。料理は譲りたくなかったが、これは悪くないなと五月雨は思った。
「……おや」
家を出て三日目、五月雨は帰りの電車の中で声を上げた。旅はまずまずで、いい句も詠めた。距離があまりなくて物足りなかったのは仕方がない。二泊で帰れて巡れる場所ともなれば限られてくる。それはいいとして、帰りの電車に乗ったことを彼女に伝えようとポケットから携帯を取り出したのに、それはウンともスンとも言わなくなっていたのだ。充電をし忘れていたのである。
普段全くと言っていいほど使わないので、そこまで気が回らなかった。仕事のやり取りや原稿を書くのでパソコンは使う。けれど携帯は音が鳴ったり震えたり、落ち着かないので好きではない。しかも彼女もそれを知っているので、五月雨には滅多に連絡してこないのだ。
「……いつから、切れていたんでしょう」
昨日の夜は光っていた気がする。出版社の担当からの連絡だったので見なかった。でもそのあとは見た記憶がないのでわからない。
困った。いや、以前の彼女が電話や何かを送ってくることは殆どなかったが、今の彼女は五月雨に飼われている身だ。家で変わったことがあって、連絡してくるとしたらこれ宛になるのである。
「電源、はありませんね」
辺りを見回したがそれらしいものはない。繋ぐコードは持っているのだが、これでは仕方がない。
迂闊だった、五月雨はやや唇を噛む。こうなると急いで帰るほか五月雨にできることはない。もう少し早く帰れる電車にすればよかった。とりあえずもうただの薄い板になっている携帯をしまって、五月雨は窓の外を眺める。景色が流れるのが遅い。
……こういう時に限って、何かあったら。否が応でも思考がそちらに向いてしまった。いや、何かある可能性の方が低いのだが、そうは言っても。何となく五月雨は巻いているストールを口元にずり上げる。物取り、不審者、それから。
いや何より、彼女が五月雨のいない間に家を出て行ってしまっていたら。
「……」
いてもたってもいられなくなって、駅まで着くと五月雨はタクシーを捕まえた。家までの道を歩くのが好きだけれど、そんなことを言っている場合ではない。料金を言われたが、五月雨は適当に財布からお札を抜いてタクシーの運転手には渡した。
五月雨の住む古民家は、周囲に樹木が生えている。それが気に入っている理由の一つだけれど、おかげで外から全く家の様子がわからない。玄関まで来ては見たが、明かりもついていなかった。駅前の街灯はもう点灯している時間だ。
「っただいま、戻りました」
ガラガラといつもより大きな音を立てて引き戸を開く。廊下が暗い。奥にも誰かいる様子がない。靴を脱ぎ捨て荷物を放って家に上がる。玄関の明かりをつけている余裕もなかった。
居間の襖を開ける。誰もいない。五月雨は踵を返した。あまり部屋数のない家だ。居間にいないなら、あとは五月雨の書斎か、寝室か。寝室の方をまず開いたが、こちらも暗く、布団も畳まれている。
「いないのですか」
声を上げたが、返事がない。五月雨はハッとして先ほど玄関に放り出した鞄のところに戻った。携帯、電源を入れれば何か。
「……五月雨?」
鞄の口を開けてひっくり返そうとしたとき、襖の滑る音がして弾かれたように五月雨は顔を上げた。まだ確認していなかった、五月雨の書斎から彼女が姿を現す。目をこすっていた。
「い、たんですか」
「やることがなくて寝ちゃった……ごめん、帰ってきてたんだね」
電気を、だとかいやどうしてそこにだとか、様々な言葉が五月雨の思考をめぐる。けれどそれを口にするより先に、五月雨は立ち上がって彼女の元に駆け寄っていた。
「う、わっ、何? 五月雨? 何?」
勢い余って彼女がバランスを崩す。畳の上に倒れこむようにして五月雨は彼女を抱きしめた。
「何? どうかした? 具合でも悪い?」
困惑した風で彼女が五月雨の肩を叩いたが、五月雨の頭はまだ整理がついていなかった。何から言えば、ああそうだ電気。
「明かりがついていなかったので、何かあったのかと」
「いやだって、料理も何もできなかったから。五月雨の本読んで寝ちゃってた」
「携帯の充電を忘れていて」
「一度も連絡してないから大丈夫だよ」
はあと息を吐く。いや、大丈夫ではない、何も。
「一日に一度、連絡をください」
「え? 五月雨スマホは見ないと思って。今までそうだったし……」
「次からください」
脱力したら彼女が重いのはわかっているのだが、しかし。安堵してやや力が抜けた。額が僅かに汗ばんでいるのがわかる。走ってないないのに。
「……物言わぬ、画面を見やりて君思ふ」
「画面見ないくせに……」
確かに見たのは今日になってからだが、それでも。次から必ず確認するようにする。起き上がって夕飯の支度をしなければと五月雨の頭の冷静な部分はそう言ったが、彼女を抱きしめたまま五月雨はしばらくそうしていた。
ああそういえば、ペットを飼い始めたのだと勘違いした担当が何か勧めてきた。彼の家には小さい子どもがいるとかで、気になったとき便利だとかで。
「あなたを犬扱いするつもりはありませんが、居間にカメラでも置きましょうか」
小さく呟けば、彼女がくすくすと笑う声が耳元で聞こえた。
「一日に一回それに手でも振ろうか?」
「……考えておきます」
やることがなくて寝落ちられるのと、料理を譲るのどちらがいいだろう。彼女と横になりながら五月雨は考えた。
……どうやら今は本を読んでいるらしい。
帰路に就いた五月雨は携帯の画面を見つめた。そこには頬杖をついてページを捲っている彼女が映っている。それは五月雨の家の居間の棚に置かれたカメラが送ってきている動画だった。監視しているようで実際に設置するのにはやや躊躇いがあったけれど、あったらあったで安心できる。彼女のほうもこちらに気づいたのか、カメラの方を向いて笑うとひらひらと手を振っている。五月雨がこれを起動すると、微かにだが稼働の音がすると言っていた。
無論、遠隔で見られるカメラが置いてあるのは居間だけだ。だから彼女には気が向かなければその前にいなくていいと言ってある。だから不意につけると彼女がいないときもたまにあったが、そういうときはカメラに映る位置に「昼寝」だとか「掃除」だとか書かれたメモが置かれていた。
カメラの画面を閉じて、帰りますと彼女に連絡する。彼女からはお疲れ様と返事があった。煩わしいが、やはり携帯は便利なのである。
「何か食べたいものはないか聞きましょうか……」
ぼんやり五月雨は呟いた。
ついでに担当編集から、そろそろ五泊の取材に出られるか返事が欲しいと連絡が来ているのを見た。どうしようか五月雨はまだ考えあぐねている。
毎日決まった場所に出勤するような職に就いているわけではない五月雨だが、朝は規則正しく起きて本を読んだり原稿をしたりする。五月雨の家には必要最低限のものしかなく、テレビもないし、家財も多くはない。その代わりにあるのが本だ。
「お昼にしましょう、いい時間ですから」
書斎から出て、居間を見ると彼女が雑誌を捲っている。顔を上げた彼女はうんと返事をして立ち上がった。最近は少しだけ食事の仕度を手伝ってもらうことにしている。台所に向かう前に、彼女が思い出したように横に置いていた本を取り上げた。
「五月雨、あとでいいんだけどこの本の続きがどこにあるか教えてくれる?」
「私の部屋にあります。取って行っていいですよ」
「ありがとう」
続きが知りたかったのに、雑誌を読んでいたのだろうか。五月雨はそこまで考えて、ああと思い至った。
「いいんですよ、私が何かしていても書斎に入ってきて」
「でも音がしたら気が散らない?」
「いいえ。そういう物音に耳を澄ませているのも好きですから」
昼食を用意して、二人で食べる。後片付けも二人でした。それからまた発句に五月雨が戻ろうとすると、彼女は居間に入ろうとするので五月雨はそれを呼び止める。
「本はいいのですか」
「やっぱりそっち行ったら気にならない?」
「いいえ、こちらにいてください」
はっきり「いてください」と言えば、彼女は書斎まで来てくれた。五月雨は本棚をなぞって、彼女が探していた本を手渡す。
「これですね」
「ありがとう。それにしたって五月雨の家は本が多いね」
「退屈ですか?」
「ううん。読んだことないのばっかりだから、むしろ退屈しないよ。暫く読み切れないくらいあるし。じゃあ大人しくしてるから、邪魔だったら言ってね」
彼女が壁に寄り掛かって本を読み始めたので、五月雨もまた短冊を持って書斎に面している縁側に座った。壁も薄く部屋数もさほどない古民家であるが、五月雨はこの縁側と居間の開けた窓を気に入っている。場所が郊外だから騒音からは縁遠く、風通しもよい。庭には元々植わっていた植物が花を咲かせる。句を詠むには大変良い環境だった。ふうと一つ深呼吸して、五月雨は目を閉じ耳を澄ませる。句は考えようと思って浮かんでくるものでもないし、こうして待っている時間の方が多い。
そうして暫く五月雨がたまに鳥が囀る音や近くを通ったらしい子どもの声を聞いていると、パタンとすぐ後ろから物音がして五月雨は目を開けた。郵便、にしては音が近い。振り返ると、うつらうつらしたらしい彼女が眠たげな瞳で髪を耳に掛けている。本が畳の上に落ちた音だったらしい。
「眠たいのですか」
「ん……五月雨の近くにいると時間が流れるのがどうもゆっくりで」
「遠慮せず眠っていいですよ」
五月雨がそう言えば、彼女が本にしおりを挟んで腰を上げかけた。
「どちらに」
「布団敷いちゃうと本気で寝ちゃいそうだから居間かな」
「ならここで構いませんよ」
「え?」
縁側、では板敷きでよくない。五月雨は机の辺りまで戻った。部屋は開け放ってあるから、少し室内に戻ったくらいで季語は遠ざからないだろう。正座をして、五月雨は自分の膝を軽く叩く。
「こちらへどうぞ」
「本気で言ってる?」
「ええ」
膝は固くないだろうか、五月雨はやや考えた。気温的に何かを掛けなくても風邪を引いたりすることはないだろうけれど。だが一応と巻いていたストールを解く。
「これでは枕か布団には少々役不足でしょうか」
「いやそうじゃなくて」
「もちろんお嫌でしたら、結構です」
彼女は少々迷ったようだった。しかし五月雨がただその体勢で待っていると、根負けしたようで上げかけた腰を戻して横になる。五月雨の手に収まりそうな頭が膝の上に乗った。五月雨の腹の方を向いて彼女は目を閉じる。
「固くありませんか」
「……大丈夫」
「そうですか」
ならばと五月雨は持っていたストールは彼女の肩に掛けた。落ちないように首元にそれを引き寄せてから、気になったので聞いてみる。
「頭を撫でてもいいですか」
「いっ、いちいち聞かなくていいよ」
「ですがあなたの嫌なことはしないと約束しました」
瞼を開いた彼女が目の縁を赤くしてこちらを見る。それから五月雨の手を掴み、自分の頭に持って行った。やはり手のひらにはすっぽりと彼女の頭が入ってしまう。
「……この間は焦って人のこと畳に押し倒したくせに」
「……その節は失礼しました」
緩く彼女の髪を梳きながら頭を撫でる。するするとした絹糸のような感触が気持ちよかった。いい句が詠めそうだ。
「五月雨の家に来てから昼寝する癖がついちゃった、どうしよう」
抗議するように彼女が呟いた。五月雨はその声音は気にせずに彼女の頭を撫でながら答える。
「構いませんよ。一人のときはきちんと戸締りさえしていていただけたら」
「いや駄目だよ、どんどん堕落して駄目になっちゃう……」
困ったように彼女は目を閉じたけれど、五月雨にはそう問題には思えない。首を傾げて体を倒し彼女の顔を覗き込む。
「何故いけないのでしょう」
「えぇ? ここで五月雨に甘やかされて暮らしてたら何もできなくなるよ。十分だめでしょう」
ふむ、と五月雨は考えた。それで自分は全く構わないのだが……と思いつつ、それでは彼女が納得しないだろうから五月雨は言い方を変えることにした。
「私の言うことを聞けていい子ですね」
「えっ」
撫でている手のひらでわかるほどに、彼女の首のあたりの温度が上がった。流石に気を悪くしたかどうか五月雨は考えたけれど、彼女は五月雨の膝に俯くようにして頬を寄せる。
「……五月雨の言い方は狡い」
思わずふふと笑いが零れた。彼女に触れていない方の手で口元を押さえると、彼女は顔を赤くしたまま五月雨の腹の辺りを軽く叩く。彼女が頭を動かすと、自然と五月雨の指の間を髪が通り抜ける。
「なんで笑ってるの」
「いえ、それは褒め言葉ですね」
「どうして」
「いいえ、いい子ですよ、あなたは。とても」
狡いとて赤く染まる絹糸や。机の上に手を伸ばし、五月雨は鉛筆で紙に書きつける。カツカツと木の机を鉛の芯が叩く小気味よい音がした。
「前は気まぐれな猫みたいで困るとか文句言ったくせに……」
彼女がぼやくので、五月雨はまた笑った。
「覚えていたんですね」
「覚えてるよ、しかもその後に犬の方が好きだとか言われて。私だって犬の方が好きだよ」
「ふふふ、それはよかった」
ポンとまた一つ腹を叩かれた。鉛筆を離し、その手を上から覆う。爪が小さいと五月雨は思った。
「今度は触っていいか聞かないの?」
こちらを見上げて彼女が聞く。
「……お嫌でしたか?」
こういう言い方が狡いと言われるのだろうか。けれど五月雨が包んでいる彼女の手が向きを変えて、五月雨の手を握る。彼女のものと比べて節だった自分の手が痛くないか五月雨は気になった。
嫌なのかそうでないのか彼女は答えなかった。代わりにじっと五月雨の方を見ている。彼女は、五月雨が彼女を飼いたいと言ったときもどうしてなのか聞かなかった。今まで一度も、それを問い直したりしない。だから五月雨も本当は彼女が何をどう思ってここにいるのか知らない。
「雨さーん、いる? いつも携帯出ないんだから」
「五月雨さん、こんにちは」
ガラガラと玄関の開く音がして五月雨はハッとした。村雲の声だ。
「わっ」
「っ」
それに驚いたのかいきなり彼女が起き上がったので、ガツンと五月雨と彼女の額がぶつかる。痛い、いや、彼女も頭を打っている。
「……すみません、大丈夫ですか」
「いった、いや、そうじゃなくて、お客さんが」
「雲さんですね」
五月雨は痛みからの復帰が早かったので、立ち上がって書斎から顔を出した。玄関に村雲と篭手切が立っているのが見える。
「雲さん、篭手切」
手に何やら大きめの荷物を持った村雲と篭手切がこちらに気づいた。五月雨は後ろ手に彼女にここで待つよう示して、書斎の襖を閉める。
「あ、いたいた。また旅に行っちゃったのかと思ったよ」
「急にすみません。桑名さんが取れた野菜のお裾分けがしたいと言っていたので持ってきました。それからその」
「雨さん、彼女と暮らし始めたのに何のお祝いもしなかったから。でも急に皆で押しかけても彼女が驚くかもしれないしと思って、俺と篭手切だけ先に来たんだ。雨さん相変わらず携帯かけても出ないんだから、家にいてくれてよかったよ」
ということはこれから同年代の親戚が皆家に来るのか。どうぞ、と言いながら五月雨は彼女のことをどう言おうか考えた。
「親戚にはただ一緒に暮らしていると思われているので、そう言うことにしてください」と五月雨に言われ、彼女はそれはそうだろうなと思った。それ以外取り繕いようがないだろうなとも。
普通、誰かに「家で女性を飼っています」とは言いづらいだろう。
「やっぱり君だと思った。雨さんが一緒に暮らす女の人なんて他に思いつかなかったし。でもまだ連絡取りあってたんだ」
「うん、たまにね。雲さんはいつぶりかな」
彼女も村雲とはかなり久しく会っていなかったので、親し気に言ってくれる村雲にはそう笑っておいた。村雲とは中学校までは同じ学校に通っていたけれど、高校からは別々。他に来ている四人の親戚に至っては初対面である。
「ほーか、俺たちは五月雨と村雲とは通ってた学校が違ったから知らなかったなあ!」
「五月雨自体あまり家にいないからね。ここ防犯とか大丈夫なのか、五月雨。女性がいるのに古い家で」
「来たときも玄関開けっぱなしでしたよね、五月雨さん」
「最近は家にいますよ」
なんでも村雲以外の親戚は兄弟らしく、五月雨には上から豊前、松井、今は台所に行っている桑名、末っ子が篭手切と紹介された。タイプが全然違う四人だなあと彼女は思う。五月雨もかなり個性的だが、親戚もやはり然りというか。
いつもより格段に高い人口密度に彼女が目を白黒とさせていると、ずいと大きな手が彼女に汁物の入ったお椀を差し出す。三番目の桑名だ。
「はい、たくさん食べてね」
「あ、ありがとうございます」
「ううん。いっぱい食べてもらえた方が野菜も喜ぶよお。五月雨、お椀もうない? 戸棚に全然お皿ないから」
「しまってあったと思いますが」
五月雨が立ち上がったので、居間には親戚一同と彼女が残される。若干心もとない。彼女は村雲だって最近何をしているのか知らないくらいなのに。
「雨さん、最初君のこと飼うことにしたとか言うから俺たち驚いたんだよ」
知らない人の中にいるのを気遣ってくれたのか、隣に座っていた村雲が彼女にそう教えてくれる。つい肩を揺らしそうになった。言ったのか、そんな包み隠さず。彼女がぎょっとしたと思ったのか、松井が苦笑しながら口を開く。
「言っていたね。僕も驚いた」
「五月雨さん、そういう冗談を言う方ではありませんから。嘘なんかも仰いませんし。……でも仲良く暮らしていらっしゃるようで私は安心しました!」
篭手切が彼女にどうぞと飲み物を渡しながら言う。そう、五月雨はそんな笑えない冗談は言わない。嘘もつかない。
だから今日、五月雨は彼女のことを「一緒に暮らしている女性です」と紹介した。そのとき一瞬だけ、この松井と篭手切だけは何か引っかかったような不思議そうな顔をしたのに彼女は気づいていた。彼女を表す言葉は「恋人」ではない。「一緒に暮らしている女性」なのだ。
側にあったメモを取って、松井がいくつか番号を書きつける。ピッとちぎられたそれは彼女に渡された。
「五月雨がいないとき、困ったら僕らのうち誰かに連絡して。五月雨は仕事柄家にいないことも多いだろう」
「近頃はいますよ」
彼女にどうぞと果物を出しながら戻ってきた五月雨が座る。メモには五人分の電話番号が並んでいる。汁物を啜っていた豊前が顔を上げた。
「そういや最近五月雨は遠出しねえって聞いたな、仕事頼んでんのにって」
「誰からです」
「明石が言ってたちゃ、この間ちっと会ったとき」
聞いていない、なんだその話は。彼女は五月雨の顔を見たが、五月雨はただきちんと背を伸ばして夕食を摂っている。
「気が向かなくて迷っていただけです」
「……病院行った方がいいんじゃない? 雨さんが旅に行くのに気が向かないって」
村雲が心配そうに言う。彼女もそう思った。五月雨は本当に、こうなる前は家にいることの方が少ないくらいだったのだ。いつもどこかに行っていて、その度に彼女はその帰りを待っていた。
ろくに連絡もつかない五月雨が、戻ってきて彼女に会いに来るのを。
「……まあ、可愛い恋人と暮らし始めたばかりだから、仕方ないよ。いくら五月雨でも。桑名、お代わり」
お椀を桑名に差し出しながら松井が言う。松井はほっそりとした人形のような人だったが、良く食べるなと彼女は思った。
「それもそーだな」
「ですがもしよければ、今度から長く家を空ける前は私たちの誰かに連絡してくださいね、五月雨さん。何かあったとき対応できますし」
末っ子の言葉に、五月雨はええと相槌を打つ。五月雨の親戚たちはかなり大量に食材を持ち込んでいたけれど、ぺろりと全て食べきってしまったので流石に男性ばかりだと違うなと彼女はしみじみした。五月雨は普段人並みにしか食べないので少々驚いたのもある。
そうしてもう時間も時間だからと親戚たちが帰ろうとしたとき、村雲だけがちょいちょいと彼女の袖を引いて引っ張った。なんだろうとそちらに身を寄せれば、こそりと村雲が囁く。
「雨さんのこと、お願い」
「え……?」
「雨さん、あれで案外言いたいことちゃんと言うから大丈夫だと思うけど……でも結構、何か考えてても自分の中で解決しちゃうことも多いから」
お願い、と村雲は少しだけ眉を下げて笑う。
「君のことも俺はいつになったらちゃんとするんだろうって思ってたけど、雨さん全然そんな素振り見せないし。かと思ったらいつの間にか一緒に暮らしてるんだから……」
「それは、えっと」
「前に君は自分のことを何とも思ってないからって言ってたんだよ、雨さん。そんなわけないでしょって俺はいつも言ってたんだけど。でもうまくいってよかった」
彼女はそれに何と答えたらいいのかわからなかった。村雲の中ではうまく行ったことになっていても、本当はどうなのだろう。彼女は五月雨に飼われている身なのだ。村雲が思うような恋人同士の関係ではない。だから素直に頷くことはできない。
「雨さん、そんな風に最初から何か合点して諦めちゃうことも多いから……俺も相手が君なら大丈夫だと思ってるけど、少しだけ、気にしてあげて。またこの家には顔出すね」
「あ、うん、また」
「うん、また」
村雲は小さく手を振って玄関の方に向かう。全員豊前の車で帰るらしく、彼女も五月雨とそれを見送った。
「急に人が多く来て疲れたのではありませんか」
小さく彼女が息を吐くと、五月雨が隣でそう言った。
「ううん、平気。でも親戚の人、五月雨にはあんまり似てなかったね。皆個性的だったけど」
「血が繋がっているとはいえ、私たちは皆嗜好が違いますからね。先にお湯を使ってください。今日は早めに休みましょう」
五月雨に促されて、彼女はそのまま寝支度を整える。色々尋ねたいことがあったが、どれから口にするのが正しいのかわからなかった。
何故、あれほど好きな旅に出て行かないのか。
何故、彼女に全て行動の是非を問うのか。
何故、彼女をここで「飼う」ことにしたのか。
彼女は何も知らない。
「明かりもつけずに、どうしました」
風呂から上がってきた五月雨が言う。五月雨は夜遅くまで起きていることは殆どなく、それに合わせて彼女もここに来てから早寝早起きの習慣がついた。食事もいつもバランスが取れたものを用意してくれる。
わかっている。飼うという一見すれば身勝手で非倫理的な言葉とは裏腹に、五月雨は心を尽くして彼女を大切にしていることを。
「ううん、もう眠たかったから」
「それはお待たせしてすみませんでした。寝ましょう、戸締りだけ確認してきます」
寝室から五月雨が一度出て行こうとしたので、彼女は立ち上がって後ろから五月雨の腰に腕を回して抱き着いた。引き締まった背中に頬を押し付ける。少しだけ五月雨の指先が震えたのがわかった。
「……すぐに戻りますから、ここで待っていてください」
いつもの静かな口調で五月雨はそう言った。五月雨は、寝る前に必ず戸締りを確認する。玄関だけではない。書斎の大きな窓、居間、そういった鍵のかかる場所全て。
まるで眠っている間に彼女が、ここを出て行くのを恐れているように。
ぎゅっと彼女は五月雨の体に回す腕に力を込めた。
「五月雨」
「なんでしょう」
「旅に行ってきていいよ」
ゆっくり持ち上がった五月雨の手が、彼女の腕を外す。くるりと体の向きを変え、涼やかな菫色の目が彼女を見下ろした。
「ここにいるのが嫌になりましたか」
「そうじゃない。でも、大丈夫だから。私は五月雨のいない間ちゃんと戸締りもできるし、ご飯も食べれる。だから旅に行ってきていいよ」
けれど五月雨は左右に首を振る。厚めのさらさらとした前髪が揺れた。
「今の仕事量でも十分、収入は得られます。無理に家を空ける必要はありません」
「でも行きたいでしょう?」
行きたくないはずがない。彼女はそれを知っている。
小さい頃から、不思議な人だった。あまり表情は変わらなくて、彼女は昔から五月雨が何を考えているのかよくわからなかった。それなのに五月雨の言葉は豊かに、感じたことや見たものを綴る。彼女には種類もわからない花々も、ただ落ちている小石も、川を流れる一枚の葉さえ、五月雨に見せればこの世で一番美しいものに変わる。
そういうものを、いつも探している人だった。あちこちに行って、気ままに歩いて。そうして出会うものを愛している人だった。
だから彼女はそれを止めることができなかった。ついて行けない場所に行ってしまうのが寂しくても、仕方ないと思う他なかった。
「いいんだよ、無理にここにいなくていいんだよ。五月雨を待つのには慣れてるから、ここに来る前はいつだってそうだったじゃない」
旅に行く前と帰った後、五月雨はいつも不意に彼女に会いに来た。旅先からは絵葉書が、書きつけられた句と一緒に届いた。携帯を見もしない五月雨がどこにいるのか、今何をしているのか彼女が知る術はそれだけ。今までずっとそうだった。
五月雨がきちんと、彼女に「会いたい」と連絡を寄越したのは「あなたを飼いたい」と言ったあのときだけだ。
「……大丈夫、私、いい子で五月雨のこと待ってられるよ」
この人が何をそんなに怯えているのか、彼女にはわからない。ただ五月雨の中には何か絶対に嫌なことがあって、それを恐れて、五月雨は彼女をここに置いている。
だからこれでいいはず。それなのに五月雨は目を一度だけ見開くと、眉を歪めて唇を引き絞る。
「わかりました、仕事は、引き受けてきます」
五月雨はそう静かに言うと、彼女に手を伸ばす。体に触れる一瞬だけ躊躇ったものの、すぐにきつく抱きしめられた。骨がミシリと音を立てるくらいだった。けれど同じくらい強く彼女も五月雨にしがみつく。
五月雨は、旅に出るのが好きなのだ。それを止めることはできない。ついて行けない以上、彼女はここで待つ他ない。
でも今の五月雨は彼女の飼い主なのだ。必ずここに帰ってくる。連絡もしてくれる。いつ、五月雨が行って帰ってくるのか考えなくて済む。五月雨に、飼われてさえいれば。
「旅のお土産、楽しみにしてるね」
「ええ……わかりました」
大きな手が彼女の髪をかき上げる。
五月雨は彼女を飼うときに彼女が嫌がることは決してしないと約束した。けれど彼女は言えなかった。
本当は旅に行かないでほしいと、口にすることはできなかった。
そう言ってほしいとずっと思っていたのに、いざ口に出されると何とも空虚な気持ちになった。
「大丈夫、私いい子で五月雨のこと待っていられるよ」
本当はずっと、五月雨は彼女にそう言ってほしかったのに。
「……雨が降りそうですね」
五月雨は早く流れる雲を見上げて呟く。聞いた予報では一日晴れていると言っていたから今日は山に来たのだが、予想が甘かったようだ。もう少し空模様を見ておけばよかった。つま先で軽く土を叩く。服装や荷物は土砂降りになっても大丈夫なようにしてあるけれど、如何せん山道は足場が悪くなるから注意を払う必要がある。
一歩一歩きちんと踏みしめるようにして五月雨は足を進める。北の山は、静かだ。天気が悪くなりそうだからか鳥の声さえ聞こえない。季語に耳を澄ませるつもりで五月雨は目を閉じた。
「どうして、私のいない間にどこかに行ってしまうのですか」
小さな彼女が自分を見上げる。ああ、いけない。それを思い出すつもりではなかった。
五月雨が旅に出ていると、彼女は気づけばどこかにいなくなっている。だから必ず、旅に出る前と帰ってきたときは顔を見に行った。その度に彼女は「行ってらっしゃい」と「おかえりなさい」を繰り返したが、「待っている」とは言ってくれなかった。自分が好きで旅に出ているのに、必ず待っていてほしいとはあまりにも我儘な話だ。だから五月雨はそれを彼女には言わなかった。自分が身勝手なのを、五月雨は十分わかっていた。彼女に待っていてもらうのを、五月雨はほぼ諦めていた。
けれど実際にそう言葉にしてもらえたのに、胸に穴が開いたようだ。
それもそのはずだ。あれは自発的な彼女の言葉ではない。
五月雨が飼い主だから、彼女が五月雨に飼われているからそう応えたのだ。あまつさえ五月雨が昼に「言うことを聞けていい子」だなどと言ったから。
「だって、じっとそこで待ってても五月雨はいつ帰ってくるかわからないじゃない。それなら私だって好きなところにいるよ」
小さな彼女の声と大人になった彼女の声が入り混じる。五月雨は瞼を開いた。ぽつりと鼻の頭に雨粒が落ちる。
「降り出しましたか」
帽子を被り直す。つばにポツポツと雨が当たった。冷たい、この分だと夜は冷えそうだ。早めの下山にしよう。五月雨は踵を返した。幸い、取材旅行の日程が長い。もう一度山頂を目指す余裕もあるだろう。
最初はパラパラと降り出していた雨も、次第に強くなり始める。はあと五月雨は息を吐いた。
「……なぜ、彼女は私の家に来てくれたのでしょう」
歩きながら思わず口にした。何故、どうして。五月雨は彼女に理由を聞いたことがなかった。もちろん一度断られたとしてもすぐに諦めるつもりなどなかったが、彼女はあっさりと五月雨の提案を了承してくれた。それが嬉しくて、あまり深く考えていなかった。
「凄いぼんやりしてるね」
「そうでしょうか」
五月雨が、彼女の恋愛対象の範疇に入るのを諦めたのは大学生の頃だった。彼女とは高校から別な学校に通っていたが、それでも時間を見ては会っていた。そうして進路の話をしていたときのことだ。彼女はごく一般の学生のように就職を決めていて、五月雨はそうではなかった。学生の頃から寄稿していた句が評価されていたし、切り詰めながら生活すればそれで生きていけそうだったのだ。
「幸い、私の句を買ってくださる方がいらっしゃるので。それに時間に余裕がある方が私は助かります」
「好きなことを仕事にできればそれに越したことないか。私も五月雨が普通に会社で働いてるところなんか想像できないし。サラリーマンなんて絶対できないよね」
何がおかしかったのか、彼女はそう言って肩を揺らした。
「まあたまには元気にしてるところ見せてね。五月雨連絡しても全然返事来ないし」
「すみません、携帯を見る習慣がないもので」
「もう慣れてるからいいよ。だからまあ、思い出したときにでも顔見せてくれれば。頑張ってね」
彼女は笑っていたけれど、それを聞いたとき、五月雨は彼女に自分を待つ気はないのだと思った。待っていてほしいと言ったことはない。だが小さい頃から五月雨と彼女は一緒にいて、これからもそうなのだと漠然と考えていた。五月雨がふと目を離したすきにどこかに行ってしまう彼女だったけれど、必ず五月雨は彼女の元に帰っていた。旅先で見つけたものを見せて、句を詠んで聞かせて。そうして時間を重ねていればいつかは、とも。
「っと」
ずるりと靴が滑って、慌てて五月雨は体を立て直した。雨でもうかなり足場が悪い。山を下っているのもあって、足を取られやすくなっている。
集中して歩みを進めなければならないのに、やけに静かな山中で余計なことばかりを思い出す。五月雨が頭を振ると、水滴が左右に散った。もうだいぶ体や服も濡れている。やや体温が下がっていることに五月雨も気付いていた。
「早く、下りないと」
焦っていては余計に危ない。だから一歩一歩確実に進まなくては。ああ、でも。
「旅のお土産、楽しみにしてるね」
彼女は菓子や雑貨なんかより、五月雨の書いた絵葉書や拾った落ち葉を喜ぶ。七日間も家を空けるのだから、何を持って帰ればいいだろう。
ぽたぽたと帽子のつばを伝って雨が落ちる。頬に伝うそれを五月雨は拭った。指先が少し震えた。寒い。ひと呼吸おいて顔を上げる。黄色い何かが視界に映った。少し遅咲きのスイセンだ。
「珍しいですね……」
この時期はもう、花の季節が終わってしまっているものだと思ったが。涼しい山の中ではまだ咲くのだろうか。一歩そちらに近づく。少し山道から身を乗り出さねば届きそうになかった。
恐らく、普段の五月雨ならそんなことしなかっただろう。季語は手にするものではない。それを詠むものだ。それを頭ではきちんと理解していた。
「……あ」
ずるりと足が滑る。体が倒れてガツンと何かに頭が当たった。
「だって、じっとそこで待ってても五月雨はいつ帰ってくるかわからないじゃない。それなら私だって好きなところにいるよ」
そんなことを、言わないで。旅は、帰る場所があるからこそできるのだ。
「……待っていて、ください。必ず、帰りますから」
先ほどまでかじかんで震えていた指先が今度は熱い。ぽたぽたと顔に雨粒が垂れている。
はあと一息吐いて、五月雨は目を閉じた。
小さい頃から、自分は五月雨を待つしかないのだと思っていた。
村雲のように五月雨について行ける頑丈で早い足を持たず、景色や草花に心を揺らすこともできない。だからついて行きたくとも五月雨の足手まといにしかならない自分は、駆けて行った五月雨の背中を眺めてここにいることしかできないのだ。五月雨が帰ってきて、彼女に旅先で詠んだものを聞かせてくれるのを楽しみにする他ない。
けれど、ただ待つことも苦しかった。
一度出て行けばいつ戻るかわからず、その間どこにいるのかもわからない五月雨を待つことは苦しい。旅先の絵葉書を手にして、帰ってきて初めて、彼女は五月雨の無事がわかる。
そして大人になるにつれて、その苦しさはどんどん大きくきつく彼女の首を絞めた。
「……今日は動かないな」
今日一日居間で本を捲っていたが、ちっとも内容が頭に入ってこない。表紙を閉じ、彼女は棚の上のカメラを見つめた。
「家にいないときに、あなたに何かあってはと、気がかりで」
そう言って五月雨が置いたものだ。それが留守中に幼い子どもやペットの様子を見るためのものだと、彼女も流石に知っている。スマホで遠隔操作できるものだ。屋外で五月雨がこれを稼働すると、小さくだか機械音が聞こえた。カメラが左右に動いて彼女を探すことも。それを見て、彼女は僅かながらおかしいような気持ちになったものだ。五月雨が、彼女を探しているような気がして。
「でも当たり前か」
五月雨は今旅に出ている最中だ。季語を追いかけている頃だろう。彼女のことを気に留めている場合ではあるまい。しかも彼女は不思議とそれを寂しいと思ったことがない。彼女は本の栞代わりに挟んでいた一枚の押し葉を手に取る。
「これは、青もみじです」
五月雨が彼女の手の上に葉を置く。五月雨はよくそうして旅先のものを持ち帰って彼女に見せてくれた。
「もみじって緑のもあるんだね」
「ええ、赤くなる前はそうです。青々としたもみじも美しいですよ」
当たり前のことを彼女が言っても、五月雨は決して笑ったりしなかった。丁寧に丁寧に、それがどれほど綺麗なものだったのか、言葉を尽くしてくれる。彼女にはただの青い一枚の葉でも、五月雨が持ち帰ってくれれば世界で一番のもみじに変わる。それが嬉しかった。それがあったから、彼女は寂しいと思ったことがなかった。
けれどその分だけ、五月雨がある日突然帰ってこなくなることが恐ろしかった。
だからただ待つことなどできやしなかった。別なことをして気を紛らわせなければ、彼女はいつも最悪の場合を考えてしまう。同じ場所でひたすら五月雨を待つことなどできない。
「……一週間」
でも、今回は期間がわかっている。いつ出発してどこに行って、帰ってくるのはいつなのか、七日間とはっきり。彼女はその間ここで時間をいなし続けていればいいだけ。前とは違う。一日に一度、五月雨も連絡をくれる習慣がついたことだし……。
「うわっ」
ヴーっとその瞬間スマホが鳴って、彼女はぎょっとしてそれを見た。心臓がばくばくと酷い音を立てている。驚いた。
「何……?」
画面を見れば、メッセージの受信ではなく着信の画面が表示されていた。五月雨だ。ホッと息を吐いて手を取り耳に当てる。電話は珍しい。
「もしもし? どうかした?」
だがそれから三分も経たないうちに、彼女は五月雨の家を飛び出した。
「あっ、雨さんっ? 雨さん大丈夫? わかる?」
「……くもさん」
「はあー、もう、勘弁してよ……お腹痛くて死ぬかと思った……」
自分の顔を覗き込んでいた村雲が座り込む。息を吐くと、頭が猛烈に痛んだ。眉間に皺を寄せて、五月雨は腕を持ち上げようとしたが点滴が繋がっている。そこでやっと五月雨は事の次第を思い出した。
山道から落ちたのだ。水仙を摘もうとして。
「……私は自分で、救急車を呼べたのでしょうか」
五月雨が聞けば、パイプ椅子に座り直した村雲がげっそりした顔で頷いた。
「そう、自分で。すごいよね、珍しく携帯使ってくれて助かったよ」
携帯は煩わしかったが、やはりあれば便利なものなのだ。一日に一度は必ず彼女に連絡をするようにしていたおかげで、手に取りやすいところにしまってあった。かなり意識が朦朧としていたが、きちんと一一九番の通報ができたらしい。
「天気が悪くなってすぐに雨さんが引き返してくれたから、救助しやすいところにいたみたいだし。携帯で通報だったから現在地も特定できたし? 運が良くてよかったね、雨さん」
「はい……それで、雲さんはどうしてここに」
「あ、うん。携帯の履歴で親族っぽい俺に連絡が来て。豊前に乗せてもらってここまで来た。今豊前が入院の手続きしてるから」
ああ、なるほど……。やはり便利は便利だ。煩わしいけれど。五月雨はまた息を吐き、頭が痛んで顔を顰め……それからハッとした。
「私の、家には誰か」
「えっ、あ、それなんだけど。病院に向かう前一回豊前に寄ってもらったんだけど、実は家がもぬけの殻で」
「はっ?」
五月雨がガバリと起き上がると、胸のあたりに貼ってあった管が勢いよく剥がれた。繋がっていたらしい心音の機械がピーっと耳障りな音を立て始める。
「あっ、ちょ、雨さんやめて、寝てて」
「空とは、どういうことです、彼女は」
「いや落ち着いて、俺も誰もあの子の連絡先知らなかったから」
「私の、私の携帯は」
ベッドの横に自分の鞄があるのが見えた。そちらに腕を伸ばすと、今度は点滴が引っ張られて痛む。
「雨さん落ち着いて、病院の人が連絡してくれたんだよ! 雨さんの携帯に履歴がいっぱい残ってたから、俺と、あの子とで」
「ですが家にいないのでしたら、一体どこに」
出て行って、しまったのだとしたら。足が思うように動かない。五月雨はベッドから降りようとしたが、村雲に押さえられる。
「いやそれはだから」
そのとき今度はガタンと扉が壁に激突する音がした。村雲が肩を跳ね上げてそちらを見る。五月雨も同じように目をやった。すると引き戸を滑らせるというよりは体ごとぶつかってどかすくらいの勢いで開けたらしい彼女が、ベッドの五月雨のほうを見て肩を揺らしている。
「……しんじゃったのかと、おもった」
財布だけ持って列車に乗った、という表現が一番正しい様相で、他に鞄も何も持っていない彼女はずぶ濡れで病室の入り口にへたり込む。五月雨は病床から動くことができず、代わりに村雲が彼女を助け起こしに行ってくれた。先程から村雲はあっちに行ったりこっちに行ったりしている。
「だ、大丈夫? 病院の人、雨さんの怪我の程度言ってくれなかった? なんでこんなびしょびしょなの」
「う、ううん、たぶん、言ってくれたんだと思うけど、頭に入ってこなくて。場所だけわかったから、それだけ。こっちに着いたら雨が降ってて」
ぽたぽたと彼女の髪の毛から水滴が垂れる音がする。髪も服も彼女に張り付いていた。
「迎えに行ったんだよ俺たち、でもたぶんもう君が家を飛び出してっちゃったあとで」
「電話もらってすぐ、家出て、あ、どうしよう、家の鍵締めてきたかわからない」
「大したものもありませんから、構いません」
五月雨はそう答えたのだが、彼女はキッとこちらを睨むと村雲の手を借りて立ち上がり猛然とした勢いでやってくる。
「何が、何が構いませんなの、死んだらどうするつもりだったの」
「すみません、気を取られて。風邪をひきます、体を拭いてください」
「か、風邪っ? この期に及んで五月雨は私の風邪なんか心配してるのっ? 鏡貸してあげるから自分の姿見つめ直したら?」
「あっ、あーっ、俺、俺タオル、タオル病院の人に借りてくるから、ねっ? それでいいでしょ、君ここに座って、雨さんはじっとしてて!」
村雲が叫んで彼女を今まで自分が腰かけていたパイプ椅子に押し付け、バタバタと出て行く。彼女はちらりと五月雨を見たが、はあとため息を吐いた。思えば彼女にこんなに怒られるのは初めてだ。
「……あなたの気の済むまで謝りますから、そこの私の鞄から拭くものを取って、ひとまず髪だけでも拭いていただけませんか。本当に、体が冷えてしまいますから。鞄は濡れていても、中身は無事なはずです」
そう伝えれば、彼女は無言で立ち上がって五月雨の言うとおりにしてくれた。そのことにひとまず五月雨はほっとする。髪を絞るようにして拭くと、彼女は再びパイプ椅子に戻る。着替えも入っているので衣服も変えさせたかったのだが、村雲がいつ戻ってくるのかわからない。衝立か何かないかと五月雨は首を動かした。すると打ち付けたらしい背中が痛む。眉を歪めたのに気づいたのか、髪をバサバサとしていた彼女が顔を上げた。
「どこか痛いの?」
「いえ」
「じゃあ何か欲しいものがあるの?」
「……あなたに、着替えていただきたくて。申し訳ないのですが、その姿では少々」
正直なところ、目に毒なのだ。好いた女性が濡れた服を着ているというのは。
彼女は自分の衣服を見ると、ハッとした表情で髪を拭いていたタオルを被った。するとちょうどよく手に何枚も大きめのタオルを持ってバタバタと村雲が戻ってくる。そのあとから豊前も病室に入った。
「はいこれ、タオル。風邪引いちゃうから、よく拭いて」
「あ、うん、ありがとう……」
「五月雨、頭打ってからな、明後日まで検査入院だってよ。俺と村雲は近くに泊まれそうなとこあったからそこ行くちゃ、明日検査結果聞きにまた来る。それで悪ぃんだけど、あんたも今日明日五月雨に付き添ってやってくんねえかな」
豊前が襟足を掻きながら彼女に言ったので、五月雨は慌てて首を振った。また額の傷が痛む。
「いけません、病室ですよ。彼女が寝る場所が」
「でもここ、一応付き添いも寝れるベッドあるし。俺ら全員でここ一部屋にいるわけにはいかねえだろ」
それは当たり前だ。男三人を彼女と同じ部屋で一晩過ごさせるわけにはいかない。いかにここが病院でもだ。
「それはそうですが、なら彼女を私の泊まるはずだった旅館まで」
「雨さん、ここは俺と豊前が気を利かせるから。空気読んでよ」
村雲が「ねっ」と言って五月雨の肩を叩いた。
「じゃーな、五月雨。今日はゆっくり寝ろよ」
「また明日ね雨さん。安静にしてね」
五月雨の家よりもずっとスムーズな音を立てて病室の扉が閉まった。あとにはタオルを被った彼女とベッドから動けない五月雨が残される。
「……ひとまず着替えてください。決してそちらを見ませんから、嫌かもしれませんが私の着替えを使ってください」
「……わかった」
立ち上がった彼女が再び五月雨の鞄を開く。五月雨は首だけを彼女から背けた。こうなってくると衣擦れの音がするのもよくない。音だけ聞こえると、余計なことを考える。
「詳しいこと聞いてないんだけど、どうして怪我したの」
くぐもった声で彼女が尋ねた。何か被っているのだろうか。五月雨は何度か瞬きをしてから答える。
「水仙を摘もうとして足を滑らせました」
「水仙? なんでまた」
「遅咲きで、珍しいと思ったもので」
あなたに見せようと思いました、は口から引っ込める。自分のせいだと彼女に思わせたくなかった。そのうちにペタペタと裸足のままで彼女が戻ってきて椅子に腰を下ろす。当然なのだが五月雨の衣服は彼女には大きかった。五月雨は上半身を起こして座った。
「靴はどうしました」
「もう下までびしょびしょだったの。全部脱いでそっちに干した」
「履物はありませんか」
室内履きのようなもの、と探す前に「全部脱いで」が耳に入って余計なことを考えかけた。病院で怪我するようなものが落ちていることもないだろう。五月雨は一度そのあたりは思考の端に置いておく。
乾いた衣服を着ていくらか落ち着いたのか、彼女は深呼吸をした。まだ機嫌が悪いのは間違いないが、勢いはいくらか失せている。眉間に皴を寄せ、彼女は五月雨の方を見た。
「それで、なんで雨も降ってる山道で花なんて摘もうとしたの」
「すみません、今の私はあなたを飼っているのに、軽率でした」
「そうじゃなくて……もういいや、それで」
五月雨の手の側に彼女が突っ伏す。本当に心底疲れたようで、彼女ははあと溜息を吐いた。そろそろと手を伸ばして、湿った髪を撫でる。彼女の視線は怒っていたが、五月雨の手を避けることはなかった。
「……怖かった」
ぽつりと彼女が呟く。眉を歪め、彼女はもう一度繰り返した。
「いつかこんな日が来るんじゃないかって、本当に私、ずっと怖かったんだよ」
怒っているのかと思っていた目は、そうではなく大粒の涙を一粒落とした。それに五月雨はかなり動揺する。拗ねたりむくれたりする彼女は何度か見たことがあるが、泣いているところはあまりない。
「ある日いきなり、どこに行ってるのかわからない五月雨が私の全然知らないところで怪我したり、死んだりして、その連絡だけがいつか来るんじゃないかって思って。本当に怖かった。知らないでしょ、そんな風に思ってたの」
「……すみません。知りませんでした」
彼女は息を大きく吸って、再び吐く。指先で涙を払ったので、拭ってやればよかったと五月雨は思った。
山道で五月雨の足を取り、彼女の衣服と髪をびしょびしょにした雨はまだ降り続いているらしく、窓を打つ音が響いている。今日一晩は降り続くかもしれない勢いだった。彼女は体を起こして、五月雨が彼女の髪を撫でていた手を握る。
「五月雨がどうして、私のことを飼うなんて言い出したのかまだちょっと、わからない」
「……それは」
それしかないと、思ったのだ。衣食住を確保して、金銭をある程度提示して、代わりに家にいてもらう。五月雨の傍に、いてもらう。
五月雨を待っていてくれない彼女に傍にいてもらうには、五月雨が彼女から離れないでいるには、もうそうするしかないと思った。小さいときならばいざ知らず、五月雨も彼女も大人になってしまったのだ。近くの公園に出掛けて、戻ってきたらまた明日とはいかない。だが代わりに、今の五月雨は彼女の生活を保障できる。
けれど、言い方を間違えた。
「……待っていてほしかったんです、本当は」
ただ、それだけだった。
「私が旅から戻ったとき、あなたに私を待っていてほしかったんです」
行ってらっしゃいも、おかえりなさいも嬉しかったけれど。「待っている」とただ言ってほしかった。他の誰でもない五月雨を、待っていてほしかった。
彼女は五月雨を見つめて一度だけ口を開きかけたけれど、やめてやや俯いた。
これで嫌だと言われたら、自分はどうしたらいいだろう。衣食住も、金銭も保証する。だが旅に出ないことはできない。彼女が五月雨が戻らないことを心配するなら、どうしたら。
「怒らないで聞いてくれる?」
手を繋いだままで彼女が言う。五月雨は一度だけ深呼吸をした。
「……あなたのことで怒ったことなど私は一度もありませんよ」
「嘘、猫みたいって怒った」
「それは怒ったのではありません」
困ると言ったのだ。彼女は緩くそれに笑うと、五月雨の手を両手で包んで静かに呟く。
「私ね、五月雨の話を聞いてるのが好きなの」
「……」
「五月雨が旅から帰ってきて、詠んだ句とか、見たものの話をしてくれるのを聞いてるのが一番好き。だからね、五月雨が旅に行ってる間寂しかったことは一度もない。ただ、そうやって話を聞くのが好きな分だけ、五月雨がいつ帰ってこなくなるか心配で、本当にそれが苦しかった」
それは、五月雨も同じだ。戻ったとき、彼女がいついなくなっているのか考えることが恐ろしかった。小さい頃は走って公園の椅子や東屋を探せばよかった。けれど今は違う。彼女が暮らしている部屋の扉を叩いて、その中にいなかったら。それが五月雨は怖かった。
「……だから約束して。五月雨はいくらでも旅に出て、色んなものを見てきて。どこに行ったっていいよ、海外でもいい。でもその代わり、絶対に帰ってきて、私にその話を聞かせて。別に衣食住の保証なんてしてくれなくていいし、お金もいらない。それだけでいいから、約束して」
はあ、と詰めていた息を吐きだす。
ああ、なんだ。そんなことでよかったのか。彼女はずっとここにいたのに、五月雨一人が走り回って探していたのだ。
「……あなたはなにか、勘違いをしていますね」
五月雨はぎゅっと両手で包まれている手を握り返した。
「私は旅先で季語を探すことも好きですが、それと同じくらい、あなたといるのが好きです。ここにいるあなたも、私の季語です」
空いている手が伸ばせたら、彼女の頬を拭ったのに。残念ながら五月雨のもう片方の腕は点滴が繋がっていてそれができなかった。けれどまあ、いいだろう。また別なときで。これからも彼女はここにいるのだから。
「ですからこれからも変わりなく、家にいてください。私はあなたのところに、何があっても帰ってきます。本当です。……約束しますよ。それからあなたの衣食住を保証するのは私の趣味ですので、このままで結構です」
形はどうであれ、五月雨は彼女の世話をするのが好きなのだ。それを聞いて、彼女は眉を下げて笑う。
「……どっちもは欲張りだよ、五月雨」
「ええ、自覚はありませんでしたが、案外そのようです。でもそれはあなたもでしょう」
撫子の、花びら伝う雨拭う。彼女に顔を寄せようとして、五月雨はハッとして聞いた。
「口を付けてもいいですか?」
「……だからその聞き方は狡いってば」
そう言うと、彼女のほうが首を伸ばして五月雨の唇に唇をぶつけた。ぶつけるという表現が一番正しかった。ガチンと歯が当たった音までしたのだ。
「……やり直してください」
五月雨は静かに抗議した。だが彼女はふいとそっぽを向いてしまう。耳が赤いので照れているのはわかるけれど、これはだめだ。仕切り直してほしい。
「嫌。怪我してるんだから寝てて」
「いい子ですから、きちんと私の言うことを聞いてください」
「それまだ続けるの?」
若干唇が切れたようで血の味がしたけれど、五月雨はくすくすと肩を震わせる。五月雨は彼女の顎を掴んで、こちらを向かせた。
「唇が切れていないか見ます。歯が当たったでしょう」
「切れてないよ、痛くないもの」
「いいえ。目を閉じて」
ぽつぽつと優しく、外はまだ雨の音がしていた。
「ただいま戻りました」
「おかえりなさーい」
ガラガラと古民家の扉を開けば、奥から彼女が出てくる。靴を脱いで三和土から上がった五月雨は、むっと唇を引き絞って彼女を見た。
「どこにいたんですか、何度か連絡もしましたし、居間に置いてあるカメラも見ましたが」
すると彼女はしていたエプロンのポケットから携帯を取り出し、何でもない風で五月雨に言う。
「え、あ、夕飯作っててスマホ見てなかった。ごめんね」
「きちんと見てください」
連絡してくれと言う割にこれなのだから、困る。やはり猫と同じだ、気まぐれでいけない。五月雨がそう思っている間に彼女の興味は五月雨の持っているものに移ったようで、首を傾げてそれを指す。
「それよりその封筒何? 今日打ち合わせじゃなかったっけ」
「献本ですよ。どうぞ、ご覧ください」
まあいい。こればかりは彼女も驚くだろうと思ったので、今日五月雨は自分から出版社に足を運んで受け取りに行ったのだ。封筒ごと彼女に渡せば、彼女は居間で鋏を取ってそれを開く。
「この間の五月雨が怪我して駄目にした記事の穴埋めに書いたやつ?」
「あれは来週発売の号なのでまだです。嫌なことを覚えていますね」
「ふふ、一生根に持って言うからね。嫌だったら気を付けて下さい」
まあ、可愛い恨み言なので許そう。がさごそと封筒から彼女が本を取り出したので、隣に座った五月雨はそれを覗き込む。
「え? 雑誌じゃなくて普通の本に見えるけど」
「ええ、私が書いた普通の本です」
ぱらぱらと彼女がそれを捲る。ちなみに装丁はそういうデザインも仕事にしている村雲に頼んだ。だから本当はもう一冊同じものが村雲に贈る用に五月雨の鞄の中に入っているのだが、こちらは彼女に渡すために別で封筒に包んだ。
「句集? でもちょっと随筆みたいなのもついてるね」
「ええ、あなたと暮らし始めてから詠んだ句ですから」
「えっ」
ぎょっとした彼女が目を丸くしてこちらを見る。
「なっ、なんで、旅先で詠むものでしょ句って!」
「いいえ、季語があれば読まずにはいられないのが歌詠みですから」
「私は季語じゃない!」
「私には季語ですよ」
ぱらぱらと彼女が慌てて句集を捲る。ふふふと笑いながら五月雨は彼女に体を寄せた。彼女はいくらか目を通して叫び声を上げた。
「やだ、信じられない。こんなことまで書くなんて」
「きちんといつものように初めから終わりまで読んでくださいね」
「……嫌、無理。恥ずかしくて読めない」
パンと彼女は本を閉じ、五月雨に押し返そうとした。だから五月雨はそれを丁寧に受け取って、もう一度開いてみせる。
「何故ですか。では私が読んで差し上げますから、お聞きください。私の話を聞くのが好きなのでしょう。きちんと初めから最後まで読みます」
赤い顔をした彼女が、こちらを見ながら「言い方が狡い」と呟く。五月雨は笑って彼女を抱きしめながら「褒め言葉です」と返した。
書きおろし後日談 五月雨の可愛い花嫁について
いつもの習慣で鍵を取り出しかけ、五月雨はそれをやめて鍵をしまい直した。代わりに玄関先にある呼び鈴を鳴らす。古民家のそれは特に珍しくもないピンポンという音を立てた。するとぱたぱたと廊下を誰かが歩いてくる音がし始めた。その誰かは三和土で何かを突っ掛けて扉の近くに寄る。
「はい、どちらさまですか?」
よかった、今日はすぐに開けるようなことはしなかった。それにほっと安堵して、五月雨は摩り硝子越しに声を掛ける。
「私です」
するとその誰かはパッと鍵を開け、カラカラと引き戸を滑らせた。
「おかえりなさーい」
家事をしていたのか、エプロンをしている彼女が朗らかに笑って言う。それに五月雨は顔を綻ばせた。
「ただいま帰りました」
一歩家の中に入り、すぐに鍵をかける。この家は気に入っているのだが、やはりいくらか改築したほうがいいだろうか。どうしても防犯面が気になる。とはいえ五月雨はこの摩り硝子の引き戸を好ましく思っているので、困ってもう少し悩むことにした。
靴を脱いで三和土に上がると、彼女は手で顔をいくらか仰ぐ。空調の効いている室内と比べて、確かに表はほんの少し顔を出しただけでムッとするのがわかるくらいに湿度が高かった。
「もう梅雨だし、外蒸すね。暑くなかった?」
「いいえ、雨が多く降るのは好ましいです」
お茶冷やしてあるよと言い、彼女は台所の方へ戻っていく。きっと夕飯を用意してくれいるのだろう。自分も手を洗ってそれを早く手伝わなくては……と思いつつ、五月雨は内心でため息を吐いた。
また言えなかった。こんなのは先延ばしにしておいていいことなんてないのだから、早く伝えなくてはならないのに。そう頭で理解していても、五月雨はそれを渡す機会を逃し続けていた。
外出用に使っている五月雨の小さい鞄には、もう数か月前から指輪が包まれたビロードの箱が入りっぱなしになっている。
事実婚のような状態になってしまっている。
原稿を書くためにパソコンの画面とにらめっこしながら、五月雨はため息を吐いた。家の脇の道路を自動車が通り抜けていく音がして、それをぼんやり聞く。全く身が入らない。締め切りまではもう少しあるからまだ焦らなくていいとはいえ、よろしくない。
彼女と一緒に暮らし始めてから、もうじき二年になる。五月雨と彼女は二年間、この古民家で穏やかに生活してきた。春は縁側から桜を眺め、夏は庭で朝顔の鉢植えを育てた。秋には二人で紅葉狩りに行ったし、冬になればこたつを出して一緒に入った。それはとても幸せな暮らしで、五月雨は心から満足している。けれど同時に、近頃これはまずいのではないだろうかと思い始めてもいた。
関係が落ち着きすぎているのである。
「いえ、別に波乱を求めているわけではないのですが」
思わず呟いて五月雨は首を振った。カタカタと無意味に打ち込んでいた文章のいくつかを消す。不満があって刺激が欲しいわけではない。むしろ今、何かあっては困る。
何故なら五月雨と彼女は籍を入れていないのだ。これだけ仲睦まじく過ごしていても、世間一般から見れば自分達は他人であるということが五月雨には気にかかっていた。今更彼女が突然家を出てってしまうとは思わないけれど、自分と彼女の間には名前の付く正式な関係がない。それがなんとも心許なく物足りない気持ちがあった。
籍を入れたい。数か月前から五月雨はそう思っていたが、これが何故だかどうにも言い出せない。別に変に捻らなくても「結婚しましょう」と一言言えばいいのだし、五月雨は自分の気持ちを言葉で伝えるのはどちらかといえば得意な方だ。だから早く伝えようと思っているのに、なかなか。
「五月雨」
「はい」
考え込んでいる最中に話しかけられたので、五月雨はぎくりとして振り返る。緊張は顔には出なかったと思う。いっそ出てくれた方がよかったかもしれないけれど。襖の傍に立っている彼女は、手にじょうろを持っていた。今年も朝顔の鉢は用意したから、水をやりに行くのだろう。
「花の世話してくるね。縁側から出てもいい?」
庭へ出るのには、書斎の縁側を経由するのが一番早い。だからそれは構わない、もちろん構わないけれど。
「もちろんです、が、ちょっと座っていただけますか」
「なに?」
座布団を置いて、五月雨は自分の正面を示す。彼女は首を傾げたが、じょうろを縁側に一度置いてからそこに座ってくれた。
「どうかした?」
「……いえ、あの」
五月雨は狼狽えて視線を逸らした。
どうかはしている。ものすごく。とはいえそれをどう切り出せばいいかさっぱりわからない。何を躊躇う必要がある。言いたいことは決まっているのに。しかしどうしてだか結婚の「け」の字も五月雨の口からは出てこない。黙りこくっている五月雨を彼女は怪訝そうに見た。
「またどこかに取材に出るの? こっちは気にしなくていいよ、行ってらっしゃい」
「いえ、そうではなく。この間の旅の原稿をまとめるので、暫くは家にいるつもりです」
「そう? じゃあ〆切がまずいとか? 珍しいね」
「いえそちらもまだ余裕が」
こめかみにじっとり嫌な汗をかく。たった一言、どうして喉につかえたようになって言えないのだろう。ただ「結婚しましょう」とそれだけでいいのに。
「あの」
「うん」
「朝顔の調子はいかがですか」
何を聞いているのだろう。五月雨は自分自身に驚愕した。彼女も首を傾げる。それから縁側の向こう、庭を指さした。
「いかがって……ほら、見た通り蔓もちゃんと伸びてるよ。咲くにはもう少しかかりそうだけど、蕾はつきそうだし、順調に育ってると思う」
「そ、うですね」
梅雨で空はややどんよりしているが、彼女が示した朝顔の鉢は青々とした蔓を立派に支柱に伸ばしている。五月雨は冷や汗をかいた。あまりにも不自然な話題を振ってしまった。すると彼女の方もわざわざ様子を聞かれたのには何か理由があると考えたらしく、焦って腰を浮かせて庭へ行こうとする。
「それとも去年とちょっと違うところある? 私なにか間違え」
「違います、すみません、至って順調だと思います。大丈夫です、問題ありません、座ってください」
慌てて五月雨は彼女を押しとどめた。違う、せっかく話をしようと座ってもらったのに、庭仕事に移られては困る。もう一度座り直してもらい、五月雨は再び本題を切り出そうとしたのだが適当な文句が出てこない。
いっそ手紙のように挨拶から入りその流れで口にした方がいいのでは。幸い、五月雨は歌詠みで文を書くのは得意である。五月雨は一生懸命それらしい言葉を探した。それでなんとか、正面にいる彼女の手を両手で握る。彼女は益々不思議そうな顔をした。
「……五月雨?」
「日ごと、暑くなって、参りましたので」
「うん、そうだね?」
けれどそこで五月雨はまた詰まった。暑いから結婚しようはおかしいのではあるまいか。じゃあ寒ければ結婚しなくていいのか。そうではないだろう。寒くたって結婚はしたい。そもそもこれからは梅雨寒と言って気温的には一旦下がる日だって見込まれる。
手を握ったまま五月雨は固まった。どうする。このまま言ってもいいものだろうか。というか今は一日も半ばの時間であるし、今結婚を申し込んで、考えると言われたらこの後どう過ごせばいい。彼女もやりづらいのでは。
「どうしたの?」
いよいよ様子がおかしいと思ったのか、こちらを覗き込んで彼女が聞く。それで五月雨は仕方なしに口を開き、何とか言葉を絞り出した。
「避暑に軽井沢にでも行きませんか」
違う。軽井沢には行きたいが、そうではない。何故咄嗟に出てくるのがこれなのだ。だが彼女はその提案に安堵したようで力を抜いた。
「なんだ、それが言いたかったの? うん、行こう。今はきっと涼しいね」
にこりとして彼女は言った。軽井沢には去年の夏も訪れた。江の家で管理している別荘があるから、そちらに滞在できるようにして二人でのんびり過ごした。楽しかった。星も綺麗であったし、気軽に山林を散歩できるのもよかった。よかったけれど。
「はい……では、手配をします……」
いくらか肩を落として五月雨は返事した。どうしてこうなる。
「五月雨は締め切りで忙しいでしょう? 私が連絡するのでいいならするよ、松井さんに言えばいい?」
「いえ、旅支度は好きですから……」
楽しい予定が増えたのは純粋に嬉しいことなのだけれど、本来の目的は一向に達成される見通しがないため五月雨は少々落ち込んだ。そんな項垂れた五月雨を見て、彼女は庭に出る前に優しく声をかけてくれる。
「原稿、詰まってるのやっぱり珍しいね。頑張って片付けて軽井沢行こう、何か手伝えることあったらなんでも言ってね」
パソコンの画面が白いので心配してくれたのだろう。普段から五月雨は〆切に余裕をもって仕事をしている。以前の怪我のような予想だにしないことさえなければ、原稿を落とすことなんて一度もなかった。
五月雨は慌てて、立ち上がった彼女の手を掴む。そもそも彼女には衣食住を保証するからとこの家に来てもらったのだ。仕事で、収入面で不安にさせるようなことはしたくない。
「大丈夫です、すみません。少し考えごとをしていたので。原稿はすぐに終わらせます」
そう五月雨が言えば、彼女は振り返りそれから静かに尋ねた。
「……何か悩んでる?」
じっと彼女の瞳に見つめられて、五月雨は反射で返答する。
「いえ、あなたと避暑に行っている際に仕事の連絡が入るのも嫌だったので、折り合いを考えていました」
「……うん、養ってもらってる私が言うのも何なんだけど、仕事は集中してね」
そう言うとやや呆れた表情でじょうろを手に取り、彼女は庭に降りていく。その後姿を見つめながら、五月雨は気づかれないように小さく息を吐いた。
この期に及んで物怖じしているとは、流石に少々情けない。それでも避暑に行くという約束は取り付けたし、そして原稿を仕上げないことには軽井沢には行けないので、五月雨はカタカタとキーボードを叩き始めた。